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ベック式!難単語暗記法ブログ

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江戸・大坂の卸売市場

2017-07-03 | 生物暗記法

天青くどこ 雑魚は魚。
日本橋魚市場(うおいちば)・神田(かんだ)青物市場(あおものいちば))(雑喉場(ざこば)魚市場・天満(てんま)青物市場)(堂島米市(どうじまこめいちば))


[ポイント]

1.江戸に日本橋魚市場神田青物市場、大坂に雑喉場魚市場天満青物市場堂島米市場があった。

[解説]

1.日本橋魚市場(17C初創設)は、幕府への納魚と江戸市中の魚販売の中心的市場。江戸の人口の急増とともに魚市場は繁栄し、元禄以降には魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両といわれた。

2.神田青物市場(17C初創設)は、神田は各地からの道路が集まり、神田川と南側の日本橋川をひかえた位置は、鮮度を第一とする青物市場にとって最適な場所だった。


3.雑喉場魚市場(1618公認)は、冥加金を上納して、大坂唯一の生魚市場という特権を得る。淀川水系の淡水魚、大坂湾でとれた種々雑多な鮮魚たちをして「雑魚」として取り扱った。乾物である昆布や、肥料としてのイワシ、ニシンなどの塩魚は塩魚仲間(塩魚問屋)の扱いで雑喉場では扱わななかった。


4.天満青物市場(1635創設)は、大坂市中の野菜や果物の取り扱いを独占した幕府公認の市場。1772年には株仲間の開設を公認された。盛時には農作物を売る農民や買い入れの商人が、毎日数万人出入りし賑わった。


5.堂島米市場(1697開設)は、江戸時代最大の米市場。大坂は江戸初期から各藩の蔵屋敷や蔵米を売りさばく商人である蔵元が存在し、全国的な米の集散地であった。幕府は株仲間として認め、1722年から米の先物取引を公認。盛時には1300人もの米仲買商人が米取引を行った。


2016立教大・文:「
問2.江戸時代のこれ(米)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.大坂では堂島で米市場が発展した

 b.蔵元は年貢米の保管・管理をおこなったが、販売はおこなわなかった
 c.脱穀は踏車を使っておこなわれるようになった
 d.水呑百姓はその所持する石高の40~50%を米穀などで領主におさめた」

(答:a ※b×販売をおこなう、c×踏車は揚水用具、d水呑百姓は自分の農地を持ってない)〉


2015早大・文:「 諸藩はまた、領内から徴収した年貢米や国産物を大坂にある蔵屋敷へ回送し、蔵元・掛屋などがその売却にあたった。大坂中之島にある[ B ]米市場では現米が売買されるだけでなく、先物取引も行われた。これを[ C ]取引という。蔵物の売却代金は両替商を通じて江戸でも受け取ることができたので、藩では江戸藩邸に住む大名とその妻子、家臣たちにかかる経費を現金輸送する必要がなかった。b金・銀・銭の換算率は時期によってかなり変動した。


問3 空欄Bに該当する言葉を、漢字2字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。


問4 空欄Cに該当する言葉を、漢字2字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。

問5 下線b金・銀・銭に関する記述として、誤っているものを1つ選べ。


 ア 金座は江戸と京都に置かれたが、のち江戸だけになった。

 イ 金座は代々後藤家が管轄した。
 ウ 金貨の単位は両・分・朱だが、天保一分銀は銀貨である。
 エ 江戸は主に金遣い、大坂は主に銀遣いであった。
 オ 当時は正金銀が流通していたので、紙幣を発行する藩はなかった。」

(答:問3堂島、問4帳合(空米)、問5オ× ※金銀産出量が不足し、それを藩札発行で補った)〉


2014明大・文:「

 都市では農村部の商品生産や流通と深く結びついた商人が成長し、三都や各地の城下町に進出する大商人もあらわれた。また出稼ぎのため農村部から都市へ流入してきた人びとも多くあった。このような流通や経済の展開により、三都や城下町は発達し、(オ)村と同様に町の様子も大きく変化していった

問10 下線部(オ)に関連して、江戸の町と商業の説明として正しいものを、次の1~5のうちから一つ選べ。


 1  店借は貸家に住む家持を管理した。

 2  越後の三井高利は江戸において呉服店・両替商を開業し活躍した。
 3  江戸の市場として、日本橋魚市や神田青物市がある。
 4  常設店舗において振売とよばれる人たちが商売を行なった。
 5  「九尺二間」といわれる裏店は、畳約18畳分の広さがあった。」

(答:3 ※1×「店借」と「家持」が逆、2×、4×、5×)〉


2013明大・文:「

問10 下線部(オ)株仲間解散令に関連する説明として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 営業税を負担することを条件に幕府・藩によって認められた営業の独占権を株というが、その株を持つ商人たちの仲間を株仲間といった。

