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言の葉辞典 『仁』

2023-10-23 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■ 仁

 【読み方】

 音読み じん、に
 訓読み ー
 常用漢字表外 にん

 【意味】

 ① 孔子の道徳の根本原理。
 親に親しむという自然の親愛の情を、万人にひろめ及ぼした道徳的心情。

 ② 愛情を他に及ぼすこと。
 いつくしみ。なさけ。思いやり。

 ③ 仁道を行なう人。仁者。有徳の人。

 ④ ひと。にん。

 ⑤ 果実の核。さね。たね。

 ⑥ 細胞核に含まれる一~数個の球形または棒状の小体。
 主に蛋白質とリボ核酸とからなり、デオキシリボ核酸を含まないので染色仁と区別される。
 作用については明らかでない。

 ◆儒教が主張した愛情の一形態。
 愛とは、他人を大切に思い、いつくしむ感情をさす語である。
 それとは別に仁という語が成立しているからには、仁と愛とは同義ではない。

 語源については、一般には,仁とは、人間の姿を示す象形文字であるが、(太古においては、他部族の者は人ではないから) 自分の身近にいる親しい間柄の「仲間」、または、二人の人と人との間の愛情の意味、といわれる。
 儒教でも,仁をほぼ同様の意味で用いている。

 中国思想における仁は、徳の一つ。
 仁愛。
 特に、儒家によって強調されており、孔子がその中心に据えた倫理規定で、人間関係の基本。

 《概略》

 主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつ。
 また仁と義を合わせて、「仁義」と呼ぶ。
 古代から近代に至るまで東アジアの倫理規定の基盤であった。
 儒教的社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方である。

 ・孔子

 儒学を大成した孔子は君子は仁者であるべきと説いた。

 ・孟子

 性善説に立つ孟子は惻隠(そくいん)の心が仁の端(はじめ)であると説いた(四端説)。
 惻隠の心とは同情心のことであり、赤ん坊が井戸に落ちようとしているとき、それを見た人が無意識に赤ん坊を助けようと思う心であると説いた。

 なお、孔子は、『論語』のなかで「仁」について明確な定義をおこなっておらず、相手によって、また質問に応じてさまざまに答えている。
 言い換えれば、儒家の立場においては「仁」とは人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとして考えられてきたのであり、「孝」や「悌」、「忠」なども仁のひとつのあらわれだと主張されているのである。

 老子は「大道廃れて仁義あり」といって、仁義をそしり、これとは別の道徳を説いたが、それは「私」の立場であり、これに対し、仁義は「公」的なものであるとされる。

 ◆万物一体の仁説

 程明道の解釈では、仁を「万物(万民)一体」と解釈する。
 明道は天地万物一体を強調する儒者であり、「万物一体の仁」の説を次のような過程で展開していく。
 医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼び、自己の心に対して何らの作用も及ぼしえなくなってしまっているためと解し、これを生の連帯の断絶とそれに対して無自覚であることを意味するとし、生意を回復せしめることが仁であるとした。
 つまり、「万物一体の仁」の一つの説は「知覚説」であり、痛痒の知覚をもつことを仁としているわけである。
 もう一つの説は、義・礼・智・信が、皆、仁であるとする立場であり、ここからは仁を「体」とし、五常を「用(作用)」と見なしていたことがわかる(明道にとって、仁は生である)。

 ★程明道とは、程 顥の事で、
 
 程 顥(てい こう)
 明道元年(1032年)〜元豊8年6月15日(1085年7月9日))

 中国北宋時代の儒学者。字は伯淳。
 明道先生と称された。
 朱子学・陽明学の源流の一人であり、弟(程 頤)の兄弟あわせ「二程子」と呼ばれる。

 関連項目   ー 五常の徳 ー

 五常(ごじょう)または五徳(ごとく)は、儒教で説く5つの徳目。
 仁・義・礼・智・信を指す。
 三綱(さんこう、君臣・父子・夫婦間の恭順)とあわせて「三綱五常」(三纲五常)と表現することも多い。

 《概要》

 儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている。

 ◆仁(じん)

 人を思いやること。
 孔子は、仁をもって最高の道徳であるとしており、日常生活から遠いものではないが、一方では容易に到達できぬものとした。
 『論語』では、さまざまな説明がなされている。
 ある場合は「人を愛すること」と説明し、顔回の質問に対しては、「克己復礼」すなわち「己に克ちて礼を復むを仁と為す(私心を克服して礼を重んじること。 
 それが仁である)と答えている。
 前者は外部に対する行為を指し、後者すなわち顔回に対する答えは自身の内なる修養のあり方を指している。
 具体的な心構えとしては、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』顔淵篇、黄金律)がよく知られている。
 すなわち、「仁」とは、思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうことである。

 ◆義(ぎ)

 利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
 正義。
 中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。
 礼(れい)「仁」を具体的な行動として表したもの。
 もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。
 のちに上下関係で守るべきことを意味するようになった。
 儒者のなかでも、性悪説の立場に立った荀子は特に「礼」を重視した。

 ◆智(ち)

 道理をよく知り得ている人。
 知識豊富な人。

 ◆信(しん)

 友情に厚く、言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
 孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢の董仲舒は五行説にもとづいて「信」を加えた。

 ▼補説

 ・中華人民共和国黒竜江省ハルビン市にある県級市の五常市は、儒教の徳目「五常」に由来する。

 ・五常に忠・孝・悌を足したいわゆる八徳は、滝沢馬琴作の『南総里見八犬伝』にて、主要な登場人物、八犬士のモチーフとなる。
 彼等はそれぞれ数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、里見家の元に集う。

 ・1988年に放送されたテレビアニメ鎧伝サムライトルーパーでは5つの鎧とその装着者に五常が一つずつ込められており、それぞれ烈火(真田遼:仁)、金剛(秀麗黄~シュウ・レイファン:義)、光輪(伊達征士:礼)、天空(羽柴当麻:智)、水滸(毛利伸:信)となっている。

 因みに、三徳(さんとく)は、儒学でいわれる3つの徳のこと。
 一般的には智・仁・勇の徳目をいう。
 落語のお題目に“桃太郎”があり、その内容の中に三徳の話が盛り込まれている。

 《十徳(じっとく)のまとめ》

 ・仁・・・思いやり、慈しみ。

 ・義・・・人道に従うこと、道理にかなうこと。

 ・礼・・・社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従うこと。

 ・智・・・物事を知り、弁えていること。

 ・忠・・・心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心。


 ・信・・・言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと。

 ・孝(考)・・・おもいはかること、工夫をめぐらすこと。親孝行すること。

 ・悌・・・年長者によくつかえて柔順であること。
 また、兄弟や長幼の間の情誼がこまやかであること。また、そのさま。

 ・勇・・・勇気(恐れない心)。

 ・和・・・調和。集団の秩序と安寧、また礼儀と作法を重視した精神。

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 You've Got a Friend』
       邦題 : 君の友だち
        作詞 : Carole King

