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research notes ♯01頁 ブラック企業の定義①

2023-10-27 21:00:00 | 自由研究

 「もし自分がブラック企業で働くことになってしまったら…」①

 これまで社会人として働いてきた方637人を対象にアンケートを実施し「ブラック企業の特徴や見分け方」に関する調査結果を発表します。

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 <調査概要>

 対象者:社会人経験のある18歳以上の方
 回答者数:637名
 調査期間:2023年4月24日~5月19日  調査方法:Webアンケートによる回答

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 ◆そもそもブラック企業の定義とは

 ブラック企業とは、労働者の労働条件や権利を無視し、過度な労働時間や過酷な労働環境を強いる企業のことを指します。
 従業員の健康や福祉を軽視しがちで、適切な労働条件や休息を提供せずに利益追求を最優先とする姿勢を持っている傾向があります。
 違法な労働実態や労働者の搾取が顕著であり、労働基準法や労働契約法に違反する行為が頻繁に行われるのが特徴です。
 また、上下関係が強く、パワーハラスメントやいじめも横行することが多く、また、労働者の権利や人権が軽視され、健全な労働環境が欠如している企業のことを言います。

 ◆あなたが思うブラック企業の特徴
  第1位は「長時間労働」

 637人の男女に対して
 「Q. あなたが思うブラック企業の特徴を教えてください。」をテーマとした
 アンケートを実施したところ、参加者からは「過度な労働時間」や「過重労働」が第一位に挙げられました
 (アンケートは複数回答可)。

 1位 長時間労働・拘束時間が長い・過重労働がある。

 ・人手が足りていないから、うまく仕事がまわらず長時間の残業などを上司から強いられる。
(女性 35才~39才 製造業・生産管理)

 ・常に多忙で、昼休みも取れずにデスクで食事をすることがほとんどであり、十分な休息を取る時間もなく…。
 もちろん毎日残業で帰るのは早くて23時過ぎ、終電というのもザラ。
 気が休まらずにしんどかったです。
(男性 45才~49才 情報通信業 エンジニア)

 ・週末や休日にも残業を強制され、家族や友人との予定をキャンセルせざるを得ない時がままあった。
 仕事とプライベートのバランスなんてあったものではない。
(男性 30才~34才 小売業 営業)

 ・毎日残業が4時間以上ある。
 周りもそれが当たり前だと思っている人が多い。
(男性 25才~29才 広告業 営業)

 ブラック企業では、従業員は通常の労働時間を超えて残業を強いられ、休憩時間が不十分であったり、深夜労働や休日出勤が頻繁に要求されることがあります。
 長時間の拘束や過重労働が起こる理由はさまざまですが、理由としては概ね次のようなものが挙げられます。

 ・生産性や利益最大化の追求

 ・業務量の増加・業務効率の低下

 ・慢性的な人員不足やリソースの不適切な配分

 ・上司や管理職の不適切なマネジメント

 ・遅くまで仕事している人ほど評価される社風

 これにより、従業員は仕事に追われ、プライベートや休息の時間を犠牲にしなければならない状況になります。

 2位 残業代が出ない・割増賃金がない

 ・繁忙期に仕方なくみんな残って残業しているにもかかわらず、残業代は誰一人支給されません。
(女性 30才~34才 小売業 経理)

 ・固定給に残業代が含まれていましたが、割増賃金分の1.25倍を残業時間に掛けて計算したら少なかったことがあります。
(男性 25才~29才 広告業 企画)

 ・終業時間になったら総務の人がタイムカードを勝手に切る。
 そのあとに残業した分は支払われることはない。
(男性 25才~29才 製造業 営業事務)

 一部のブラック企業では、労働者に対して残業代や割増賃金が適切に支払われないことがあります。
 従業員が法定の労働時間を超えて働いた場合でも、それらが支払われない“違法行為”が見られます。
 ブラック企業は法律や労働基準を遵守せず、労働者の権利を無視することがあるので注意しなければなりません。
 入社する前に労働契約書を細かく確認し、残業代や割増賃金に関する明確な記載があるのかをチェックすることがご自分の身を守ることに繋がります。

 3位 給料が低すぎる

 ・経営状況が悪化がすると、ここぞとばかりに給与をカットしてくる。
(男性 35才~39才 生活関連サービス業 マーケティング)

 ・役職や責任に比べて給料が極端に低い。
(男性 45才~49才 福祉 マネージャー)

