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間瀬銅山のたぬき掘り

2014-04-20 10:08:40 | ふるさとの四季

鎚起(ついき)銅器の菓子皿。
叩かれた銅の模様が素敵です。
1,500円ならつい手が出そうになりません?





カミさんと燕市産業資料館に出かけました。
燕といえば金属洋食器に鎚起銅器。職人の町で世界的に有名です。

最近では金属研磨の「磨き屋シンジケート」職人集団が話題です。
チタニウムの加工と「ミラーの800番」を上回る1,000番の光沢度技術はかのApple社スティーブ・ジョブスCEOにiPodを磨かせたのです。



 
そんな燕市の伝統、鎚起銅器の体験講習会に申込みました。
ひたすらたたいて模様を付け曲げ伸ばします。
なんと講師はあの人間国宝のご子息とのこと。ほかに生徒はいないので個人教授です。
叩くと硬くなるので周囲は叩かないようにと講師に言われましたが、意地で叩きすぎて曲げるのに苦労しました。

トップ写真は2時間コース1,500円ナリ、私の完成作品です




 
温泉の匂いのする溶液に浸けると表面が色つきます。
乾かしたあと、電熱器で熱して「ろう」づけすると絶妙な色に・・。




:燕産業資料館展示室
燕の金属産業の歴史は古く、江戸時代の和釘から始まったとされます。
明暦(1655年)の江戸の大火でその復興に燕の和釘が使われて釘職人が急激に増えましたが、需要が後退するや家庭用品や農具の製造に転換。鍋、鋸、鎌などやヤスリも造られるようになり、金属産業の基礎ができたようです。


「元禄年間(1688~1704年)、弥彦山のふもとの間瀬村で銅山が開かれ、燕では和釘に続いて銅器づくりが盛んになります。「緋色銅」とよばれる品質の良い銅が地元で採れたので燕は他の産地よりも有利でした。間瀬銅山は明治以降も採掘が続けられましたが採れる量が減少し、大正時代に閉山しました。」:燕産業資料館展示室

そしてこの間瀬銅山の良質な銅が玉川堂の鎚起銅器と人間国宝、玉川宣夫氏を生んだのです。
「江戸時代後期、仙台の渡り職人が燕に鎚起銅器の製法 を伝え、1816年(文化13年)、玉川堂の祖、玉川覚兵衛によって受け継がれました。」と玉川堂HPにあります。


ナベやヤカン作りに始まり、江戸の煙管技術が伝えられると飾職の技術と同時に矢立・花器などの銅器の高級品を作る職人も出てきます。
併設の丸山コレクション矢立煙管館には遊郭の花魁が吸った煙管など圧巻の品々が並びます。




:2013.11.09間瀬田ノ浦温泉真川沿いに点在するたぬき掘り跡
ひたすら叩いて叩いて汗かいてできた皿に、間瀬銅山跡に残るたぬき掘りの横穴を見た一日でした。





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