近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

備忘:大人エレベーター。

2015-07-01 13:44:58 | 考えごととか。
今年の頭に不毛な作業を行ったのですが、突然ですが生存報告かねてメモとして公開しまする。

書籍版『大人エレベーター』にて、『大人エレベーター』(2014、扶桑社)にて「大人とは何か」を語っているところと、大人という語が出てきた回数(目視による)。


Char・中村勘三郎 54階

「年齢がどうこうというのは、あまり関係ないんじゃないかと」(Char)8

「やっぱり大人ってのは子ども時代に覚えてる大人のイメージなんじゃないですか」(Char)9

「自分の目線まで下りて来てくれるような人は大人だなって思ったりしますね」(Char)9

「ビールを初めて飲んだ時、こんな苦いものはないと思ったんだよね。でも、それをうまいと感じた時から大人かもしれないな」(Char)10

「今まで自分がやってきたこと、やらせてもらってきたこと、それを残したい、こいつらに渡してやりたいって気持ちになってきた。そういう気持ちになったことが、ひょっとしたら大人になったってことかもしれませんね」(Char)14

「大人とは?ってのも、やっぱり54くらいじゃわからないですよ。だからもうちょっとエレベーターの上の階も押して、たずねてみるといいかも」(勘三郎)17-18

(15回)



リリー・フランキー 46階

「「大人」ってのは、子どもの想像の産物なんじゃないかな。自分が年取ったらこうなるだろうなっていうのが子どもがイメージする大人の姿だったわけでしょ。でも俺、自分が子どものころに思ってた「大人」って、大人になってから会ったことないから」24

「あれは、子どもがつくった「大人」っていう架空の生き物なんだって思うよ。だって、もっとちゃんとしてるはずだったもん、俺が想像してた「大人」は」25

「もう近頃はなくなってきたよね。こういう大人にならなきゃ、とか、こういう男にならなきゃとかってものは」34

「大人になるとちゃんと言うようになるし、その余裕もできて、なんか自分も他人も許せるようになるんじゃないかな」35

「大人って子どもの想像の産物なんだって気づいた瞬間にどうでもよくなるんじゃないかな」35

(19回)



仲代達也 77階

「大人ね……いつまでも子ども心をもってる大人になれたらいいと思いますね。精神的に、なるたけ子ども心をもった大人にね」51

「ただ、年を取ると自然と少し子どもに近づいてきますよ」51

「第一ね、大人とはという問いの前に、僕はいまだになぜこの世の中に生まれてきたんだろうかというのが、いちばん不思議ですね」51

(5回)



スガシカオ 44階

「大人になってから言いたいことがたくさん増えて、歌詞が書けるようになったのもあるんですよね」57

「焼肉屋さんで、なんかエプロンみたいなのを首にかけなきゃなんないじゃない。あれが抵抗なくかけられたら大人だと思います」57

「僕は絶対に若いころのカードをもったまま、大人のカードを増やしていきたいと思うわけ。だから、いつでも若いころに戻れるし、いつでも大人にもなれるし、そういうカードの取り方を10年後もしたいな、そういう大人のあり方をしたいなってすごく思うんですね」66

(10回)



白鵬 25階

「大人とは「歴史を作る人」だと思いますね」77

(5回)



佐野元春 55階

「どんどん子どもになってる気がします。むしろ子どもでいたいなって今がいちばん思ってるくらいですね」「改めて表現できる自由って素晴らしいなって感じているからですかね」95

「大人になると、どうしても経験とか知識とかが身についてしまう。それはいいことでもあるんだけど、ものの本質を見極めるのに邪魔になったりすることもあるからね」96

「子どもじゃない存在、としか言いようがない。年齢じゃないし」101

「成長することへの探求だと思うんだ。大人になることへの探求こそがロック」102

(16回)



高田淳次・岸部一徳 64階

「責任をとれる人。ま、俺はとんないけど(笑)。あとは言い訳をしない人かな。俺は今までの人生ずっと言い訳し続けてきたけどね。あれ?もしかしたら俺、大人じゃないかも(笑)」(高田)112

「大人って字の通り、大きい人のことかもしれないなと思う。人の話が聞けて、理解力のある」(岸部)112

(12回)



斉藤和義 45階

「年が年だから、大人のふりをしているけど、自分はずっと子どもの延長にいるような気がするな」132

「だから……大人とは、サンマの内臓食える人くらいしかイメージがない(笑)」132

(4回)



竹中直人 56階

「大人とは迷い続けていく存在なんじゃないかな。俺は弱音を吐ける大人でいいと思うけどね」164

(3回)



古田新太 46階

「大人って悟ることかもしれないけど、悟りすぎちゃうと楽しくないよね。うまくなりたいとか、面白くやりたいとかって欲がなくなったら、もしかしたら大人なんだと思うんだけど、それなくなったらやってる意味ない」180

「子どもを叱る時も感情をコントロールできるのが大人なんじゃないかな」180

「縛られないためには、ちゃんとしなきゃいけないんだよ。そう考えるあたりから大人になるんじゃないかな」183

「いや、なれっつーのな。大人なんだから、きっちりした歯車になっていけって思う。そこが滞っちゃったら、社会がダメになるでしょ」183

(11回)


