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言の葉辞典 『戯』

2023-10-18 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■ 『戯』

 《読み方》

 音読み ぎ、き
 訓読み たわむれ、たわむれる

 《意味》

 たわむれる。ふざける。遊ぶ。

 「戈(ほこ)+音符虚コ」。
 [説明解字]は、ある種の武器で
 我(ギザギザの刃のあるホコ)と似たものと解する。

 その原義は、我を忘れ、もっぱら声を立てて、おどけ笑う意に用いる。

 《語源・由来》

 じゃれるは古語「戯る(さる)」から転じた言葉で、この「さる」は「ざる」ともいった。 
 平安時代から見られ、機転が利く、気が利いているなどの意味で用いられていた。
 現在のような使われ方になったのは、機転を利かせて戯れたり、洒落を言ったりすることから転じたのであろう。
 また、「おしゃれ」の「しゃれ」も、「さる」の連用形に基づくものと考えられている。

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 ✰洒落(しゃれ)

 語呂合わせなどで、人を笑わせる気の利いた言葉。
 戯れにすること。
 冗談事、垢抜けていること、おしゃれ。

 洒落は、「たわむれ」を意味する「戯れ(され)」、長い間、風雨や日光に当たり、白っぽくなる「晒れ(され)」が転じた語といわれる。 このうち、「戯れ(され)」が転じて「しゃれ」になったとするのが有力である。
 実直に対して、風流で遊び心のある態度や行動を「しゃれ」と言うようになり、洗練されていることや、おしゃれなども意味するようになったと考えられる。
 「洒落が通じない」や「洒落にならない」など、「笑い」よりも「気の利いた」の意味に重点を置いた使われ方をするのも、この由来に通じるものがある。
 「され」が「しゃれ」となったのは、室町時代以降である。

 因みに、漢字で「洒落」と書くのは、心がさっぱりして物事にこだわらないさまを意味する漢語「洒落(しゃらく)」に由来し、意味の上でも音の上でも似ているため、江戸時代の前期頃から、当て字として使われるようになった。
 「酒落」と誤表記されることが多いが、「洒落」は「酒」ではない。
 「洒」の旁は「酉」ではなく、一本少ない「西」である。

 関連項目   ー 戯曲 ー

 戯曲(ぎきょく)

 演劇の上演のために執筆された脚本や、上演台本のかたちで執筆された文学作品。
 戯曲を書く者のことを劇作家と呼ぶ。

 《特徴》

 戯曲は、登場人物(キャラクターとも言う)と、彼らが舞台上で行う行為(アクションとも言う)によって構成される。
 登場人物の行為は通常、連鎖反応的に描かれる。
 つまり、ある行為が次の行為を誘発し、その繰り返しが劇の始まりから終わりまで続く。
 ただし、シュルレアリスム的世界観に基づいて書かれた戯曲など、手法によっては行為が連鎖的に発生しない場合もある。

 舞台上で起きる行為は、舞台上実時間(劇世界上の時間ではない)の時系列順に記述される。その行為の記述方法には、ほとんどの場合、台詞およびト書きが用いられる。
 しかし実際のところ、戯曲の記述方法自体には厳密な決まりはない。
 台詞には登場人物から発せられる言葉が、ト書きには登場人物の登場・退場や所作などが書かれる。
 ト書きにはこれらの他に、舞台進行に関する指示や、舞台装置(美術)、音響効果、照明効果、演出的な指示なども書かれることがある。
 戯曲は演劇を作る上で、設計図的な役割を持つ。演出家・俳優・スタッフなど、作品づくりに携わる者たちは、戯曲に基づいて共通の目的・方向性・劇の完成イメージを形成していく。
 もちろん、戯曲を使わない即興劇や、即興をベースにした集団創作による劇などはこの限りではない。
 が、そのような場合でも、進行台本的なものを用意することもあり、その進行台本が後に戯曲化されるケースもある。

 ▼戯曲・脚本・台本の違いについて

 3つ特徴を一言でまとめると、次の通りです。

 ・戯曲:文学作品
 (上映(放映、上演)未確定)

 ・脚本:上映(放映、上演)に使うもの
 (台本と同じ)

 ・台本:上映(放映、上演)に使うもの
 (決定稿)

 戯曲は、脚本のように見える文学作品のことを指します。
 そのほとんどは、俳優によって実際に上映(放映、上演)されているでしょうが、未だ上演されていないものもあります。

 脚本(=台本、と考えて問題なし)は、上映(放映、上演)用に書かれたものです。
 誰かが必ず上映(放映、上演)しています。
 脚本は、戯曲を元にして起こしたものが多いでしょうが、脚本家がオリジナルで書きおろしたものもあります。

