近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

第4回子ども社会学若手勉強会、報告。

2017-03-21 20:17:11 | 子ども社会学勉強会とか。

第7回は、幹事離脱中で参加できなかったので、これで最後です。第1~3回の記録は、カテゴリーをさかのぼってください。


第4回:「子ども」の本質論をどうずらすのか(子どもの身体・発達・能力をどう見るか)

本質化のメカニズム

虚構性=擬制性としての本質論という視角

身体の実体性and/or子どもらしさという想定に基いた本質論:発達という生物学的・心理学的想定

言説と実態が結びついて制度が回り、その周りで議論が振り子のように繰り返される中で、「本質的な子ども」が可視化される

 

歴史ビジョン

一枚岩の「子ども」像の広がり(擬制性の忘却)=子どもの本質視のひろがり→一方で多様な子どもを知っていながら、驚く時代へ?(「非行」「逸脱」として道徳化小学生の飲酒、子どもの貧困等々の問題化)

「子ども」と隣接カテゴリー(「児童」「男児」「青少年」「学生」等)の関係性の追尾の必要:「子ども」の爆発は80年代

 

生物学的身体の問題

生物学的な身体があるとして、そこに本質を見る必要はない:小ささや脆弱性に「保護すべき」等の意味を加えているのは社会(教育的論理等の言説)

認識と物体が同時成立するものとして「子ども」を捉えていく必要性

子ども/大人をめぐる本質論を崩していく際に、アクターネットワークという究極の一元論の使い勝手のよさ/実証的記述にあてはめたときに、結局「子どもの誕生」になってしまう恐れ

多様性・複数性・複層性を考えるには、多様なネットワークの並存や衝突といった視角も必要?(システム論的な視角)

本質論(身体、子どもらしさ等)が浮かび上がるメカニズムを見せていく戦略


方法論

制度水準の議論のフォローしやすさ/零れ落ちた世界へのアクセスの難しさ→一枚岩の制度の誕生と、多様な生活世界という図式に終わらない記述の難しさ

制度の水準でも矛盾があると見せる戦略も現時点では効果的

点と点とその間を見せていく戦略、多様な線を追っていくような戦略:一人ではなく協同的に

=言説の全体を集める戦略の不可能性を自覚しつつ、秘儀化しないために、制度等の枠にのった言説を見つつ、複数のそれを重ね合わせることで多様性の一端に触れていく

多様性の記述を積み重ねていく必要性と、必要悪として、各記述の目的としての認識論的な議論を抱き合わせにしていく必要

「健康」という切り口:発達の保護・予防等の観点から「子ども」にまず網をかけてくる

「子ども」と治安・安全・道徳という論理の結びつきやすさも注視が必要(教育・しつけの論理、パターナリズム)


正義や倫理という問題

構築性への直感的・現場的な違和感(目の前の子どもをどうするんだ!)に丁寧に答えていく必要

「本質」は「逸脱」「失敗」を生む

構築性という視角の正義と倫理:「子どもとは」「子どものため」という本質論を回避していく、迂遠な議論こそが、ひとりひとりの生きやすさにつながっていくのでは?

 


第8回子ども社会学若手勉強会、報告。

2017-03-21 16:33:38 | 子ども社会学勉強会とか。

※この会は、児童福祉分野における子どもの語り方という点をもう少し議論すべきだったなあと思うのですが、指定文献がおもしろくて具体的な子どもに関する「問題」の語られ方の歴史ビジョンの話が続きました。

第8回:「児童福祉」における子どもを考える

刑罰・医療・福祉・教育が未分化の時代→離合集散していく歴史(保護複合体の系譜学?)

大正から昭和に起こったこと:教育への包摂・児童労働の禁止/感化法→少年法(刑罰の分離)/見世物小屋規制(動物・児童「虐待」)→貰い子殺しとの出会い→児童虐待防止法≠現代の児童虐待問題/児童保護法・少年教護法・母子保護法→戦後の児童福祉法

戦後日本を特徴付けるのは、学校教育を通した「子ども」という規範の浸透

 

現代の「児童虐待問題」につながる糸の発見、「浮浪児問題」とのミッシングリンクをつなぐ「ホスピタリズム論」)

「○○問題」と「××問題」(例えば「浮浪児問題」と「児童虐待問題」)がつながるという発見をするには、ある視点を固定して見なければいけない、その功罪

ドンズロ(ドゥルーズ)的に複数の線を追って記述の可能性?⇔全言説を集める

メディア言説を見る/専門家言説を見る/児相などの収容先振り分け実践をしている機関を見る


戦後日本の浮浪児と現代インドのストリートチルドレンをめぐる語りの相似/実践の違い(施設収容/家族に戻す)→「子ども」という規範が成立しているか否か?

「子ども」という規範の成立・揺らぎ等を横目に見ながら、具体的な実践を見ていく必要?