 2 享保の改革の時にも、幕府は諸物価の高騰をおさえるため、酒・醤油・塩などをあつかう商人の株仲間を解散させている。

 3 この株仲間解散令の結果、商品流通はかえって混乱し、期待された効果もなく、10年後に株仲間は再興された。
 4 この株仲間解散令が出された背景には、菱垣廻船積問屋仲間が上方市場からの商品流通を独占しているという判断があった。」

(答:2※享保の改革の時に認めた。株今日認め店舗解散。


2013南山大学:外国語(英米)総合政策:「

 次の文を読み、下記の設問7~10に答えなさい。

 江戸時代初め、貢納された年貢米や特産物といった[ A ]は、大坂に集められ、幕府や諸藩の委託を受けた商人を通じて販売された。その後、産業が発達するにつれて、一般商人が扱う納屋物の流通も、次第に活発化した。「天下の台所」と呼ばれた大坂では、主要商品の卸市場が発展した。淀屋橋から[ B ]に移転した米市場でも、取引が盛んにおこなわれた。


 大坂で取引された米やさまざまな商品は、江戸へ送られた。江戸の問屋は、[ C ]という仲間を結成して、定期的に大坂から船で商品を運ばせた。その船は、舷側に付けられた囲いの組み方から、[ D ]と呼ばれた。


〔設問〕

問7 空欄[ A ]に入る語を、漢字2字で答えなさい。

問8 空欄[ B ]に入る語を、漢字2字で答えなさい。


問9 空欄[ C ]に入る語を。漢字4字で答えなさい。


問10 空欄[ D ]に入る語を、漢字4字で答えなさい。」


(答:A蔵物、B堂島、C十組問屋、D菱垣廻船)〉


2012同志社大学・文経済:「

問コ.堂島米市、雑喉場魚市とともに大坂の三大市場と数えられ、江戸の神田青物市と並び称される大坂の市場は何か、その名称を記せ。」

(答:天満青物市)〉


2012立大・全学部2/6実施:「江戸時代、野菜や果実を取引する公許の青物市ができたのはどこか

 a.雑喉場 b.天王寺
 c.天満  d.堂島」

(答:c)


第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展 1節 西ヨーロッパ世界の成立

2017-07-03 | 生物暗記法

第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

1節 西ヨーロッパ世界の成立

用語リストへア.ヨーロッパの風土と人々
    •  ヨーロッパ  は、ユーラシア大陸の西端、西は大西洋岸から東はウラル山脈までを言う。
    • 地形:ピレネー山脈-アルプス山脈などを境に北ヨーロッパと南ヨーロッパに分かれる。
       北は平坦な丘陵地とロワール川、セーヌ川、ライン川、エルベ川などの河川沿いの平野が多い。
       南部の地中海沿岸は、平地は少ない。

Text p.121

  • 気候:b 西ヨーロッパ   湿潤・温暖な、西岸海洋性気候。森林が広がり、穀物栽培、家畜飼育に適する。
        c 東ヨーロッパ   乾燥・寒冷な大陸性気候。大森林が広がり、さらにステップに連なる。
        d 南ヨーロッパ   夏暑く、乾燥する地中海性気候。果樹栽培に適する。
  • 民族構成  古代から現代まで、民族移動や移住が進み、多くの民族が混在している。
     e インド・ヨーロッパ語族  ギリシア人、イタリア人、スペイン人、フランス人などの南欧系
                    ケルト人、ゲルマン人(ドイツ人及びノルマン人)などの北欧系
                    スラブ系(ポーランド、チェコ、ロシア人など)などの東欧系

    Text p.122

     f ウラル語系・アルタイ語系  マジャール人、フィン人、エストニア人など
用語リストへイ.ゲルマン人の大移動
■ポイント ゲルマン人の移動と国家建設の歴史的意義と、その社会の特質を理解する。
ゲルマン人  a インド・ヨーロッパ語族  バルト海沿岸で牧畜と狩猟を主とする部族生活を営む。
  • 先住民のb ケルト人  ※を圧迫しながら次第に西ヨーロッパに拡大。
    ※前6世紀頃、ヨーロッパに広がる。ゲルマン人に圧迫されたが、現在も一部に少数民族として残存している。
  • 紀元前後、ライン川からドナウ川にいたる広大な地域に進出、c ローマ  の国境を脅かす。
    ▲AD9年 d トイトブルクの戦い  でローマ皇帝アウグストゥスの派遣したローマ軍を破る。
B ローマ時代のゲルマン人
  •  カエサル のb 『ガリア戦記』 と、歴史家c タキトゥス のd 『ゲルマーニア』 が史料となる。
  • 社会 数十の部族(キヴィタス)に分かれ、それぞれ王または首長に率いられ貴族・平民・奴隷の別があった。
       首長の主催するe 民会 (貴族と平民の成年男子による集会)を最高議決機関とする。
  • 帝政末期のローマ領内への移住 背景 f 人口増加に伴い、土地が不足など  が考えられる。
    → ローマ帝国の下級官吏やg 傭兵  や、h コロヌス  となる。
ゲルマン人の大移動  の開始。
  • 4世紀後半 アジア系遊牧民のa フン人  が黒海北方から西に移動開始。
    → 南ロシアのゲルマン民族のb 東ゴート人 を征服し、さらにc 西ゴート人 に迫る。
  •  375 年 c 西ゴート人  の西方移動始まる。= ゲルマン民族の大移動の開始。
    → 翌年、ドナウ川を越えローマ領内に侵入。

