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近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

「百年の秘密」。

2012-05-19 23:59:59 | 芝居とか映画とか。
ケラリーノ・サンドロヴィッチ率いる、ナイロン100℃の新作「百年の秘密」に、お誘いいただいていってきました。 初ナイロン。

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 なんというか、大変都会的な芝居でした。現代演劇特有の「演劇的リアルとは何か」をめぐる表現技法へのこだわりがなく、映像を大胆につかって、ある種大衆的なモチーフをいかにスタイリッシュに感動的に見せるかに力が注がれていました。3時間15分の長丁場でしたが、あたかも厚めの大河小説を読み切ったあとかのような充実感で、劇場を後にしました。
...
 描かれていたのは、2人の女性の人生とその家族の物語。少年ジャンプ的な「友情」とは程遠く、秘密も裏切りも含みながら展開される、友情であり家族の大河ドラマです。

 舞台は、妙に具体的に描かれた居間と庭。ただし、ポイントは、その中と外が、舞台の上にねじれて奇妙に共存するということ。この言葉では説明し難い舞台構成によって、描かれない部屋の中や家の外も想像させつつ、映像的にシーンが交錯していきます。

 そうやってカメラを固定しつつ、物語は、12歳、38歳、死後、48歳、23歳、78歳…と時間軸を行き来しながら進みます。舞台同様に興味深いのは、この時間の飛ばし方です。いきなり人生が進んでいることで、ミステリー小説のように、観客はその間の時間への思いをはせることになります。そして、時間が戻ることで、貼りめぐらされた伏線が一つ一つほぐれていきます。この構成美によって、観客は舞台上で展開されるドラマに釘付けになるのです。

 とりわけ、2幕で時間が行きつ戻りつすることで、「劇中人物は知っている過去を観客は知らない」という状況と、「観客は知っている未来を劇中人物は知らない」という状況とが混在し、謎解きに夢中になっているうちに、人生というものを考えさせられ、人生を超えた時間を考えさせられる構図は圧巻です。

 さらにおもしろいのは、にもかかわらず、人生の分かれ道、歯車が狂う最も決定的な瞬間は、庭で起きた1つの重要な出来事を除けばあまり描かれないということです。それは、部屋の中や家の外の出来事、飛ばされた時間の出来事なのです。これらの空間的、時間的に「描かれない部分」が戯曲に深みを与えているように思いました。観客は描かれない部分の余韻を楽しむことで、さらに時間の奥行きを見つめることになるのです。

 描かれたモチーフに新奇なところはないかもしれませんが、それを演劇でやったというところがすばらしく、非常に洗練された、良質なエンターテイメントとでもいうようなよい舞台でした。 このめまぐるしい時間軸の変化を演じきった役者にも脱帽です。


 ただ、非常にクオリティの高い舞台だからこそ、日にちがたって思うのは、一番肝心なところで描きすぎてしまったのではないかということです。

 この舞台の面白さは、個人的には、舞台を固定して時空間を行き来することで――より詳しく言えば、庭に家族が語りかける対象となっている楡の木を配置し、主人公たちの死後の家族の様子を描くことで――、人生というものの向こうにとてつもない時間の流れを感じさせることだと思います。2人の人生の秘密と、連綿と続く家族の物語の目撃者となることで、観客は、悠久の時間の側に身を置けるのです。

 この構図を「台無し」にしてしまったと思ったのが、1つには、楡の木が意志を持つかのように描かれてしまった点。肝心なところで、この楡の木が人に共感したり、侵入者に怒りをもったりしているかのように、ざわざわしたり唸ったりするのです。楡の木は、人知を超えた時間の象徴なのだから、人知の側に歩み寄らないでほしかった…。

 もう1つは、さらにまずいことに、「この楡の木は私たちの思いを受け止めながら、ここにずっといるのね」(うろ覚え)とでもいうようなセリフを言ってしまったこと。テーマをそのまま言うというのは、最大の禁じ手ではないでしょうか。


