止しときな和田!」
(和田(わだ)氏を滅す)(侍所別当(さむらいどころべっとう))(承久(じようきゆう)の乱)(義時(よしとき))
[ポイント]
1.北条義時は、和田氏を滅し侍所別当に就任、承久の乱に勝利した。
[解説]
1.北条義時(1163~1224)は父時政(ときまさ)を退け、1205年、政所別当となる。
2.和田義盛(よしもり)を滅ぼし(1213年)侍所別当を兼ね、執権(しっけん)の地位を確立した。
3.承久の乱(1221年)では、御家人の力を結集して勝利し、後鳥羽上皇側(西面の武士など)を破り、3上皇を後鳥羽(隠岐)・土御門(土佐)・順徳(佐渡)と配流し、仲恭天皇を廃し後堀河天皇を擁立した。
4.六波羅探題を設置し、没収した西国の所領に、地頭職を任命して全国的な支配権を握った。
5.これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになった。朝廷では以後も引き続き院政がおこなわれたが、この乱によって、朝廷と幕府との二元的支配の状況は大きく変わり、幕府が優位に立って、皇位の継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。
6.なお北条義時は実朝の死後、皇族を将軍に招く交渉をしたが、上皇が拒否して交渉は不調に終った。そこで幕府は、頼朝の遠縁にあたる摂関家出身の幼い藤原頼経を将軍にむかえた。以後2代続いた摂関家出身の将軍を、藤原将軍または摂家将軍とよぶ。
7.9代執権貞時以後に展開するする北条氏独裁は得宗専制と呼ばれるが、得宗とは北条氏嫡流の当主のことで、義時が徳宗と号したことに由来するといわれる。
〈2014明大・農(食料環境政策)
1 1219(承久元)年、将軍の(ア)源実朝が頼家の子公暁によって暗殺され、公暁も殺されると、源氏の血筋が絶え、北条義時は後鳥羽上皇に皇子の将軍職就任を要請した。しかし、あらたに院警護のために[ 1 ]をおいて兵力を増強し、幕府打倒を目指していた後鳥羽上皇はこの要請を拒むとともに、自分に関係する荘園の地頭職の停止を要求するなど、鎌倉幕府との対立を深めた。
そして1221(承久3)年、後烏羽上皇は、[ 1 ]や畿内近国の武士らに対して義時追討の宣旨を出したが、多くの武士は、頼朝以来の御恩にこたえよという北条政子の呼びかけに応じて幕府に結集した。義時の弟の時房と子の泰時に率いられた幕府軍は、東海・東山・北陸の三道に分かれて京都を攻め、わずか1か月で反乱を鎮圧した。
この乱後、幕府は(イ)三上皇の配流などの処分を強行し、仲恭天皇に代えて、後堀河天皇を立てた。また、上皇方の責族・武士の西国を中心とする所領3000か所あまりを没収し、戦功のあった東国の武士たちを(ウ)あらたに御恩として地頭に任命した。時房と泰時は乱後も京都にとどまり、[ 2 ]をもうけて、朝廷の監視や京都の警備、尾張(のちの三河)以西の国々の御家人の統括にあたった。こうした乱後の政策によって、幕府の西国支配は飛躍的にすすみ、朝廷の権威がおとろえる一方で、幕府の全国支配がいっそう強化されることになった。
問1 空欄(1)に入る適切な用語を、解答用紙裏面の解答欄に漢字で記入せよ。
問2 空欄(2)に入る適切な用語を、解答用紙裏面の解答欄に漢字で記入せよ。
問3 下線部(ア)源実朝に関連して、源実朝は万葉調の和歌を詠み、歌壇に新風を送ったといわれているが、彼の和歌が残されている歌集は何か。下記から最も適切なものを一つ選べ。
A金槐和歌集 B金葉和歌集 C山家集
D新葉和歌集 E万葉集註釈
問4 下線部(イ)三上皇の配流に関連して、三上皇の配流先の組み合わせとして正しいのはどれか。下記から最も適切なものを一つ選べ。
A 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-土佐
B 後鳥羽上皇-隠岐、土御門上皇-土佐、順徳上皇-佐渡
C 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-土佐
D 後鳥羽上皇-佐渡、土御門上皇-土佐、順徳上皇-隠岐
E 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-隠岐、順徳上皇-佐渡
F 後鳥羽上皇-土佐、土御門上皇-佐渡、順徳上皇-隠岐
問5 下線部(ウ)あらたに御恩として地頭に任命したに関連して新補地頭に関する記述として誤っているものを、下記から一つ選べ。
A 承久の乱後に新たに置かれた地頭の得分は、すべて新補率法が適用された。
B 新補率法が適用された地頭を新補地頭と呼んだ。
C 新補地頭以外の地頭を本補地頭ともいう。
D 新補率法は、1)11町につき1町の給田、2)1反あたり5升の加徴米、3)山野河海からの収益の半分を与えるという基準であった。
E 新補地頭のなかには、現地の荘官・農民や荘園領主との間に新たな紛争を生じさせたものもいた。
(答:問1西面の武士、問2六波羅探題、問3A(金槐和歌集)、問4B、問5A)〉
〈2014文教大学・全学部:「
各問のA、Bの文章を読んで、下の指示にしたがって答えなさい。