解説

ゲルマン人の移動の直接的原因は、一般にフン人による圧迫とされているが、そのフン人の移動もふくめて、よく分かっていない。当時のゲルマン人の農耕はまだ生産力の低い、移動性の強いものであった。また同じ時期にユーラシアの東では五胡の中国本土への侵入という民族移動も展開されていたので、地球的な規模での環境の悪化があったとも考えられている。なお、日本では「ゲルマン人の大移動」と言われるが、フランスではこれを「侵入」と言っている。世界史の見方も立場が異なれば違ってくる例である。
D ゲルマン人諸国の建国
  •  西ゴート人 :イタリア侵入、410年  アラリック がローマ掠奪。
    → ガリア西南部からイベリア半島にかけてb 西ゴート王国 を建国。都c トレド  。(前出)
  •  ヴァンダル人 :イベリア半島から北アフリカに渡り旧カルタゴの地にe ヴァンダル王国  を建国。
  •  ブルグンド人 :ガリア東南部に王国を建国。(後のg ブルゴーニュ  地方)
  •  フランク人 :ライン川中、下流を越えてガリア北部にi フランク王国  を建国。
  •  アングロ=サクソン人  :ブリタニア( 大ブリテン島 )に進出。k ケルト人  を征服。
     → l 七王国(ヘプターキー)  を建国。(後出)
西ローマ帝国の滅亡 
  •  フン人  の国家 : b アッティラ大王 がパンノニア(現在のc ハンガリー  )に大帝国を建設。
    451年 d カタラウヌムの戦い  で西ローマ帝国とゲルマン民族の連合軍に敗れる。
  •  476 年 ゲルマン出身の傭兵隊長f オドアケル 、西ローマ帝国を滅ぼす。
    493年 東ゴート人のg  テオドリック大王   イタリアに移動、オドアケルの王国を滅ぼす。
     h 東ゴート王国   ラヴェンナを都に北イタリアを支配。ローマ文化との融合を図る。
    → 555年 東ローマ(ビザンツ帝国)のi ユスティニアヌス帝  の遠征軍に滅ぼされる。
    → 北アフリカのj ヴァンダル王国  も滅ぼし、一時地中海支配を回復。
  • 568年 k ランゴバルド人  北イタリアに入り、ビザンツ帝国を撃退し王国を建国。
    = ゲルマン人の大移動が終わる。 → 6世紀、ゲルマン諸王国の中で、フランク人が有力となる。
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用語リストへウ.フランク王国の発展
■ポイント ゲルマン人諸国の中で、フランク王国が有力となりヨーロッパの統一に成功したのはなぜか。
メロヴィング朝  の成立。 481年 メロヴィング家のa クローヴィス  がフランク人を統一。
  •  ガリア  中部まで領土を拡大。 → 東ゴート王国とならぶ強国となる。

Text p.124

クローヴィスの改宗  496年 キリスト教の正統派a アタナシウス派  に改宗。
クローヴィスの改宗
B クローヴィスの改宗 
  • 他のゲルマン諸民族は異端派のb アリウス派  のキリスト教を信仰。
    → c フランク王国がローマ人貴族を支配層に取り込み、その権威を継承した。   
  • 6世紀なかば ガリア南東部のブルグンド王国を滅ぼし、全ガリアを統一。
  • 8世紀 メロヴィング朝が衰退、d 宮宰 (マヨル=ドムス)が実権を握る。
イスラームの侵入  a ウマイヤ朝  の勢力が北アフリカに及ぶ。
  • 711年 イベリア半島に侵入、b 西ゴート王国  を滅ぼす。
    → ピレネーを超え、ガリアに侵入。
  • 732年 c トゥール・ポワティエ間の戦い  
    = フランク王国の宮宰d カール=マルテル が活躍し、イスラーム軍を撃退。
カロリング朝  の成立。 751年 カール=マルテルの子a ピピン  が王位を奪う。
  • ローマ教皇  からフランク王国の王位を認められる。(後出)

