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帯広市 六花亭帯広本店 マルセイバターサンド 帯広百年記念館①晩成社と依田勉三

2024年06月22日 09時55分49秒 | 北海道

六花亭帯広本店。駐車場側。帯広市西2条南9丁目。

2022年6月11日(土)。

6月10日は、新ひだか町のシャクシャイン像、浦幌町のオタフンベチャシ、浦幌町立博物館を見学し、道の駅「十勝川温泉」で車中泊。帯広見学のメインは土曜初日の「ばんえい十勝」だが14時から開催なので後回し。混みそうな六花亭帯広本店が9時開店なので最初の見学地とした。その後、帯広百年記念館、帯広畜産大学食堂、埋蔵文化財センターと回った。

帯広は1999年ごろ100名山のトムラウシ登頂のさい訪れて、神田日勝美術館を見てから六花亭帯広本店を訪れた。北海道土産は80年代は「白い恋人」だったが、90年代には「マルセイバターサンド」、「ロイスチョコレート」に変わり、北海道登山土産では必ず購入していた「マルセイバターサンド」の本店が帯広だと知ったので、本店の様子を見に来たのだった。

なので、20数年ぶりの再訪となるが、そのときの店とは印象が違っていた。前回は支店だったのかもしれない。

ナビで特定し、近くまで来たが、駐車場前は一方通行という情報があり、どの交差点から進入するのか特定するために北側アーケードゲーム通りを歩いたりしながら確認に手間取った。8時45分ごろには駐車できたが、ほかに車はいなかった。店内を覗くと掃除中だった。9時になるまでに数組が入店待ちをしていた。

9時に店内に入ったが、小雨の中を歩いたりしたので、先に2階のトイレへ行くと、掃除中の女性がいて、2階の喫茶店は11時からですので、と言われたが、ネットで多くの口コミを読んでいたので知っていた。11時まで待つ時間はなく、最初から1階のイートインで充分だと思っていた。

1階の売店に戻り、六花亭帯広本店など北海道の限られた店でしか買えない洋菓子を中心にチョイスした。

「サクサクパイ」。200円。「サクサクのパイに生カスタードを絞り込みました」。

時間が経つとパイがクリームの水分を吸ってサクサク感がなくなってしまうため、賞味期限はわずか3時間という超レアな商品という。

コロネのようなぐるぐる巻きの細長いパイの中に、絞りたてのカスタードクリームがみっちりと詰まっていて、名前のとおりサックサクのパイをかじると、口の中でパイのサックリ感とクリームのしっとり感が入り交じり、やさしい甘みに包まれる。

「マルセイアイスサンド」。230円。マルセイバターサンドのアイス版。

マルセイバターサンド」と同様に、バターとホワイトチョコレート、レーズンで作ったアイスで、2015年から登場した。正方形のひと口サイズのアイス2つを3枚のビスケットでサンドした状態が1個。

ビスケットは「マルセイバターサンド」よりも薄く、軽やかな食感。アイスはバターのコクと風味が際立つ。バタークリームだからかアイスとはいえすぐに溶けない。

「フレーズ」。300円。「イチゴジャムで色鮮やかに仕上げたイチゴのムースです」。

イートイン。コーヒーは無料。

広々した店内には、さまざまな洋菓子や和菓子が並んでいて驚いた。菓子箱入りのものもあれば、1個単位でばら売りをしている商品も多く、好みの商品をチョイスして箱詰めにもして購入する子供連れの常連客も多くいた。

「マルセイバターサンド」のレトロなデザイン。

六花亭の開業は1933(昭和8)年で、当時は帯広千秋庵(おびひろせんしゅうあん)という屋号であったが、1977(昭和52)年に六花亭と改名した。改名を記念して登場した洋菓子が、「マルセイバターサンド」である。

北海道産生乳100%のバターをたっぷり使い、ホワイトチョコレートとレーズンをあわせたクリームを、ビスケットでサンド。しっとりとしてコクがあるクリームの味わいと、時間が経ってもサクサクっとした食感のビスケットが特徴である。

