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ベック式!難単語暗記法ブログ

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クシャーナ朝と大乗仏教

2017-07-15 | 生物暗記法
■ポイント イラン系王朝としての特色と、新しい仏教の特色を理解しよう。
A 前2~前1世紀の情勢
・ギリシア人勢力がa バクトリア から西北インドに進出。 → b ヘレニズム の影響がおよぶ。
・*前1世紀なかごろ イラン系遊牧民(サカ族)、大月氏に圧迫され北西インドに移住。
  同じころ、西側のイラン高原から同じイラン系のパルティアがインド西部に進出。
 クシャーナ朝 の成立 イラン系a クシャーン人  バクトリアで自立。
ガンダーラ仏
・紀元後1世紀 インダス川流域に入る。バクトリアからインド北西部にかけて支配。
・2世紀中頃 b カニシカ王  全盛期となる。中央アジアからガンジス中流域までを支配。
・c ローマとの交易  ローマから大量の金がもたらされ、ローマの貨幣を参考に金貨を鋳造。
 → 東西交通の要衝に当たり、国際的な経済活動が活発になる。

 大乗仏教  = クシャーナ朝時代の新しい仏教の運動。

・ブッダ以来の仏教が、出家者が厳しい修行によって自身が悟ることを目的としていたのに対し、
 a 自分の悟りよりも人々の救済がより重要である と考え、出家しないで修行する意義を説く、
 b 菩薩信仰 が広がる。 = C 大乗仏教 (大きな乗り物の意味)。
 → その立場から、従来のd 部派仏教  をe 小乗仏教  と蔑称した。
 = 現在では部派の中の最保守派を意味するf 上座部仏教 という。
・g 仏像 の出現 C 大乗仏教 とb ヘレニズム の影響。
 → i ガンダーラ を中心に仏教美術が栄える。(右図参照)

補足:ガンダーラ美術

 ガンダーラはインダス川上流、パンジャーブ地方(現在はパキスタン)のクシャーナ朝の都 プルシャプラ(現ペシャワール)の近郊にあり、1世紀から3世紀にかけて多くの石窟寺院が造営され、石仏が残されている。仏教は本来、偶像崇拝を否定するものであっことと、ブッダは恐れ多い存在であるとされたため、仏像は作られていなかった。たとえば初期の彫刻では仏陀を象徴する菩提樹が描かれているだけで仏陀の姿は見えない。ところがこのガンダーラ地方で、仏像彫刻が見られるようになった。
 その理由は、一つはヘレニズム、つまりギリシア彫刻の影響がおよんだことと、大乗仏教の思想から広く大衆を救済する菩薩が信仰されるようになり、わかりやすい菩薩像が造られるようになったことがあげられる。実際、ガンダーラの仏像には、顔つきはギリシア人に似ており、その衣服はギリシア彫刻のような写実性の強いものが見られる。ただし、最近の研究では、仏像はインド中部のマトゥラーで発生したという説も出されている。ガンダーラ美術の仏像彫刻はアフガニスタンのバーミヤン仏教遺跡などを介して、中国の北魏の時代の雲崗の石窟寺院につながる。
・仏教思想の深化 j ナーガルジュナ(竜樹) が大乗仏教の理論を確立。
 = いっさいの法(存在)を空(相対的な関係)と見る「中論」を説いた。
 仏教の伝播 
・a 大乗仏教 :仏像彫刻と共に、中央アジアをへて
   b 中国・朝鮮・日本 に広がる。= c 北伝仏教 ともいう。
・d 上座部仏教 :前3世紀e スリランカ を経て
  f ビルマ・タイ・カンボジア に広がる。= g 南伝仏教 ともいう。
■E サータヴァーハナ朝  クシャーナ朝と同時代に北西インドから南インド(デカン)にかけて支配。
・仏教・ジャイナ教が盛んであったが、北インドからバラモンも招かれ、インド文化の一体化がすすんだ。
インド洋のa 季節風貿易 を介したb ローマとの交易 を行う。

地図:クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝

  緑色部分がクシャーナ朝、点々部分がサータヴァーハナ朝 マウリヤ朝仏教地図


 各王朝の都と仏教関係の重要地名

 ・クシャーナ朝の都 a プルシャプラ 
 ・サータヴァーハナ朝の都 b プラティシュターナ 
 ・石窟寺院の造営地
  c アジャンター 
  d エローラ 
  e マトゥラー 
 ・ヴァルダナ朝の都 f カナウジ 

 

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Text p.59

 

