(↑タイトル今一つ(苦笑)。)
院生時代、バイトで中学生に教えることになって
英語で読んでいるうちに、思いのほかはまってしまったハリーの物語。
しかし、ついにモチベーションが尽き、最終巻は流し読みのため
あまり理解できていないんじゃないか疑惑もあるのですが、
とりあえず映画は駆け込みでなんとか見てきました。
うまく言葉になっていない部分もあるのですが、
まずは思ったことを備忘として書いておきます。
文字で読んだときはそこまで思わなかったのですが、
映像で見て、これは徹頭徹尾学校の物語であり、
その意味で現代の子ども/大人の物語なのだと妙に納得しました。
流行り始めたころ、私は魔法学校という設定を鼻で笑っておりました。
(設定の細部はかなり楽しんだのではありますが。)
※この話は、指輪物語やナルニアのような世界観作りこみ勝負ではなく、
ファンタジーのみならず映像やらコメディやらの「お約束」を
ちりばめたところがミソで、読者は、膨大に書き込まれている
萌えポイントに萌え萌えすればいいという、
なんとも現代的な物語だと思います。
魔法界とマグル界が併存している中に、魔法学校を置くということが、
どう考えても世界観を「つじつまが合わない」ものにしてしまう
と思ったのです。
実際、他国の学校が出てきてさらに社会が複層的になった時点で、
一国の学校の中から出てきた悪と世界の広さが釣り合わなくなり、
魔法省が出てきてからは、そんな複雑な社会を支えているにしては、
お役所を筆頭に騎士団以外の大人があまりにダメ設定すぎるし…、
と、その後もどんどん萌えポイントがぶ厚く書き込まれる一方で、
世界観は完全に破綻したなとすら見ていました。
しかし、今となっては、魔法学校が世界の中で過剰に重要すぎる
位置を与えられていることは、ある種必然だったように思えてきました。
この話は、種族問題とか死の問題などに触れていきますが、
加えて、いかにも「児童文学」っぽいテーマとして、
思春期を迎えて、すばらしい場所に見えた学校がそうでもないらしく、
完璧に見えた大人もそうでもないらしいらしいと
気づいてしまうという問題も扱っています。
思春期の葛藤というテーマであり、自分の中に入り込もうとする
敵との対峙は発達課題とも言えるものになります。
ただ、その先の「成長」の仕方、「大人」になり方が、やや独特です。
私は、ハリーがホグワーツに戻らないという選択をしたあたりでは、
守ってくれる学校を離れて戦って、
ままならない世界に乗り出していって終わるのかと思いました。
少なくとも、古典的な「成長」の物語だったらそうするはずです。
さらに「王道」を行くなら魔法を放棄して人間界に戻るくらい
のことは書くでしょう。
鋼錬のように。
ところが、なんと、この物語は最終決戦の地をホグワーツにします。
物語はいつのまにか、学校を大人たちが/学校が子どもたちを守る話
としてクライマックスを迎えるのです。
※そもそもヴォルデモートって、ハリーを殺す!という以上には
何がしたいんだかよくわからない敵で、
(一応純血主義の徹底をもくろむということになっていますが…)
真の目的は学校を壊すことだったんじゃないか、という…。
学校的きれいごとの世界を壊しに来たというべきか。
そして、この戦いで守られる側から守る側に回ったハリーは、
自分の中に入り込んでくる悪を退け、
今度は親になって自分の子どもを平和になった学校に送り出します。
つまり、こういう図式になっています。
・外は凡庸だったり堕落したりした大人がいて、
学校はテストがあったりいじめがあったりするけれど、
友情や恋があって、規律の中にも自由と責任が与えられて
それなりに楽しくそれなりに試行錯誤できるユートピア。
(と子どもたちには見えているし、見えていてほしい。)
・成長とともに、そのユートピアを支える大人たちは、
子ども時代に見えているほど「いい人」や「悪い人」ではなく
色々欠陥を持ちながらがんばっている人たちだということに気づく。
・そして、大人になるということは、単にそこを出ていくのではなく、
むしろそのユートピアをフィクションとわかった上で支える側に
回ることである。
(そんなきれいごと演出してるんじゃない!という人は退治される。
フィクションの中に安住し続けることもたぶん可。)
・[おまけ]そのユートピアを守る大人像の先に、
わずかながら社会が よくなるかもという甘い想像が広がる。
(ハーマイオニーの諸々の運動とか。)
なんというか、以前「プレーパーク(冒険遊び場)」を分析した時に
見えてきた、子ども・大人・社会に関する1つのユートピア的想像力に
非常に近いのです。
意図的か否かはわかりませんが、この話は、
たとえそれがフィクションであろうとも、否フィクションだとわかったうえで、
子ども時代があらかじめ一定の質を与えられたものであるべきであり、
「成長」とは、そのフィクションをフィクションと知った上で守る側に回る
ことによってのみ与えられるという「子ども」像と「大人」像を、
そして、そういった閉じた「社会」像を、描き出してしまったように思えるのです。
発達課題と成長を描いた時点で、これは堂々たる「児童文学」と
言えると思いますが、その成長の姿がなんとも現代的というか…。
萌えポイントを刺激する世界観であるとか、
当初から映画向きすぎる書かれ方であるとかいうことも含めて、
「21世紀転換期の児童文学の代表作の1つ」だなと思うのです。
※ちなみに、母の愛を強調しすぎ(ハリーママが完璧すぎるとか、
ハーマイオニーは戦うけど、ジニーは待ってるんだねとか、
ウィーズリーママ強いなら主婦やってないで最初から戦って…とか)
というあたりも何となくいまどきだなあと思いました。
*11/7昼、少し手直ししました。