Napoleon 1769~1821
フランスの皇帝(在位1804~14/15)。
フランス革命の後を受けて第一帝政を開いた。コルシカ島(1768年以後フランス領)の貴族ボナパルト家出身。パリ士官学校に学んで砲兵士官となり、1789年にフランス革命が勃発。
1793年にはトゥーロン港攻囲戦に王党派を鎮圧して戦功を上げたが、1794年のテルミドール(熱月)反動によってジャコバン派の恐怖政治は終わりを告げ、同派に所属していた彼も投獄・休職となった。
95年10月、王党派によるヴァンデミエールの反乱を鎮圧して総裁政府に認められ、96年イギリス首相小ピットの提唱による第1回対仏大同盟に対抗するため、イタリア遠征軍司令官となって軍事的天才を発揮してイタリア遠征を行いオーストリア撃破に成功した。
97年にはカンポ=フォルミオの和約を締結、フランスはオーストリア領ネーデルラント(ベルギー)、北イタリアのロンバルディアなどを獲得し、ここに第1回対仏大同盟は解消した。
98年、イギリスとインドの連絡路を絶つためエジプトに遠征したが、99年、小ピットの呼びかけで第2回対仏大同盟が結成された。
▼小ピット
総裁政府の動揺を知って帰国したナポレオンは、11月、ブリュメール(霧月)18日のクーデタにより統領(執政)政府を樹立、第一執政となり、事実上の軍事独裁を開始した。
フランス革命はここに終結した。
1800年にはフランス銀行を設立。
01年にはローマ教皇ピウス7世と和し、コンコルダート(宗教協約)を締結。
02年、内外の危機を乗り切ったナポレオンはピットが去ったイギリスとの間でアミアンの和約を締結し、イギリスはエジプト撤兵、フランスのベルギー・ライン左岸・北イタリアの領有などを認めた。
この結果、第2回対仏大同盟は解消し、ヨーロッパの平和が実現した。この成功を背景に国民投票で終身統領(終身執政)に就任した。
教育制度の確立、産業育成などの事業を行い、04年にはナポレオン法典を編纂、第一共和政を廃して国民投票でフランス初の皇帝となり、ナポレオン1世と称して第一帝政を開いた。
その後もフランス産業の振興と市場拡大を目標として、イギリス・オーストリア・プロイセン・スペインと数々の戦いを行って大陸に覇を唱えた。
05年、小ピットが第一帝政の成立に対抗して第3回対仏大同盟を結成すると、イギリス本土上陸作戦を企てたが、フランス・スペイン連合艦隊はジブラルタル海峡北西のトラファルガーでネルソンのイギリス艦隊に大敗した。
イギリス本土直撃を断念したナポレオンは同年大陸制覇を目指してオーストリアに出兵し、ウィーン北方のアウステルリッツでオーストリア(フランツ1世)、ロシア(アレクサンドル1世)を破って第3回対仏大同盟を崩壊させた《「三帝会戦で3回解散」と覚えよう!》。
翌06年小ピットは失意のうちに没した。
この年、ナポレオンは南西ドイツ16邦にライン同盟を結成させた。
ここにオットー1世以来の神聖ローマ帝国は八百四十余年の歴史を閉じた。
フランスの覇権が中部ドイツに及ぶのを恐れたプロイセンは危機感を抱き、ロシア・イギリスなどと同盟を結んだ。
さらにこの年ベルリンを占領し、対イギリス作戦の一環として11月にベルリン勅令(大陸封鎖令)を発し、大陸諸国にイギリスとの通商・通信の禁止、イギリス船舶の入港禁止、違反船の没収などを命じた。
07年にはロシアを破り、7月にロシア・プロイセンとの間でティルジット条約を締結。
これにより第4回対仏大同盟は解体、またプロイセンは領土の半ばを放棄。
18世紀末にプロイセンが奪った地域にはワルシャワ大公国を設けた。
08年にはスペイン王を追放し、首都マドリードの市民蜂起を鎮圧、(五月二日事件)、ナポリ王としていた兄のジョセフをスペイン王位につけた。
スペイン民衆は世界史上初のゲリラ戦を展開、以後スペイン・ポルトガルを舞台にスペイン独立戦争が勃発した。
09年、ナポレオンはオーストリアを破り、シェーンブルンの和約を結んだ。
同年、ジョセフィーヌと離婚し、10年にオーストリア皇帝フランツ1世の娘、マリー=ルイーズと結婚。
ここに全盛期を迎えたが、12年、公然と大陸封鎖を無視するロシアに対して遠征を開始、9月にボロディノの戦いで大損害を被りつつ、モスクワに入城した。
しかしロシア軍の焦土戦術、食糧難、寒気に苦しみ、退却を開始すると、クトゥーゾフ将軍指揮下のロシア軍の追撃で惨敗、大陸軍は壊滅した。