 なお、これらの問題と関連するのですが、自分の中で処理できなかったのは、ナレーターの存在です。観客が役者の世界を俯瞰する立場に置かれている中で、飛ばされた時間とその間に起きたことについて説明する必要が生じます。小説であれば、地の文で済まされるこれが、演劇であるが故に問題となります。

 この戯曲では、メイドを語り手にしているのですが、メイド自身が死んだあとの世界から、自分が死んだあとの事柄も含めて語ることになります。それがいいと見るか、やはり人知を超えた世界を具現化してしまっていてよくないと見るか、難しいところだと思いました。

 私自身、人の主観や人生を超えた時空間というものに惹かれるからこそ、社会学やら歴史やらをやっているわけで、個人的にもツボにはまる非常に刺激的で良質な舞台でした。だからこそ、その一番肝心な部分の方法論が練り切られていなかったのが、消化不良の部分として、残ったのです。




「ALWAYS三丁目の夕日'64」。

2012-02-19 22:53:44 | 芝居とか映画とか。
 ノスタルジーブームを批判するのは簡単ですが、この作品は1作目からベタな感動からの距離感(「あえて」感)が私は好みです。
 (※「未来に希望があった」時代を懐かしむことを、「昔ばかり懐かしがってないで前を見ろ」と批判することは、同じ穴の狢っぽいところがあって素朴に乗りにくいところがあるのです。個人的に。その気持ち悪さが「子ども」と「家族」でうやむやにされているのが、授業で扱った「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」(2001)の気持ち悪さなんですが。)

 さて、舞台は前作から5年後の昭和39年。1964年と呼びたくなるオリンピックイヤー。3作目に入って「お約束」を客も共有し、映画館が「内輪受け」空間となっているので異様な安定感。

 ベタすぎる「できすぎ」の感動エピソードも、あきらかに「やりすぎ」の線まで詰め込みまくるので、半笑いしつつもあえて乗って感動しているうちにサクサク進み、その合間合間に都電、新幹線、自販機、みゆき族、GSブームなど、「The1964年」の小ネタがザッピング的に挟まれます。お約束の登場人物も出てくるし(氷売りのその後と「醤油みたい」と評されていたコーラがリンクしているとか)、前作、前々作からの人や町並みの変化も楽しめます。
 その決して昭和30年代的ではない感性で距離をとって描かれた30年代だから、ネタ(笑い&資料)として消費できるので安心感があります。(もちろんベタに感動している人もかなりいるはずなので、手放しでほめちゃいけないんだと思いますが。)
 3Dも、上空から見た飛び出すぎな東京タワーの先端など、「別に3Dにしなくたって…」という映画だからこその小ネタ的使い方で、私は好きでした。

 いっそ次は万博の「'70」でもやってくれれば面白いと思うのですが(淳之介東大紛争を振り返るとか、開発の危機にさらされる夕日町とか、塾通いし始める子どもとかも盛り込みつつ)、どうでしょ?


(この作品については、1作目からウォッチしていて、「限界まで好意的に読み解く」路線でいそいそレビューを書いていたので、某所の日記を転載します。)


1作目「ALWAYS三丁目の夕日」を見たときの感想(2006.2)

 別に「昭和30年代はいい時代だったねえ」と浸りたかったわけではなく、 1)やたら評判がいいので、何でか知りたい、2)このころの中学生の作文を死ぬほど読んだ私としては、時代再現だけでも見る価値あるかな? というメタメタな動機で行ってきました。

 結論としては、よくできた映画だった、ということでした。納豆売り、金魚売り、薬売り・・・とサービス精神旺盛で「お勉強」になるし、「まあこれはちっと美化されてるからね」「これはできすぎだね」とでもいいたげな距離感が一応あって、“現代人のファンタジー”としてこぎれいに仕上がっていました。
 お父さん暴力ふるいまくりだし、子どもの人権はないも同然だし、家とか汚いし、「昭和30年代ってそんなにいい時代じゃないよ」っていう当たり前のツッコミは、適当に美化されて折り込み済みだったように思います。

