わが庵は 都のたつみ しかぞすむ世をうぢ山と 人はいふなり
わがいほは みやこのたつみ しかぞすむよをうぢやまと ひとはいふなり
喜撰法師(きせんほうし)の紹介
喜撰(生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の僧・歌人。六歌仙の1人。
わが庵は みしよひ
わがいほは みやこのたつみ しかぞすむよをうぢやまと ひとはいふなり
喜撰法師(きせんほうし)の紹介
喜撰(生没年不詳、伝不詳)は、平安時代初期の僧・歌人。六歌仙の1人。
わが庵は みしよひ
あまのはら ふりさけみれば かすがなるみかさのやまに いでしつきかも
阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年)1月)は、奈良時代の遣唐留学生。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。
【ベック式!古文の文法問題が驚くほどできるようになる暗記術】
塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを混ぜて加熱したときに発生する気体は何か。
答え. アンモニア
ベック式!ゴロ合わせ
スイカ塩味 あんまりや!
水酸化カルシウム
塩化アンモニウム アンモニア
塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを混ぜて加熱するとアンモニアが発生する。
同時に発生する水によって、熱せられた試験管が急に冷やされて割れるのを防ぐため、試験管の口の方を少し下げておく。
※他に、塩化アンモニウム水溶液と水酸化ナトリウムを混ぜることによってもアンモニアは発生する。
上のゴロをマスターしたらバージョンアップとして
水菜塩味 あんまりや!も押さえよう。
水酸化ナトリウム
+ 塩化アンモニウム → アンモニア
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける
七夕の夜に天の川に橋を掛けるというカササギ。そのカササギが天界のような宮殿に掛けた橋に霜が降りているなぁ。その白さにを見ると、夜がずいぶんと更けたなぁと思う。
中納言家持
(ちゅうなごんやかもち)
かささぎの わおしよ
【ベック式!古文の文法問題が驚くほどできるようになる暗記術】
▲李成桂
●朝鮮(李氏朝鮮)
Yi Song-gye declared himself king of Korea, founds the Yi dynasty.
いざ国支配 李成桂。
1392年 朱子学 白磁 李成桂
李氏朝鮮
明が成立し、元が追いやられると、高麗では反元派が台頭。
1392年、倭寇を撃退して名声を高めた李成桂が高麗を倒し、李氏朝鮮を建国、都を漢城(現ソウル)に置いた。
李氏朝鮮は朱子学を国教とし、官職は両班という特権身分が独占した。
また、官僚に科田を支給し徴税権を保証する科田法を施行した。
この王朝期、朝鮮陶芸の代表とされる白磁が作られた。
《その後の李氏朝鮮》
李氏朝鮮では銅活字による印刷が盛んになり、第4代世宗の1446年には、今日の朝鮮文字(ハングル)が訓民正音の名で発布された。
16世紀末、豊臣秀吉の侵入を受けたが、李舜臣の活躍で日本軍は退却した(壬辰・丁酉の倭乱)。
江戸時代になると、日本との友好関係を取り戻し、1607年以来、朝鮮通信使が対馬の宗氏を介して派遣された。
17世紀には清の侵略を受けてその属国となり、1910年には日本によって併合され、その植民地となった。
ナイル川流域の歴史
2011 北海道大学
【問】次の文章を読み、問いに答えなさい。
古代ギリシアの歴史家( A )は「エジプトはナイルの賜物」という言葉を彼の著作に残している。
ナイル川は、モンスーンの影響で(1)エチオピア高原に降る雨のために毎年7月中旬に増水を始める。
それによって夏の終わりから秋にかけて起こる洪水はナイル川流域に肥沃な土壌をもたらし古代より(2)エジプト文明を育んできた。
ヴィクトリア湖周辺を水源とする白ナイルと、エチオピアのタナ湖を水源とする青ナイルは、(3)スーダンのハルトゥームで合流し、ナイル本流となってエジプトを北上する。
この本流はカイロ近郊で2つの支流に分かれ、肥沃なデルタ地帯主形成して地中海に注ぎ込む。
カイロは、969年にエジプトを支配下に置いた( B )が新都として建設した町であるが、それに続く(4)アイユーブ朝時代に発展をとげ 1250年に成立したマムルーク朝の時代になると、国際的商業都市、イスラーム世界の政治的・文化的中心都市として繁栄を極めた。
この時代、カーリミー商人と呼ばれた貿易商が、東方の物資を(5)インド洋・紅海方面からエジプトにもたらし( C )などの港湾都市で、(6)イタリア商人と交易活動を行った。
一方、エジプトの農村部では(7)イクター制が施行され、比較的安定した状態が続いたため、農業の発展が見られ、小麦や大麦に加えて( D )などの商品作物の栽培も盛んになった。
おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき
奥山に もなこあ
【ベック式!古文の文法問題が驚くほどできるようになる暗記術】
たごのうらに うちいでてみれば しろたへの ふじのたかねに ゆきはふりつつ
田子の浦の海岸に出てみると、雪をかぶったまっ白な富士の山が見事に見えるが、その高い峰には、今もしきりに雪がふり続けている。(あぁ、なんと素晴らしい景色なのだろう。
山部赤人
田子の浦に うしふゆ
【ベック式!古文の文法問題が驚くほどできるようになる暗記術】
●中国(後漢)
The Yellow Turban Rebellion; Revolt of “Yellow Turbans” rocks China.
