DALAB情報発信用ブログ:OpenCAE+GPGPU+Peridynamics編

DALABで行っている研究活動の中で、OpenCAEやGPGPUや破壊解析の取り組みについてまとめてゆきます。

研究資料の整理

2006年06月11日 07時44分18秒 | Weblog
柴田は、仕事と趣味が重なっていて、それは計算機である。あと、それを使いこなすための図書も大好き。と言うことで研究室には、計算機関連の雑誌が異様に沢山ある。たぶん、今でも毎月10冊以上は定期購読になっていると思う。これを、25歳ぐらいから続けているので、もう15年ぐらい経過している。さらに、システムやプログラミングの図書も、必要だと思うものは、ほぼ全てそろえているので、こちらも相当数買っている。と言うわけで、柴田の研究室に来ると分かるのだが、計算機と図書に埋もれていて、人間の空間というよりも、計算機と図書の空間の隙間に人間が入り込んでいる感じである。
それで図書や雑誌の整理が目下の課題となっている。図書は、マニュアル本だと古くなると意味が無くなり、ある程度は処分できて、あと本質的に価値があるものはずっと保存しておくことになる。なので、比較的判断がしやすい。
それで、問題は雑誌のほうで、これは毎月10冊ずつでも、12ヶ月が15年だと、1800冊ということになる。普通の本棚に50冊入れても、36棚ひつようで、本棚が4段と想定すれば、9本の本棚が必要ということになる。内容を考えると、雑誌は、連載などの貴重な情報と単なる広告が混ざっていて、情報の価値としては玉石混合状態だと思う。これをどうやって整理するかを色々と考えている。一番簡単なのは、諦めて捨てることなのだろうが、お金を掛けて購入したもので、雑誌は図書館でも保管されていないのでアーカイブとしての価値もあると思い、そうは割り切れない。
そこで、google のように、全ての情報を整理しつくすことで、新しい価値が生まれるのではないかと思っている。たとえば、昔の Linux 雑誌を見ると、古いバージョンの Slackware などがあったりして、今ではなかなか手に入らないと思う。なので、これらを保存している柴田としては、何とかこれらをアーカイブとしてまとめて、大きな力を持つ情報基盤:アーカイブ・データベースを構築したいと思っている。雑誌の紙メディアをスキャンして電子データにするまでは難しいけれど、FD や CD にある内容をデータベースに保管してゆくことは可能ではないかと考えている。
著作権の問題などもあるので、どのように利用できるのか分からないが、何かアーカイブが知的財産として価値があるものとして維持できて、それを多くの人が利用できるような仕組みが出来ると嬉しいと思っている。

研究日誌H180610

2006年06月10日 08時25分10秒 | Weblog
*試験日程終了*
昨日は、前期後半の開始、つまり中間試験が終わったということです。これで、あと少し待てば夏休み。早いもので、1年度の1/4が終わったことになります。毎年、これが精一杯という状態でいるのですが、なかなか落ち着いて研究をするという状態にはならないですね。
=午前は、授業を1つこなして、その後は、午後の授業の準備を進めた。
 この授業は1週間のうちで最も気がかりなもので、いつも頭を悩ませる。
 でも、やり方を工夫してきたら、段々こちらのペースで出来るようになってきたので、多少や楽になった。
=午後は、新しく始まる授業で、色々とネタを工夫したつもりで望んだが、まあ受け入れられたようで、良かった。
 その後は、研究室のゼミを再開した。しかし、試験直後で発表資料を殆ど準備していないようで。流会。
 仕様が無いので、アネックスの見学会も兼ねて、まあリクリエーションというところ。
 全員で今後の方針を確認した後、アネックスの書庫の整理などを進めるが、あまりの疲労に早々と切り上げる。
=夕方は、大垣から岐阜に向かうなかで、2件の大型ショッピングモールをはしごする。
 いま岐阜は大型店ラッシュで、どれも特徴があって楽しい!でも、これだけ多くの店がやっていけるのか?
 不安になるが、これも競争社会の1つの形なのだろうか?

今が幸せか?

