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福島県伊達市 中世伊達氏の本拠地 梁川城跡 

2024年06月22日 15時18分33秒 | 福島県

国史跡・梁川(やながわ)城跡。福島県伊達市梁川町鶴ケ岡。

2024年5月26日(日)。

伊達市南東部にある南北朝時代の山城・霊山城跡へ登城後、中世伊達氏の本拠地であった梁川城跡へ向かった。12時10分ごろ、梁川中学校の西から北へ回り込むと、曲がり角に駐車場があり、その先に梁川城跡の案内板が見えた。梁川城は「伊達氏梁川遺跡群」として国の史跡に指定されている。

西へ向かう道路の先は下り坂になっており、断崖になっていたことが分かる。

現在、梁川城の本丸跡には本丸庭園、土塁のほか復元石垣がある。

中世伊達氏の本拠として機能した伊達氏館跡の内部には、「心字の池」庭園跡が復元されている。東北地方の中世の館として内部に庭園跡が確認されているのは、現在のところ伊達氏梁川遺跡群のみであり、奥州における伊達氏の政治的立場を考える上でも貴重な遺跡といえる。

梁川城は、平山城で、梁川中心市街地の東側にある茶臼山から西北西方向に張り出した高台の上に築かれており、城下町である平地との標高差は10数mになる。梁川城の北側には曲輪や堀が築かれ、西側は段丘の急斜面、南側は広瀬川と広瀬川の浸食によって作られた断崖、そして東には金沢堀と茶臼山という天然の要害となっている。

伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって伊達政宗が転封されるまでのちの仙台藩伊達氏の本拠地だった。梁川城は、鎌倉時代の4代伊達政依(1227~ 1301年)のころから戦国時代の天文元年(1532年)に14代伊達稙宗(たねむね(1488~1565年)が桑折西山城へ移るまで、約300年にわたって伊達氏の本城だったと考えられている。

伊達氏の初代は、伊達朝宗(1129~1199年)で、下野国芳賀郡中村および常陸国伊佐の領主であった中村(伊佐)常陸入道念西と同一人物とされる。源頼朝の奥州征伐のさい、文治5年(1189年)の「厚樫(あつかし)山の合戦」で功を立て頼朝から恩賞として伊達郡を拝領して伊達郡高子岡(伊達市保原町上保原字高子)に居城し、姓を伊達に改めたと伝えられる。3代伊達義広(1185~ 1256年)は、高子岡城から梁川の粟野大館へ移ったという。

梁川城の文献上明確なものは室町時代の応永33年(1426年)以降であるが、調査で発掘された遺物の最も古いものは、3代伊達義広または4代伊達政依のころと推定されており、このころには築城されていたと考えられる。

城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)の要として栄えた

大永2年(1522)に稙宗が陸奥国守護に補任されると梁川城は、南奥州における政治的中枢をになう場となった。

伊達氏の本城は、天文元年(1532年)に桑折西山城へ、天文17年(1548年)に伊達晴宗により米沢城(山形県米沢市)へ、天正17年(1589年)に伊達政宗により黒川城(のち会津若松城)に本拠を移すが、翌年には本拠を米沢に戻した。

その間も梁川城は伊達氏の城として存続し、領内の重要な拠点として使われた。伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川であった。

豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達政宗は天正19年(1591)に岩出山城(宮城県大崎市)へ、慶長8年(1603)には仙台城へと移った。梁川一帯は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後、慶長3年(1598年)越後から国替えになった上杉景勝の領地になる。

梁川城には須田長義が城代として入城し、上杉景勝と軋轢を増す伊達政宗への対策として大規模な改修を加えた。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、現在の梁川城の遺構はこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)により整備されたものと考えられている。

1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いに連動して奥州でも合戦が行われ、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われた(10月6日の松川の戦いなど)。10月7日、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町東大枝)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めたが、梁川城の抵抗も強く、横田大学の内通も発覚したため、伊達軍は攻撃を中止した。

江戸時代以降も、伊達郡は上杉氏の領地となったため梁川城は上杉氏の城となった。上杉家は、信達(しんたつ)の両郡には郡代や奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏を置き、信夫郡の福島城、伊達郡の梁川城など両郡内の支城には、本庄氏や春日(香坂)氏、須田氏、芋川氏などを城代として統治させた。

寛文4年(1664年)、上杉景勝の孫・綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介)の子の綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。その際、梁川城を含む伊達郡が収公され、領地は天領(幕府直轄領)となり梁川城は廃城となったが、本丸や北三の丸の櫓および城主館をふくめ、城の一部はその後も梁川藩松平氏などの陣屋として使用された。

天和3年(1683年)尾張藩2代藩主徳川光友の三男の松平義昌が入封し、3万石にて梁川藩を立藩した。梁川藩の立藩は、有力な外様である伊達家への楔となる親藩を求める幕府の思惑とも一致していた。享保14年(1729年)5月、3代・義真が卒去し、無嗣子のため廃絶となった。同年9月、尾張藩3代藩主徳川綱誠の十九男の松平通春(後の徳川宗春)に改めて3万石が与えられたものの、翌享保15年(1730年)に世継を残さないまま尾張藩主徳川継友が死亡し、通春が尾張藩を相続したため、廃藩となった。

廃藩後は宝暦5年(1755年)に会津藩(松平家)飛地、宝暦6年(1756年)に磐城平藩飛地、安永7年(1778年)に幕府領、寛政2年(1790年)に再び磐城平藩飛地、享和3年(1803年)再び幕府領となっていた。

文化4年(1807年)、蝦夷地召し上げに伴い松前藩主松前章広が9千石にて梁川藩に転封となった。この国替えは、幕府が蝦夷地を直接支配して北方警備を強化する方針をとったためとされる。

松前家は、蝦夷地においては商場知行という形で知行地を家臣に与えていたが、梁川では石高制度に切り替える必要があり、収入も家臣団を賄えないほどに激減して240名余りの家臣を除籍し、梁川に連れてくることができた家臣は111名であった。

松前家はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけ、移封から15年後の文政4年(1821年)に国替えの沙汰が下り、松前家に蝦夷地が返還されたため梁川藩は再び廃藩となった。その後、梁川は再び幕府の管理地となるが、安政2年(1855年)には松前家の飛地領となり、明治維新を迎えた

 

梁川城趾には本丸跡に2015年年3月まで梁川小学校があった。本丸を北・東・南に取り囲む二の丸のうち、東二の丸跡に浅間神社と伊達市立梁川幼稚園と伊達市立梁川中学校、南二の丸跡に福島県立梁川高等学校がある。本丸の東から二の丸の北までを取り囲む三の丸は江戸時代に陣屋などに使われたが、現在は住宅が建ち並ぶ。梁川城当時の大手門は、現在梁川小学校の裏門となっている北側(三の丸側)にある清水町からの登坂路であった。

1978年から1981年にかけて旧本丸跡である梁川小学校校庭の発掘調査を実施した。校庭の一角に中世庭園「心字の池」を復元し、校庭は埋め戻した。伊達氏が室町幕府と結びつきを強めていた時代のもので、一説によると東日本で唯一の中世庭園と言われる。

梁川小学校跡地である本丸跡には、伊達市の歴史資料館の建築を検討中である。

 

このあと、中村常陸入道念西(伊達氏初代伊達朝宗)が、源頼朝の奥州征伐のさい、文治5年(1189年)の「厚樫山の合戦」で奥州藤原氏を撃破した国見町の阿津賀志(あつかし)山防塁の現地とガイダンス施設へ向かった。

福島県伊達市 霊山(りょうぜん)・霊山城跡



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