 When you're down and troubled
 And you need some loving care
 And nothing, nothing is going right

 Close your eyes and think of me
 And soon I will be there
 To brighten up even your darkest night

 You just call out my name
 And you know wherever I am
 I'll come running to see you again
 Winter, spring, summer or fall
 All you have to do is call
 And I'll be there
 You've got a friend

 If the sky above you
 Grows dark and full of clouds
 And that old north wind begins to blow

 Keep your head together
 And call my name out loud
 Soon you'll hear me knocking at your door


 Ain't it good to know that you've got a friend
 When people can be so cold
 They'll hurt you and desert you
 And take your soul if you let them
 Oh, but don't you let them

 You just call out my name
 And you know wherever I am
 I'll come running to see you again
 Winter, spring, summer or fall
 All you have to do is call
 And I'll be there
 You've got a friend

 《和訳》

 落ち込んで苦しい状況にいるとき
 温かな思いやりを必要としているとき
 そして何もかもうまくいかないとき

 そんなときは目を閉じて、私のことを思い出して
 すぐにあなたのところへ行くわ
 今までなかったような暗い夜でさえも明るくしてあげる

 ただ私の名前を呼べばいいの
 私がどこにいたってわかっているでしょ
 あなたに会いに走っていくわ
 冬であろうと、春、夏、秋であろうと 呼びさえすればいいの
 私はそこにいるから あなたには友達がいる

 かなたにある空が 暗さを増し、たくさんの雲を呼び込んでも
 そしてあのいやな北風が吹き始めても
 慌てないで落ち着いて考えてね
 そして大きな声で私の名を呼んでね
 すぐにあなたのドアをノックしに行くわ

 友達がいるって素敵なこと
 人はとても冷たくなることもあるわ
 そんなときはあなたを傷つけて見捨てたり
 あなたが許せば魂までも奪ってしまうかもしれない
 だけど、それはさせないでほしい

 ただ私の名前を呼べばいいの
 私がどこにいたってわかっているでしょ
 あなたに会いに走っていくわ
 冬であろうと、春、夏、秋であろうと
 呼びさえすればいいの
 私はそこにいるから
 あなたには友達がいる

絵画たちの中庭【回廊】で Art.02

2023-10-22 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ 真珠の耳飾りの少女 ◢

 『真珠の耳飾りの少女』
(しんじゅのみみかざりのしょうじょ)(蘭: Het meisje met de parel)
(英: Girl with a Pearl Earring)

 オランダの画家 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の絵画であり、彼の代表作の一つ。
 『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』とも呼ばれ、オランダのデン・ハーグのマウリッツハイス美術館が所蔵する。
 口元にかすかな笑みを湛えるかのようにも見えるところから「北のモナ・リザ」「オランダのモナ・リザ」とも称される。


 《由来》

 制作されたのは、1665もしくは1666年と推定されている。
 フェルメールが33歳から34歳のころで、画家として安定した技量を発揮しつつあった時期であるが、異論がないわけではない。
 この少女のモデルをフェルメールの娘マーリアであるとして1670年代とする意見もあるが、1670年代の彼の技法はこの絵と明らかに異なっているため、可能性は低い。
 ただし、本作の構図はきわめて単純で、少女の上半身が描かれているだけで他に年代を推定できるような物品や背景がなく、後で述べるように少女の特徴であるターバンもまったくの異国の風俗で、オランダ社会のファッションの移ろいとは無縁であるなど、時代から隔絶した趣が強く、1665年または1666年という数字もあくまで推測の域を出ない。
 この絵画には「IVMeer」という署名があるが、日付はない。
 注文を受けて描かれたのか、そうであれば誰から注文を受けたのかということも不明である。
 その後、フェルメールは1675年に43歳で破産同然で死去したため、残された作品も競売にかけられるなどして散逸した。
 『真珠の耳飾りの少女』も、他の絵とともに1696年に競売された目録が残っている。

 その後、1881年まで所有者は転々としたが、フェルメールの希少な作品が海外に流れるのを防ごうとしてきたヴィクトール・ド・ステュエール(Victor de Stuers)の説得に応じたデ・トンブ(A.A. des Tombe)は、1881年にハーグのオークションにてわずか2ギルダー30セント(およそ1万円)でこの絵を購入した。
 当時この絵はきわめて汚れており、そうした低評価もやむを得なかった。
 デ・トンブには相続人がいなかったため、この絵を他の絵画と一緒にマウリッツハイス美術館に寄贈し、以後ここに所蔵されている。
 1882年には補修が行われ、1960年、1994年から96年にも補修されたが、1994年から2年間の修復は入念かつ徹底的に実施され、その結果、絵はフェルメールによって描かれた当時の状況に非常に近いものとなっている。
 現在取り引きされるなら、その価格は100億円とも150億円とも言われる。
 ここに描かれている少女が誰かは興味深い問題で、さまざまな説がある。先述されたマーリアとする意見もあるほか、彼の妻、恋人、あるいは作者のまったくの創作などとも言われるが、フェルメールの家族や知人の肖像画はなく、伝記の類も残っていないため真相は不明である。

 《鑑賞》

 ▼唇

 下唇を明るく光らせ、上唇の輪郭をぼかすことで若々しく瑞々しい質感が出されている。
 1994年からの補修によって、少女の唇の左端(画面で見ると右端)に白のハイライトがあること、また唇の中央部にも小さな白いハイライトがあることも明らかになった。
 これらは、唇の濡れた感じを示す効果がある。
 口元は少し開き加減で、鑑賞者には何かを言いたそうに見え、また微笑しているようにも感じられる。
 いずれも強い印象を与え、想像力を刺激される。
 『モナ・リザ』にたとえられる所以である。

 ▼真珠の耳飾り

 現在ではイヤリングといわれる装身具。
 輪郭線は用いず、光の反射だけで直径2cmはありそうな大粒の真珠を写実的に描いている。
 反射は斜め上から差し込む光による明瞭なものと、少女の服の白い襟に反射した光によるものぼんやりしたものがあり、立体感を生み出している。
 1994年の補修の結果、それまであったもう一つの小さな反射と見えたものは、以前の補修に際してはがれた絵の具が裏返しになって画面についてしまったものだと判明した。