2006年06月09日 07時38分27秒 | Weblog
社会は様々な人間が集まっている。構成する人々は、資質・条件・環境などなど、それぞれ異なった状態で生きている。なので、人間みな平等と言うが、実際にはピンキリの生活を送っている。でも、それぞれの状態の中で、誰もが幸せになろうとして、生きていると思う。
自分のことを考えると、今まで生きてきた中で、いつが最も幸せかと聞かれれば「それは、今!」と答える。これはやせ我慢ではなくて、そう思う。多少の躁鬱で、浮き沈みはあるが、平均すれば幸せなんだろうなと思う。では、なぜそう思えるのかを、分析してみたいと思う。
まず、外的要因から。まずは日本が豊かになったのだと思う。美味しい食べ物があるし、皆小ざっぱりした服を着ているし、子供の時の昭和40年代は、こうは整っていなかったと思う。次に、大人になったことで可処分所得が増加したので、思い通りのものを持つことが出来るようになった。車もあるしパソコンもあるし図書もあるし、柴田の欲しいものは、殆ど手に入った気がする。物質的環境的には、確かに豊かになったと思う。
次に、内的要因から。幸せを感じるためには、平均以上の幸運に恵まれる場合と、平均以下の不幸が訪れない場合の、2つがあると思う。柴田の場合、宝くじに当たったわけでもないので、すごい幸運に恵まれたわけではない。むしろ、不幸に会わない不幸を避けてきた、これがポイントだと思う。でも、引きこもっていたわけではなくて、果敢にチャレンジもしてきたつもりだが、常にバックアップや代替手段や担保を考えてきたのだと思う。
柴田の好きな女優冨田靖子さんが主演した「アイコ16歳」の名台詞で、「今が、一番幸せと感じることが出来る!」と言うのがある。これは、能天気なハッピー状態ではなくて、色々ゴタゴタドロドロがあるけれども、それらを1つ1つ乗り越えてゆくなかでこそ、幸せを感じることが出来るんだろうな。
だとすると、人生関数で言うと、幸せは感は関数の絶対値ではなくて上向きの傾きの度合いであって、たとえどん底でも急上昇は至福になるのだと思う。別の言い方をすれば、幸せは速度ではなくて加速度の度合いであると思う。高速道路で100キロでずっと走っていても速く走っている感じはしない。むしろ、50m走で停止状態から時速10キロでゴールを駆け抜けるときにこそ、幸せを感じるのだと思う。

草原を走るな!

2006年06月08日 05時41分33秒 | Weblog
良く分からないタイトルかも知れないが、これは人生と言う旅のなかで、見晴らしの良い草原での行動を戒めた言葉である。自分の身の回りで色々な事が起きるなかで、自分への注意喚起のためにも書き記しておく。
旅の中では、色々な場面がある。険しい岩場では、自然と自分の足元を見て、ゆっくりと進むことになる。手も使って体を支え、とにかく慎重に進んでゆく。こんなときは、意外と事無く終わることが多い。
しかし、広々とした草原では、視界も広がり平坦な土地なので、足元を見ることもなく、快調に進みだす。そこで、調子に乗り出すと、つい走り出すことがある。が、ここが用心のしどころのような気がする。
得てして、こう言う見晴らしの良い草原には、地雷が埋まっていることが多い。ゆっくり歩けば、掘り返した跡を見つけて避けられるはずなのに、足元を見て走ることは出来ないので、どうしても地雷を踏むことになる。つまり、「調子に乗りすぎた」と言う状態である。追い風を受けているときは、それに乗って進みたくなる。当然だと思う。整備された公園なら良いが、人生と言う草原には、何が隠れているか分からない。
リスクとリターンを考えると、ある程度の危険は承知で、走って早く進みたくなるのも大切だし、折角の追い風を無駄にしてゆっくり進むのも考え物だ。ここは、リスク管理とバランス感覚などだと思う。万に一つの地雷を避けるために、ゆっくり歩くか、多少のリスクは覚悟で突っ走るか、この選択こそが人生であり、生き方であり、その人らしさなどだと思う。
自分の場合には、どちらかと言うと、ゆっくり歩く方だと思う。多分。

ブログってなに?

2006年06月07日 08時02分18秒 | Weblog
このごろ、google や Web2.0 の本を立て続けに読んで、このブログについても、その意義や展望を、再認識することが度々であった。柴田のブログは、研究日誌そのもので、他人様が読んでも得るところが無いので、読書は、ホンの身内に限られている。
それもブログだと思うのだが、ウエブ進化論の言葉を借りれば、不特定多数無限大の人々との連携こそが、ブログの要であるようで、その点では、このブログはまだまだである。目的が違うものを比べてもしょうがないけど、良いものにしたい希望はある。
もう少し、他人様が読んでも、役に立ち、楽しく、感心する、そんな内容にしたいとは思っている。でも、柴田のブログのスタンスは、あくまで柴田の日誌であって、その内容から、柴田以外に影響が出ないように、固有名詞の登場は極力避けている。
なので、どの記事も「別にー」的な内容しかなく、このごろは、自分が読んでも、マンネリでつまらなくなっている。と言うことで、ブログ1周年を踏まえて、柴田のブログもバージョン2.0を目指して行きたいと思う。内輪ネタでも良いから、何か新しい知見や視点や情報などを盛り込めるように、努力して行きたいと思う。
このブログでは、トラックバックについては観点が違うものが多いので、受け付けないようにしているが、コメントについては全てに回答を記しているので、是非ともお願いしたいと思う。このコラボレーションこそが、ウエブ進化論の具体例になると思っている。