 

 


第5、6回子ども社会学若手勉強会、報告。

2017-03-21 02:28:47 | 子ども社会学勉強会とか。

ずいぶん前の議論になります。また、基本的に家族社会学の方々に教えていただいた形になるうえ、6回は幹事Skype不調で半分しか参加できていないため、恣意的な切り取りになります。

第5回:家族論分野の子どもを考える① 第6回:家族論分野の子どもを考える②

前提
社会化の特権的担い手としての近代家族をどう捉えなおすかというテーマをめぐって、2010年前後から子どもに注目したいくつかの潮流があるらしい。

1)子育て主体を家族に限定しない育ちの形(子育て支援、施設養護等)
2)親子のペアを固定化しない育ちの形(養子、生殖医療、里親等)
3)子どもの側の個人化(選択性や自由)はありえるのか

「普通の家族」の子育て支援/養子・里親(非血縁家族)/社会的養護


施設という補助線

家族と福祉というテーマの分断:子育ての社会化という議論が家族問題としてなされている一方で、産みの親が育てない場合・施設養護は福祉の問題とされてきた

大人-子どもの境界線は、能力に関わるもの・親/子の境界線は、互いの関係性・役割がついてくる

学校を含む家庭の外部=タイムテーブルなど規律訓練の場&大人-子ども関係の場/家庭=親子関係の場 →施設=学校寄りの集団的な育ちの場?

家族が育ちの同心円の核にありながら、外の社会的・集団的な力を借りましょうという子育て支援(子育ての社会化)/核自体を集団的な場にする施設養護(子育ての脱家族化)


非血縁という補助線

養子や里親や生殖医療、それに関わる出自を知る権利をめぐって、血縁主義が強い/弱いといった日本社会論を崩していく必要性・現実に崩れていっている面(多様化/どこに向かっているかは未だ不透明)

血縁主義と法(婚姻関係にある者の子が子)のずれ、そこに加わる生殖医療(代理出産、非配偶者間人工授精等)

遺伝子レベルの知が入ってきたことで、血縁にまつわる親と子の境界線の線引きが細分化したり、政治化したりした


リベラリズムとケア

個人化論・リベラリズム的な家族の問い直し論は、依存という観点を組み入れられない、その最たる例が子ども

「ケア」という概念による既存の関係の攪乱可能性:支援者-非支援者(教師-生徒、親-子、大人-子ども等)を流動的・互換的に描ける

福祉の「支援」「ケア」と教育の「指導」のすれ違い、「支援」の論理の教育への浸透

人類学の知見の意義:家族は自然か構築かという問いを攪乱する

コンテクストや経路依存性を見ていく方向、エスノグラフィーと、ケア倫理・関係性論等の接合可能性は?

 

「子どものため」「子どもの尊重」「子どもの権利」「子どもの個人化」

「子どものため」の使い勝手:「子どもの<何のため>か」が曖昧で、「親のため」だったり、他の実践と差異化するためだったりもする。「子どものため」で差異を曖昧にして思考停止できてしまう

そもそも曖昧な概念だから掲げられている「子どもの能動的権利」(プラウト・リー参照)

権力的・従属的な関係性を問い直すという目的に対してスローガン的に持ち出されるが、何でも子どもが決めるべきと思っている人はいない:安全、責任等の問題系

どのようにして、そう見える状況が作り出されているかのエスノグラフィーという可能性/哲学的に議論していく可能性

 

 

 


第9、10回子ども社会学若手勉強会、報告。

2017-03-20 17:41:45 | 子ども社会学勉強会とか。

ずっとサボっていたのですが、研究会の議論のまとめを公開しようと思います。 9回10回は、子どもをめぐる新しめの話題から、子どもをめぐる言説や実践の現状を考えると同時に、子ども研究の課題や方法論について議論しました。

第9回:「子どもの安全」から考える

「子どもの安全」問題の語り口の変化:2000年代に、加害者より被害者がクローズアップされる:池田小の事件(2001)が1つめの転換点、2つ目は2005年(奈良・広島・栃木の事件の爆発的報道)→2010年前後に沈静化?(2011から「防犯」から「災害」にシフト?)

防犯パトロール:実践上、「見守り」が治安不安に対する「見張り」(非行の防止)に近接:「子どもの安全」という目的だけでは続かなくなり、「地域のつながり」のきっかけと捉えられる

防犯教育は、自分の身は自分で守れるようにとなる

子どもの自律的空間がなくなっていく動きと、自分の身は自分で守ろうという動きの並存(「管理の対象としての子ども」と「主体性を持った子ども」という矛盾?)

「道草」「秘密基地」というノスタルジー:上記矛盾が見せる夢?

