昨年の年賀状で初めて「年賀状仕舞」が3人からあった。
全員、大学時代の同級生であったがその理由は三者三様であった。
一人は重篤な病にかかり、その他の2人は、「息子家族との同居」とか、「メールにしたい」という理由であった。
オジサンは今年の年賀状に、近い将来地方に移住するとの理由から、「断捨離」の一環として「今年限りの年賀状」と宣言した。
そして先日過去の古い箱に昔から集めていた「メンコ」が大量に出てきた。
捨てるにはあまりにもの昔の思い出が詰まっており、とりあえずは内容を吟味しながら整理することにした。(何分にも古いメンコのため画像としてはかなり劣化しています)
今後も時間の許す限り整理して紹介したいと思っている。
【赤胴鈴之助】
月刊漫画雑誌「少年画報」に1954年7月(8月号)から連載された武内つなよしの漫画が原作で、ラジオドラマとしても1957年1月~1959年2月まで、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で放送されました。 このラジオ放送の中で、千葉周作の娘・さゆりの声を担当していたのが吉永小百合で、放送開始の1ヶ月前にオーディションで選ばれました。このラジオ放送が吉永小百合にとっての芸能界デビューで、小学6年生の時でした。 また芸名の小百合は、本名も吉永小百合で、このラジオの“さゆり”人気高く、そのまま本名を使う事になったようです。(なお、現在の吉永小百合の本名は、岡田太郎氏と結婚し岡田小百合となってます) 当時の少年たちは主役の鈴之助よりも、さゆりが出てくるのを心待ちにしてラジオ放送に聞き入ってました。 後日談ですが、吉永小百合は、この時の芸能界入りや、その後の映画人生を2015年11月の報道ステーションでの対談で次のように話しています。 「家がとても貧しかった為に、ラジオドラマの子役でデビューして、一生懸命家計の少し助けになるかしらと思って中学生くらいまではやってたんですね。高校生になって、勉強をしっかりとやろうと思ったんですけど映画会社に入ることになって、だから自分で決断してこの道を選んだ分けではなかったんです。それが、だんだん年を重ねて行く内に“映画の仕事の楽しさ”とか“映画の持つ意味”みたいなものを感じるようになって、良い映画は100年残ると思うんです『キューポラのある街』も50年残ったので100年残るような映画を作りたいなと思うんですね。(私には)子供がいませんので、映画が子供みたいな思いでやってるんです」 この対談を聞くまでは、裕福な家庭で育った良家出身のお嬢様かと思ってました。小学生の頃から優しさや、思いやりを身につけた素晴らしい人だったんですね。 また、特に映画に対する考え方が変わったのは、「私はずっと、なんとなく俳優になって、ずるずるとやって来ましたので『はい』と『いいえ』があまり言えなかったんですよね。それで30才過ぎてから映画で高倉健さんとご一緒した『動乱』という映画に出て一年間素晴らしい映画創りに参加して、ああ私もう一回この世界でやってみようと(あらためて)思いました。そのためにはきちんと自分で『これはやります』『これは出来ません』ということが言えるようにならないと、精神的に独立できないんだと思いました。それから少しずつそう言う事が言えるようになったし、また色んな社会のことにも目を向けられるように少しずつなったと思っています」 とも話しています。高倉健が吉永小百合に与えた影響は、かなり大きなものだったようです。 |
【時代劇俳優】
【 ガンと西部劇】
50年代後半から60年代前半にかけて、米国と日本では空前の西部劇ブームが巻き起こりました。 日本でのピークは61年で、民放テレビ4局だけで週23本(東京地区)のテレビ西部劇がゴールデンタイムを中心に流れ、町の映画館では「駅馬車」や「シェーン」、あの「OK牧場の決闘」などを リバイバル上映し、映画雑誌各社が次々に出す西部劇増刊号は、たちまち売り切れたました。 その中で、クリント・イーストウッドは「ローハイド」の牧童頭ロディ役から、スティーブ・マックイーンは「拳銃無宿」の主人公、ロバート・フラーは「ララミー牧場」のカウボーイ役から一躍スターとなりました。 この爆発的な西部劇ブームで、空前のガンブームも起き、西部劇に登場する拳銃をはじめとしたオモチャの銃が売れ、町の模型店や玩具店のなかにはガン販売の専門店に転業するところもでました。 色々な雑誌が拳銃を特集し、また少年向け漫画雑誌の広告欄にも拳銃が登場してガンブームに拍車をかけ、オモチャの銃を手にしながら少年達は西部劇ヒーローにあこがれた時代でした。 |
【映画男優】

【映画男優】