祝ブログ1周年

2006年05月30日 04時19分56秒 | Weblog
このDALAB情報発信用ブログも、昨日6月29日で1周年となりました。柴田ほどの飽き性が良くここまで来れたと思います。研究日誌が335ですので、始めた頃はまばらでしたが、ほぼ毎日記録が取れていることになります。
今後は、情報発信の意味を良く考え、充実した内容になるようにしてゆきたいと思います。ただ、柴田はあくまでブログは日誌だと思っているので、読まれることを前提にはしていますが必須ではないと思っています。続けられるだけ続けて行きたいです。
今後の方針
=研究的な情報発信をもう少し積極的に行い、役に立つブログを!
=日頃感じた感動や感傷を文章と写真でまとめ、共感を得るブログを!
=時間が経過してから、自分の活動を振り返ることの出来る日誌としてのブログを!

植物の力は不思議

2006年05月29日 05時36分20秒 | Weblog
植物の力にはいつも驚かされます。人間には無い、不思議な力を持っていると思います。今年は、前の花壇からツルの延びる植物が雨どいを伝って、2階の高さまで上ってきました。いつの間にか凄いなと思っていたら、庇に当たったようで、今度は何本かのツルが横に伸びてきました。支えのないツルは風のなかをフラフラ揺れていて、何かレーダーで探知しているように、支えを探しているようでした。
そのうちの1本が、比較的開けることが多い窓を見つけたのか、中に入ってこようとしました。このまま植物に部屋を占領されてしまうのが怖いので、ツルの先のほうを、折り曲げて、こちらに向かって来れないようにしました。ちょっと残酷なのですが、植物の生命力は高いので、この程度で枯れたりはしません。それで、ツルの先が折れて、下に垂れ下がっている状態でした。
今日の1枚は、その折れ曲がったツルを写しています。背景も植物なので、非常に分かりづらい写真となっていますが、良く目を凝らしてご覧ください。
さてそれから、数日経った昨日、このツルを良く見ると、下の方から同じように横に伸びたつるが、この垂れ下がったツルの先端に巻きついているのです。驚きました。あたかも、垂れた上のツルを下のツルが巻きついて、支えているように見えたのです。数日経っただけなのに、5回ぐらい巻きついていて、たぶんこのまま進みそうです。
不思議な点は色々あるのです。
疑問1:下のツルは上のツルが折られたことを知って、助けようと意識的に巻きついているように見えるのですが、植物には意思があるのでしょうか?
疑問2:意識的か偶然かは別として、下のツルは巻きついたツルが、同じ根を持つ1つの植物のツルだという、自己を識別しているのでしょうか?
疑問3:そもそも下のツルは、巻きついた上のツルをどうやって見つけるのでしょうか、風に揺られる中で接触した触覚を覚えて巻きつくのでしょうか?
たぶん、植物学の中で、きちんと解決されていると思うのですが、答えが知りたいです。

BoAに会いたい!

2006年05月25日 19時05分42秒 | Weblog
今日は、あまりに疲れて詰まっていたので、気分転換で同僚と馬鹿話をしていました。そこで、柴田が提案したのは「BoAに会いたいプロジェクト」です。理由はさておき、どうしたら合法的にBoAちゃんに会うことが出来るのかを、半分マジで考えていました。まあ、良くある現実逃避というものです。
いくつかアイデアはあるのですが、どれも荒唐無稽かヤバイものなのですが、唯一ありえなくないのは「BoAワールドワイドリアルストリーミングプロジェクト」です。以前、宇多田ヒカルがインターネットのストリーミングをやって話題になりましたが、これをさらにワールドワイドにして、リアルな映像と音声を、ストリーミングで送るもので、ここにグリッド技術を使って見たら?という単なる思い付きです。
で、BoAちゃんの公式ウエブをみたら、好きな映画が「ノッティングヒルの恋人」だそうです。そうか、そういう出会いを求めているんだ!だったら、上のプロジェクトも、もしかしたら、もしかするかも!!
それと、柴田一押しの Everlasting ですが、この歌詞は BoAちゃん自身によるもので、彼女の思いが詰まっているのだそうです。だから、あれだけの言葉で大きな別れを表現できて、その映像が目に浮かぶようですから。ますます聞き込もうと思います。