 ・慢性的な人材不足で常時一人分以上の業務量をこなしているのに、給料は一向に増えません。
 常々割りに合わなさを感じていてしんどいです。
(女性 25才~29才 娯楽業 経営企画)

 ・自身の努力や働いた時間に対して給料が低すぎると感じている人が多いです。
 仕事量に対して給料が低すぎる状況では、働く意欲も低下し、生活費や将来への備えに十分な資金を確保することが難しくなります。

 4位 休日が少ない・有給が取れない・休みにくい

 ・繁忙期に有給を取ろうとするとあからさまに上司が困った態度を取ってきて…。
 もちろん暗黙の了解で有給は取れなくなります。
(男性 25才~29才 生活関連サービス業 マーケティング)

 ・うちで働く人は休むことに罪悪感や不安を感じるようになっていきます。
(男性 45才~49才 福祉 マネージャー)

 ・休日出勤を強いられるのは日常茶飯事。休日でも上司から電話がかかってきたりしてゆっくり休むことができない。(女性 25才~29才 娯楽業 経営企画)

 カレンダー上の休日であっても出勤を求められたり、有給休暇も取りにくい状況がよく起こります。

 従業員は十分な休息やプライベートの時間を確保することができず、肉体的・精神的な負担が増えて心身の健康を害してしまいかねません。

 あらかじめ休日出勤の有無や有給消化率を確認しておきましょう。

 5位 ハラスメントが横行している

 ・上司が事あるごとに部下をきつく叱責し、侮辱的な言葉を言ったり、怒りに任せて度が過ぎる発言を繰り返すような環境でした。
 私もよく上司から嫌味な言葉を投げかけられ不当に扱われたことがあります。
(女性 30才~34才 不動産業 営業)

 ・特定の人が上層部から非難されたり、日常的に嫌がらせの対象にされていた。
(男性 25才~29才 製造業 企画開発)

 ・無茶なノルマを要求をされ、常に不安やプレッシャーとの戦いでした。
(男性 25才~29才 金融業 営業)

 セクハラやパワハラ、いじめなどがブラック企業では横行している状況があります。

 このような会社は、上司や経営陣が適切な監督・管理体制を構築せず、ハラスメント行為に対して厳正な対応を取らない傾向にあります。

 身体的・精神的な苦痛やストレスを受けないためにも、実際の社員や元社員によるネット上の口コミやレビューを調査してみましょう。

 6位 雇用契約が違法・不透明

 ・この会社で働くことになった際に雇用契約書のような書面は一切なく、口頭での合意のみでした。
(女性 25才~29才 小売業 店舗スタッフ)

 ・フルタイムの正社員で入社したのに雇用保険や社会保障が適用されていなくてびっくりした。
(男性 20才~24才 飲食サービス業 ホール・キッチン)

 ・面接の時「たまに残業が発生する」とだけ聞いていたが、実際は給与に月30時間の残業代が含まれた契約になっていた。
(男性 25才~29才 情報通信業 デザイナー)

 ブラック企業においては「雇用契約書がない」「労働条件通知書が交付されなかった」というように労働時間や休日、賃金などの労働条件が明確に示されないことも。

 「事業責任者だから残業代は支払わない」「 1日の所定労働時間は10時間とする」「残業代は給料に含まれている」といった労働基準法に違反していたり、曖昧で不当な労働条件を定めている可能性があります。

 7位 離職率が高い・常に求人募集している・採用人数が多い

 ・新しく入ってきた人は半年後には半分以上いなくなっている。
(女性 30才~34才 製造業 営業)

 ・離職率が高いので常に人材不足。
 それを補うためにいつも大量に求人募集している。
(男性 25才~29才 飲食サービス業 接客業)

 ・過酷な労働環境についていけなくて、みんな辞めてしまう。
(男性 35才~39才 小売業 マネージャー)

 労働条件が悪く、働く社員が不満を抱えがちなため、ブラック企業は従業員の入れ替わりが激しいです。

 離職者の穴を埋めるために採用を繰り返して、その都度大量の人員を募集し、多数の社員を採用しようとすることがあります。

 また、労働力を安く確保するため、または過酷な労働条件に耐えられるとされる若者をターゲットにする可能性もあります。

 8位 勤怠管理がいい加減

 ・会社独自の勤務記録票に自分で入力して月に一度総務にメール送信するだけ。
 長めの残業をすると理由を逐一ヒアリングされるし、仕事への意欲が削がれる。
(男性 30才~34才 情報通信業 エンジニア)

