用語リストへエ.魏晋南北朝の文化
Text p.84
■ポイント 分裂と動乱の時代に、中国の文化はどのように変質または発展したかを考える。
1 仏教 の流布
A 仏教の受容 後漢の1世紀ごろ a 大乗仏教 が西域を通じ、中国に伝えられる。
→ 4世紀後半 中国の動乱、政治的不安定のなかで、社会一般に広がる。
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B 西域・インドとの仏僧の往来 4~5世紀 華北の五胡十六国、江南の東晋の時代に盛んになる。
a 仏図澄 310年 西域の亀茲から来朝し洛陽で布教。
→ 弟子の道安、戒律を作る。 → 東晋の慧遠、浄土教を始める。
b 法顕 東晋の僧。399~412年 グブタ朝インドに行きc 『仏国記』 を著す。
d 鳩摩羅什 亀茲の人で父はインド人。5世紀はじめ 長安で布教、仏典の翻訳を進める。
→ 弟子の道安、戒律を作る。 → 東晋の慧遠、浄土教を始める。
b 法顕 東晋の僧。399~412年 グブタ朝インドに行きc 『仏国記』 を著す。
d 鳩摩羅什 亀茲の人で父はインド人。5世紀はじめ 長安で布教、仏典の翻訳を進める。
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C 最初の仏教弾圧
・5世紀 a 北魏 の太武帝、b 道教 を国教とし、446年に仏教弾圧(c 法難(廃仏) )が起こる。
→ ▲唐代まで仏教弾圧が繰り返され、 三武一宗の法難 と総称される。
→ 次の文成帝は仏教保護に転じる。
→ ▲唐代まで仏教弾圧が繰り返され、 三武一宗の法難 と総称される。
→ 次の文成帝は仏教保護に転じる。
解説
北魏の太武帝が仏教を弾圧したのは、自らが道教を信仰したためであるが、背景には漢民族を統治するには外来宗教の仏教を保護するより、漢民族から生まれた道教を保護した方が都合がいいという判断があった。仏教はまず北方民族の中で広がっており、漢民族からは外来宗教とみられていた。その後も仏教と道教は権力の保護をめぐって対立する。なお、「三武一宗の法難」とは、446年の太武帝、574・575年の北周の武帝、845年の唐の武宗、955年の後周(五代十国の一つ)の世宗の時の仏教弾圧を言う。
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D a 石窟寺院 の造営
b 敦煌 :西域の東端。4世紀から唐代に及び塑像の仏像、壁画が多数作られる。
c 雲崗 :文成帝が平城(大同)郊外に建造。ガンダーラ・グプタ様式の影響が強い。
d 竜門 :孝文帝の洛陽遷都に伴い、洛陽郊外に建造。中国独自様式をもつ石仏。
b c d
c 雲崗 :文成帝が平城(大同)郊外に建造。ガンダーラ・グプタ様式の影響が強い。
d 竜門 :孝文帝の洛陽遷都に伴い、洛陽郊外に建造。中国独自様式をもつ石仏。
b c d



解説
中国で石窟寺院と石仏が流行したのは、廃仏の際に木造建築のお寺や木彫の仏像だと焼かれてしまうことを避けたからである。北魏の太武帝の時の廃仏の後、仏教は復興するが、文成帝の時には都の平城(大同)の郊外の雲崗、孝文帝の時には遷都した先の洛陽の郊外の竜門にそれぞれ石窟寺院がつくられ、石仏がまつられた。なお敦煌は西域の入り口にあり、砂漠地帯なので最初から石窟寺院としてつくられたが、仏像は塑像(粘土作り)である。また、雲崗の仏像はインドの影響が強く、竜門になると中国風の独自性が強くなることにも注目しよう。
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E 中国仏教の違い
・北朝=庶民に広がると共に国家仏教、護国鎮護の宗教として発達。
・南朝=貴族の個人的な信仰を中心とした貴族仏教、学問仏教として発達。6世紀前半、梁の武帝が保護。
・6世紀初め 達磨、インドから渡来(伝承)。 → 唐で、中国独自の禅宗に発展。
・南朝=貴族の個人的な信仰を中心とした貴族仏教、学問仏教として発達。6世紀前半、梁の武帝が保護。
・6世紀初め 達磨、インドから渡来(伝承)。 → 唐で、中国独自の禅宗に発展。
2 道教 の成立
・5世紀、民間信仰とa 神仙思想 を諸子百家のb 老荘思想(道家) に取り入れる。