用語リストへキ.インド古典文化の黄金期
■ポイント ヘレニズムの影響を脱し、インドの独自性が生まれた時期であることを理解しよう。
 グプタ朝  4世紀 ガンジス川中下流から起こる。都パータリプトラ
・4世紀末~5世紀初め、a チャンドラグプタ2世 の時、全盛期となり、北インドを統治。
・特徴 分権的な統治体制。王国直轄領・臣下の統治地域・属領(領主が国王に貢納)からなる。
・仏教、ジャイナ教が盛んになる。 → 中国の東晋の僧b 法顕 が来る。(後出)
・バラモンが再び重んじられ、そのことばc サンスクリット語 が公用語とされる。
 ヒンドゥー教 の定着 バラモン教から発展し、仏教などの要素も取り入れる。
・a シヴァ神 (破壊神)・b ヴィシュヌ神 (維持神)を中心とした多神教。
 その他の特色:特定の教義や聖典がない。日常生活と思考の全体、カースト制などインド社会と結びつく。

補足:その他の特徴

 シヴァ神、ヴィシュヌ神と並んで創造神としてブラフマー神も崇拝された。また、牛を神聖視すること、浄・不浄の観念が強いこと、ガンジス川での禊ぎ、火葬などがある。なお民間では多くの神像が描かれているが、神像は一種の象徴であって、そのものを崇拝するものではない。またヒンドゥー教の中には偶像崇拝を厳しく禁止する宗派もあるので、単純な偶像崇拝宗教とはいえない。
・c 『マヌ法典』 の編纂。4ヴァルナなどの守るべき規範、バラモンの特権的地位の強調。
・二大叙事詩 d 『マハーバーラタ』 ・e 『ラーマーヤナ』  
グプタ仏
 = 王子ラーマを主人公とする英雄叙事詩。この一部の『ヴァガバッド=ギーター』が特に重視される。
 インド古典文化 の黄金期
・宮廷詩人 a カーリダーサ  戯曲『シャクンタラー』を創作。
・自然科学 天文学・文法額・数学・医学なども発達。
      c十進法、d ゼロの概念 が一般化。
 → イスラム世界を通じ、ヨーロッパにも伝えられる。

Text p.60

・美術 e グプタ様式 の美術。
  例 f アジャンター の石窟寺院の石仏(右図参照)
  特色 g ヘレニズムの影響を受けたガンダーラ様式から脱し、インド文化の独自性をもつ。    
 → 壁画は日本の法隆寺金堂の壁画に影響が見られる。
・5世紀 ローマ帝国の衰退 → 東西交易の衰退 → h エフタル の進出
     → 6世紀半ば 地方勢力が台頭し滅亡。

補足:グプタ様式の美術

 グプタ様式の仏像はマトゥーラとアジャンターに見られる。上の写真はマトゥーラ出土のものであるが、グプタ様式の仏像になるとヘレニズム的要素派はなくなり、温和な表情、丸みを帯びたなだらかな衣服などインドの独自性が強まっている。それは私たちが見慣れた日本の仏像と同じ雰囲気のものである。
 アジャンター石窟寺院は、前1世紀から後7世紀という長期にわたって造営されたものだが、最盛期はグプタ朝だった。壁画が有名で、インド最古の仏教壁画を始め、日本の飛鳥時代(7世紀)に聖徳太子が建立したとされる法隆寺の金堂壁画などにその影響を見ることができる。8世紀には、デカン高原にエローラ石窟寺院が造営されている。
 ヴァルダナ朝  7世紀初めa ハルシャ王 が北インドを支配。
・国王以下の支配層ではヒンドゥー教を信仰したが、仏教とジャイナ教も保護した。
・7世紀前半 唐僧b 玄奘  c ナーランダー僧院 で学び、帰国後、『大唐西域記』を著す。
    後半 同 d 義浄  帰国後、『南海寄帰内法伝』を著す。

地図:5~7世紀のインド

5~7世紀のインド
  A グプタ朝 の領域
  B エフタル の進路と最大領域
  C ヴァルダナ朝 の領域

 重要地名
  a パータリプトラ 
  b カナウジ 
  c マトゥラー 
  d サーンチー 
  e アジャンター 
  f エローラ 
  g サールナート (ベナレス)
  h ナーランダー僧院 


 仏教 の衰退
・グプタ朝の衰退 →a 商業活動の不振  → 仏教・ジャイナ教への商人の支援がなくなる。
・6世紀半ばからヒンドゥー教のb バクティ運動 が盛んになる。仏教とジャイナ教を攻撃。
  = 神々に絶対的に帰依し、感覚的に神々との一体感を得ることをめざす信仰。 → 民衆に浸透する。