 ・残業は15分単位で計算されるはずなのに、抜けているときが結構ある。
(女性 30才~34才 卸売業 営業事務)

 ・朝も夜も好きな時間に出社して、好きなときに帰っていく人もいましたが、上司はまったく注意せずでした。
(男性 25才~29才 情報通信業 営業)

 労働時間や休日の管理といった勤怠データを適切に管理していないことがあります。

 ・勤怠管理システムやタイムカードを導入していない

 ・手入力でシフト管理している

 といったことが当たり前に行われていて、これが残業代未払いや長時間労働につながる原因になっています。

 9位 募集要項に精神論が多い

 ・求人内容に「忍耐力」や「犠牲精神」という言葉が踊っていた。
(男性 25才~29才 製造業 経営企画)

 「気合い、根性」というフレーズを多用した募集要項には寒気がしました。
 体育会系の人にはぴったりだと思います。
(男性 25才~29才 金融業 営業)

 ・仕事を何よりも最優先、情熱を持って働け!という社風のワンマン会社。
(男性 25才~29才 小売業 販売・サービス)

 ブラック企業では、募集要項に精神論が多く盛り込まれることがあります。
  
 「情熱を持とう」
「結局根性が大事 「飽くなき挑戦」
 「スピード成長できる」
 「フレッシュな職場」

 というように仕事への情熱やチャレンジ精神、自己成長などの表現が頻繁に使われます。

 10位 コンプライアンス意識を著しく欠いている

 ・会社の雰囲気が昭和的でコンプライアンス問題が見逃されやすい組織体制でした。
(男性 30才~35才 卸売業 情報システム)

 ・コンプライアンス意識が全く無く、精神論が根付いていてサービス残業も多く、労働基準法に違反している。
(男性 35才~39才 医療・医薬業 営業)

 ・コンプライアンスを守ろうという考えは存在しない会社。パワハラ上等のことを口走る上司がいて、従業員のモチベーションは地を這うくらい低く、ネガティブな雰囲気が蔓延している。
(男性 35才~39才 情報通信業 社内SE)

 ・従業員の安全や健康がないがしろにされている。
(男性 40才~44才 運輸業 ドライバー)

 労働基準法や労働安全衛生法などの労働法令を軽視し、自社で定めた就業規則をも守らないというケースも見られます。
 「実労働時間と実支給額を計算したら、最低時給を割っていた。」
 「法定休日を不正に剥奪されている」 といった辛辣な意見もありました。
 まずは法律や倫理を順守し、社会的責任を果たせる企業を選ぶことが重要ですね。

 11位 採用条件が緩い・採用倍率が低すぎる

 ・やる気さえあれば誰でも採用される会社
(男性 25才~29才 不動産業 営業)

 ・採用基準はまったくない会社です。
 学歴は当然不要で、金髪にピアス、中卒ヤンキーあがりなど色んな人が入ってきます。
(女性 40才~44才 製造業 総務)

 ・面接さえ行けば即採用、普通にコミュニケーション取れる人なら誰でも採用されます。
(男性 30才~34才 生活関連サービス業 経理)

 採用条件が緩く、採用倍率が低いこともブラック企業の特徴の一つ。

 応募者の経験や能力を適切に評価せず、人的リソースの不足を補うことを第一に考えて大量の採用を行います。

 採用条件は二の次なため、職場に適切な人材採用が行われず、結果として労働環境や労働条件が悪化しやすくなるのです。

 応募者は採用倍率の低さに惑わされず、企業の実態や評判をよく調査し、自身のキャリアや働く環境を考慮した選択を行うことが重要です。

 12位 トップダウンで社長や上司が絶対の社風

 ・完全なトップダウン経営なので、現場の意見はまったく取り入れられません。
(男性 25才~29才 小売業 業務管理)

 ・社長の一方的な意思決定によってそれまでの仕事がひっくり返ることもしばしば。
 ついていけない社員は日々疲弊して辞めていく。
(男性 40才~44才 情報通信業 営業企画)

 ・社員の意見や改善案が受け入れられることは稀で、多かれ少なかれ全員が不満やストレスを抱えています。
(女性 40才~44才 生活関連サービス業 営業事務)