 それにしても、仮に作る側もほめる側も確信犯にせよ、「未来に希望をもてる時代はよかった」というコンセプトの映画がヒットするということは、「未来に希望を持つべきだ」という前提があの時代(のムード)と今(の一部の人)の間で共有されているわけで、それってすごいなあと思いました。
 もちろん、そうするしかなかった時代と、未来に希望を持つことを希望する時代とは全然違うわけで、その点がこれが歴史モノではなくファンタジーな理由なのだけれど、すごく広くくくってみれば50年前ってけっこう地続きなのかも。


2作目「続・ALWAYS三丁目の夕日」を見た時の感想(2008.1)

 面白かったですが、強いて言えば前作のがよかったな。
 この話の肝は、二重の意味で、昭和30年代を舞台にしたファンタジーであることだと勝手に思ってます。
 1つは、昭和30年代のいいところばかりを取り出したディズニーランド的な場を提供しているということ。
 もう1つは、わりかしベタに人情もので、広げられた風呂敷がありえないくらい順調にたたまれてすべてが丸く収まるということ。(寅さん的な定型化されたファンタジックな人間関係なので、その世界の内部に入れば「めでたしめでたし」に納得いく。加えて、現代のノリがちりばめられているので現代の観客にやさしい。)
 この映画がうまいのはこの二枚看板で、かつ、両者が支えあってるっていうことじゃないかと思ってます。しんみりしに行った人も、30年代を知りに行った人も、ベタに浸りに行った人も、メタにウォッチしに行った人もみんな楽しめるっていう間口の広さ。そして、「これはファンタジーですから」っていう作り手の「引き」の視線を常に感じるので(鈴木オートのオヤジの怒り方とか)、ベタさがダメな人でもギリギリあり。(昭和30年代をそれを知らない世代が描いたことに起因すると思います。)
 その辺が、「現代における昭和30年代」の不思議なところで、そここそ考えなきゃいけないことなんだと思いますが。(ウォッチャー失格。)

 ただ、今回、2度目という点で、再現の刺激は限界効用が逓減ぎみな上(建築途中の東京タワーに比べ、高速が通る前の日本橋はぶっちゃけ地味)、ラブ話が3つになった上芥川賞まで絡むのでちょっとベタ度が上昇。 まったく個人的な感覚では、前作では絶妙にとれていたバランスが今回は崩れ気味だな、と思いました。
 あ、冒頭のゴジラ襲来のシーンは、確信犯でものすごい技術を結集してバカやってる感じが超ツボでした。(こういう確信犯全力ナンセンス好き。)
 1作で完結していたはずなのに、結果的にあたかも始めから2作セットだったかのようになってる部分もあり(三種の神器で欠けてた洗濯機登場とか、1話目で完成した東京タワーの中を描くとか、冷蔵庫のせいで廃業になった氷売りがアイスキャンディー売りに転職してたとか)、2作あわせてお勉強になるので、助かります。


「あゆみ」。

2011-12-16 23:59:59 | 芝居とか映画とか。
 お誘いいただき、久々に現代演劇というものへ。柴幸男「あゆみ」(ままごと)。 せっかく感想を書いたので、こっそりアップ。
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 地方都市で育ち上京したというごくありふれた女性の前半生を、照明でつくられた道を8人の女優がぐるぐる歩き続け、入れ替わりながら演じるというもの。つまり、登場人物はいて、それを演じる役者は固定されていない。ものすごいペースで役者が入れ替わっていくことで、カメラの長回しやモンタージュ、カットバックのようにも見えてくる。

