mieのひとりごと。

生きていく。

兄、急死。

2019年01月21日 15時46分04秒 | Weblog
兄が1月某日、21時に4分に亡くなりました。

支援センターで週一でランチを作って皆で食べて少し話したりゲームしたりしていて
その日でした。
兄はいつも野菜やお肉を切る担当で
いつも通り参加して
食事したあと、イベントに連れて行ってもらって
そこでお茶のサービスがあって
飲んだ後、コップを返す時、ふらついて
そのまま倒れたそうです。
ギリギリ職員さんが支えてくれて
ケガはなかったのだけど
意識を失い、救急車を呼んだそうです。

2時過ぎ、施設職員さんから電話があり、
「お兄さんが倒れて一時的に意識を失って今は意識はあるけど救急搬送しました、様子を見てまた連絡します。来られるのなら気をつけて!」
と、慌てた様子。
一旦、電話切ったけど
動揺して何をしていいのか
とにかく出る準備を始めた。

すぐに救急車の中から救急隊の方から電話があり
「妹さんですか?今、病院に向かっています。意識ははっきりしています。
こんなときの高速運転は危ないから慌てず、気をつけて来てください。」
とのことでした。

私は娘と自宅にいました。
すぐに向かいました。
その時点でどう動いたのかわかりません。
給油して休憩もしないで慌てないように気をつけて車を走らせました。
途中、病院と施設から電話が入ったので
パーキングエリアでかけ直し。
今、どこか、あとどれくらいで着きそうか…と言われ
「後、一時間くらい」と答えたような覚えが…。

その時点では
しっかり話しているのでゆっくり来てください…でした。

病院に着いたら施設の方が付き添ってくれていました。
トイレに一人で行けたんだけど
おう吐したそうです。

でも、普段と同じように足取りはしっかりしているし、普通に話せます。
と言ってしばらく待ち合いで付き合ってくれて担当の方は帰りました。
一時間くらいして呼ばれ
兄に会えました。

救急センターの診察室でストレッチャーに横になっていました。

泣くのを我慢して
「大丈夫?話せる?」
兄「みんなで出掛けたところで倒れた。大丈夫」
みたいなことを話したと思う。
私「入院だからね、すぐ退院できるから先生と看護師さんの言うことをちゃんと聞くんだよ」
兄「うん、入院のお金は?新聞がたまっちゃうから退院するまで家にいて。
何か飲みたいから明日ヤクルト持ってきて」
私「わかった。○ちゃん治るまでいるから心配ないよ」
…いつになく兄に優しい私。
涙が出そうで我慢していた。

あまりにも普段と変わらないので
医師に
「どれくらいの入院になりますか」と聞いてみたら
10日~2週間かな、すぐに帰れるよ…
ただ血圧が低いから
病棟に移動して循環器の先生からまた説明があります。
と、言われ病棟に移動。
その時も
新聞が…お金が…と心配していた。

兄は病室に。
私は少し待ってから医師の説明を受けました。
血圧が低い、このまま帰っても
心筋梗塞になりまた倒れる可能性大。
一人でいたら死んでしまう。
カテーテル検査をします。
と、説明をされました。

父は二回カテーテルをやってステントで
復活しているので
安心して同意書にサインしました。
1時間半くらいかかると言われ
何の心配もなかった。
父の時と同じだから普通に戻ると思って
きれいな下着持ってこよう。タオルと
洗面道具。新聞、イヤホン、コップ…
頭の中で持ってくるものを並べた。

待ち合いのテレビを観ながら軽い気持ちで待っていました。
1時間過ぎた頃、
家族の方、すぐに来てください!
と看護師が呼びにきて一緒に手術室へ。
何が何だかわからず
でも何か起きたんだ…動悸が止まらなかった。

行ったら心臓マッサージされていて…
先生から画像で説明されたけど
兄が気になってなにが起きてるのか
立っていられなくて
看護師さんに支えてもらっていた

心臓の細い管が3本詰まっていて
バルーンを入れて通したが低血圧を起こしてしまった。

もう一度バルーンを入れてみます
また待ち合いへ。
その時は待っていられなかった。
あの姿見て落ち着けるはずがない。
また手術室へ…
心臓マッサージされてる
また説明された
心臓マッサージをやめれば亡くなります
人工心肺の手術をすれば
意識は戻らない。
それでも数日で亡くなると思います
…そんな、さっきまで話していたのに
そんな選択…無理。
でも答を出さないといけなくて
手術はいいです…と言ったと思います。
病棟待ち合いで待つように言われました。
ただ涙が溢れてどうしようもなかった。

