4.日本人の当該領域での活動と日本人傭兵
❶トメ・ピレスと東方諸国記
トメ・ピレス(Tomé Pires (1465?–1524 or 1540))と言う、ポルトガルの冒険商人がいました。アンボイナ事件1の年表にある、ポルトガルが中国(明朝)に送った最初の使節団団長です。彼がのこした著作にSuma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins (東方諸国記;大航海時代叢書第5巻:岩波書店)があり、紅海から中国までの浩瀚な地誌です。
英語版のWikiを見て頂ければお分かり頂けるようにかなり正確な報告であるとの評価ですが、どうにも納得がいかない部分があります。
Lequeosと言う島国とその住民であるGuoresと呼ばれる人々の事です。またJamponと言う大きな島国も出てきます。
「東方諸国記」によれば、”Lequeosは中国の島国であり、LequeosまたはGuoresと呼ばれる人々が住んでいる。Lequeosは中国の藩属国でおり、島嶼からなる海洋国家であり、Jampon・中国との仲介貿易が主たる産業である。JamponはLequeosより大きく強大であるが、Junko(ジャンク?)を持たない為中国との直接交易手段を持たない非海洋国家である。その資源である金属の輸出はGuoresに頼っている。”
Lequeosは琉球(人)、Guoresは琉球人(以前は後期倭寇)、Jamponは日本とするのが通説ですが、まるでつじつまが合いません。勘合貿易、倭寇と言ったキーワード、堺、博多(那の津)、坊津と言った中世後期の港湾名を挙げるだけで、Jamponについての描写は日本とは思えません。
近年ではJampon=フィリピン説も出ていますが、これまた海流、金属資源、強大な王権と言ったフィリピンには合致しない矛盾を抱えています。わけても黒潮をどう反航するかと言う難問に出会います。
一説にはLequeos=琉球=台湾説もありますが、これは台湾に大型船による海洋航海の伝統が見られないという問題があります。<12.18修正:Lequeos=大琉球⇒Lequeos=琉球、古来澎湖諸島以東を流求と呼んでいました。明代は朝貢関係のある沖縄諸島を大琉球と呼び台湾を小琉球と呼ぶ事が多かったのですが逆の場合もあります。正確性を期すため修正>
トメ・ピレスの証言からは言えることは、Guoresと言う中国人でもポルトガル人でもない海洋交易集団(民族)が16世紀初頭に存在し、東・南シナ海交易の主役の一人を担っていたと言う事です。
❷建長寺船・勘合貿易
日本人(これ以降は扶桑人と呼ぶこととします。近代以降のバイアスを避けるため、当時の琉球とのXORとして定義します。日本=扶桑XOR琉球です。蛇足ですが扶桑は日本の漢風呼称の一つです。)の東シナ海・南シナ海航海の歴史とりわけ航海・航海術の歴史は教科書レベルどころか啓蒙書レベルでもあまり言及されません。同時代の琉球王国の方がまだわかります。明朝と堅固な冊封関係を結びジャンク船の供与を受け、対明、対扶桑貿易のみならず、越南・暹羅方面にも進出していた事が明らかになっています。
鎌倉末期から寺社建造の名目で盛んに対元・対明交易が行われたことは高校日本史でも建長寺船・天龍寺船として記載されています。こうした交易はこの二寺だけではなく、数多くの寺院が絡んで盛んに行われました。一般的用語としては「寺社造営料唐船」があてられています。
寺社造営料唐船の船体がどのようなものであったかについては、暗黙裡に和船構造であるされてきたようですが、1976年韓国南岸で発見された沈没船によって大きく風景が変わってきました。「新安沈船」と呼ばれるこの船についてWikipediaより引用します。
”韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き揚げられた(新安沈船)ことで、これまでの寺社造営料唐船の通説的理解は、大いに修正を迫られることになった。新安沈船から引き揚げられた遺物には白磁、青磁の天目茶碗などおよそ1万8000点におよぶ陶磁器や、約25トン・800万枚もの銅銭、そして346点もの積荷木簡が含まれていた。後述の如く、この船は東福寺(現京都市東山区)造営を名目とした貿易唐船と見られるが、積荷木簡の中には「綱司」(交易船長の意)という字を記すものが110点あり、その多くは「綱司私」と記され、商人の私的交易品が多く含まれていたことが伺える。
