「アルバート氏の人生」
(原題:Albert Nobbs)
監督 ロドリゴ・ガルシア
出演 グレン・クローズ、ミア・ワシコウスカ、アーロン・ジョンソン
2011
(IMDb)
『ジェイン・エア』、『嵐が丘』、『アグネス・グレイ』・・・。
数々の傑作で19世紀の英文学史にその名を刻んだブロンテ三姉妹(シャーロット、エミリー、アン)は、作品を上梓するにあたり、それぞれ男性の筆名を用いた。
シャーロットは「カラー・ベル」、エミリーは「エリス・ベル」、アンは「アクトン・ベル」。
上に挙げた有名な作品はもちろん、それらに先がけて彼女らが1846年に上梓した詩集のタイトル(Poems by Currer, Ellis, and Acton Bell)にも同筆名が用いられている。
このように女性作家が男性の筆名を用いるという行為は、かつて文壇における女性の地位が現代ほど高くなかったころには、比較的よくみられるものであった。(参考)
19世紀でいえば、ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)しかり、ジョルジュ・サンド(本名:アマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン)しかり。
また絵画の世界においても、画壇の多勢は長らく男性が占め、女性の画家が日の目を見ることは決して多くなかった。
19世紀以前の時代に限れば、ぱっと思いつく女流画家は、マリー・アントワネットの肖像画を手掛けたヴィジェ=ルブランや印象派のベルト・モリゾ、メアリー・カサットくらいである。
[左:ルブラン(自画像)、中央:モリゾ(マネによる肖像画)、右:カサット(自画像)]
西洋の女流画家については、こちらのWikipediaページでも解説されているので、興味のある方は参照されたい。
さて、今回取り上げるのは2011年のアイルランド映画「アルバート氏の人生」である。
本作の監督を務めたのは、『百年の孤独』で知られる作家ガルシア=マルケスの息子であるロドリゴ・ガルシア。
アイルランドの作家ジョージ・ムーアの小説を原作としたこの映画では、ブロンテ三姉妹と同様に、〈男〉として社会的にふるまわないことには働き口が見当たらず、生きてゆけない、ひとりの〈女性〉に焦点があてられる。
〈性〉の秘密を隠しつつも、ホテルのウェイターとして、日々仕事をこなす主人公アルバート・ノッブス。
生きるために必死で働く彼女の〈強さ〉の裏には、孤独のなかで心のよりどころを求めようとする〈繊細さ〉も同時に存在する。
映画の前半に、ホテル内での〈仮面舞踏会〉のシーンがある。
ジェンダー的視点から言って、映画の主題を象徴する場面である。
それと同時に、以前に「レンブラントの夜警」のレヴューを書いたときにも触れたが、やはり「アルバート氏の人生」における本シーンでもシェイクスピアの有名な一節を思い起こさせる。
もう一度引用しよう。
All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
(As You Like It, Act II Scene VII)
この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
(小田島雄志訳 『お気に召すまま』)
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
(As You Like It, Act II Scene VII)
この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
(小田島雄志訳 『お気に召すまま』)
〈男女を問わず〉という箇所は、とりわけこの映画の内容に照らし合わせて考えると、より重みを増して迫ってくるのではないだろうか。
本映画全体を通して―――
主人公の生き様が〈美化〉されているわけでもなければ、物語になにかしらの〈救い〉があるわけでもない。
しかしながら、それでいて、観終わったあとの胸のうちには、深く、そして澄んだ〈美しさ〉が広がる。
この感動を言語化できるだけの人生経験は、私にはまだない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます