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我が愛する「猫まんま」 第3皿目

2023-11-11 21:00:00 | 日記

 俗に、豆腐を“冷奴”という。

 この冷奴の語源、由来は、

 冷奴の「奴(やっこ)」は、近世、大名行列の先頭で槍や挟み箱をもつ役の「槍持奴(やりもちやっこ)」のこと。
 槍持奴が着ていた半纏には、「釘抜紋」と呼ばれる四角い大きな紋がついており、その紋の形と似ていることから、四角く切った豆腐を「奴豆腐」と言うようになり、冷やしたものを「冷奴」、湯豆腐を「湯奴」や「煮奴」と呼ぶようになった。
 「冷たい」ことを表す「ひゃっこい」が転じて「冷やっこい」、「冷やっこ」になったとする説もあるが、冷やした豆腐を「冷奴」と呼ぶようになるのは、四角に切った豆腐を「奴豆腐」と言うよりも後のことなので、この変化は考えられない。

 との事。

 で、薬味の変化も顕著に出ていて、昔は辛子醤油だったのが生姜醤油になりはしたものの、多様化している。
 そのひとつに“のっけ盛り”である。
 居酒屋メニューでも豆腐一丁の上に納豆、キムチ、なめ茸等があり、色んなバリエーションがあります。

 さて、豆腐は、万能食材であり、健康食品としても多くの方が知られています。

 私の場合は、風味で食べていて味には、こだわりはありません。
 いたってシンプル且つその日の気分で、

 例えば、のっけ盛りにしたり、袋めんの具にしたりします。
 特に薬味としてポン酢とラー油あとネギ。

 これのみ。

大相撲九州(一月)場所

2023-11-11 06:00:00 | 日記

 来る11月12日(日)に大相撲九州場所が初日を向かえる。

 先場所、幕内優勝した貴景勝。

 カド番を繰り返すも優勝を果たした。

 今場所は、綱取りに挑む。

 休場するのは、横綱照ノ富士と朝乃山。

 期待がかかる三役復帰目指す朝乃山、ケガ治らず、敢え無く初日からの休場となる。

 さて今場所は、どんな場所になるだろうか。

 個人的には、高安の幕内優勝。
 見てみたい。

research notes ♯02頁 大人の事情 ③

2023-11-10 21:00:00 | 自由研究

 ■大人の事情(都合) ③

 大人の都合や気分で
    子どもに接する「親の末路」
  どんなときも「一貫した態度」
    でいることが大切。

 ▼ムードに流されるお母さんたち
 4歳のミホちゃんという女の子がいました。

 3時のおやつに大好きな『ぷっちょ』を1個食べたのですが、もっとほしいとお母さんに要求しています。
「さっきあげたでしょう」と言っても、「ちょうだい!」と言って聞きません。
「ちょうだい!」「ダメよ!」。
 何度かそんなやりとりが続いたのですが、子どもも負けていません。
 そしてこんな言葉を口にしました。 「キーーー、言うよ‼」 金切り声を上げるよ、と言っているのです。
 自分が「キーーー‼」と騒げば、お母さんは言うことを聞いてくれる、思いのままにできるという経験をしてきています。
 「このお母さん、どうするのかな」と思いつつ見ていたら、「もう……、しょうがないわね、あと1個だけよ」。
 そう言ってぷっちょをあげてしまいました。
 このお母さんは、ミホちゃんの「キーーー‼」が苦手でした。
 とくに外でこの声をだされると、「あの母親は子どものしつけがちゃんとできてない」と思われるのが嫌で、面倒だから、つい言うことを聞いてしまうのだと言います。
 その様子を見て、私は言いました。

 「情けないね、お母さん」

 ところが、別の日はちがいました。
 ミホちゃんがぐずって泣いています。
 お母さんを見ると、いかにも不機嫌そうで、まとわりつくミホちゃんを無視しています。
 そして、「オモチャをとって」と言うミホちゃんに、「うるさい!」と大声をだし、頭をバシッと叩きました。
 びっくりしたミホちゃんは、「ギャーー‼」と大泣きし、最後はとうとう「キーーー‼」と金切り声を上げました。
 同じお母さんなのに、日によって子どもに対する態度がぜんぜんちがいます。
 このように、その日の感情や気分、そのときの都合や事情によって態度がまったく変わってしまうお母さんがじつはたくさんいます。
 私流の言い方をすれば、〝ムードに流されている〟のです。
 今の日本の親のほとんどが、このようなムードに流される親です。

 ▼世間に漂う風潮を疑ってみたことがありますか

 たとえば、本の読み聞かせや勉強など、教育熱心なお母さんがいます。
 しかし、いつもそうなのかといえばちがいます。
 自分が遊びたいときは、子どもの勉強などほったらかして、子ども連れで遊びにでかけます。
 でも、ふと雑誌やテレビ番組で教育に関する話題を目にしたら、「ちゃんと勉強させなくては」という気持ちが呼び起こされ、また教育熱心な親に変貌します。
  子どもに100パーセントで向き合うのは、エネルギーがいります。
 自分が元気で、機嫌もよく、余力のあるときは、子どもにやっていいことと駄目なことをきちんと言い聞かせることができます。

 そもそもそれができないお母さんもたくさんいますが、子どもに向き合おうとする人もいるにはいます。
 しかし、疲れていたり、ほかのことに気をとられて頭がいっぱいのときは、とたんに子どもに向き合うのが面倒になり、適当にあしらったり、自分がラクなほうへ流れてしまうのです。
 このように、いつも大人の都合や気分が、行動、判断の基準になってしまっている親が多いのは、じつに嘆かわしいことです。

 ▼子どもの行動を否定しなければいけない局面もある

 そして、私が言うムードとは、親の気分や感情だけではありません。
 世間に漂う風潮や論調も含みます。
 「ストレスになることは避けたほうがいい」
 「子どもの主張はつねに信じてやるべきだ」
 「子どもをぜったいに否定してはいけない」
 こうしたまちがった考えを信じている親がたくさんいます。
 テレビにでているコメンテーターや雑誌などの情報を聞きかじり、真に受けているのです。
 そういう情報に触れるたびに、子どもの行動を否定してあげなければいけない局面なのに、「否定しちゃうと、ストレスになるのかな?」 などと、妥協する思いが芽ばえて、揺れます。
 おろかなことです。
 なぜそうなってしまうのか。答えはかんたんです。その親に、その家庭に、子育てに関する原理・原則[=プリンシプル]がないからです。
 子どもと対決するとき、親は金太郎飴のように、どこを切っても同じでなくてはいけないのです。
 それも、ゆがんだ顔の金太郎ではなく、りりしい顔の金太郎です。
 いつどんなときも、都合や気分にも、世間の風潮にも惑わされず、一貫した態度で子どもに接すること。親に求められるのは、「これだけはわが家の決めごとにしよう」という「ルール」を決め、守る態度です。

