■ポイント 主権国家および主権国家体制とは何か。その概念を正確につかもう。
A主権国家 の形成- 16~17世紀 近世ヨーロッパ = a カトリック教会 とb 神聖ローマ帝国 の普遍的権威の動揺。
→ ヨーロッパ各国が自国の利害を求めて戦争と妥協をくりかえす → 恒常的な緊張状態が続く。 - c イタリア戦争 の長期化・大規模化がもたらしたこと。
- d 軍事革命 :e 小銃・大砲が多用されるようになり騎士主体の戦闘から歩兵の集団戦形態に変化する。
→ 騎士の役割の低下は封建領主層の没落につながるとともに軍事組織、軍事制度の変化をもたらした。 - f 常備軍 :封建的な家臣団、臨時の傭兵に依存する戦争から、平時でも維持される国民軍を主体とする戦争へ。
→ 徴兵と軍事費の調達が必要となる。
Text p.214
- 各国はg 徴税機構を中心とした官僚制を整備し、国内の統一的支配を強める。
- 国境で区切られたh 国土 、納税と徴兵の対象になるi 国民 、国を統治するj 主権 の三要素
をもつ段階の国家形態をA 主権国家 という。 → k 近代国家 の原型となった。
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B絶対王政- 16~18世紀 主権国家の形成期には、主権が一人の国王に付与される国家形態が現れた。
= 西ヨーロッパのa スペイン ・b フランス ・c イギリス で発達。 - 王権を支える二つの階級
- d 領主階級(貴族・聖職者) :免税などの特権を持つ中間団体。
→ 国王の国民を直接支配することはできなかった。 - e 有産市民層(ブルジョワジー) :商人・金融業者。
→ 国王は彼らに経済的独占権を与えるなど協力関係をつくる。 - 前者は没落しつつあり、後者は勃興しつつあった。両者の力が均衡したところに王権が成り立つ。
- 絶対王政のもとでの新しい生産様式
- f 問屋制 :西ヨーロッパで、中世の家内制生産に代わって登場。
= g 商人が手工業者に道具や原料を前貸しして生産させる生産方式。 - h マニュファクチャー :i 資本家が労働者を仕事場に集め、分業による手工業生産を行う生産方式。
→ 次第に資本主義的生産方式に移行していく。 - 商工業の発達によって成長した市民層は自由な経済活動と政治参加を求め、王政に批判的なる。
- 絶対王制(絶対主義)国家は国内の商工業を保護・育成するj 重商主義 の経済政策をとった。(後出)
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C主権国家体制- 主権国家のあり方:規模の大小、政体・宗教的バックボーンなどは多様であった。
- 国際社会の形成:互いの国家利益(国益)を利害を調整するためのa 外交関係 を持つ。
→ b 外交官 を交換しあい、必要があればc 国際会議 を開催。 - 主権国家を基本単位とした国際関係を、C 主権国家体制 という。
→ 16~17世紀のヨーロッパに成立したが、18~⒚世紀を通じて全世界に拡大し、現在まで続いている。 - 1648年のd ウェストファリア条約 でヨーロッパのC 主権国家体制 が確立する。(後出)
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・主権国家の権力のあり方は、18世紀後半の市民革命を経て、絶対王政から国民主権に移行していく。
用語リストへイ.イタリア戦争
■ポイント 広義のイタリア戦争と狭義のイタリア戦争を正確に捉え、主権国家の形成とのかかわりを理解する。
Aイタリア半島 の状況 北部の都市国家、中部の教皇領、南部のナポリ王国らに分裂していた。Text p.215
- a 神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家) とb フランス王(ヴァロワ朝) が勢力を伸ばし対立した。
- 1494年 フランス国王ヴァロワ朝の▲c シャルル8世 がナポリ王国王位継承を主張してイタリアに侵攻。
→ a 神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家) ・スペイン王およびローマ教皇・ヴェネツィアなどが反発。
