京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
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デカダンスの名を持つ句集

2024-08-28 13:08:45 | 俳句
デカダンスの名を持つ句集
           金澤ひろあき
 デカダンスという言葉に現代の私達はあまり価値を見いだしていないように思われる。「退廃」「腐敗」というニュアンスを含んでいる。
 しかし、デカダンスは、世の中をよく映し出す鏡でもある。デカダンスは、社会の秩序や常識を笑うものでもあるからだ。秩序や常識は私達に強制する力が働くが、それらは支配する側に都合がよいものが多い。支配する側に都合がよいものに抵抗する所まで行かないにしても、それから逸脱するデカダンスは、秩序や常識に囚われている私達の姿を映し出す。
 川口外狼氏の句集「ダブルデカダンス」は、そういう意味で「囚われている自分」を見ているかのようであった。
 川口氏の句の作り方は、句集の第一章の小題にもあるように「写生」から入っているようだ。川口氏は、デカダンスを昔の無頼派のように「演じている」のではなくて「素直に写している」のだ。
 いずれは死故にここぞと野遊びす
 灼熱やひねもすハードコアパンク
 西日の病廊影絵めく往来
 湯ざめして椅子に凭れしニューハーフ
 この句集の序文を書かれた夏石番矢氏が、句の特色として「純情」「もののあわれ」と論じられているが、まさしくその通りである。
 また一見好き勝手に句作しているように見えるが、俳句史を踏まえて、自分のものにしている。これはパロディー(本歌取り)が散見していることからも言えるのだ。本歌取りするためには、本歌の知識と理解がないと無理だからだ。理解しつつ別の世界に置き換えて行く。例えば、
 おそるべき君らの素顔夏終わる
 警官がつまらなそうに立っていた
 鬼を以て自力としたり歩み去る
 店を出て俺達帰る処なし
 去年今年貫く棒の如き形
 西東三鬼、渡辺白泉、高浜虚子、山口誓子等の大家の句を本歌にしながら、大胆に俗の世界を詠み込んでいる。かつて和歌の雅を俳諧が俗の美に転じた手法を想起させる。
この句集の中には、沢山の女性が描かれる。
 愛嬌はあれど愛は微塵もない
 王子待つ場末のダブルデカダンス
 看護婦の目元涼しく汚物処理
 職員室シンナー少女半べそ
 イケメンにやっつけられてよっれよれ
 このように描かれる女性達は、個性を発揮し自由を賛美している訳でもない。あるいは女性への憧れでもない。彼女らの凋落ぶり、軽さ、疲れのようなものが描かれる。醒めた目を持つ男が描く、女性達の厳しい現実。しかし、何と醒めた目であろうか。これは、
 女生き抜く男社会の眼下
という認識が根底にあるのだろう。
 句の中の女性は決して自由を謳歌などしていない。
 表面的な、そして短かった自由の謳歌(例えばバブル期)とその後の凋落。回復の見込みのなさ。これは女性だけのことではなく、日本社会全体のことではないか。
 大先生医療ミス隠蔽術
 大企業タカにへつらいハトに圧
 マスコミはさぞかし立派なんだろう
 いかにしてうまく生きるかそればっか
 牧師と金持ちで方舟いっぱい
 苛めせし過去を自賛のミュージシャン
 暴力に先を越さるる選挙かな
 希望など押し附けられて死ねもせず
 正直もうええわって呑むしかない
 疲弊を修正解決することもなく、淀んだままの世界。その中で器用に生きて行くことへの違和感を歌う。本当に素直だ。
 五十年目の春、出所した気分
 黙殺したきゃどうぞ慣れっこなので
 これは句集を出し、思いを吐き出せた後の正直な感想なのだろう。


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