近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

「明日、ママがいない」問題について。

2014-02-06 13:42:28 | 考えごととか。
 ついに、日テレが、謝罪にいたった「明日、ママがいない」(以下「明日ママ」)問題。経過途中なので、試論ということで。

 ドラマを見続けられない人間なのですが、騒がれたので見ました。正直、陳腐な(オチ見え見えの)脚本だなあというのが第一の感想でしたが、それはさておき、テーマ自体が、陳腐を通り越して混乱していると思います。(表現の自由云々というレベルではないと思います。)

 慈恵病院や全国児童養護施設協議会等の抗議に対して、日テレが当初出した回答は、各種ニュースによれば以下のようなものです。

「このドラマは子どもたちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子どもたちの視点から『愛情とは何か』を描くという趣旨のもと、子どもたちを愛する方々の思いも真摯に描いていきたい。ぜひ最後までご覧いただきたいと思います」(2014/1/17複数ニュースより)

そして、ついに謝罪した文面には以下のように書かれていました。

「本ドラマは、子どもたちが厳しい境遇に立ち向かいながら、前向きに愛情をつかむ姿を描くことをテーマに企画されたもので」(「日本テレビ全国児童養護施設協議会に回答」http://www.ntv.co.jp/oshirase/20140205.html 2014/2/4)

始めの数回とこの文書に書かれた制作意図からすると(というか読まないでも予想可能ですが)、だいたいこんな筋書でしょう。まず「抑圧的な大人」「厳しい世間の目」vs.「子どもたち目線」という構図を強調します。そして、何らかの理由で親に捨てられた「かわいそうな子どもたち」が、状況を受け入れ、立ち向かう強さやたくましさを手に入れていく様を、「親を捨てる」などの表現で描きます。そして、愛情を与えられるのではなく、自分たちの力で愛情を勝ちとっていくのでしょう。もちろん、度を越して抑圧的に見えた大人(施設長)が実は子どものことを最も考えていて…という話になるに違いありません。(始めから異様にすれた子どもとして描かれている芦田真菜ちゃんの役に、終盤でどういうドラマがあるのかは気になりますが。それも予想できるような…。)

 おそらく、「なんだあの大人は!子どもがかわいそう…」「あんな横暴な施設のあり方を描くなんて間違っている!!」式の批判がくることは織り込み済みだったのでしょう。だから、「織り込み済みだから見ていてください!」と反論したと言えます。しかし、ここには大きな勘違いがあります。

 児童福祉の問題は、単に大人と子どもの関係一般にとどまらない、子どもたちの中にある分断の問題だということを完全に忘れているということです。関係者からの抗議は、「子どもがかわいそう」「施設の描き方がおかしい」という過去にも繰り返されてきた抗議以上に、「子どもたちが、明日、学校でいじめられるのではないか」「今、不安になるのではないか」という点を含んでいました。しかし、当初の応答は、そこを完全に無視していました。この認識の甘さも恐るべきものですが、抗議に対して、単に応答責任を放棄したとしか言えない回答をしてしまったのは、端的に、自分たちの描いたストーリーに酔っていたのでしょう。

※謝罪に至って、ようやくこのあまりにひどいすれ違いが埋まりました。

「本ドラマを視聴した施設の子どもたちが傷ついたり、同書状別紙の実態アンケートに記載されたような事実が存在するのであるならば、もとより本ドラマの意図するところではありませんが、そのような結果について重く受けとめるとともに、衷心より子どもたちにお詫び申し上げます」(上記、「日本テレビ全国児童養護施設協議会に回答」)

ただ面白いことに、これ、謝罪の対象は「子どもたち」なのですね。子どもの視点に立って描くつもりが予想外に一部の子どもを傷つけてしまったのなら取材不足であったという回答で、子どもの中にある不平等は考えていなかったということでしょう。自分たちが立とうとした「視線」の帰属先を見誤ったということです。


 「たくましさ」「立ち向かい」「前向きに愛情をつかむ」などの表現から、制作意図としては、子どもたちは決して無力な存在ではなく力を持った存在だと描こうとしていると思われます。子どもは大人に対して受動的で無力なのではなく、能動的activeで力を持ったcompetentな存在だというのは、わりと典型的な子ども観です。しかし、それを描くのに、大人を横暴な存在として描く必要があったでしょうか。そうして抗議をされてまで、描きたかったものは何だったのでしょうか。