奥田民生 47階

「まぁ責任をもつことというか、一緒にいる人もはんとかすることかな?」「自分のためだけじゃないって大人っぽくないですか?」207

「大人はなにしてもいいんじゃない?」207

「大人はなにしてもいいってならないと、憧れられないじゃないですか、大人に」208

(10回)



中村俊輔 35階

「ひとつは我慢ができることですね。忍耐力がある人」217

「もうひとつは賢い人ですね。」人としても選手としても賢い人をみてると「ああ、こうやって、大人の選手はどんどんレベルが上がっていくんだ」って思う」208

「あ、あと要領がいい人です」

(3回)



かなり最初のほうで、「大人とは」という問いが挫折した印象。
その論点に関してはインタビュアーにとってインタビューが飽和しちゃったんだろうなという気がします。

全体としては、子どもでないもので、子どもが想像するもの、そのときの想像との距離で大人になっちゃった人がいろいろ考えちゃうもの、って感じ?



「明日ママ」問題、一応追記。

2014-03-17 00:43:04 | 考えごととか。
「明日、ママがいない」問題。最終回を見たので、一応追記。

8回目だけ見損なったのですが、見た範囲ではやっぱり感想は変わらないかな、という感じです。つまり、それなりにおもしろい話だったと思いますが、親の愛情とは何か、親子とは何かという話としても、何をどうしたかったのかよくわかりかねるところが多かったですし、何よりそういった一般的な問題を考えるのに、児童養護施設というすでに特殊な事例を持ち出すの完全にミスリーディングであり、施設関係者からの批判に「見ててください」というだけの内容ではなかったと思います。施設長が厳しく接する意味もまったくわけがわからないし、議論を呼んだあだなも、名前を捨てる/選ぶという問題も、呼びかけとアイデンティティに関わる議論の蓄積を無視して安易に持ち込んだとしか思えず、批判に応答するに足る結論は出ませんでした。

複数の問題をかかえた親子を出すのに、まとまった事例が同時に描ける「施設」(場所)が必要だったのでしょうが、児童養護施設(制度)が何かをきちんと考えたらこういうアプローチはとらないはずです。入所年齢を超える「オツボネ」についての結論(彼女だけ本名がわからないまま終わる)も、現実にそぐわないだけでなく、テーマを分からなくしています。拍手を通してコメントをくださった現場の方が何人かいらっしゃいますが、実際の現場の事例を描くだけで、子どもを育てるとは何か、家族とは何かという青春ドキュメントになると思います。

また、、最後の「ポスト」の親選びの問題に象徴されるように、「親を選ぶ」「子どもが望む」とは何かという問題にも繰り返し触れましていました。これは、「子どもの利益」「子どもの権利」とは何かということにまつわる非常に難しい問題で、子ども研究ではホットな問題だと思います。(研究会でもぜひ考えたい!)しかし、まったく尻切れトンボ。取材も考察も不足していると言わざるを得ません。

ということで、1か月半前の考えごとを大きく訂正する必要はなさそうです。むしろ、応答のピンボケ度合いが修正されず、不平等の問題をピンボケ精神論で解いたつもりになっているという、教育論で繰り返され、昨今の教育政策で目に余る方向性を、無邪気に反復しているつくりに、あきれたのを通り越して不安を感じます。


ところで、子役は全員素晴らしく、天才的な演技ではないまでも、コミカルな類型的な人物造形を演じる演技の才能に年齢は関係ないなと思わされました。ただし、子どもの類型的な演技は「子役なのにすごい」と思えますが、大人の類型的人物像は「浅くてつまらない」と見えてしまうのはなぜかという思いは残りました(苦笑)。(子役にやらせてなければ、相当陳腐な脚本だということでもあります。テーマとはまた別の問題として。)

ただ、べたな人物像をそれなりに魅せてしまう三上博史はすごいと思いました。あの胡散臭い「ジョリピ」とか、そんなにわかりやすく病んだ人いないだろうという里親候補とか、それなりにしっくりくるキャスティングもうまいなあと。

演劇ファンとして、子役とは何かは、いつかまじめにやろうと思います(書いちゃった)。



「明日、ママがいない」問題について。

2014-02-06 13:42:28 | 考えごととか。
 ついに、日テレが、謝罪にいたった「明日、ママがいない」(以下「明日ママ」)問題。経過途中なので、試論ということで。

 ドラマを見続けられない人間なのですが、騒がれたので見ました。正直、陳腐な(オチ見え見えの)脚本だなあというのが第一の感想でしたが、それはさておき、テーマ自体が、陳腐を通り越して混乱していると思います。(表現の自由云々というレベルではないと思います。)

 慈恵病院や全国児童養護施設協議会等の抗議に対して、日テレが当初出した回答は、各種ニュースによれば以下のようなものです。

「このドラマは子どもたちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子どもたちの視点から『愛情とは何か』を描くという趣旨のもと、子どもたちを愛する方々の思いも真摯に描いていきたい。ぜひ最後までご覧いただきたいと思います」(2014/1/17複数ニュースより)

そして、ついに謝罪した文面には以下のように書かれていました。

「本ドラマは、子どもたちが厳しい境遇に立ち向かいながら、前向きに愛情をつかむ姿を描くことをテーマに企画されたもので」(「日本テレビ全国児童養護施設協議会に回答」http://www.ntv.co.jp/oshirase/20140205.html 2014/2/4)

