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事実と真実 第四話

2023-10-21 21:00:00 | 千思万考

 ■ワケあって・・・坂口杏里

 坂口杏里とは、フィクションかノンフィクションか… レンズ越しに彼女を観察し続けると、時々わからなくなることがあった。

 たった28年間の生き様を、これほどまでに切り売りしてきた人を私は知らない。
 『大女優、坂口良子の娘』その“星の元”を売りに芸能界デビュー。
 母・良子は、旅立つ日がそう遠くないことを悟っていたかのように娘を必死で売り込んだ。
 杏里の世間知らずなキャラクターはクイズ番組やバラエティ番組に引っ張りだこに。
 その“おバカキャラ”が消費され尽くすと今度は“炎上タレント”として注目を集めた。
 ところが、2017年4月― その時杏里には、たった3万円すらなかった。
 恐喝事件を起こし逮捕されると、芸能界に彼女の戻る席はもうなかった。

 『元・芸能人 坂口杏里』の転落ぶりは、ますます人々の興味をそそった。
 私も最初は、その見事なまでの転落人生に好奇の目を向けていた一人だったのかもしれない。
 撮影を始めたのは昨年6月。

 ストリップの殿堂「浅草ロック座」でデビューするという彼女を追い始めていた。
 ところが…ストリッパー坂口杏里の踊る姿を収めたのが 私のカメラだけになろうとは、その時は思いもしなかった。
 この頃杏里はワケあって、夜の世界から抜け出せずに、一人苦しみもがいていた。
 それから1年に渡り、彼女に何かが起きると私はその“裏”を記録し続けた。
 一方、“表”ではネットのニュースが杏里の話題を手に入れては放出する。
 そんなことが何度となく繰り返された。
 ある夜、私の携帯が受信したのは彼女からの『遺書』。
 生きることすら放棄した杏里を奮い立たせたのは、亡き母・坂口良子が残したものだった。

 坂口杏里とは、フィクションかノンフィクションか…
 あなたの目にはどう映るだろうか。

   ✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕

  ❖❖❖ 坂口 杏里 ❖❖❖
 (1991年(平成3年)3月3日〜)

 日本の元タレントで
 YouTuber、元AV女優。
 東京都世田谷区出身。
 母は女優の坂口良子。
 継父はプロゴルファーの尾崎健夫。

 ◤略歴◢

 1991年3月3日、東京都に生まれる。
 成城学園初等学校、成城学園中学校、堀越高等学校卒業。
 高校の同級生には女優の福田沙紀、蓮佛美沙子がいる。

 母は女優の坂口良子、実父は元不動産会社社長の田山恒彦、継父はプロゴルファーの尾崎健夫。
 実父母は1994年に離婚。

 母・坂口良子と母子でテレビのバラエティー番組に出演するなど、2世タレントとして活動した。

 2014年、映画『ハニー・フラッパーズ』で映画初主演。
 2015年6月、六三四第壱回本公演『刀神姫抄-TOUZINKIISHO-』で舞台にも挑戦した。

 2016年3月末、自らの申し出により所属事務所のアヴィラを退所したが、事務所側はこのときに坂口の後の活動方針については聞かされていなかったとのこと。

 一時、バイきんぐの小峠英二と交際していたが、のちに破局。
 所属事務所退社後は、キャバクラ店のホステスとして働きながらANRI(アンリ)の芸名でアダルトビデオの女優や雑誌のヌードモデルとしてメディア出演を続けた。
 2016年10月1日『芸能人ANRI What a day!!』でMUTEKIよりAV女優デビュー、同年11月2日にはANRI初ヘアヌード写真集『What a day!!』を講談社より発売したが、いわゆる「テレビタレント」業については休業状態に陥っていた。

 2017年4月18日、知人のホスト男性から現金3万円を脅しとろうとしたとして恐喝未遂容疑で逮捕された。
 東京地検の勾留請求が却下され、4月21日に釈放。
 6月8日、不起訴処分となった。

 その後、2017年8月の報道では六本木の高級キャバクラで真面目に働いていると伝えられており、同報道では店のNo.1ホステスの座にあり、その時点では芸能界復帰は考えていないということだった。
 しかしその後、人間関係のトラブルから腹いせとして時間外に営業していた勤務先のキャバクラを警察に通報しており、店側によると頭を冷やすために出勤を控えている間に坂口は勝手に店を辞めてしまったという。
 その後、別のキャバクラで勤務を行っている。

 2017年9月29日、自身のインスタグラムでタレント引退を表明。
 キャバ嬢として生きていくことを明かした。

 2018年6月に「ANRI」名義で浅草ロック座にてストリップデビューすることが東スポより報じられたが、直前に出演キャンセルとなった。
 6月24日、自身のTwitterで新宿のデリヘル「輝き」に「坂口杏里」名義で勤務開始を報告、さらに9月3日、自身のTwitterで神戸のデリヘル「クリスタル」で勤務していることを報告、10月9日には渋谷「デリヘル東京」に出勤していることを報告した。

 2019年8月28日午前11時半ごろ、27日午前8時半頃から午前9時15分頃までの間に東京・中野区にある元交際相手のホストの30代男性の自宅マンション内に侵入したとして逮捕された。
 被害者は2017年4月に逮捕された事件と同じ男性であった。
 9月11日、不起訴処分となった。

 2022年3月の報道によると、芸能界復帰を模索しながら飲食店に従事しているという。

 2022年6月8日、バー経営者(元女性)と結婚したことを発表。

 8月15日にInstagramを更新し、離婚が成立したことを発表したが、18日に夫側は離婚は成立していないと主張した。

 11月末、けいれんを起こして倒れ、救急搬送された先の病院での検査の結果、てんかんを発症していたことが判明する。

 関連項目  ー 坂口良子 ー

 坂口 良子
 (1955年〈昭和30年〉10月23日〜2013年〈平成25年〉3月27日)
 日本の女優。
 北海道余市郡余市町出身。

 ◤略歴・人物◢

 ❖ 学生時代まで ❖

 北海道余市郡余市町出身。
 余市町立東中学校を卒業し、小樽双葉女子学園高校(現在:双葉高等学校)に入学、堀越高等学校卒業。

 ❖ 歌手・女優として ❖

 1971年、15歳で出場したミス・セブンティーンコンテストで優勝し芸能界入りする。
 1972年、シングル「あこがれ」で歌手デビュー。
 フジテレビのドラマ「アイちゃんが行く!」で主演に抜擢され、女優デビューも果たした。

 以降次々とドラマに出演するようになり、ドラマ「サインはV」(1973年版)では主役・江川ゆかを演じ、主題歌も担当。
 他にも1975年の「前略おふくろ様」、1980年の「池中玄太80キロ」などの作品が当たり、特に1970年代はアイドル的扱いをされていた。
 石井ふく子からも重宝され、「石井組」の一員と見なされていた。

 1970年代後半には、市川崑作品を中心に映画出演も多くこなし、市川作品では計4本に出演した。
 映画評論家の田山力哉は「日本映画俳優全史. 女優編」(社会思想社)で「テレビの小さな画面よりも大きな銀幕の方が遥かに魅力的というのは何と素晴らしいことだろうか」と激賞した。
 助演が多いが、『帰って来た若大将』は女優一番手にあたる準主演である。

 晩年は娘の杏里との共演が多く、共に出演した2012年11月20日収録の「雨上がり食楽部」が生前最後のテレビ出演となった(12月22日放送)。

 ❖ 死去 ❖

 2013年3月12日発売の「週刊女性」が坂口の重病説を報道。
 これに対して坂口は自身のブログで、体調を少し崩しており静養中であると説明した。
 しかし3月27日午前3時40分、横行結腸癌および肺炎のため死去。
 57歳没(享年59)。

 「池中玄太80キロ」の恋人役で共演した西田敏行は、「玄太を愛したアッコをあんなにステキに演じてくれてありがとうございました」とコメントを発表した。

 ◤家族・親族◢

 1986年に不動産会社社長の田山恒彦と結婚し、1男1女をもうけた。
 しかしその後本人の知らない内に夫に保証人にされ、夫はビルなどを購入したが、バブル崩壊により坂口は40億円もの借金を背負うこととなった。
 1994年に離婚した後、自身の母親に子供たちの子育てを頼んでがむしゃらに働き、前夫の借金40億円を10年で完済。
 年4億円は、日本のトップ女優の年収よりも多い。
 娘は元タレントの坂口杏里

 1998年、知人の紹介でプロゴルファーの尾崎健夫と知り合い、長年の事実婚だった。
 その後長男の大学卒業を機に2012年8月12日に婚姻。
 披露宴は尾崎の故郷、徳島県海部郡海陽町のホテルで行われた。
 しかしその翌年に坂口が亡くなり、短い夫婦生活に終わった。

 〔ウィキペディアより引用〕


 関連項目
    ー 二世タレントの宿命 ー
      〘 ハロー効果 〙

 臨床心理士・経営心理コンサルタントの岡村美奈さんが、気になった著名人やトピックスをピックアップ。
 記者会見などでの表情や仕草から、その人物の深層心理を推察する。
 2世タレントを分析。

 両親ともに芸能人や有名人の場合、話題性も注目度も高く、デビューした時のインパクトは大きい。

 昨年9月、ラグジュアリー誌『Richesse』(ハースト婦人画報社)の表紙で、母の“ゴクミ”こと後藤久美子さんと共演し、モデルデビューを果たしたのはエレナ・アレジ後藤さん。
 父は元F1レーサーのジャン・アレジさんだ。
 その後、女性誌(ハースト婦人画報社)で母・久美子さんと2人での特別インタビューが掲載され、7月には『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)にも出演し、モデルだけでなくタレントとして活動を始めたようだ。

 パリコレという華やかな舞台でモデルデビューしたのは、俳優の本木雅弘さんを父に持つUTAさん。
 母はエッセイストで女優の内田也哉子さんだが、彼女もまた2世タレントだ。
 父は歌手の内田裕也さん、母は女優の樹木希林さんである。
 父親譲りの端正なイケメンに、190センチという長身が話題になった。

 そしてもう一人、活躍に期待が集まっているのがKoki,さん。
 父は言わずと知れた“キムタク”こと木村拓哉さん、母は歌手の工藤静香さんだ。
 彼女もまた、5月に発売されたファッション誌『エル・ジャポン』(ハースト婦人画報社)で表紙を飾り、モデルデビューを果たした。
 キムタクによく似た顔立ちに抜群のスタイル。
 デビュー早々から注目が集まり、公式インスタグラムのフォロワー数は110万を突破。
 先日はあのハイブランド、ブルガリのアンバサダーに就任し、インスタグラムにアップされた瑞々しい美しさが話題になった。

 こうした2世タレントが大舞台で衝撃的で鮮烈なデビューを飾ることができたのは、彼ら自身の素材の良さもあるだろうが、やはり親の知名度と話題性によるところが大きい。
 特に前述の3人は、後ろ盾が何もない新人とはスタートラインがまるで違う、2世タレントの中でも目立った存在だ。

 父親譲り、母親譲りの顔立ちや立ち居振る舞いを見ていると、つい両親の活躍ぶりを重ねてしまうだろう。
 著名人や有名人、活躍している芸能人の子供なら、その子の実力がわからなくても全てが良く見えてしまうのではないだろうか。
 こんな現象を「ハロー効果」という。
 親の好ましいイメージが、そのまま子供にもプラスの影響を与えるのである。
 よく言われる「親の七光り」は、このハロー効果のことである。

 ハロー効果があれば、なおのこと2世への期待は否応なく大きくなっていく。
 何しろ、最初は親のプラスイメージがあまりに大きすぎて、プラス面ばかりが強調されるのだから。
 まして、2世タレントの親のファンであれば、ひいき目で見てしまうだろう。
 彼らに対して抱いていた憧れや理想を、そのまま2世にも当てはめてしまうかもしれない。
 世間もメディアも彼らを見ながら、無意識のうちに自分の期待に適う理想の水準を2世に設定するため、応援しつつも彼らを見る目が厳しくなる。
 活躍している両親を持つ2世ほど、彼らへの世間の要求水準は最初から高くなりやすいのだ。

 そのため、例え華々しくデビューしても、生き残っていける2世タレントはそう多くない。

 デビューした時から親と比較されるという運命を背負っている2世タレントだが、比較されることをどう捉えるかも、生き残るためのポイントである。
 それは親という比較対象があるからこそ、彼らの価値や魅力が見えやすくなるからだ。
 比較するものが無ければ、多くの芸能人の中に埋もれてしまい、その魅力や価値は認識されにくいが、比較対象が有名、著名な親であればあるほど、親より優れているものが1つでもあれば、それが彼らにとって大きな魅力となり、芸能界を生き抜く武器となるのだ。

 親というハロー効果に負けないたった1つの魅力、それが2世タレントとしての必須条件だろう。

           [2018.08.18]

 〔情報元 : NEWS ポスト セブン〕

 関連項目  ー 親の七光り ー

 【意味】

 「親の七光り」は「おやのななひかり」と読みます。
 元々は「親の光は七光り(おやのひかりはななひかり)」という言葉ですが、現代では「親の七光り」と省略して使われています。
 親の名声や社会的地位のおかげで、子供が恩恵を受けるという意味です。

 親の光とは 「親の光」は「親の威光(いこう)」のことです。
 威光とは人をおそれさせ、それに従わせる力のことで、親から自然に放たれるオーラのようなものでしょう。

 七光りとは 「七」という字には「多くの」という意味があり、「量の多さ」を表していて「七つの光り」という意味ではありません。
 親からたくさんの恩恵を受けるということです。
 同じように日本には古来から「七」を含むことわざや慣用句が多くあります。

 つまり、

 地位、名声、威光などを持つ親の権力があまりにも大きいため子供にも影響が及ぶこと

 です。

 もちろん親の力とは関係なく、本人の努力によって成功を収めた人はたくさんいます。
 しかし、世間から注目を浴びる芸能界で、二世タレントは親の七光りだと勘違いされてしまうことも多いようです。

 このように親の七光りとは、少々批判的(皮肉)な意味で使われるフレーズですが、その一方では

 例えば、“親の光子に目鼻つける”

 親の七光りと同様の意味で使われる、このことわざがあります。
 「目鼻をつける」は物事の大体の筋を決めるという意味です。

 つまり、親がたどってきた道のりを、子供がこれからたどる道筋にしてしまおうというニュアンス的な表現です。

 親の辿って来た道筋を見て本人(子供)にとって、どう思うのかは本人次第。
 しかし、この事が果たして、本人は行く末「幸せ」という言葉を感じられるだろうか。
 と、私は思うのです。

 もう一つの諺に“親の光は七所照らす”があります。

 私の人生の中では、良い意味でも悪い意味でも“不可能”です。

事実と真実 第三話

2023-09-30 21:00:00 | 千思万考

 ■黄昏れてフィリピン
     ~借金から逃れた脱出老人~

 フィリピンで新たな人生をつかもうと日本を脱出した二人の男が主人公。
 彼らは、それぞれ日本で結婚をし、子供を育て仕事に励んでいた普通の日本人だが、人生の歯車が狂った。
 マナブさんは、マニラ郊外で底辺の仕事を続け、その日暮らしを送っている男。
 パートナーは、現地で知り合った31歳も若いフィリピン人妻。日本に残した一人息子の自殺を知り悲嘆にくれ、新たな家庭を築こうと必死にもがいていた。
 だが、そこに事件が起きる。
 サダオさんは偽装結婚でフィリピンに渡ったものの騙され、そのまま不法滞在を続けざるを得なくなった男。
 日給500円程度の貧困に喘ぎながら生活していた。
 そして、海を渡って10年、サダオさんに帰国のチャンスが巡ってきた…。
 かつては幸せを夢見た日本人たちがフィリピンに賭ける残りの人生。
 異国の地で再挑戦を図る二人に、待ち受ける結末とは…?

 フィリピンで綱渡り人生 借金500万円から逃れた「脱出老人」

 フィリピンパブで出会った女性を追い掛け、借金500万円超を残したまま現地へ渡った「脱出老人」待っていたのは不法滞在、困窮生活……。
 「海外で悠々自適なセカンドライフ」という美辞麗句とはかけ離れた一人の男の人生を追った。

 いつもは気の優しい、南国の日に焼けた長身の男が、その時ばかりは珍しく声を荒げていた。
 「俺は綱渡りのような人生なんだから。ダメなものはダメ。それでも撮影を続行し、その綱を切るようなことをしたら、俺に迷惑が掛かるでしょ? そうしたら俺の面倒を見てもらえますか?」 

 私たちが男の職場をビデオカメラで撮影させて欲しいと頼んだところ、男は「ボスの許可がないとダメだ」と言い張り、ついカッとなったのだ。
 その時に男の口から咄嗟(とっさ)に出た「綱渡り」という言葉が、フィリピンにおける彼の人生を象徴しているようだった。

 年の瀬も押し詰まった2018年12月25日のクリスマス。
 日本から海をまたいだ南国、フィリピンには、朝から抜けるような青空が広がっていた。
 私たちのクルーは、ドキュメンタリー番組の撮影のため、マニラから車で2時間ほど走った地方都市を訪れていた。
 取材協力者の日本人男性、吉岡学さん (仮名、56歳)に会うためで、老朽化が目立つ一軒家に到着すると、吉岡さんは真っ赤なTシャツに短パンといったいで立ちで、タバコをふかしていた。

 ❖「幸せは金じゃない」

 吉岡さんの職場は、地元フィリピンの食品運送会社だった。
 鶏肉をトラックで運送する仕事である。
 同僚は全てフィリピン人だから、仕事上のやりとりはタガログ語だ。

 吉岡さんの仕事は深夜から始まる。トラックの助手席に乗り、鶏肉加工場に着いたら大量の鶏肉をトラックの荷台へ運び込む。
 搬送先は大手スーパー。高速道路を数時間かけて走り、目的地へ到着する頃には明け方近くになっている。

 入口のゲート付近に段ボールを敷き、そこで数時間の仮眠を取る。
 鶏肉を全て卸したら、午前中に会社まで帰宅する。
 それで日当は最低賃金を少し上回る500ペソ(約1000円、1ペソ=約2円)。31歳年下のフィリピン人妻、ロナさん(25歳)も同じ職場で事務をこなし、6歳の息子1人を育てながら、つましく暮らしている。
 しかもビザを更新するお金がないから、不法滞在だ。
 2004年にフィリピンへ渡って以降、もうかれこれそんな困窮生活が15年近く続いている。
 だが、そこに悲愴感はない。それどころかフィリピン人に囲まれながらわきあいあいと、今を生き抜いているのだ。

 入口のゲート付近に段ボールを敷き、そこで数時間の仮眠を取る。
 鶏肉を全て卸したら、午前中に会社まで帰宅する。
 それで日当は最低賃金を少し上回る500ペソ(約1000円、1ペソ=約2円)。31歳年下のフィリピン人妻、ロナさん(25歳)も同じ職場で事務をこなし、6歳の息子1人を育てながら、つましく暮らしている。
 しかもビザを更新するお金がないから、不法滞在だ。
 2004年にフィリピンへ渡って以降、もうかれこれそんな困窮生活が15年近く続いている。
 だが、そこに悲愴感はない。それどころかフィリピン人に囲まれながらわきあいあいと、今を生き抜いているのだ。 フィリピンの在留邦人は現在、約1万7000人に上る。
 主に政府機関職員や民間企業の駐在員、現地採用人員、そして年金移住組に分かれる。
 特に年金移住組については「海外で悠々自適なセカンドライフ」などとメディアで紹介されることが多い。
 しかし、生活を始めてみると、必ずしもそれが実態に即しているわけではなく、美辞麗句だったことに気付かされる。
 日本の文化的価値観を持ち込み、交通渋滞や停電などフィリピンの不便さに不満を並べ立て、フィリピン人と衝突する移住者が少なくないからだ。
 ところが吉岡さんは、フィリピン人社会に溶け込み、在留邦人の中でも最も現地化していると言っても過言ではないだろう。

 そんな自身の人生を、吉岡さんはこう振り返っている。

 「日本の方が生活面では快適だけど、規則で縛られる社会は窮屈だし、幸せではなかったね。
 今の方がずっと幸せです。幸せは金じゃない。
 フィリピンは少ないお金でも大勢の家族で一緒に暮らしている。
 そういう家族のつながりがこの国のいいところ。
 でも日本は人と人のつながりが薄いですよね。
 だから孤独死のようなことが起きるんです」

 日本では2040年、1人暮らしの独居世帯が全体の3割を超えると推測されている。
 孤独死は増加の一途を辿(たど)っており、日本の超高齢化社会が抱える問題に鑑みると、吉岡さんのように海外へ脱出するという生き方は、もう1つの幸せの形を示しているかもしれない。

 ❖井戸で水くみ、芋の葉を食す

 私が吉岡さんと出会った7年前、彼は今の一軒家とは異なり、貧困層が集まるスラムで暮らしていた。
 その民家は妻、ロナさんの自宅で、コンクリートブロックを積み上げた壁に、トタン屋根を張り合わせただけの家屋だった。
 広さは約30平方メートル。そこでの生活は井戸水をくむことから始まった。自宅に水道が敷かれていないためだ。

 「ガッチャ、ガッチャ、ガッチャ……」

 井戸のポンプが上下する一定のリズム音が早朝の静けさの中に響き渡り、がたいの大きい吉岡さんは、慣れた手つきで井戸水をくみ上げる。
 バケツ2杯分を満たしたら自宅へ戻り、くみたての水を手にして顔をサッとひと洗い。

 続いて朝ご飯の支度。
 前日の残りの冷や飯を鍋から皿に盛り、鍋を洗う。
 そしてコメと井戸水を鍋に入れ、裏庭で七輪の上に載せてたばこを一服。
 鶏が勢いよく鳴く声がそろそろ辺りから聞こえる。
 タバコを吸い終わった吉岡さんは、外に生えている香草を抜き取り、小さく折り畳んで鍋の中へ入れた。

 この香草とお酢を入れて一緒に炊くと、質の悪いコメでもおいしいコメに化けるんです」

 そう得意げに説明する吉岡さんの朝はとにかく忙しい。

 コメが炊きあがるまでの間、近くの雑貨屋へ卵などの買い出し。
 自宅に戻ると、外に生い茂っている雑草の中で、吉岡さんは腰をかがめて両手をもそもそと動かしていた。
 尋ねてみると、吉岡さんの声が向こうから聞こえた。

 「芋の葉っぱを取っています」

 燦燦(さんさん)と降り注ぐ朝日を背に浴びながら、吉岡さんが芋の葉を摘(つ)んでいる姿は原始的で、遠くからだと人類に似た野生動物のように思われた。

 ❖妻は31歳年下

 ようやく寝室から台所に現れた、白いTシャツ姿のロナさんは、吉岡さんとの間にできた生後8カ月になる息子をあやしている。
 一緒に住むロナさんの父親も、さっきから裏庭にある鶏小屋で餌をやっていて、吉岡さんの作業には目もくれない。

 「あいつら何も手伝わないでしょ? むかつくんですよ」

 そう吉岡さんが言ったのも束(つか)の間、七輪の火が消えた。

 「火が消えたやないか。お前がちゃんと見てないからや!」

 吉岡さんはタガログ語でロナさんを叱る。
 ロナさんは子どもの面倒を見なくてはいけないからと私に説明するが、間髪入れず吉岡さんの突っ込みが入る。

 「子どもがいなかった時も何もやってないじゃないか!」

 この2人、別に不仲ではない。

 ロナさんとは数年前に知人の紹介で知り合った。
 タガログ語ができる日本人ということで、すぐに打ち解けたようだ。
 やがて吉岡さんのアパートへ遊びに来るようになって同棲生活を始め、続いて吉岡さんがロナさんの自宅へ転がり込んだ。

 ロナさんは小柄でやせ形、目尻が下がった顔はまだあどけなさが残っており、31歳離れた吉岡さんと並ぶとまるで父と娘のようである。

 吉岡さんはこの自宅から徒歩圏内の縫製工場で、幼児服のアイロン掛けをする作業員として働き、日当200ペソ(約400円)を稼いで家族を養っていた。

 できあがったこの日の朝食は、庭で摘んだ芋の葉っぱのニンニク炒めと卵焼き、それにガーリックライス。

 「素っ気ない味ですけど。どうぞ」

 と私に勧める吉岡さんは、ご飯にむしゃぶりつくように食べた。

 「僕の生活はサバイバルそのものでしょ?」

 まさにその言葉通りの暮らしだった。

 ❖仕送り続けて借金まみれ

 フィリピンへ渡る「脱出老人」たちの中には、フィリピンパブで出会った女性を追い掛ける者がとにかく多い。
 吉岡さんもご多分に漏れず、その1人だった。

 吉岡さんは、四国のとある山間の町で生まれ育った。
 地元の高校を卒業してから大手警備会社で働き続けていたある日、同僚からフィリピンパブに誘われたのが全ての始まりだった。

 「指名した女の子は正直、それほど好みではなかった。でも楽しかったんですよ。
 その子が片言の日本語で話すのが面白くて。それで次の週の日曜日にデートしようという話になりましてね」

 その時に出会った18歳のフィリピン人女性と結婚し、子ども2人が生まれた。大手警備会社を辞め、彼女の紹介でフィリピンパブの店長に。
 県営住宅で暮らす傍ら、母国に住む彼女の家族に仕送りを始めた。
 生活費として毎月数万円を送金したが、これに加えて彼女から告げられた緊急事態に、何度も対応する羽目になった。

 「母親が乳がんに冒され、医療費が必要になったの」

 「妹が失恋し、洗剤を飲んで死にそうになっているの」

 断れない性格の吉岡さんは、そう言われるたびに銀行や消費者金融から金を借りまくり、送金を続けた。
 借金した銀行や消費者金融は8社。
 それに闇金業者を合わせると総額は500万円を超えた。
 少し考えればおかしいと気付くものだが、吉岡さんは困った表情で当時を回想する。

 「いきなりお金を送ってくれと、目の前で泣いて頼まれるんですよ」

 そうして膨らんだ借金を返済する目処(めど)が立たず、逃げるようにしてフィリピンへ渡った。
 以来、帰国していない。

 「警備会社を辞め、紹介されたフィリピンパブで店長として働き始めたんですが、給料が半分ぐらいに下がって、利子の返済で手いっぱいになり、完済の見込みがなくなった。
 これが日本に帰りたくない一番の理由です」

 フィリピン人妻とは結局、離ればなれになった。
 日本の親族とも長年音信不通になっているため、困った時の送金も頼めない。
 吉岡さんはフィリピンで生きていくしかなくなった。

 その覚悟の現れが、タガログ語の勉強にぶつけられた。
 知人の日本人男性からもらったタガログ語の教科書を見ながら、ノートに書き写し、寝る前にはベッドの上で単語を覚えまくった。

 「ここで1人で生きるために覚えることにしたんです」

 吉岡さんはそれ以来、合鴨の卵を拾い集める仕事、土木、幼児服のアイロン掛けなど仕事を転々とし、現在の妻、ロナさんと出会った。
 不法滞在に置かれているため、日系企業への就職は望めない。
 ゆえにローカルの職場を渡り歩くしかなかった。

 日本人男性とフィリピン人女性の「年の差婚」は珍しくないが、それは日本人に経済力があっての話だ。
 ところが吉岡さんは、フィリピンの最低賃金で働き、地べたに這いつくばるような生活を送っていた。

 そんな吉岡さんと一緒になった理由について、ロナさんはこう口にした。

 「見た目は怖かったけど言葉ができるので、直(じき)に優しい人だというのが分かったの。
 よく冗談も言ってくれた。年齢差は特に気にならなかったわ。
 彼はよく世話をやいてくれる上、自分の話にきちんと耳を傾けてくれるの。
 逆に彼も自分の話をするし、彼といると楽しいわ」

 フィリピンの在留邦人社会で長らく取材を続けてきた私にとって、「中高年の日本人男性と若いフィリピン人女性の関係=お金」という従来の方程式を根底から覆されるような、「事件」と言ってもいいほどの2人の関係だった。

 そうして息子が生まれ、病気にかかって医療費の工面に手間取ったこともあったが、何とか一家3人で生き延びてきた。
 ただ、生活に浮き沈みが激しいため、突如として厳しい現実が突き付けられることも少なくない。
 ロナさんが病気になった時も、高額な医療費の支払いができず、友人、知人の間を走り回って金策した。

 仕事も幼児服のアイロン掛けから、工場で空き瓶を洗浄する仕事、農業などと次から次へと変わり、ドキュメンタリー番組の取材時には鶏の運送業に。
 最後のロケは昨年末だったが、それから半年近くが経過した最近になってまた、吉岡さんから次のような連絡が入った。

 「会社のボスと喧嘩(けんか)をしてしまい、一緒に働いていたロナとともに仕事を辞めました。
 現在、2人で就活中です。
 私にはタガログ語の翻訳の仕事があるようなので、待機しています。
 まあフィリピンのことなので、あまりあてにはしていませんが」

 吉岡さんのフィリピン綱渡り人生は、これからも続く。

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 高齢化社会の将来を占う渾身ルポルタージュ。
  一年中温暖、物価は日本の3~5分の1、やさしく明るい国民性、原発ゼロ、年の差婚当たり前。
 日本で寂しく貧しく苦しい老後を過ごすなら、いっそのことフィリピンで幸せな老後を送りたいと、日本脱出の道を選んだ高齢者たちは少なくない。
 はたして、老後の楽園はフィリピンにあるのだろうか。
 果たして、現実は……。 恋人候補200人のナンパおじさん、19歳の妻と1歳の息子と、スラムで芋の葉を食べて暮らす元大手企業サラリーマン、東日本大震災を機に、東北から原発ゼロのフィリピンに移住した夫婦。
 ゴミ屋敷暮らしだった母親をセブ島に住まわせる娘、24歳年下妻とゴルフ三昧の元警察官。90歳の認知症の母親をフィリピン人メイドと介護する夫婦、「美しい島」で孤独死を選んだ元高校英語女性教師……。
 さまざまな「脱出老人」のジェットコースター人生を、開高健ノンフィクション賞受賞作家が、フィリピン&日本で3年間にわたり徹底取材した衝撃のノンフィクション。
 「老後の幸せ」「人間の幸福感」とは何かを浮き彫りにする、

■事実と真実 第二話

2023-09-14 21:00:00 | 千思万考

 ■孤独死の向こう側
      ~27歳の遺品整理人~

 誰にもみとられることなく自宅で亡くなり、死後、長らく発見されない人々… いわゆる “孤独死” が近年増加の一途を辿っている。
 そうした中、「孤独死は誰にでも起こりうる」と訴え、その独特な活動で注目を集める27歳の女性がいる。
 遺品整理人の小島美羽さんだ。
 彼女は「孤独死の現場」を“ミニチュア”で再現し、なぜ孤独死が起こるのか、その本質を伝え続けてきた。
 そしてきょうも…多発する孤独死の現場に小島さんの姿があった。
 遺品整理人は、孤独死などで亡くなった人の部屋を清掃し、残された遺品の中から、思い出の品を遺族に引き渡すのが勤め。小島さんが遺品整理人を志したきっかけは、17歳で父と死別したこと。
 「何もしてあげられなかった」という後悔の念から、自分と同じ境遇にある遺族を救いたいと考えた。
 そして2014年、東京・板橋にある遺品整理会社に入社、社長の増田裕次さんと二人三脚で日々、孤独死の現場と向き合っている。
 増田さんは会社を立ち上げ20年、かつては「遺品整理人」と言っても誰も理解してもらえず、「縁起が悪いから近寄るな」と言われたこともあった。
 孤独死に対する世間の認識は、なかなか変わらないまま。
 増田さんと小島さん、二人には超えるべき課題が山積していた…
 「孤独死をどう伝えていくか」をめぐり、ぶつかる二人…27歳の遺品整理人が見つめる「孤独死の現場」、その向こう側にある物語。

 故人の遺品整理や、孤独死のあった現場などを片付ける特殊清掃に従事している小島美羽さん。
 20歳の頃に遺品整理人の仕事を知り、「やってみたい」と心から思ったという。

 凄惨な現場を目にすることは、彼女にとっての日常。
 ゴミ屋敷の片付けで1000匹近いゴキブリに囲まれたこともあるそうだが、「辞めようと思ったことはない」と小島さんは微笑む。
 なぜ小島さんは、現在の仕事を自ら選んだのか――。
 遺品整理人の知られざるやりがいと、小島さんの思いに迫った。

 ▼遺品整理人の仕事内容

 故人の親族や知人などから依頼を受け、2~5名のチームで遺品の整理・仕分け、部屋の片付け、搬出、明け渡し清掃までが主な作業。
 時には、遺族に受け渡す遺品以外の不要なものをリサイクル・寄付、供養する手配も行う。
 孤独死の特殊清掃では、遺体の残存体液の清掃・消毒作業などを行い、部屋を明け渡せるようクリーニング。
 毎日1件程度の依頼に対応するが、室内の状態によって作業時間は変化する。
 ゴミ屋敷の遺品整理と清掃を行うケースもあり、虫が発生することが予想される現場では防護服を着用するそう。
 朝9時半にスタートし、食事を取らずに作業を進め、14時~15時頃に終了するケースが多い。

 ▼遺品整理人の収入

 月給制で、実働8時間、休日は週に1~2日程度。

 収入については、郵便局に勤めてた頃より良い。

 小島さんが遺品整理の仕事について初めて知ったのは、高校卒業後、郵便局で働き始めてからのことだった。

 「当時、同僚から遺品整理の仕事について教えてもらい、興味を持って調べていたら、悪徳業者がごろごろいることを知りました。
 家族を亡くして悲しんでいる遺族に対して高額請求を突き付けたり、物を投げつけたり、怒鳴りつけたりするケースもあるそうで……。
 遺族の悲しみを踏みにじるような悪徳業者は『許せない』と感じました」

 「許せない」という強い思いが込み上げてきた背景には、高校生の頃に父親を亡くした時の経験がある。

 「当時は両親が別居したばかりだったのですが、自宅の廊下で倒れている父を母が偶然発見したんですよ。
 まだ息があって、すぐに救急車を呼びましたが、父は病院で息を引き取りました。
 危うく、孤独死になるところでした」 遺族の気持ちが分かる自分なら、何かできるんじゃないか――。
 「悪徳業者なんて、ぶっ潰してやりたい!」そんな正義感に駆られ、遺品整理の世界に飛び込んだ。

 「『この業界を変えてやる』と意気込んでいましたが、実際にはそう簡単に務まる仕事じゃないことも分かっていました。
 安易に挑戦して、『やっぱりイメージと違ったから』と辞めることになれば、それこそ遺族や故人に対して失礼になってしまうのではないか。
 そういう懸念もありました」

