第2弾です。なんていうか、学校とは?みたいな「教育社会学」の授業を、空間のない学校で虚空に向かって話すという不思議な状況となり、その結果が時差で熱心なコメント課題と大量の脱落者という形で返ってくる中で、色々考え吐き出さざるをえなくなってしまっているという感じです。
二極化傾向
新興感染症という外圧により、誰も何も準備をしていないまま各大学がオンライン化に踏み切った当初、心配されたのは、通信環境(Wi-Fi、PC等)のない学生へ配慮すべきという点と、大学全体としてのサーバーの維持や社会全体としての通信速度の維持が可能かという点だった。その結果、双方向授業は避けたほうがいという空気が醸成され(大学によっては明示的に指示があり=明学は指示あり)、オンデマンド配信で課題を回収するという形が標準として推奨されることとなり、学生は課題に追われることとなった。(通信環境の問題は、結局、学生側も必死で整えたうえ、各大学が貸し出しシステムや準備金を出したため、比較的なんとかなってきたはず。)
このしくみを満喫して、通学の負担なく、動画を何度も戻したりして深い学びができていることを喜んでいる学生もいる。しかし他方で、受講に楽しみを見いだないのか単に手が回らなくなっているのか、脱落している学生もいる。
そして、オンライン講義では、対面講義以上に後者の学生の姿は教員からは見えない。高校までと違い、自主管理が多く求められる大学の場合、対面講義でも、本当に来なくなった学生の姿は見えない。ただ、授業は実質的に脱落気味だがサークルの部室などに登校している人というのは昔からいるし、最近では、なんなら出席をとらない授業なのになんとなく友達と座っていたりする学生もかなりいる。大学すらも準義務化してきている(少なくとも大学入学層の多くにはそう見えている)なか、大学の学び自体に意義を見出していないがやめることもしない層はおそらく年々増えている。そういう普段は何とか見えている人たちが、教員から見えない。(課題提出状況が鈍っていくことだけがわかる。)
空間共有機能が失われた学校
そもそも学校の役割とは多義的だ。知識伝達機関、社会化機関というのが最小限の定義だろうが、実際はそれ以外の色々な役割を付随させている。とりわけ、オンラインなどというものが存在しない時代の制約のなかで、同輩集団を長時間、物理的空間に押し込めるというしくみが作り上げられた結果、そこでのインフォーマルな悲喜こもごもも付随するのが学校となった。
そして何なら、その部分に学校の本質を見出す教師や生徒もいた。日本の学校お得意の集団活動など本当にそれ。「友達に会いに行くのが学校」「部活のために行っていた」「思い出は宝物」みたいな感覚もそれ。当然それらが嫌で嫌で仕方なかった人も生んできた。
オンライン講義、特にオンデマンド型の授業の場合、この色々な部分がよくも悪くもそぎ落とされてしまった。その結果、学校に、知識伝達以外の多義的な部分でつなぎとめられていた層の脱落傾向が加速している気はする。
加えて、意欲の湧かない授業をなんとかやりすごす技術が伝承されにくいのではないかと思う。私の授業では、昨年までもパワポでしゃべり、コメントを事後にLMSで提出してもらう方式をとっていたので実質的な受講負担はほとんど変わっていないのだが、今年は、脱落者が例年よりあきらさに多い一方で、出される課題はそんなにがんばらないで!というものばかりとなっている(①参照)。それはつまり、例年、授業に出ずに/をよく聞かずに適当なコメント返すことをしてきた層が、続々と脱落しているからだと推測される。フーコーのパノプティコン論の肝は、規律的態度とともに同時に逸脱的態度も生むというところだという読み方に賛同するが、学校は、聞いているふりをして座っている態度とか、友達と騒いで悪さをする生徒文化といったものも多々生んできた。こういう「やりすごし術」が、課題応答が剥き出しになる形態かつ、逸脱文化の伝承がなされづらい孤立化状況だと、使いづらいのかもしれないと思う。
もちろん、趣味や自己啓発に位置付けられる他のオンライン受講サービスとは異なり、大学には「学位(学歴)付与」の機能があるので、まだつなぎ留まっているとも言えるだろう。しかし、コロナ関係なく、時代ははもはやオンラインは是か非かという段階でもないだろう(日本の学校のICT化の遅れは世界的には恥ずべきレベル)。今後、小中高も含めて、何が学校の役割か(というそもそも存在していたはずの問題)が改めて問われ、多様な解が見つけられていく必要があるように思う。
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