解説

ピピンはフランク王国カロリング朝初代の国王。751年、ピピン3世として即位。彼は小ピピンと言われるが、彼の祖父を中ピピン、そのまた祖父を大ピピンという。彼はたいへん小柄であったためともいう。父カール=マルテルに続いて宮宰であったが、メロヴィング朝の王位の弱体化に乗じ、ローマ教皇からフランク王国の甥につくことを認められた。その見返りとして北イタリアのランゴバルト王国から奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)し、ローマ教皇との関係を強めた。
地中海世界の変貌  ゲルマン人の大移動 → 西ローマ帝国の滅亡 → イスラーム勢力の進出
  • その結果、a 地中海世界の政治的・文化的統一は失われ、商業活動も停滞し貨幣経済が後退した。  
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用語リストへエ.ローマ=カトリック教会の成長
■ポイント ローマ=カトリック教会がヨーロッパ世界に浸透し、教皇権が強大になった経緯を知る。
五本山の成立  の成立。 ローマ帝国の帝政末期に成立したキリスト教の重要な五カ所の教会。
  •   ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリア    
    → 西方教会=b ローマ教会  と東方教会=c コンスタンティノープル教会  が有力となる。
ローマ=カトリック教会  の成長。 西ローマ帝国の滅亡後、次第に東方教会から分離の傾向を強める。
  • ▲525年 ローマ教会で a キリスト紀元   が用いられる。→ 10世紀末までに西ヨーロッパに定着。

    Text p.125

  • 6世紀 b 修道院運動  がひろがる。
    529年 c ベネディクトゥス  がイタリアのd モンテ=カシーノ に修道院を建設。(後出)
  • ローマ教会の司教がペテロの後継者としてe 教皇(法王) と言われ権威を高める。
  • 6世紀末 最初のローマ教皇f グレゴリウス1世  、ゲルマン人への布教に努める。
  • 568年 g ランゴバルド王国  (異端)がイタリアに侵入、h ビザンツ帝国 はイタリアから後退。
    → ローマ教会はビザンツ皇帝の保護権から離れる。
聖像崇拝問題  ローマ教会は布教のためイエスやマリアの像をa 聖像 として崇拝していた。
  • 726年 ビザンツ皇帝b レオン(レオ)3世  がc 聖像禁止令  を発布。
  • 背景 イスラーム勢力の小アジアに進出してビザンツ帝国を脅かし、キリスト教を偶像崇拝として非難した。
    → d 偶像崇拝を厳格に否定することにより、イスラーム教側のキリスト教批判に対抗しようとした。   
    → ローマ教会はe ゲルマン人への布教の必要のため聖像礼拝を肯定し、聖像禁止令に反対した。    
ローマ教皇領  の成立
  • ビザンツ皇帝と対立したローマ教会は、a フランク王国  に接近。
  • 754年 b ピピン  がc ラヴェンナ地方  ※をローマ教皇に寄進。 = d ピピンの寄進   
     ※ローマ教皇にフランク王位を認めてもらった返礼として、ランゴバルト王国から奪った地を寄進した。
  • 意義 e ローマ教皇領が成立して大領主となる第一歩となり、フランク王国との結びつきが強まった。   
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用語リストへオ.カール大帝
■ポイント カールはどのような点で「大帝」といわれるのか。「カールの戴冠」の世界史的意義は何か。
カール大帝  フランク王国カロリング朝ピピンの子。仏語でa シャルルマーニュ  という。
  • 771年 単独の王権を確立。一代で領土の拡大し、西ヨーロッパの大部分をフランク王国領とする。

    Text p.126

    北イタリアのb ランゴバルド王国  を征服。 ドイツ北東のc ザクセン人  を服従させる。
    → ゲルマン諸部族の大部分が統合され、d ローマ=カトリック  に改宗進む。         
    東方:パンノニア(現ハンガリー)に侵入したアルタイ語系e アヴァール人  を撃退。
    南方:イベリア半島に進出し、f イスラーム勢力  と戦う。北東部(カタルーニャ地方)を領有。
  • 国土の統治:全国を州に分けそれぞれにg 伯 を置き、h 巡察使 を派遣して監督。
      ▲国境地帯にはi 辺境伯  を置く。 → 中央周辺的に支配。j ビザンツ帝国  と並ぶ大国となる。
  • ▲教育と文化の振興:宮廷を置いたk アーヘン を中心に古典文明の復興をはかる。(4節参照)
       古典文明の復興を目ざしイギリスの神学者l アルクィン らを招く。 =m カロリング=ルネサンス  

