和納中37年入学

同級生と和納と旅行をアップ。誰だか分かる?

「一つぬひで後に負ぬ衣がへ 」

2014-06-02 09:55:01 | 日記

「奥の細道行脚の図」許六画


世間では6月から衣替え。
学校では月曜の今日からなのでしょう。
白山駅から降りてくる高校生のワイシャツが眩しかった記憶はもう4年も前の6月です。
衣替えの習慣は平安時代と古く、宮中行事が中国の風習に習って旧暦4月1日、10月1日に夏服と冬服を着替えると定めたとされます。
四月朔日と書く名前の人がいるそうですが「わたぬき」さんと読むのは綿入れの衣服から綿のない合わせに替えた日だからなんですね。



俳聖芭蕉が貞享四~元禄元年(1687~8)伊賀から高野山、吉野、奈良、須磨と杜国(とこく:万菊丸)と旅した紀行文「笈の小文(おいのこぶみ)」のページ。衣更とあります。追)2020.5.25  衣替の次に 吉野出て布子(ぬのこ)売たし衣がへ 万菊 とある。

「一つぬひで後に負ぬ衣がへ 」芭蕉
吉野の桜を観たあと、旅の途中では一枚脱いでうしろに背負えば私の衣替えだと詠んでいます。
会社勤めしていた頃、毎朝交替で朝礼スピーチがありました。
5月も終わりの頃にもうじき衣替えですねと芭蕉の句を紹介して話したことを思い出しました。
スピーチのオチは自作の川柳です。あまりオチませんでしたが・・
「衣替え今年も始めるダイエット」


「元禄元年三月十九日、杜国は万菊丸と名を変えて、伊勢から上野の芭蕉のもとにきた。お忍びの旅である。芭蕉は万菊丸を連れて吉野探訪の旅に出た。笠に 乾坤無住同行二人 と書き入れた。これは巡礼が笠に書く文句で、常に仏と一緒にいるという意味だが、ここでは芭蕉と万菊丸の二人という意味である。芭蕉は よし野にて桜見せふぞ檜の木笠 と詠み、万菊丸はこうつづけた。よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 どう考えても駆け落ちの句である。芭蕉の万菊丸への恋情はすさまじく、万菊丸もまた身をよじるようにしてそれにこたえている。・・・万菊丸と二人の旅は芭蕉の生涯でもっとも楽しかった時間であろう。・・・」と嵐山先生は書いています。
「笈の小文」は女にしたいほどの美貌の若衆、さぞ色白ふくよかな美少年衆道(男色)との二人旅の紀行文だったとは。
俳聖芭蕉の隠された?一面を見てまた好きになりました。
流刑となった杜国の墓がある渥美半島伊良湖岬保美の里をいつか訪ねてみたいものです。

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