 そこで小島さんは郵便局を辞め、自分を試す期間を2年間設けた。
 「興味がある他の仕事に就き、遺品整理の仕事に就いても途中で目移りしないようにあらゆる気になる仕事をやりました」と小島さんは話す。
 ショッキングな現場を見ても動じない心を養うために、遺体の画像を検索して見るようにしたという。
 「もともと残酷な描写は苦手なタイプなんですよ……。なので、この鍛錬期間は正直きつかったですね。
 また、遺品整理の現場は『臭いがすごい』という話も聞いていたので、臭いのイメージトレーニングもしていました」

 約2年、自己鍛錬の期間を過ごした後、小島さんは「遺品整理クリーンサービス」に入社した。
 同社の求人広告には、遺族の気持ちに寄り添うことを大事にする経営の姿勢や、死と向き合う仕事の過酷さ、そこで求められる誠実さが丁寧に書かれており、それが入社の決め手となった。
 「他の遺品整理会社の求人もたくさん見ましたが、どこも『誰にでもできる簡単なお仕事です』って書いてあったんですよ。
 でも『それって本当?』って。
 今の会社は、遺品整理に対する私の考え方と、ぴったり合っていたので『ここしかない』と思いました」

 当時、小島さんは22歳。
 転職を家族に告げると、母親からの猛反対にあった。

 「『どうしてわざわざそんな大変な仕事に就くの?』と母には言われました。
 母なりに心配してくれていたんですが、私はどうしてもやりたかった。

 でも、身内に認めてもらえないままでは全力を出せないので、この仕事の大切さや必要性を話し、ひたすら説得したんです。
 その結果、『そんなにやりたいなら頑張りなさい』と諦めてくれました(笑)」

 また、当時付き合っていた彼氏には、「そんな仕事をしたら呪われるよ」と諭された。
 「さすがに頭にきた」と小島さんは本音をこぼす。
 「『もし君が孤独死して、その部屋を片付けてくれる人がいたら、その人を呪うの? そんなわけないでしょ』と詰め寄ったら、彼も納得してくれました(笑)。
 人が亡くなった現場に対し、心霊的なものを想像して恐怖心を抱く人もいますが、孤独死しても同じ人間。
 呪うだなんて、本当に失礼な話だと思いますね」

 遺品整理人として働き始めた小島さんは、社長から指導を受けながら、現場経験を重ねていった。
 「初めての特殊清掃の現場で、『あれ? 自分が想像していたよりも、全然臭くない!?』と拍子抜けしました。
 人によっては吐いてしまうほど強烈な臭いの時もありましたが、想像の方が勝っていたので、まさに2年間の自己鍛錬のおかげですね(笑)」

 遺体があった家には、皮膚など人体の一部が残っていることもある。
 初めてそれを見た時も、鍛錬期間のおかげか「あ、これがそうか」と自然と受け止められたという。
 「ただ、クロゴキブリだけは今も慣れないです。
 ゴミ屋敷の清掃に入って1000匹近いゴキブリに囲まれた時は、精神崩壊するかと思いました……!」
 仕事のスキルは順調に習得。
 想像以上に“あっさり”と、職場に馴染むこともできた。
 しかし、小島さんの正義感を揺さぶる事件が次々に起こっていく。
 人の死があるところには、人間の“ずるい心”が渦巻いていたのだ。

 「遺品整理の見積もりをする際、依頼人の方に故人との関係や死因などをヒアリングするのですが、『正直に言うと作業をしてもらえないのではないか?』『高額請求をされてしまうのではないか?』という不安から嘘をつく方もいます。
 例えば、亡くなった方が感染症などを患っていた場合は、清掃に入る側も通常とは違う装備や準備が必要になります。 
 しかし、以前も故人の死因が結核だったことを伏せていらした方がいて、後から分かった時は不安が込み上げてくると同時に、悲しい気持ちになりました……」

 また、不動産関連で人間のずるさを目にすることも多いという。
 清掃をすれば十分にきれいになる部屋を「フルリフォームが必要だ」として遺族に高額請求をする大家や不動産会社がある。
 遺族には「迷惑を掛けた」という思いがあるため、法外な金額を請求されてもそのまま支払ってしまうケースも多いそうだ。
 「以前、22歳くらいの男性がゴミ屋敷で亡くなり、その部屋を片付ける案件がありました。
 依頼人は彼のお父さん。悲しみのあまり部屋に入ることもできず、マンションの入り口で泣きながら待機されていました。

 私たちが大家さんと話をしていると、けばけばしい服を着た男女がズカズカと近付いてきて、『部屋は全部リフォームしてもらう』と詰め寄ってきました。
 彼らは不動産会社の人間だったようで、遺族を気遣う様子など一切ありませんでした」 腐敗した業界の「当たり前」を変えたい、
 そう思っていたはずなのに、手も足も出せなかった。帰社する車の中では、「涙が止まらなかった」と小島さんはうつむく。
 しかし、次の日に依頼人から「昨日は本当に助かった」という一本の電話が入った。
 感謝の言葉をもらったのに、込み上げてくるのは悔しさだけ。
 「自分には何もできなかったのに……。もっと何かできたはずなのに……」そんな気持ちに後押しされて、法律の勉強にも取り組んだ。

 小島さんが遺品整理の仕事をする上で、何より大事にしてきたのが、遺族の気持ちに寄り添うことだ。
 故人がどんな人だったのか、丁寧にヒアリングすることを心掛けている。
 「依頼人の方とは、故人の方について詳しくお話を伺うことで、信頼関係を築いていきます。
 遺品整理の最中には、『山登りがお好きな方だったんですね』『海外によく行かれていたんですね』など、お写真を見ながら故人についてお話しすることも。
 依頼人の方が『そうそう、この時はね』と楽しそうに思い出を語る姿を見ると、愛されていたことや、仲が良かったことが伝わってきます」 小島さんは、「この仕事のやりがいは、依頼人の方が“ホッとしてくれる瞬間”にある」と続ける。

 「整理が終わってきれいに片付いた部屋でお線香をあげると、それまで暗かった依頼人の方の顔が、ほっとしたような、穏やかな顔に変わります。
 『これでやっと前に進める』そうおっしゃっているようでお役に立てたことを実感できますし、残された人たちが笑顔になれたら故人も安心して旅立てると思うんですよね」 小島さんの元には、依頼人からお礼の手紙やメッセージが届くことも多い。
 「何よりの瞬間です」と小島さんはうれしそうに微笑む。

 小島さんは入社3年目の頃に、孤独死の現場のミニチュア制作を開始。作品をまとめた自著も出版した。

 「人がつながりの中で生きていくことの大切さや、暮らしの中に潜む生命を脅かすリスクなどを発信することを目的に、このミニチュア制作を始めました。 現在は、『二世帯住宅の孤独死』をテーマにした作品を製作中です。
 『孤独死は他人事ではない』という事実を、少しでも広められればと思っています」 小島さんに今後の目標について聞くと、「初心を忘れないこと」という謙虚な答えが返ってきた。
 「入社した時から現在まで、自分の仕事に対する思いは全く変わりません。
 遺族を思いやる気持ちを大事にし、絶対悲しませないスタンスで遺品整理の仕事を続けていきたいと思います」
 また、遺品整理は肉体的にも精神的にもハードな仕事だが、「辞めたいと思ったことは一度もない。これからもずっと続けたい」と小島さんは言い切る。

 「やっぱり、自分で『これだ』と決めた仕事ですからね。
 心から『やりたい』と思ったことだからこそ、人からどう思われようと関係ない。自分自身がやりがいを実感できる仕事なら、それが一番です」

 〔情報元 : 20's Type〕

小島美羽(こじま みゆ)

 ▼ゴミ屋敷に必ずある
     尿の入ったペットボトル

 ――お風呂で孤独死された現場の様子が凄惨でした。
 熱い湯船、追いだき・保温機能で腐敗が早く、遺体が溶けてしまうって、目を覆う光景ですよね。
 壁1枚隔てた部屋で実際に起こりうると強調したくて、あそこまで作り込んだ?

 小島 : そういう意図もあります。
 でも、まずはヒートショックへの危機感を高めてもらいたかった。
 冬場のヒートショックで、お風呂で溺死する方がすごく多い。
 ヒートショックは予防さえしていれば、亡くならずに済んだかもしれない。
 脱衣所にヒーターを置くとか、前もって浴室をシャワーで温めておくとか、湯温は40度以上にしないとか、急激な温度差を避けるだけで、リスクはだいぶ下がります。

 ――多くの孤独死現場の中から作られた模型は9点。
 それぞれテーマを込めた選択だったんですか?

 小島 : 例えばゴミ屋敷。
 多くの方がひとごとだと思っている。
 でもいじめ、過労、解雇、失恋、離婚、うつ、きっかけはいろいろです。
 今は大丈夫でも、何かの精神的ダメージでいつゴミ屋敷になるかわからない。
 実際、私が依頼された中では弁護士さん、看護師さん、接客業の方が多い。
 外でエネルギー使い果たして、家では「何もしたくない」とすべて後回しになったのかもしれない。
 何かが起こったとき、それまでの自分でいられるか保証はないわけです。
 ゴミ屋敷に必ずあるのが尿の入ったペットボトル。
 トイレが使える状況でもです。
 面倒くさいというか、もう動きたくないと思っていたのでしょうね。

 ▼換金できる物だけ持ち去った”友人”

 ――驚いたのは、片付け中の現場の8割に自称“友人”が来ること。

 小島 : はい、結構な確率で。
 都営団地で清掃してると「何号室?」って普通に聞かれる。
 個人情報なのでごまかしても、すぐ情報が回って見にくるんです。
 使えそうな物があったら勝手に持っていったり、持ち去ろうとしているのを止めたり。
 「何かお宝あった?」って聞いてくる人もいます。
 あさる気満々で、私たちの到着前から待機していることもある。
 人間って亡くなったら物やお金だけになってしまうのかな、と思ったりしました。
 フィギュアオタクの友人が勝手に上がり込んできたこともありました。
 それはもう早い。
 止める間もなく、「スゲー!」とか言って換金できる物だけ持ち去った。
 仲間の死を惜しむというふうじゃない。

 ――遺族の胸の内も複雑ですね。

 小島 : ただ、故人とは縁を切っていた遺族の方が、「何で私たちが整理しないといけないの?」といら立って不満をぶつけてくることもある。
 私自身がうちの父で苦労したのでわからなくないんです。
 「何があったんですか」と聞くと、借金して家族を捨てて逃げたとか。
 同情というか共感しますね。
 悪い思い出も話して発散することでモヤモヤが薄まればいいし、少しでも故人を送り出す気持ちになってもらえればと思って話を聞きます。

 ――普段の顔とは違う、裏の素顔が出てしまう場なのかもしれない。

 小島 : 生前はうまくやってても、亡くなった途端に豹変する人もいます。
 「あいつ、1銭も残さないで」と。
 複雑ですよね、親子も結局はお金なのかって。
 この仕事でつらいのは汚物でも激臭でも虫でもなく、人の裏の顔が垣間見える瞬間です。
 最初は情熱1本で「やってやるぞ!」と意気込んでいたけど、世の中の厳しさやドライさ、物事が冷静に見えるようになりました。

 ――小島さんご自身は、孤独死を否定してはいない?