 ▼ターバン

 フェルメールの作品の多くに言えることであるが、この作品の場合は特に色の数が少ない。
 背景の黒を除けば、黄色と青色が主要部分を占めている。
 黄と青は補色の関係にあり、その対比は際立って目立つ。
 したがって少女が頭に巻いているターバンの鮮やかな青が強く印象に残る。
 この青は西アジア原産のラピスラズリという宝石から作った非常に高価な絵の具を用いたものである。
 もともとこのターバンが人々の目を引き、『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』と呼ばれてきた。
 ターバンは、実際には当時のヨーロッパでは一般的なファッションではなく、特異な衣装である。
 当時はトルコが強大な帝国を築いており、ヨーロッパをしばしば脅かした[3]。しかし一方でヨーロッパ人にとってトルコやアジアの文化は異国情緒をそそる憧れの対象でもあり、家具調度や服装などにトルコなどの物品や風俗が用いられることも多かった。
 スイスの18世紀の画家ジャン=エティエンヌ・リオタール(Jean-Étienne Liotard)のパステル画に、イギリスの貴婦人がトルコ風の衣装を着た様子を描いた作品がある(『世界の美術Ⅱ 西洋』学習研究社、1967年)。
 本作の場合も、異国趣味を意識したものであろうと考えられる。

 一方で、1599年にグイド・レーニによって描かれたと伝えられる『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』のオマージュである可能性も指摘されている。
 ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)はイタリアの名門貴族の娘であったが、悪逆非道の父を殺害したため斬首刑となった。
 レーニの絵は彼女の処刑前夜を描いたと言われる。肩越しに振り向いた様子、ターバンを巻いている姿など共通点が多い。

 《贋作(偽物)》

 1937年、収集家アンドリュー・ウィリアム・メロンは、この絵と非常によく似ており、フェルメールの作品と思われたものをワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーに寄贈した。
 その絵は現在では贋作と考えられている[。
 フェルメール研究の専門家アーサー・ウィーロック(Arthur Wheelock)は、1995年の論文でテオ・ファン・ヴェインガールデン(en:Theo van Wijngaarden)の手によるものと主張している。
 ヴェインガールデンは20世紀の画家で悪名高い贋作家であり、さらに悪名高いハン・ファン・メーヘレンの友人であった[4]。ハン・ファン・メーヘレンはオランダの画家で、フェルメールの絵画をいくつも偽造したことで有名である。
 第2次世界大戦中にドイツの首脳ゲーリング(ヒトラーの後継者とされていた大物軍人・政治家)に贋作を売ったことから戦後に犯行が発覚、逮捕されたが、ナチの大物をだましたというので刑は軽かった。

 《フェルメール》

 ヨハネス・フェルメール
(Johannes Vermeer)
 ( オランダ語: joːˈɦɑnəs vərˈmeːr) 1632年10月31日? 〜1675年12月15日?)
 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。
 映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。
 フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。
 本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。

 《概要》

 フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに、バロック絵画を代表する画家の1人である。
 また、レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。
 生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年〜55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。
 現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。
 このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。

 《生涯》

 ▼出生

 1632年にデルフトに生まれる。
 同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。
 本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。
 ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。
 父親の姓フォス (Vos) は英語のきつね (Fox) を意味するものだった。
 父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。
 10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。

 結婚と画家としての出発 編集 フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが[1]、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。 この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが[1]、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない[1]。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったとわれる。

 ▼全盛期

 父親の死後、1655年に実家の家業を継いで[1]、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる[1]。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。

 1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。 1662年から2年間聖ルカ組合の理事を務め、また1669年からも2年間同じ役職に就いている[1]。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。

 ▼不遇の時代

 レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。

 ▼死去

 フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した(死因不明)。12月16日に埋葬されたとの記録があるが[1]、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。 同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。 フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。しかし、カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るためにその遺産を直接孫たちに手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、彼の死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。

 《後世》

 ▼「忘れられた画家」と「再発見」

 聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。 しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。 19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。

 1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガー(英語版)が美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかと言う研究者もいる[誰?]。 その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。 フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。

 ▼贋作(がんさく)事件

 トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。 この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれていると言うのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。

 ▼フェルメールとダリ

 編集 シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。 ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。

 ▼盗難事件

 1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。 1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。 1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。 さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。

 イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。 ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。 1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。

 関連書籍 ー 真珠の耳飾りの少女(小説) ー

 『真珠の耳飾りの少女』(しんじゅのみみかざりのしょうじょ)
 (Girl with a Pearl Earring )
 アメリカ合衆国出身の小説家トレイシー・シュヴァリエによって1999年に発表された歴史小説である。
 17世紀の画家フェルメールの絵画『真珠の耳飾りの少女』に着想を得た作品である。
 作者シュヴァリエが編集者から小説家へ転向して第2作として書いた作品。

 《ストーリー概要》

 1664年。デルフトに暮らす16歳の少女グリートは父親が事故で視力を失ってしまい、家を離れなければならなくなる。父はタイル画家で職人のギルドのメンバーなので、そのおかげで画家ヨハネス・フェルメールの家のメイドの仕事が見つかる。この時代、身分の違いがかなり明白なので、メイドになるということは身分が下がったということである。というのもメイドというのは主人から盗んだり主人を探ったりあるいは主人と寝て男女関係になったりしがちなどと見なされ、評判がよろしくなく、低く見られる身分なのである。やっかいなことにグリートはプロテスタントであるのに、主人のフェルメールはこの地ではマイノリティという立場であり迫害されがちなカトリックである。グリートはフェルメール家の長女のマートゲと友人関係になるが、階級意識の強い母親カタリーナの考え方を継承した娘のコーネリアとは仲良くなれない。フェルメール家にはタネケという使用人がいるがこのタネケとうまくやってゆくのも難しい。

 フェルメール家で働きはじめてかれこれ2年。自分の家に帰れるのは日曜だけであるが、グリートの家庭はすでに壊れてしまっている。弟のフランは家から出て見習い仕事をしているし、妹のアグネスは疫病で死んでしまった。市場の肉屋の息子のペーターはグリートのことを好きだと言うが、グリートは厳格に育てられた娘なのでそういうことは最初は拒む。だが貧しさに苦労している両親を楽にするためにペーターの好意を受け入れるほうに気持ちが傾く。 グリートは主人のフェルメールが描く絵画に次第に魅せられてゆく。グリートが芸術に関心があることに気付いたフェルメールは、グリートに近くにいてもらって絵の具の顔料を砕いたり混ぜたりする仕事を頼むようになる。そして臨時のモデルになる仕事も...。モデルとしてフェルメールに見つめられるグリート。モデルとしてフェルメールのそばで過ごす時間が長くなるにつれフェルメールの妻カタリーナは二人の関係を疑い始める。だが義母つまりヨハネス・フェルメールの母のマリア・ティンスはグリートがいてくれることでフェルメールの仕事や将来に良い影響をもたらすと考えグリートが息子ヨハネスのそばにいることを容認し、それどころかもっと長い時間一緒にすごせば良い、などと考える。嫁と姑の考えは対立している。一方、フェルメールの友人のアントニ・ファン・レーウェンフックから忠告される。フェルメールは芸術家であり、興味があるのは人間ではなくあくまで絵画という男。だから近づきすぎるのは止めておいたほうがよい、と。たしかにレーウェンフックの言う通りなので、グリートは警戒心を保つ。

