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近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

新学期。

2011-04-02 21:14:48 | 考えごととか。
卒業生は、無事社会人第一歩を踏み出したでしょうか?

授業開始が連休明けになってしまいましたが、その分短くなった日程で授業をどうするのかなど、課題は山積みです。

ゼミ(特に4年)については、就活も山場が読めなくなってしまったし、5月まで放置でいいわけはなく、本来の授業開始の時期までに連絡したいと思います。

    

震災から3週間。あの日を境に世界が変わったとか、「戦後」が終わったという人もいるが、どうなんだろう。

原発のトラブルに伴う電力供給の問題は、多かれ少なかれ人々の生活に変化をもたらしつつある。よいシナリオとしては、生産活動の時間的空間的分散が進み、より地に足付いた生活様式が定着するかもない。悪いシナリオとしては、産業の東京離れ日本離れが進み、経済不況(おそらくは全体的な地盤沈下よりも下層の沈下による階層化)がくるかもしれない。表面上よいシナリオが進む陰で、切り捨てが起きるかもしれない。

ただ、阪神大震災のときも、焼け野原ような光景に「世紀末」を感じ、ボランティア活動や被災地域の団結に「新時代」を感じるという声があったが、時代の「屈折」ではあったかもしれなくとも、「断絶」ではなかった。今回もすでに私たちは「終わりなき日常」に戻っていきたがっている。

とはいえ、阪神のときと違うのは、「東日本大震災」というネーミングが示すように被害の範囲が広いこと、そして、放射性物質という未来の不透明さをもたらすものを伴って、電力というテクノロジーに破綻が起きたこと。その絶対的条件の下で、どのような言葉が紡がれ、何がどのようにゆるやかに変わっていくのか。その言葉が紡がれる場の中にいて、望もうが望むまいが言葉を紡ぐ作業に加わってしまう私たちは、どうしていったらよいのか。

「3・11」直後から、すぐに言葉を紡ぐ側に回る同業者に圧倒されながら、時評も社会構想も実動もできない自分は、せめて怪しいことを発信しないようにしながら、事務的仕事で身近なところを回すことに注力しながら、ちょこちょこ情報を収集しつつそんなことを考えているような考えていないような、「日常」というにはまだ浮ついている状態のまま新学期(笑)。


一応個人的には、3週間目に入って取り上げられはじめた「被災者の心のケアを」という言い方の中で、さらに「子どもの心のケア」が特権的な地位を与えているというところが気になるような気にならないような。

子どものためのサッカー大会でいつのまにか大人も参加していたという話を「クローズアップ現代」で見たが、年少者のほうが気持ちの整理や言語化が得意でない一方で、生産年齢の者は抱えるものが大きすぎる。回りに気をつかい感情をためこむ気質が強そうな地域だし(根拠なし)、ソフト面では少なくとも、年齢や属性で過度に区切らない思考が必要ではなかろうか。




大人エレベーター。

2011-01-09 20:15:45 | 考えごととか。
箱根駅伝中、サッポロビール「大人エレベーター」シリーズが
一挙に放送されていたのに、録画できなかったのが痛恨の今日この頃です。

これ、「大人」「成熟」とは何かを問いたい時代の感覚と
「大人の週末」「大人の科学」…と「大人」というキーワードが消費に
結びつく時代の感覚をうまく捉えたCMだと思います。

エレベーターで上に行ってみよう!という妻夫木くん(29→30歳)に
近い自分の年齢として耳に残るのは、
39階(クドカン、宮迫)の「ずっと子どもで来た」という話と、
46階(リリーフランキー)の「大人なんていうものは子どもの想像の産物で…」
「だって、もっとちゃんとしているはずだったもの…」という話。
ああ自分だけじゃないんだな・・・と(苦笑)。

でも、「大人とは」への回答も出していたりもするのがこのあたりの階。
「変わらないでいたいけど、変わったらしょうがないか」(39階)
/「捨てない足し算をしたい」(44階:スガシカオ)
/「いろんなイヤなことが待っています」(46階)・・・。
――想像していたのとは違うけど、そんな「大人」もいいなあ。