 先ほどのミホちゃんの例に戻りましょう。
 ミホちゃんのお母さんは、本当は甘いものをあまり食べさせたくないのです。
 虫歯が心配なので、小さいうちは極力与えないようにしていました。
 でも、幼稚園に通うようになって、お友達からもらったぷっちょやグミなどの味を覚えてしまい、ねだるようになりました。
 「少しくらいいいだろう」と、一度あげてしまったが最後、毎日ほしがるようになったといいます。
 本当ならば、お母さんはぜったいに与えないか、「1個だけ」というルールを貫きとおさなければならなかったのです。
 たいていのお母さんは「たかがぷっちょ1個じゃない」と思うかもしれません。
 でもその「たかがぷっちょ1個」が、子育てがうまくいくか、いかないかの大きなわかれ道になります。
 ミホちゃんは「もう1個ほしい」となれば、「キーーー‼」と金切り声を発します。
 でも「キーーー‼」で要求がかなうと、将来、ちょっと気に入らないことがあるとこの声を発し、要求がとおらないとキレる子になってしまいます。
 じつはたいへんな問題をはらんでいるのです。
 キレて脅しているのですから。
 私はこのことをお母さんに説明し、理解してもらいました。
 そこでいっしょにこんなルールをつくりました。

 ▼やってもいいけど、かならず損をさせる

 「キーーー‼」を言ったら、ミホちゃんはおやつぬき。
 1個だけはあげる予定だったけど、むしろゼロにする。
 とにかくこれを守らせること。それをお母さんと約束しました。

 ただ、これまで何もルールを決めてこなかった家庭で、いきなりルールのある生活を送るのはたいへんです。
 そのお母さんも、「キーーー、言うよ」と脅されたら、どう対処すればいいのかわからないと、不安そうです。
 「言いたければ言いなさい、と言えばいいんです」と言うと、「そうなんですか⁉」と驚いた様子です。
 「言っていいよ」と言えばいい。
 そして「でも言ったら、ぷっちょはなしよ」と言えばいいのです。
 今までは「キーーー‼」がお母さんの「弱み」でした。「弱み」をもっていると、子育ては不利になってしまいます。
 「やるならやっていいけど、かならず損をさせること」という親の新しい姿勢が大切になります(ただし、体罰は使えません)。
 親がこうした姿勢をとったり、かつてとは真逆の姿勢に変わることは、並大抵の努力では足りないでしょう。
 親がそのときの気分や都合に流され、子どもに向き合う面倒から逃げないことが大切なのです。
 “金太郎飴お母さん”は、このような努力とともにつくられます。

 〔情報元 : 東洋経済オンライン
     https://toyokeizai.net/〕

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 ◆子育てに原理原則はあるの?

 育児は他人から教わるものじゃない。 誰かの意見や考えではなく、自分なりに試行錯誤して見つけていくものだ、という言葉も目にします。

 原理原則っていうのは、 人間が生きていく時に基本になる考え方。 そういうことを一生懸命研究した人がいて、 例えばアタッチメント(愛着)なんかもそうですよね。
 そういう現象があるよって。
 それが人格形成にものすごく影響してるということを、いろんな角度から研究して、それを発表した人がいるから、アタッチメントの理論を私達も分かって伝えることができるわけでしょ。
 そういうものも原理原則ですよね。 それは挙げたらきりがないくらいたくさんある訳です。

 で、自分の子育ては他人に邪魔されたくないとか、他人から聞くものじゃないっていうふうに思うのは、私は間違ってると思う。
 なぜかと言うと、自分自身を理解することだって難しいでしょ 。
 自分自身を上手にコントロールすることだって難しいよね。
 ましてや、相手といい関係で、いつもハッピーな環境を作っていくというのは相当難しいでしょ。
 夫婦であっても、あるいは友達であっても。
 そういう関係性の中には人間関係の原理原則があるわけね。
 それを研究してる人がいっぱいいるんだから、そういう情報をちゃんと自分の中に取り入れて「一番ベストな方法は何か」っていうふうに、自分の中に取り入れた上で取捨選択すればいいわけで「これは私にとってはいらない 」という人もいるかもしれないけど、「もしかしたら私の生きていくのにすごく大事な考え方かもしれない」って、そうやって取り入れて自分に役に立てていけばいいわけ。
 自分はこう思って立派に育てていると思っても、もしかしたら、うまくいってないかもしれないんですよ。
 お母さんの言うとおり聞いて「はい、はい」って、なんでも言う子どもになってるから、それがいいと思ってると、違うでしょ。

 だから子育ていうのは、とても難しい営みだと私は思っている 。
 人間を育てるということ。 教育もそうだけど。
 教育をする人、親として子どもを育てる人の人格とか人間性がものすごく反映されてくるものだから、難しい。
 だからもう少し謙虚に、自分のあり方はこれでいいだろうかっていうことを、私は常に常に勉強だと思っているのね。
 「一生勉強」っていうのがあって、自分の知らないことを知ることによって生活がより良くなる、 人との関係がうまく作れていく。
 そういうことを目指すべきじゃないかな?って思いますけどね。
 だから原理原則って言われると、これっていうふうにハッキリ言えないけど。
 いろんなたくさんの種類のことがあるから。
 例えば、子どもの心理についてもいっぱい実験をやってね。
 その結果これは正しいんですよ、子どもの認識ってのはこういうふうに育つんですよとか、子どもの感情はこんな風にコントロールする力ができるんですよとか、色んなことを研究してる人がいるわけね 。
 そういう人の知識をちゃんと知って、自分の中の生活に応用していく。
 私なんかはそうやって、いろんな人の研究したものを勉強して、自分のものにしてそれを教育に応用して、自分の子育てにもそうしたしね。
 教育の中に応用していったわけ。

 理論っていうのは、どれにも共通な法則として生まれたものだから、それだけでは機能しないわけよね。
 それを実践の中に応用することによって初めてその理論の良さや正しさが分かったりするわけね。
 この心理を知らないと、この応用のところがうまくいかないのね。
 だから奥深いっていうのは、そういう理論がいっぱいあるからそれを勉強しないと。
 専門家はそこを勉強してるから、いろんなアドバイスしたり、実践ができる。

 私は自分の子どもを育てたとき、理論は学んだけどどう実践するか、初めてやることだから失敗しながら、これでいいのかなって常に思いながら。
 うまくいった例はいっぱい覚えてるけどね 。
 でも、うまくいかなかったこともあるし、自分の限界を超えてる状況もあったし、自分にはこういうふうにやりたいと思っても、それができないような状況もあったり。
 仕事も育児も、研究もしなきゃいけない、いろんな事頑張ったから余計なんだけど。
 だから、もうちょっと子どもに寄り添って、こうしたら良かったかなって思いも今だって残ってるしね。
 十分にしてやれなかった部分もあるし。

 でも、親は子どものためだけに生きてないのよね。
 親は親の生活があって、親の生き方があるわけでしょ。
 それを全部犠牲にしてやってはいけないのよ。
 そうすると、子どもに全部覆いかぶさるってことになるから、子どもが巣立ったら、もう何もなくなって空虚な生活になっちゃうでしょ。

 自分は自分の生活をちゃんと作りなさい。
 学校に子どもが行くって、 いってらっしゃい。
 お父さんも会社いくって 、いってらっしゃい。 私はこれこれするから 、いってらっしゃい。
 自分の世界をちゃんと持ちなさいって、そういう指導を私は大学の教授から受けた。
 人に即してばかり、お母さんだからって家族のために全部自分を犠牲にしてやって、家族はそれで幸せかもしれないけど、それがその人の幸せでは決してないって。
 お母さんはお母さんの世界を持って、自立しているということによって、経済的に自立しているという意味ではなくてね、心の世界で自立してることによって、子どもと対等に関われる。

 子どもが大人になっていた時、子どもが知らない世界をお母さんが持っているんだもん。
 お父さんは違う世界を持ってるでしょ。
 それぞれが揃って夕食の団欒の時に、その日の経験したことを楽しく話し合う。
 そういう家族になったらお互いがみんな伸びていける。
 そういう家族を目指すべきですよ、って大学のとき教わったの。

 〔情報元 : © 2019-2023 親子育研究会. https://oyakoiku.jp/〕

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 『大人の事情』について、今一度再考しようと思います。

 “大人の事情”の事情というのは諸事情、つまり「都合」の事であり、都合には二つの言葉があります。
 それは「好都合」と「不都合」。

 使う“大人の事情”の事例としては「好都合」の場合、ほぼほぼ無く、「不都合」に使う事例が主流です。

 「好都合」を使う事例としては、無くもないのですが、言葉で言う“サプライズ”があります(場合としては、有難迷惑だったり、叶わなかったりしますが)。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  サプライズ【surprise】 の解説 [名](スル)
 1 人を驚かせること。
 また、驚き。思いがけない出来事。
「今回の人事に―はなかった」

 2 突然の贈り物などで、人を驚き喜ばせること。「記念日に―する」

 〔情報元 : goo 辞書
 https://dictionary.goo.ne.jp/〕

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 「大人の事情」の違う意味としては「子供には言うべきではない」という解釈で、この言葉でそれを誤魔化す、あるいは濁すという使い方になります。

 もうひとつ使い方は、おとなが大人に使う場合、その理由を言ってしまうと関係者や上の立場に当たる人などに迷惑が掛かる為、「とても言えない」という解釈での使い方です。

 後述の意味では、おとなが大人に対して使うことになるので、一見、おかしく見えるかも知れません。
 そもそも、“大人の事情”の言葉の意味での使い方はスラング的要素が含んでるもので、本来の意味は「子供には~」の方だと言われています。

 しかし、元々広辞苑に掲載されているような言葉ではない為、どちらが本来の意味なのかと正しく決まっている訳でもないようです。
 その為、人にどちらが正しい意味なのかと無理に聞くことも、説明することも必要はなく、今となってはどちらがそれなのかも怪しくなってきているようです。

research notes ♯02頁 大人の事情 ②

2023-11-09 21:00:00 | 自由研究

 ■大人の事情(都合)②

 関連項目 ー 黒歴史 ー

 
 黒歴史(くろれきし)

 アニメ作品『∀ガンダム』に登場する用語。
 作中では、太古に封印された宇宙戦争の歴史のことを指す。

 ガンダムシリーズで描かれた物語すべてが含まれると定義されており、『機動戦士ガンダム』の時代である「宇宙世紀」だけでなく、それまでは別系統の異なる世界の作品という扱いだった『機動武闘伝Gガンダム』の「未来世紀」、『新機動戦記ガンダムW』の「アフターコロニー」、『機動新世紀ガンダムX』の「アフターウォー」のほか、以後に発表されたガンダム作品の歴史も含まれる。
 原作者の富野由悠季は、『∀ガンダム』において「宇宙世紀」も別作品群の世界の歴史も包含し、「黒歴史」として総称するという新たな視点を示した。
 そこから転じて「なかったことにしたいこと」または「なかったことにされていること」という意味のスラングとして使われるようになり、2022年現在では「隠された歴史」という意味でも辞書に掲載されている。

 《概要》

 「黒歴史」とは、太古の宇宙文明時代に永きに渡って繰り返されていた数々の宇宙戦争の歴史の総称であり、『∀ガンダム』は黒歴史最後の大災害から復興し、数千年余りの時間をかけ、ある程度の生活・文明レベルを取り戻した「正暦」の時代の物語である。
 『∀ガンダム』では、黒歴史時代最後のガンダムである∀ガンダムによって地球圏全土にばら撒かれた「月光蝶」なるナノマシンの効果により、人類の文明は甚大な打撃を受け、産業革命以前のレベルまで衰退した文明の様子が描かれている。

 『∀ガンダム』監督の富野由悠季は「(「∀」という記号には)“以後”ということも含めてあるので、『∀ガンダム』以降の作品についても認められるようになったわけです。
 『∀ガンダム』の時代に辿り着くまでには、あと100本の『ガンダム』を作っても余裕がある時間を作ってある」と語っている。
 設定を担当した森田繁はインタビューに際し、各ガンダム作品を一つの世界に纏めるようオーダーされたために作られた設定であり、制作の折には各作品ごとに10000年の時間が経過した年表を製作したとも語っている。
 サンライズ監修の漫画『∀ガンダム 月の風』(著者:あきまん(安田朗))にて、『機動戦士ガンダムSEED』シリーズの「コズミック・イラ」も含まれるとされた。
 プラモデル『マスターグレード ターンX』では、『∀ガンダム』より後に発表された『機動戦士ガンダムSEED』、『機動戦士ガンダム00』、『機動戦士ガンダムAGE』の他、今後発表されるであろうガンダム作品も包含されるが、『ガンダムビルドファイターズ』に関しては除くと思われる、と記載されている。
 また、本編中に描写はないが企画の初期段階では「SDガンダムシリーズ」の世界も包括しているという設定も存在し、SD型のモビルスーツが発掘されるという案もあったと言う。

 富野は「『∀ガンダム』以後のガンダム作品を描くとしたら、自分で作るつもりです。そうした設定があるために『∀ガンダム』において、ロランとディアナの物語は完結を迎えましたが、ガンダムについては触れていないんです。
 マウンテンサイクルという設定も“どこから何年後”という表現を避けるために考えたものなんですよ」とも述べている。
 作中で黒歴史を描写する時、決まって流された菅野よう子作の曲も「Black History」と名づけられている。
 この曲は本作を象徴する音楽として関連作品でも多く用いられている。

 ▼『Gのレコンギスタ』における黒歴史

 後の作品の『ガンダム Gのレコンギスタ』の時系列は『∀ガンダム』で描かれる「正暦」よりも前の時代に位置すると公式関連書籍などで紹介されていた。
 だが後に、富野はトークショーにて『∀ガンダム』同様自身が手掛けた『Gのレコンギスタ』は『∀ガンダム』から約500年後頃を想定して制作したと発言している。
 同時に富野自身が単独でシリーズ全体の設定を決定する権限がないことにも触れ、「(公式が自身の見解と異なる時系列を発表していたことについて)それはそれでいいんです」「皆さんなりに“ガンダム全史”みたいなものを作っていたたければいい」と前置きしつつも「その時には『Gのレコンギスタ』の位置付けが、今言った所(『∀ガンダム』⇒『Gのレコンギスタ』)に置いていただけたら嬉しく思います」と述べている。
 この発言を受けて、聞き手を務めていたサンライズの小形尚弘プロデューサーは「色々と整理したいと思いますので、来場者の皆さんは今日聞いたことは一旦胸の内にしまって頂いて。
 次の何かの機会に、しれっとそうなってる可能性はありますので」と答えた。

 富野の構想は、これまで公式が公開してきた時系列の設定(『Gのレコンギスタ』⇒『∀ガンダム』)と異なる上、宇宙世紀を「約1000年前の“前世紀”」として扱う『Gのレコンギスタ』の設定と、宇宙世紀を「約1万年前の“太古”」(『劇場版∀ガンダムII 月光蝶』では約5000年前に変更)として扱う『∀ガンダム』の設定とで矛盾が生じる。
 だが富野はその点についても触れ、「その時代その作品ごとの観点から“黒歴史”的に見えているだけの話で、劇中で言われる設定年数は関係がない」旨を述べ、この発言を受けるならば『Gのレコンギスタ』に関しては黒歴史に含まれないことになる。

 《劇中での描写》

 『∀ガンダム』の舞台となる正暦世界において、黒歴史は月の民たちの間でも限られた者しか、触れることは許されなかった。アグリッパ・メンテナーらメンテナー一族が管理を行っており、「冬の宮殿」において封じられていた。
 ムーンレィスと地球の人々との紛争の渦中、月の女王ディアナ・ソレルたちの前で黒歴史の記録映像として過去のガンダムシリーズの宇宙戦争が映された。
 作中では、過去のガンダムシリーズと繋がっているかのような文物がいくつも登場する。
 また、『∀ガンダム』の時代・正暦2343年は『機動戦士ガンダム』などの舞台であった「宇宙世紀」から約1万年後の物話であることが語られている。
 記録映像中では、かつてニュータイプと呼ばれた人々を中心とする宇宙移民者たちは、歴史の半ばで地球圏と袂を分かち、スペースコロニーごと外宇宙へと新天地を求め去っていたことも語られている。
 さらに『月の風』によれば、彼らは空間跳躍技術を確立し、宇宙全土を舞台に文明の域を広げ、独自の進化を続けた。ある時期には「超空間交通システム」によって他恒星系移民者との交流も行われていたという。
 遥か未来、その彼方の異文明から当時の地球へと偶然漂着したのがターンXであり、自らの意思で外宇宙から地球圏へと帰還を試みた一団が、後のムーンレィスの祖先達だったと語られている。

 黒歴史の遺物には多数の技術の情報も残されており、地球の産業革命を志すグエン・サード・ラインフォードはギンガナム側に寝返ってまで、この技術を手に入れようと画策した。
 そして黒歴史は紛争終結後にディアナの意向により開放され、民衆の目に触れることとなった。
 地球でも黒歴史の一部はマニューピチにてガンダムシリーズの始まりから世界の終わりまでを抽象的に物語ったものとして伝わっている。
 地域によっては『機動武闘伝Gガンダム』の劇中の顛末が神話として知られ、「DG細胞災害」という第一級テクノハザードの記録も残っている。
 福井晴敏著『月に繭 地には果実』では、「冬の城」のビジュアル・データ室でディアナが明かす黒歴史の範囲は『Vガンダム』までに言及しているものの、それ以降のアナザーガンダム作品については描写がない。
 また、映像と共にギレンやハマーン、シャアたちの演説が次々と流されていき、最終的にはファーストガンダムの映画版『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』でのララァ・スンの言葉へと結実するという小説版独自の描写が為されている。
 U.C.ガンダムBlu-rayライブラリーズ映像特典『機動戦士ガンダム 光る命 Chronicle U.C.』において、∀ガンダムが月光蝶を発動し宇宙世紀の文明を消し去る様子が描かれており、その後GガンダムからGのレコンギスタまでの歴史が続いていっていることがイメージ映像として描写された。