= 広義のA イタリア戦争 始まる。95年、フランス軍撤退。その後も断続的に争い続く。
(この間、フィレンツェではマキャヴェリが活躍。 ドイツでは宗教改革始まる。) - 1519年 ハプスブルク家のスペイン王 d カルロス15世 がa 神聖ローマ皇帝 に選出され
e カール5世 となる。 → フランス国王f フランソワ1世 が強く反発。
→ 翌年、イギリス王g ヘンリ8世 と会見。
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Bイタリア戦争 の激化- 1521年 フランス王a フランソワ1世 がイタリア侵攻、神聖ローマ皇帝b カール5世 と戦う。
= 狭義のB イタリア戦争 始まる。1544年まで4回にわたり両者が戦う。 - ▲1525年のパヴィアの戦いではフランス王自身がカール5世軍の捕虜になる。
- 1527年 b カール5世 のイタリア侵攻 = c 「ローマの劫略」 → イタリアルネサンスの終焉
解説
メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、カール5世がミラノ、ナポリなどを抑えたことに反発し、フランス王と結んだ。それに対する懲罰としてカール5世がローマに軍隊を送り、破壊した。このことを「ローマの劫掠」という。カール5世自身はマドリードにいて、ローマには傭兵部隊を派遣、傭兵がローマを破壊した。これによって、イタリア=ルネサンスの繁栄は終わりを告げたと言われている。しかし、カール5世とローマ教皇は、当時、プロテスタントとの戦いと、オスマン帝国の侵攻という共通の敵があったので、1529年にはバルセロナで和約した。それに伴いカール5世がフィレンツェでのメディチ家の復活を認めたので、フィレンツェ共和国も崩壊し、その意味でもイタリア=ルネサンスの時代は終わったと言える。
- 並行して、d オスマン帝国 軍の圧力が神聖ローマ帝国領を脅かす。
- 1529年 e スレイマン1世 がf ウィーンを包囲 。1538年 プレヴェザの海戦。(前出)
- フランスはオスマン帝国に接近。g カピチュレーション を認められる。(後出)
- ▲神聖ローマ皇帝はイギリス(チューダー朝h ヘンリ8世 )に接近。
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Fカトー=カンブレジ条約 1559年 イタリア戦争の講和成立。- フランス=アンリ2世・スペイン=フェリペ2世・イギリス=エリザベス1世の三国間で締結した。
- フランスはイタリアから撤退。ミラノ、ナポリなどをハプスブルク家が支配することが認められる。
解説
スペインのフェリペ2世はフランスとの戦いを有利に進めようとイギリスのメアリ女王(熱心なカトリックでフェリペ2世の妃でもあった)にイギリス軍のフランス上陸を要請した。しかしイギリス軍は破れ、百年戦争以来保持していたフランス国内のイギリス領カレーを失った。そのためメアリの人気は落ち、イギリスの次の女王エリザベスは国教会に復帰した。フェリペ2世自身も、植民地アメリカからのもたらされる銀という莫大な富がありながら、イタリア戦争の長期化で財政は破産状態であった。さらにオランダの独立運動など新教徒との戦いも続いていたので、イタリア戦争の終結の必要があった。
- 戦争の背景 a ルネサンス、宗教改革、大航海時代、オスマン帝国の進出などと同時期に展開された。
- 戦争の意義 b ヨーロッパ各国はこの戦争での軍事革命を経て、それぞれ主権国家への歩みを開始した。
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・18世紀半ばまで、c ハプスブルク家 とd フランス王家 の対立が、ヨーロッパ国際関係の対立軸として続く。
用語リストへウ.スペインの全盛期
■ポイント ハプスブルク家の支配するスペインは、どのようにして大国となったか。また、なぜ急速に衰えたか。
Aハプスブルク家 の隆盛- 15世紀後半 a オーストリア 王家 のb ハプスブルク家 、婚姻関係を通じ、c ネーデルラント を獲得。

b カール5世
- ハプスブルク家フィリップとスペイン王女ファナの間にd カルロス が生まれる。