いやよ張角 反抗期。
184年 張角 黄巾の乱 後漢
後漢末の184年、太平道という宗教の創始者張角は貧窮農民を主力とした反乱を指導。反乱軍は五行思想にもとづいて黄色の頭巾をつけたので黄巾の乱とよばれた。宦官政府は反乱軍と党人との連合を恐れて党錮の禁を解いた。黄巾軍の主力は潰滅したが、残党やその他の反乱が多発し、後漢王朝の権力は急速に衰え、群雄が割拠する状態に陥った。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山
はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま
持統天皇
春過ぎて なしこあ
もう春が過ぎて、夏が来たようね。夏になると白い衣服を乾すという天の香具山に白い衣服が干してあるわ。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
あきのたのかりほのいほのとまをあらみ わがころもではつゆにぬれつつ
天智天皇
秋の田んぼのそばにある小屋は、田んぼの番をするために仮に建てられたものだから、苫(屋根の編み目のこと)が荒くて、すきまだらけ。わたしの衣の袖が、夜露にぬれてしまっているよ。
あきのたの かとわつ
苫をあらみ= 苫が荒いので ※~を~み =~が~ので
【ベック式!古文の文法問題が驚くほどできるようになる暗記術】
●春秋・戦国時代の文化
悪循環で 全盲に。
性悪説 荀子 性善説 孟子
戦国時代の儒家の孟子は性善説を唱え、王道政治を理想とした。性悪説を唱える荀子は礼という規律で民衆を支配すべきだという礼治主義を主張した。法家の韓非・李斯は荀子の門下生であった。
▼孟子
▼荀子
▲中国文明の発生地
仰韶(ぎょうしょう・ヤンシャオ)文化(彩陶文化)…黄河中流域に住みついた人びとは前5000~前4000年ころ、豚・犬・鶏を家畜とし、アワなど雑穀を中心とする農耕文化を発達させた。
素焼きの淡紅色の土器面に赤・白・黒などで文様をほどこした彩文土器(彩陶)を使用していたこの文化は、仰韶文化と呼ばれる。
仰韶文化を代表する遺跡には陝西省西安にある半坡遺跡などがある。
▼彩陶
同じ頃、長江下流域でも河姆渡(かぼと)遺跡や良渚遺跡など、人工的な水田施設を持つ集落が発生した。
※河姆渡(かぼと)遺跡は1970年代に発掘され、長江下流域で紀元前5000~前3300年頃の稲作農耕が行われていたことが明らかになった。
これは仰韶文化の時期と同じ時期である。
さらに最近では前7000年紀の稲作の痕跡が発見され、稲作が始まった地域ではないかと考えられ、注目が集まっている。
竜山文化(黒陶文化)
黄河下流域では、ろくろの使用や1000度以上の高温での焼成など、技術のすすんだ黒陶とよばれる薄手の磨研土器がさかんにつくられるようになり、そのほかに灰陶もあらわれた。
特徴的な器形として、 3本足の鼎や鬲などの三足土器があり、その形状はのちの青銅器に影響をあたえた。
黒陶が特色や灰陶が使用され、仰韶文化の時代より大きな人口集落を形成していたこの文化を竜山文化という。
前2000~前1500年頃のことである。
▼三足土器
〈仰韶文化と竜山文化〉★
サイと行水(ぎょうずい) 黒い竜。
彩陶 仰韶文化 黒陶 竜山文化
地図問題
1.a の川の名を答えよ。
2.b の川の名を答えよ。
3.●d からj の中から仰韶を選べ。
4.●d からj の中から竜山を選べ。
5.●d からj の中から半坡を選べ。。
正解 1.黄河 2.長江 3.e 4.i 5.f
※ 半坡遺跡は西安にある。Cの川である渭水との合流地点にあるから水が「半」。
●dは北京原人の骨や周口店上洞人の骨が発見された竜骨山があることで有名な周口店。
●h は竜山文化との関連が指摘される浙江省の良渚。
●g は河姆渡。
◎kは殷墟。
▲アフマド・シャー・アブダーリー
●アフガニスタン(ドゥッラーニー朝)
Ahmad Shāh was the founder of the Durrani Empire and is regarded to be the founder of the modern state of Afghanistan.
ベック式!ゴロ合わせ
避難(ひなん)しないか アフマドら。
1747年 カーブル アフマド=シャー
アフガニスタン王国
ドゥッラーニー朝
1747年、アフマド=シャーは、それまでアフガニスタンを支配していたサファヴィー朝とムガル帝国の勢力から、民族の独立を勝ち取り、アフガニスタン王国(ドゥッラーニー朝)を建国。
カーブルを都とした。乾隆帝の時の清軍が一時侵攻した。
▼ドゥッラーニー朝の版図(紫)