 描かれた人生は、ある種とても陳腐である。しかし、ひとりひとり見た目も雰囲気も違う役者が入れ替わり立ち替わり演じる中で、その個々の女優の向こうに、ある種普遍的な人生が見えてくる。
 もちろん「普遍的」といっても、高校進学が当たり前になった時代以降で、上京し就職し恋愛し結婚し子どもを産んだだ女性なんて、実はとても限られている、そこから外れる人も多い。外れる人生を排除するようなことはあってはならない。
 しかし、クライマックスで、「選ばなかった道」が人生の最後のフラッシュバックのように描かれる。そこで、今まで光の道の上で演じられてきた人生が、8人の女優を超え、描かれた人生と全くかけ離れたライフコースを歩んだ人たちとも接点を持ち始める。
 この感覚をなんと表するか、同行者と終幕後だいぶ話し合ったけれど、私は、(詩的な表現ではないけれど)無数の点の中に見えてきた「回帰直線」という言い方が近い気がしてきた。モデルの上をそのまま歩む人生なんてない。でも、なぜかみんな共振してしまう、そんな人生が浮かび上がってくる。

 演技的には、高校演劇的というか、「ザ演劇」ともいうべき独特の発声、所作が用いられる。演技において何が「リアル」かということについては、平田オリザが、わざとらしさを克服して実際に近い所作や戯曲の構成をする方向を開いたというのが演劇史の基礎知識のようだが(※不勉強につき間違ってたらすみません)、この芝居は、演技としてはリアルでないからこそ、その向こうにある種のリアリティが立ち上がる構図になっている気がする。
 私は、どうやったって虚構は虚構なのだから、虚構を虚構として「あえて」やるという芝居が好きだ。少しは小劇団を見ていた高校生のころは、舞台上で、「アクション映画」を演じてしまうとか、「超高速ロボット」を演じてしまうとか、そういうばかばかしさを本気でやるという劇団が好きだった。その点、この芝居はかなりツボだった。
 その妙な清潔感には賛否両論あると思う。でも、その構成美を堪能することも含めて、普段とは違う虚構の世界にいざなってくれるすばらしい芝居だったと思う。同じ作者・劇団の違う作品も見てみたい。




ハリーポッターと現代の子ども/大人。

2011-11-04 23:33:24 | 芝居とか映画とか。

(↑タイトル今一つ(苦笑)。)

院生時代、バイトで中学生に教えることになって
英語で読んでいるうちに、思いのほかはまってしまったハリーの物語。
しかし、ついにモチベーションが尽き、最終巻は流し読みのため
あまり理解できていないんじゃないか疑惑もあるのですが、
とりあえず映画は駆け込みでなんとか見てきました。

うまく言葉になっていない部分もあるのですが、
まずは思ったことを備忘として書いておきます。


文字で読んだときはそこまで思わなかったのですが、
映像で見て、これは徹頭徹尾学校の物語であり、
その意味で現代の子ども/大人の物語なのだと妙に納得しました。

流行り始めたころ、私は魔法学校という設定を鼻で笑っておりました。
(設定の細部はかなり楽しんだのではありますが。)

 ※この話は、指輪物語やナルニアのような世界観作りこみ勝負ではなく、
  ファンタジーのみならず映像やらコメディやらの「お約束」を
  ちりばめたところがミソで、読者は、膨大に書き込まれている
  萌えポイントに萌え萌えすればいいという、
  なんとも現代的な物語だと思います。

魔法界とマグル界が併存している中に、魔法学校を置くということが、
どう考えても世界観を「つじつまが合わない」ものにしてしまう
と思ったのです。

実際、他国の学校が出てきてさらに社会が複層的になった時点で、
一国の学校の中から出てきた悪と世界の広さが釣り合わなくなり、
魔法省が出てきてからは、そんな複雑な社会を支えているにしては、
お役所を筆頭に騎士団以外の大人があまりにダメ設定すぎるし…、
と、その後もどんどん萌えポイントがぶ厚く書き込まれる一方で、
世界観は完全に破綻したなとすら見ていました。

しかし、今となっては、魔法学校が世界の中で過剰に重要すぎる
位置を与えられていることは、ある種必然だったように思えてきました。

この話は、種族問題とか死の問題などに触れていきますが、
加えて、いかにも「児童文学」っぽいテーマとして、
思春期を迎えて、すばらしい場所に見えた学校がそうでもないらしく、
完璧に見えた大人もそうでもないらしいらしいと
気づいてしまうという問題も扱っています。
思春期の葛藤というテーマであり、自分の中に入り込もうとする
敵との対峙は発達課題とも言えるものになります。

