吉田兼倶と言えば、毀誉褒貶それも中抜き(最初の一字と最後の一字)と呼ばれる、中世神道界最大のヒールにして大立者ですが、思わぬことから仏教界にも影響を与えます。
明応六年二月六日(九日とも)吉田兼倶はこの三十番神について、(一)天台宗の三十番神か、(二)内侍所勧請のものか、と云う質疑状を発した(番神問答事件)。
これに対し日蓮宗では、「此事当流独歩の稟承、他人不共の秘曲なり」と、天台宗勧請の三十番神を継ぐものでないとし、「練磨・実義」の二語で以って独特の解釈を加え、名実共に三十番神日蓮宗独自のものになって行った。このような解釈が生じたのも吉田神道の影響があったからで、日蓮宗が天台宗より独立したのも、吉田神道との交渉を抜きにしては考えることは出来ない。
ー堀書店発行「神道辞典」ー
明応年間(1492-1501)と言えば、管領細川政元が将軍足利義材を廃して足利義澄に代えた明応の政変があった時代、半将軍と呼ばれた細川政元の全盛期、応仁の乱は終わり戦国時代の始まりを告げる頃のことです。(伊勢新九郎長氏<北条早雲>の伊豆討ち入りもこの年)
日蓮の時代はともかく、第六代将軍義教によって激しく弾圧された「鍋かぶり日親」の活動を考えると、日蓮宗は天台宗からとっくの昔に独立していたと考えがちですが、15世紀までの日蓮法門の活動は、天台宗内部における法華専修の過激派です。ついでに付言すると念仏専修の浄土宗の分立は戦国末でありこの当時は天台宗内の念仏専修の過激派です。
‡浄土真宗は宗派として独立しています。<おおざっぱに言って興福寺の京都出先機関であたった清水寺との関係は微妙です。大谷本廟の場所、唯識経典の取り扱い等清水寺のとの関係を思わせるものが現在も残っています。
§前に触れましたが院政期から室町中期までの東山の北側は祇園社(延暦寺)、南側は清水寺(興福寺)の不輸不入地です。)
もし、お読みになった方が、(後世の眼から見たら枝葉末節と思える)「番神」ごときが、宗派分立の引き金となるとは?!! と感じたとしたならば、廃仏毀釈後に生じた仏教観、とりわけ戦後の鎌倉仏教論を前提にした逆さ眼鏡です。
明応六年二月六日(九日とも)吉田兼倶はこの三十番神について、(一)天台宗の三十番神か、(二)内侍所勧請のものか、と云う質疑状を発した(番神問答事件)。
これに対し日蓮宗では、「此事当流独歩の稟承、他人不共の秘曲なり」と、天台宗勧請の三十番神を継ぐものでないとし、「練磨・実義」の二語で以って独特の解釈を加え、名実共に三十番神日蓮宗独自のものになって行った。このような解釈が生じたのも吉田神道の影響があったからで、日蓮宗が天台宗より独立したのも、吉田神道との交渉を抜きにしては考えることは出来ない。
ー堀書店発行「神道辞典」ー
明応年間(1492-1501)と言えば、管領細川政元が将軍足利義材を廃して足利義澄に代えた明応の政変があった時代、半将軍と呼ばれた細川政元の全盛期、応仁の乱は終わり戦国時代の始まりを告げる頃のことです。(伊勢新九郎長氏<北条早雲>の伊豆討ち入りもこの年)
日蓮の時代はともかく、第六代将軍義教によって激しく弾圧された「鍋かぶり日親」の活動を考えると、日蓮宗は天台宗からとっくの昔に独立していたと考えがちですが、15世紀までの日蓮法門の活動は、天台宗内部における法華専修の過激派です。ついでに付言すると念仏専修の浄土宗の分立は戦国末でありこの当時は天台宗内の念仏専修の過激派です。
‡浄土真宗は宗派として独立しています。<おおざっぱに言って興福寺の京都出先機関であたった清水寺との関係は微妙です。大谷本廟の場所、唯識経典の取り扱い等清水寺のとの関係を思わせるものが現在も残っています。
§前に触れましたが院政期から室町中期までの東山の北側は祇園社(延暦寺)、南側は清水寺(興福寺)の不輸不入地です。)
もし、お読みになった方が、(後世の眼から見たら枝葉末節と思える)「番神」ごときが、宗派分立の引き金となるとは?!! と感じたとしたならば、廃仏毀釈後に生じた仏教観、とりわけ戦後の鎌倉仏教論を前提にした逆さ眼鏡です。
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