村井章介は、この船は博多を拠点とする貿易商人が主体となったもので、東福寺や幕府は多くの荷主の中の一つに過ぎなかったのではないかと推測する。さらに新安沈船に限らず、この時期の寺社造営料唐船の多くは本来、博多を拠点とした商人が主体であったとする。博多には平安時代の日宋貿易以来、宋から渡来した商人が居を構える「唐房」あるいは「大唐街」と呼ばれる街域があった。だがモンゴルの南下による宋の衰亡により、大陸へ帰還したり日本へ土着する者が現れるなどで縮小し、日元関係の悪化によって中国商人の博多定住も困難となっていた。そこで、貿易商人が博多に長く滞留することなく、船を早く回航する必要が生じ、これが商人らの競争を加速したと思われる。そんな中、競合商人が少しでも有利な条件で参入するために「寺社造営」という看板を掲げることで、日本の政治権力(武家、寺家)と提携したのが寺社造営料唐船の正体と見る[1]。
<中略>
また、新安沈船の建材は中国江南地方産のタイワンマツと見られ、型式も中国南部でよく見られるジャンクであることから、綱司となった商人も中国人であったり、商船の建造が中国で行われた可能性もある。しかし当時、密貿易に関わる倭寇も含め、このような国境沿岸の貿易商にとっては、国籍はそれほど意味をもたなかったと思われる[2]。元側の史料では、綱司の出身国にかかわらず、博多から来航した船は日本船(倭船)として扱われている。”
どこで建造されたか、誰が運用されたかは別として、寺社造営料唐船には、構造的に見て基本的に内海航路、沿岸航路にしか適さない和船ではなく、ジャンク船の使用が一般的であったとすることが合理的であると考えます。沈船率の違いは利益率に直結するからです。
江戸初期の御朱印船がジャンク船構造またはジャンク船にガレオン船を融合させた構造をしていることを考えると、中間の時代でに活動した勘合貿易船・倭寇船・堺/博多等の私貿易船もジャンク船構造であったとすることが合理的であったと思います。
但し、倭寇船についてはもう一つの可能性もあると思っています。ダウ船です。明代の泉州市舶司の大半はアラビア系ですし、戦国期日本にも楠葉西忍の例があります。
❶トメ・ピレスと東方諸国記
トメ・ピレス(Tomé Pires (1465?–1524 or 1540))と言う、ポルトガルの冒険商人がいました。アンボイナ事件1の年表にある、ポルトガルが中国(明朝)に送った最初の使節団団長です。彼がのこした著作にSuma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins (東方諸国記;大航海時代叢書第5巻:岩波書店)があり、紅海から中国までの浩瀚な地誌です。
英語版のWikiを見て頂ければお分かり頂けるようにかなり正確な報告であるとの評価ですが、どうにも納得がいかない部分があります。
Lequeosと言う島国とその住民であるGuoresと呼ばれる人々の事です。またJamponと言う大きな島国も出てきます。
「東方諸国記」によれば、”Lequeosは中国の島国であり、LequeosまたはGuoresと呼ばれる人々が住んでいる。Lequeosは中国の藩属国でおり、島嶼からなる海洋国家であり、Jampon・中国との仲介貿易が主たる産業である。JamponはLequeosより大きく強大であるが、Junko(ジャンク?)を持たない為中国との直接交易手段を持たない非海洋国家である。その資源である金属の輸出はGuoresに頼っている。”
Lequeosは琉球(人)、Guoresは琉球人(以前は後期倭寇)、Jamponは日本とするのが通説ですが、まるでつじつまが合いません。勘合貿易、倭寇と言ったキーワード、堺、博多(那の津)、坊津と言った中世後期の港湾名を挙げるだけで、Jamponについての描写は日本とは思えません。
近年ではJampon=フィリピン説も出ていますが、これまた海流、金属資源、強大な王権と言ったフィリピンには合致しない矛盾を抱えています。わけても黒潮をどう反航するかと言う難問に出会います。
一説にはLequeos=琉球=台湾説もありますが、これは台湾に大型船による海洋航海の伝統が見られないという問題があります。<12.18修正:Lequeos=大琉球⇒Lequeos=琉球、古来澎湖諸島以東を流求と呼んでいました。明代は朝貢関係のある沖縄諸島を大琉球と呼び台湾を小琉球と呼ぶ事が多かったのですが逆の場合もあります。正確性を期すため修正>