解説:仏教衰退の要因と背景

 仏教は王朝の保護のもと、クシャトリヤや商人などの上層階級に支持されていたが、民衆の間では熱心なバクティ運動によってヒンドゥー教信仰が浸透していった。ヒンドゥー教の影響を受け、大乗仏教の中に密教が生まれ、神秘的な儀式が行われるようになった。
 カースト制度がインド社会に定着し、カーストを否定する仏教はむしろ民衆から離れていったと言える。また、ヴァルダナ朝ごろから西方との交易が衰え、商業活動が不振となり、仏教支持層の商人が仏教から離れていったことも一因である。そのような中で10世紀以降、イスラーム教が及んで激しい異教排斥が始まると、民衆に浸透していたヒンドゥー教はそれに対抗しながら許容される傾向にあったが、民衆に基盤のない仏教はそれに抗することが出来ずに衰退していった。しかし、近代にいたってインド仏教にも一定の復興が見られることも忘れてはならない。
 ラージプート時代  8~10世紀ごろのインド
・8世紀 a イスラーム教 が西方から進出。インダス下流域におよぶ。

Text p.60

・b ラージプート  = 北インドでヒンドゥー教を守り、イスラーム化に抵抗した地方勢力。
・ベンガル地方ではc パーラ朝 ナーランダ僧院を復興させるなど仏教を保護した最後の王朝となる。
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用語リストへク.南インドとインド洋交易
■ポイント 南インドには北インドとは異なる歴史があったことを理解しよう。
 ドラヴィダ系 の活動
・紀元前後よりa タミル語 を使用した文芸活動が盛んになる。
 → b バクティ運動 と結びついて吟遊詩人が生まれる。
 海の道 
・地中海 ― 紅海 ・ ペルシア湾 ― アラビア海 ― 南インド ― 東南アジア ― 中国
  → モンスーンを利用する遠洋航海術が発達。→ 南インドを中心としたa 季節風貿易 の展開。
・1世紀ごろからb ギリシア系 商人の活動が活発になる。
 = c 『エリュトゥラー海案内記』 にインド洋沿岸での交易の詳しい記録が見られる。

説明:

 1世紀ごろのギリシア系商人がインド洋海域で活躍していたことをす耐える文献が『エリュトゥラー海案内記』である。この書はアレクサンドリアを拠点としていたギリシア系商人が、インド洋での交易案内のためにかいたものであるらしく、アフリカ東岸、アラビア半島から南インドにいたる港の様子が記されている。エリュトゥラー海とは紅海のことだが、当時はもっと広い海域を指していたらしい。なお注目されるのは、中国と思われるティーナイという地名が出てくることで、これは西洋文献に現れた中国の記述としてもっとも古いものである。
・d 港市国家 の建設 インド洋からマラッカ海峡・インドシナ半島南部
 = スリランカ、扶南、チャンパー、シュリーヴィジャヤなどがそれにあたる(後出)。
 → 香辛料・絹・茶・陶磁器などの交易が盛んに行われた。
C チョーラ朝 
 ・前3世紀ごろ成立し13世紀ごろまで続く。潅漑施設の建設によって安定した農業生産を実現。
 ・盛んに交易活動を行う。10~11世紀 スリランカ、東南アジアに軍事遠征。中国の北宋に商人使節を派遣。
補足 スリランカ(セイロン島)
 ・アーリヤ系のe シンハラ王国 が成立。b 上座部仏教 を受容。インド洋交易で活躍。
・ドラヴィダ系c タミル人 が移住。d ヒンドゥー教 を信仰。 → シンハラ人との対立、現在まで続く。
 

第2章 アジア・アメリカの古代文明 第1節 インドの古典文明

2017-07-15 | 生物暗記法

 

用語リストへア.インドの風土と人びと
・世界史上のインド=南アジア 現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、ブータン、スリランカ、
  などを含む。北側にヒマラヤ山脈、南部にインド洋が広がる。
  西側にa インダス川 、東側にb ガンジス川 の大河が流れ、中央にデカン高原が広がっている。
・気候:c モンスーン 気候帯 雨期と乾期がある。夏は南西風、冬は北東風が卓越する。

Text p.53

・文化圏:北部のa アーリヤ 文化圏と南部のb ドラヴィダ 文化圏に分かれる。
 さらに、多くの民族、言語、宗教が共存している。

補足 インドの言語

 インドは10億以上の人口を有し、25の州は「言語州」といって言語の違いで分けられており、州の境目を超えると言葉も代わることになる。公用語は18(1992年現在)もあり、紙幣には10を超える文字で金額が記されている。その言語系統は、インドの北半分ではヒンディー語やベンガル語などインド=ヨーロッパ語族に属し、南インドにはタミル語などのドラヴィダ語族に属している。その他にも周辺にはシナ=チベット語族やオーストロ=アジア語族の言語が見られる。
 このうち最も広く用いられているのがヒンディー語でその話者人口は中国語、英語に次いで世界第3位に位置する。インド憲法ではヒンディー語を「国語」と規定しているが、南インドなどでは反発が強い。イギリスの植民地時代に使われた英語が依然として共用の言語として通用している。なお、インドと分離して独立したパキスタンではムガル帝国時代にペルシア語とヒンディー語が融合してできたウルドゥー語が公用語とされている。



