お誘いいただき、久々に現代演劇というものへ。柴幸男「あゆみ」(ままごと)。 せっかく感想を書いたので、こっそりアップ。
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地方都市で育ち上京したというごくありふれた女性の前半生を、照明でつくられた道を8人の女優がぐるぐる歩き続け、入れ替わりながら演じるというもの。つまり、登場人物はいて、それを演じる役者は固定されていない。ものすごいペースで役者が入れ替わっていくことで、カメラの長回しやモンタージュ、カットバックのようにも見えてくる。
描かれた人生は、ある種とても陳腐である。しかし、ひとりひとり見た目も雰囲気も違う役者が入れ替わり立ち替わり演じる中で、その個々の女優の向こうに、ある種普遍的な人生が見えてくる。
もちろん「普遍的」といっても、高校進学が当たり前になった時代以降で、上京し就職し恋愛し結婚し子どもを産んだだ女性なんて、実はとても限られている、そこから外れる人も多い。外れる人生を排除するようなことはあってはならない。
しかし、クライマックスで、「選ばなかった道」が人生の最後のフラッシュバックのように描かれる。そこで、今まで光の道の上で演じられてきた人生が、8人の女優を超え、描かれた人生と全くかけ離れたライフコースを歩んだ人たちとも接点を持ち始める。
この感覚をなんと表するか、同行者と終幕後だいぶ話し合ったけれど、私は、(詩的な表現ではないけれど)無数の点の中に見えてきた「回帰直線」という言い方が近い気がしてきた。モデルの上をそのまま歩む人生なんてない。でも、なぜかみんな共振してしまう、そんな人生が浮かび上がってくる。
演技的には、高校演劇的というか、「ザ演劇」ともいうべき独特の発声、所作が用いられる。演技において何が「リアル」かということについては、平田オリザが、わざとらしさを克服して実際に近い所作や戯曲の構成をする方向を開いたというのが演劇史の基礎知識のようだが(※不勉強につき間違ってたらすみません)、この芝居は、演技としてはリアルでないからこそ、その向こうにある種のリアリティが立ち上がる構図になっている気がする。
私は、どうやったって虚構は虚構なのだから、虚構を虚構として「あえて」やるという芝居が好きだ。少しは小劇団を見ていた高校生のころは、舞台上で、「アクション映画」を演じてしまうとか、「超高速ロボット」を演じてしまうとか、そういうばかばかしさを本気でやるという劇団が好きだった。その点、この芝居はかなりツボだった。
その妙な清潔感には賛否両論あると思う。でも、その構成美を堪能することも含めて、普段とは違う虚構の世界にいざなってくれるすばらしい芝居だったと思う。同じ作者・劇団の違う作品も見てみたい。
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地方都市で育ち上京したというごくありふれた女性の前半生を、照明でつくられた道を8人の女優がぐるぐる歩き続け、入れ替わりながら演じるというもの。つまり、登場人物はいて、それを演じる役者は固定されていない。ものすごいペースで役者が入れ替わっていくことで、カメラの長回しやモンタージュ、カットバックのようにも見えてくる。
描かれた人生は、ある種とても陳腐である。しかし、ひとりひとり見た目も雰囲気も違う役者が入れ替わり立ち替わり演じる中で、その個々の女優の向こうに、ある種普遍的な人生が見えてくる。
もちろん「普遍的」といっても、高校進学が当たり前になった時代以降で、上京し就職し恋愛し結婚し子どもを産んだだ女性なんて、実はとても限られている、そこから外れる人も多い。外れる人生を排除するようなことはあってはならない。
しかし、クライマックスで、「選ばなかった道」が人生の最後のフラッシュバックのように描かれる。そこで、今まで光の道の上で演じられてきた人生が、8人の女優を超え、描かれた人生と全くかけ離れたライフコースを歩んだ人たちとも接点を持ち始める。
