どんぴ帳

チョモランマな内容

はくりんちゅ257

2008-08-11 04:49:00 | 剥離人
 現場には、時折面倒な問題が発生する。
 その苦情主がやって来たのは、私がノッチタンク(鋼製水槽)の水量をチェックしている時だった。

「おい、あんたがこの現場の責任者か?」
 いつの間に現れたのか、私服姿の中年の男が、梯子の下に立っている。
 現場の中でヘルメットすら被らずに堂々としている人間は、工事に無関係な一般人か、傲慢で無知な発注者と相場は決まっている。私はその中年男を、即座に工事に関するクレーム主だと判断した。
「あ、ちょっとそこを空けてもらえますか?梯子から降りられませんので…」
 私が梯子から降りようとしても、その場を動こうとしない様子から、かなり融通が利かない性格だと推測する。
「お前に話をすればいいのか?」
 男は私に、攻撃的な視線を向けながら、強めの口調で話し出した。
「はぁ、何のお話でしょうか?」
 わざととぼけた様な応対をする。
「お前が責任者なのかと訊いとるだろう」
 男は軽く舌打をする。
「そうですねぇ、この作業に関しては責任者ですけど…」
 あえて、ピントをぼかす。
「ま、いいわ、とりあえずお前に言うか」
「はぁ…」
「この機械の音、なんとかしろや!」
 男が指差した先には、白い防音カバーに入ったハスキーが、直管マフラーからディーゼルエンジンの排気を吐き出し続けている。
「えー、この機械の、この音ですか?」
 ここも、理解できないという顔で、わざとらしく答えてみる。
「今もお前、この機械がボーボーと音を出しとるだろう!」
「えっ?まあ、そーですねぇ、エンジンで動いてますんで…」
 やや馬鹿っぽく返答する。
「俺はな、この近所に住んでいるんやけど、お前たちのせいで、全然眠れんのじゃ!」
 今は平日の、しかも昼間だ。
「夜勤のお仕事なんですか?」
「そんなもん、どっちでもいいだろう!」
 どうやら違うらしい。
「とにかく、今すぐ工事を中止しろ!」
「いえ、そう言われましても…」
「中止しろ!」
「はぁ、でも私にその決定権はありませんので…」
 男は目を剥いた。
「お前が責任者じゃないのか!」
 わざとらしく、今、気が付きましたという顔をする。
「あ、ああ、この工事全体の責任者ですか?」
「最初からそう言ってるだろう!」
「ちょっと待って下さいね」
 私はその男に満面の笑みを見せると、携帯電話を出して、現場事務所に電話を入れた。
「あ、所長、今ここに、工事の音について、所長とお話がしたいという方が、直接いらしゃっていますけど」
 所長の鴻野は、察しが良い人間なので、すぐに私の言っている意味が分かった様だった。
「木田君、その人を現場事務所まで案内してもらえるか?」
「分かりました」
 携帯を切ると、私は神妙な面持ちで、男に話し掛けた。
「K建設の所長の鴻野という者が、お話を伺いたいとのことです。お手数ですが現場事務所まで足を運んで頂けますか?」
 私の大仰な丁寧さに、男はやや面食らった表情を浮かべた。
「おお、最初からそう言えば良いんだよ」
「事務所までご案内致します」
 私はうやうやしく右手を指し出し、土手から見える現場事務所の方角を示した。
「あのプレハブか?事務所は」
「ええ、そうです」
「自分で行くわ」
「あ、ご案内は?」
「いいよ」
 男はそう言うと、歩き出そうとした。
「機械の音でご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございません」
 私はドラマ『HOTEL』の赤川一平(高嶋政伸)をイメージしながら、男に謝罪をした。
「ん?おお…」
 男は私に背中を向け、現場事務所に向かって歩き始めた。

 夕方、私はその日の作業を終了させると、現場事務所に顔を出した。
「お疲れ様です、今日の作業は終了しました」
「お疲れ様でーす!」
 K建設の若い社員たちが、書類から顔を上げて、私を見る。
「所長、さっきのパンチパーマの人、どうでした?」
 私は鴻野の席に近寄りながら、話し掛けた。
「ああ、その件やけどな、こっちで処理しておいたから」
「そうですか、納得してもらえました?」
「まあ、納得とは行かんけどな」
 鴻野は苦笑いをした。
「一応、単管パイプと防音シートは余っていますんで、あの人の家の方角側に、片屋根を付けましょうか?」
「今言おうと思ってたところや。やってくれるか?」
「ええ、明日の朝一番でやりますよ」
「じゃあ、よろしく頼むね」

 私は駐車場に戻ると、佐野に事態を報告した。
「ま、大体予想通りの展開だね」
 すでにこの展開は、佐野と一緒に予想してあったことだった。
「でも、たかが防音シートを数枚追加して、効果がありますかね?」
 私の言葉に、佐野は無言でニヤリと笑った。
「ふむ。まぁ、まずは対策を取る事が大事ですよね」

 私は自分の言葉に自分で納得すると、佐野が差し出した缶コーヒーのプルタブに、油汚れが染み込んだ親指を引っ掛けた。