用語リストへイ.インド文明の形成
■ポイント インダス文明の特徴は何か。
 インダス文明  前2300頃 a インダス川 流域にb 青銅器文明 起こる。
・主要遺跡 c モエンジョ=ダーロ (中流)、d ハラッパー (上流)など。
・特徴 e 沐浴場 、穀物倉などを備える。煉瓦づくりのf 都市遺跡 
    g 印章 とh 彩文土器 を使用。
    hインダス文字  未解読。シヴァ神の原型やの像はj ヒンドゥー教 の源流か。
・前1800年ごろ 衰退。原因は不明。洪水や環境破壊、塩害などが考えられている。

補足 インダス文明

 最近、メソポタミアの紀元前2350年頃のアッカド王国サルゴン王の碑文などの資料から、「メルッハ」というところから金、銀、銅、黒檀などを輸入していたことがあきらかになっている。このメルッハはインダス文明のことを指すのではないかと考えられており、前1800年頃のインダス文明の消滅の時期と一致してその名が消えている。
 インダス文明の代表的遺跡であるモエンジョ=ダーロとハラッパーはいずれも現在のパキスタンに含まれることに注意すること。他にロータルドーラーヴィーラーの二つの重要遺跡があるが、これらはいずれもインド西部にあたる。
 インダス文明を生んだのは、ドラヴィダ人(イラン方面から移住したものと思われる) 説が有力である。特徴としては、上記の他に綿花を世界で最初に栽培したことや、彩文土器にろくろを使用したことなどがあげられる。
 インダス文明の滅亡については、かつてはアーリア人の侵入によって滅ぼされたと言われていたが、現在では否定されている。代わって乾燥化やインダス川の大洪水などの自然要因説が有力になっている。

インダス文明 (緑色部分がインダス文明遺跡の分布範囲)

インダス文明地図

  インドの重要地名
  a インダス 
  b ガンジス 
  c パンジャーブ 地方
  d カイバル 
  e ハラッパー 
  f モエンジョ=ダーロ 
  g ドーラーヴィーラー 
  h ロータル 

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Text p.54

 

用語リストへウ.アーリヤ人の進入とガンジス川流域への移動
■ポイント アーリヤ人のインド侵入によって成立したカースト制度とはどのようなものか。
 アーリヤ人 の侵入 前1500年頃 西北からカイバル峠を越えて移住。
・a インド=ヨーロッパ語系 の遊牧民。インド北西部のb パンジャーブ 地方に定住。
 社会 貧富や地位の差のない部族社会。
 信仰 雷や火などの自然現象を崇拝し、祭式を行う。 → 宗教知識をc ヴェーダ に記す。
    その中の最古の自然に対する賛歌集がd 「リグ=ヴェーダ」 である。
 ガンジス川流域 への移住 前1000年頃、アーリヤ人が東方に居住権を拡大。
・a 鉄製の農具  森林の開拓を進め、鉄の刃をつけた木製の犂を牛に引かせ、稲を栽培。
 → 先住民とまじわりながらb 定住農耕社会を形成し、貧富の差、社会的身分の違いが生じる 
 → 生産に従事しない王侯、武士、司祭などの階層が生まれ、強い権力を持つ王が支配する。
 カースト制度  の成立
・a ヴァルナ  本来は、アーリヤ人と先住民の皮膚の色の違いを示す「色」の意味。
  → 身分的上下関係を示すようになる。 → 基本の4身分からなるb ヴァルナ制 の形成。
・ 支配階紋(非生産階級) c バラモン (司祭)・d クシャトリヤ (武士)
・ 被支配階級(生産階級) e ヴァイシャ (農民・牧畜民・商人)・f シュードラ (隷属民)
  → これ以外に被差別民としてg 不可触民 がいる。
・商業の発展に伴い、e ヴァイシャ は商人を、f シュードラ は次第に農民・牧畜民の意味に変化する。

Text p.55

・最上位の司祭が司る宗教をh バラモン教 という。
・i ジャーティ  本来は「生まれ」を意味する=j 特定の信仰や職業と結びついた世襲的集団 
  → 他とは結婚したり食事で同席することが制限される。多数うまれ、上下関係が細かく定まる。
  → ポルトガル語で血統を意味する「カスタ」から、西洋人がk カースト といった。
・C カースト制度  l ヴァルナ制とジャーティが結びついた細分化された身分制社会  