始めの数回とこの文書に書かれた制作意図からすると(というか読まないでも予想可能ですが)、だいたいこんな筋書でしょう。まず「抑圧的な大人」「厳しい世間の目」vs.「子どもたち目線」という構図を強調します。そして、何らかの理由で親に捨てられた「かわいそうな子どもたち」が、状況を受け入れ、立ち向かう強さやたくましさを手に入れていく様を、「親を捨てる」などの表現で描きます。そして、愛情を与えられるのではなく、自分たちの力で愛情を勝ちとっていくのでしょう。もちろん、度を越して抑圧的に見えた大人(施設長)が実は子どものことを最も考えていて…という話になるに違いありません。(始めから異様にすれた子どもとして描かれている芦田真菜ちゃんの役に、終盤でどういうドラマがあるのかは気になりますが。それも予想できるような…。)

 おそらく、「なんだあの大人は!子どもがかわいそう…」「あんな横暴な施設のあり方を描くなんて間違っている!!」式の批判がくることは織り込み済みだったのでしょう。だから、「織り込み済みだから見ていてください!」と反論したと言えます。しかし、ここには大きな勘違いがあります。

 児童福祉の問題は、単に大人と子どもの関係一般にとどまらない、子どもたちの中にある分断の問題だということを完全に忘れているということです。関係者からの抗議は、「子どもがかわいそう」「施設の描き方がおかしい」という過去にも繰り返されてきた抗議以上に、「子どもたちが、明日、学校でいじめられるのではないか」「今、不安になるのではないか」という点を含んでいました。しかし、当初の応答は、そこを完全に無視していました。この認識の甘さも恐るべきものですが、抗議に対して、単に応答責任を放棄したとしか言えない回答をしてしまったのは、端的に、自分たちの描いたストーリーに酔っていたのでしょう。

※謝罪に至って、ようやくこのあまりにひどいすれ違いが埋まりました。

「本ドラマを視聴した施設の子どもたちが傷ついたり、同書状別紙の実態アンケートに記載されたような事実が存在するのであるならば、もとより本ドラマの意図するところではありませんが、そのような結果について重く受けとめるとともに、衷心より子どもたちにお詫び申し上げます」(上記、「日本テレビ全国児童養護施設協議会に回答」)

ただ面白いことに、これ、謝罪の対象は「子どもたち」なのですね。子どもの視点に立って描くつもりが予想外に一部の子どもを傷つけてしまったのなら取材不足であったという回答で、子どもの中にある不平等は考えていなかったということでしょう。自分たちが立とうとした「視線」の帰属先を見誤ったということです。


 「たくましさ」「立ち向かい」「前向きに愛情をつかむ」などの表現から、制作意図としては、子どもたちは決して無力な存在ではなく力を持った存在だと描こうとしていると思われます。子どもは大人に対して受動的で無力なのではなく、能動的activeで力を持ったcompetentな存在だというのは、わりと典型的な子ども観です。しかし、それを描くのに、大人を横暴な存在として描く必要があったでしょうか。そうして抗議をされてまで、描きたかったものは何だったのでしょうか。

 一端話が横に逸れますが、一見横暴な大人に立ち向かうことで、子どもたちが力をつけるという話で、どうしても思い浮かぶのは、「女王の教室」(2005、日テレ)です。このドラマも、「子どもが虐げられている」「あんな教育はありえない」という批判を受けて、CM自粛騒動が起きました。(「起きたのは記憶に新しい」と書こうとしたら、9年前のドラマであることに愕然としましたが、それはここでは置いておきます。)

 このドラマは、一見「権力的な教師」は実は「自立した子どもたち(未来の大人たち)」を育てるための手段(演技)で、誰よりも子どもたちのことを考えていました、実際に子どもたちも変わってきました、というストーリーになっています。もちろん、「権力的な大人」を描いた瞬間、「子どもが虐げられている」という図式で批判されることは織り込み済みだったわけで、批判されても放送を継続して、最終的に評価されました。

 私たちはつい「大人の権力」に「子ども尊重」や「子どもの目線」「子どもの力」を対置して考えがちです。特に教育批判をしようとするとき、「大人の勝手」「大人の権力性」を批判して「子どもにも言い分がある」「子どもを尊重すべき」と締めくくるような議論は少なくありません。しかし、「権力的な大人=子ども抑圧」で、「やさしい大人=子ども尊重」という図式になるかというと、必ずしもそうではありません。

 というのは、子どもは将来大人にならねばならないからです。どういう教育をするのかは、今の子どもとどう向き合うかということそれ自体であると同時に、将来どういう大人に育てたいかという「目的」に対する「手段」の問題でもあります。そのため、子どもの今と将来をめぐって、どういう教育をすべきかは、「指導か放任か」「系統か自由か」「詰め込みかゆとりか」などという指導論の対立として、歴史上何度も何度も展開されてきたのです。