 『ガンダムトライエイジ』ではカード内のフレーバーテキストでは、キエルやギンガナムなど∀ガンダムのキャラ達が上記の冬の宮殿の映像や資料の中で『SEED』『00』『UC』『鉄血』など∀ガンダム以降の作品に登場したMSについて言及している。

 《インターネット用語としての「黒歴史」》

 劇中での描写 黒歴史の遺産 インターネット用語としての「黒歴史」 編集 主に漫画やアニメに属する分野などを中心に、非常に面白くなかったりファンの期待を損なってしまった作品・設定などを指して、「なかった事にしたいこと」または「なかった事にされていること」などの意味で、黒歴史という言葉が使われている。
 また、上記から転じて、「自分自身の他人に触れられたくない、あるいは自分でも恥ずかしく思う自分の過去」のことを、黒歴史と言うこともある。
 これは俗に言う中二病(廚二病)やヤンキーだった頃の自分や、自作の小説・ポエム・音楽・同人誌などを指すことが多い。
 さらには、ベテラン芸能人の若かりし頃のアイドル時代や、子供時代などに太っていた頃の写真なども、よく挙げられる。
 当初は、アニメを中心とするサブカルチャーやそれに類する分野を中心に、それらのファンたちにより劇中用語を引用して隠語的に使用されていたものであったが、電子掲示板などで広く普及し、一種のネットスラングとして定着した。
 更に俗語として元の由来を知らない人にも、日本語として使われるに至った。

 ◆暗黒時代

 似た言葉に「暗黒時代」があるが、これは小学校~高校時代などにおいて、中~長期間のいじめ・孤立・失恋・失敗などを経験した人が、過去を振り返って使う言葉であり、黒歴史とはやや用途が異なる。

 ◆商品における黒歴史

 2017年には、日清食品が発売当時売れなかった3商品「サマーヌードル」「どん兵衛 だし天茶うどん」「熱帯U.F.O.」を、「黒歴史トリオ」として発売した。
 あえて黒歴史と名乗る自虐的な命名がSNSで大きな話題にはなったが、売れ行きはさっぱりであった。

 《その他の用法》

 英語での "Black history" は『∀ガンダム』とは無関係に同じ意味で使われているほか、「黒人の歴史」を意味することがある。
 そのため、英語版『∀ガンダム』では黒歴史の訳語として「Black history」ではなく「Dark history」が用いられる。
 なお、中国や韓国などの漢字文化圏では、「黒歴史」の単語がそのまま各国の言語読みで使われている。
 北海道の沿岸バスでは、開拓時代の囚人使役・タコ部屋労働や黒いダイヤと呼ばれる石炭を黒歴史となぞらえて、バスツアーを企画している。

 関連項目 ー 裏番組 ー

 裏番組(うらばんぐみ)

 ある放送局の番組と同じ時間帯に同じ地域で受信できる他局の番組。

 《概要》

 広告による収入を収益源とする放送局において、視聴率確保の観点から裏番組は「競合番組」となる。
 ある放送局で高視聴率の番組が放送されている場合、他の放送局が放送する裏番組は視聴率が低下するなどの影響を受ける。
 裏番組の状況に加え、録画やオンデマンドによる視聴の増加も視聴率に影響する。
 一方の番組を視聴しながら裏番組を録画できる機能を有するテレビやレコーダーなどの機器も発売されている。

 ▼裏被り

 芸能人が裏番組に重複して出演することを裏被り(うらかぶり)といい、同じ出演者が複数の番組に登場することで視聴率が分散してしまう恐れがあるため忌避される傾向にある。
 また、帯番組で特定の曜日にレギュラー出演している場合は他の曜日において裏番組に出演することも忌避される。
 このため、在京民放キー局5社の編成部は毎月各局同士で連絡を取り合って裏被りが発生しないように調整している。
 一方、在京民放キー局とNHKとの間では裏被りの調整はなされておらず、柄本佑が「土曜ドラマ(NHK)」『空白を満たしなさい』に主演した際、3週に渡り裏番組の日本テレビ系「土曜ドラマ(日本テレビ)」『初恋の悪魔』に出演した事例がある。
 基本的に重複出演が規制されるのは地上波の全国ネット番組同士や、同じ系列の地上波キー局の全国ネット番組とBS放送局の独自番組との間であり、重複する一方が声のみであっても規制対象となる。
 一方日本放送協会(NHK)は地上波とBSも同一法人が運営するため、地上波テレビ番組とBS番組の裏被りが対象となる。

 それらの番組の重複が避けられない場合、片方の番組から出演者を退場させるか、放送時間が同じ近接番組と枠交換させるかの何れかである。
 一方が地上波テレビのローカル番組や他系列BS・CS放送局の番組である場合は特に規制は見られないため、一部の地域で片方または両方の番組が遅れネットとなった結果、その地域だけ放送時間が重複するケースもある。
 テレビ番組とラジオ番組の重複については、ラジオ局は問題にせず、テレビ局は了解を取れば問題がないとされる。
 メッセンジャーの黒田有が関西テレビ(カンテレ)の『ちゃちゃ入れマンデー』に出演中、同時間帯にMBSラジオの番組を開始。
 MBSはカンテレとの裏被りを承知でオファーを出したが、黒田のマネージャーがカンテレの了解を取っていなかったためトラブルとなった。
 番組の重複が避けられない場合は、一方の番組がCMを放送している時間に限って出演させる、或いは該当番組が始まる直前に退席する、番組自体を第1部と第2部に区切って別番組扱いにするなどの調整が行われる。
 その他、アイドルグループ・お笑いコンビなどのメンバー同士が同一時間帯の異なる放送局にそれぞれ出演することも忌避されるが、特別番組等で裏かぶりする場合、該当する放送時間に限り該当者が退席する措置を採ることもある。
 この他にも渡辺プロダクションやジャニーズ事務所のようにかつては同じ芸能事務所に所属しているタレントであればグループ等に関係なく裏被りを規制していたケースがあったが、現在では両社ともグループ内の規制に留まっている。
 また、雑誌掲載作品がテレビドラマ化される際は、同一誌の作品が被らないよう調整されるが、週刊少年サンデーに掲載された『名探偵コナン』と『MAJOR』が同時間帯に放送された例がある。
 なお、スポーツがメインのバラエティ番組も出演者に関わらずスポーツ中継と被らないように編成されている。