54階(勘三郎、Char)はどうも一段上の世界のようで、
「まだ子ども」とか「思ってたのと違う」などと迷いません。
妻「大人ってなんですか?」C「一言で言うと覚悟ですね」
妻「生きるってなんですかね?」勘「答えなんか出ない出ない。
出たと思ったらロクなもんじゃない」…。
――こういう境地の「大人」になれるといいなあ。

CMの中で「大人」がフィクションだと語られていても、
「大人エレベーター」という枠で見てしまう限りにおいて
エレベーターの各階にいるのは「素敵な大人」なわけで、
子どもの頃の想像とは違うけれど/違うからこその
「あこがれの大人」像を視聴者はそこに見ていくという…。
そして、そんな「大人」はサッポロビールを飲むのです!

「歳をとるって?」「生きるって?」というより抽象的な問いが、
「大人とは?」というカテゴリーの揺らぎをめぐる問いに
関連づけられてしまうということ、それが消費に結びつくということが、
「大人」というフィクションの現在なのかな、などと考えたりもします。

ただ、77階(仲代達矢)では、妻夫木くんは「大人って?」とは聞きません。
実際「子どものころと変わらない」とか「大人ってなんだろう」と考える
77歳にあこがれるかというと…。
同世代のビールの購入をさほど期待してるとは思えないし、
突然屋外になることも含めて、ここは大人エレベーターの「先」かな?

最近1本目が始まった25階(白鵬)も、
今のところ「大人とは?」という問いはぶつけられていません。
妻夫木くんより年下にはおよそ見えない横綱に、
「大人とは」という問いをぶつけてもなんかなあと思うわけで・・・。

「大人」というフィクションの揺らぎをめぐる問いや、そこに生ずる消費は、
小市民~そのあこがれの人くらいが適用範囲なのかな?

ついでに40代と50代の違いが年齢によるものなのか世代によるものなのか
どっちかなあなどと思ったりもしますが。

そんなまとまらないことを考えながらCMを見ていたお正月でした。
ちなみに、このCMを見ると、うまいビールが飲みたくなるらしいのですが、
ワタクシ、ビールは飲めません。
大人失格。



現代「子ども」事情?

2010-08-28 19:58:19 | 考えごととか。
マンションなので、郵便受けに
日々迷惑なビラが色々投函されるのですが。

今。ほんとたった今。ゼミ合宿から帰ってきたのですが、
たまったビラの中に「現代のこども事情」という文字が目に留まりました。

「外遊びの減少」「家庭環境の変化」「他人への無関心」という
文字が目に飛び込み、ななな何?何のビラ?
とびっくりして見てみると・・・。

「社会に足りないものをスポーツは持っている」とあり、
ひっくり返すと「サッカークラブ体験会のお知らせ」とありました

サッカークラブするにもそんな過剰な理由が必要なのか?と
さらに中を見ると・・・。

「サッカーを楽しむことが大切です」「こども目線で接します」
「仲間と協力し合い、喜びや悔しさを味わうことも大切だと考えます」
「楽しさを実感してもらいます(わかる楽しさ、認められる楽しさetc. )」
「コミュニケーション能力・考える力を育てよう!」
等々の文字が。

対して、サッカーの活動としてどういう活動があるのかが
全くといっていいほど書いていませんでした。

スポーツクラブで楽しんだり、熱中したりした結果として
色々としつけられたり成長できたりすることは事実でしょうし、
親もそれを期待して入れる面もあるかもしれません。
以前から、そういう機能は明に暗に主張されてきたとは思います。
スポーツクラブは指導者がいるし、指導方針として、
強いクラブにするのか交流を目的とするのかなど示される
必要もあるとは思います。

でも、自尊心を育てたり、仲間と関わったり、自立したり、
考える力を磨いたりといったことを主目的でスポーツは手段ですと
そこまで明言するのは、私はちょっと抵抗あるし、
わざわざ社会背景まで語らなくてもよいのにと思います。
少なくとも、その饒舌さがとても気持ち悪い。