 「女王の教室」は、この点において、「大人の権力」と「子ども尊重」が二項対立ではないということを描こうとしたドラマだと言えます。当時は、詰め込み教育への批判から2002年に施行されたいわゆる「ゆとり教育」が、施行直後から批判されるという時期でもありました。そこには、それまでの教育の権力性や詰め込み教育が反省されて、現代社会は子どもを尊重しようとするあまり「やさしい大人」が多くなって、今度は結果的に将来のための子どもの力を奪っているという現状認識があるように思われます。そして、きちんと大人が大人として壁になることこそ(手段)、子どもをきちんと大人にしていくには重要なんだ(目的)と、「常識」(それが本当に当時の通念だったかには留保が必要ですが)の転倒を試みていると思います。

 これ自体も極論で、逆に「やさしい大人」で今現在目の前の子どもたちを尊重しながら、同時に自立させていくこととも論理的にはありえるはずなので、この解を全然評価する気にはなれませんが、少なくとも、「子どもに力を与えるとはどういうことか」「教育とは何か」、そして「子どもと向き合うとはどういうことか」「愛情とは何か」を考え、大人の権力と子ども尊重を相容れないものと見る通念を逆手にとって展開したという意図はわかりました。

※ちなみに、権力的だったか尊重されていたと感じるかは受け取り方の問題でもあります。相手のためを思っているのに相手からは煙たがられるとか、厳しくされて恨んだけれど後で感謝するといったことは、往々にして起きます。とりわけ、学校教育という制度では、大人と子どもは(少なくとも制度上は)対称ではないので、どんなに子どものためを思っていても子どもには煙たがられる可能性や、逆に、まったく子どものためを思っていなくても子どもに感謝される可能性も、一般の関係以上にあります。「女王の教室」の真矢先生は、学校を去らねばならなくなりますが、子どもたちには尊敬すべき教師として感謝されました。脚本としては、そうしてさらに世間の教育像を批判しているのだと思いますが、そんなにうまくいくかしら…。


 さて、話を「明日ママ」に戻すと、これもそんな話のつもりなのかもしれません。しかし、それには学校教育と児童養護施設ではあまりに状況が違いすぎます。教育は子ども時代と大人時代をつなぐものですが、児童養護施設は家庭的な環境で子ども時代を提供するものです。そこで、大人が立ちはだかったのは手段であって目的は別のところにあるという構図が成り立つでしょうか。しかも、もし回答が書いてあるように「前向きに愛情をつかむ」がテーマなのだとしたら、目的は愛情を得ることとなってしまいます。愛されて育つ家庭の子にとっての初期条件を、まわりくどい愛情表現であると予想される施設長の暴言やらなんやらを経由してたくましくならないと、手に入れてはいけないのでしょうか。「自立した大人になるための壁」に比べても、「愛情を得るための壁」はあまりにむなしいです。そうまでして描きたい「愛情」とは何なのでしょうか。

 今回の脚本監修である野島伸司の脚本はしばしば、「子ども」や「障がい者」を使って(あえて使ってと書きますが)世間の冷たさや露骨な悪を批判的に描こうとしてきました。その「子ども」や「障がい者」の使い方自体がナイーブなのでまったく賛成できませんが、視聴者が彼らに寄り添った目線になることで批判対象が浮かび上がるという構図ではありました。しかし、施設長は現実社会の厳しさを知っているから実は愛情ゆえに厳しく当たっていたという話だとしたら、何も批判したことになりません。世間の冷たさをなぞるだけです。「同情するなら金をくれ」がストレートに社会批判したのに比べて、「私らが親を捨てるんだ」は批判の焦点が親です。やはり捨てた親を批判して、施設長の愛の鞭で壁を乗り越えて愛情を得るという話なのでしょうか。どうも自分を優先して養育を放棄した母親やら、里親失格の「お試し里親」(※そんな制度はありません)やら、愛していても育てられない親が出てくるので、親の愛情とは何かという問題意識はある気がします。だとしたら、制度の趣旨も中身も勉強不足であるという批判に応答せねばならないでしょう。

 また、「大人が一見権力的だったようで実は…」という、「大人の権力」対「子ども尊重」という問題かに見せかけて、実はそういう図式で見てしまう最近の教育像を撃ちましたという「女王の教室」に比べても、実は社会批判をしましたでは、そもそも「大人の権力」対「子ども尊重」と見せかける必然性がなさすぎます。抗議に対して、日テレは当初、いわば「子どもの視点で子どもの力を描きたいからいいでしょ!最後まで黙ってみてなさい!」とでも言い換えられる回答をしました。この回答自体が、「子どもの視点」や「子どもの力」を描きさえすれば、「大人の権力」や「社会の厳しさ」を撃つことになるという、「大人の権力」対「子ども尊重」の図式に乗ってしまっています。繰り返すように「女王の教室」を特に評価するわけではありませんが、それに比べても、この応答には「まあ見ていてください」と言うだけの賭け金はありません。

 長々書きましたが、つまり、「明日ママ」はストーリーも抗議への初期対応も色々とピンボケなのです。それはおそらく、児童養護施設という福祉(愛情も含めた「子ども」であることの初期条件の不平等)の問題を、「子ども/大人」関係という教育(社会化)の問題系に引きつけて解こうとしたことに収斂します。そこを勘違いしたから、抗議への対応も誤ったし、話もつまらないのです。