 小島 : 孤独死自体は実際には誰にでも起こりうることで、悪いことじゃない。
 そもそも孤独死をなくすのは不可能。
 次の瞬間亡くなるなんて、誰も予測はできないから。
 問題は発見されるまでの時間だと思います。
 長い間発見されないと、腐敗が進んでご遺族がお葬式で故人の顔を見られない。
 孤独死の場合、とくに残された側は現実を直視できず、踏ん切りがつかないまま何年も引きずる方が多い。
 認めたくないというか。
 そう考えると、できる限り早くご遺体がきれいなうちに発見されるに越したことはない。
 万が一に備え、最近顔見ないねと、お仲間が様子を見に来てくれるよう外での付き合いを増やすとか、お弁当の宅配を契約する、在宅医療を頼むなど、早く発見してもらえる方法を考えておくといいと思います。

 ――遺品整理も今年で5年ですね。

 小島 : 今も勉強、勉強です。
 工事現場のように作業工程が決まってるわけじゃない。
 1件1件違うから、こういう場合はこうしたほうがいいとか、その都度対応を変えて、新たな発見をしていかないと。
 臭いや虫で近所に迷惑がかからないよう、部屋は閉め切ってエアコンを洗浄し、キッチンを磨き上げ、徹底的にきれいにする。
 その後、必ず玄関先に線香と仏花を供えます。
 きれいに部屋を明け渡すため、たった5分だけお供えして撤去する。
 そのために20分走って花を買いに行ったり。
 故人に安心してあの世に旅立ってほしいと思うので。

 〔情報元 : 東洋経済 Online〕

■事実と真実 プロローグ

2023-09-07 21:00:00 | 千思万考

 事実はひとつ、真実は複数?

 『真実はいつもひとつ...』

 とある名探偵のセリフです。

 言葉があまりにも有名過ぎるのと、この言葉が人の心に突き刺さる語です。

 しかし、実は『真実』なんて多数、存在していて、一つしかないのは「事実」の方です。

 「事実」と『真実』の違いを明確にしておく必要があります。

 「事実」も『真実』もあまりにも似た言葉ですが、言葉の使い方に若干のズレがあります。

 例えば、「周知の事実」という言葉がありますが、『周知の真実』という言葉は聞いたことがありません。
 「事実無根」はよく聞きますが、『真実無根』とは言いません。

 また反対に、『真実味がある』とは聞きますが、「事実味がある」とは聞いたことがありません。
 『真実を告白』とはよく聞きますが、「事実を告白」とは聞き慣れません。

 「事実」と『真実』、似た意味合いなのですが、そのニュアンスは異なります。「事実」は、実際に起こった事柄を指し、『真実』にはその事柄に対する人の解釈が入っています。
 「事実」が客観的であるのに対して、『真実』は主観的なのです。

 そう考えると『真実』は、『事実に関わった人の数だけ存在していると言えます。

 『真実』には主観が入るので、そこにはストーリーが生まれます。
 要するに言葉にインパクトがあるわけです。

 例えば、「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」のは、「事実」なのか『真実』なのか?
 所が、以前より先住民がそこに住んでいたわけです。
 大陸を発見したのはコロンブス側の『真実』であって、先住民側の『真実』は、船に乗ってお客さんが来られた程度だと思います。
 したがって、「事実」としては「西洋人ではじめてアメリカ大陸にたどり着いた」だと思っています。
 「アメリカ大陸にたどり着いた」と語るよりも「アメリカ大陸を発見した!」と語ったほうが人々の印象に刻まれ易いわけです。
 しかし、注意しないといけないのは、『真実』には人の意見が混ざっています。
 巧みな印象操作をしようとしている可能性があるのです。
 良い報告は誇張されがちで、悪い報告は「事実」が巧みに隠れているものです。
 『真実』なのか「事実」なのかをしっかりと見極める目を養っておかないと、相手の土俵で勝負する事になりかねません。

 ▼『事実』と『真実』の違いについて

 意味としては、

 事実の方は、本当にあった事柄、現実に存在する事柄。
 真実の方は、嘘偽りのないこと、本当のことを意味します。

 意味としても似ていますが、事実はひとつで真実は複数あると言われるように、事実と真実は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。

 例えば、

 男性が女性の足を触っている写真があったとする。


 そこから言える事実は、男性が女性の足を触っていることだけで、これが恋人同士の行為なのか、セクハラ行為なのかといった事まではわからない。

 性別も見る側の勝手な想像であるため、厳密に言えば「男性らしき人が女性らしき人の足を触っている」というのが事実となる。

 しかし、「歴史的事実」と言われることでも、本当にあったこととは限らないように、極端に言えば、多くの人が事実と信じているものは事実となるため、「男性が女性の……」でも事実といえる。
 つまり、事実は「実際にあった」と多くの人が認められる事柄、客観的に認められる事柄のことである。

 足を触っているのが男性として、それは恋人に対する行為なのか、セクハラ行為なのかといった真実は、男性の心の中にあるものである。

 男性の真実としては恋人とのスキンシップであったとしても、女性からすれば付き合った覚えもなく、セクハラをされたと思っていれば、女性の真実としてはセクハラ行為となる。

 つまり、真実は人それぞれが考える本当のこと(事実)で、客観的なものではなく、主観的なものである。

 〔情報元 : 違いがわかる辞典〕

 さて、本題に入りたいと思います。

 このブログでは、”Number web“の記事や、フジテレビ系番組“ザ・ノンフィクション”の<見どころ>等を抜粋、引用しつつ、紹介させて頂きたいと思います。

 ■万引きランナーと呼ばれて

 マラソンランナー・原裕美子、37歳。
 2005年名古屋国際女子マラソン優勝、2007年大阪国際女子マラソン優勝など、日本の女子マラソン界に彗星のように現れた期待の星だった。
 しかし382円相当のお菓子の万引きで逮捕、起訴され、その栄光は地に落ちた。
 原の故郷は栃木県足利市。
 彼女は6人家族の次女。
 しかし、度重なる原の万引きで、兄弟とは疎遠になり、両親は娘の犯した犯罪で肩身の狭い生活を余儀なくされていた。
 原にとって大切な男性が現れる。
 その男性は覚せい剤で3度の逮捕暦があり、現在は保釈中の身。
 彼もまた結婚に失敗した過去があり、同じような心の傷を持つふたりの距離は縮まっていく。
 しかし2人の時間は、あとわずかしか残されていなかった…。
 万引きによってすべてを失ったマラソンランナー、原裕美子。
 彼女が人生の再起をかけて走り続ける日々を送る。

原 裕美子

 宇都宮文星女子高等学校卒業後、2000年に京セラへ入社。
 2005年3月13日の名古屋国際女子マラソンが初マラソンだった。
 レース後半に入ると優勝候補だった渋井陽子が脱落、2位の大島めぐみや3位の北島良子らと競り合う。
 その後38kmを過ぎてから原が満を持してスパート、いきなりマラソン初優勝を果たした。この成績で世界陸上ヘルシンキ大会女子マラソンの代表に選ばれた。 同年8月14日に行われたその本番では、レース序盤から優勝したポーラ・ラドクリフ(世界記録保持者)らのハイペースの先頭集団に積極果敢についていったが、16km過ぎ辺りで徐々に離されていった。
 その後も終始表情は苦しげだったが粘り強さを発揮し、メダルには届かなかったものの日本女子トップの6位入賞となった。
 なおゴールタイムは、初マラソン時のわずか1秒遅れだった。
 女子マラソン団体で日本代表は銀メダルを獲得した(他選手は弘山晴美も8位入賞、大島めぐみ10位、小﨑まり15位、北島良子17位)。

 その後、足に3カ所の疲労骨折のケガなどに悩まされ、1年以上大きな大会から遠ざかっていたが、徐々に故障が完治となる。
 約1年半ぶりのマラソンとなった2007年1月28日の大阪国際女子マラソンでは、序盤からハイペースで飛ばした渋井陽子にぴったりとマーク。
 その後、中盤の29km付近で渋井を突き放してからは原の独走となり、自身マラソン2度目の優勝を果たし、自己最高となる2時間23分48秒を記録した。
 この成績により、同年9月開催の世界陸上大阪大会女子マラソン代表に、2大会連続で内定選出となった。
 同年9月2日に行われたその本番は、代表を決めたレースと全く同じコースで行われたが、前回ヘルシンキ大会と打って変わってレース序盤から超スローペースとなる。
 原は先頭集団のほぼ一番前の方で引っ張っていたが、中間点を過ぎた辺りで腹痛と、その後左太ももを痛めるアクシデントにより脱落。結局18位に終わり、2大会連続の世界陸上女子マラソン入賞もならなかった。
 なお女子マラソン団体で日本代表は銅メダルを獲得した(他選手は土佐礼子が銅メダルを獲得し、翌年の2008年北京オリンピック代表に即内定。
 嶋原清子は6位入賞、小﨑まり14位、橋本康子23位)。

 北京五輪女子マラソンの国内選考レースである、2008年1月27日の大阪国際女子マラソンへ、ディフェンディングチャンピオンとして出場予定だった。
 しかしレース2日前に記者会見が行われた1月25日、急性胃腸炎による体調不良で会見を急遽欠席、レース出場そのものも取り止める。
 その後も練習が思うように積めなかったものの、最終選考レースである同年3月9日の名古屋国際女子マラソンへのスライド出場を決める。
 その名古屋の本番レースでは、25kmを過ぎて原自ら先頭に立って仕掛ける場面もあったが、31km地点を過ぎた後で先頭集団から遅れ始めてしまう。
 32km過ぎからは優勝した中村友梨香のロングスパートにも対応出来ず4位に留まり、念願の北京五輪代表入りはならなかった。
 世界陸上ベルリン大会女子マラソンの国内選考レースである、2009年1月25日の大阪国際女子マラソンに出走したが、30km付近で先頭集団から抜け出した渋井陽子(優勝)と赤羽有紀子(2位)らについていけず、3位でゴール。
 原の3大会連続の世界陸上女子マラソン代表選出はならなかった。

 同年3月31日、京セラを大森国男らと共に退社、その後は地元栃木に帰郷。  
 2012年ロンドンオリンピック代表選出を目指し、一人で練習を続けていた。
 2010年1月26日、ユニバーサルエンターテインメントに移籍。
 同年8月29日、1年8か月ぶりのフルマラソンとなる北海道マラソンに出場。
 2位の宮内宏子らと競り合う中32km手前で抜け出してからは独走となり優勝、復活を遂げた。
 2連覇を目指した翌2011年8月28日の北海道マラソンは、足の痛みにより19km地点で途中棄権に終わった。

 2013年3月、故障の悪化等を理由により退社。

 マラソン元日本代表の原裕美子は『私が欲しかったもの』(双葉社)を刊行し、摂食障害や窃盗症に苦しんだ過去と現在を隠すことなく打ち明けた。
 彼女が自身の経験から感じる、陸上界、スポーツ界への憂慮とは。

 高校時代まで陸上競技に懸命に取り組んでいた原は2000年、会社に入社する。
 待っていたのは、厳しい練習と、徹底した体重管理であった。

 入社時、163センチ、49キロであった原に、大森国男監督はベスト体重として44キロを設定。
 1日に4回以上体重計に乗り、0.1キロでも増えていれば指導にあたっていた監督らから「怒鳴られた」。
 なかなか体重が落ちなかった原は、飲み物や食事の量、もちろん食事のメニューも徹底的に管理された。
 「食べたいものを我慢していので、食べ物を見れば『食べたい食べたい』。
 人が食べているのもうらやましい、でも自分は体重を減らさないといけない、という状態でした」

 我慢が続くほど、渇望は強くなる。
 我慢できず、練習前の間食用にと買いおきしてあった甘い菓子類をこっそり食べあさることもあった。
 「一口くらいなら……と手をつけたはずが、気づいたときには全部食べてしまっていました。
 その後、とてつもない後悔と恐怖に襲われ、誰もいない廊下で声を殺して涙を流して……。
 そして、夜中にこっそり、電気もつけないで寮のトレーニング室で着込めるだけ着込んでエアロバイクを60分、90分と漕ぐ。
 そんな毎日でした」 京セラ入社からおよそ1年経ったある日、生活を一変させる出来事が起こる。