 レギュラー番組を持つ芸能人がその番組の放送時間の裏の特別番組などに出演する際は、時間が重複している番組のタイトルの一部や、タイトルや出演者を想起させるフレーズが用いられることもあるが、「大人の事情」という言葉が特に使用されることが多い。
 当該番組の過去の出演者で、それらの出演者が裏番組に出演することになった場合において過去の放送回や他局も含んだ他の番組の映像素材などを使用する場合も例外ではなく、該当出演者の顔にモザイク処理するなどの措置がとられるケースもあり、過去の放送回の映像を使われていない程度であれば、当該出演者を精密な似顔絵に変更することで対処されている。
 俳優などがレギュラーのバラエティ番組の裏番組が連続ドラマの主要出演者となっている場合、1クール(3か月間)のみの短期間での出演となることから、その期間だけ休演(一時的な降板)し、期間終了後(または、特定の時間だけ休演後、終了後出演パターンもあり)復帰という事例もある。但し、NHKの朝の連続テレビ小説については、朝のワイドショーもしくは昼のワイドショーに出演する場合は、放送期間中は一時的な降板や15分だけ出演させない措置を取った。

 一方、年末年始の特別番組や、特定の芸能事務所に所属しない学者・文化人・実業家などのテレビ番組への露出が多い一般人については、裏番組と重複出演をしても放送局から寛容に扱われる場合もある。
 また、スポーツ中継や報道特別番組などの不可抗力による緊急延長や編成で、どちらか一方の番組が通常の放送時間よりも繰り下げられた結果、重複出演となってしまった場合、少なくとも一方の番組が、ニュース・情報番組などの報道目的として取り上げられたものであり、それに伴い、他の番組に出演していた時のVTR素材などが使用された場合など、出演が認められるケースもある。 裏被りの調整は番組の企画段階から行われるものの、様々な事情でスケジュールの調整が付かず、結果放送時に重複出演となってしまった例がある。
 一例では2006年(平成18年)1月3日、午後9時からNHK総合テレビで『新選組!! 土方歳三 最期の一日』、午後9時30分からフジテレビで『古畑任三郎ファイナル』が放送された。
 両番組は脚本は三谷幸喜が担当しており、さらに藤原竜也と石坂浩二の両名が出演しているという前代未聞の事態が発生した。
 放送前にこのことに気づいた両局が調整を試みたがうまくいかず、結局そのまま放送された。
 この件についてはフジテレビ側が「調整が間に合わなかった」と謝罪することとなった。
 なお、三谷も朝日新聞に連載する「ありふれた生活」において放送前にこのことを告知したうえで、「自分の作品同士で視聴率を取り合うというのは、作者としてとても哀しい。
 作品はどれも苦労して育てたわが子みたいなもの。争って欲しくはない。一皿のカレーライスを前に、長男と次男が大喧嘩しているのを、黙って見ているしかない父親のような気持ちだ。
 というわけでその日、僕は九時まで細木数子さんを見て、それから犬の散歩に出ます」として両番組とも視聴しないことを予告した。
 なお、視聴率は『新選組』が9.8%、『古畑』が21.5%であった。

 更には、改変期の放送時間変更に伴い、ある芸能人がレギュラー出演していた番組Aの変更後の放送時間が、その芸能人が元々レギュラー出演している番組Bと同時刻になったために、番組AまたはBのレギュラー出演そのものを降板するケースも度々発生している。
 また、複数の放送局が共同で企画・製作した番組の場合、同じ内容の番組が同時刻に放送されることを前提としているため、必然的に当該番組の出演者の裏被りが起きるといった例外も存在する。

   (ウィキペディアより引用〕



research notes ♯02頁 大人の事情 ①

2023-11-08 21:00:00 | 自由研究

 ■大人の事情(都合) ①

 大人の事情(おとなのじじょう)

 何かを説明したり釈明したりしなければならないような状況で、詳らかにすることが憚られるような事情がある場合に、具体的な説明を避ける場合に用いる表現。
 大人の都合(おとなのつごう)などともいう。
 初出は定かではないが、特に他社間の利害関係(版権や商標が絡む内容)によって名前が出せない場合や、宗教などのタブー、不祥事などの事情で理由を公開できない場合のほか、単に事なかれ主義で(単語のみならず事実上として)使用されることが多く、マスメディア業界でも見受けられる表現である。

 中国語圏の台湾で同種の言葉が用いられている新聞記事も存在する。

 関連項目 ー 偽善 ー

 偽善(ぎぜん、英: hypocrisy)

 特に宗教や道徳的信念に関し、真の性格・性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観をつくることを言う。
 したがって、一般的な意味において偽善には「心や行いが正しいように見せかけること」、「見せかけの善行」の意味を持ち、または「まやかし」の意味が含まれることがある。
 偽善的な行動とは、他を批判するのと同じ行動を自らも行っていることを指す。
 道徳心理学においては、自ら表明する道徳的な規則や原則に従わないことを指している。

 ケンブリッジ大学の政治哲学者、デイビッド・ランシマン(1967〜)は、「他にも偽善的な欺瞞には、自分には欠けている知恵を持っているという主張、一貫していると主張しながらの言行不一致、持ってもいない忠誠心の表明、アイデンティティの偽装」があるとし、アメリカのマイケル・ガーソン(1964〜)元ジョージ・W・ブッシュの元スピーチライター、現ワシントン・ポストの政治コラムニストは、政治的偽善とは「意識的に仮面マスクを使用して国民をだまし、自らの政治的利益を得ること」としている。
  偽善は、人類の歴史の初めから伝承と文学の主題となってきた。
 1980年代以降は、経済学、認知科学、倫理学、政治社会学や各種心理学といった分野の中心的主題ともなっている。

 《語源》

 偽善(hypocrisy)という単語はギリシャ語の ὑπόκρισις(hypokrisis )から来ており、原意は「演じる」であり、そこから「本心で無い感情を持っているふりをする」へと意味が変化してきた。
 イエスはこの言葉を倫理的に悪い態度とみなし「嫉妬」、「演技」、「行動化」、「臆病者」、「虚勢」を意味するようになった。

 偽善者(hypocrite)は、ギリシャ語のὑποκριτής(hypokritēs)から派生し、ὑποκρίνομαι(hypokrinomaiκρίση 「判断する」> κριτική(kritikē)「評論家」)となった。
 これは俳優による劇のパフォーマンスにはある程度の解釈または評価が含まれるためとされる。