 個人的には、「女王の教室」の試みも子どもの教育をめぐるありがちな対立のひとつにすぎないと思いますし、「子ども」を社会批判の拠点に使うというのも使い古された手だと思います(拙著参照)。そうして「子ども」なり「大人の教育意図」なりを本質化してしまうことの問題も考えるべきです。とはいえ、では「脱学校」しましょうともいかない以上、現時点でどういった教育が妥当かは議論し続けるしかないですから、教育ドラマは、先生がヤンキーだったり極道だったり女王だったりといった奇を衒った設定も含めて、色々描けばいいと思います。

 ただ、児童福祉のドラマは、教育ドラマほど蓄積がありません。そもそもどういう制度なのか、どういう施設なのかという「常識」すら共有されていない領域です。ならば、奇を衒った設定ではなく、正攻法で奮闘する現場を描けばよかったと思います。残念ながら、それで十分社会批評になるのですから。単に、児童福祉がどうあるべきか、その目的をどう設定し大人は子どもの処遇をどのように行うかについての問題提起をしたいのであれば、そもそもその外堀の問題をもっと勉強すべきです。

※もちろん、ストーリーについては、この予想がそれこそ陳腐で、もっとあっというような展開があるならば、それに越したことありません。


【追記】 2014/03/03/17:30

1月前の記事が発掘されて拡散していることに驚いているのですが、いくつか拍手いただきました。ありがとうございます。

その中に、実際の養育里親の方のコメントがありました。
大意としては、<児童養護施設を舞台にする必然性に乏しく、ならば完全なフィクションの舞台にしてほしかった。施設を描くならば、綿密な取材で実際の子どもたち機微に触れる青春ドラマをつくってほしかった>ということです。

本当にそう思います。どうもありがとうございました。



「ゲン」という負荷。

2013-08-26 16:05:05 | 考えごととか。
話題の(?)『はだしのゲン』を読んだのは小学校高学年のとき。多くの例にもれず、学級文庫で、である。

感想は、とにかく「ざわざわ」した、であった。

被害の描写は、(正直に書けば)気持ち悪かった。それが残酷描写だからではなく、事実(よりおそらくマイルドに書いてあるもの)であったからだ。戦争の悲惨さなどという言葉では回収できない、どうしようもなく「気持ち悪い」と思ってしまうことの気持ち悪さのようなものを、解決できないものとして植えつけられた。ちなみに、私にとって広島は他人事ではなかった。

閲覧制限の根拠となっている問題になっている後半は、別の意味で気持ち悪かった。子ども心に、急速に強い政治的主張を持ったものへと転回していくことが読みとれたからであり、それを読ませたい若い教員の思想も感じたからである。後半への飛躍については、態度を保留せねばと(当時は別の言葉で)考えたものだ。(その点で、結局2部が書かれなかったことは、残念である。)

以来、「ゲン」は、私にとって答えのないものである。

だからこそ、「ゲンだから」という視点からの議論にはどちらも違和感がある。議論にまた「ざわざわ」した。以下の意見が、おそらく一番近い。一書を特別扱いした閲覧規制に反対、それで十分である。


ジャーナリストの藤代裕之さんは、閲覧制限への反対論が「世界的な名作」「平和教育に有用」といった「ゲン」が重要な作品であることを軸にしていることを指摘。「評価に関わらずある作品を特別扱いすることのほうが問題ではないでしょうか」と疑問を投げかけ、賛否どちらにしても特別扱いするのはよくないと論じています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130823-00010002-wordleaf-soci&p=2


文相が、「教育的配慮」の名のもとに、閲覧制限を正当化した事実についても、「こども」の表記問題と関係しつつ気になっているが、意見がまとまらない。

ただ、ここのところ、忘れられていた「戦線」を再度強調するような動きが続いていることは事実であり(「子供」「子ども」については、歴史が捏造されている気もする)、線引きを不用意になぞる立場からの反論は、個人的に留保したい。



「子ども」語りのアンバランス。

2013-07-01 17:01:30 | 考えごととか。
みたいなことを最近考えています。

ここのところ書いてきた歴史の話は、
「子ども」を語る領域の近隣で「子ども」の語られなさを描くという
プロジェクトみたいなものなのですが。

21日にはそんな話をしてきました。まとめる余裕がないので、リンクで失礼。
http://www.meijigakuin.jp/information/#20130628

29日の日本子ども社会学会でもそんな話をしてきました。


揺れる線引き問題と線への信憑の揺れなさ。

2012-04-15 21:03:23 | 考えごととか。

4月11日クローズアップ現代
18歳は大人か!? ~ゆれる成人年齢引き下げ論議~

ふわふわしたテーマに挑んだこの回。
実は見そびれてしまったのですが
テキストで見る限り、タイトルがおかしい気がしました。

大人という文学的な概念を打ち上げて、
副題で成人年齢の話にしぼるのは
テレビとしてやむを得ないとしても、
中身も、成人年齢引き下げの話から入りつつ、
すぐに話題は投票年齢の引き下げに絞られます。
さらに、若者の政治参加や世代間格差の話になって、
そのためのシチズンシップ教育の話から、
子どもの参画の話に流れて行きます。

最後まで来ると、
1歳2歳線引きを上下させるという問い設定とは
重なりそうでそうでもない話になってしまうような。

とはいえ、大人、成人、投票権、社会参加→そのために教育
という連想自体は、今わりとありがちな発想のうな気もして、
その意味では、ふわふわっとした世の感覚を
そのまま反復しているという気もしました。