解説

カール大帝とイスラーム世界 カール大帝は、イスラーム世界ではアッバース朝の全盛期であるカリフ、ハールーン=アッラシードと同時代だった。カール大帝は、イベリア半島では後ウマイヤ朝軍と戦っているが、ハールーン=アッラシードには使者を送り、提携を求めている。それはビザンツ帝国との対抗上、有利と考えたからであろう。
ピレンヌ=テーゼ 20世紀初頭に活躍したベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌ(1862-1935)は、「マホメット無くしてシュルルマーニュ無し」と主張した。ピレンヌ説は、当時の地中海世界はイスラーム勢力の脅威にさらされ、そのため地中海商業圏は衰え、ヨーロッパ世界は自給自足的な農業を基本とした中世封建社会に移行せざるを得なかった、というものである。ピレンヌは、イスラーム教徒の歴史家イブン=ハルドゥーンのキリスト教徒は「もはや地中海上に板子一枚浮かべることができない」という言葉を引用し、カール大帝の国家はイスラーム勢力の地中海覇権の成立によって、封建的な内陸国家として成立せざるを得なかったと主張した。これはピレンヌ=テーゼと言われて大きな影響を及ぼし、ヨーロッパ中心の歴史観を修正をせまった。しかし現在では、ヨーロッパ社会の封建化はイスラームの地中海進出以前から、それとは因果関係なしにすすんでいるというのが一般的な見方である。

地図 西ヨーロッパ世界の成立 カール大帝時代のフランク王国とその周辺

フランク王国の発展

 1 アングロ=サクソン七王国   2 ザクセン人   3 スラブ諸民族   4 マジャール人 
 5 ランゴバルト   6 ローマ教皇領   7 ビザンツ帝国   8 後ウマイヤ朝 
 a アーヘン   b パリ   c トゥール   d ポワティエ   e ラヴェンナ 
 f ローマ   g ヴェネツィア   h モンテ=カシーノ 

 

中世都市の発展

2017-07-03 | 生物暗記法

 

中世都市  の発展。
  • ローマ帝国末期からヨーロッパの都市はa 司教座都市  として成立。
    = ローマ=カトリック教会の高位聖職者である司教の管轄する教会が置かれた都市。
  • その他の都市も封建領主の支配受けていたが、b 商工業の発達に伴い、都市の自治を要求し始めた。  
    背景:貨幣経済の進展に対応するため都市への課税を強化した封建領主に対して都市の抵抗が強まった。
自治都市  11~12世紀 ヨーロッパ各地の都市がコミューン運動(自治権の獲得運動)を展開する。
    • 自治の内容 a 市民が独自の政府、法律、裁判所を持ち、徴税権などを持つこと。  

Text p.141

  • 自治権の地域による強弱
     北イタリア  の諸都市:領主である司教から自立して自治都市(c コムーネ )となり、
     さらに周辺の農村を併合してd 都市国家   (共和国)となる。
     ドイツ  の諸都市:諸侯の力を押さえようとする皇帝からf 特許状  を得て自治権を獲得、
     皇帝直属の自由都市(g 帝国都市  )となる。 → 諸侯と同じ地位に立つ。
     他の都市は依然として封建領主の保護を受けて、納税の義務を負っていた。
    イギリス・フランスの諸都市:国王との結びつきが強く、自治都市は発達しなかった。
都市同盟  の形成
    • 12~16世紀  有力な都市が皇帝・国王・封建諸侯と対抗するために結成した。
    • 北イタリア:a ロンバルディア同盟   ミラノ中心に、ドイツ皇帝に対抗した。
       → ▲1176年 レニャーノの戦いで同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世軍を破る。

解説

レニャーノの戦いは教科書、用語集では扱われないが、ロンバルディア同盟軍がローマ皇帝軍を破った戦いとして重要。都市同盟軍はローマ教皇の支援を受け、イタリア政策を展開するローマ教皇フリードリヒ1世(赤髯王)の派遣した軍を破り、都市の自治を認めさせた。
  • 北ドイツ :b ハンザ同盟   c リューベック  を盟主とし最盛期には約70市が参加した。
    その機能 d 独自の法律・軍隊(陸海軍)を持ち、共同の利益を守った。   
     → 14世紀に全盛期となり、北ヨーロッパ商業圏を支配、大きな政治勢力となった。
     → 都市同盟は、16世紀の大航海時代まで存続し、主権国家体制の成立(後出)に伴い消滅する。

地図 主なハンザ同盟加盟都市  ●は主要都市  ●は加盟都市  ■は四大在外商館

ハンザ同盟
(点線は現在の国境)
●主要加盟都市
 ⓐ リューベック  
 ⓑ ハンブルク   
 ⓒ ブレーメン   
 ⓓ ケルン     
 ⓔ ダンツィヒ   
 ⓕ リガ      
■四大在外商館
 ① ロンドン    
 ② ブリュージュ  
 ③ ノヴゴロド   
 ④ ベルゲン    