それをナイーブな驚きや、「監視社会」「教育的」の広がりという暴露の物語ではなく、積極的に言語化できないか

「子どものため」の実践をめぐる多様性、右往左往を見ていく必要

一枚岩の子ども観が綻びて来ている現状=子どもの複数性に気づくこと、ではない→そこでどのような記述が可能・必要か(何が「子どものため」かという政治的・倫理的問題も含めて)

1つの切り口としての「地域」と「子ども」、「新しい公共」というような時代の

個別研究の積み重ねと同時に、必要悪と割り切って、「子ども研究」とか「多様性を見る」といった枠づけをしていく必要もある?

 

第10回:「子どもの貧困・格差」から考える

「子どもの貧困」研究/「子どもの貧困問題」研究のずれ:実態に統計指標等を用いて迫ろうとする研究/社会問題化過程についての研究

「貧困」という概念の近代性・普遍性:問題化能力⇔差異・多様性を消す力

それと「子ども/大人」概念の近代性・普遍性との関係:「子ども」の多様性に目を向けさせる力と、格差という問題に回収してしまう恐れ

貧困語りの政治性:近代国民国家、グローバルな支援といった外部からの目線による言語化

⇔消されてしまう現場(子ども)の「リアリティ」「声」「世界」:子ども自身も学校や支援団体から与えられた言葉で語る

家族規範や進学・就労という教育的論理が強調されることの功罪、見落とされている関係性等の問題

データの残らなさ:「○○施設」「××地区」等々のターゲットを絞った調査が回避される傾向(差別問題、現場の余裕のなさ)⇔普遍概念としての「貧困」の調査の意味と限界

「子どもの貧困」は「子ども」を照らし出すことになったのかどうか

「子どもの貧困」「子どもの安全」など「子ども」を「だし」にしたようなレトリックが広く日本社会に訴求するようになった2000年代以降の状況 ・社会問題化するときに、対象をカテゴリー化したり(「子ども」「児童養護施設」「ヤングケアラー 」等々)、普遍的概念を使ったり(「貧困」「排除」)して、その時代・社会に受け入れられるストー リーを立てる必要性→その功罪

そこにおける「子ども」概念の使いやすさ→それが一枚岩の「子ども」概念の固定化に向かう恐れ/ 多様性への気づきにつながる可能性

戦略としてどこか(対象、概念・指標)を固定していくことが必要悪か?それを本質化に向かわせな いことを前提に。

言説/実態、規範/実態、実践的/理論的の二元論の限界を感じる対象としての「貧困」

 

「ああでもない、こうでもない」という研究上の悩みに近いような議論は、理論・哲学の域に達しない多くの場合、まとめられることなく消えていきます。その結果、新規参入者は、なぜ上の世代はまともな議論をしていないのだといらだちながら、また一から同じことを考えることになります。その結果、何年も、代わり映えのしない「発見」が、積み重ねられないまま繰り返されることになりかねせん。

私たちは、この場に集うことで、ひとりじゃないことを実感しながら、拙い議論でも積み重ねてきました。 そこで、こういった研究会の性質上、拙い議論でも、こういう議論をしている場があるということを発信・共有していきたいと思っています。

※まとめ自体は、記録者個人の解釈と選択によるものです。

第4~8回の議論も幹事多忙につき、放置になっていましたが、順に公開していきたいと思います。

 


『これからの子ども社会学』。

2017-03-01 22:06:29 | お仕事とか。
ゼミ等の報告が学科公式ブログに吸収され、在外研究をはさんで絶望的に忙しかった結果、この過疎ブログは告知専用かのようになってしまっていて恐れ入ります。

Alan Prout, 2005, Future of Childhood, Routledgeの翻訳を出版しました。




言説(構築)性と物質性、自然と文化の問題を中心に子ども/大人、発達などの枠組みを問い直し、新たな理論へと練り上げようとする本です。
こういった問題設定は、ジェンダーや科学技術社会論では議論されつくしたものではありますが、それを「子ども」を対象とした理論研究として書き上げた点で、重要文献であり、ヨーロッパでは新古典となりつつある本です。

私は理論のみで論文を書ける研究者ではないので、資料に基づきつつ、「子ども」の見方について考え、書いてまいりました。
本書の議論に全面賛成しているというわけではありませんが、私が考えたいのと同じ理論的問題を理論として書ききった本として、本書を訳出することで次なる学術的議論につなげていけたらと思い、不慣れな作業を行いました。

ぜひお手にとっていただけましたら幸いです。
著者ではありませんが、書評等にはほいほい出かけてまいります。


なお、2016年度、色々なタイムスパンのお仕事が一気に形になっております。




なんか、1年くらい校正ばかりやっていた気がします。
2017年度は、締め切りに追われずに自由に調べものや考えごとをする潜伏期間にしたいものです。

※ついでにこれもよろしくお願いします。『これからの子ども社会学』を理論的に参照しつつ、戦前期日本の子ども観が一枚岩でないことを描こうとしています。子どもの身体が各状況・制度においてどう捉えられていったかなどにも注目し、単純な「子どもの誕生」「子どもの消滅」とは違う形で、子どもの近代を描こうとしています。