ちなみに、マルセイとは「◯」の中に「成」の字を入れたもの十勝地方の開拓の祖、依田勉三(よだべんぞう)が興した晩成社(ばんせいしゃ)の依田牧場が十勝地方で初めて商品化した作ったバター「マルセイバタ」に由来している。

マルセイバターサンドの包装は 発売当時のマルセイバターのラベルを復刻・再デザインしているため、レトロな外観となっている。

六花亭帯広本店。表入口。大通側。

内部の廊下はアートスペースのような雰囲気である。

「六花亭製菓」は、1860年(万延元年)に秋田県出身の藩士・佐々木吉兵衛が箱館(現在の函館市)で創業した現在の「千秋庵総本家」が発祥となっている。その後、明治から昭和にかけてのれん分けする形で、北海道内各地で「千秋庵」が誕生していった。

1894年(明治27年)に「小樽千秋庵」が創業すると、1921年(大正10年)に小樽千秋庵から独立して「札幌千秋庵」が創業した。そして、1933年(昭和8年)に札幌千秋庵の創業者・岡部式二の弟である岡部勇吉が独立し、帯広に「札幌千秋庵帯広支店(帯広千秋庵)」を創業し、1937年(昭和12年)に経営を甥の小田豊四郎が引き継いだ

十勝では豆やビートといった原材料に恵まれていたことから、すでに「伊豆屋高野三郎」(後のイズヤパン、現在の札幌パリ)、「露月」などの同業他社が多くて経営は苦戦していたが、1939年(昭和4年)頃には砂糖の大量購入が功を奏し、「価格等統制令」で砂糖が不足した他社を凌いで地域一番店になった。

1943年(昭和18年)に小田豊四郎が戦地に招集されると店舗は「偕行社」の売店となり、工場疎開によって休業を余儀なくされた。1946年(昭和21年)に小田豊四郎が帰還すると店を再開し、「カボチャ饅頭」などの製造を開始した。

1952年(昭和27年)には帯広市からの依頼によって『帯広開基70周年記念式典』用の最中「ひとつ鍋」を開発し、初のオリジナルヒット商品となった。

以後は和菓子を中心に製造・販売していたが、次第に酪農を生かした洋菓子を開発するようになり、1963年(昭和38年)にはマドレーヌの「大平原」が誕生した。

1967年(昭和42年)、小田豊四郎がヨーロッパへ視察研修に行った際、視察先の菓子店でチョコレートが主力商品となっていることを目の当たりにし、「日本でもチョコレートの時代が来る」と感じた小田豊四郎は翌年からチョコレートの製造を始めた。白いチョコレートの製法を聞くと「北海道の雪のイメージにも合う」ということで試行錯誤を重ねて、日本国内初となる「ホワイトチョコレート」が誕生した。

国鉄による「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンによって広尾線(現在は廃線)愛国駅から幸福駅への切符が「愛の国から幸福へ」としてブームになると、ホワイトチョコレートは帯広を訪れた通称「カニ族」とよばれた若者達などから口コミで全国的に知られるようになった

他社でもホワイトチョコレートを販売するようになると商圏を札幌圏など北海道内に拡大して展開しようとしたが、すでに「千秋庵製菓」(札幌千秋庵)などが店舗を構えていることなどから活動は狭められた。そこで、1977年(昭和52年)に「千秋庵」の暖簾を返上し、「六花亭製菓」と改名した。

六花亭帯広本店。表入口。大通側。美術館のコーナーのような景観をしている。

1977年、「六花亭」への改名記念で発売したのが「マルセイバターサンド」であり、これが大ヒット商品となり販売網を拡大していった。1978年(昭和53年)には「帯広工業団地」に工場を建設した。1987年(昭和62年)には中札内村の柏林約30haを取得し、製菓工場を中心に地域文化を醸成する「地域開発計画」を企画・立案した。このプロジェクトは、「坂本直行記念館」開館を皮切りに敷地内に美術館やレストランなどが点在している「中札内美術村」、マルセイバターサンドの製造工場「六花亭中札内ファクトリーパーク」とその周辺をランドスケープした「六花の森」となって地域に根づいている。