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用語リストへエ.都市の自治と市民たち
■ポイント 自治都市の内部の市民社会のあり方、特にギルドの機能と問題点を理解する。
A 自治都市の市民
  • ヨーロッパの自治都市 a 周囲を城壁で囲まれており、封建領主の支配が及ばなかった。  
    → 市民は封建的束縛に縛られない。周辺の荘園から農奴が都市に逃げ込み、自由身分を獲得することができた。
  • ドイツでは、荘園から都市に逃れた農奴は1年と1日住めば自由身分となれた。
      =b「 都市の空気は自由にする  」と言われた。 → 都市への農民の流入 → 都市人口の増大。
ギルド  の結成。
  • 意味 :a 業種ごとに結成された同業組合で、都市の自治運営の基礎となった。  
  • 機能 :b 相互扶助と共通の経済的利益の保護。  
     → 業種ごとに仕入れ価格、販売価格、労賃などを協定した。
  • ギルドは業種ごとに親方によって組織され、都市の行政を支配した。 → ギルド間の対立が起きる。
商人ギルド  11世紀以降、まずドイツ各都市に成立。
  •  遠隔地貿易で利益を上げた大商人   が組織。自治都市の運営権を握る。  
     → 国王や諸侯から特権を認められ、市政を支配。 → 生産者である手工業者の不満強まる。
同職ギルド  12世紀前半から、a 手工業者  が業種別で結成。ドイツではb ツンフト  という。

Text p.142

  •  商人ギルド  の市政独占に不満を持つようになる。
  • 13世紀 市政に参加する権利を要求し、d ツンフト闘争  を展開し、次第に市政の実権を獲得していった。
  • 構成員:独立した手工業者であるe 親方  に陰られf 職人  ・g 徒弟  は厳しく区別された。
  • その規制 h 自由競争の禁止、商品の品質・規格・価格の統制を行って、市場を独占した。  
     → 手工業者の経済的地位を安定させたが、経済・技術の自由な発展を妨げるようになる。
E 有力市民の登場
  • 15~16世紀 ドイツのアウグスブルクのa フッガー家   銀山を支配し蓄財。
     16世紀には、金融業を営み、ドイツ皇帝や教皇にも融資し、大航海時代の資金も提供した。(後出)
  • 15世紀 イタリアのフィレンツェのb メディチ家   金融業で冨を蓄積し市政を独占。
     一族からローマ教皇を出す。 → c ルネサンス  の保護者となる。(後出)

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用語リストへオ.封建社会の衰退
■ポイント 封建社会はなぜ、どのようにして崩れたか。歴史の進歩の要因となる社会の変化を的確に捉える。
荘園制の崩壊   1300年ごろから、封建社会を支えた土地制度のしくみがくずれはじめる。
  • 商業と都市の発展 → 自給自足が原則である荘園に、a 貨幣経済  が浸透する。
     → 領主はb 賦役 をやめ、直営地を農民に貸し生産物地代かc 貨幣地代  を納めさせるようになる。
     → 農民は生産物を市場で貨幣に換え、次第に貨幣を蓄えて経済的な地位を向上させた。
農奴の解放 
    • 14世紀 気候の寒冷化、凶作や飢饉、a 黒死病(ペスト) の大流行、戦乱の長期化などのよって、
       b 農業人口が激減したため荘園領主は農民の待遇を改善し、農奴の身分的束縛が緩くなった。  
    •  黒死病(ペスト)   1348年頃、西アジアから伝染し、70年代までヨーロッパ各地に大流行した。
       → 西ヨーロッパの人口の約3分の1が死んだとされる。

Text p.143

  • 13~16世紀 地域による農奴解放の経過の違い。
    イギリス:貨幣地代の普及により農奴解放が進みc ヨーマン  と呼ばれるd 独立自営農民  が増加した。
    フランス・ドイツ西南部:貨幣地代の普及は十分でなく生産物地代が残存し、農奴解放も進まなかった。
    エルベ川以東のドイツと東欧:西欧向け穀物を生産するe 農場領主制  で農奴に対する支配が強化された。
農民一揆  の発生  14~15世紀 英仏のa 百年戦争  の最中であった。(後出)
  • 荘園への貨幣経済の浸透 → 領主の財政難 → 農民への課税が強化される。= b 封建反動  という。
  • 1358年 フランスのc ジャックリーの乱   農民が領主の館などを襲撃。
  • 1381年 イギリスのd ワット=タイラーの乱   一時はロンドンに迫る。指導者が暗殺され終結。
     聖職者e ジョン=ボール の言葉 “f アダムが耕しイブが紡いだとき、だれが領主だったか。  
封建領主の没落 
  •  戦争の長期化、農民一揆、貨幣経済の浸透  などによって、b 中小領主層(騎士) の没落が多くなった。
  • さらに14~15世紀のc 火砲の使用  など戦術の変化により、騎馬戦術をとる騎士の没落が進んだ。
  • 没落した諸侯・騎士は国王に従属し、国王に仕える廷臣(宮廷官僚)となっていく。
     → 領地では農民から地代を取り立てるだけの地主的存在にすぎなくなる。
国王権力の強化 
  • 商業圏の拡大 → 都市の市民はa 市場を統一する中央集権的な政治権力の出現   を望むようになる。
  • 特にフランスでは、b 国王が大商人と結び、常備軍の設置・官僚制の整備などの王権の強化   を進めた。 
      → 封建社会とその政治体制は解体し、近代的中央集権国家(主権国家)への歩みを始める。(後出)
F 社会不安の拡大 中世後期の14~15世紀 封建社会の解体、飢饉・疫病・戦乱などの社会不安が増大。