説明 カースト制度

 カースト制度はインドを理解する上で最も重要なキーワードであるが、その仕組みは複雑で多岐にわたり、なかなか理解は難しい。大まかに言って、身分制度であるヴァルナと、職業的世襲集団であるジャーティが結びついたもの、といっていいだろう。特にバラモン教とそれから発展したヒンドゥー教というインド固有の宗教と深く結びついている。
 基本となる4つの身分を一般にカーストというかが、カーストは大航海時代にインドに来たポルトガル人が使った言葉であり、インドではヴァルナと言っていた。ヴァルナはさらに多くのジャーティに分かれ、その数は3000にものぼるという。さらに「カースト外」とされる被差別民が存在した。現代のインドでは、憲法によってこれらの身分差別は禁止されているが、現実には社会に深く定着しており、現在でもインドの社会問題となっている。
・前6世紀ごろまでをバラモン教の聖典が編まれた時代であることから、m ヴェーダ時代 という。
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用語リストへエ.都市国家の成長と新しい宗教の展開
■ポイント 仏教とジャイナ教は、どのようにして成立した、どのような宗教か。
 都市国家 の形成  前6世紀 前6世紀ごろまでに、階級社会が形成され、部族社会が崩れた。
・政治、経済の中心がa ガンジス川中下流 に移り、城壁を持ったb 都市国家 が生まれる。
 中流域のb コーサラ国 、その後に下流域のb マガダ国 が有力となる。
  → d クシャトリヤ とe ヴァイシャ が勢力を伸ばす。
 仏教 の成立 前6~5世紀 開祖 a ガウタマ=シッダールタ 

Text p.55

・形式化したバラモン教の儀式やヴェーダ祭式、ヴァルナ制などを否定。
 = b 煩悩 を断ち、正しい修行を行うことによって 輪廻転生 から 解脱 する道
 を説き、人間のe 慈悲 の心を説いた。悟りを開いた人、の意味でf ブッダ と尊称された。
 → 原始仏教教団が生まれる。

説明 ブッダ 

 ガウタマ=シッダールタの生年は紀元前563年と前463年の百年の差の二説あるが、現在では後者が有力とされている。現在のネパールのヒマラヤ山麓にあったシャカ族の王子として生まれたので、広くシャカ(釈迦牟尼)とも言われるが本名はガウタマ=シッダールタ。ブッダ(仏陀)というのは「悟りを開いた人」の意味で名前ではなく、尊称である。生老病死に悩む人間の救済のため、29歳で出家し、バラモンの修行を積むが得られるところなく、35歳で悟りを開いた。
 ジャイナ教 の成立 前6~5世紀 開祖 a ヴァルダマーナ  
・形式化したバラモン教の儀式や難解なヴェーダ祭式、ヴァルナ制などを否定。
特に苦行とb 不殺生 を強調した教え。 → マハーヴィーラ(偉大な勇者の意味)と言われる。
 バラモン教の改革 
・祭式至上主義から脱脂で内面の思索を重視し、a ウパニシャッド哲学 を成立させる。
 =宇宙の根源であるb ブラフマン(梵=普遍) と人間存在の根源を意味するc アートマン (我=自己)  
  を一致させること(梵我一如)によって、精神の自由を得て輪廻から解脱することが出来る、と説く。
 ヒンドゥー教 の萌芽 バラモン教が民間宗教を吸収し、仏教・ジャイナ教の影響を受ける。
 →ヴェーダの神々にかわり、シヴァ神やヴィシュヌ神を主神とする宗教体系を作る。(後出)
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用語リストへオ.統一国家の成立
■ポイント インド最初の統一王朝は、どのようにして生まれ、どのようにインドを統治したか。
 アレクサンドロス大王  前4世紀 東方遠征を行い、アケメネス朝を滅ぼす。
・前327年 西北インドに進出。 → インダス川流域にa ギリシア系 政権が成立。
 ガンジス川流域では都市国家の一つb マガダ国 が有力になる。
 マウリヤ朝  の成立 前317年 a チャンドラグプタ王 がマガダ国を倒し王朝を建てる。
・都をb パータリプトラ におく。インダス流域に進出し、ギリシア人勢力を一掃し、
 c 初めてインドを統一する。    
 → 西南インドとデカン地方を征服、支配域を広げる。
 アショーカ王   前3世紀半ば 最盛期となる。
デカン高原の東南部、カリンガ国を征服。最南端部を除きインドのほぼ全域を支配。(下図でその範囲を確認)
 → 犠牲者を出したことを悔いa 仏教 に帰依。
 → 武力による征服戦争をやめ、b ダルマ(法) =守るべき規範による統治に転換。
・c 磨崖碑 、d 石柱碑 を建立し、ダルマに基づく勅令を刻む(下の地図を参照)。
 → サールナートの仏跡の石柱碑が有名。
・e 仏典結集 (シャカの教説の編纂)を援助。
・各地に ストゥーパ(仏塔)を建てる。サーンチーが有名。
・f スリランカ に仏教を布教。
・死後、財政困難、バラモン層の反発などにより衰退。