 フェルメールにはピーテル・ファン・ライフェンという裕福なパトロンつまり資金を提供している支援者がいるが、このライフェンがフェルメール家に目のぱっちりしたメイドのグリートがいることに気づき、狙いをつけはじめる。このファンライフェンという男、すでにメイドを妊娠させたことがある男で、グリートと男女関係になるために、フェルメールに対して自分とグリートを一緒に絵画に描いてくれと心理的な圧力をかけはじめる。グリートもそれは嫌だがフェルメールもこの要求は受け入れがたいと感じる。困った末にフェルメールが考え出した策は、ファンライフェンとその家族の絵画を描く仕事はそれはそれで請け負い、それとは全然別に、グリートだけをモデルにした絵画をフェルメールが描いてファンライフェンに売ってさしあげる、というものであった。 こうしてグリートをモデルとした作品の制作が始まり、この絵のために、フェルメールは妻のイヤリングをグリートの耳に突き刺す。

 〔ウィキペディアより引用〕




事実と真実 第四話

2023-10-21 21:00:00 | 千思万考

 ■ワケあって・・・坂口杏里

 坂口杏里とは、フィクションかノンフィクションか… レンズ越しに彼女を観察し続けると、時々わからなくなることがあった。

 たった28年間の生き様を、これほどまでに切り売りしてきた人を私は知らない。
 『大女優、坂口良子の娘』その“星の元”を売りに芸能界デビュー。
 母・良子は、旅立つ日がそう遠くないことを悟っていたかのように娘を必死で売り込んだ。
 杏里の世間知らずなキャラクターはクイズ番組やバラエティ番組に引っ張りだこに。
 その“おバカキャラ”が消費され尽くすと今度は“炎上タレント”として注目を集めた。
 ところが、2017年4月― その時杏里には、たった3万円すらなかった。
 恐喝事件を起こし逮捕されると、芸能界に彼女の戻る席はもうなかった。

 『元・芸能人 坂口杏里』の転落ぶりは、ますます人々の興味をそそった。
 私も最初は、その見事なまでの転落人生に好奇の目を向けていた一人だったのかもしれない。
 撮影を始めたのは昨年6月。

 ストリップの殿堂「浅草ロック座」でデビューするという彼女を追い始めていた。
 ところが…ストリッパー坂口杏里の踊る姿を収めたのが 私のカメラだけになろうとは、その時は思いもしなかった。
 この頃杏里はワケあって、夜の世界から抜け出せずに、一人苦しみもがいていた。
 それから1年に渡り、彼女に何かが起きると私はその“裏”を記録し続けた。
 一方、“表”ではネットのニュースが杏里の話題を手に入れては放出する。
 そんなことが何度となく繰り返された。
 ある夜、私の携帯が受信したのは彼女からの『遺書』。
 生きることすら放棄した杏里を奮い立たせたのは、亡き母・坂口良子が残したものだった。

 坂口杏里とは、フィクションかノンフィクションか…
 あなたの目にはどう映るだろうか。

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  ❖❖❖ 坂口 杏里 ❖❖❖
 (1991年(平成3年)3月3日〜)

 日本の元タレントで
 YouTuber、元AV女優。
 東京都世田谷区出身。
 母は女優の坂口良子。
 継父はプロゴルファーの尾崎健夫。

 ◤略歴◢

 1991年3月3日、東京都に生まれる。
 成城学園初等学校、成城学園中学校、堀越高等学校卒業。
 高校の同級生には女優の福田沙紀、蓮佛美沙子がいる。

 母は女優の坂口良子、実父は元不動産会社社長の田山恒彦、継父はプロゴルファーの尾崎健夫。
 実父母は1994年に離婚。

 母・坂口良子と母子でテレビのバラエティー番組に出演するなど、2世タレントとして活動した。

 2014年、映画『ハニー・フラッパーズ』で映画初主演。
 2015年6月、六三四第壱回本公演『刀神姫抄-TOUZINKIISHO-』で舞台にも挑戦した。

 2016年3月末、自らの申し出により所属事務所のアヴィラを退所したが、事務所側はこのときに坂口の後の活動方針については聞かされていなかったとのこと。

 一時、バイきんぐの小峠英二と交際していたが、のちに破局。
 所属事務所退社後は、キャバクラ店のホステスとして働きながらANRI(アンリ)の芸名でアダルトビデオの女優や雑誌のヌードモデルとしてメディア出演を続けた。
 2016年10月1日『芸能人ANRI What a day!!』でMUTEKIよりAV女優デビュー、同年11月2日にはANRI初ヘアヌード写真集『What a day!!』を講談社より発売したが、いわゆる「テレビタレント」業については休業状態に陥っていた。

 2017年4月18日、知人のホスト男性から現金3万円を脅しとろうとしたとして恐喝未遂容疑で逮捕された。
 東京地検の勾留請求が却下され、4月21日に釈放。
 6月8日、不起訴処分となった。

 その後、2017年8月の報道では六本木の高級キャバクラで真面目に働いていると伝えられており、同報道では店のNo.1ホステスの座にあり、その時点では芸能界復帰は考えていないということだった。
 しかしその後、人間関係のトラブルから腹いせとして時間外に営業していた勤務先のキャバクラを警察に通報しており、店側によると頭を冷やすために出勤を控えている間に坂口は勝手に店を辞めてしまったという。
 その後、別のキャバクラで勤務を行っている。

 2017年9月29日、自身のインスタグラムでタレント引退を表明。
 キャバ嬢として生きていくことを明かした。

 2018年6月に「ANRI」名義で浅草ロック座にてストリップデビューすることが東スポより報じられたが、直前に出演キャンセルとなった。
 6月24日、自身のTwitterで新宿のデリヘル「輝き」に「坂口杏里」名義で勤務開始を報告、さらに9月3日、自身のTwitterで神戸のデリヘル「クリスタル」で勤務していることを報告、10月9日には渋谷「デリヘル東京」に出勤していることを報告した。