 また、この単語(Hypocrisy)は「~下の」を意味するギリシャ語の接頭辞「hypo-」 と、動詞「krinein」(「取捨選択、決定する」を意味する)が合成したものである。
 したがって、元々の意味は、取捨選択するか決定する能力の欠如を意味していた。
 この欠如は、自分自身の信念や感情に関係しているので、その言葉の現代的な意味を表すものとなっている。

 《語源》

 偽善(hypocrisy)という単語はギリシャ語の ὑπόκρισις(hypokrisis )から来ており、原意は「演じる」であり、そこから「本心で無い感情を持っているふりをする」へと意味が変化してきた。
 イエスはこの言葉を倫理的に悪い態度とみなし「嫉妬」、「演技」、「行動化」、「臆病者」、「虚勢」を意味するようになった。
 偽善者(hypocrite)は、ギリシャ語のὑποκριτής(hypokritēs)から派生し、ὑποκρίνομαι(hypokrinomaiκρίση 「判断する」> κριτική(kritikē)「評論家」)となった。
 これは俳優による劇のパフォーマンスにはある程度の解釈または評価が含まれるためとされる。

 また、この単語(Hypocrisy)は「~下の」を意味するギリシャ語の接頭辞「hypo-」 と、動詞「krinein」(「取捨選択、決定する」を意味する)が合成したものである。
 したがって、元々の意味は、取捨選択するか決定する能力の欠如を意味していた。
 この欠如は、自分自身の信念や感情に関係しているので、その言葉の現代的な意味を表すものとなっている。
 本来は、hypokrisis はあらゆる種類の公演に適用される言葉で、hypokritēs の方は舞台俳優のための専門用語であった。
 ただ、後者の呼称は公人にとってあまり適切なものとはされていなかった。
 たとえば、紀元前4世紀のアテネで、かの演説家デモステネスは、ライバルで政治に入る前は成功した俳優だったアイスキネスを「偽善者(hypocrite)」とし、彼の舞台上で他人を演じる演技力があるので信頼できない政治家だ、と嘲笑した。
 偽善者に対するこの否定的な見方は、おそらく俳優に対するローマの軽蔑と組み合わさって、もともと中立的なhypokrisisの意味に影を落とした。
 現代の言葉「偽善」(hypocrisy)にその否定的な含意を与えるのは、後年になって偽造ペルソナとしての意味が出来てからである。

 《歴史》

 アメリカの歴史家マーティン・ジェイの『The Lind in Politics』(2012年)は、何世紀にも渡って作家が偽善、欺瞞、お世辞、嘘つき、詐欺、中傷、偽装、他人の栄光の上で生きること、偽装、慣習的隠蔽、不誠実芸をどのように扱ってきたかを詳細に検討し、彼は、政治にはそれなりの価値があると考えてはいるが、政治は不可避的に嘘と偽善に関連するので嘘もそこまでの悪徳ではないのだろうと結論付けている。

 ▼イギリス

 偽善は、18世紀初頭のイギリスの政治史における主要なトピックとなった。
 当時、非国教徒は(1689年の寛容法は一定の権利を認めていたが)公職排斥で公職に就くことが出来なかった。
 そのため職務を欲しがっていた非国教徒は、制限を避けるために、年に一度イングランド国教会の聖餐を受け国教徒の証明を得た。
 この、いわゆる臨時の「便宜的適合性取得」に対し高等教会の公使は激怒し、1711年に「便宜的国教徒禁止法案」で違法とした。
 政治的な論争で、対立する両方が、お互いを、不誠実で偽善的であるとして相手方を攻撃した。
 この過激なキャンペーンは、1709年にピークに達し、1719年にホイッグス党が政権に復帰したときに「便宜的な適合性取得」は再び可能になった。
 イギリスの作家バーナード・デ・マンデヴィル (1670-1733)は、その代表作 『Fable of the Bees』 (1714)で、現代ヨーロッパ社会における偽善の本質を探った。
 18世紀の悟りにおいては、偽善の議論はヴォルテール、ルソー、そしてモンターニュの作品に共通するものとなっている。
 1750年から1850年にかけて、イングランドのホイッグ貴族たちは一般の人々に対する彼らの特別な慈悲を自慢していた。
 彼らは、ヨーロッパ中で政情不安定と革命を引き起こした民衆の不満の発生を防ぐための改革イニシアチブを導き、カウンセリングを施しているのだと主張した。
 しかし、トリーと過激派の批評家たちは、彼らの貴重な貴族の独占権を守りながら、改革と民主主義のスローガンを用いながら、それを用いて自らの権力の座を取ろうとしているだけである、とホイッグスの偽善を非難した。

 ▼アメリカ

 第二次世界大戦のプロパガンダ戦で、日本はアメリカにおける日系人収容所の不公正さを強調し、アメリカの偽善を攻撃した。
 ラジオ東京は、収容所が民主主義の理想と公正なプレーに対すアメリカの主張は偽善的であると強調した。
 このプロパガンダには、アメリカ合衆国建国の父達、中立的な情報源、そしてアメリカの主要新聞からの反対意見をも引用していた。
 ラジオ東京は架空の情報源も利用していた。
 そして、報復でアメリカ人捕虜達を同様に扱うと脅し、日本の道徳的優位性を主張した。

 《道徳的および宗教的規範》

 ※多くの宗教的信念体系では偽善を断罪している。

 ヨブ記の一部の翻訳では、ヘブライ語のchanephという単語は「偽善者」として表現されており、通常は「無神論者(キリスト教文化圏では元来「道徳が無い人」のようにネガティブな印象がある)」または「冒涜的」を意味する。
 イエスはファリサイ派とパリサイ人を「パリサイ人の苦悩」として知られている箇所で偽善者として非難している。
 また、マタイによる福音書第7章5節で、偽善者をより一般的な言葉で非難している。
 16世紀においては、ジョン・カルバンはニコデミテス(Nicodemite)に対して批判的だった。
 仏教では、禁欲的な態度を見せながらも欲に溢れる事として、釈迦の説法や法句経(ダンマパダ)といった教典などにおいて説かれている。
 イスラム教では、偽善は深刻な病気である。
 クルアーンには、信者や平和主義者であると主張しつつ、神や他の人々をだまそうとしても、実は自分たちをだましているだけ、とされている。