「一人前扱い」と「それ未満」の線引きは、
制度によっては必ずしも20歳ではなく、
色々ずれがあるとわかってるのに、
それを「未熟/成熟」「子ども/(若者)/大人」という
ざっくりした問いにまとめたがり、
解決はまとめて教育に期待する、
というこの一連の思考の流れ自体が、
線引きを上げる下げるという論点での議論の揺らぎとは別に、
全然揺れてないところのような気がするのです。

言葉になってなくてすみません。備忘でした。



「コネ」批判について。

2012-02-11 23:54:01 | 考えごととか。
採点類に忙殺されている間に古くなってしまったかもしれない話題について、まとまってないのですが、とりあえず書き留めておくことに。

 岩波書店が「コネ」を応募条件にしたという話題が駆け巡りました。当該応募条件は、「岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」というものです。私は、これが「コネ」とレッテルを貼られてかなり批判されたということが気にかかりました。
 たしかに「親の伝手」とか「役員の口利き」だと、世代間での不平等の再生産が行われていたり、明らかな機会の不平等が生じていたりすると言えるかもしれません。しかし、ここでは、紹介状のもらい先が著者まで広がっています。学術出版という特性を考えた場合、自分が入りたい出版社でよく仕事をしている著者とすでにコネクションがあること、大学や講演会という場を利用して積極的にコネクションをつくる力は、肯定されるべき「職能」と見ることはできないでしょうか。
 昨今、「コミュニケーション能力」や「社会関係資本」がもてはやされ、それらや専門技能を早くから身につけさせるような「キャリア教育」が推奨されています。それと比べたとき、それを早くから見につけた証と見ることも可能な、「職業上必要な人脈」があることが、「コネ」として反発されるということは矛盾しているようにも見えます。
 もちろん、企業の本当の意図はわかりませんし、中途はまだしも新卒の一介の学生が紹介状を書いてもらうということのハードルの高さを考えれば、やはり相当絞り込んできたという印象はあります。しかし、報道に接して私がとっさに気になったのは、企業の真の意図がどうだったかではなく、これはコネなのかコネでないのかを同定することでもなく、世論が(厚労省も)「これはコネではないか」と強く反応したということ、そして、それと「キャリア教育」などの論調の関係です。

 今回の「コネ批判」を「学歴社会批判」と重ね合わせても、どうやら私たちの社会は、規範として、ある段階の選抜において前の段階で手に入れた既得権益がちょっとでも紛れ込むことを不平等だと感じるようです。それが当人の努力の結果(業績)だろうと恵まれた生まれや環境(属性)によるものだろうとそんなことはどっちでもよいのです。(著者に知り合いがいることは、恵まれた生まれによって人脈に恵まれたからかもしれませんし、努力によって人脈をつくりやすい大学に入ったからかもしれませんし、全くの努力で知り合いを広げていったからかもしれません。)
 一方で、近年さかんに主張される「キャリア教育」をしようというムードや、「就職力」キャンペーンは、むしろ教育と職業世界をより密につなごうという試みです。職業世界で要求されるものと何ら関係ない学歴で選抜するよりも、そのほうが望ましいと思われているわけです。つまり、教育と職業世界をつなごうとする議論と、(教育に限らず職業世界以前の条件は何でも)切り離そうという議論が同時に主張されていることになります。
 とはいえ、これは必ずしも矛盾しているわけではありません。教育の社会的機能は「社会化」と「配分・選抜」であるというのが教育社会学のベーシックな議論ですが、それを踏まえると、現代ではどうも、学校は職業的社会化をしてほしいが、職業的な選抜自体は「無知のベール」をかけて企業が独自にやってほしいという、教育と職業世界の関係性に関する理想像が広まっていると整理できそうです。
 それはある種公正な社会とも言えますが、教育現場はなんでもかんでも期待され、企業は企業で高コストの選抜を行わねばならないということも意味します。学歴主義に基づく選抜と新卒一括採用・終身雇用というしくみは、1つの負担回避の形だったわけですが、90年代後半以降それが大きく変わってきています。すでに多くの専門家が指摘しているように、昨今、就職市場が変化し、多くの学生と企業が、リクナビやマイナビなどのかなりオープンな就職市場で、双方多大な負担を追いながらマッチングを行わなくてはならなくなってきています。今回の世論の反応は、この実態と相互に影響し合いながら、教育と職業のつながれ方に関する「職業的社会化はしてほしい、選抜は無知のベールで」という理想論が、従来より強い力を持つようになったということも示唆しているような気がしました。

 岩波の出した条件の当初の目的(あくまで公称)は、少数の採用枠に多数の応募者が殺到する事態を避け、採用活動の負担を軽減するためだったようです。それは実態に対する1つのアプローチであり、それはそれで合理的だと思います。もちろん、世論の趨勢を読み違った感は否めないでしょう。ただ、実際のところどういう選抜方式が「まし」かは、まだまだ議論の余地があると思います。



「不正」って何さ?