 一端話が横に逸れますが、一見横暴な大人に立ち向かうことで、子どもたちが力をつけるという話で、どうしても思い浮かぶのは、「女王の教室」(2005、日テレ)です。このドラマも、「子どもが虐げられている」「あんな教育はありえない」という批判を受けて、CM自粛騒動が起きました。(「起きたのは記憶に新しい」と書こうとしたら、9年前のドラマであることに愕然としましたが、それはここでは置いておきます。)

 このドラマは、一見「権力的な教師」は実は「自立した子どもたち(未来の大人たち)」を育てるための手段(演技)で、誰よりも子どもたちのことを考えていました、実際に子どもたちも変わってきました、というストーリーになっています。もちろん、「権力的な大人」を描いた瞬間、「子どもが虐げられている」という図式で批判されることは織り込み済みだったわけで、批判されても放送を継続して、最終的に評価されました。

 私たちはつい「大人の権力」に「子ども尊重」や「子どもの目線」「子どもの力」を対置して考えがちです。特に教育批判をしようとするとき、「大人の勝手」「大人の権力性」を批判して「子どもにも言い分がある」「子どもを尊重すべき」と締めくくるような議論は少なくありません。しかし、「権力的な大人=子ども抑圧」で、「やさしい大人=子ども尊重」という図式になるかというと、必ずしもそうではありません。

 というのは、子どもは将来大人にならねばならないからです。どういう教育をするのかは、今の子どもとどう向き合うかということそれ自体であると同時に、将来どういう大人に育てたいかという「目的」に対する「手段」の問題でもあります。そのため、子どもの今と将来をめぐって、どういう教育をすべきかは、「指導か放任か」「系統か自由か」「詰め込みかゆとりか」などという指導論の対立として、歴史上何度も何度も展開されてきたのです。

 「女王の教室」は、この点において、「大人の権力」と「子ども尊重」が二項対立ではないということを描こうとしたドラマだと言えます。当時は、詰め込み教育への批判から2002年に施行されたいわゆる「ゆとり教育」が、施行直後から批判されるという時期でもありました。そこには、それまでの教育の権力性や詰め込み教育が反省されて、現代社会は子どもを尊重しようとするあまり「やさしい大人」が多くなって、今度は結果的に将来のための子どもの力を奪っているという現状認識があるように思われます。そして、きちんと大人が大人として壁になることこそ(手段)、子どもをきちんと大人にしていくには重要なんだ(目的)と、「常識」(それが本当に当時の通念だったかには留保が必要ですが)の転倒を試みていると思います。

 これ自体も極論で、逆に「やさしい大人」で今現在目の前の子どもたちを尊重しながら、同時に自立させていくこととも論理的にはありえるはずなので、この解を全然評価する気にはなれませんが、少なくとも、「子どもに力を与えるとはどういうことか」「教育とは何か」、そして「子どもと向き合うとはどういうことか」「愛情とは何か」を考え、大人の権力と子ども尊重を相容れないものと見る通念を逆手にとって展開したという意図はわかりました。

※ちなみに、権力的だったか尊重されていたと感じるかは受け取り方の問題でもあります。相手のためを思っているのに相手からは煙たがられるとか、厳しくされて恨んだけれど後で感謝するといったことは、往々にして起きます。とりわけ、学校教育という制度では、大人と子どもは(少なくとも制度上は)対称ではないので、どんなに子どものためを思っていても子どもには煙たがられる可能性や、逆に、まったく子どものためを思っていなくても子どもに感謝される可能性も、一般の関係以上にあります。「女王の教室」の真矢先生は、学校を去らねばならなくなりますが、子どもたちには尊敬すべき教師として感謝されました。脚本としては、そうしてさらに世間の教育像を批判しているのだと思いますが、そんなにうまくいくかしら…。


 さて、話を「明日ママ」に戻すと、これもそんな話のつもりなのかもしれません。しかし、それには学校教育と児童養護施設ではあまりに状況が違いすぎます。教育は子ども時代と大人時代をつなぐものですが、児童養護施設は家庭的な環境で子ども時代を提供するものです。そこで、大人が立ちはだかったのは手段であって目的は別のところにあるという構図が成り立つでしょうか。しかも、もし回答が書いてあるように「前向きに愛情をつかむ」がテーマなのだとしたら、目的は愛情を得ることとなってしまいます。愛されて育つ家庭の子にとっての初期条件を、まわりくどい愛情表現であると予想される施設長の暴言やらなんやらを経由してたくましくならないと、手に入れてはいけないのでしょうか。「自立した大人になるための壁」に比べても、「愛情を得るための壁」はあまりにむなしいです。そうまでして描きたい「愛情」とは何なのでしょうか。

