第7回は、幹事離脱中で参加できなかったので、これで最後です。第1~3回の記録は、カテゴリーをさかのぼってください。
第4回:「子ども」の本質論をどうずらすのか(子どもの身体・発達・能力をどう見るか)
本質化のメカニズム
虚構性=擬制性としての本質論という視角
身体の実体性and/or子どもらしさという想定に基いた本質論:発達という生物学的・心理学的想定
言説と実態が結びついて制度が回り、その周りで議論が振り子のように繰り返される中で、「本質的な子ども」が可視化される
歴史ビジョン
一枚岩の「子ども」像の広がり(擬制性の忘却)=子どもの本質視のひろがり→一方で多様な子どもを知っていながら、驚く時代へ?(「非行」「逸脱」として道徳化小学生の飲酒、子どもの貧困等々の問題化)
「子ども」と隣接カテゴリー(「児童」「男児」「青少年」「学生」等)の関係性の追尾の必要:「子ども」の爆発は80年代
生物学的身体の問題
生物学的な身体があるとして、そこに本質を見る必要はない:小ささや脆弱性に「保護すべき」等の意味を加えているのは社会(教育的論理等の言説)
認識と物体が同時成立するものとして「子ども」を捉えていく必要性
子ども/大人をめぐる本質論を崩していく際に、アクターネットワークという究極の一元論の使い勝手のよさ/実証的記述にあてはめたときに、結局「子どもの誕生」になってしまう恐れ
多様性・複数性・複層性を考えるには、多様なネットワークの並存や衝突といった視角も必要?(システム論的な視角)
本質論(身体、子どもらしさ等)が浮かび上がるメカニズムを見せていく戦略
方法論
制度水準の議論のフォローしやすさ/零れ落ちた世界へのアクセスの難しさ→一枚岩の制度の誕生と、多様な生活世界という図式に終わらない記述の難しさ
制度の水準でも矛盾があると見せる戦略も現時点では効果的
点と点とその間を見せていく戦略、多様な線を追っていくような戦略:一人ではなく協同的に
=言説の全体を集める戦略の不可能性を自覚しつつ、秘儀化しないために、制度等の枠にのった言説を見つつ、複数のそれを重ね合わせることで多様性の一端に触れていく
多様性の記述を積み重ねていく必要性と、必要悪として、各記述の目的としての認識論的な議論を抱き合わせにしていく必要
「健康」という切り口:発達の保護・予防等の観点から「子ども」にまず網をかけてくる
「子ども」と治安・安全・道徳という論理の結びつきやすさも注視が必要(教育・しつけの論理、パターナリズム)
正義や倫理という問題
構築性への直感的・現場的な違和感(目の前の子どもをどうするんだ!)に丁寧に答えていく必要
「本質」は「逸脱」「失敗」を生む
構築性という視角の正義と倫理:「子どもとは」「子どものため」という本質論を回避していく、迂遠な議論こそが、ひとりひとりの生きやすさにつながっていくのでは?