そして兄は心臓マッサージをされたまま
ストレッチャーで上がってきました。
ナースステーションの隣の処置室へ移動して
また説明を受ける。
マッサージをやめれば亡くなります…
ずっとマッサージしてくれていたので
もう十分ですと答えた。
そして兄はあっと言う間に亡くなってしまいました。
私はすぐに叔父を呼んで兄を葬儀会社の迎えが来るまで一緒にいてもらった。
ただ泣いてるだけ。
兄の顔を見ればつらくなり
でも兄の顔に触れて謝った。
今年はまたひとつ楽しみが増えて
去年よりひとつ幸せな時間を過ごせるはずでした。
父が施設に入ってから一年、一人でやってきて
あまりにも寂しそうでかわいそうなので
何とかしたいと思っていました。
でもグループホームは高くてどうにもならず
家があるから支援を受けながらこのまま
様子みて支援を増やすとか
今年からは週1で体の様子も見にきてもらうことになっていました。
悔やまれるのは
年末のこの一年の計画の話し合いに参加できなかったこと。
父の入院、退院と重なってしまったので行けなかった。
電話で参加したけど昨年と変わらないので大丈夫だとのことでした。

わけがわからないまま
葬儀を済ませ、手続き、実家の片付けをして一旦帰宅。
この2週間ほどなにが起きたのか
何をしてきたのかまだわかりません。

年末に段ボールにいっぱいの食品を買って置いてきて
みかん、りんご、ほとんど食べていなくて
冷蔵庫には蒲鉾、伊達巻など年末ヘルパーさんと買い物にいって買ってきたものがたくさん入っていた。
私もお餅を買ってキンピラを作るのでゴボウと人参、お雑煮作るから鶏肉も。
炊飯器にはご飯がそのまま。
これを片付けるのはつらかった。

私が行けば後をついて
それは捨てるな、さわるな、
とにかくうるさくて
お風呂やトイレまでついてきては
話しかける。
バッグの中身を探る。汚い手で。
それがストレスになっていたけど
こんなことになるなんて
それくらいガマンすれば良かった。

私は兄のために動いてきたつもり。
もっとやってあげたいことがあったけど
精一杯だったと思う。

今回、みんなと出掛けたところで
倒れたのは不幸中の幸い。
施設の職員さんがいたので
すぐに対応してもらえた。
これが一人きりの夜、階段で倒れたりして次の日ヘルパーさんの来ない日だったらと思うとぞっとします。
…結局亡くなってしまったけど。

葬儀は家族葬でこじんまりと送りました。
ヘルパーさん、支援センターのスタッフ
さん、関わって下さった方々が5人来て下さり
涙を流してくれました。
ホントに兄を支え、支援してくださったことに感謝しかないです。
旅行も二回行けて今年も行くはずだった。
昨年はおみやげを私にも買ってきてくれて
ヘルパーさんにも買ってきてくれた。
福祉課を訪ねなかったら
父に罵られ、暴力を受け
ひきこもるだけの人生だったと思う。
優しい女性スタッフさんや仲間とセンターでご飯作ったり出掛けたりした仲間ができたことは
うるさい私とだけ関わるより
楽しかったはず。
最後にドライブに行く約束をしていたのでそれができなかったことが悔やまれます。
父のことがあって2ヶ月くらいは
買い物にも連れていけなかった。
天気がよければ富士山とお茶畑が見える場所に行って
たこ焼を買ったりしていたのに
もう兄はいない。
電話もかかってこない。

四十九日を済ませたら
お位牌と写真は連れてくるつもり。
この狭い家に置いて毎日手を合わせて
兄、母、祖母、祖父、叔父を思う。

兄は写真など撮らないから遺影をどうしようか困ったけど
みんなと旅行に行ったときのものを
使わせてもらった。
コピーだけど旅行の写真をもらった。
スマホのポケットに小さい写真を入れた。
かわいそうな人生でした。

お骨はお寺に預けて
一旦戻りました。
疲れがひどくて3日間くらい動けなかった。
ただ横になっていた。
まだまだ落ち着かないし
やることいっぱい。
一度仕切り直してまた行って片付け。
手続きもあるし。
一人では一年以上かかりそう。
何しろ不要なものがたくさんあって
とても一人では無理。
業者を探すことになると思う。
少しでもゴミを片付けて
スッキリする。
一年でできるだろうか。

父のこともあるし。
とにかくしばらくは大変。
一人で頑張るしかない。
今年は母の三回忌もあるし
兄の初盆。
夫の七回忌…。
こんなことになるとは…。