 入浴中、急に気分が悪くなり、浴室で胃の中のものを戻したのだ。
 体重計に乗ると体重が減っていた。
  ――「食べたものを簡単に出せるなら、もう夜中にバイクを漕ぐことも、サウナに入ることもしなくて済むかもしれない!」(『私が欲しかったもの』より)。
 食べたものを吐くことが、苦しまずに痩せられる方法としてインプットされた瞬間であった。

 そしてそれは、好きなものを好きなだけ食べられる方法の発見でもあった。
 以来、食べては吐き、食べては吐き、が日常となっていった。

 1日中練習に励み、楽しみであるはずの食事を制限される。
 他のチームから「(京セラは)厳しいよね」と言われることもたくさんあったと言う。
 そんな毎日の中で、原は食べ吐きを繰り返す毎日をやめられなかった。
 「当時は仕事だから仕方ない、強くなるためには仕方ない、あの環境に置かれたことを当たり前のように思っていました。
 高校まではお金を払って陸上をしていて、実業団ではお金をもらって走っているわけですから」 まだ20前後の若い原にとって、世界は京セラだけにあった。
 しかもレースでは、身体に負担を強いながらも結果を残せるようになっていた。

 「強くなるために大切なトレーニングの積み重ねと、食べ吐きが始まる以前の栄養の蓄えがありました。
 トレーニング面では、何が何でもかなえたい夢があり、絶対かなえたいという思いがあり、誰にも負けない努力をしていました。
 質の高いメニューを更に高いレベルまで追い込んでトレーニングしていましたから。そして体重管理を除けば、大森監督の厳しい指導、練習は私にとって合っていたと思います。
 (京セラの)稲盛名誉会長からいただいた、『自分の気持ち次第でどうにでもなるんだよ、心が体を動かす』という言葉との出会いもあります。
 栄養面では、入社後、食べ吐きが始まるまでしっかりと体の中に栄養を補給し続けていて、体の中にマラソンを走れるエネルギーが細胞の中にしっかり蓄えられていたからだと思います。
 ただその蓄えがあるのも数年だけ。徐々になくなっていき、ケガが増えてその回復も遅くなりました」

 1つ結果が出たらやめようという思いもあったが、思っていた以上の結果が出たことで目標が大きくなっていった。
 「ヘルシンキの世界選手権は、レースの1カ月前までゆっくりジョギングでさえもすることができない状態で6位入賞。これで体調が万全だったらメダルは夢じゃないと頑張れました」 何よりも支えとなったのはチーム、そして会社の応援だった。

 「私がいい成績を出せば喜んでくれるし、逆に悪いとお葬式のあとのような、下を向いてひとことも話をしない無言の食事が待っています。
 それがいやでいやで、みんなに喜んでもらいたくて、何が何でも勝つんだ、という気持ちが強かったです」 だが、代償を払うときがやがて訪れた。
 疲労骨折をはじめとする怪我に、頻繁に見舞われるようになったのだ。
 チームのキャプテンに食べ吐きを見られ、やめるように忠告されたこともあったという。
 でも原は食べ吐きをやめられなかった。
 「私がいい成績を出せば喜んでくれるし、逆に悪いとお葬式のあとのような、下を向いてひとことも話をしない無言の食事が待っています。
 それがいやでいやで、みんなに喜んでもらいたくて、何が何でも勝つんだ、という気持ちが強かったです」
 だが、代償を払うときがやがて訪れた。
 疲労「そのときは練習もできていたし結果も出せていたし、怪我もそんなにない時期だったので。
 そんな大したことないでしょ、と真剣に考えることができなくて」 摂食障害についての当時の陸上界における理解不足も関係している。
 「病気に対しての認知度も低かったですし、もしもっと知れ渡っていれば、真剣に受け止めていたかもしれません」 心だけでは走れないことに気づいたのは、引退間際だったと言う。
 「(もし京セラじゃなければ)結果が出せていたかはわからないけれど、競技自体を楽しめていたんじゃないかと思います」 過剰な体重管理は、しかし、競技生活のみに影響したわけではなかった。
 苦しい日々は原をさらなる深みへと引きずり込んでいった。

 初マラソンとなった2005年の名古屋国際女子マラソン(2012年より名古屋ウィメンズマラソンとして継承)で優勝し、同年の世界選手権でも6位入賞するなど輝かしい活躍を見せてオリンピックの有力候補とも評された原裕美子。
 だが華々しい活躍の陰で、彼女は過剰な体重管理の指導から、食べ吐きを1日に何度も繰り返すほどの摂食障害に陥っていた。
 いつしか体の回復能力は低下し、多発する怪我から成績も伸び悩むことになる。
 2010年、京セラからユニバーサルエンターテインメントに移った原は、最初の1年ほどは調子のよい競技生活を送った。
 だが、その後は再び怪我に苦しんだ。

 ユニバーサルを離れると、チームにいたコーチの誘いを受け、同コーチの運営するランニングクラブで仕事をするようになった。
 だが給料は未払い、コーチから依頼を受けての出資金も戻らないなど、それまでの競技生活で得た財産のほとんどを失うことになった。
 「だまされたと分かってからは、寝ている時間以外は食べて吐いて、あるいはお店に行って盗って、でした」

 原は振り返る。

 盗って――原は、食料品を万引きするようになっていた。
 初めて万引きをしたのは、京セラに在籍していた頃のことだ。
 「2007年の中国での合宿でした。はじめは持っているお金で食べ吐き用の食料を買えるだけ買おうと思いましたが、途中で自分で使えるお金がなくなってしまったんです。
 でも、ホテルの近くの店に入って、いざ品物を目にしたら全部ほしくなっていて、気づいたらパンやお菓子を服の中にまで入れていました」
 その後、しばらく万引きからは遠ざかっていた。
 しかしユニバーサル移籍後の2011年、万引きを再開するようになってしまった。
 「テレビで警察に密着する番組があるじゃないですか。
 『万引きだなんて、そんなことする人いるんだな』と思っていたのに自分がやった。
 信じられなかった。さらに、はじめは気持ちのコントロールができたのが、いつのまにかコントロールできなくなった。
 『なんで私はこんなに気持ちが弱いんだろう、だめな人間だ』。
 気持ちとは反対のこと、やめたいことをやる自分をひたすら責める毎日が続きました」

 「結局、私は万引きで7度、逮捕されました」
 その後、事実を知った家族が悲しむ姿を見て「もう絶対にしない」と心に誓った原だったが、ユニバーサル退社後、人生がうまくいかなくなる中で、再び万引きを繰り返すようになってしまう。
 「絶対に盗らない」と決め、財布にお金を入れて買い物に出かけても、店に入った途端、商品を物色している自分がいた。
 何度逮捕されてもやめられない万引き。家族との関係も壊れていった。
 「結局、私は万引きで7度、逮捕されました。特に6度目と7度目の逮捕は全国的なニュースとなり、家族にも大きな迷惑をかけてしまったことには申し訳ない気持ちしかありません」

 だがその中で、原にとって大きな出来事があった。
 2017年2月の6度目の逮捕後、原の弁護を担当した林大悟弁護士の紹介で、下総精神医療センターで医師の診察を受けることになったのだ。
 ここで原は「窃盗症」と診断され、専門的な治療を受けることとなった。

 「それまで、万引きをやめられない自分がおかしいとは思いながらも、病気だと思ったことはありませんでした。
 専門的な治療を受けると、万引きへの欲求がなくなっていくことを実感しました」

 2017年2月の6度目の逮捕後、原の弁護を担当した林大悟弁護士の紹介で、下総精神医療センターで医師の診察を受けることになったのだ。
 ここで原は「窃盗症」と診断され、専門的な治療を受けることとなった。
 「私の過去を知っても、今までと変わらず接してくれて」
 「それまで、万引きをやめられない自分がおかしいとは思いながらも、病気だと思ったことはありませんでした。
 専門的な治療を受けると、万引きへの欲求がなくなっていくことを実感しました」

 6度目の逮捕後に治療を受け、一度よくなって実家に戻った原だったが、世間の目というストレスがあり、さらに窃盗症の治療作業を怠ってしまっていたため、再び万引きをしてしまう。
 「7度目の逮捕となり、警察の留置場で絶望していましたが、検察に身柄を移された際、林弁護士が『病気を克服することでたくさんの人に勇気を与えられるよ』と言って励ましてくださった。
 この言葉をきっかけに、自分の抱える病を公表し、闘う姿を皆さんに見せることで、摂食障害、窃盗症を克服していこうという決意ができました」 原は専門的な治療を受け、今も毎日、その維持作業を続けているという。
 「同じ病、悩みを抱える人に自分の体験を伝えたい。
 そして、少しでも勇気を与えられたら」という思いから書籍を出版。隠したいことも含め、自身の経験を率直に綴った。
 千葉県内で事務の仕事、居酒屋の仕事に従事する原。

 弱い自分さえも受け入れてくれる人の存在。

 「病気と関係ない人、例えば今Wワークで働いている居酒屋のお客さんが私の過去を知っても、今までと変わらず接してくれて、今まで以上に応援してくれています。応援してくれるのは、隠していることをすべて打ち明けたからでしょうか」

 得られた「財産」もある。
 自分を受け入れられるようになったことだ。
 「自分を肯定しようと思って肯定しているわけではなくて、だめなところ、弱い部分を打ち明けたうえで、それでも私を受け入れてくれる人がいる。
 だめな自分を隠さなくていいんだと思えるようになったところが肯定感につながっているように思います。
 今は、過去は変えられないけれど未来は変えられるんだと思えるようになりました」 いつしか手にしていたものもあった。

 「居場所」である。

 「たぶん京セラに入ってからかな、1人でやっていけるんだ、強くなれるんだ、自分は1人でいいんだと思うようになっていました。
 ユニバーサルでも無理して仲間を作る必要はないと思っていました。
 自分がいちばんの敵だと思っていましたし」 だが度重なる苦しみに、心が安らぐ場所が欲しいと思った。

 こもっていたシェルターから出るように隠しごとを打ち明けると、周囲の支えが目に映るようになった。
 信頼できる店主夫婦が営む居酒屋で働く中で心許せる仲間ができ、取り組み始めたマラソン大会の手伝いではスタッフやランナーと楽しみを分かち合った。
 いる場所ができた思いがした。

 食べ吐きは「まだ克服していない」という。
 「体重に関してはぜんぜん気にしていなくて、家には体重計もないし、体重測定も3月に会社の健康診断でしたのが数年ぶりのことです。
 でも食べ吐きに完治はなくて、するときはしてしまいます。
 でもだいぶ減ってきたし、何とかしようと真剣に考えてくれる友達、仲間が増えてその人達を頼ることができるようになりました。
 それが今と昔のいちばん大きな違いです」

 ふと、原は切り出した。

 「朝から晩まで食べ吐きを繰り返しているときは、お腹がいっぱいになればいいという感覚でした。
 今は料理1つ1つを楽しめるようになって、五感で味わえるようになってきました。
 ビールでも1つ1つ味も香りも違うし、コーヒーもそう。
 作る人に感謝の気持ちも持てるようになりました。」