13年プロイセン・ロシアが同盟し、対仏宣戦。間もなくヨーロッパのほとんどの国が加わって第4回対仏大同盟が結成され、諸国民が一斉に解放戦争に立ち上がった。
ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンの連合軍に敗れ、14年に退位し、イタリア西岸のエルバ島に配流された。
フランスでは、革命によって処刑されたルイ16世の弟が、ルイ18世として即位し、ブルボン朝が復活。列国はウィーン会議を開いてヨーロッパの秩序再建を討議した。15年、ブルボン復古王朝下の反動政治に対する国民の不満、ウィーン会議をめぐる列国の利害対立を察知したナポレオンはエルバ島を脱出してパリに入り、、百日天下を実現したが、ワーテルローの戦いに敗れて、セント・ヘレナ島に流され、21年にここで一生を終えた。
彼は、内政では、ジャコバン党の行った土地改革を守って農民の生活を安定させ、フランス銀行の設立のほか、行政・司法・学制の整備に努力した。
対外戦争には約100万の兵士を失い、結局イギリスに敗れたが、これによりフランス革命の理念が全ヨーロッパに広がり、19世紀の多くの革命とナショナリズム運動の発端となった。
「少女A」の替え歌
コルシカ生まれの 私の出世は ヴァンデミエール 避難を救護する(1795)。
苦労(96)のイタリア、苦難(97)のカンポ、エジプト遠征イギリス遮断するため~。
99年のブリュメールには 総裁政府を 倒して統領に。
コンコルダート、アミアン和約に(2)、法典作って即位したのよ(4)~。
焦れったい、焦れったい 対仏同盟 3回目の後(5)。
焦れったい、焦れったい トラファルガーでは負けてしまうが~。
アウステルリッツ ライン同盟 私 ナポレオン。
〈間奏〉
憎き(にっくき)イギリス 困らせるための 大陸封鎖は1806年。
次の年にはティルジット約、ウェストファリアとワルシャワ大公国を
大陸封鎖を 無視したロシアに 遠征するのよ 1812年~。
軍隊連れてく50万人 ライプチヒで負けエルバ島に島流し~。
焦れったい、焦れったい ルイ18世 王政復古~。
焦れったい、焦れったい ワーテルローでも大敗するわ
セントヘレナでつい(21年)に死んだの 私ナポレオン。
1800年にナポレオン・ボナパルト率いる仏軍がオーストリア軍に大勝利を納めた戦い(マレンゴの戦い)
a battle in 1800 in which the French under Napoleon Bonaparte won a great victory over the Austrians
ナポレオンは、1812年にロシア西部のモスクワの西側での会戦でロシア人を破ったが、取り返しがつかないほど彼の軍隊は弱体化した
Napoleon defeated the Russians in 1812 in a pitched battle at a village in western Russia west of Moscow, but irreparably weakened his army
ナポレオンは 1814 年にエルバ島に流された.
Napoleon was banished to Elba in 1814.
翌年、ナポレオンのエルバ島脱出によってルイ18世は再び国外へ亡命するが、ナポレオンの支配が百日天下に終わると帰国した。
In the following year, when Napoleon escaped from the Elba, Louis XVIII defected abroad again but returned to France soon after Napoleon's hundred days' rule ended.
ナポレオンの軍隊は1815年にワーテルローの戦いに敗れた。
Napoleon's army lost the battle of Waterloo in 1815.
ワーテルローの戦いがナポレオン戦争を終結させた.
The Battle of Waterloo brought the Napoleonic Wars to an end.
ナポレオンは南大西洋のセント・ヘレナ島に流された.
Napoleon was exiled to St. Helena in the South Atlantic.
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