A、Bが両方正しい場合は、1をマークしなさい。
Aが正しく、Bが誤っている場合は、2をマークしなさい。
Aが誤っていて、Bが正しい場合は、3をマークしなさい。
A、Bがいずれも誤っている場合は、4をマークしなさい。
問4
A 平安時代後期、宮中を警備する役目は西面の武士に新たに与えられ、これをきっかけにして、武士の中央進出が始まった。
B 後鳥羽上皇は、院御所を警備する役目を奉公衆に一任し、この武力を用いて北条義時追討を計画した。
(答:A×9世紀末に宇多天皇によって置かれたのは滝口の武士、B×後鳥羽上皇が置いたのは西面の武士)〉
〈2013早大・文:「
下線c承久の乱について。次の文章のうち、正しいものを2つ選べ。
ア 後鳥羽上皇が執権北条泰時を打倒するために起こした兵乱である。
イ この兵乱の前に、後鳥羽上皇は藤原定家等に命じて、『新古今和歌集』を編纂させた。
ウ 承久の乱において幕府軍が勝利した背景には北条政子の存在があった。
エ 承久の乱の後、土御門上皇が政務を執るようになった。
オ 新補率法では免田と加徴米の規定が設けられたが、山川の収益については規定がなかった。
(答:イ〇1205年ころの編纂、ウ〇『吾妻鏡』にみえる尼将軍政子がおこなった幕府草創時のことを振り返る演説が、士気を高めた ※ア×義時の誤り、エ×幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐(のちに阿波)に、順徳上皇を佐渡に流した。オ×(1)田畑11町ごとに1町の土地、(2)田地1段につき5升の米(加徴米)、(3)山や川からの収益の半分、をそれぞれ地頭にあたえるものであった。)〉
〈2013上智大・法総合人間科神外国語:「
G(承久の乱)近會(ちかごろ)( ア )の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔(わずか)に将軍の名を帯ぶると雖も、猶以て(c)幼稚の齢(よわい)に在り。然る間、彼の( え )朝臣、偏(ひと)へに言詞を教命に仮り、恣(ほしいまま)に裁断を都鄙に致す。剰へ己が威を耀かし、皇憲を忘れたるが如し。これを政道に論ずるに、( お )と謂ふべし。早く五畿七道の諸国に下知し、彼の朝臣の身を追討せしめよ。兼て又諸国・庄園の( ウ )人・( キ )等、言上を経べきの旨あらば、各(おのおの)(d)院庁に参り、宜しく上奏を経べし。
問1 上記の史料Gにもっとも関係の深い事柄を、次から1つ選びなさい。
1徳政一揆 2下地中分 3源平の争乱 4守護請 5貞永式目
6土一揆 7建武の新政 8新補率法 9戦国家法 10半済令
11国一揆 12悪党 13建武式目 14徳政令 15承久の乱
問2 前掲の史料Gの空欄(ア・ウ・キ)に当てはまるもっとも適切な語句を、次から1つずつ選びなさい。
1国司 2凡下 3惣領 4式目 5畠山
6官物 7名主 8国人 9加地子 10近江
11地頭 12知行国 13加徴米 14山城 15細川
16守護 17年貢 18大和 19家臣 20関東
問3 前掲の史料Gの下線部c~dの人物について、次の問いの答えとしてもっとも適切なものを、以下の語群より1つずつ選びなさい。
cこの人物は誰を指しているか。
dこの時期の院(治天の君)は誰か。
〔語群〕
1宗尊親王 2後宇多天皇 3北条貞時 4亀山天皇
5後鳥羽上皇 6北条高時 7久明親王 8北条守時
9白河上皇 10守邦親王 11藤原頼嗣 12光厳天皇
13藤原頼経 14後醍醐天皇 15北条時宗 16後白河上皇
問4 前掲の史料Gの空欄(え)~(お)に当てはまる人物または事柄について、もっとも関係深くかつ正しい説明を、次から1つずつ選びなさい。
1宝治合戦で三浦泰村を討った。
2皇室・寺社に対して敬意を失する罪。
3中世武士の同族結合のこと。
4所領を売却した元の所有者のこと。
5段別5升の兵粮米を徴収する権限が認められた。
6評定衆を設置した。
7歴史を貫く普遍的な公正観のこと。
8律令格式に系譜を引く朝廷の法。
9皇居を破壊しようと謀る罪。
10有力名主から武家の被官となる者もあった。
11所領を譲与した被相続人のこと。
12八虐の一。律で定められた最も重い国家反逆罪で斬刑にあたる。
13六波羅探題を設置した。
14所領を現実に関連している者のこと。
15武士社会の慣習・道徳に基づくもので公平と認められたこと。
(答:問1G15(承久の乱)、問2ア20(関東)、ウ16(守護)、キ11(地頭)、問3c13(藤原頼経)、d5(後鳥羽上皇)、問4え13(北条義時)、お12(謀反(むへん)))〉
〈2013早大・法:「8 得宗の名の由来になった法名をもつ執権の名前として正しいものを1つ選べ。
あ 北条時政 い北条義時 う北条泰時
え北条時頼 お北条長時
(答:い)〉
〈2012立教大・全学部:「
8.この年(1221)についての説明として正しくないのはどれか。
a.将軍職に、摂家将軍である九条頼経が就いていた
b.北条政子は朝廷側に対する御家人の結束を説いた
c.北条義時が政所・侍所別当として実権を握っていた
d.北条義時の弟である北条時房も京都に赴いた
(答:a※九条頼経が摂家将軍に就任したのは1226年)〉