光の中へ

2006年05月13日 06時42分57秒 | Weblog
In to the light(光に向かって)、これはMISIAの歌に出てくる一節です。非常に気に入っていて、何か、自分を励ましてくれるような気がしています。
と言うのも、現在相当数の共同研究を抱えていて、どれもチャレンジが必要なものばかりで、早々簡単には進みません。どっちかというと、暗中模索と言う感じなのです。一応、未来は信じているのですが、煩雑な日常と繰り返す停滞に、気持ちが沈むことがあるのです。柴田は一応、楽観主義的な行動が多くなるよう意識はしています。とにかく前へ進むことを意識しているので、大抵は大丈夫なのですが、その裏側では、大きな不安があるのも事実です。
で、そんな柴田の気持ちを表したイメージとして、東京国際フォーラムのホールに向かうエスカレーターがありました。柴田の場合には、エスカレーターとは程遠い、崖や谷の険しい山道なのですが、遥か彼方の光に向かってゆく気持ちは同じです。ブログのコメントにも頂いたのですが、今は、飛躍のための貯めの時間だと覚悟して、コツコツ作業を続けてゆくしかないと思っています。
「捨てる神あれば拾う神あり」何だなーとつくづく思います。岐阜高専に来て、はや13年目なのです。この状況にしては、よく頑張っているとも思えるし、これだけの成果しかないの、両面の気持ちがあります。ただ、これだけ長く取り組んできて、方向性は定まってきたような気がします。つまり、論文を書く学会ベースの研究にはあまり興味がなくて、企業との共同開発により新しい何かを生み出す共同研究ベースの活動に絞り込んでいます。
具体名は控えますが、今では名だたる企業や組織と共同研究を進めさせていただいていて、高専研究者としては身に余る機会を頂いているように思います。まあ、ここまで来るには、荒野を耕し用水を引き、種を植えて雑草を刈る、まさにこのような地味で面倒な仕事の連続だったような気がします。それでも10年を越えるころには、自分のポテンシャルも上がって来て、外から期待される場面も出てきて、これまでの苦労が報われた気がしています。
現在は、すごいチャンスに恵まれているわけで、これを次の飛躍のバネにするためにも、現状に甘んじることなく奢ることなく、とにかく前向きに進んで行きたいと思っています。もう40歳が目前なので、人生は半分折り返したなと思っています。生き急ぐ場面も多いのですが、頑張ってゆく決意を新たにしたのでした。
共同研究会議は、自分のモチベーションを高めるには、最も良い機会だと思っています。そりゃ、会議1つでその後の展開がガーーと変わってしまうのですからね。

生命の本質は多様性の維持

2006年05月09日 08時00分37秒 | Weblog
以前、遺伝的アルゴリズムの研究をしていたので、集団のパフォーマンスがどのように高められてゆくか観察したことがある。そうすると、個体は最初バラバラの特性を持っているが、その中で高い能力を持つ個体が現れると、交差の戦略にもよるが大抵は高い能力を持つ個体同士で交差して、次世代の個体を作ることが多い。そうすると、一部の個体はぐんぐん能力が高まってゆくが、そのほかの9割ぐらいは、ゆっくりとした変化しか起きない。
こうなると、個体全体の内で1割が集団としての能力を引き上げてゆくことになり、どんどん高まってゆく、いわゆるエリートとしての個体になる。逆に、残りの9割はフラフラ揺れながら、エリートの影響を受けながら、ゆっくりと向上してゆくが、その成長は緩慢であまり期待できない。こう言う意味で単純に考えると、この1割の個体が大切で、これさえあれば大丈夫と言うことになる。この少数の個体が系の能力を代表して、これがリーダーになれば集団を維持できるかもしれない。
で、9割に意味が無いかと言うとそうでもなくて、大きな状況の変化に対しては、先ほどのエリートは無意味で、別の状況に対応するために、また9割の中から頭角を現す個体が出てきて、次の状況でのエリートと言うことになる。つまり、エリートはある条件に対して存在して、全ての状況に対応できるスーパーエリートなるものは、まずない。単純で傾向が類似している条件の場合には、ある程度万能な個体が出てくる可能性はあるが、複雑で多面的な条件の場合には、まず無理だと思う。
つまり、この9割は、様々な条件が変化する中で、集団が滅びないように、多様性を維持するために存在していることになる。これは生命にとって、冗長性のある系にとっては有効な戦略になるので、これが生命の本質であると思う。なお、この議論の前提は、非常に限られた条件の下での個体の性能を対象としているので、そもそも個体数と同じぐらいの条件(価値観)がある場合には成立しない。つまり、現実の社会では、条件もその範囲も価値観も、ものすごく複雑だから、こう単純ではない。
逆に冗長性が許されない、少数の個体による集団で、条件が単純で評価が容易な場合には、このエリート集団とそれ以外との区別が明確になってくる。さらに多様性の維持が許容できなくなると、生き残りを掛けた争いが系のなかで起きてしまい、集団の維持どころではなくなってしまう。んーーん。専門的には、何らかの力学的な考察が出来るのかもしれないのですが、難しいです。こう言うのは、学問的には人工生命で扱うのでしょうが、グリッドを使ってがりがりに計算してみたいです。