 2019年8月28日午前11時半ごろ、27日午前8時半頃から午前9時15分頃までの間に東京・中野区にある元交際相手のホストの30代男性の自宅マンション内に侵入したとして逮捕された。
 被害者は2017年4月に逮捕された事件と同じ男性であった。
 9月11日、不起訴処分となった。

 2022年3月の報道によると、芸能界復帰を模索しながら飲食店に従事しているという。

 2022年6月8日、バー経営者(元女性)と結婚したことを発表。

 8月15日にInstagramを更新し、離婚が成立したことを発表したが、18日に夫側は離婚は成立していないと主張した。

 11月末、けいれんを起こして倒れ、救急搬送された先の病院での検査の結果、てんかんを発症していたことが判明する。

 関連項目  ー 坂口良子 ー

 坂口 良子
 (1955年〈昭和30年〉10月23日〜2013年〈平成25年〉3月27日)
 日本の女優。
 北海道余市郡余市町出身。

 ◤略歴・人物◢

 ❖ 学生時代まで ❖

 北海道余市郡余市町出身。
 余市町立東中学校を卒業し、小樽双葉女子学園高校(現在:双葉高等学校)に入学、堀越高等学校卒業。

 ❖ 歌手・女優として ❖

 1971年、15歳で出場したミス・セブンティーンコンテストで優勝し芸能界入りする。
 1972年、シングル「あこがれ」で歌手デビュー。
 フジテレビのドラマ「アイちゃんが行く!」で主演に抜擢され、女優デビューも果たした。

 以降次々とドラマに出演するようになり、ドラマ「サインはV」(1973年版)では主役・江川ゆかを演じ、主題歌も担当。
 他にも1975年の「前略おふくろ様」、1980年の「池中玄太80キロ」などの作品が当たり、特に1970年代はアイドル的扱いをされていた。
 石井ふく子からも重宝され、「石井組」の一員と見なされていた。

 1970年代後半には、市川崑作品を中心に映画出演も多くこなし、市川作品では計4本に出演した。
 映画評論家の田山力哉は「日本映画俳優全史. 女優編」(社会思想社)で「テレビの小さな画面よりも大きな銀幕の方が遥かに魅力的というのは何と素晴らしいことだろうか」と激賞した。
 助演が多いが、『帰って来た若大将』は女優一番手にあたる準主演である。

 晩年は娘の杏里との共演が多く、共に出演した2012年11月20日収録の「雨上がり食楽部」が生前最後のテレビ出演となった(12月22日放送)。

 ❖ 死去 ❖

 2013年3月12日発売の「週刊女性」が坂口の重病説を報道。
 これに対して坂口は自身のブログで、体調を少し崩しており静養中であると説明した。
 しかし3月27日午前3時40分、横行結腸癌および肺炎のため死去。
 57歳没(享年59)。

 「池中玄太80キロ」の恋人役で共演した西田敏行は、「玄太を愛したアッコをあんなにステキに演じてくれてありがとうございました」とコメントを発表した。

 ◤家族・親族◢

 1986年に不動産会社社長の田山恒彦と結婚し、1男1女をもうけた。
 しかしその後本人の知らない内に夫に保証人にされ、夫はビルなどを購入したが、バブル崩壊により坂口は40億円もの借金を背負うこととなった。
 1994年に離婚した後、自身の母親に子供たちの子育てを頼んでがむしゃらに働き、前夫の借金40億円を10年で完済。
 年4億円は、日本のトップ女優の年収よりも多い。
 娘は元タレントの坂口杏里

 1998年、知人の紹介でプロゴルファーの尾崎健夫と知り合い、長年の事実婚だった。
 その後長男の大学卒業を機に2012年8月12日に婚姻。
 披露宴は尾崎の故郷、徳島県海部郡海陽町のホテルで行われた。
 しかしその翌年に坂口が亡くなり、短い夫婦生活に終わった。

 〔ウィキペディアより引用〕


 関連項目
    ー 二世タレントの宿命 ー
      〘 ハロー効果 〙

 臨床心理士・経営心理コンサルタントの岡村美奈さんが、気になった著名人やトピックスをピックアップ。
 記者会見などでの表情や仕草から、その人物の深層心理を推察する。
 2世タレントを分析。

 両親ともに芸能人や有名人の場合、話題性も注目度も高く、デビューした時のインパクトは大きい。

 昨年9月、ラグジュアリー誌『Richesse』(ハースト婦人画報社)の表紙で、母の“ゴクミ”こと後藤久美子さんと共演し、モデルデビューを果たしたのはエレナ・アレジ後藤さん。
 父は元F1レーサーのジャン・アレジさんだ。
 その後、女性誌(ハースト婦人画報社)で母・久美子さんと2人での特別インタビューが掲載され、7月には『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)にも出演し、モデルだけでなくタレントとして活動を始めたようだ。

 パリコレという華やかな舞台でモデルデビューしたのは、俳優の本木雅弘さんを父に持つUTAさん。
 母はエッセイストで女優の内田也哉子さんだが、彼女もまた2世タレントだ。
 父は歌手の内田裕也さん、母は女優の樹木希林さんである。
 父親譲りの端正なイケメンに、190センチという長身が話題になった。

 そしてもう一人、活躍に期待が集まっているのがKoki,さん。
 父は言わずと知れた“キムタク”こと木村拓哉さん、母は歌手の工藤静香さんだ。
 彼女もまた、5月に発売されたファッション誌『エル・ジャポン』(ハースト婦人画報社)で表紙を飾り、モデルデビューを果たした。
 キムタクによく似た顔立ちに抜群のスタイル。
 デビュー早々から注目が集まり、公式インスタグラムのフォロワー数は110万を突破。
 先日はあのハイブランド、ブルガリのアンバサダーに就任し、インスタグラムにアップされた瑞々しい美しさが話題になった。

 こうした2世タレントが大舞台で衝撃的で鮮烈なデビューを飾ることができたのは、彼ら自身の素材の良さもあるだろうが、やはり親の知名度と話題性によるところが大きい。
 特に前述の3人は、後ろ盾が何もない新人とはスタートラインがまるで違う、2世タレントの中でも目立った存在だ。

 父親譲り、母親譲りの顔立ちや立ち居振る舞いを見ていると、つい両親の活躍ぶりを重ねてしまうだろう。
 著名人や有名人、活躍している芸能人の子供なら、その子の実力がわからなくても全てが良く見えてしまうのではないだろうか。
 こんな現象を「ハロー効果」という。
 親の好ましいイメージが、そのまま子供にもプラスの影響を与えるのである。
 よく言われる「親の七光り」は、このハロー効果のことである。

