和納中37年入学

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津川河湊のむかし

2020-11-02 11:45:19 | 旅行

秋晴れの麒麟山(191m)

先月の日曜、GoToトラベルで9月に麒麟山温泉に泊まった時に申し込みした「津川まちあるき」にカミさんと出かけた。午前中プランの麒麟山登山と津川城址はクマ目撃情報多数で中止、狐の嫁入り会館で河湊、津川の歴史をまちあるきガイドの説明に聞いた。

会館に貼られてた当時の写真(観光ハガキの複写「北越名所 小花地の帰帆」とある)は、左阿賀野川と右常浪川の合流点に会津からの荷を積んで下る帆掛け船と麒麟山が写っている。この右手川岸に開けた津川湊から会津には海産物、塩が行き、木材、薪炭が下り、年貢米が北前船で大阪に行ったとある。最盛期には150隻の帆掛け船が行き来し100人の荷役の丁持ち衆がいたとも。

かの大英帝国の旅行家イザベラ・バードは46歳明治11(1878)年6月10日に東京から日光、田島、大内を経て7月1日に津川に着き、3日ここから定期船で新潟まで下り、山形、秋田、青森から函館に渡る。8月22日苫小牧の東、アイヌの地平取で折り返し、9月14日に函館から海路を横浜に戻っている。維新後わずか11年にして外国人女性が「奥の細道」を津軽海峡を越えたのにビックリだ。

日本奥地紀行(UNBEATEN TRACKS IN JAPAN)を読むともう旅行の域でなく冒険ではないか。馬の背で悪路に悪態をつき、簡易ベッドを使ったが宿のノミ虱には閉口したようだ。しかしここ津川では  「 獲れたての鮭の切り身が一切れ差し出されましたが、これほどおいしいものは食べたことがないように思います。陸路の旅の最初の部分をこれで終え、あすの朝は船で新潟に向かいます。I.L.B 」   「 静かに流れを下るのは快適で、空気はおいしく・・・事前になにも耳にしていなかった私には津川の美しさは快い驚き・・・津川をあとにしてすぐ、川下りの航路はすばらしい山々にふさがれたように思えました。・・・」 と津川ベタほめしてる。ライン川より美しいってお世辞でなく、美味しい魚に出会い悪路から解放され、いい景色の楽々船下りに癒されたんだろうな。まち歩きガイドによると、サケの時期ではなく海に下ったヤマメのサクラマスだろうとのお話。

当時は会津藩領だった津川は、会津から日本海に抜ける交通の要衝だったんだな。朝8時に出る定期船は8時間で新潟に下ったとバードは書いている。遡航するには棹を挿し綱で引き大変な労力で5~7日かかるとも。順風満帆なら新潟から70kmを2日で上がれたようだ。動力のない当時、川の遡航エネルギーは風力と人力だったのか。堤防で綱を引っ張る人足たちがいたってことだ。牛馬もいたんだろうな。

だいたい北海道には最短奥州街道を行けばいいと思うけど、日光からわざわざ山道の会津を津川に抜けたのは新潟の英国宣教師館に行く目的があったからと云われている。18歳の青年通訳伊藤鶴吉を伴っての旅行家の好奇心は、英国公使ハリー・パークスのキリスト教普及の可能性という意図の企画と結びついて、12月に香港に渡るまで7か月間の紀行を記録に残した。行当りバッタリの旅でなく外務省、開拓使、内務省など日本側の支援付き用意周到計画された旅とはいえ、奥地を行く彼女の観察眼は鋭く面白い。

当時外国人居留は唯一日本海側では五大港新潟だけ、英国の妹あての第18信( 7月4日新潟にて )に書いている。「 わたしたちは何百隻と行き交う荷を積んだ船に混じって、農産物や物資の輸送路である数多い運河のひとつを棹で進み、この都会の中心部で陸に上がりました。そして何度も道を尋ねたすえ、教会宣教館にたどり着きました。・・・ここでファイソン夫妻からとても暖かい歓迎を受けました。・・・意味不明の日本語のおしゃべりばかりを耳にし、日本人の無作法をえんえんと経験してきたあとだけに、洗練された西洋人の家庭に迎えられたことがどれだけうれしいものであるか、あなたには想像もつかないでしょう。I.L.B 」

 

阿賀野川から運河を棹で進んで、新潟の中心部に上陸って? どこ通って来たんだろうって思ってWiki見たら、そのむかし阿賀野川と信濃川は繋がっていた。新発田藩が享保、吉宗の時代に洪水対策で阿賀野川を松ヶ崎掘割として開削し日本海に直接注ぐようになるまで河口付近で信濃川に合流していたとある。旧流路は通船川として下流域の船運に使われたとある。もう一つは小阿賀野川。これも寛延、家重の時代に新発田藩が新津満願寺から信濃川酒屋までの流路を川幅改修したいわゆる運河。新潟津川間の船運を津川船道として会津藩の西口航路として重視されたとある。

バードの乗った船は満願寺で小阿賀野川に入り酒屋で信濃川に出て新潟島( まだ関屋分水はなく島ではないか )を白山堀から入り東堀の本町9番町辺りで上陸したのではと云われている。当時の西堀か東堀を「 街路と運河 」の風景をスケッチしている。橋の上からの堀の様子が上手に描かれて、とてもきちんとしていて清潔な町並みは居心地がよさそうと新潟を誉めている。

 

埋め尽くされた筏と当時の麒麟橋。船でなく筏に乗って下った人も多かったのではとガイドI飼さんの話。朝ドラ「おしん」で雪の最上川を筏に乗って酒田に奉公に下る涙のシーンを思い出してしまった。遠く「カナベラ山」が霞んでいる。

 

狐の会館でガイドの話を聞いてるさなか、汽笛が対岸から聞こえ蒸気の煙がたなびいていく。SLばんえつ物語号が見え隠れしながら過ぎていった。

訪れた人に歴史が語りかけてくるような津川河湊。バードが気に入ったのがわかる気がしたな。

 

 

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