ただ、その先の「成長」の仕方、「大人」になり方が、やや独特です。

私は、ハリーがホグワーツに戻らないという選択をしたあたりでは、
守ってくれる学校を離れて戦って、
ままならない世界に乗り出していって終わるのかと思いました。
少なくとも、古典的な「成長」の物語だったらそうするはずです。
さらに「王道」を行くなら魔法を放棄して人間界に戻るくらい
のことは書くでしょう。鋼錬のように。

ところが、なんと、この物語は最終決戦の地をホグワーツにします。
物語はいつのまにか、学校を大人たちが/学校が子どもたちを守る話
としてクライマックスを迎えるのです。

 ※そもそもヴォルデモートって、ハリーを殺す!という以上には
  何がしたいんだかよくわからない敵で、
  (一応純血主義の徹底をもくろむということになっていますが…)
  真の目的は学校を壊すことだったんじゃないか、という…。
  学校的きれいごとの世界を壊しに来たというべきか。

そして、この戦いで守られる側から守る側に回ったハリーは、
自分の中に入り込んでくる悪を退け、
今度は親になって自分の子どもを平和になった学校に送り出します。

つまり、こういう図式になっています。

・外は凡庸だったり堕落したりした大人がいて、
 学校はテストがあったりいじめがあったりするけれど、
 友情や恋があって、規律の中にも自由と責任が与えられて
 それなりに楽しくそれなりに試行錯誤できるユートピア。
 (と子どもたちには見えているし、見えていてほしい。)

・成長とともに、そのユートピアを支える大人たちは、
 子ども時代に見えているほど「いい人」や「悪い人」ではなく
 色々欠陥を持ちながらがんばっている人たちだということに気づく。

・そして、大人になるということは、単にそこを出ていくのではなく、
 むしろそのユートピアをフィクションとわかった上で支える側に
 回ることである。
 (そんなきれいごと演出してるんじゃない!という人は退治される。
 フィクションの中に安住し続けることもたぶん可。)

・[おまけ]そのユートピアを守る大人像の先に、
 わずかながら社会が よくなるかもという甘い想像が広がる。
 (ハーマイオニーの諸々の運動とか。)

なんというか、以前「プレーパーク(冒険遊び場)」を分析した時に
見えてきた、子ども・大人・社会に関する1つのユートピア的想像力に
非常に近いのです。

意図的か否かはわかりませんが、この話は、
たとえそれがフィクションであろうとも、否フィクションだとわかったうえで、
子ども時代があらかじめ一定の質を与えられたものであるべきであり、
「成長」とは、そのフィクションをフィクションと知った上で守る側に回る
ことによってのみ与えられるという「子ども」像と「大人」像を、
そして、そういった閉じた「社会」像を、描き出してしまったように思えるのです。

発達課題と成長を描いた時点で、これは堂々たる「児童文学」と
言えると思いますが、その成長の姿がなんとも現代的というか…。
萌えポイントを刺激する世界観であるとか、
当初から映画向きすぎる書かれ方であるとかいうことも含めて、
「21世紀転換期の児童文学の代表作の1つ」だなと思うのです。

※ちなみに、母の愛を強調しすぎ(ハリーママが完璧すぎるとか、
 ハーマイオニーは戦うけど、ジニーは待ってるんだねとか、
 ウィーズリーママ強いなら主婦やってないで最初から戦って…とか)
 というあたりも何となくいまどきだなあと思いました。

*11/7昼、少し手直ししました。



渡辺えり(子)「ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ~ 」。

2011-08-26 16:22:41 | 芝居とか映画とか。
岸田戯曲賞受賞の名作26年ぶりの再演!ということで勢いで。

わっかんないストーリー!引き込まれる熱気!
何かが伝わり、残る「見た!」感。

いじめる側といじめられる側、生と死、現実と魔境――。
交錯する世界、ダークファンタジー、鬼太郎――。
取り返しのつかない過去、否の人生、酸っぱい枇杷の実吐き出せない――。
生きることの禍々しさと輝き、向こうの世界の怖さと魅力、逆もまた真なり――。