 ハロー効果があれば、なおのこと2世への期待は否応なく大きくなっていく。
 何しろ、最初は親のプラスイメージがあまりに大きすぎて、プラス面ばかりが強調されるのだから。
 まして、2世タレントの親のファンであれば、ひいき目で見てしまうだろう。
 彼らに対して抱いていた憧れや理想を、そのまま2世にも当てはめてしまうかもしれない。
 世間もメディアも彼らを見ながら、無意識のうちに自分の期待に適う理想の水準を2世に設定するため、応援しつつも彼らを見る目が厳しくなる。
 活躍している両親を持つ2世ほど、彼らへの世間の要求水準は最初から高くなりやすいのだ。

 そのため、例え華々しくデビューしても、生き残っていける2世タレントはそう多くない。

 デビューした時から親と比較されるという運命を背負っている2世タレントだが、比較されることをどう捉えるかも、生き残るためのポイントである。
 それは親という比較対象があるからこそ、彼らの価値や魅力が見えやすくなるからだ。
 比較するものが無ければ、多くの芸能人の中に埋もれてしまい、その魅力や価値は認識されにくいが、比較対象が有名、著名な親であればあるほど、親より優れているものが1つでもあれば、それが彼らにとって大きな魅力となり、芸能界を生き抜く武器となるのだ。

 親というハロー効果に負けないたった1つの魅力、それが2世タレントとしての必須条件だろう。

           [2018.08.18]

 〔情報元 : NEWS ポスト セブン〕

 関連項目  ー 親の七光り ー

 【意味】

 「親の七光り」は「おやのななひかり」と読みます。
 元々は「親の光は七光り(おやのひかりはななひかり)」という言葉ですが、現代では「親の七光り」と省略して使われています。
 親の名声や社会的地位のおかげで、子供が恩恵を受けるという意味です。

 親の光とは 「親の光」は「親の威光(いこう)」のことです。
 威光とは人をおそれさせ、それに従わせる力のことで、親から自然に放たれるオーラのようなものでしょう。

 七光りとは 「七」という字には「多くの」という意味があり、「量の多さ」を表していて「七つの光り」という意味ではありません。
 親からたくさんの恩恵を受けるということです。
 同じように日本には古来から「七」を含むことわざや慣用句が多くあります。

 つまり、

 地位、名声、威光などを持つ親の権力があまりにも大きいため子供にも影響が及ぶこと

 です。

 もちろん親の力とは関係なく、本人の努力によって成功を収めた人はたくさんいます。
 しかし、世間から注目を浴びる芸能界で、二世タレントは親の七光りだと勘違いされてしまうことも多いようです。

 このように親の七光りとは、少々批判的(皮肉)な意味で使われるフレーズですが、その一方では

 例えば、“親の光子に目鼻つける”

 親の七光りと同様の意味で使われる、このことわざがあります。
 「目鼻をつける」は物事の大体の筋を決めるという意味です。

 つまり、親がたどってきた道のりを、子供がこれからたどる道筋にしてしまおうというニュアンス的な表現です。

 親の辿って来た道筋を見て本人(子供)にとって、どう思うのかは本人次第。
 しかし、この事が果たして、本人は行く末「幸せ」という言葉を感じられるだろうか。
 と、私は思うのです。

 もう一つの諺に“親の光は七所照らす”があります。

 私の人生の中では、良い意味でも悪い意味でも“不可能”です。

言の葉辞典 『倫』

2023-10-20 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■倫

 《読み方》

 音読み りん
 訓読み たぐい、ついで、みち。

 《意味・由来》

 1 人の守るべき筋道、道理。

 2 同列に並ぶ仲間。

 侖(りん)は「あつめるしるし+冊」の会意文字で、タンザクの竹札を集めてきちんと整理するありさまを示す(同類のものが順序よく並ぶの意も含む)。
 倫は「人+音符侖」で、きちんと並んだ人間の間がらの意。侖

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 関連項目  ー 倫理(道徳) ー

 倫理とは

 1 人として守り行うべき道。
 善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。

 ▼道徳(どうとく)
 (英: morality)

 中国の古典を由来とする観念であり、「道」と「徳」という2つの考えからなる。
 道とは、人が従うべきルールのことであり、徳とは、そのルールを守ることができる状態をいう。
 道徳的規範(どうとくてききはん)や道徳性(どうとくせい)ともいう。
 あるいは類義語の倫理(りんり、英: ethics、エシクスまたはエシックス)は、いくつかの意味をもち、道徳を表すことが多い。

 《概要》

 道徳は、次のような意味をもつ。


 ★道徳
  正邪・善悪の規範。個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。 
 社会性とも関わる。

 ★道徳観
  道徳に対する観方、捉え方。
 正邪・善悪の価値観。
 個々人の価値観に依存する。

 ★道徳的規範
  道徳観に基づく規範。
 嘘(うそ)をつくことは悪いことだというように多くの人々から是認されている規範もあれば、動物を殺して食べるべきではないというような少数の人々が従う規範もある。

 ★道徳的社会規範(社会道徳)
  社会や共同体において、その構成員の大多数によって共有される道徳観に基づき、より健全で快適な共同生活を送る為に守るべき、又は行うべきと考えられている規範、行動の指針のこと。

 ★道徳性
  正邪・善悪を区別し、道徳的規範に従う心、能力、判断のこと。道徳心。

 道徳的規範は、成文化された規則である法律と一致しない場合もある。

 道徳的規範は非常に幅が広く、文化の多様性と同じだけの驚くべき多様性がある。
 様々な種類の規範は、マナー、エチケット、タブーとも関連する。
 儀礼や式典として、形式化されていることもある。
 それでも、様々な社会の間に共通した特性を発見することができる。
 例えば、互恵関係、忠誠、権威の尊重、身体的な危害の制限、性的関係や食べ物の規制などである。
 この類似性が何に起因するのかは、議論の的であった。
 道徳的見地から見た言動や身持ちのことを、「品行」「操行」「素行」「日頃の行い」「平素の行い」などの語句を用いる。
 「方正」とはきちんとしていて正しいことで、「品行方正」とは行いが正しく立派で、模範的であるさまを意味する。

 《道徳判断》

 人は何が良い行い(道徳的)で、何が悪い行い(非道徳的)なのかを判断することができる。
 道徳心理学者と道徳哲学者の議論の中心の一つは、何が道徳判断を導いているのかであった。
 ジャン・ピアジェやローレンス・コールバーグは、道徳判断は理性の産物であり、子供は経験と学習によって理性的判断を発達させると考えた。
 一方ジェローム・ケーガンのような認識直観主義の心理学者は、道徳判断が自動的に、瞬時に行われ、理性よりも直観と感情に密着していると仮定した。
 直観主義者は、花を見て「赤い」と感じるのと同じように道徳判断を“感じる”のだと主張した。