2015年(平成27年)には札幌市に「六花亭札幌本店ビル」が開業し、店舗やギャラリー「柏」、ホール「ふきのとうホール」があるほか、テナントとして「ヤマハミュージック札幌店」などが入居している。

 

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

9時40分ごろに六花亭帯広本店を出て、5分ほどで帯広百年記念館の駐車場に着いた。

歴史系の展示室を出口から入ったため、最初に目に留まったのが晩成社と依田勉三のコーナーで、ここで初めて「マルセイバターサンド」のパッケージデザインの由来が晩成社であることを知り、明治時代風の意匠が理解できた。

帯広百年記念館は、依田勉三率いる晩成社一行が帯広に入植した1883年(明治16年)から100年目となる1982年(昭和57年)に緑ヶ丘公園に開館した。十勝の歴史・産業・自然を紹介する総合博物館である。

 

帯広の開拓は1883年(明治16年)5月、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社一行が入植して始まった。帯広の開拓は晩成社はじめ、富山・岐阜など本州からの民間開拓移民によって進められたが、1903年(明治36年)の帯広監獄の設置に伴って急速に市街地が形成された。

依田勉三。明治16年、帯広開拓出発にあたり、乞食姿にふん装し決意を示した。

みの笠姿の勉三。大正5年途別水田造成の頃。

依田勉三(1853~1925年)。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した晩成社は失敗に終わるが、開田事業は成功して、十勝開拓の父と呼ばれた。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神。

依田家は伊豆国那賀郡大沢村(現:静岡県松崎町)の豪農で、勉三は善右衛門の三男として生まれた。12歳で母が、後を追うように14歳のときに父が死去し兄の佐二平が後を継ぐ。兄とともに伊豆の松崎町にある土屋三余の私塾「三余塾」に学ぶ。

19歳の時に上京しスコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840年 - 1901年)の英学塾(ワデル塾)に学び後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合う。その後慶應義塾に進み、当時の新知識を吸収。福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てたが、胃病と脚気のため2年在学の後中退し郷里に帰る。

明治12年(1879年)に兄・佐二平が提唱した洋学校に渡辺を招き教頭とし1月15日に私立豆陽学校として開校した。この学校は後に静岡県立下田北高等学校となる。

明治12年(1879年)4月に従妹のリクと結婚し、この頃北海道開拓の志を固めた。

明治14年(1881年)に、晩成社の代表発起人として単身北海道に渡る。8月17日に北海道に渡った勉三は釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につく。

明治15年(1882年)には郷里の静岡で佐二平・園・善吾と勉三を発起人に、晩成社を設立し資本金を5万円とした。政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようというのである。

いとこの依田善六が初代社長で、勉三はその副社長となった。社名は〝大器晩成〟にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させるぞ-と兄弟の意気込みがうかがわれる。

7月16日に十勝国河西郡下帯広村(帯広市)を開墾予定地と定め鈴木銃太郎と鈴木親長は帯広に残り勉三は帰国した。その頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだった。静岡では渡辺勝が移民の募集を始めた。

明治16年(1883年)4月に13戸27人が集まり横浜を出港し、4月14日、函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月14日に帯広に到着した。

晩成社の一同。1883年。

明治16年(1883年)、帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にイナゴの大群が襲った。食糧としてアワを蒔き付けするも天候の不順やウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫できなかった。

明治17年(1884年)もまた、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間に絶望が広まっていた。勉三は米一年分を大津(現在の豊頃町)に貯蔵したが帯広への輸送が困難な状況であった。食糧不足を打開するため、当縁郡当縁村生花苗(とうべりぐんとうべりむらおいかまない、現在の広尾郡大樹町)に主畜農業を経営する

明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指した。馬鈴薯澱粉を研究し、農耕の機械化を試みるが何れも上手く行かず、当初の移民は3戸にまで減少した。