ぱっと見ただけではなにもわからなくて、
断片だけが強烈に脳裏に焼きつけられるその感じは
小劇団の醍醐味だなと思います。堪能。


ただ、後から後からじわじわ考えてみるに、
体当たりの演技が生むパワーに満ち満ちているにもかかわらず、
「逢魔が時」というには全体に清潔な気がしました。
「禍々しい」というよりは、「バーチャル」。

入れ替わって交錯する世界が何かを垣間見せるのではなく、
平板に羅列され、戯曲の「わからなさ」がすっと入ってこなかったという印象。

初演(1982)以降生まれのキャストが多いことが原因にも思えます。
自分の甚だ怪しい実感では、その後急速に消えていく習俗的なものと
消費的なものが交錯するあの時期特有の時代感覚に乗った
戯曲のような気がしたのです(戦争の影、茶の間でジュリー、閉塞した学校)。

(「ちなみに、当該戯曲は、演劇部だった高校生のころすでに
「読んでも読んでもわからない名作」でした。
80年頃の「小劇団ブーム」の戯曲は、早熟でも文学少女でもない90年代の
凡庸な高校生にはリアリティのとっかかりがなくて読めなかったのです。)

描かれている「いじめ」を、「今につながる問題」と評する劇評もありましたが、
少なくとも教師も加担するそのいじめは今よりもっと露骨で泥臭いかなと。
今それが不可視化されていることこそが問題なのかもしれないけれど、
その巧妙さ、リアリティのなさしか知らない世代が演じる「泥臭いいじめ」は、
騒々しくパワーにあふれているけどどこか清潔でした。

あと、鬼太郎役者の歌声ファンとしては言いづらいのですが、
半端に音楽劇にしたのもよくなかった気がします。
その虚構的でキッチュな感性は1982年的なものとかみ合わない気がするのです。

3・11の喪失体験と引き付ける語りも見られたけれど、
1982年と2011年のギャップをつなぐ必要がある気がしたのでした。
いやいやでもとにかくすごかったし、見られて心底よかったです!

http://za-koenji.jp/detail/index.php?id=479
http://office300.co.jp/top_page.htm





いまさら「蟹工船」。

2011-07-18 16:07:18 | 芝居とか映画とか。
着任したころ、うちの大学では盛り上がりを見せていましたが、
レンタル落ちを待っているうちに忘れていたので今更見ました。

正直言えば、映画自体は嫌いじゃないテイスト。
ていうか、何か​過去のありそうな西島秀俊の現場監督だけで、
すみません私はもう​大満足です。

しかしながら、この蟹工船には社会がない! 
いるのは、無駄に​過去のありそうな現場監督と、
そこそこきつそうな仕事に従事する​そこそこおしゃれな労働者たち。

原作のように「俺たち」が劣悪な​労働条件に徐々に立ちあがるのではなく、
「自分」が生き方を選ぶ​ためにあまりにも唐突に立ちあがる。

どこまで意図的か知りませんが、
この外のなさが「現代日本の蟹​工船」だと言われれば、
なるほどなあという気もしました。



「トイ・ストーリー3」。

2011-04-19 01:02:32 | 芝居とか映画とか。
そろそろ平常運転ということで地震前に見たDVDから無理やり。

ウッディーを始めとする、男の子アンディーのおもちゃたちの
世界を描いたトイ・ストーリー。
自分がいないとき、おもちゃたちは何してるのかな?という
想像を一度でもしたことある人にはオススメのこの作品。

塾講時代、見る前に「おもしろいの?」と中学生に聞いたら、
男子が「・・・おもしろい」となんとも複雑な表情で答えてくれたのが
印象に残っています。

しかし、1話目からすでに15年。2話目からも11年。
子どもとして映画を楽しんだ層が大きくなった段階で「3」!?
お得意様が大人になってるのに今更?とも思ったけれど、
見てみて、これは必要な話だったと実感しました。