 直観的判断のモデルは、大まかに次のように分類することができる。

 ・できごとを認識すると、感情が道徳判断を行うエージェントを呼び起こす。
 デイヴィッド・ヒュームが唱え、近年では神経学者アントニオ・ダマシオや心理学者ジョナサン・ハイトが支持した。

 ・できごとを認識すると、感情と理性が平行して道徳の推論と判断を行う。
 ヒュームとカントの折衷モデルといえ、神経哲学者ジョシュア・グリーンによって支持された。

 ・できごとを認識をすると、意識的な解釈が行われ、その解釈が道徳についての直観を呼び起こし、感情と理性的推論を生成する。
 政治学者ジョン・ロールズが唱え、マーク・ハウザーが支持している。

 道徳判断は、社会的認識、特に心の理論を利用しているようである。
 いくつかの感情、例えば同情、罪の意識、怒りは、道徳判断の中心をなすが、他の感情も道徳判断に関連している。
 しかし、明確に道徳判断に関連する脳の部位はないようである。
 道徳判断は、記憶が脳の様々な部位を利用するように、感情や認識などの細かな領域を利用しているようである。

 人間の道徳判断は、常に一貫しているわけではない。
 後述のトロッコ問題では、わずかな状況設定の変化によって、人は功利主義的な判断と非功利主義的な判断の間で揺らぐ。
 友人から金を盗む行為は非道徳的だと感じるが、先日その友人から金を盗まれていたのだと聞けば非難は弱まるか消え去る。
 見知らぬ人への危害よりも、自分自身や知人への危害のほうが強い憤りを呼び起こす。
 殺人を極めて非道徳的だと考えながら、同時に死刑制度を強く支持する人も少なくない。
 復讐は道徳的な大義名分を要求する。逆に言えば、大義名分は報復の正当性を人々に納得させる。
 戦争や部族抗争の研究によれば、加害者は必ずと言ってよいほど、相手が不当だという憤りを標的に対してもっている。
 フィリップ・ジンバルドーは、監獄実験で、与えられた仮想的な役割に従って、看守役の一般人が囚人役の一般人を虐待することを示した。
 スタンレー・ミルグラムは、服従実験で、一般人の道徳心が権威に屈することを示した。
 ミルグラムによれば、単に権威によって指示されるだけでなく、相手の顔が見えない、過失が相手側にあるというような付加的条件の下では、より道徳心が働きにくいようである。
 また、死を意識させるような文章を読ませられるだけで、その後の道徳判断に影響が出る。
 見知らぬ人への敵意をかき立てられ、道徳違反者へはより厳しい罰を求めるようになる。
 これは恐怖管理理論と呼ばれている。

 ▼道徳と罰

 「道徳を守ることは正しいことである」と広く考えられており、「なぜ殺人はいけないのか」「なぜ人を不幸に陥れてはいけないのか」というように道徳に対して疑問を示すこと自体が非道徳的であると嫌悪されることもある。
 我々は、直接自分に関係がない場合であっても他人の行動を気に掛け、道徳と規範に従っているかに注視する。
 道徳に反する行為は、通常、本人に罪悪感を、それを目撃した第三者には嫌悪感や怒り、報復など強い感情的反応を引き起こす。
 また慣習的規範よりも、通文化的な道徳的規範のほうが憤りは激しい。
 さらに、違反者に対して寛容な態度を取る者へも同様の憤りを引き起こす。
 人は非道徳的な行為の犠牲者になったり、それを目撃した場合に、一般的にその行為者を処罰したいという強い願望をもつ。マナーやエチケット、慣習的規範への違反は軽率で粗野だとみなされるだけであるが、道徳的規範への違反は、処罰の欲求を呼び起こす。
 政治学者フィリップ・テトロックによれば、規範への違反を目撃し、違反者が罰を逃れていると考えるとき、人は違反者への加害を抑制する道徳心の閾値を切り下げるようである。
 そして厳しい処罰を要求し、違反とは関連のないことにまで判断が影響する。例えば、違反者の曖昧な態度をより敵対的とみなすようになり、不可抗力の要因の役割を割り引いてみるようになる。

 マーク・ハウザーとファレイ・カシュマンはトロッコ問題などを利用し、どのような原理が道徳判断(特に危害に関する)に影響を与えるのかを調査した。
 彼らによれば、

 ・行動の原理:行動による害(例えば誰かが死ぬようなできごと)は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される。

 ・意図の原理:意図をもってとった行動は、意図をもたずにとった行動よりも非道徳的だと判断される。

 ・接触の原理:肉体的な接触を伴う危害は、肉体的な接触のない危害よりも非道徳的だと判断される。

 心理学者ジョン・ダーレーによれば、大学生の被験者は刑罰の抑止力を考慮するよりもその犯罪にふさわしいと思われる刑罰を望んだ。
 刑罰の抑止力を考慮するよう注意された後でも、やはり「因果応報」である処罰を望んだ。
 「罰が課されない限り、社会と被害者は正義が執行されなかったという感覚をもち続ける」。
 彼は『なぜ罰するのか?:罰の動機としての抑止力と因果応報』と題された論文で、処罰の欲求は犯罪抑止力に関する要因(例えば犯罪の露見可能性や社会的影響)とは関連が薄く、人々はより単純に罪の重大さをランク付けし、もっとも深刻な犯罪にはその社会でもっとも重い罰(例えば追放、終身刑、死刑、拷問を伴う死刑)を与えなければならないと考えるのだと結論した。

 関連項目   ー 不倫 ー

 《不倫の定義》

 法律的には、一体どこからが不倫だと判断されるのか。

 キスや手つなぎなど、人によって、浮気だと思ってしまったり、傷ついてしまったりするラインは異なると思いますが、法律的に不倫だと判断されるラインは明確に定められています。

 不倫=肉体関係がある。

 法的に不倫だと判断できるのは、配偶者がいるのにもかかわらず、他の異性と肉体関係を持つことです。

 夫婦には、婚姻生活を平和に送るという権利ないし利益があるところ、不貞はこの権利ないし利益を侵害する行為であるため、違法であるということになります。

 ▼不倫と浮気の相違

 不倫とよく間違えられるのが浮気です。
 浮気とは、配偶者や恋人がいるのにもかかわらず、別の異性に目をむけることをいいます。
 単に他の異性に恋愛感情を持ったり、心が揺れ動いたりする状態を指し、肉体関係の有無は問いません。

 一方で、不倫は配偶者以外の相手と肉体関係を持つことをいいます。
 つまり、浮気の方が広範囲を意味し、不倫の方が狭い範囲を指す言葉になります。

 例えば、ふざけてキスをしただけであれば、不倫そのものではありません。
 肉体関係は伴わないからです。

 しかし、肉体関係が想定されるようなデートであれば、不倫だと判断されてしまう場合もあります。
 例えば、日帰りで混浴銭湯に行った場合やドライブデートで車中泊した場合などでとか、本当に会っただけだったが、相手宅に宿泊した場合は、肉体関係があったかもしれないと考えられます。
 本当に肉体関係がなかったとしても、不倫があったと考えられて然るべきとして、その責任を問われる場合があります。

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 『Blowin' in the Wind』
       (邦題 : 風に吹かれて)
        作詞 Bob Dylan

 How many roads must a man walk down Before you can call him a man?