 一般に考えて“決定的に違います”というのは、共通する部分は多々あり、消極的です。各々特徴を考えればの話になりますかね。

 《呼称》

 「戯曲」より一般的な呼称に、「劇文学」という語がある。
 劇文学という呼称の存在意義とは、次に述べるようなことである。
 ソフォクレスの作品などは図書館での分類上は戯曲であるが、戯曲と呼ばれるより、「悲劇」「劇詩」と呼ばれることが多い。
 近代以前の物語文学(『源氏物語』など)を「小説」と呼ぶのは近代的な分類をそれ以前の過去に投射する見方であるとの違和感を抱く人もおり、ギリシャ悲劇や能狂言の台本などを戯曲と呼ぶことにも同様の問題がある。
 また、近代以降に生まれたシナリオ(映像劇の脚本)を戯曲と呼ぶことにも同様の違和感を抱かせる可能性がある。
 近代以前および以降の脚本(あるいはその形式で書かれた文学作品)までも射程に含めた場合、劇文学という、より一般的な呼称が適するであろう。
 韻文で書かれた劇文学を劇詩というが、シェイクスピアの戯曲や近代に書かれた戯曲にも韻文を多用したものは多く、散文体だから戯曲、韻文体だから劇詩というような分類は成立しない。

 ▼「シナリオ」は戯曲か?

 劇映画やテレビドラマの脚本(シナリオ)を戯曲と呼べるかという問題がある。
 日常会話や文章などでは両者は区別されるのが普通である。
 しかし、シナリオを英語ではscreenplay(映画脚本の場合)やteleplay(テレビ脚本の場合)などと呼び、戯曲でplayであるので、これらは「映画用戯曲」「テレビ用戯曲」などとも翻訳可能である。
 また、公立図書館などでシナリオ本は戯曲に分類されている(本棚の“戯曲”と表示された場所に置いてある)という事実もある。
 以上から、シナリオもまた戯曲の一種であると考えて構わない、という見方も可能である。
 筒井康隆は著書『文藝時評』(河出書房新社・刊)の中で、シナリオライター兼小説家である筒井ともみの作品を論評した際に、「戯曲=文学、シナリオ=非文学という区分けはもう意味が無い」という趣旨のことを書いている。
 これも、単なる映画作りのための設計図としかみなされていないシナリオと、すでに文学の一ジャンルとして認定されている戯曲との境界が曖昧であることを示すものであろう。

 関連項目 ー レーゼドラマ ー

 レーゼドラマ(Lesedrama)

 上演を目的とせず、読まれることを目的に書かれた、脚本形式の文学作品のこと。
 ブーフドラマ(Buchdrama)とも言う。
 戯曲の一種とされる。
 対義語はビューネンドラマ(Bühnendrama)。いずれもドイツ語で、レーゼは「読む」、ブーフは「本」、ビューネンは「舞台の」という意味である。
 なお、英語におけるクローゼット・ドラマ(Closet drama)は、ほぼ同義の概念である。
 また、「書斎劇」という漢字語も存在する。
 シナリオ(映像作品の脚本)の形式で書かれたレーゼドラマを、レーゼシナリオという場合もある。
 演劇評論家の岩淵達治は、平凡社世界百科事典に「近年の新しい演劇の試みのなかでの劇空間の拡大、また素朴な演劇性の再発見は、すべてのレーゼドラマの上演を可能にしたが、逆に最近の身体言語による演劇から見ると、従来書かれてきた戯曲はすべてレーゼドラマに等しいものだということもできよう」と書いた。

 《代表作》

 レーゼドラマの代表作として、ミュッセの『戯れに恋はすまじ』(1834年)が挙げられよう。
 『ヴェネツィアの夜』の初演が不評だったミュッセはその後、読まれるための戯曲を志向し、前掲作も収められた戯曲集は『肘掛椅子の中での観物』と名づけられた。
 ここに収められている戯曲には多すぎる場面転換などの実演上困難な仕掛けがあり、これは文学的な必然性のみからなされたのではなく、かつての不評から観客に不信感を抱いたミュッセがわざと上演の障害をもうけたためだと見る向きもある。
 しかし、「上演不可能に書かれている」ということは、レーゼドラマの必要条件ではない。
 他には、ジョン・ミルトンによる『闘士サムソン』(1671年)、太宰治の『新ハムレット』(1941年)、ゲーテの『ファウスト』(1808年 - 1833年、とくに二部)、シラーの『群盗』、フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』、北村透谷の『蓬莱曲』などが、その例にあたる。
 トーマス・ハーディの『覇王たち』も叙事詩劇などと呼ばれた。

 関連項目  ー 劇作家 ー

 劇作家(げきさっか)
 (英: playwright、dramatist)

 演劇の上演のために書かれる戯曲の作者。
 戯曲家と呼ばれることもある。日本においては演出家を兼ねている者が多い。
 現在までその作品が残っている最も古い劇作家としては、紀元前5世紀頃のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの古代ギリシアにおける悲劇作家達が挙げられる。
 その作品である戯曲は、通常は俳優によって観客の前で演劇として上演するために執筆される。
 戯曲の中には、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれたレーゼドラマや、戯曲の形式をとってはいるが上演は意図していない作品もある。

