間もなく、大晦日がやって来る。そして、新年を迎えるにあたって、一斉に除夜の鐘があちこちの寺で鳴り出す。年末年始の風物詩にもなっている。ところが、その除夜の鐘も、最近、鳴らせない寺も出てきたという。理由は、近隣から苦情が出て、対応に困っているということらしい。
音は、人によって感じ方が大きく異なるものだ。ピアノの音、クラシックにしろ、ジャズにしろ、好きな人にとってはこの上のない音なのだが、嫌いな人にとっては、まさしく騒音としか、耳に入ってこない。心を豊かにする音楽が、苛々を掻き立てる騒音に変化してしまう。非常に難しい問題だと思う。
私の田舎では、初夏に、蛙の大合唱が響き渡る。蒸し暑くなってくるころに、窓を開けて寝ていると、安眠妨害も甚だしい限りだ。しかし、蛙に向かって騒音を出すなと文句をいう人は誰一人としていない。同様に、夏になると、セミが一斉に泣き声を響き渡らせる。これも、蒸し暑く、苛々しているときは、耐えられない程のものだ。しかし、夏だからセミもなくだろうとみんな諦めて何も言わない。世の中は、そんなことで成り立っているものだと思う。
最近では、保育園や幼稚園がやり玉に上がって、保育園不足が社会問題となる中、新設がままならないと新聞では報じている。私のマンションの僅か100メートルの距離のところに、保育園があって、子どもたちの声が時々聞こえてくる。「子どもは元気で良いなぁ!」と思うだけで、これを私は騒音だと思っていない。しかし、人によっては、「うるさい!」「何とかしろ!」と苦情を言う人もあると聞く。人間とは非常に勝手なものだ。自分の子どもが泣いていても、それが、騒音を発していると感じる親はいないだろう。しかし、他人の子どもとなると話は別である。「うるさい!」「早く泣き止ませろ!」と、苦情を言い出す。そんなに気になるのならば、保育園がないような地域に引越しすればそれでいい話ではないか?と思うのだが、いかがなものか?
除夜の鐘の音を聞きながら、己の煩悩について、もう一度、ゆっくりと考えて見たいものだ。