 〔情報元 : Number web〕
 

CTNRX的事件File. ♯007ー⑴

2023-09-02 21:00:00 | 千思万考

■動機なき犯罪(殺人)⑴

 本題に入る前に知って頂きたい事があります。
 “モータリゼーション”ってご存知でしょうか。

 ▼高度経済成長期時代

 日本では、1964年の東京オリンピックの直後からモータリゼーションが進んでいった。
 道路特定財源制度等を使った高速道路の拡張や鋪装道路の増加等の道路整備、一般大衆にも購入可能な価格の大衆車の出現、オイルショック後の自動車燃料となる石油低価格化などが自家用車の普及を後押しした。
 まず高度経済成長期に大衆車の量産が開始され、1960年代後半から1970年代にかけて一般家庭にも普及する。
 いざなぎ景気時代には「三種の神器」としてカラーテレビ・自動車・クーラーが「3C」と呼ばれ庶民の夢となった。
 この時点での自家用車の普及はある程度収入のある壮年男性、しかも家庭を持つ一家の主から始まった。
 夫や父の運転する車でレジャーに出かけることが憧れの的となり、自動車メーカーもファミリー層に向けた宣伝広告を行った。
 まだこの時期には「一家に一台」のレベルであり、運転免許を持たない女性も多かった。この時代に20代から30代であった女性が2020年代には70代から80代の高齢者となっており、この世代の女性は運転免許を取得しないまま高齢となって交通弱者になっていることが多い。
 しかし自家用車の普及に道路などのインフラ整備が追いついていなかったこともあり、
 1970年代には交通事故件数・死者数がピークとなり「交通戦争」とまで呼ばれた。

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 モータリゼーション
 (英: motorization)

  自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象である。
 国立国語研究所では、その「外来語」言い換え提案の中で「車社会化」という代替表現を提示している。

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 人や物事には“長所・短所”あるいは“善・悪”があります。

 そんな車社会において、“悪”が造り出した事件がありました。

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 ◆一般道で時速160キロ超は過失か?
  遺族が危険運転致死罪を求める

 今年2月14日、宇都宮市内の新4号国道でオートバイの佐々木一匡さんが時速160キロを超える速度で走行していた乗用車に追突されて死亡しました。
 乗用車を運転していた20歳の男に問われている罪は過失運転致死。
 一般道路で160キロの速度は過失なのか。
 佐々木さんの妻の多恵子さんが検察に対しより刑の重い危険運転致死の罪を求めて活動しています。

 検察は直線道路を追突するまでまっすぐ走行しているため制御することが困難な高速度には当たらないとして「危険運転致死罪」の適用を見送ったといいます。
 法定速度の60キロを100キロ以上も上回る速度は「過失」と言えるのか。
 多恵子さん「明らかに160キロ出すまでアクセルを踏み続けたというのは加害者の意思であって過失ですというのはとても納得がいかない」

 多恵子さんは過失運転致死罪からより刑の重い危険運転致死罪に問うことを宇都宮地方検察庁などに求めるため6月からインターネット上で署名活動を始めるとともに、活動の場を街頭にも広げました。
 今年6月26日に宇都宮地検に危険運転致死罪の適用を求める要望書とインターネットや街頭で集まった約5万5千に上る署名を提出しました。
 また事故の直前、被告の男の車と知人2人のオートバイ2台がカーチェイスを繰り返していたことも分かっています。
 要望書では共同危険行為を繰り返しながら走行したとする罪を加えるよう求めています。

 高速走行による交通事故で死亡した全国の被害者遺族が集まり危険運転致死傷罪の運用改善を求める「高速暴走・危険運転被害者の会」が7月立ち上がりました。
 多恵子さんは会の共同代表を務めます。多恵子さん「危険運転致死傷罪がきちんと適用できるような世の中になってもらいたいというのが全て。裁判できちんと裁いてもらえる安心した世の中になればいいなと思う」

 関連項目
      ー 危険運転致死罪① ー

 《発端》

 ▼東名高速飲酒運転事故

 東名高速飲酒運転事故(とうめいこうそくいんしゅうんてんじこ)とは、1999年(平成11年)11月28日に発生した、飲酒運転のトラックが普通乗用車に衝突して起きた交通事故。

 この事故による火災で幼い姉妹が死亡した。
 事故はマスコミ等で大きく取り上げられ、それが危険運転致死傷罪の成立に大きく影響した。

 ◆経緯(東名高速飲酒運転事故)

 1999年11月28日15時30分ごろ、東京都世田谷区の東名高速道路東京IC付近で、箱根からの行楽帰りの千葉市の会社員(以下「夫」表記)の所有する普通乗用車(トヨタ・クレスタ。妊娠中の妻(31歳)が運転、助手席に夫(49歳)、後部座席に3歳・1歳の2女児の計4名が同乗)が首都高速用賀料金所付近上り本線を走行中、料金所通過のため減速していたところ、高知県高知市から東京に向かっていた飲酒運転の12トントラック(日産ディーゼル・ビッグサム)に追突された。
 この時、別のワゴン車1台(いすゞ・ファーゴ)も事故に巻き込まれ損傷しているが、このワゴン車の運転手に怪我はなかった。
 乗用車は大破炎上。妻は自力で運転席の窓から脱出したが、同乗していた3歳と1歳の女児2人は焼死。
 夫は助手席の窓から救出されたが全身の25%を火傷する大火傷を負い、集中治療室で何度も皮膚移植することを余儀なくされた。
 妻は窓から逃げる直前に、夫は助け出される直前に娘2人の最期の声を聞いている。

 事故発生直後、偶然現場を通りかかったテレビ朝日のカメラマンが、事故直後の光景をテレビカメラで撮影していたほか、現場周辺にいた日刊スポーツのカメラマンが、近くのビルの屋上から炎上する車を写真で撮影している。
 トラックの運転手は飲酒運転の常習者で、事故当日も高知から大阪へのフェリー内や東名高速の海老名SAなどで合わせてウイスキー1瓶(750ml入り)とチューハイ1缶を飲んだ。
 事故当時はひどく酩酊しており、真っすぐ立つことができないほどであった。呼気中のアルコール濃度は1リットルあたり0.63mgだったという。
  事故より前、不自然な蛇行運転をする加害車に関する通報が日本道路公団(現在のNEXCO)に次々と寄せられた。
 また、東京料金所では運転手が支払いに必要なハイウェイカードを探すのに時間が掛かったことから、料金所の係員がトラックを路肩に移動させカードを探させた後、運転手を降ろしハイウェイカードを預かった。
 その際、料金所の職員は運転手の足元がふらついていることに気づき、「ふらついているので休憩したらどうか」と声を掛けた(飲酒運転とは思わなかったと証言)。
 しかし運転手は、「風邪気味だったもので、薬を飲んだから大丈夫」と言い、休憩も取らずに運転を再開した。
 被害者の車両はそれまでトラックの後ろを走っていたが、トラックが東京料金所で停車している間に追い越しており、トラックが運転を再開した後に追突事故は起きた。

 《裁判ー東名高速飲酒運転事故》

 ◆刑事訴訟

 トラックの運転手は、業務上過失致死傷罪などの罪に問われた(事件当時は危険運転致死傷罪は未制定)。
 東京地方検察庁は刑法第211条に定める同罪の法定刑で、最高刑に当たる懲役5年を求刑したが、2000年6月8日、東京地方裁判所(伊藤雅人裁判官)は運転手に対し、懲役4年の判決を言い渡した。
 検察はこの判決を不服として、飲酒運転の事件としては異例の控訴に踏み切った。
 2001年1月12日、東京高等裁判所の裁判長仁田陸郎が控訴を棄却し、運転手に懲役4年を命じた東京地裁判決が確定判決となった。

 ◆民事訴訟

 2002年10月23日、両親が当時のトラック運転手およびその勤務先だった高知通運(本社:高知市)などを相手取って約3億5600万円の損害賠償を、一部を女児たちの「毎命日に分割して支払う」よう求め東京地方裁判所に提訴した。
 死亡逸失利益についてのこのような定期金賠償方式による支払請求は異例で、裁判において争われたが、東京地方裁判所はこれを認めた。
 この裁判で、判決で東京地裁は被告らに対して、原告へ総額約2億5000万円を支払うことを命じた。

 ・判決の要約:加害運転手および高知通運(被告)は、原告に対し賠償金2億4979万5756円を連帯して支払うこと。
 
 死亡による逸失利益については、2女児が18歳から67歳まで49年間就労したものとして算定し、その部分の金員は、亡くなった女児らがそれぞれ19歳の誕生日を迎える年の翌年の命日に初めて支払い、以降15年間毎命日ごとに分割して支払うこと。
 女児らが34歳の誕生日を迎える年の命日には、34歳から67歳までの金額をそれぞれ一括して支払うこと(年5パーセントの金利を含む)。

 また、金銭損害賠償等を求める民事判決においては異例の踏み込んだ表現として、被告の行為について「左側壁の縁石や中央分離帯にぶつかりかねないほど大きく蛇行走行するという、
 まさに走る凶器による危険極まりない運転行為」、「未必の故意による傷害行為とさえ評価され得る」、「被告が常日ごろから自分の運転するトラックに酒を持ち込み、常習的に飲酒運転をするという、
 (略)非常に悪質で強い非難に値する行為を習慣とし(略)本件のような重大な事故はいつ発生してもおかしくない状況であった」、『ろれつの回らぬ口調で、「何で止まったんだ」、「急に止まるからぶつかったんだ」、「まーえーじゃないか」、
 「逃げるんじゃない、会社に電話をかけてくる」、「酒なんか飲んでいねえよ、風邪薬飲んだだけだ」などと強弁』と厳しく指弾し、事故の有り様について「当時、まだ3歳と1歳の幼児であり、(略)限りない可能性を有していたはずであったのに、突然、本件事故により命を奪われた同人らの無念さは、計り知れない。
 しかも、後部座席に幼い2人のみで身動きもできないまま取り残され、意識を失うこともなく、炎に取り巻かれ、熱さ・痛さに悲鳴を上げながら我が身を焼かれ死んでいったものであり、死に至る態様も極めて悲惨かつ残酷である。」、
 「我が子の助けを求める叫び声、泣き声を間近に聞きながらも、燃え盛る火炎の勢いのため、為すすべもなく、ただ最愛の2人の娘が目の前で焼け死んでいくのを見ているほかはなかったという原告らの痛恨の思いと無力感には、想像を絶するものがある。」、
 「原告らが(略)一命を取り留めたのは、被害車両の電源が衝突によっても切れることなく通じており、原告B側の電動の窓ガラスが開いたという全くの偶然によるものであって(略)、このような偶然がなければ、原告ら(まだ原告Bのお腹の中にいた三女も含む。)についても焼死という、さらに悲惨な結果を招いていたであろう」のように評価したうえで、死亡に関連する慰謝料として、被害者である幼児2名本人分に各々2600万円、両親2名各々の幼児2名各々に対する遺族固有の慰謝料として各々800万円、併せて各々3400万円を認定した。
 これは交通事故における独身者の死亡賠償額としては過去最高額である。

 《社会的影響》

 2000年6月、神奈川県座間市で飲酒及び無免許、かつ無車検の暴走車によって大学に入学したばかりの一人息子を亡くした(小池大橋飲酒運転事故)造形作家が悪質ドライバーに対する量刑が余りにも軽すぎること、今の日本の法律に命の重みが反映されていないことに憤りを覚え、法改正を求める署名運動を始めた。
 被害者たちもこの運動の趣旨に心から賛同し、全国各地で街頭署名を重ね、2001年10月に法務大臣へ最後の署名簿を提出した時には合計で37万4,339名の署名が集まった。
 世論に後押しされ、2001年6月には道路交通法改正法案が、11月には刑法改正法案が全会一致で国会を通過し、最高刑を懲役15年とする危険運転致死傷罪が刑法に新設された。
 2007年1月20日、テレビ朝日の「ドスペ!」には被害者家族が出演し、再現ドラマも放送された。
 なお、再現ドラマには被害者家族が乗っていたのと同型の乗用車を使用しており、加害者が運転していたトラックも年式は異なるものの同型のものを使用している。
 ちなみに2003年には、被害者家族が高知通運の従業員に対して飲酒運転の根絶を訴える講演をしたわずか3週間後に被告が勤務していた高知通運の取締役が酒気帯び運転で追突事故を起こしている。
 この事情も慰謝料算出にあたって斟酌されている。
 運転免許証更新時に配布される教則本「自動車を運転される皆様へ 安全運転BOOK」の32頁に福岡海の中道大橋飲酒運転事故と共に本事故が飲酒運転の悲惨例として取り上げられている。

