規矩と言う言葉があります。手本、規則
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%8F%E7%9F%A9-472901
どちらの字も一定の規則に沿って領域を定める事、規は円形、矩は方形。この為の道具であるコンパス(ぶんまわし)を規、直角定規を矩とも呼びます。
”矩”の方をもう少し掘り下げて見ます
論語爲政編中の有名な一節
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩
「七十而從心所欲、不踰矩」ここに現れます
朱熹の論語集注から引用します{}部分が朱熹の注です
七十而從心所欲、不踰矩。{從、如字。○從、隨也。矩、法度之器、所以爲方者也。隨其心之所欲、而自不過於法度、安而行之、不勉而中也。}
上記の朱熹の注に見られるように、道学者流になると、中国流ではありますが矩には法的枠組みの色彩が強くなります。
邑制国家から領域国家への変質によって生長するにつれ、息をするように習得できる”村の掟”を越えた領域共通規則が成立します。国語・詩経の世界です。これは学びて時にこれを習う(学而時習之)ことによってのみ肉体化することが可能なものでした。
更には領域国家の枠を越え理念としての九州<春秋期におけるチャイナ世界>を支配する汎行動規則<先王の道>の習得とその肉体化は至難の技であり、その後半生を流浪の人としてすごした孔丘に取っての自慢でした。最初に引用した爲政編中の文は自分語りです。
閑話休題。そう規矩とは元来、外的制約条件を自らの内に取り込んだ上で内発的に生成される行動規則です。外的制約条件の下で成立する内発的な行動規則と言う意味で共通性が高いのは、カントに始まる格率(MAXIM)だと思います。但し規矩の外的制約条件が社会的・歴史的正統性にあるのに対して、格率の方は神との1対1での対峙の果てに成立するものです。
現代の日本人で外的制約条件の下で形成された内発的行動規則を持っている方は希少価値だと思います。外的制約規則をなんらかの形で暗黙の前提として行動されている方から見ると、奇異に見えるかも知れませんが、極めて理にかなった行動体系です。但し、同じ単語{倫理、正義}でもその色合いは大きく異なる場合も多いのです。
規矩であれ格率であれお持ちの方に、日常世界の視点からの諫言・忠告は無用・無力です。現代の日本人の眼から見て、先哲が奇人変人ぞろいに見えるのは当然の事です。
蛇足:偉そうに言っているお前はと聞かれると困るので、自分語りをしておきます。
私の格率は、元統計屋ですので論理と骰子の双神に仕え続けること、なんせヤヌスの双神ですのでこれはもう難儀。とどのつまりはパルプンテ(^^♪
ここまで書いて分からなくってきました。
無限鏡(最新的テクですのですので、願望に応じたフォトショップ自動補正機能装備)に映るご自分を神とし、これに対峙する事によって成立する内発的行動規則。まあ業と呼ぶべきでしょうが、これも格率と呼ぶべきかもしれません。
知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。(謀攻)
鏡像世界の進歩はMAXIMを凌駕するに至っているようです。
この場合のMAXIMはカントの方ではなくラ・ロシュフコーの方です。なぜかこの場合は日本語では箴言となります。!(^^)!