しかも、そんなに饒舌なのに、
肝心のサッカークラブの名前も活動場所も書いてないのです(苦笑)。
URLが書いてあったのでいってみると、
(どうもすでに全国にいくつかあるクラブのようで、それがうちの近所に
新クラブをつくろうとしているための「体験会」のようなのですが・・・。)

極めつけは、
「自立を準備する年代・・・察しの悪い「大人」を演じます」。

確かに勝手に子ども集団ができて遊ぶということが少なくなり、
大人が上から目線で指導するのもやりにくい時代です。
その中で出てきたのが、子どもが遊ぶ場、成長する場を大人が仕掛け、
かつ、そこでは子どもが自分で成長したと思える場にするというタイプの
活動なんじゃないかと思います。
(拙著の6章あたりで「『子ども』というプロジェクト」という言葉で
そんな時代の「子ども」観や実践のことをちらちら考えてます。)

実際、うまくできているなあと思う活動も多いのです。
でも、これはちょっと過剰な何かだなと思いました。
(うまくいっているのは、「大人」が肩肘張っていないのです。
綿密に設計されていても、大人が気負わず、むしろ大人も子どもを見守る
大変さから解放される感覚が持てているのです。)

ものすごく居心地の悪さを感じたので、
荷物も片付ける前に日記書いちゃいました

こんなに引用を書いちゃって大丈夫かな?
(でも、名前もわからないクラブだから検索もできないかな?w)



ご近所にて。

2010-06-19 01:01:15 | 考えごととか。
行って来ました。
東京朝鮮中高級学校文化祭

一応、ゼミ生にも声をかけたのですが、直前になってしまったため、
行きたいけどバイトがずらせない・・・という人も多くて、結局1人で
(今時の大学生はとても忙しいんですよね・・・。)

結果、1人で行って、写真をとりまくる怪しい人に・・・。
でも、めげない
来年は早めに告知して2,3人でいいから学生と来てみたいです。


さて、文化祭といっても、「知ってもらう」ということを主眼にした、
朝鮮文化と朝鮮学校についての発表会なのですね。
10年くらいやっているのだとか。

そういう政治的な負荷がかかっているということ自体がこの場の難しいところ。
私もつい色々聞こうとするけれど、熱心に語ってくる生徒がいても、
類型化された問いと類型化された答えがひたすらかみ合わないという
もどかしさとともに終わる場面が多数。

にもちらりと書きましたが、無償化問題などをめぐって、
 外交問題と見て他の学校と区別(差別!)する政治の動きに対して、
 「人権」「子どもの学習権」を盾に「同じ学校」だと批判するという
 二者択一の状況なっています。
 しかし、後者に立つだけでは、(国連などの上位機関の権力を持ち出さない限り)
 前者を説得することは難しいのではないでしょうか。
 中からも、「日本のに近い学校です」「学習権を保証してください」というメッセージと共に、
 「日本社会で差別されてきて、また今差別されている」「同胞の援助への感謝」
 というメッセージがだされているので、そこに「ほらやっぱり問題ある学校だ!」と
 反応されてしまうわけです。
 「同じ学校ですね」「同じ10代の若者ですね」で連帯できている裏に、
 異文化を発見してしまうというマジョリティと「差別されている」と感ずるマイノリティ
 という構図が否応なくついてきてしまうというか。
 (じゃあどうしたら?という答えが出たら民族問題は解決するわけですが。)


☆ここは紛れもなく学校。
  

☆でもそれでは済まない瞬間を象徴する画。
  

一方、聞いてもあんまり文化などについて答えられない子もいました。
例えば、チョゴリは買ってもらうの?とか、どんな模様がいいとかあるの?
と聞いても「えっと・・・へへ」という感じでした。
でも、中学生など自我もはっきりしていないわけで、
単なる人見知りかもしれず、全員がぺらぺら答えられると想定するのも
おかしなことなもかもしれません。。