この感覚をなんと表するか、同行者と終幕後だいぶ話し合ったけれど、私は、(詩的な表現ではないけれど)無数の点の中に見えてきた「回帰直線」という言い方が近い気がしてきた。モデルの上をそのまま歩む人生なんてない。でも、なぜかみんな共振してしまう、そんな人生が浮かび上がってくる。
演技的には、高校演劇的というか、「ザ演劇」ともいうべき独特の発声、所作が用いられる。演技において何が「リアル」かということについては、平田オリザが、わざとらしさを克服して実際に近い所作や戯曲の構成をする方向を開いたというのが演劇史の基礎知識のようだが(※不勉強につき間違ってたらすみません)、この芝居は、演技としてはリアルでないからこそ、その向こうにある種のリアリティが立ち上がる構図になっている気がする。
私は、どうやったって虚構は虚構なのだから、虚構を虚構として「あえて」やるという芝居が好きだ。少しは小劇団を見ていた高校生のころは、舞台上で、「アクション映画」を演じてしまうとか、「超高速ロボット」を演じてしまうとか、そういうばかばかしさを本気でやるという劇団が好きだった。その点、この芝居はかなりツボだった。
その妙な清潔感には賛否両論あると思う。でも、その構成美を堪能することも含めて、普段とは違う虚構の世界にいざなってくれるすばらしい芝居だったと思う。同じ作者・劇団の違う作品も見てみたい。
渋谷にある「たばこと塩の博物館」に行きました。
(最近やってることにやや関係するようなしないようなということで。)
何故たばこと塩が1つの場所にあるのか…。
それは、両方とも「専売公社」の所管だったから。
(1985年の民営化で日本たばこ(JT)になり、
塩は1997年に専売制廃止、塩事業センターが分離独立。)
おもしろかったのは、たばこのフロアと塩のフロアがあまりに違うことです。
たばこのフロアは、たばこという物同定して歴史を切り取る描き方でした。
たばこと喫煙の習慣がどうやって始まり、広がったのか(日本に伝来したか)、
売られ方はどう展開したのかを説明しているほかは、
道具や広告の歴史、パッケージのデザイン史でした。
喫煙をめぐる制度の変遷は控えめで、
「喫煙の意味論の変遷」などといった方面にはほとんど展開しないのは、
JTからするとやむを得ないところでしょうが、
(そういえば、当然自販機の中身はすべてJTブランドでした)
デザイン史がその穴を埋めているのは興味深かったです。
それに対して塩のフロアのほうは、
製造方法とその歴史的変化説明がわかりやすく説明してあり、
明らかに理系的な世界。こちらに新鮮な驚きがありました。
嗜好品と必需品だし、こんなに展示の切り口も違ってしまうというのに、
「たばこと塩」がひとくくりとは、「専売公社」おそるべしと思ったのでした。
それで思い出したのが、さらにもうちょっと前に行った
「逓信総合博物館ていぱーく」(大手町)。
さすが「総合博物館」だけあって、
郵便、為替、簡保の歴史、電信電話の歴史、前島密の生涯、
ポストの変遷、制服の変遷、電話機の変遷…、
戦前の逓信省から派生した事業は全部ぶち込まれているという内容。
今は、中を分けて、日本郵政株式会社(「郵政資料館」)と
NTT東日本(「NTT情報通信館」)が運営しているそうですが、
少し前までNHKの部分があったそうで、
これらが一つの「博物館」という器に入っている感覚というのは、
逓信省の分割、電電公社(1952~1985)の民営化、
郵政民営化…という時代を経たあととなっては、
もう不思議としか思えないのです。
「NTT情報通信館」は展示は、音の伝達はどうとか、ケーブルがどうとか、
かなり理系的な構成。
もう1つの「郵政資料館」の冒頭が、私には驚きで、
洞窟壁画だパピルスだ楔形文字だのから始まって、
伝令、駅鈴、伝馬などから、飛脚だ郵便馬車だと出てきて、
ふとローランド・ヒルの近代郵便制度だ前島密だにつながり、
最近になるとゆうパックなども出てきてしまったりして…。
これは本当に「郵便の歴史」として切り取っていいのか!?
メディア史とは違うから、遠距離コミュニケーション史??