        マウリヤ朝と仏教関係遺跡

マウリヤ朝仏教地図

マウリヤ朝までの仏教関係の重要地名
・マウリヤ朝の都
 a パータリプトラ 
・仏教の4大聖地 
 b ブッダガヤ シャカが悟りをひらいた所
 c カピラヴァストゥ シャカが生まれた所
 d クシナガラ シャカが死去(入滅)した所
 e サールナート シャカが最初の説法をした所
・仏教遺跡
 f サーンチー ストゥーパ(仏塔)のある所
  g 磨崖碑 の分布
  h 石柱碑 の分布

 

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Text p.57

 

 

1858(安政5)年 〈安政の大獄〉★★

2017-07-15 | Weblog

● 江戸時代(孝明天皇 徳川家茂)
 
Beginning of the Ansei Purge of opponents to the shogunate’s opening of Japan to the West.
いや怖(こわ)い世は 安政の。
1858年 井伊直弼 吉田松陰 橋本左内 安政の大獄      

1858年から、大老井伊直弼は無勅許の条約調印に反対する者を徹底的に弾圧。安政の大獄とよばれるこの弾圧で、自らが14代将軍に据えた徳川家茂の対立派であった一橋派の公家・大名をはじめ、吉田松陰・橋本左内・梅田運浜・頼三樹三郎ら尊皇攘夷を説く志士たち多数を処罰した。


[point]

1.井伊直弼は、安政の大獄1858年)で橋本左内吉田松陰らを処刑した。

[解説]

1.安政の大獄1858~59)は、南紀派大老井伊直弼によって行われた尊王攘夷論者一橋派に対する弾圧事件。井伊大老の専制に反対した徳川斉昭(なりあき)、松平慶永(よしなが)、一橋慶喜らを処罰。さらに吉田松陰橋本左内梅田雲浜(うめたうんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら志士(政治活動家)を処刑するなど100人余が処罰された。

2.井伊直弼(1815~60)は、将軍継嗣問題で対立する一橋派を制し、1858年、突如大老に就任。日米修好通商条約孝明天皇勅許を得ず調印、継嗣を紀州藩主徳川慶福(よしもち)(14代家茂(いえもち))とした。反対派の大名や家臣、公家、志士を安政の大獄で弾圧したが、桜田門外の変で暗殺された。

3.吉田松陰(1830~59)は、長州藩士。萩の私塾松下村塾(叔父が開設)で熱烈な教育を行ったことで知られる。高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山県有朋などの尊王攘夷派人材を育てた。倒幕、老中暗殺の意志を明らかにして投獄され、斬刑に処された。

4.橋本左内(1834~59)は、緒方洪庵に医学を学ぶ。藩主松平慶永を助け一橋派の中心として活躍。

5.梅田雲浜(1815~59)は、若狭小浜藩士。海防を藩主に建言したことで藩を追われ、ペリー来航後は幕政を批判し、尊王攘夷論を唱えて奔走した。

6.頼三樹三郎(1825~59)は、京都生まれの儒学者。頼山陽の3男。梅田雲浜らと交わり、ペリー来航後尊王攘夷論を唱え、京都の政治情勢に奔走した。

2017関西大・全学部

学生B:ぼくは滋賀県に住んでいるので、彦根城が世界遺産に登録される日を楽しみにし ています。彦根城は徳川家康に仕えた譜代の重臣である10)[ア.松平 イ.本多 ウ.井伊]氏の居城として築かれました。
学生A:知ってるわ。幕末の大老で日米修好通商条約を結んだ人物も、彦根城と関係深い のよね。
学生C:安政の大獄を起こして、福井藩士の11)[ア.橋本左内 イ.藤田東湖 ウ.吉田松陰]らを処刑した大老ですね。」

(答:10ウ、11ア)〉

2016明大・情報:「
問10 下線部(コ)嘉永から安政期の時期に発生した出来事として、もっとも正しいものを、つぎの1~4から1つ選べ。

 1.京都守護職の設置

 2.橋本左内の処刑
 3.ポサドニック号事件の発生
 4.生麦事件の発生」

(答:2)〉

2013上智大・法総合神外:「
 1850年代になって、日本は、鎖国から開国へと転じ、( ア )年にはいわゆる(a)安政の五カ国条約を結んだが、開国によって経済的混乱と社会的不安が増大し、尊王穣夷論が台頭した。それに対して、幕府の実権を手にしていた( イ )はこの時・長州藩士(b)吉田松陰をはじめとする多くの志士たちを処刑して乗り切ろうとしたが、そのことに対する憤慨から、彼は( ウ )において暗殺されてしまった。