・北魏のc 寇謙之 が新天師道をはじめ、国家宗教として教団の形成につとめる。
→ d 太武帝 に信任され、442年 北魏の国教となる。
さらに不老不死と現世の利益を説き、民衆に浸透する。道教の僧を道士、寺院を道観、経典を道蔵という。
・北魏のc 寇謙之 が新天師道をはじめ、国家宗教として教団の形成につとめる。
→ d 太武帝 に信任され、442年 北魏の国教となる。
さらに不老不死と現世の利益を説き、民衆に浸透する。道教の僧を道士、寺院を道観、経典を道蔵という。
3 魏~西晋の 貴族文化
a 竹林の七賢 阮籍・嵆康ら、儒教的な道徳を否定、自由な生き方を求める。
b 清談 の流行 c 老荘思想 の影響を受けた自由な議論が好まれた。
b 清談 の流行 c 老荘思想 の影響を受けた自由な議論が好まれた。
解説
魏から西晋にかけての3世紀ごろ、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開した阮籍らを竹林の七賢という。背景には三国の中で有力であった魏で、司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したという混乱があった。貴族の中にそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んで「竹林の七賢」と称された。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜・阮咸(げんかん)・王戎の七人を言うが、七人が同時に集まっていたということではない。彼らの議論は「清談」と言われ、以後の六朝の文化人の理想とされた。なおその中の嵆康は、魏の実力者司馬昭(司馬炎の父)によって死刑になっている。阮籍は名利を求めて近づく人物には白眼を持って迎え、清廉な人物は青眼を持って迎えたという「白眼視」の話で有名である。
4 六朝文化
・文化史上では建康を都としたa 呉 → 東晋 → 宋 → 斉 → 梁 → 陳 をb 六朝 という。
・特色 c 漢文化が継承され貴族文化が発展した。
・特色 c 漢文化が継承され貴族文化が発展した。
Text p.85
A 文 学:詩人 東晋のa 陶淵明(陶潜) 理想的な田園生活を謳う。その作品が「桃花源紀」。
宋のb 謝霊運 田園生活を謳う。
文人 c 昭明太子 (梁):『文選』を編集。
→ d 四六駢儷体 の文体が流行。
B 美 術:絵画 a 顧愷之 (東晋) b 『女史箴図』
書 c 王羲之 (東晋) 『蘭亭序』 その子 王献之
C 学術 ・歴史書:西晋の陳寿、『三国志』を編纂。
・地理書:酈道元の『水経注』
・技術書:賈思勰のa 『斉民要術』 (中国最古の農業書)。
・医 学:b 『傷寒論』 (医学書)

b 『女史箴図』 (大英博物館蔵)
文人 c 昭明太子 (梁):『文選』を編集。
→ d 四六駢儷体 の文体が流行。
B 美 術:絵画 a 顧愷之 (東晋) b 『女史箴図』
書 c 王羲之 (東晋) 『蘭亭序』 その子 王献之
C 学術 ・歴史書:西晋の陳寿、『三国志』を編纂。
・地理書:酈道元の『水経注』
・技術書:賈思勰のa 『斉民要術』 (中国最古の農業書)。
・医 学:b 『傷寒論』 (医学書)
まとめ 1. 動乱期にあたり多様な思想や文化が生まれ、儒教に代わり仏教と道教が盛んになった。
2. 貴族社会が形成され、自由で自主的な思想(竹林の七賢など)が生まれた。
3. 特に江南では漢文化が継承され、文学や絵画で貴族を主体とした六朝文化が栄えた。
2. 貴族社会が形成され、自由で自主的な思想(竹林の七賢など)が生まれた。
3. 特に江南では漢文化が継承され、文学や絵画で貴族を主体とした六朝文化が栄えた。
用語リストへオ.朝鮮と日本の国家形成
■ポイント 東アジア世界の中で、中国の動乱と朝鮮と日本の国家形成の関係を認識する。
・中国の分裂、周辺民族の自立 → 東アジア全域に影響を与える。朝鮮半島・日本列島での国家の形成をうながす。
・a 朝貢 関係の成立 中国周辺の新興国家の支配者が、支配圏を中国の王朝から承認されることによって、
権威を高めるため、使節を送る。中国王朝は見返りとして、官職・称号を授与し、従属的関係を結ぶ。
= 国際秩序を確認する外交儀礼であるとともに交易の側面もあった。