モノでくくるのとは違って、なんでもぶち込んでしまった
戦前期の「逓信」という概念のだらしない広がりを見てしまった気がしました。
「専売公社」と「逓信省」。
80年代民営化の動きがあるまで、一定のリアリティを持っていた
戦前期の国営事業の世界を垣間見る2つの博物館でした。
と同時に、それがモノを虫の目で追跡する「たばこ」の歴史と
コミュニケーションという抽象概念でばらばらのモノを
並べてしまう「郵政」の歴史という、
まったく違う描かれ方を帰結しているのがおもしろいなあと思ったのでした。
(最近やってることにやや関係するようなしないようなということで。)
何故たばこと塩が1つの場所にあるのか…。
それは、両方とも「専売公社」の所管だったから。
(1985年の民営化で日本たばこ(JT)になり、
塩は1997年に専売制廃止、塩事業センターが分離独立。)
おもしろかったのは、たばこのフロアと塩のフロアがあまりに違うことです。
たばこのフロアは、たばこという物同定して歴史を切り取る描き方でした。
たばこと喫煙の習慣がどうやって始まり、広がったのか(日本に伝来したか)、
売られ方はどう展開したのかを説明しているほかは、
道具や広告の歴史、パッケージのデザイン史でした。
喫煙をめぐる制度の変遷は控えめで、
「喫煙の意味論の変遷」などといった方面にはほとんど展開しないのは、
JTからするとやむを得ないところでしょうが、
(そういえば、当然自販機の中身はすべてJTブランドでした)
デザイン史がその穴を埋めているのは興味深かったです。
それに対して塩のフロアのほうは、
製造方法とその歴史的変化説明がわかりやすく説明してあり、
明らかに理系的な世界。こちらに新鮮な驚きがありました。
嗜好品と必需品だし、こんなに展示の切り口も違ってしまうというのに、
「たばこと塩」がひとくくりとは、「専売公社」おそるべしと思ったのでした。
それで思い出したのが、さらにもうちょっと前に行った
「逓信総合博物館ていぱーく」(大手町)。
さすが「総合博物館」だけあって、
郵便、為替、簡保の歴史、電信電話の歴史、前島密の生涯、
ポストの変遷、制服の変遷、電話機の変遷…、
戦前の逓信省から派生した事業は全部ぶち込まれているという内容。
今は、中を分けて、日本郵政株式会社(「郵政資料館」)と
NTT東日本(「NTT情報通信館」)が運営しているそうですが、
少し前までNHKの部分があったそうで、
これらが一つの「博物館」という器に入っている感覚というのは、
逓信省の分割、電電公社(1952~1985)の民営化、
郵政民営化…という時代を経たあととなっては、
もう不思議としか思えないのです。
「NTT情報通信館」は展示は、音の伝達はどうとか、ケーブルがどうとか、
かなり理系的な構成。
もう1つの「郵政資料館」の冒頭が、私には驚きで、
洞窟壁画だパピルスだ楔形文字だのから始まって、
伝令、駅鈴、伝馬などから、飛脚だ郵便馬車だと出てきて、
ふとローランド・ヒルの近代郵便制度だ前島密だにつながり、
最近になるとゆうパックなども出てきてしまったりして…。
これは本当に「郵便の歴史」として切り取っていいのか!?
メディア史とは違うから、遠距離コミュニケーション史??
モノでくくるのとは違って、なんでもぶち込んでしまった
戦前期の「逓信」という概念のだらしない広がりを見てしまった気がしました。
「専売公社」と「逓信省」。
80年代民営化の動きがあるまで、一定のリアリティを持っていた
戦前期の国営事業の世界を垣間見る2つの博物館でした。
と同時に、それがモノを虫の目で追跡する「たばこ」の歴史と
コミュニケーションという抽象概念でばらばらのモノを
並べてしまう「郵政」の歴史という、
まったく違う描かれ方を帰結しているのがおもしろいなあと思ったのでした。
年間企画(平成23年度コレクション展)の3期目。
わりと有名なものも含めて、"子どもらしい"子どもの写真、
そして、"子どものような"心でとった写真が並んでいました。
それだけだったら、「ああやっぱりね」だったのですが、
意外に面白かったのが、解説の文章。
どういう視点や技法でそれが表現されようとしているのかが
垣間見られました。
例えば…
1)「子ども」に対するある程度共有されたイメージがあり、
(例:子ども=無垢、野蛮、社会の鏡 etc.etc.)