「2」で、コレクターアイテムであることが判明したウッディーは、
おもちゃとして、飾られているよりも遊ばれる立場に戻ることを選択します。
そこで語られたのが、いつかアンディーが大人になって
遊んでくれなくなるときがくるかもしれないかもしれないけれど・・・
それでも・・・ということ。

ここで導入されたテーマに真正面から挑んだのが「3」。
アンディーが大きくなって遊んでもらえなくなったおもちゃたち。
大学生になり家を出るアンディーは、
それでもウッディーだけは自分と一緒に連れて行き、
他のは屋根裏へという選択をし・・・たはずが
手違いでみんな保育園に寄付されてしまい・・・というお話。

おもちゃにとって、代わりがいることや捨てられてしまうことが
いかに悲しいことかというテーマを折り込みつつ、
ウッディーたちの大冒険が描かれます。

最後にアンディーが出した答えが泣かせます。
不覚にもうるうる・・・

おもちゃの幸せは子どもに遊んでもらうこと。
でも、子どもはやがて大きくなり、おもちゃとは違う世界を見つけていく。
だから、愛したおもちゃを大事にしてくれる子に受け継いでいく・・・。

おもちゃ=子ども/大人=自立というファンタジー(←です)を、
CGを駆使してコミカルに描いた王道児童文学ここに完結!!
とでも言えるのではないでしょうか。


ちなみに、児童文学的な子ども/大人ファンタジーは、
大人の私が楽しんじゃっているように、
消費のされ方を考えるともっと複雑になると思います。

ファンタジーの内容を信憑するからこそ、それをなぞる形で
子どもの消費の仕方/大人の消費の仕方の差異が成り立ってしまっている面と、
その差異をぶっとばしてみんな楽しむという形で消費されている面とが
あると思うので。
(と、うまく言語化できてないままここで思考停止。)



「モーツァルト!」。

2010-12-28 00:13:47 | 芝居とか映画とか。
今年はミシェル・クンツェ脚本&シルベスタ・リーヴァイ作曲の
ウィーンミュージカルを3本もやります!という年だったのですが、
3作目「モーツァルト!」を見に行きました。
(春の「レベッカ」(※1)、秋の「エリザベート」(※2)があと2つ。)

ウィーンミュージカルらしく、
ご当地ヒーローを精神分析風にキッチュに味付け。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを主題に、
才能の部分を「アマデ」(子役)として表象し、
才能に振り回されるエキセントリックで繊細な青年「ヴォルフガング」の
苦悩の生涯を描く見せるというミュージカル。

個人的には、「才能」を子どもの姿にしたのが非常にツボですが(苦笑)、
「大人になれない」個性を持つ青年ヴォルフが、
父との関係や才能をめぐるまわりの思惑に翻弄され、
才能に自身を蝕まれるように追い詰められていく様は圧巻です。

ただ、日本ではこれで4回目の上演ですが、
私はヴォルフガングWキャストの前回までの人が好きだったので、
今回ははまれませんでした。

アマデは一言も台詞がないので、
(ヴォルフが何をしていても、黙々と才能は作曲をしていて、
ときにヴォルフの血でペンを走らせる、子役さんが本当にすごい)
主演がそれが自分の中にある自分に制御できないものだと
見せないといけないし、その関係がわからないと全体がわからない
という難しい話なんだなあと実感しました。

前回のときのプロモ映像(2005の舞台映像かな?)



