ケラリーノ・サンドロヴィッチ率いる、ナイロン100℃の新作「
百年の秘密」に、お誘いいただいていってきました。 初ナイロン。
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なんというか、大変都会的な芝居でした。現代演劇特有の「演劇的リアルとは何か」をめぐる表現技法へのこだわりがなく、映像を大胆につかって、ある種大衆的なモチーフをいかにスタイリッシュに感動的に見せるかに力が注がれていました。3時間15分の長丁場でしたが、あたかも厚めの大河小説を読み切ったあとかのような充実感で、劇場を後にしました。
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描かれていたのは、2人の女性の人生とその家族の物語。少年ジャンプ的な「友情」とは程遠く、秘密も裏切りも含みながら展開される、友情であり家族の大河ドラマです。
舞台は、妙に具体的に描かれた居間と庭。ただし、ポイントは、その中と外が、舞台の上にねじれて奇妙に共存するということ。この言葉では説明し難い舞台構成によって、描かれない部屋の中や家の外も想像させつつ、映像的にシーンが交錯していきます。
そうやってカメラを固定しつつ、物語は、12歳、38歳、死後、48歳、23歳、78歳…と時間軸を行き来しながら進みます。舞台同様に興味深いのは、この時間の飛ばし方です。いきなり人生が進んでいることで、ミステリー小説のように、観客はその間の時間への思いをはせることになります。そして、時間が戻ることで、貼りめぐらされた伏線が一つ一つほぐれていきます。この構成美によって、観客は舞台上で展開されるドラマに釘付けになるのです。
とりわけ、2幕で時間が行きつ戻りつすることで、「劇中人物は知っている過去を観客は知らない」という状況と、「観客は知っている未来を劇中人物は知らない」という状況とが混在し、謎解きに夢中になっているうちに、人生というものを考えさせられ、人生を超えた時間を考えさせられる構図は圧巻です。
さらにおもしろいのは、にもかかわらず、人生の分かれ道、歯車が狂う最も決定的な瞬間は、庭で起きた1つの重要な出来事を除けばあまり描かれないということです。それは、部屋の中や家の外の出来事、飛ばされた時間の出来事なのです。これらの空間的、時間的に「描かれない部分」が戯曲に深みを与えているように思いました。観客は描かれない部分の余韻を楽しむことで、さらに時間の奥行きを見つめることになるのです。
描かれたモチーフに新奇なところはないかもしれませんが、それを演劇でやったというところがすばらしく、非常に洗練された、良質なエンターテイメントとでもいうようなよい舞台でした。 このめまぐるしい時間軸の変化を演じきった役者にも脱帽です。
ただ、非常にクオリティの高い舞台だからこそ、日にちがたって思うのは、一番肝心なところで描きすぎてしまったのではないかということです。
この舞台の面白さは、個人的には、舞台を固定して時空間を行き来することで――より詳しく言えば、庭に家族が語りかける対象となっている楡の木を配置し、主人公たちの死後の家族の様子を描くことで――、人生というものの向こうにとてつもない時間の流れを感じさせることだと思います。2人の人生の秘密と、連綿と続く家族の物語の目撃者となることで、観客は、悠久の時間の側に身を置けるのです。
この構図を「台無し」にしてしまったと思ったのが、1つには、楡の木が意志を持つかのように描かれてしまった点。肝心なところで、この楡の木が人に共感したり、侵入者に怒りをもったりしているかのように、ざわざわしたり唸ったりするのです。楡の木は、人知を超えた時間の象徴なのだから、人知の側に歩み寄らないでほしかった…。
もう1つは、さらにまずいことに、「この楡の木は私たちの思いを受け止めながら、ここにずっといるのね」(うろ覚え)とでもいうようなセリフを言ってしまったこと。テーマをそのまま言うというのは、最大の禁じ手ではないでしょうか。
なお、これらの問題と関連するのですが、自分の中で処理できなかったのは、ナレーターの存在です。観客が役者の世界を俯瞰する立場に置かれている中で、飛ばされた時間とその間に起きたことについて説明する必要が生じます。小説であれば、地の文で済まされるこれが、演劇であるが故に問題となります。
この戯曲では、メイドを語り手にしているのですが、メイド自身が死んだあとの世界から、自分が死んだあとの事柄も含めて語ることになります。それがいいと見るか、やはり人知を超えた世界を具現化してしまっていてよくないと見るか、難しいところだと思いました。
私自身、人の主観や人生を超えた時空間というものに惹かれるからこそ、社会学やら歴史やらをやっているわけで、個人的にもツボにはまる非常に刺激的で良質な舞台でした。だからこそ、その一番肝心な部分の方法論が練り切られていなかったのが、消化不良の部分として、残ったのです。