そこで私が色々聞いてしまうということ自体、場に誘導されたものでもあるけど、
中にいる人にとっては幼少期からかけられ続ける負荷の1つなわけで・・・。
日本社会で「在日」として育つ以上、早いうちから慣れておくべきことなのかも
しれませんが(聞かれて答えられるようになるというのが今回のイベントの
教育的目標なのかもしれませんし)、でもやはり、何にも考えずに育つ
マジョリティの子どもたちに比べて負担が大きいのは事実・・・。


と、あいかわらず最も身近な多文化問題のこの場は語るのが
難しくためらわれる場なのでした。

でも、そこから始めるために開かれたわけで、そこから始めるしかないのですよね。

あ、でも、舞踊公演とかテコンドー演舞とかあって、単純にエンターテイメントとしても
面白いですよ。(ただし、韓流ムードは漂っていません。)

※※やっちゃいました (中学生に勧められるがまま1人でw)
   

2009の模様(公式)はこちら↓
http://www.t-korean.ed.jp/bunkasai%20syasin.html#bunkasai
2010の写真は、沿革を示す展示なども含めて、かなりまじめにとってきたので、
もし興味がある方がいたらご連絡ください。

一応、60周年のときの感想はこちら↓
http://blog.goo.ne.jp/e-com77/e/06b72d901955583aecafe2fe9239d80e



難しすぎる問題。

2010-03-26 00:32:04 | 考えごととか。
遅ればせながら朝鮮学校の高校無償化除外問題。

私自身、東京朝鮮高級学校
比較的近場にあったにもかかわらず、その存在は長く知らなかったし、
身内が話していた記憶もありません。
小学校のときの塾で「あの子名前がおかしいよ?」という子がいて
初めて「在日」という存在を知ったものの、理解の範疇を超えていたので
思考停止したまま大人になりました。
真の排除は自分の社会地図に排除対象者が存在しないことである、
というのを地で行っていたことになります。。。

朝鮮学校研究者と知り合って初めて、国籍の複雑さとか、
朝鮮学校は日本のカリキュラムに近いとか、そういうことを知りました。

今回、朝鮮学校を外交問題で見て対象から排除する立場に対して、
子どもの学習権は別の問題として包摂を主張したり、
外国人学校間での差別を批判したりする形になっているかと思われます。

しかし、戦略としては「外交」か「人権(人道)」「平等(多文化主義)」か
になるのはわかるのですが、なんかどれもすっきりしないというか、
きちんと考えられないまま1月以上経過・・・です。

まあ、でも備忘的に、参考になった記事を。
↓朝鮮新報まとめ記事
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2010/03/1003j0312-00008.htm#
↓サイゾーGJな記事
在日国籍の摩訶不思議──「日本には『北朝鮮籍』は存在しない!」
http://news.livedoor.com/article/detail/4679664/?p=1


ついでに、すっきりしなさの一端が見えるかもしれないので、
学校公開に連れて行っていただいたときの感想を載せます。
古いものですが。

***
2006-11-11 似てて違って違って似てて~朝鮮学校見学~

東京朝鮮中高級学校の 創立60周年記念公開授業に行ってきました。

午前の4時間目を公開して、午後は民族教育についてのシンポジウムと
音楽舞踊総合公演(日本人向け)を見せてくれるという、
至れり尽くせりのプログラムです。

無知で能天気な部外者としては、ついつい
「これは日本の学校と変わらないな」とか「ああ朝鮮っぽい!」と、
目前にあるものを日本か(北)朝鮮かどちらかに帰属させて理解しようと
してしまうのですが、色々なところで、二者択一の平面をすりぬける
なんとも言えない語るのが難しい感覚に襲われました。