 今回の脚本監修である野島伸司の脚本はしばしば、「子ども」や「障がい者」を使って(あえて使ってと書きますが)世間の冷たさや露骨な悪を批判的に描こうとしてきました。その「子ども」や「障がい者」の使い方自体がナイーブなのでまったく賛成できませんが、視聴者が彼らに寄り添った目線になることで批判対象が浮かび上がるという構図ではありました。しかし、施設長は現実社会の厳しさを知っているから実は愛情ゆえに厳しく当たっていたという話だとしたら、何も批判したことになりません。世間の冷たさをなぞるだけです。「同情するなら金をくれ」がストレートに社会批判したのに比べて、「私らが親を捨てるんだ」は批判の焦点が親です。やはり捨てた親を批判して、施設長の愛の鞭で壁を乗り越えて愛情を得るという話なのでしょうか。どうも自分を優先して養育を放棄した母親やら、里親失格の「お試し里親」(※そんな制度はありません)やら、愛していても育てられない親が出てくるので、親の愛情とは何かという問題意識はある気がします。だとしたら、制度の趣旨も中身も勉強不足であるという批判に応答せねばならないでしょう。

 また、「大人が一見権力的だったようで実は…」という、「大人の権力」対「子ども尊重」という問題かに見せかけて、実はそういう図式で見てしまう最近の教育像を撃ちましたという「女王の教室」に比べても、実は社会批判をしましたでは、そもそも「大人の権力」対「子ども尊重」と見せかける必然性がなさすぎます。抗議に対して、日テレは当初、いわば「子どもの視点で子どもの力を描きたいからいいでしょ!最後まで黙ってみてなさい!」とでも言い換えられる回答をしました。この回答自体が、「子どもの視点」や「子どもの力」を描きさえすれば、「大人の権力」や「社会の厳しさ」を撃つことになるという、「大人の権力」対「子ども尊重」の図式に乗ってしまっています。繰り返すように「女王の教室」を特に評価するわけではありませんが、それに比べても、この応答には「まあ見ていてください」と言うだけの賭け金はありません。

 長々書きましたが、つまり、「明日ママ」はストーリーも抗議への初期対応も色々とピンボケなのです。それはおそらく、児童養護施設という福祉(愛情も含めた「子ども」であることの初期条件の不平等)の問題を、「子ども/大人」関係という教育(社会化)の問題系に引きつけて解こうとしたことに収斂します。そこを勘違いしたから、抗議への対応も誤ったし、話もつまらないのです。

 個人的には、「女王の教室」の試みも子どもの教育をめぐるありがちな対立のひとつにすぎないと思いますし、「子ども」を社会批判の拠点に使うというのも使い古された手だと思います(拙著参照)。そうして「子ども」なり「大人の教育意図」なりを本質化してしまうことの問題も考えるべきです。とはいえ、では「脱学校」しましょうともいかない以上、現時点でどういった教育が妥当かは議論し続けるしかないですから、教育ドラマは、先生がヤンキーだったり極道だったり女王だったりといった奇を衒った設定も含めて、色々描けばいいと思います。

 ただ、児童福祉のドラマは、教育ドラマほど蓄積がありません。そもそもどういう制度なのか、どういう施設なのかという「常識」すら共有されていない領域です。ならば、奇を衒った設定ではなく、正攻法で奮闘する現場を描けばよかったと思います。残念ながら、それで十分社会批評になるのですから。単に、児童福祉がどうあるべきか、その目的をどう設定し大人は子どもの処遇をどのように行うかについての問題提起をしたいのであれば、そもそもその外堀の問題をもっと勉強すべきです。

※もちろん、ストーリーについては、この予想がそれこそ陳腐で、もっとあっというような展開があるならば、それに越したことありません。


【追記】 2014/03/03/17:30

1月前の記事が発掘されて拡散していることに驚いているのですが、いくつか拍手いただきました。ありがとうございます。

その中に、実際の養育里親の方のコメントがありました。
大意としては、<児童養護施設を舞台にする必然性に乏しく、ならば完全なフィクションの舞台にしてほしかった。施設を描くならば、綿密な取材で実際の子どもたち機微に触れる青春ドラマをつくってほしかった>ということです。

本当にそう思います。どうもありがとうございました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