ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2004年7月3日、奥沢駅

2020年04月25日 07時00分00秒 | まち歩き

 新型コロナウイルスの影響が、この日本では長く続いています。ついこの間まで、渋谷の街、東京メトロ半蔵門線の車内などでたくさんの外国人観光客を見かけたのは、僅か1か月前か2か月前くらい前までのことなのに、少し遠い過去の話のように思われることもあります。

 4月に入ってから、電車に乗ったのは数回だけです。利用の範囲は、東急田園都市線の溝の口〜二子玉川、東急大井町線の(溝の口〜)二子玉川〜尾山台、JR南武線の武蔵溝ノ口〜武蔵新城。これが全てです。

 このような調子なので、面白い訳がないのですが、或る程度は多くの方々と同じ思いを共有しているでしょう。そこで、という訳でもないのですが、今回は、タイトルに示した通り、2004年7月3日に東急目黒線奥沢駅の周辺を歩いた時の様子を取り上げます。基本的に「待合室」の第107回「東急目黒線途中下車(1)」(2004年7月30日〜8月6日掲載)の再掲載ですが、若干の修正を施しています。

 

 自由気ままにどこかの街を歩く。以前から、私はこれを楽しみにしています。定期乗車券を持っている時には、途中下車をして色々な街を歩きます。1997年4月から2004年3月まで勤めていた大分大学教育福祉科学部を離れ、首都圏に戻ってきてよかったと思ったのは、途中下車などを楽しめることです。

 大学院時代は、東急田園都市線・営団半蔵門線と営団東西線を使っていましたので、溝の口~九段下、九段下~早稲田の全駅を使っていました。九段下で降りて神保町まで歩き、古本屋をまわったり、池尻大橋か三軒茶屋で降りて、やはり池尻や太子堂の古本屋をまわって、それから食事をしたり(三軒茶屋駅付近には美味い店が多いので)、永田町で降りて国会図書館へ行ったり、というようなことを繰り返していました。

 大東文化大学法学部法律学科に移った2004年4月から2010年4月8日まで、通勤のために東急目黒線と都営三田線を使っていました(現在も、時折ですが目黒線の目黒〜大岡山を利用することがあります。また、三田線の神保町〜西台は、1年か2年の間を除き、現在も私の通勤ルートです)。田園都市線・半蔵門線に比べるとつまらないというのが私の印象なのでしたが、それでも、とくに板橋区内では途中の駅で降りることがあります。

 2002年4月27日から2014年10月14日まで、「川崎高津公法研究室」に「待合室」を掲載していました(正式に終了したのは2015年1月24日です)は、私の趣味的要素を前面に出していました。2004年になってから、私が通勤で利用している東急目黒線の途中下車シリーズを始めました。その第1弾が奥沢駅です。起点の目黒駅から、あるいは本来の終点である田園調布から順番に取り上げていた訳ではありませんし、大分市を取り上げていたかと思えば板橋区に飛び、渋谷区を取り上げていたかと思えば長崎市に飛び、世田谷区に移ったりしていたので、本当に気ままな進行です。

 東急目黒線は、2002年8月5日まで目黒と蒲田とを結んでいた目蒲線を二分割した結果、誕生した路線です。系統上は、目黒から武蔵小杉まで(日吉まで伸びたのは2008年)が目黒線、多摩川から蒲田までが東急多摩川線です。但し、目黒線の正式の区間は目黒〜田園調布であり、田園調布〜日吉は東横線です。目黒線のほうは、目黒線は、東京メトロ南北線(さらに埼玉高速鉄道)および都営三田線と相互乗り入れをしています。

 その途中にある、目黒線、そして東急線全線の運転の要所が奥沢駅です。目黒線では唯一、世田谷区にあります。昔、この辺りが世田谷城主吉良氏(有名な吉良上野介の祖先)の所領だったとのことで、その経緯もあって世田谷区になっています (この地区は玉川村でした。九品仏として知られる浄真寺の近くに奥沢城があったそうです)。開業は1923(大正12)年3月11日で、この日に目蒲線が開業しています(当時は目黒蒲田電鉄で、これが後の東京急行電鉄に発展していきます)。

 なお、この記事の写真を撮影した日には、まだ目黒線に急行が走っていなかったのですが、現在は急行通過駅です。

 奥沢駅南口にある池(?)です。奥沢駅の場合、田園調布・武蔵小杉方面が南口、目黒・南北線・三田線方面が北口と完全に分かれており、駅構内には跨線橋も連絡地下道もありません(大井町線の尾山台駅も同じ構造です)。奥に踏切が見えますが、その踏切を渡ってすぐに北口の改札口があります。さらにまっすぐ進むと自由が丘のほうに行けます。

 地名の由来というものは面白いものです。世田谷区については、ここが伊勢神宮の領地で谷地だったから、という説と、アイヌ語起源説とがあります。野毛(下野毛は川崎市にありますが、上野毛などは世田谷区にあります)についてもアイヌ語起源説があります。奥沢については調べ切れなかったのですが、おそらく地形に由来するものと思われます。

 ちなみに、東京の地名について記しておきますと、深沢は「ふかさわ」と読みますし、白金も「しろかね」と読みます。また、三田線の志村坂上が「しむらさかうえ」、丸ノ内線の中野坂上が「なかのさかうえ」と読むように、「●●坂」という場合には「●●ざか」ではなく「●●さか」と読むことが多かったようで(今はわかりませんが、東急バスのバス停名が地名に忠実でした)、このように濁音を使わない所が多いのです。駒沢も、現在は「こまざわ」ですが、元来は「こまさわ」でして、地元の老人などでは今でもこのように言うそうです(野沢はやはり「のざわ」でしょうか)。

 また、この奥沢は意外に広く、奥沢駅南口が三丁目、北口が二丁目、東横線・大井町線の自由が丘駅付近が五丁目(駅自体は目黒区にありますが、少し歩くと世田谷区奥沢五丁目になるのです。また、東横線に駅はないのですが奥沢を通ります)、大井町線の九品仏駅が七丁目です。

 駅前にある和菓子屋さんで「氷」の暖簾を見つけました。少し前まで、世田谷区を歩いていると、所々で見かけたものです。板橋区などでも時折見かけます。不思議なことに、こういう懐かしいものには、川崎市などでよりも、都内でのほうが出会うチャンスがあるのです。

 そう言えば、大分市に住んでいた7年間、このようなものを見た記憶がありません。中央町や府内町にあったかもしれませんが、私が住んでいたのは中心街でなく、新興住宅地のほう、豊肥本線敷戸駅付近でしたから、昔からの和菓子屋などがないのです。

 奥沢駅南口から東玉川、田園調布方面に歩き、脇に入った所です。奥沢四丁目にある商店街です。土曜日の夕方にしては人通りが少ないのですが、以前から、奥沢などの商店街はこのような感じだったと記憶しています。自由が丘に近いですし、目黒線には武蔵小山という買い物スポットがあります。目黒線とともに目蒲線を構成していた多摩川線や池上線の沿線にある商店街の多くも、大体このような感じです。

 もっと歩くと、何か面白い発見があるのではないか。目黒線の沿線には、そんな期待感があるのですが、それはまた、別の機会に、時間を見つけて。


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