▲中国王朝の皇帝が周辺諸国の国王に官職を与え、その支配圏を承認する国際秩序をb 冊封体制 という。
・a 朝貢 関係の成立 中国周辺の新興国家の支配者が、支配圏を中国の王朝から承認されることによって、
権威を高めるため、使節を送る。中国王朝は見返りとして、官職・称号を授与し、従属的関係を結ぶ。
= 国際秩序を確認する外交儀礼であるとともに交易の側面もあった。
▲中国王朝の皇帝が周辺諸国の国王に官職を与え、その支配圏を承認する国際秩序をb 冊封体制 という。
解説
冊封体制とは、中国の皇帝が周辺諸国の首長に対し、王・侯などの爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制をいう。冊封という形式は、本来は国内の王・侯に対する爵位授与を意味するものであるが、その形式が周辺諸国に対する中国王朝の統属形式に用いられた。この冊封体制を基軸として、周辺諸国と中国との政治的・文化的関係が形成され、そこに東アジア世界が出現したという学説がある。→ 東アジアの国際秩序として、19世紀まで続く。
Text p.86
1 朝鮮 の情勢
・半島北部:前1世紀 a 高句麗 が起こる。ツングース系の 貊族が建国。都は鴨緑江岸の丸都城。
313年 南下して、漢の置いたb 楽浪郡 を滅ぼす。427年 都を平壌に移す。
・半島南部:c 韓 民族が三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に別れ、それぞれが小国に分立。
→ 4世紀なかば、東側の辰韓ではd 新羅 が統一。都は金城(現在の慶州)。
西側の馬韓はe 百済 が統一。都は漢城(現在のソウル)。
弁韓には加羅諸国が分立。
・朝鮮のf 三国時代 (4~7世紀) 三国が
中国王朝に朝貢。仏教、儒教などを受容。
313年 南下して、漢の置いたb 楽浪郡 を滅ぼす。427年 都を平壌に移す。
・半島南部:c 韓 民族が三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に別れ、それぞれが小国に分立。
→ 4世紀なかば、東側の辰韓ではd 新羅 が統一。都は金城(現在の慶州)。
西側の馬韓はe 百済 が統一。都は漢城(現在のソウル)。
弁韓には加羅諸国が分立。
・朝鮮のf 三国時代 (4~7世紀) 三国が
中国王朝に朝貢。仏教、儒教などを受容。
2 日本 弥生時代の中期にあたる。
解説
『後漢書』東夷伝倭人条に、57年、倭の奴国王が光武帝に使いを送って朝貢し、印綬を授けられたという記事がある。この奴国は北九州にあった国の一つであろうとされ、そのときの印綬が、志賀島で発見された「金印」であろうと考えられている。当時、弥生時代の中期にあたり、小国家の統合が進んでおり、その中の有力な国の一つが奴国であったものと思われる。・1世紀頃 中国でa 倭人 として現れる。
・3世紀 b 邪馬台国 の女王c 卑弥呼 が魏に朝貢。d 『魏志倭人伝』 に記載。
解説
卑弥呼は『魏志倭人伝』に現れる邪馬台国の女王で、239年、魏に朝貢して皇帝から「親魏倭王」の称号を与えられた。倭人の国々から、「共立」されて女王になったとされ、「よく鬼道に仕え」とあるので、いわゆるシャーマン的な、宗教的な権威を以て治めていたものと思われる。死んだときは「大きな塚」が築かれたと言うが、その墓はどこかはまだわからない。・4世紀 e ヤマト政権 による統一進む。
3 4世紀末 高句麗のa 広開土王(好太王) が半島を南下。 → 百済、倭と戦う。
4 5世紀 a 倭の五王 (讃・珍・斉・興・武) 中国の南朝に朝貢。
・日本は渡来人から、b 漢字 ・仏教 ・儒教 ・道教など の中国文化を伝えられ、受容した。
4 5世紀 a 倭の五王 (讃・珍・斉・興・武) 中国の南朝に朝貢。
・日本は渡来人から、b 漢字 ・仏教 ・儒教 ・道教など の中国文化を伝えられ、受容した。
5世紀 南北朝時代の中国と東アジア

a 北魏 b 宋
c 高句麗 d 新羅
e 百済
f 平城 g 洛陽
h 長安 i 建康
j 平壌 k 慶州
l 漢城
m 雲崗 n 竜門
o 敦煌 p 広開土王碑
q 白村江
c 高句麗 d 新羅
e 百済
f 平城 g 洛陽
h 長安 i 建康
j 平壌 k 慶州
l 漢城
m 雲崗 n 竜門
o 敦煌 p 広開土王碑
q 白村江