明治25年(1892年)頃には状況が漸く好転し食糧は足り、小豆・大豆の収穫も目処がつくようになった。

明治25年(1892年)11月の佐二平・勉三兄弟の叙勲から奮起し晩成社の事業を拡大した。会社組織を合資会社とし社名を晩成合資会社と改める。函館に牛肉店を開業し当別村に畜産会社を作る。帯広には木工場を作り然別村(しかりべつむら 現在の音更町)に牧場を開いた。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると多くの移民が殺到した。

明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等もあった。三と晩成社が手掛けた事業は何れも現在の十勝・帯広に根付く産業となったが当時晩成社の経営は上手く行かなかった。

大正5年(1916年)に売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却する事によって晩成社の活動は事実上休止する。

大正14年(1925年)には勉三が中風症に倒れ、9月には勉三の看病をしていた妻が亡くなり、12月12日、勉三は帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取った。享年73。勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐したという。

勉三の死後昭和7年(1932年)に晩成合資会社は解散し、翌年の昭和8年(1933年)帯広は北海道で7番目に市制を施行した。

開拓初期は生活が極端に苦しく、客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であった。幹事の渡辺勝が「おちぶれた極度か豚とひとつ鍋」(豚と同じ鍋の食事をする)と惨めな生活を嘆いたとき、勉三は毅然として「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだと言われる。現在、このエピソードをモチーフにした鍋型のもなか・「ひとつ鍋」が製菓会社の六花亭から発売されている。

帯広市の豚丼発祥のヒストリー依田勉三率いる晩成社が、豚4頭を連れて入植したのが帯広での養豚の始まりである。大正末期には豚肉料理が一般的になりつつあったが、庶民が食べられる豚肉料理は少なく、貴重なものであった。豚丼がはじめて登場したのは昭和8年。庶民にも食べられる料理ということで、うな丼をヒントに甘辛いタレを絡めて焼いた豚丼をつくった。今では帯広の郷土料理となっている。

帯広百年記念館は、晩成社が使用した「マルセイバタ」ラベルを76枚所蔵している。このラベルがもとになり、六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」包紙のデザインが生まれた。

しかし、ラベルだけが残り「マルセイバタ」の商品の姿形は不明であるが、1ポンド(453.59g)缶であったことが、依田勉三の日記に記されていた。残されたラベルは縦5.8m、横31.4cmの長さなので、それを基にバター缶を記念館で再現した。

「マルセイバタ」はいつ頃から作られるようになったのか。明治34(1901)年ころの依田勉三の日記を見ると、彼が乳業に興味を寄せていることがわかる。2月には人を雇って搾乳人の研修を積ませ、9月〜10月ころには函館でバターを購入、搾乳機の見学をしている。

『晩成社営業報告』によれば、明治37(1904)年には、バター製造のための器具を用意、翌38年にはバターの製造技師を雇い生産をスタートさせた。販売を始めたのは39年で、収入金602円弱を得たとある。

明治末ころから製造・販売を本格化し、遠くは東京上野まで運ばれ、様々な食料雑貨と相並んで、いわゆる「ハイカラ」な商店で売られていた。

明治期の依田家の実家当主は勉三の兄である佐二平で、第一回衆議院議員に選出されたほか、養蚕業や海運業に携わり、産業組合の要職を歴任した人物である。佐二平の政財界における人脈は、十勝のバターを富裕層に売り込む際に重要であった。

また東京在住の弟善吾とよく連絡を取り、販売戦略を練ってバター販売を行なっていたようである。

晩成社のバター販売は、大正7(1918)年を最後に停止された。『晩成社営業報告書』によれば、人手不足に加え人件費の高騰があり、かつ飼料の暴騰も起こり、バター製造の採算性が取れなくなったという。第一次世界大戦により工業生産の需要が高まり、労働者が工場のある都市部に集中し始め、穀物をはじめとして諸物価が何倍もの値に高騰した。大正7年は、そんな大戦景気のまっただ中で、都市から遠い十勝生花苗において飼料で牛を育てバターを生産していた晩成社は、逆に大戦景気のあおりを受けて、バター製造を止めてしまったようだ。

北海道浦幌町 国史跡・オタフンベチャシ跡 浦幌町立博物館 十勝太若月遺跡



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