問1 上記の文章中の空欄(ア~ウ)に関する以下の問いに答えなさい。


(1)空欄アに当てはまる年代はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1.1856 2.1857 3.1858 

 4.1859 5.1860

(2)空欄イに当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1阿部正弘 2井伊直弼

 3堀田正睦 4安藤信正
 5岩瀬忠震

(3)空欄ウに当てはまる場所はどこか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1桜田門外 2蛤御門 3池田屋

 4坂下門外 5寺田屋

問2(1)下線部aの5国に入らない国はどこか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1オランダ  2フランス 3ロシア 

 4プロイセン 5イギリス」

(答:問1ア3、イ2、ウ1、問2→4)〉



特殊銀行(6行設立順)

2017-07-15 | 生物暗記法

晴れて横浜 来な勧誘 日本工業に保管の鯛は 工場長。

横浜正金(しょうきん)銀行・日本行)(農工銀行・湾銀行・業銀行)(朝鮮銀行)


[ポイント]

1.特殊銀行は設置順に、横浜正金銀行日本勧業銀行農工銀行台湾銀行日本興業銀行朝鮮銀行の6行である。

[解説]

1.特殊銀行は、それぞれの特別法に基づいて設立された銀行のこと。

2.横浜正金銀行は、1880年設立。横浜正金銀行条例(1887年)により特殊銀行に改組。貿易など長期間にわたる事業への金融・為替管理をおこなう。


3.日本勧業銀行は、1897年の設立。農工業事業者への資金貸付。


4.農工銀行は、1898~1900年の設立。地方の農工業事業者への長期低利貸付を業務とする。静岡農工銀行を1番目として設立後1900年まで全国46府県に1行ずつ設立した。


5.台湾銀行は、1899年の設立。植民地台湾の中央発券銀行。


6.日本興業銀行は、1902年の設立。産業資本への長期融資機関。


7.朝鮮銀行は、植民地朝鮮の中央発券銀行。


2016学習院大・済営:「

 また、貿易金融業務を専門に営む目的で1880年、[ 6 ]が設立され、事業を開始した。[ 6 ]は1887年に特殊銀行となった。特殊銀行としては、このほかに1897年に日本勧業銀行が、1902年には日本興業銀行が設立された。

問6 [ 6 ]にあてはまる銀行名を答えなさい。」


(答:横浜正金銀行)〉


2015早大・人間科学:「

 明治初期以降、日本の貿易は、おおむね輸入超過がつづいた。しかし、1880年代前半のいわゆる松方財政のもとで貿易が輸出超過に転じたことや、貨幣・金融制度が整備されたことなどがあいまって、1880年代後半から産業界は活況を呈するようになった。この時期から日清戦争と日露戦争という2度の戦争を経る過程で、e日本では産業化の基盤整備が進み、資本主義が本格的に成立・発展した。

問5 下線部eに関連する記述として、正しいものはどれか、1つ選べ。


 ア 1880年代後半には、製糸と鉄道の部門を中心に株式会社設立のブームが起こった。

 イ 官営の兵庫造船所が三菱に払い下げられた。
 ウ 貿易金融を主な目的として、日本勧業銀行が設立された。
 エ 池貝鉄工所が、欧米並みの精度をもった旋盤の国産化に成功した。
 オ 日露戦争後の反動として、日本初の資本主義恐慌が起こった。」

(答:エ〇 ※ア×製糸→紡績、イ×三菱→川崎、ウ×農工業を勧めるため長期貸し付けをおこなう、オ×企業勃興ブームの反動でおこった1890年の不況が日本最初の恐慌)〉


2013学習院大・経済

 1870年代後半、西南戦争の戦費をまかなうための紙幣の増発などにより、激しいインフレーションが生じた。インフレーションとは通貨価値の下落を意味する。これに対処して、日本円の信用を確立するため、1881年に大蔵卿に就任した[ 1 ]は、増税、不換紙幣の処理などを行った。翌年には日本銀行が設立され、1885年から日本銀行は[ 2 ]兌換の銀行券を発行した。その後、[ 2 ]の価値が低下したため、日本円は、主に[ 3 ]制をとっていた欧米諸国に対して下落傾向を読けた。このことは、貿易において、日本の輸出を増やす効果をもたらした。しかし、欧米諸国に対して通貨価値を安定させ、資本輸入を円滑化させる必要から、1897年に[ 4 ]法を制定し、欧米諸国にならって[ 3 ]制を採用した。さらに、1902年には、特殊銀行のひとつとして、長期産業資金供給と外資導入促進を目的に[ 5 ]を設立した。