 《心理学》

 偽善は心理学者にとって長い間関心の的であった。

 ▼カール・ユング

 スイスではカール・ユング (1875年 - 1961年)は偽善を自らの"影"の面(ユング心理学でいう「陰」)に気づいていない人々のこととし、次のように書いている。
 すべての人は革命、内分裂、既存の秩序の転覆、そして刷新を必要とするが、キリスト教的愛や社会的責任といった偽善的なマントを被ったものの前提で強制されるものでも、またはその他すべての美しい言葉の言い換えを使って人の無意識下に訴えて、利己心に基づいて他人に対して押し付けることによってなされるものではない。

 《社会心理学》

 社会心理学者は一般的に偽善を態度や行動の不一致の具体化として見ている。 
 したがって、多くの社会心理学者は、個人の偽善的思考と行動への嫌悪感を説明する際の、不協和の役割に焦点を当ててきた。
 あるいは、社会心理学者の中には、偽善者は自らの道徳的な善について誤ったシグナルを発するので、人は偽善を否定的に見ているのだとしている。

 《哲学》

 偽善は、少なくともマキャヴェリ以来、哲学者にとって興味深いトピックとなってきた。
 偽善によって提起された哲学的問題は、形而上学的/概念的と倫理的な問題に分けられる。
 偽善は道徳的に間違っているのか「悪い」のか。特定の分野では意味があるのか、また特に政治では必要悪なのか、といったことである。
 例えば、ある人が何らかの非道徳的行いをし、それに対し非難された場合、相手が偽善的であるという理由で異議を申し立てることが出来るようである。
 典型的な表現は、「あなたには私を責める権利はありません」というフレーズ。
 したがって、一部の哲学者は、他人を非難する地位または権利を得るためには、自分は偽善的であってはならないのだと主張する。
 この立場は偽善と公正の関係に焦点を当てるものである。
 そもそも偽善者とは何か。この本質について哲学的議論がなされ、初期の頃は、その欺瞞的、矛盾する性質に焦点を当てる傾向があった。
 哲学者エヴァ・キテイ(英語版)は、偽善者の基本的な属性は「自己参照型欺瞞」であるとした。
 ギルバート・ライルは、偽善的な行為とは「自分の本当の動機以外の動機によって動機づけられている」こととした。
 対照的に、Dan Turner は、人の態度の「内部的対立または不均衡」として欺瞞があるかどうかは別とした。

 《利点》

 偽善には多くのマイナス面もあるが、利点ともなりうる場合がある。
 先のマイケル・ガーソン(英語版)は、「政治や外交交渉にはしばしば偽善的な詐欺があり、大抵原理原則から始めて『交渉不可能』としたものを交渉し譲歩点を探る」と述べ、次のように語っている。
 偽善は避けられないと同時に必要なものである。
 もし人々が常に誠実、忠誠、思いやりと言った理想に従うことを要求されるとしたら、理想というものが存在し得えない。
 道徳的な人であるとは、誰しもが苦闘しながら繰り返し失敗し、その度に偽善者になるということなのです。
 公正で平和な社会とは、結局の所、自分らは理想を裏切りつつも理想を捨てない偽善者に依存しているのです。

 《日本における概念》

 偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。

 また、これを行う者は偽善者とよばれる。

 精神的な偽善は、外面では善い行為に見えても、それが本心や良心からではない心理状態を指し、行為としての偽善は、隠れて悪事を行う為に善行を装う事である。

 偽善を為す要因に、虚栄心や利己心があり、前者は名誉欲や愛情欲が原因で後者は権勢欲や金銭欲である。

 行為としての偽善と精神的な偽善は、別と考えて、精神的な偽善が行為としての偽善に繋がるかどうかを判断する者と、精神論で一括りに偽善を否定する者というように、偽善に対する認識は、善悪をどう認識するかで変るために一様ではない。

 精神的な偽善には、腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。

 また、和英辞書では、利己心による偽善者である偽君子(snob)も hypocrite とされている場合がある。

 《日本語における用法》

 日本語における偽善の意味として、「善を掲げつつ、その善行を行わない」という上記英語のhypocrisyの訳語のほかに、「ある善行が“真の善”ではない」という用法がある。
 例えばある人がアフリカにおける児童の貧困を望ましくないと主張し、お金を寄付したとする。
 この場合、主張と行為が一致しており、英語における“hypocrisy”には当たらないが日本語における偽善に当てはまる可能性がある。
 その根拠として以下の点が挙げられる。

 1.動機の不純さ ある善行の背景に“善意”以外の要素がある場合、その行為は真の善ではないとするもの。
 その要素としては「自己満足」、他者によく見られたいという「虚栄・利己心」がよく指摘される。

 2.行為の欠点 1.以外にも「お金を寄付したとしてもそれで助かるのは一時的なことであり、根本的な貧困問題を解決していない。」という主張や「寄付や援助で支援される子供は全体の一部であり、不公平が生じる。」など行為そのものに欠点が存在するため、そのような善行は偽であるとするもの。

 また、たとえある行為が上記の意味で偽善であるにしてもそれを評価するかどうかには様々な意見がある(やらない善よりやる偽善)。

 《日本における心理表象にみる偽善》

 まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。
 したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む主観であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もある。
 逆から言えば、自己の善性に対する懐疑のない「善」は、時には「偽善」となってしまうことも、仕方が無いと言える。
 一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言う場合と、善行に対する思慮の浅さを指摘する場合がある。
 前者の場合、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない。
 後者の場合、善行自体があまりよい結果を生み出さなかったことを指摘していることがあり、そうした場合は謙虚に受け止め、思慮の浅さを反省すべきである。
 別の可能性として、内面的な事柄を度外視しても「偽善」が指摘されうる事もある。
 つまり、目立つところでは善い事を言ったり行ったりしていても、目立たないところでは悪事を行い、表面上の善を無にして余りあるような害悪をばらまいているような場合である。
 こうした時には表面上の善はいわゆる「きれいごと」であり、むしろ社会的に善行として評価されることなどによる自己利益が企図されていることもある。
 このとき「偽善者」という批判は、隠蔽された悪事を暴露して問題の本質を明らかにする。

 ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。
 人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうる。

   〔ウィキペディアより引用〕