 《歴史上の劇作家》

 西洋文学において、今日まで伝えられている最も古い劇作家は、古代ギリシアの劇作家たちである。
 こうした初期の演劇は、紀元前5世紀ころにアテナイで毎年開催されていた劇作家たちの競技のために書かれたものであった。
 アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス といった有名な劇作家たちは、今日でも踏襲されている様々な形式を確立していた。

 《現代の劇作家》

 現代のアメリカ合衆国の劇作家たちは、名声や文化的地位という意味で、かつての先達に比肩するところまでには至らないことが多い。
 もはや演劇は、シリアスなドラマや楽しめるコメディを観客に提供する唯一の回路ではなく、映画、テレビ、インターネットと、観客を奪い合わなければならない。
 さらに、合衆国における芸術への資金援助の危機的な状態や、非営利団体が運営する劇場に依存したチケットの売上を収入源とせざるを得ないという現実は、多くの劇作家たちに、なかなか新作を出せない状況をもたらしている。
 例えば、ニューヨークのオフ・ブロードウェイにある非営利劇場 Playwrights Horizons は、1973-74年のシーズンには31本の演劇を上演していたが、2002-03年のシーズンには6本しか上演できなかった。
 ライバルでもあり、大がかりな制作が行われるミュージカルは、「必見」のブロードウェイ作品(あるいはオフ・ブロードウェイ作品)となっているが、ここでも劇作家が十分な収入を得ることは容易ではなく、大きな成功を掴むといったことは望外である。
 しかし、最も成功した劇作家たちは、演劇界において高い地位を占めていることが多い。
 これは、ハリウッドなどの映画界において脚本家が占める地位とは対照的である。
 アメリカ劇作家組合(Dramatists Guild of America)は、劇作家は演劇の上演に決定権をもっていると主張している。
 映画においては、これとは対照的に、監督は「作家」として脚本を自由に変更できる。

 《『プレイライト』》

 英語の playwright という言葉を作ったのはイングランドの詩人ベン・ジョンソンのようで、彼のエピグラム49「劇作家へ(TO PLAYWRIGHT)」では、単なる商売としてウケるように作品を作っていく劇作家を見下したような表現として、「プレイライト」が用いられていた。
 ジョンソンは自身も戯曲を書いていたが、自分のことは常に「詩人(poet)」と称していた。
 当時の劇は常に韻律をともなっていたので、それを作るのは詩人の仕事と考えられていたからである。
 こうした見方は19世紀はじめまで存在していた。
 しかし、その後は、playwright という言葉の否定的な含意はなくなった。

 関連項目  ー 戯言(戯事) ー

 古くは「たわこと」とも》たわけた言葉。ばかばかしい話。また、ふざけた話。
 戯言の正しい読み方は「ざれごと」「たわごと」「ぎげん」

 《意味》

 ①正気を失っていうような、ふつうでないことば。たわけたことば。ふざけたことば。妄語。冗談。
 ニュアンス的に否定する時に使う言葉。
 ②正気を失った行為。たわけたこと。ばかげた行為。
 ③うわごと
 ④たわぶれごと
  たわむれてすること。いたずら。たわぶれわざ。また、たわむれて言うことば。ふざけて言うことば。じょうだん。たわむれごと。
 ⑤ざれごと
  比較的に楽しい話に使われる言葉。

 戯言には、類語として「痴れ事(しれごと)」があります。

 「痴れ事(しれごと)」は「ばかげた言葉や話」という意味の言葉です。
 「痴れ事」はばかげた話全般を指していて、話がおもしろい場合と、その話を否定的に受け止める場合の両方で使えます。
 つまり「痴れ事」は、「戯言(ざれごと)」と「戯言(たわごと)」の両方の言い換え表現になります。

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 『踊り子』 作詞 村下孝蔵

 答えを出さずにいつまでも暮らせない
 バス通り裏の路地 行き止まりの恋だから

 何処かに行きたい 林檎の花が咲いている
 暖かい所なら どこへでも行く

 つまさきで立ったまま 君を愛してきた
 南向きの窓から 見ていた空が
 踊り出す くるくると 軽いめまい後
 写真をばらまいたように 心が乱れる

 表紙のとれてる愛だから かくしあい
 ボロボロの台詞だけ 語り合う日々が続き

 坂道を駆ける子供たちのようだった
 倒れそうなまま二人 走っていたね

 つまさきで立ったまま 君を愛してきた
 狭い舞台の上で ふらつく踊り子
 愛してる 愛せない 言葉をかえながら
 かけひきだけの愛は 見えなくなってゆく

 つまさきで立ったまま 愛してきた
 狭い舞台の上で ふらつく踊り子
 若すぎたそれだけが すべての答えだと
 涙こらえたまま つまさき立ちの恋

  〔情報元 : Uta-net〕