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%8F%E7%9F%A9-472901
どちらの字も一定の規則に沿って領域を定める事、規は円形、矩は方形。この為の道具であるコンパス(ぶんまわし)を規、直角定規を矩とも呼びます。
”矩”の方をもう少し掘り下げて見ます
論語爲政編中の有名な一節
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩
「七十而從心所欲、不踰矩」ここに現れます
朱熹の論語集注から引用します{}部分が朱熹の注です
七十而從心所欲、不踰矩。{從、如字。○從、隨也。矩、法度之器、所以爲方者也。隨其心之所欲、而自不過於法度、安而行之、不勉而中也。}
上記の朱熹の注に見られるように、道学者流になると、中国流ではありますが矩には法的枠組みの色彩が強くなります。
邑制国家から領域国家への変質によって生長するにつれ、息をするように習得できる”村の掟”を越えた領域共通規則が成立します。国語・詩経の世界です。これは学びて時にこれを習う(学而時習之)ことによってのみ肉体化することが可能なものでした。
更には領域国家の枠を越え理念としての九州<春秋期におけるチャイナ世界>を支配する汎行動規則<先王の道>の習得とその肉体化は至難の技であり、その後半生を流浪の人としてすごした孔丘に取っての自慢でした。最初に引用した爲政編中の文は自分語りです。
閑話休題。そう規矩とは元来、外的制約条件を自らの内に取り込んだ上で内発的に生成される行動規則です。外的制約条件の下で成立する内発的な行動規則と言う意味で共通性が高いのは、カントに始まる格率(MAXIM)だと思います。但し規矩の外的制約条件が社会的・歴史的正統性にあるのに対して、格率の方は神との1対1での対峙の果てに成立するものです。
現代の日本人で外的制約条件の下で形成された内発的行動規則を持っている方は希少価値だと思います。外的制約規則をなんらかの形で暗黙の前提として行動されている方から見ると、奇異に見えるかも知れませんが、極めて理にかなった行動体系です。但し、同じ単語{倫理、正義}でもその色合いは大きく異なる場合も多いのです。
規矩であれ格率であれお持ちの方に、日常世界の視点からの諫言・忠告は無用・無力です。現代の日本人の眼から見て、先哲が奇人変人ぞろいに見えるのは当然の事です。
蛇足:偉そうに言っているお前はと聞かれると困るので、自分語りをしておきます。
私の格率は、元統計屋ですので論理と骰子の双神に仕え続けること、なんせヤヌスの双神ですのでこれはもう難儀。とどのつまりはパルプンテ(^^♪
ここまで書いて分からなくってきました。
無限鏡(最新的テクですのですので、願望に応じたフォトショップ自動補正機能装備)に映るご自分を神とし、これに対峙する事によって成立する内発的行動規則。まあ業と呼ぶべきでしょうが、これも格率と呼ぶべきかもしれません。
知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。(謀攻)
鏡像世界の進歩はMAXIMを凌駕するに至っているようです。
この場合のMAXIMはカントの方ではなくラ・ロシュフコーの方です。なぜかこの場合は日本語では箴言となります。!(^^)!
収録作は、
* 夜来たる
* 緑の斑点
* ホステス
* 人間培養中
* C-シュート(未読)
「緑の斑点」や「ホステス」は生物系SFでした。
P.S.理屈っぽいという一点で好きなのは安部公房「人間そっくり」です。
最大の共通点は不本意な結果に揺るがぬ事。弥縫策はケガを大きくするだけです。
もう一つの共通点は途中であきらめない事です。(^^♪
今考えた実験は、サイコロ実験です。被験者にできるだけランダムに1~6の数を順番に言ってもらいます。得られた数列の乱数性を定量化します(確立した方法があります)。もしそれが高い乱数性を持つことがあるなら、少なくともその人は、内在的乱数発生器を使って、ランダムな行動をシミュレートすることが出来ます。つまり、定型的ルールベースでなく、行き当たりばったりに生きることができます。それが行動の自由を意味するのかは議論の余地がありますが(笑
更に脱線しますと,先年なくなった佐藤大輔さんの小説の中で、クラークと(海野十三と石原藤夫を足して二で割った)人物が、メテオバースト通信の話をしていたような記憶があります。
要は「一定の行動様態ではなく、外的規制条件を受けて成立させた一定のルールに従った行動様態を、如何に意識的に保てるか」。ここに価値を認めるのが規矩/格率なのだと考えています。
自由意志こちらは更に難しい問題です。
余談ですが、盛期イスラム神学における神と自由意志についての論文を読んでいる途中です。その内テーマにするかもです。