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Text p.216
Bカルロス1世 1516年 スペイン王位を継承。- 1519年 a 神聖ローマ皇帝 に選出されb カール5世 となる。
(▲南ドイツの大商人c フッガー家 の財政援助を受ける。) - d マゼラン の世界周航を援助。(前述) → フィリピン領有。
- キリスト教世界の統一維持のため、e ルター の宗教改革を弾圧。(前述)
- f ハプスブルク帝国 ともいわれる広大な領土を支配。
- g フランス王国 との対立激化。→ 1521~44 h イタリア戦争 (狭義)。
- 1529年 i オスマン帝国 スレイマン1世 j ウィーン包囲 。
- 南北アメリカ大陸から大量のk 銀 がもたらされる。→ 宮廷・戦費で浪費。
- 1556年 退位 → ハプルブルク家が二系統に分かれる。
解説
カール5世の多面的な存在であることを理解する。かれは神聖ローマ皇帝カール5世であると同時にスペイン王カルロス1世であり、ドイツ王でもあり、その他ハプスブルク家の家領としてネーデルラントや南イタリアに領地を持ち、アメリカ大陸の広大な衣植民地の支配者でもあった。またマゼランが到達することによってフィリピンもその領土に入ることとなった。それはフランス王にとっては大きな脅威であったので、両者はイタリアの支配権をめぐって争うこととなった。しかしカールにとって敵はフランソワ1世だけではなく、ドイツで始まったルターの宗教改革でのプロテスタント、東方からのオスマン帝国の脅威とも戦わなければならなかった。(もっとも、ウィーンを守っていたのは弟のフェルディナントであった。)=l スペイン=ハプスブルク家 とm オーストリア=ハプスブルク家 に分裂。
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C フェリペ2世 スペインの全盛期- a カトリック教会 を保護。ヨーロッパの新教徒弾圧を支援。イギリスのb メアリ1世 の夫となる。
c ネーデルラント の新教徒を弾圧。 → 反発した新教徒がd オランダ独立戦争 開始。(次節) - 1571年 e レパントの海戦 ローマ教皇、ヴェネツィアなどと協力して、オスマン帝国の海軍を破る。
→ プレヴェザの海戦で失っていた地中海の制海権を取り戻した。ただし、オスマン帝国の脅威はなお続く。
Text p.217
- 1580年 f ポルトガル の王位を兼ねる。1640年まで、同君王国となる。
→ 広大な海外植民地をもち、g 「太陽の沈まぬ国」 と言われる。
= 本国スペイン・ポルトガル 世襲領地ネーデルラント、ナポリなど 海外領土アメリカ大陸・フィリピン
旧ポルトガル領 アフリカの各地、アジアのホルムズ、ゴア、スリランカ、マラッカなど。
解説
神聖ローマ皇帝位は叔父のフェルディナンドが継いだので、フェリペ2世はスペイン王にとどまったが、ネーデルラントや新大陸とフィリピンの植民地を相続した。また母がポルトガル王女であったことを口実にその王継承権を主張し、軍隊を派遣して承認させたことによってポルトガルのアジア植民地を手に入れた。こうしてスペインは「太陽の沈まぬ帝国」となり、フェリペ2世はカトリック世界の保護者として君臨したが、その実体は「借金大国」であった。新大陸からの大量の銀は、イタリア戦争の戦費と外国製品の購入に充てられたので、ネーデルラントを通じてヨーロッパ全体にばらまかれ、価格革命を起こしした。しかし国内産業を育成にまわされず、スペインは財政の不足をフッガー家などからの借金に依存していた。しかも、1557年以後、くりかえし破産宣告(国庫支払い停止)に陥っている。「世界帝国」としての自己を維持できないのがスペインの実態であった。それに拍車をかけたのが、ネーデルラントの独立戦争、イギリスとの戦争であった。
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・スペインの衰退 直接的には、1581年のh オランダ の独立、 1588年 i 無敵艦隊 の敗北。
・17世紀 衰退始まる:スペインの衰退の理由