 《危険運転致死傷罪》

 ▼類型

 危険運転致死傷罪(第二条)
 下記の行為を行い、よって人を負傷させた者は15年以下の懲役、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役。

 1.酩酊運転致死傷罪
 アルコール(飲酒)又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為。

 2.制御困難運転致死傷罪
 進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為。

 3.未熟運転致死傷罪
 進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為。

 4.妨害運転致死傷罪
 人または車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人または車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為。

 5.妨害運転致死傷罪
 車の通行を妨害する目的で、走行中の車(重大な交通の危険が生じることとなる速度で走行中のものに限る。)の前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転する行為。

 6.高速道路等妨害運転致死傷
 高速自動車国道又は自動車専用道路において、自動車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転することにより、走行中の自動車に停止又は徐行をさせる行為。

 7.信号無視運転致死傷罪 赤色信号またはこれに相当する信号を殊更に無視し(信号無視)、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為。

 8.通行禁止道路運転致死傷
 通行禁止道路を進行し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為。

 準危険運転致死傷罪編集 (第三条)
 下記の行為を行い、よって人を負傷させた者は12年以下の懲役、人を死亡させた者は15年以下の懲役。

 1.準酩酊運転致死傷・準薬物運転致死傷
 アルコール又は薬物の影響により、正常な運転に支障が生じる恐れがある状態で自動車を運転する行為であって、結果としてアルコール又は薬物の影響により、正常な運転が困難な状態に陥ったとき。

 2.病気運転致死傷
 自動車の運転に支障を及ぼすおそれがある病気として政令で定めるものの影響により、その走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で自動車を運転する行為であって、結果としてその病気の影響により正常な運転が困難な状態に陥ったとき。

 ー 各類型について ー

 旧・刑法第208条の2の規定と比較して構成要件と類型の一部が改正、拡大されている。

 酩酊運転致死傷・薬物運転致死傷(第2条第1号)

 アルコール(飲酒)または薬物の影響により、正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為。
 刑法の旧規定と同様。
 「正常な運転が困難な状態」とは、道路交通法の酒酔い運転罪の規定(同法第117条の2第1号)にいう「正常な運転ができないおそれがある状態」では足りず、現実に前方注視やハンドル、ブレーキ等の操作が困難な状態であることを指す。
 本法律に言う「薬物」については、特定の薬効成分は指定されていない。
 薬効成分の種類を問わず、薬物の影響下で正常な運転が困難な状態、または正常な運転に支障が生じる恐れがある状態に陥るものすべてが該当し得る。
 例えば、一般の市販薬であっても、眠気を誘発する副作用を持つために服用後に自動車の運転を控えるように明記されている抗ヒスタミン薬(第1世代抗ヒスタミン薬に限る)を服用して、眠気による意識低下により人身事故を起こした場合にも、本法律の各条に触れる場合がある。
 麻薬及び向精神薬取締法・大麻取締法・覚醒剤取締法・あへん法の薬物四法による規制薬物や、脱法ドラッグ・脱法ハーブに類する意識や運動能力に作用する薬物を摂取した場合も同様である。

 準酩酊運転致死傷・準薬物運転致死傷 (第3条第1項)
 独立法制定時に新設。
 アルコール(飲酒)又は薬物の影響により走行中に正常な運転に支障が生じるおそれ(危険性)を予め認識していながら自動車を運転し、その結果として第2条第1号に規定する状態(アルコール(飲酒)または薬物の影響により正常な運転が困難な状態)に陥った場合。
 この点で、原因行為において正常な運転が困難となる認識可能性が要求される第2条第1号の規定と差異がある。抽象的危険性を認識していて具体的危険を惹起して、よって結果を惹起した点について、二段階の結果的加重犯の構成となっている(この点は次の病気運転致死傷についても同様)。
 そのため、第2条第1号(従来規定)については「酒酔い運転」程度の酩酊や「薬物等運転」の認識性が標準とされうるが、第3条第1項(新設)においては、「酒気帯び運転」程度の酩酊等であっても、結果的に「正常な運転が困難な状態」であれば、本罪が成立することになる。

 病気運転致死傷(第3条第2項)

 独立法制定時に新設。政令に定める特定の疾患の影響により、走行中に正常な運転に支障が生じるおそれ(危険性)を予め認識していながら自動車を運転し、その結果として当該疾患の影響により正常な運転が困難な状態に陥った場合。 準酩酊運転致死傷や準薬物運転致死傷と同様に、抽象的危険性を認識していて具体的危険を惹起して、よって結果を惹起した点について二段階の結果的加重犯の構成となっている。
 特定の疾患とは、運転免許証の交付欠格事由を標準として、以下が定められている。

 1.運転に必要な能力を欠く恐れがある統合失調症。

 2.覚醒時に意識や運動に障害を生じる恐れがあるてんかん。

 3.再発性の失神障害。

 4.運転に必要な能力を欠く恐れがある低血糖症。

 5.運転に必要な能力を欠く恐れがある躁鬱病(単極性の躁病・鬱病を含む)。

 6.重度の眠気の症状を呈する睡眠障害。

 上記各疾患の影響により、運転前または運転中に発作の前兆症状が出ていたり、症状が出ていなくても所定の治療や服薬を怠っていた場合で、事故時に結果的に「正常な運転が困難な状態」(前述)であれば、本罪が成立することになる。
 なお、病気を原因とした「正常な運転が困難な状態」については、前述のほか、発作のために意識を消失している場合や、病的に極端な興奮状態、顕著な精神活動停止や多動状態、無動状態など、幻覚や妄想に相当影響されて意思伝達や判断に重大な欠陥が認められるような精神症状を発症している場合も含まれる。 
 認知症は含まれていない。

 制御困難運転致死傷(第2条第2号)

 進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為。刑法の旧規定と同様。
 単に速度制限違反というだけで成立するものではなく、直線道路等では、制限速度をおおむね50km/h以上超えたときに適用が検討される。
 カーブ等では、限界旋回速度を超過したとして制限速度を40-60km/h超えた場合に適用した事例、路面の縦断線形が長周期の凹凸になっている場所に制限速度を30km/h超えて進入し転覆等を起こした事故に適用した事例などがある。
 また、意図的なドリフト走行やスピンターンを行い事故を起こした場合も対象になりうる。

 未熟運転致死傷(第2条第3号)

 進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為。刑法の旧規定と同様。
 単に無免許運転であるだけでは足りず、運転技能を有していない状態を指す。
 一方で、運転技能を有するが免許が取消・停止・失効になっている状態は含まない。
 したがって、免許を一度も取得していなくとも、日常的に事故を起こすことなく無免許運転している場合には運転技能ありとみなされ、これには該当しない。
 なお、法的に無免許運転である場合には、第6条の加重規定が適用されることとなった。

 妨害運転致死傷(第2条第4号)

 人または車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人または車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為。刑法の旧規定と同様。
 これは、何らかの理由により故意に「人又は車の通行を妨害する」目的で行った場合のことである。
 具体的には、過度の煽り行為や、故意による割り込み・幅寄せ・進路変更などが該当しうる。
 「重大な交通の危険を生じさせる速度」とは、相手方と接触すれば大きな事故を生ずる速度をいい、20km/h程度でも該当する。
 令和2年改正法で第5号の類型が追加された。第4号と比較して「走行中の車」の「前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転」する行為等が追加された。

 高速道路等妨害運転致死傷(第2条第6号)

 高速自動車国道又は自動車専用道路において、自動車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の「前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転」することにより、走行中の自動車に停止または徐行をさせる行為。
 令和2年改正法で追加された。
 上述の第5号と共に、あおり運転の多発や、特に東名高速夫婦死亡事故の発生を受け改正された。
 高速道路等において、妨害目的で、「走行中の車」の「前方で停止し、その他これに著しく接近することとなる方法で自動車を運転」する行為等により、他の車を停止または徐行させる行為が該当する。

 信号無視運転致死傷(第2条第7号)

 赤色信号またはこれに相当する信号を殊更に無視し(信号無視)、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為。
 刑法の旧規定と同様。 交差交通が青信号であるのに「殊更に」赤信号を無視した場合に適用され、見落とし・誤認などの過はもとより、ただ信号の変わり際(黄信号→赤信号へと変わる瞬間、全赤時間)などに進んだ場合などは含まれない。
 「重大な交通の危険を生じさせる速度」については同様である。

 通行禁止道路運転致死傷(第2条第8号)

 自動車の通行が禁止されている政令に定める道路(道路の一部分を含む)を自動車によって通行し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為。
 独立法制定時に新設。
 なお、通行禁止道路の通行は故意が要件であるため、道路標識の見落とし等の過失による場合や、認知症などによる場合は適用されない。
 通行禁止道路とは、政令により以下が定められている。

 ・(一)道路標識等により通行が禁止されている道路。
 例として「通行止め」、「車両通行止め」、「歩行者専用」(歩行者天国を含む)、「自転車及び歩行者専用」、「自転車専用」などがある。 道路標識等であっても、「一定の条件に該当する自動車に対象を限定」するものについては適用外となる。
 例として、「車両の種類」(大貨等、二輪など)、「最大積載量」、「重量・高さ・横幅の制限」などがある。
 ただし、「車両の種類」については、「一定の条件に該当する自動車に対象を限定」していない場合は適用対象となるので注意が必要である。
 たとえば、「軽車両を除く」「自転車及び歩行者専用」「自転車専用」などの標識がある場合は、通行禁止対象から軽車両や自転車を除外しているに留まり、自動車(原付を含む)についてはすべて通行禁止対象なので、この規定の適用対象となる。
 さらに、通行の日付・時間帯のみを条件とする道路標識等についても対象となる。例として「歩行者専用 7~9時」などがある。
 したがって、通学時間帯などを理由とした歩行者専用道路等規制に故意に違反して死傷事故を起こすと、危険運転として厳罰に処されうるので、注意が必要である。
 なお、「指定方向外進行禁止」は原則として対象外であるが、それが上記の「通行止め」等の道路標識の反射として交差点に設置されている場合や、「一方通行」「車両進入禁止」の反射として交差点に設置されている場合に、それらに新たに違反した場合には、それぞれ(一)、(二)により、この規定の適用対象となる。

 ・(二)道路標識等により、「自動車の通行につき一定の方向にするもの」が禁止されている道路。
 いわゆる一方通行の規制で、一方通行の逆走事故が該当する。
 一方通行以外の具体例としては、「車両進入禁止」がある。
 一方通行についても、規制に条件が付されている場合には(一)と同様になる。
 例として「大貨等」「二輪[27]を除く」は逆走禁止の対象として「一定の条件に該当する自動車に対象を限定」しているため適用対象外となり、逆に、「一方通行 7~9時」「自転車を除く」などの場合は、自動車についてはすべて逆走禁止となっているため、この規定の適用対象となる。

 ・(三)高速自動車国道または自動車専用道路の道路右側部分。逆走事故が該当する。
 なお、上下線分離の場合の逆走は、道路標識等が正しく設置されていれば(二)に該当する。
 一般道路の場合には、道路右側部分の逆走は対象外になる。
 ただし一般道路でも上下線分離の場合には、高速道路・自動車専用道路と同様、道路標識等が正しく設置されていれば(二)の対象となる。

 ・(四)安全地帯または「立入り禁止部分」(道路交通法第17条第6項) なお、「重大な交通の危険を生じさせる速度」については同様である。

   〔ウィキペディアより引用〕