問1 [ 1 ]にあてはまる人物の姓名を記しなさい。


問2 [ 2 ]にあてはまるもっとも適初な言莱を漢字一文字で記しなさい。


問3 [ 3 ]にあてはまる通貨制度を表す言葉を記しなさい。


問4 [ 4 ]にあてはまる法律名を記しなさい。


問5 [ 5 ]にあてはまる金融機関名を略さずに記しなさい。」


(答:1松方正義、2銀、3金本位、4貨幣、日本興業銀行)〉

 

官営事業払い下げ3(古河・川崎)の覚え方◇C近現515

2017年07月13日 07時12分47秒 | 入試対策講座

□近現515.官営事業の払下げ3(古河・川崎古河)◇C

[ゴロ]古かね/インナーの/評価は


古河)(阿仁(あに)・院内)(庫・崎)


[句意]古くさいね、兄のインナー(下着)の趣味を評価すれば、という句。「古か」は「古い」の博多弁。


[point]

1.兵庫造船所川崎に、院内銀山阿仁銅山古河に払い下げられた。

[解説]

1.兵庫造船所(1871年開設)は、1887年、川崎正蔵に払い下げられた。

2.院内銀山阿仁銅山は、それぞれ1884年、1885年に古河市兵衛に払い下げられた。


3.なお足尾銅山は、不良化して1871年に民間に払い下げられていたが、将来性に目をつけた古河市兵衛が、1877年、買い取った。1881年以降の有望鉱脈の発見により、古河財閥の中核鉱山となる。


2017早大・商:「

 この間に豊富な地下資源の開発も進んだ。このハ鉱山部門を中心的に担ったのは、払い下げを受けた政商たちであった。工業化途上の日本国内においてエネルギー需要や金属需要は限られていたので、産出された石炭や銅は輸出に向けられ、重要な外貨獲得商品となった。

 軽工業、鉱山業が早期に成長したのに対し、重工業部門の発展は遅れていた。十分な資本蓄積を持たない後発国において、初期投資が巨額で、技術水準のギャップも大きく投資リスクが高い重工業部門に、民間の自発的な投資を期待するのは困難であった。そのため政府は日清戦争後に軍需関連の造船業などに奨励策を講じるとともに、重工業化の素材的な基礎を提供する鉄の自給化を進めるため、官営八幡製鉄所を設立した。

 ニ重工業育成政策は日露戦後も引き続いて実施され、その財源は増税や外債発行などで賄われた。育成策は一定の成果をあげたものの、機械や鉄鋼などの重工業部門が十分な国際競争力を確保し、貿易収支を大きく改善させるには至らなかった。他方で、外債の累積は育成策の財源となる追加の募債を困難にし、また外債に対する利払いが国際収支を圧迫するなど、日露戦後の経済状況は次第に危機的様相を深めていった。

問C 下線部ハに関連して、「政商」と払い下げられた鉱山との組み合わせとして正しいものを1つマークせよ。

 1.三井-高島炭鉱

 2.三菱-別子銅山
 3.古河-阿仁銅山
 4.住友-生野銀山
 5.久原-足尾銅山」

問D 下線部ニ重工業育成政策は日露戦後も引き続いて実施に関連して、日露戦後の重工業について述べた文として誤っているものを1つマークせよ。

 1.三菱造船所などの造船技術が世界水準に追いついた。
 2.八幡製鉄所は安価な大冶鉄山の鉄鉱石を原料として生産規幌を拡張した。
 3.池貝鉄工所が世界水準の精度を保つ旋盤を完成させた。
 4.日本製鋼所などの民間の鉄鋼メーカーがあいついで設立された。 
 5.造船業振興のために、兵庫造船所を三菱に払い下げた。」


(答:問c3、問D5×払い下げは1887年で日露戦争どころか日清戦争前、また三菱→川崎)〉


2016明大・政経:「

 (カ)鉱山業では、三井・三菱(岩崎)・古河などの政商が官営事業払下げを受けてこれを営むようになるとともに、巻上機や排水用蒸気ポンプの導入など、鉱山業の近代化が進んだ。

問7 下線部(カ)に関して、古河が払下げ先となった鉱山はどれか。A~Eから一つ選べ。


 A院内銀山 B佐渡金山 C三池炭鉱

 D生野銀山 E高島炭鉱」

(答:A)〉

        

2012立大・文:「
問4.次の1(三井)が払い下げを受けたのはどれか。次のa~eから1つ選びなさい。

 a阿仁銅山 b生野銀山 c院内銀山

 d小坂銅山 e三池炭鉱」

(答:e)〉