j 新大陸から得た銀は宮廷の奢侈に浪費され産業育成などに回されなかったこと。
k 本国以外の産業や植民地の資源に依存し、国内産業の基盤が作られなかったこと。
・17世紀 衰退始まる:スペインの衰退の理由
j 新大陸から得た銀は宮廷の奢侈に浪費され産業育成などに回されなかったこと。
k 本国以外の産業や植民地の資源に依存し、国内産業の基盤が作られなかったこと。
用語リストへエ.オランダの独立とイギリスの会議進出
1.オランダの独立
■ポイント スペインからの独立の過程を理解し、急成長した背景を考える。
Aネーデルラント =現在のオランダとベルギー、北フランスを含む一帯でa スペイン の領土だった。- 毛織物業など、手工業・商業が発達し、b カルヴァン派 の新教徒(ゴイセンといわれた)が多い。
- スペインのc フェリペ2世 、カトリック化政策を進め、自治権を奪おうとした。
→ ネーデルラントの新教徒の中に、独立を求める声が強まる。
解説
ネーデルラント(低地地方の意味)とは本来は現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクに北フランスを含む広い範囲を指していた。スペイン領から独立する過程で北部11州だけが独立してネーデルラント共和国と言われるようになった。11州の中心となったのがホランド州だったのでその名で呼ばれることも多く、日本ではそこからオランダという呼称が定着した。現在の正式な英語表記は、Netheelands である。
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Bオランダ独立戦争 1568年~1609年(最終的には1648年に独立承認される)- 1568年 ネーデルラント諸州のスペインに対する反乱始まる。
→ 南部10州(a フランドル地方 )はスペイン支配下にとどまる。 - 1579年 北部7州 b ユトレヒト同盟 を結成、c オラニエ公ウィレム が指導し、抵抗を続ける。
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Cネーデルラント連邦共和国 の成立。- 1581年 独立宣言。 最高指導者a オランダ総督(統領) の地位はオラニエ公の世襲とされる。
= その中心がホラント州であったので、この連邦国家は日本ではb オランダ と言われる。
Text p.218
→ スペインの国力衰える。新教国イギリスがオランダを支援。 - 1588年 スペインのc フェリペ2世 、d 無敵艦隊(アルマダ) を派遣しイギリスを攻撃。
→ e エリザベス1世 統治下のイギリス海軍に敗れる。 → スペイン、制海権を失う。
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Dオランダの独立- スペインとの戦争を続けながら、バルト海での北欧諸国との中継貿易で富を蓄積。
- 1602年 a 東インド会社 を設立。 → 東南アジアへの進出。日本とも貿易開始。
▲b 株式会社 の最初の始まり。複数の株主が出資し、出資額に応じて有限責任を負う経営形態。 - 1609年 スペインと休戦条約。独立戦争が実質的に終わり、独立を事実上認めさせる。
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Eアムステルダム の繁栄。 フランドルのa アントウェルペン にかわり国際金融の中心となる。- 17世紀前半、オランダの全盛期となる。学芸も発展。
- 1648年 三十年戦争後のb ウェストファリア条約 で国際的にも独立承認される。(後出)
- アジア・アフリカ・新大陸に進出してスペイン・ポルトガルの交易拠点を次々と奪う。
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・17世紀後半 c イギリス=オランダ戦争 に敗れ、次第に劣勢になって衰える。(10章で説明)
・衰退の理由:d 連邦制のもとで強い中央権力を持たなかったこと。
e 国内産業の成長が無く、もっぱら中継貿易に依存したこと。
・衰退の理由:d 連邦制のもとで強い中央権力を持たなかったこと。
e 国内産業の成長が無く、もっぱら中継貿易に依存したこと。