 Yes, and how many seas must a white dove sail, Before she sleeps in the sand?

 Yes, and how many times must the cannonballs fly,

 Before they’re forever banned?

 The answer, my friend, is blowin’ in the wind The answer is blowin’ in the wind

 Yes, how many years can a mountain exist, Before it’s washed to the sea?

 Yes, and how many years can some people exist, Before they’re allowed to be free?

 Yes, and how many times can a man turn his head,

 And pretend that he just doesn’t see?

 The answer, my friend, is blowin’ in the wind The answer is blowin’ in the wind

 Yes, and how many times must a man look up, Before he can see the sky?

 Yes, and how many ears must one man have, Before he can hear people cry?

 Yes, and how many deaths will it take till he knows

 That too many people have died?

 The answer, my friend, is blowin’ in the wind The answer is blowin’ in the wind

 《和訳》

 どれだけ道を歩めば 一人前だと認められるのか?

 どれだけ海を越えれば 白鳩は砂浜で休むことができるのか?

 どれだけの砲弾が飛び交ったなら 武器は永遠に禁止されるのか?

 答えは、友よ、風の中だ 答えは風の中を舞っている

 山はどれだけ経てば 海に洗い流されてしまうのか?

 人々はどれだけ経てば 自由が許されるのか?

 人は何度顔を背け、 見て見ぬふりをしていられるのか?

 答えは、友よ、風の中だ 答えは風の中を舞っている

 そして、何度天を仰げば、 青空が見られるのだろうか?

 いくつの耳を持ったなら、 人々の悲しみが聴きとれるのだろうか?

 どれだけ多くの人が死んだなら、あまりに酷い犠牲を払った事に、気付くのだろうか?

 答えは、友よ、風の中だ 答えは風の中を舞っている

Games Life Note ♯001

2023-10-19 21:00:00 | ゲーム/アプリ

 ゲームの時間です。

 暇潰しにするゲームは何かありますか?やってるゲームはありますか?

 でもちょっと課金するのは、“抵抗あるなぁ〜”と思います。

 そこで無課金でも10倍楽しもうと言う事で、
 私がやっているゲームを紹介させて貰います。

 私は、アプリ・ゲームを4,5種類のゲームをしています。
 その中でふたつのゲームを紹介したいと思います。

 先ず、一つ目のゲームは、

 “TRAIN STATION 2”です。


 至って簡単な“作業ゲームです。

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 この『TRAIN STATION 2』のゲームの特徴は、

 ✔有名な列車を収集、アップグレードして性能を最大限に引き出す。

 ✔ 個性豊かなビジネスパートナーたちと出会い、鉄道物流の仕事をこなす。

 ✔ 独自の戦略による列車の調整と配車 列車を走らせながら新たな地域を開拓。

 ✔最高の鉄道王を目指して様々なチャレンジに挑む。

 ✔通常イベントとテーマ別イベントの両方を楽しむ。

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 さて、この場を借りてゲーム内容を紹介します。



 今の私の状況ですが・・・

 レベルはLv.189です。
  (令和5年10月5日現在)

 プレイヤー名『安子原 猫輔』でプレイしてます。

 企業ランク(20/80)
 中規模企業 Ⅴ

 無課金派なので、サクサクと進行はしません。
 やり始めて14ヶ月くらいでしょうか。
 この程度なら、意外と頑張っていると自負しております。

 このゲームは、11ステージあって、

 1.イギリス
 2.ドイツ
 3.アメリカ
 4.フランス
       ←私は、この位置。
 5.カナダ
 6.フィンランド
 7.オランダ
 8.オーストラリア
 9.スウェーデン
10.日本
11.エジプト

 になります。

 私の場合、フランスを制覇したものの、次のステージへ行けないのは、Lv.200を到達していないからです。
 到達してないと、次のステージが解放してくれません。
 そこで、
 サブミッションというものがありますが、XPはかなり低い数値ですので、それにやり続けると、条件付きになり、かなり遣りづらいです(この辺の説明は後述します)。

 なので、イベントに参加する事になります、、、
 性格的にイベントはあまり参加したくはないタイプですが、この際エジプトまで行く野望がありますので、楽しく参加。

 さて、ここで〔列車の種類〕について

 列車は、大きく分けて4種類があります。

 ・レジェンド(金色)
 ・エポック(紫色)
 ・レア(水色)
 ・ノーマル(白金)

 があり、

 ・蒸気
 ・電気
 ・ディーゼル

 3種類のタイプに分けられています。

 そして輸送するわけです。

 その列車によって性能が違う事はありませんが、積載量が違いがあります。

 例えば、レジェンド車は20〜60(80)とかなり量が積む事ができます。
 が、ノーマル車は4〜20(30)です。

 イベント報酬の列車は積載量MAXはレジェンドで80の積載量になり、ノーマルでは、MAXは30になります。

 さて、ここで問題なのが積載量を上げる方法として“グレードアップパーツ“が必要になるわけです。
 無課金派としては、お金は使いたくありませんから、
 そのパーツを貯めるには、幾つかの方法がありますが、その方法を全てやっても思う様にはいきません(経験済)。
 でも、やり続けるしかないので、
 その方法として、

 ・ホイッスルをこまめにタップする。
 ・無料ボックスを利用する。
 ・イベントに参加する。→報酬

 それをやり続けれは、グレードアップパーツ貰えます(地道だけど)。

 ◆会社の企業ランクについてー、

 会社には企業ランクってものがあります。
 ランクが上がれば、優遇されるわけではありませんが、ひとつの目安にはなるかと思います。

 あと、ランクが上がれば、建物も変わります。

 例えば、
 この建物か・・・
 こう変わります。

 建物の変化も楽しみのひとつになります。

 さて、そろそろお時間なので、この辺にしときます。
 もうひとつのゲームは、次回にまわすことにします。