具体的な設備やシステムに加え、学校を語るレトリックなども、
基本的には日本の学校の形態や言語に準拠しています。
なので、「我が校は云々…」と語られているとき、言葉づらだけだと
一学校として自校のよさを語っていう程度に聞こえる言語が使われます。
しかし、その言葉に「在日同胞」と「日本人」を比較する視線が
自明のものとして付着していたりして、
さらに、聞く私(一応「日本人」)も私なりにその図式を読み込もうとして
しまうので、聞いていてわかったようなわからないような
不安定な気持ちにさせられます。

日本型の学校制度やその言説を取り入れながら/取り入れることで、
学校が、在日コミュニティなるものの実在を事後的に確信させるような
強い磁場となっている、とでも言えばいいのかな?(伝わる語にならず。)

一方、式典や友好親善が音楽舞踊公演という形をとるということや、
演目の内容や構成は、日本の学校と相当発想が違うと思われました。
そこで、無知な参観者としては、つい、そこここの「朝鮮っぽい」表象に
過剰に反応してしまうのですが、卒業者である友人の説明によれば、
それは「本国」のものともだいぶ違うようです。
(形は朝鮮の舞踊でも、テレビで見る北朝鮮の映像ようなのとは
歌詞やら目的やらが違う可能性があるそう。)

やはり朝鮮学校は、乏しい言語能力では「在日的」(≠(北)朝鮮的)としか
言えないような、独特の場のようです。

でも、私は説明してもらったからわかったけれど、
その違いは、「日本人向け」の場でも積極的には示されません。

そうそう、「まるで平壌にいるようでした」という来賓の「お世辞」に、
生徒たちは「いやいや違うから」とばかりに失笑するという場面がありました。

「日本か朝鮮か」で理解しようとしてしまう外部の視線と、
「日本」とも「朝鮮」とも違う「在日的なもの?」を
(ある程度相対化しつつも)自明のものとしている学校内部の論理が、
すれ違った瞬間だったように思います。

政治的、制度的な訴えはしつつ、真の状況改善は草の根での交流から、
というのが、シンポジウムの基調となっていましたが、
一方で、このあたりの「ずれ」を言語化していくことも、
重要なように感じました。

***


男女逆転大奥。

2010-01-31 16:50:55 | 考えごととか。
映画化に向けて宣伝のためか本屋で山積になっていたので、
ついに、よしながふみ『大奥』を買いました。

若い男だけがかかる奇病が流行り、
男性が女性の4分の1になった江戸時代、
将軍を含めて、すべての家業は女が継ぎ、
種を持つ男は大事に大事に育てられる。
そんな「江戸時代」の大奥は、男子3000人といわれる逆ハーレム。


「腐」系かなあ(←すみません苦手)とおそるおそる読んだのですが、
なんていうか正統派ジェンダー系。
センス・オブ・ジェンダー賞受賞だそうです。
おもしろかったので、ジェンダーの専門家でもないのに
(専門家でないから許される?)あやしい感想を書きました。
※長文&乱文すみません。はい。仕事からの逃避です。

(以下ネタバレあり)


映画にもなる1巻(吉宗編)は、わりと完結しています。
男女逆でどうなるかなと思ったら、
時代劇風のくさいくらいの台詞の中にはめてしまうと、
あら不思議。これは、あり。というか違和感ない。

ベタすぎるのに/だからこそ、あり。

吉宗(女)のあまりの男前ぶりに感激するも、
必ずしもすべて男女逆でなくて、
主人公の水野(男)が男気あるかっこよい設定だったりと、
それをどうとるかは別として、不思議に攪乱されています。

なんだ逆でも全然ありだなあと思うことで、
逆はやはりどこかで「なし」だと思っている自分に気づかされます。


しかしながら、ここまではいわば序章。
1巻の終わりから始まる過去編からが本編。
男名を残したままの女が家を継ぐ制度が出来上がっていく過程が
明らかにされます。

2巻からは、家光編。
本物の家光(男)が死去し、私生児の千恵(女)を代理に立てたところから、
男女逆転が始まっていく様を描きます。

家光(千恵)とお万の方(万里小路有巧)の愛のゆくえを
絡めながら話が進みますが、アリバイ崩しのように、
結論がわかっているところに向けてピースをはめていくのがおもしろい。

