和納中37年入学

同級生と和納と旅行をアップ。誰だか分かる?

「男は黙ってサッポロビール」

2013-07-15 17:47:42 | 旅行
愛称「赤星」

現存する日本最古のブランド。サッポロラガービール。
北海道最後の夜は苫小牧駅前に寂しく1軒赤ちょうちんで、本州のスーパーではお目にかからない大ビンに出会えました。


サッポロビールの前身・開拓使麦酒醸造所から、創業翌年の明治10年(1877年)に発売された、現存する日本最古のビールブランド。ラベルの“赤星”が目印で、愛称ともなっています。:サッポロビールHP

赤星は開拓使の旗印である北辰旗(ほくしんき)にある北極星(ポラリス)がその由来とあります。


ずっと麒麟、サッポロ、朝日の順位でしたが、生ビール時代になって出たアサヒスーパードライは強烈でした。朝日に抜かれ新参のサントリーにも抜かれ、宣伝もヘタ(?)のサッポロは万年最下位でした。もっとも沖縄にあったオリオンビールを入れればブービー4位ですけど・・・。
恵比寿の工場跡地再開発が当たり、不動産事業が本業の儲けを遥かに超えて「サッポロビル」と言われたこともあるとか・・。

CMの「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」知ってます。
小学校の頃から聞いてるので今でもメロディー擦り込まれています。ただ「○○○の合言葉」と続いたと思うのですが思い出せません。
世界三大ビール生産地でもミルウォーキーがアメリカ東部の都市だとはずっと知りませんでした。
ハーレー・ダビッドソンの本社がある都市だそうです。
昭和33年(1958)から昭和45年(1970)世界の三船登場までずいぶん長い間流れたそうですが好きなコピーです。

7/22追)YouTube見ました。ボニージャックスがラテンリズムで歌ってました。

「皆さーん。サッポロビールのお時間です。
 シュポ! ウォ!
♪知っていますか 知ってるかい
 世界のビールの名産地
 ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー
 うまいビールの合言葉
 ミューーンヘン サッポロ サッポロ ミールウォーーキー」

 

三船の「男は黙ってサッポロビール」。
CMだけでは味の追求アサヒスーパードライ登場にかないませんでした。
Youtubeで見たカナダで放送されてるサッポロビールのCM。ビックリです。


地ビールが出始めてじき20年ですが、第1号のエチゴビールが巻にできたときは珍しさから、じょんのび館前の工場兼レストランパブに何度か通ったもんです。
苦味とフルーティな香りのするペールエールは新鮮でした。
ドイツ人の奥さんがブランコ乗ってパブの壁天上に絵描いてましたっけ。



ご主人も奥さんも芸術家なんだそうです。ドイツビールは飲むと雄ヤギのように元気になるんだそうでビールグラス持つヤギのマークは奥さんが描いたそうです。
たっつあん(にいだや)となっちゃん(倉井夏樹)の歌とハモニカもそこで聴きました。
鶴亀の上原酒造からブルボンに経営が移っても地ビール第1号は輝いてます。

私は家で飲むので残念ながら「金麦」派です。



追)7/28の日報に「与板でビールフェスタ」の記事が載ってました。
日本人初のビール醸造家で旧与板町出身の中川清兵衛にちなんだビアガーデンイベントが毎年7月下旬に開かれているそうです。サッポロビールの起源となる「開拓使麦酒醸造所」の初代主任技師。とあります。

「弘化5年(1848年)、越後国三島郡与板(現新潟県長岡市与板町仲町)に於いて与板藩御用商人扇屋・中川津兵衛分家の長男として生まれた。本家の家業を継ぐべく養育されたが、17歳で郷里・与板を離れ開港間もない横浜へ向かい、ドイツ商館に勤務する。程なく幕府の禁を犯して慶応元年(1865年)4月イギリスへ渡航した。その後1872年(明治5年)にドイツへ移り、その地で青木周蔵と出会う。青木の支援によって、1873年3月に当時ベルリン最大のビール製販会社であったベルリンビール醸造会社ティボリ工場で修業し、厳しい職場環境の中でビール醸造の技術習得に心血を注いだ。2年2ヶ月後の1875年(明治8年)5月、同社は中川の修業に対しチンメルマン社長・工場長・技師長連名の、豪華な羊皮紙の修業証書を与えた。この証書はサッポロビール博物館に保存されている。1875年に日本へ帰国。当時開拓使管轄の札幌へ移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として貢献する。」:Wikipedia

その後小樽での旅館業から実業界に生きた驚嘆する人生です。国禁の渡航、醸造技術習得に執念を感じます。


密出国(犯罪)者?には中川のほか、あの新島襄など大勢がWikiには載っています。
最近?(1962年)では「太平洋ひとりぼっち」マーメイド号の堀江謙一氏。

「当時はヨットによる出国が認められなかったため「密出国」という形になった。日本では当初この点について非難が殺到し犯罪者扱いすらされたが、当時のサンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れたところ、日本国内のマスコミ及び国民の論調も手のひらを返すように堀江の偉業を称えるものに変化した。その後帰国した堀江は密出国について当局の事情聴取を受けたが、結果起訴猶予となった。」:Wikipedia

禁を破っての密航。栄光の陰に処刑や事故で消え去った人も大勢いたことでしょう。




4日目、北海道走る最終日。
日高→空知→上川と来て比布町の悠湯ぴっぷから、R40号を宗谷本線に沿って和寒→剣淵→士別→風連→名寄→美深と北上。
ここでR275号に入りR239号を苫前→留萌に抜けます。


美深から延々と森の中を走り、すれ違う車のないR275号。
朱鞠内湖(しゅまりないこ)の南を走ります。

ネット見ると、周囲40kmに及び冠水面積は2373ha、雨竜川上流に昭和18年完成の雨竜第一ダムによる人造湖として日本一の広さを誇りますが、強制連行、出稼ぎのタコ部屋労働など劣悪な環境の負の歴史を持つ湖でもあることが載っています。
大勢が失意のうちに亡くなったようです。

その昔、ビッグコミックで読んだ手塚治虫「シュマリ」思い出しました。
アイヌの族長にもらった名前シュマリとは狐を意味するそうですが、手塚さんこの朱鞠内湖からインスパイアされたのでは・・?

その魅力的な名前からルートにしましたが、「何も見るとこないね」とつれない感想の野次喜多二人でした。
車にはねられた鹿を片付けてる数人と道の草刈りしてる人見ましたが、あとは走る道が続いてるだけです。
展望台にあった周辺図の看板見ればだいたい想像つきません?色あせてます。

途中、看板にある母子里(もしり)で昭和53年2月になんと-41.2度日本記録の寒さとありビックリです。

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