2)それを具現化する写真の技術があり、
3)それが具現化された写真で共有されたイメージが確認される…
そういう循環的な関係の中で、
私たちは「子どもらしい/らしくない子ども」の写真を見て
ときに感動したりするわけですが、
1)→2)の水準が言語化されることで
(もちろん学芸員による写真家の意図の解釈としてですが)、
そうやって撮られた子どもの写真をどう見ればいいのか
考えるとっかかりをもらったような気がしました。
http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1380.html
わりと有名なものも含めて、"子どもらしい"子どもの写真、
そして、"子どものような"心でとった写真が並んでいました。
それだけだったら、「ああやっぱりね」だったのですが、
意外に面白かったのが、解説の文章。
どういう視点や技法でそれが表現されようとしているのかが
垣間見られました。
例えば…
「写真のなかを走り過ぎて行くこどもの姿は、
画面の外へ向かう動きを生むとともに、未来への予感をも感じさせ、
風のようにさわやかな余韻を与えてくれます。」
「無表情な風景のなかにこどもがひとり入ってくることで、
画面が活気づいて、写真が物語的な広がりをもち、
見る人をひきつける情景が生まれます。」
「当館のコレクションの中で、こどもを被写体とする写真は、
昭和20年代後半から30年代にかけて撮影されたものが中心です」
「貧困のなかで活気あるこどもの姿に未来への希望を見出そうという、
戦後復興期の時代性が反映しているといえるでしょう。」
「取材しにくいという事情からか、
学校生活をテーマにした写真作品は決して多くありません。」
「紙芝居に夢中になるこどもたちは、カメラを意識しない
たくさんの表情が狙える、かっこうの被写体。」
「仮面をかぶることで、こどもたちは現実とイメージの世界をつなぐ
不思議な存在となって、見る者の想像を刺激します。」
「写真家たちも匿名的なこどもの姿に独特の詩情を感じて、
意識的にこどもの後ろ姿や影を作品化しています。」
画面の外へ向かう動きを生むとともに、未来への予感をも感じさせ、
風のようにさわやかな余韻を与えてくれます。」
「無表情な風景のなかにこどもがひとり入ってくることで、
画面が活気づいて、写真が物語的な広がりをもち、
見る人をひきつける情景が生まれます。」
「当館のコレクションの中で、こどもを被写体とする写真は、
昭和20年代後半から30年代にかけて撮影されたものが中心です」
「貧困のなかで活気あるこどもの姿に未来への希望を見出そうという、
戦後復興期の時代性が反映しているといえるでしょう。」
「取材しにくいという事情からか、
学校生活をテーマにした写真作品は決して多くありません。」
「紙芝居に夢中になるこどもたちは、カメラを意識しない
たくさんの表情が狙える、かっこうの被写体。」
「仮面をかぶることで、こどもたちは現実とイメージの世界をつなぐ
不思議な存在となって、見る者の想像を刺激します。」
「写真家たちも匿名的なこどもの姿に独特の詩情を感じて、
意識的にこどもの後ろ姿や影を作品化しています。」
1)「子ども」に対するある程度共有されたイメージがあり、
(例:子ども=無垢、野蛮、社会の鏡 etc.etc.)
2)それを具現化する写真の技術があり、
3)それが具現化された写真で共有されたイメージが確認される…
そういう循環的な関係の中で、
私たちは「子どもらしい/らしくない子ども」の写真を見て
ときに感動したりするわけですが、
1)→2)の水準が言語化されることで
(もちろん学芸員による写真家の意図の解釈としてですが)、
そうやって撮られた子どもの写真をどう見ればいいのか
考えるとっかかりをもらったような気がしました。
http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1380.html