Text p.144

  •  ユダヤ人  とは、キリスト教世界でユダヤ教の信仰を守った人々。
    キリスト教徒による差別強まる。
  • 背景:b カトリック教会による異端取り締まりが強化され、宗教的差別・職業的差別が広がった。  
     → 社会的不安の解消を少数者に転嫁する不寛容な動きが強まる。▲c ゲットー  への強制隔離はじまる。

解説

ユダヤ人迫害ヨーロッパ各地に移住したユダヤ人はユダヤ教を守っていたが、キリスト教徒と混在し共存していた。キリスト教徒の中にユダヤ人に対する不寛容の精神が現れたのは十字軍時代からである。ユダヤ教徒はキリスト教徒が禁止されていた金貸しを営むことができたので、その勤勉な性格もあって豊かなものが多かった。それが社会不安の増大に伴い、反ユダヤ感情となって表面化し、黒死病はユダヤ人が井戸に毒を流したから広がった、などのうわさが立ち、時として集団的な虐殺(ポグロム)が行われるようになった。そのためユダヤ人は国外追放になったり、ゲットーに押し込められるようになった。(左は生き埋めにされるユダヤ人) 

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用語リストへカ.教皇権の衰退
■ポイント 中世西ヨーロッパで権勢をふるったローマ教皇はなぜ、どのように衰退していったかを理解する。
A 教皇権と王権の対立 十字軍の影響 → 国王の強大化 → ローマ教皇権の衰退。
  • ローマ教皇a ボニファティウス8世   教皇権の絶対性を主張しイギリス・フランス両国王に対抗。
     → 一方、国王は聖職者に対する課税を企てる。 → 両者の対立が深刻になる。
  • 1303年 b アナーニ事件  :フランス王c フィリップ4世 がローマ教皇a ボニファティウス8世 

    解説

    フランス王フィリップ4世の部下であったギヨーム=ド=ノガレは強硬な反ローマ強硬論者で、この時アルプスを越え、ローマ郊外のアナーニに滞在中のボニファティウス8世を襲い、退位を迫った。教皇は頑強に拒否するうちにローマからの援軍によって救出されたが、1ヶ月後に急死した。ローマ教皇権の衰退を象徴する事件であった。
     を捕らえ、幽閉。教皇は釈放後、屈辱のうちに憤死した。
  • 1309年 d 教皇のバビロン捕囚 :c フィリップ4世 、教皇庁を南フランスのe アヴィニョン 

    解説

    アナーニ事件の後、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世が教皇となった。1309年、フランス王フィリップ4世はクレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。このことを旧約聖書に出てくるユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」と呼んでいる。これは次の教会大分裂(シスマ)と共に、ローマ教皇権の衰退を示すものである。
     に移し、その支配下におく。→ 1377年までローマ教皇がローマを離れるという事態となる。
教会の大分裂  1378年 教皇庁がローマに戻るとフランス王の後援でa アヴィニョン にも教皇が立つ。
  • このカトリック教会総本山の分裂状態をb 大シスマ  という。~1417年まで。
     → c ローマ=カトリック教会 の権威の衰え → 教会の世俗化・腐敗が進行。
     → 教会批判が強まる。 → ローマ教会側はd 異端審問 ・e 魔女裁判 で教会批判を封じる。
教会改革  の開始  14世紀後半 相次いでローマ教会批判が表面化。
    • イギリスのa ウィクリフ  :聖書こそ信仰の最高の権威であると主張し教会を非難。
       → b 聖書の英語訳  を行い、民衆への布教に努める。イギリスの政治・宗教上の独立を主張。

解説

ウィクリフはオックスフォード大学の神学教授であったが、教会の大分裂という混乱をよそに、ローマ教会の聖職者が豪奢な生活を続けていることに疑問を感じ、本来の教会の姿ではないと批判し始めた。そして聖書の教えに戻ることを説き、民衆が読むことのできないラテン語で書かれた聖書の英訳を行った。その教えはコンスタンツ公会議で異端として断定され、すでに死んでいたウィクリフの遺体は掘りだされ、改めて火刑に処せられた。
  • ベーメン(ボヘミア)のc フス  :聖書にもとづく信仰を説く。
フスの火刑
火刑にされるc フス  
コンスタンツ公会議    1414~18年 皇帝ジギスムント が召集。
  • ローマ教皇を正統と認め統一教皇をたてる。=a 教会大分裂  終る。
     同時にb ウィクリフ  ・c フス  を異端として火刑にする。
  • 1419~36年 ベーメンでd フス戦争(農民戦争) が起こる。
     = ローマ教皇、プラハ市を破門。プラハ市民・農民が反発。
     → ジギスムントが十字軍と称して軍を派遣し鎮圧。
・16世紀 e 宗教改革  の時代へとつながる(後出)。