2011-06-10 14:20:01 | 考えごととか。
きっとすぐ改善策がとられ、out of dateな話になるでしょうし、
以下の情報が正しいならば、という話ですが。

「2科目受験し解答時間を倍に…センター試験で“裏技”発覚」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110610-00000503-san-soci
産経新聞 6月10日(金)0時35分配信

――大学入試センターでは「そうしたやり方を本当に受験生がやったら不正だ」としながらも、「不正が可能な制度であることは間違いないが、試験の実施方法の変更は考えていない」

――同センターは「試験の際に不正を行わないように徹底し、不正があった場合は受験を無効にする」としているが文科省は「1科目選択の大学の場合は、(不正ができない)1科目目を採点するなど、防止策を入試センターと大学側で協議してほしい」としている


うーん。
私に妙にプラグマティックなところがあるからでしょうか? そもそも、制度が可能にする「工夫」を「不正」と呼ぶのがいいのかという疑問が浮かびます。税金を納めないのは「不正」だけれど、制度の範囲で節税するのは「工夫」というか、むしろ節税対策をしていない経営者は嗤われます。それを精神論に落とすのはいかがなものかと。
「クラスルームの正義論」とでも言いましょうか…。

「工夫」が試験の基本原則である「時間の統一による公平性」にもとるならば制度がおかしいわけで、さすが制度の網の目でいろいろ通すすべを心得ている官僚(文科省)の要請はごもっとも。

(でも、1科目目採点にすると、本当に2科目真剣に受けた上で、1科目でいい大学に出願する折はよかったほうを使おうと思っていた受験生の選択肢を狭めることににはならないのかな? 
みんな2科目で2時間になればある意味公平のような気もしますが。まあ、2科目本気受験の人と1つは捨て科目という人でたしかに不公平は残るかな。特に計算などがある理科。
なんか出口なし…。
ちなみに、得点調整に影響を与えるという話は、今も念のため受けているだけの受験生も入っているわけだから、捨て科目受験も込みで得点調整制度が安定することもありそうな気もしますけど、こちらは素人考え。)



臓器移植の話で気になっていること(その2)。

2011-04-13 19:55:50 | 考えごととか。
ついで、こっちのが本職に少し絡みますが、「初の15歳未満の脳死移植」でひっかかったことです
        

(前提)
・2010年の法改正で15歳以上という年齢制限が撤廃された。
・と同時に、本人の意思表示前提から、年齢に関係なく、意思表示がなくとも家族の承諾で臓器提供ができることになった。
(参考)臓器提供とは(臓器移植ネットワーク)→http://www.jotnw.or.jp/donation/index.html

昨年の臓器移植法改正の1つの目玉は、15歳未満の臓器提供を可能とすることだった。というよりも、報道はほぼ一貫して「子どもの臓器提供の可否」をめぐってなされていた気がする。難病で臓器が欲しい子やその親と脳死のまま生き続ける子を育てる親の姿がさかんにテレビで流されていた。子どもをダシに「どっちがよりかわいそうか」という話になってしまっている陰で、こっそり、大人の方にも「日本人の死生観」と言われていたものを180度転換するような大転換が行われたといった感が強く、「日本人の子ども観」の方が問題だなと思ったりもした。

さて、今回(2011年4月12日)、初めて15歳未満の脳死移植が決定され、無事終了と報道されている(13日、でも実際に子どもに移植されたのは心臓だけらしい)。不思議なのは、「本人の意思に反していなかったか」「家族はどの程度意思を把握していたか」という論調が(どちらかといえば、推進推進!というタイプではない側から)ちらほら見られること。

実は、15歳未満は、法改正後、「提供したくない」という意思表示はできるようになったが、「したい」という意思表示はできないのだとか(今日まで知りませんでしたすみません)。元々15歳で区切られていたのは、民法上遺言可能な年齢とそろえているらしいのだが。(なんで「したくない」だけありなの?という気もするが。「したい」の方が普通ではない強い意思決定だから、判断力が未熟な子どもがそう言っても大人は「いや待て」というべきだが、逆に「したくない」と言っておかずに大人の勝手で提供されちゃうとまずいということだろう。そこは次の話にも関係する。)

では、なんで意思表示できないことになっている人の意思をくんでいたかどうかが議論されないといけないのか?とその辺に子どもをめぐる難しさがある気がする。法律上、どこかで線を引く必要があるので、便宜的に15歳で線が引かれている。それに対して、実際には本当に意思がゼロだとはみんな思っていない。そのため、きちんとは表示されなかったがそこここで表示されていたかもしれない「意思」に、家族(親)が気づいてあげられていたかが、成人同士のとき以上に問われてしまう。

同形の問題は、「子どもの権利条約」の12条「意見表明権」等をめぐっても指摘できるが、「未熟だけど確かにそこにある意思」をめぐってそれを汲み取るように配慮しなくてはいけない人(たとえば親)には、無限の負荷がかかる。「ええいままよ!」と決めてしまえば「親の思い込みだ!」と糾弾されるが、まじめに「本当にこの子の意思か?」と考え続ければ身が持たないからだ。結局、「ええいままよ!」と決断をせまられた挙句、本当によかったのか?という問いを背負わなくてはいけなくなる。

もちろん、成人間でも基本的に同じなのだが(その1参照)、「カード等で明確な意思を表示していなかった」ということ自体が情報にはなるとは思う。意思表示の機会が増えれば増えるほど、意思表示していなかった時点でどうされても文句言えない(まさに死人に口なし)ということもできるかもしれない。それに対して、子どもの場合は、原理的に「未熟にしか意思表示できない」とされているところに難しさがある。