作曲家が違いますが「ダンス・オブ・ヴァンパイア」(※3)も日本で上演。
ウィーンミュージカルは、ミュージカルの定番テーマの一つ「自由」を
影のある味付けにして扱っていておもしろいです。
ブロードウェイでは、このわかりにくさはあまりうけないようですが、
日本でうけたというのもおもしろいかも。

※1⇒http://blog.goo.ne.jp/e-com77/e/91338a6553b6cd82c18c4daccdae5951
※2⇒http://blog.goo.ne.jp/e-com77/e/8cd6fb195ab594ad77a8d4e7e46771a4
※3⇒http://blog.goo.ne.jp/e-com77/e/90190316b3b1ff7795c4d28566e0c209



「AvenueQ」。

2010-12-17 00:01:53 | 芝居とか映画とか。
来日公演AvenueQに行きました。

セ☆ミストリートとは関係ありません、という大人向けミュージカル。
パペットを使ってミュージカルというのも新しいし、
内容は相当大人向け(「本作品は成人向けの描写を云々」)ということで、
どういうものかすごく知りたかったのです。

ミュージカルナンバー↓をみただけで、アダルトな感じですが、
 What Do You Do with a B.A. in English?  
 If You Were Gay  
 Everyone's a Little Bit Racist 
 The Internet is for Porn 
 You Can Be as Loud as the Hell You Want (When You're Makin' Love)  
 I Wish I Could Go Back to College 
パペットのベッドシーンまであります(苦笑)。

※ちなみに、細かいストーリーまで公式に書いてあります。
  →http://aveq.jp/about/story.html

劇中でも「子どもには話さないけど」といわれていますが、
「でも人生ってこうよね」「現代社会を生きるってこうよね」というお話。

最後がFor nowというナンバーなのがよかったです。
「明日があるさ」(坂本九)でもNo day but today(RENT)でもないのがよい。
良いことも悪いことも「今だけ」(Everything in life is only for now!)。
この感覚がなんかわかっちゃったとき、あなたはもう子どもではない!
といったところでしょうか?

パペット系がダメだときついですが、私はすごく好きなので(照)、
それがブラックなことをしゃべるのがすごくツボでした。
サウスパークとかが好きな人には非常にオススメです。





演劇集団キャラメルボックス25周年。

2010-12-12 00:22:40 | 芝居とか映画とか。
演劇部だった中高生の頃はまっていた「キャラメル」。
よくテスト前夜に教科書片手に必死に予約電話したっけな・・・。

25周年だということも知らなかったのですが、
e+からのメールで25周年イヤーのラストは
サンタクロースが歌ってくれた」13年ぶりの再演、
オリジナルキャストが夢の競演! ということを知り、
勢いでチケットゲットしました。(ビバ☆データベース!)

SF的な設定で「青春!」という世界を描いていたキャラメル。
最初はあこがれてかっこいいと思っていたのが(中2病)、
高2くらいからなんか単純で子どもっぽいと思い出し(高2病)、
ファンだった上川隆也さんブレイクで客層も変わり、
劇団も世代交代を迎える中、
自分もハタチになり進路等々悩んだり忙しかったりして(大2病)
確か1997年のこの芝居の再々演を最後にフェイドアウトしたのでした。
(その辺で小劇団そのものから離れてしまったのでした。)

それから13年!! (
楽しかった!熱かった!なつかしかった!

40代半ばのキャストが演じていたのは、円熟味のある「青春!」でした。
夢だけ語って生きていけない現実を知りながら/知っているからこそ
青春っていいじゃない?とてらいもなく言えるというような
1回転した距離感がすごくよかったです。

それはまあ、見る側である自分も1回転したということなのですが
(自分はまだ円熟というよりはポスト青春という感じですが。)

だから、これはやっぱりスペシャル企画なのだと思います。
同窓会と一緒で、昔に戻ったみたいで楽しいけれど、
それによって何かを自分の中で確認するのだけど、
だけど、終わったら今に戻っていくしかないんだろうなと思います。
勢いで買ってしまったなつかしい絵の2011カレンダーを飾って。

※ちょうど昨日の授業でも触れた、自分が散々分析した「卒業生の一言」。
自分の高校の「一言」は、そういえば自分が演じたキャラメルの戯曲から
とったのでした。気のきいたノリのいい言葉は書けないし、
まじめと思われたくないし・・・という葛藤wの末、
青臭い言葉だけど思い出の台詞だからさーと言い訳できるかなと思って。
嗚呼青春、嗚呼学校生活。