 
 

株仲間の公認と解散

2017-07-03 | 生物暗記法

株今日認め店舗解散。

仲間)(享保の改革・天保の改革)


[ポイント]

1.株仲間は、享保の改革公認されたが、天保の改革では解散させられた。

[解説]

1.株仲間は、江戸時代、17世紀後半、商工業の発達にともない、問屋商人らが共同の利権を確保するために結成した同業組合。新規業者の参入の障害になっため、幕府や諸藩ははじめ禁止するが、享保の改革公認され、田沼時代からはむしろ運上金冥加金をとりたてて財源とし、積極的に保護公認した。成員権を株といい、相続や抵当の対象となり、仲間の同意があれば、売却することもできた。代表的な株仲間に江戸十組問屋大坂二十四組問屋がある。天保の改革では株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、冥加金の上納を停止して株仲間の解散を命じた。しかし、かえって流通の混乱を招き、水野失脚後に再興。明治維新直後に解散命令が出て、その歴史を閉じた。

〈2016慶大・経済B方式:「

問3 下線部C天保の改革に関する以下の問に答えなさい。
 次の資料は、天保の改革の一環として幕府が発した法令の一部である(必要に応じて文章の一部を省略し、表現を変更した)。幕府がこの法令を発した意図を(70字程度で)説明しなさい。

 菱垣廻船積問屋どもより、是迄年々金一万二百両ずつ冥加上金納め致し来たり候所、…以来上納に及ばず候、尤も向後右仲間株札は勿論、此外にも都て問屋仲間ならびに組合などと唱え候義は相成らず候

              [資料出所]『江戸町触集成』

(解答例:株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、株仲間外の商人・在郷商人による自由な取引による物価引下げを期待して、株仲間の解散を命じた。(73字)


2016早大・教育:「

 17世紀は開発の時代であったが、やがてそれは頭打ちとなり、b18世紀にはさまざまなかたちで行き詰まりを見せるようになった。

問5 下線部bの結果、18世紀に起こった出来事として適切なものをすべて選べ。


 ア田畑永代売買の禁止発令

 イかぶき者の登場
 ウ江戸富裕層への打ちこわし
 エ異国船打ち払い令の発令
 オ株仲間の結成・公認
 カキリシタン一揆の発生

(答:ウ・オは享保の改革時)〉


2015関西大・全学部2/8実施

(D)奇妙頂礼、今度此度昔々の享保の頃より寛政あたりの政事の模様を御改めだの思召だの、知らぬ旦那へおつに名を付、己が勝手の趣向をならべて4)御寺参りに諸人をさはがせ、武家は突棒、町家は金棒、やたら世間をつつゝきまはして冥加(みょうが)は入らない、5)問屋はならない、なんのかのとて縮緬(ちりめん)どうなる、(中略)あげくのはてには、京や大坂お江戸の近辺( 6 )四方を、とほうもないことあげ(上)地にしろとは、旗本なんぞはどうするつもりだ。

問10 この史料は、天保の改革を批判した『浮世の有様』の一部である。下線部4)の行事は、将軍の権威を示すために67年ぶりに行われたものである。参詣先はどこか。

 ア上野 イ日光 ウ駿府


問11 下線部5)の政策は、物価の高騰を抑制するために出されたものであるその内容はどれか。

 ア十組問屋の編成 イ株仲間の解散 ウ札差への債務破棄

問12( 6 )に入る上知令にかかわる語は何か。

 ア五里 イ十里 ウ二十里」

(答:問10イ、問11イ、問12イ)〉


〈2013明大・文:「

 また、物価引き下げを命ずるとともに物価高騰の原因を株仲間による流通統制にあると考えた忠邦は、1841年(天保12)12月(オ)株仲間解散令を出し、すべての問屋仲間の組織を解散させ、株仲間以外の商人による自由な取引を認め、江戸や大坂への物資流入を増大させて物価の引き下げをねらった。1843年(天保14)3月には人返しの法を出し、同年6月には上知令によって、江戸と大坂周辺の私領を幕領に編入しようとしたが、大名や旗本の反発にあい、忠邦が老中を罷免される一因となった。

問10 下線部(オ)株仲間解散令に関連する説明として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 1 営業税を負担することを条件に幕府・藩によって認められた営業の独占権を株というが、その株を持つ商人たちの仲間を株仲間といった。
 2 享保の改革の時にも、幕府は諸物価の高騰をおさえるため、酒・醤油・塩などをあつかう商人の株仲間を解散させている。
 3 この株仲間解散令の結果、商品流通はかえって混乱し、期待された効果もなく、10年後に株仲間は再興された。
 4 この株仲間解散令が出された背景には、菱垣廻船積問屋仲間が上方市場からの商品流通を独占しているという判断があった。」

(答:2×※むしろ公認)〉