今回は特に10歳を超えていたことで、「少しくらい本人も考えているかもしれない」という直感が働いてしまう。法の設定と通念の間にも若干のずれがある年齢層であったことがさらに話を難しくしている。

いずれにしても、10歳未満の子の例ばかり報道されていた法改正時にはあまり議論されなかった「子どもの意思の代理」という問題が、ふわっと出てきてしまった気がする。
        

あーあ書いてしまいました。ここは議論はしないつもりで、ですます調で始めたんですけどね。



臓器移植の話で気になっていること(その1)。

2011-04-13 19:24:56 | 考えごととか。
この問題完全に素人なのですが、「初の15歳未満の脳死移植」といことを契機に、去年から気になっていることを備忘的に書きます。
        

(前提)
・1997年の制度導入の時点では、「提供したい」という強い意思表示がなければ提供はできなかった。
・2010年の法改正で、「提供したくない」という強い意思表示がなければ家族の承諾で提供される。
・97年の法施行から現在で、意思表示があった脳死移植が89例。
・改正法施行の昨年7月以降、本人の意思表示のない場合の脳死移植が39例。

昨年、移植の方針を「原則なし」から「原則あり」に180度転換するような法案が、かなりさらっと決まった時点でものすごく驚いた。さらに、「誰かを救うことになれば」「臓器だけでもどこかで生きていてくれれば」といった家族のコメントとともに、それまでより格段のスピードアップで脳死移植が行われ始め、導入時に、「日本人の死生観」云々いって反対していたあれはなんだったんだろうと思ったりした。(「Mottainai精神」だってとても「日本的」!)

でも、新ルールはなかなかヘビーだ。臓器移植したいにせよしたくないにせよ、意思表示をするというのはかなり強い個人を前提としている。本人が決めていないものを、なぜ家族が決められるのか。家族の同意方式は米加豪などらしいが。家族も「決められません」と言ったらどうなるのだろう?

ちなみに、私などすっかり決められなくなっているので、身内がいいようにしてくれたらそれでいいと思うのだが(現時点で)、それは甘えというか決断の負担を身内に背負わせることになってしまう。いっそ「サイコロで偶数が出たら提供で、奇数が出たら拒否でお願いします」とでもしようかとも思うが(笑)、今のカードはそういう曖昧な意思表示ができない。どっちでもいいけど家族にだけは決めてほしくないという「意思」だってあっていいと思う。

欧州の一部が採用する、拒否の意思表示がない場合は頂戴します(推定同意)という制度はすっきりしているけれど、お前の意思を社会が決めてやるということのような気もして、それもちょっとやりすぎというかさすが「一般意志」とか言ってるのお国という気がする(家族の裁量範囲は国による)。提供意思がなければも提供しないというのも、社会が決めるという点で一見同じに見えるが、技術がない時代は「提供しない」が「自然」だった点で少し意味が違う気がする。推定同意方式の国では「拒否するのは変わり者で提供が自然」までいってしまっているのだろうか?素人なのでよくわからない。

少なくとも、そこまで行っていないが、移植という技術が存在し、需要(移植を待っているレシピエント)があるという状況である限り、「どっちにしますか?」という問いに意思表示は潜在的に私たちを取り巻き続ける。決められない場合は、家族か社会が決めねばならない。それが法の次元で起きた話。

ただ、現実問題として、その決断を迫られないまま(脳死にならないまま)死ぬ人がマジョリティだ。加えて、現在の日本では128例の「例外」を除いて「提供しない」がデフォなので、本人の意思表示がなければ、家族が「提供したい」と強く意志表示しない限り(しかも「家族」も一枚岩ではないので近親者満場一致でない限り)提供されないだろう。結局、法の論理は潜在的に意思決定をせまるが、現実問題としては「こんなもん」。だから法改正もするっと決まってしまったのかも。

そんな、潜在的に私たちを取り巻いてしまったけれど、殆どの人が潜在的なまま曖昧にやりすごしきれるかなり強烈な意思決定に、本人不在の中で家族が唐突に巻き込まれるというのが今の状態で、その強い負荷がかかった言葉が「誰かを救うことになれば」「臓器だけでもどこかで生きていてくれれば」ということなのだと最近ようやく納得した。

でも、それが流通し続ければ人の意識(「日本人の死生観」?w)も変わっていくし、法改正後、保険証・免許証と意思表示をせまるツールがじわじわと増えている。自分が決められないものを自分の身内に迫ることはできないよなあと思うと、意思表示しとくかという気もしてくる(でも、法の次元とはいえ意思表示をせまられる構図自体にまだ納得いっていないので、やりすごしきれたらいいなあとも思う)。
(参考)H20の「意思表示」に関する世論調査結果→http://www.jotnw.or.jp/studying/29.html

何が言いたかったかというと、結局、「日本人の死生観」という話でも、「意思がないのに提供する方に転換するなんて怖い(ひどい)」という話でもなく、モノと言葉が互いの布置の中で相補的に変わってということが、移植技術、法、カードなどの小さいテクノロジー、家族にかかる負荷といった条件のなかで、ぶわーっと行われてるところなんだなという(結局何も説明できていないような)形で、昨年から起きていることに少し納得したということ。