ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

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求心力

2007-05-13 11:51:46 | オピニオン
何となく思うこと

▽商品

合法的人身売買の人材派遣業まで盛成し、名古屋の風俗のリポートなど読むと、すべてが、人間までもが、商品化されゆく流れにある。モノならば人は商品から疎外されていく。都会へいくと、「商品はこう使いなさい。」と強迫(脅迫ではない)されるように感じる。一方ど田舎に行くと、あまり「よくわからないもの」がこんなにあったのかと驚く。普段欲望の視線を投げかけていたモノも、こんな一面もあったのかと思う。(人間もやがてこうなるかもしれない…)。生活のために使われるモノが田舎では多い。生活のなかにあるモノは、欲望と使用の間に我々のような病的な乖離はない。いたずらに消費意欲をあおらない。モノは落ち着いた本来の顔を持ってそこにある。リルケの詩のような現象を我々は味わう。

果実というのはよくわからい、いろいろな意味があった。それを我々は店頭に、近代的な商品化をして並べることで、意味をはぎとってしまった。小説『檸檬』ではないが、いろいろなものを連想させる、象徴にもなる。結果、性的なもの、お祭り、幸福、色、出生、生まれるもの、死、贈与、…。かつて少年時代、同級生が農家でよく桃をもらった。普段食べる桃とは違っていた。あの強い味や、甘味を連想させない、何かはぎとられた、変な感じがした。味は店で売られているより遥かにおいしいのに。だ。普段はそれだけ、桃を食べるもの、フルーツという概念、桃の味というパターン、型にしばられているのだ。それがなくなったら本来の桃がよくわからないという変なことがおこる。トマトも切断され、料理やサラダに置かれなければならない気がする。イタリアのお祭りで投げ合う姿を見ると「もったいない」*と思うが、本当にそう思っているか。日常の像が破られるのが怖いのかもしれない。商品でなく、家庭菜園し、余ったトマトを、潰してみたり、顔料にしてみたり、一気
に使ったり、そういう商品にしばられない自由を失ってしまった。

これは、もっと簡単な例をだそう。ブランドのバックが欲しい女性が、自分が一番買いたいと思っているものを、近所のおばさんにもらって喜ぶだろうか。


だが、この問題は近代が消費意欲と施設を、何か以前別の形で行われていたことを代替していて、単純にぶち壊せとは言えないところだ。デパートやバーゲン、それに都市は明らかにかつての祝祭や非日常を反映している。もしぶち壊してしまったら、祭やバカのない農村社会になり、それこそ失敗した共産主義のユートピアとなりかねない。

*「もったいない」は昔は本当にただ単にもったいないから無駄にするなということだったが、今では社会(→商品)として無駄にするなという制度となってしまった。


▽会社

会社に行きだしてから、1年がたった。環境もよいし、辛くないし、人間関係もよいし、楽しめる方だ。私としては。だが、いろいろな事を考えて、実行してゆく、一番仕事で得られるはずの力がどんどん失われていくようだ。これはフリーター時代とまったく反対なのだ。会社の中では、そういう力はアップした。いわゆる社会の中では。しかし広義の社会全体に働きかける力が、非常に弱っている。今はネットも含め、保守的な内に向かう求心力に呪縛されているような、強迫的な時代である。もちろんその影響もあるだろうが、それにしても弱くなった。もしかして日本企業が家族的なところに問題があるのでは。もしかして家族や近隣住民の中では、力をつけられても、基本的には、どんどん引きこもり度数をあげているのでは。実は、契約社員の私でこれでは、正社員で大企業就職した連中は、遥かに、なんと、別の世界で同じ引きこもりになっているのではないか。