トメ・ピレスの証言からは言えることは、Guoresと言う中国人でもポルトガル人でもない海洋交易集団(民族)が16世紀初頭に存在し、東・南シナ海交易の主役の一人を担っていたと言う事です。
❷建長寺船・勘合貿易
日本人(これ以降は扶桑人と呼ぶこととします。近代以降のバイアスを避けるため、当時の琉球とのXORとして定義します。日本=扶桑XOR琉球です。蛇足ですが扶桑は日本の漢風呼称の一つです。)の東シナ海・南シナ海航海の歴史とりわけ航海・航海術の歴史は教科書レベルどころか啓蒙書レベルでもあまり言及されません。同時代の琉球王国の方がまだわかります。明朝と堅固な冊封関係を結びジャンク船の供与を受け、対明、対扶桑貿易のみならず、越南・暹羅方面にも進出していた事が明らかになっています。
鎌倉末期から寺社建造の名目で盛んに対元・対明交易が行われたことは高校日本史でも建長寺船・天龍寺船として記載されています。こうした交易はこの二寺だけではなく、数多くの寺院が絡んで盛んに行われました。一般的用語としては「寺社造営料唐船」があてられています。
寺社造営料唐船の船体がどのようなものであったかについては、暗黙裡に和船構造であるされてきたようですが、1976年韓国南岸で発見された沈没船によって大きく風景が変わってきました。「新安沈船」と呼ばれるこの船についてWikipediaより引用します。
”韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き揚げられた(新安沈船)ことで、これまでの寺社造営料唐船の通説的理解は、大いに修正を迫られることになった。新安沈船から引き揚げられた遺物には白磁、青磁の天目茶碗などおよそ1万8000点におよぶ陶磁器や、約25トン・800万枚もの銅銭、そして346点もの積荷木簡が含まれていた。後述の如く、この船は東福寺(現京都市東山区)造営を名目とした貿易唐船と見られるが、積荷木簡の中には「綱司」(交易船長の意)という字を記すものが110点あり、その多くは「綱司私」と記され、商人の私的交易品が多く含まれていたことが伺える。
村井章介は、この船は博多を拠点とする貿易商人が主体となったもので、東福寺や幕府は多くの荷主の中の一つに過ぎなかったのではないかと推測する。さらに新安沈船に限らず、この時期の寺社造営料唐船の多くは本来、博多を拠点とした商人が主体であったとする。博多には平安時代の日宋貿易以来、宋から渡来した商人が居を構える「唐房」あるいは「大唐街」と呼ばれる街域があった。だがモンゴルの南下による宋の衰亡により、大陸へ帰還したり日本へ土着する者が現れるなどで縮小し、日元関係の悪化によって中国商人の博多定住も困難となっていた。そこで、貿易商人が博多に長く滞留することなく、船を早く回航する必要が生じ、これが商人らの競争を加速したと思われる。そんな中、競合商人が少しでも有利な条件で参入するために「寺社造営」という看板を掲げることで、日本の政治権力(武家、寺家)と提携したのが寺社造営料唐船の正体と見る[1]。
<中略>
また、新安沈船の建材は中国江南地方産のタイワンマツと見られ、型式も中国南部でよく見られるジャンクであることから、綱司となった商人も中国人であったり、商船の建造が中国で行われた可能性もある。しかし当時、密貿易に関わる倭寇も含め、このような国境沿岸の貿易商にとっては、国籍はそれほど意味をもたなかったと思われる[2]。元側の史料では、綱司の出身国にかかわらず、博多から来航した船は日本船(倭船)として扱われている。”
どこで建造されたか、誰が運用されたかは別として、寺社造営料唐船には、構造的に見て基本的に内海航路、沿岸航路にしか適さない和船ではなく、ジャンク船の使用が一般的であったとすることが合理的であると考えます。沈船率の違いは利益率に直結するからです。
江戸初期の御朱印船がジャンク船構造またはジャンク船にガレオン船を融合させた構造をしていることを考えると、中間の時代でに活動した勘合貿易船・倭寇船・堺/博多等の私貿易船もジャンク船構造であったとすることが合理的であったと思います。
但し、倭寇船についてはもう一つの可能性もあると思っています。ダウ船です。明代の泉州市舶司の大半はアラビア系ですし、戦国期日本にも楠葉西忍の例があります。
・船の具体的な構造→ジャンク船やダウ船
・関係する民族・国家→不明な点も多い。現在の国籍の枠組みを超えた海洋交易集団が存在した可能性もある(解釈に飛躍があるかもしれませんが)。
というような理解をしました。