史実と虚実の配合が絶妙で、
鎖国、大名家取り潰し、吉原、農具の開発等々が
男子人口の減少に絡めて説明されていきます。
家制度のせいで一夫多妻制が進まず、女系相続に至ったという説明も
なんとなく納得させられてしまいました。


そして、話がまた転回するのが、家光編の末尾(4巻)ごろから。
女大名を認め、女将軍を世に公表し、男による大奥が成立したあと。

あくまでも父家光の影として生きる家光(千恵)は、
世継ぎを生むために出産と流産を繰り返して若くして死去。

市井の状況について、
「そう 男女の役割は逆転したのではない
正確には 男は子作り以外は何もしなかった 
育児を含めた家事も仕事も この世の労働の一切を
女達は引き受ける事になったのである」
とのモノローグを残して、1話の家綱編を経て、綱吉編へ。

元禄の狂乱を代表する将軍の治世は、
男による武断政治から女による文治政治の転換期と位置づけられ、
由比小雪の乱も忠臣蔵もその路線で描かれます。

と同時に、綱吉編では、男女逆転の「隘路」が描かれます。

一人娘の松姫が夭折してしまい(史実は女児は成人し、男児が夭折)、
世継ぎ(この時点では女子でOK)を産むことを宿命付けられた女将軍。
夜な夜な若い男を選んで子作りに励む日々。
かんざしを大量にさした、遊女さながらの綱吉の絵にドキッとさせられます。

「何が将軍だ!! 若い男達を悦ばせるために 
私がどれほどの事を床の中で覚えてきたか そなたにはわかるか!?
将軍というのはな 岡場所で体を売る男たちより 
もっともっと卑しい女の事じゃ」

父(!)桂昌院の
「勉学も大切やけど やはり女は器量が大事やで
どないに偉いのや 殿様や言うても 子を生すには
側室の男達をその気にさせねば 始まらんのやさかい」
という言葉に縛られる一生。

将軍になっても、産む性ということに縛られるのか?
見られ、選ばれる性なのか?

この問題は、家光が母になって変わった、強くなった等々
描写されているところから続いているのかもしれません。
やはり母になることに何かが賭けられてしまうのか?

でも、実はそれは男も同じで、子種を売るために夜な夜な違う女のもとに
売られていく男達。大奥にあがることは、ある意味その宿命からの
逃避とも位置づけられます。

そう。あえて言えば、家事仕事両立問題とか、産む性とか、草食系とか、
ジェンダーの攪乱の「隘路」が描かれているのです。
(勝手に解釈したところによれば。)


「虚実ない交ぜ」のこの話、
「実」のほうは、ごくごくお約束的なエピソードで構成されているのですが
(「大奥総取締役」など、史実でではなく「大奥」ドラマのパクリも散見)、
にもかかわらず/だからこそ、男女逆転という「虚」の発想の妙が
際立つような気がします。


さて、「隘路」の先は、というと。
最新刊の5巻ラストで、ついに少女吉宗と老女綱吉が邂逅。
「大名の娘ともなれば 美しく着飾ることも必要であるぞ」
と父の言葉をそのままぶつける綱吉に、
きっぱりと答えるニュージェネレーション吉宗。

「私はそうは思いませぬが なぜなら
私自身が姿の美しい男にとんと興味が無いからにござります 
女にも私のようなのがいるのですから 
男にだって必ず 美しい女を好まぬものがいるはずです」。
(選ぶ性としての視点!)

人生を呪縛した思考を少女に簡単に崩された老女将軍の高笑いとともに
「隘路」の先の可能性が示唆されました。

今本誌は綱吉死亡までの模様です。
したがって、おそらく重要なのは、短い家宣・家継の治世の次。
この新しい世代の将軍がどういう治世を築くのか、
1巻の時代に戻ったあとなのでしょう。

わりとだいぶ楽しみです。(けど難しそうです。)