 第12位は「12位 トップダウンで社長や上司が絶対の社風」です。

 経営陣や上司がトップダウンの組織文化を最優先し、絶対的な権限を持つ職場です。

 社長や上司の指示や意見が絶対であり、従業員の意見や提案が無視されることが多いというネガティブポイントがあります。

 従業員の声が届かず、意欲や創造性が抑制されるので、ストレスや不満が溜まりやすくなります。

 13位 働く意欲やヤル気がない従業員が多い

 ・社員の士気は総じて低く、やる気の無い人が多いです。
(男性 35才~39才 生活関連サービス業 営業)

 ・毎日黙々と仕事をするだけ。やりがいや働く意欲を持ち続けるのは難しい。(男性 40才~44才 製造業 ライン作業)

 ・上司や先輩にやる気のない人が多く、モチベーションが上がらない。
(男性 20才~24才 情報通信業 プランナー)

 組織内のストレスや不満の蓄積により、従業員のモチベーションが低下し、働く意欲やヤル気が低い従業員が多いことです。
 「過重な業務負荷が常態化している」 「給料が低く、適切な評価や昇進の機会が与えられない」
 「長く働いてもスキルは身につかないし将来への希望を持ちにくい」 といった声が散見されました。

 14位 業務内容が不自然で曖昧

 ・他の人に任せたほうが良さそうな仕事を振ってくる。
(男性 30才~34才 情報通信業 ディレクター)

 ・基本どんな仕事でも担当者任せ。業務内容の細分化ができていない。
(男性 30才~34才 製造業 商品開発) 

 ・方向性のわからない仕事が多いです。
 その都度仕事のやり方を考えながらこなしていくので業務負荷がかかり、結果的に仕事の質やスピードが低下してしまいます。
(女性 25才~29才 宿泊業 広報宣伝、オペレーター)

 業務内容が不自然で明確でなく、具体的な指示や目標が不明瞭な場合があります。 従業員は自分の役割や責任を正確に把握することが難しくなるため、業務の優先順位が曖昧になり、働き方が非効率になりがちです。

 15位 社員旅行を強制される・社員旅行の代金が自己負担

 ・年一回ある社員旅行は半額自腹…。半分でも自己負担したくないのに。
(女性 25才~29才 総合商社 総務・事務)

 ・毎年必ずある社員旅行はほぼ強制参加。仕事とプライベートを分けたい人は苦労します。
(男性 35才~39才 人材サービス業 営業)

 ・社員旅行はみんな気を遣っていて終始どんよりしたムードが漂っています。しかも強制参加で自腹…。なんのためにやっているのか理解できません。
(女性 50才~54才 建設業 経理)

 第15位は「社員旅行が強制され、かつその費用が自己負担とされること」です。

 従業員は給与から「旅行積立金」として一定額を天引きされる会社もあるほど。

 業務外の活動なのに給与が減って負担が増えるのは不公平ですよね。 従業員は社員旅行に参加するかどうかを自由に選択できるべきです。

 16位 会社のWebサイトがない・内容が薄すぎる

 ・公式ウェブサイトが存在しない。
(男性 20才~25才 建設業 営業)

 ・会社の公式サイトに掲載されている事業内容や福利厚生についての情報に矛盾がある。
(女性 45才~49才 製造業 経理)

 ・Webサイトの内容が非常に薄く、会社概要や事業内容についての情報がほとんど載っていない。
(男性 30才~35才 医療、福祉 介護職)

 Webサイトは企業の重要な情報発信やブランディングの手段となっていますが、ブラック企業ではそれが顕著に欠如している傾向があります。

 従業員や求職者は、会社の情報や価値観を知るためにWebサイトを訪れることが多いですが、情報の乏しいWebサイトでは会社の透明性や信頼性に欠ける印象を与えます。

 過剰なキャッチコピーばかりでサイトの掲載内容が薄い場合も注意しましょう。

 〔出典元 : 株式会社シフィット



世界の女傑たち Vol.06

2023-10-26 21:00:00 | 自由研究

 ■アメリア・イアハート

 アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart)
[əˈmiːliə ˈɛərhɑrt]
 (1897年7月24日〜1937年7月2日)
 アメリカの飛行士。


 《概要》

 1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことから、ミス・リンディの愛称がある。
 知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていた。
 これらは出版人であった夫のジョージ・パットナムの協力と手腕であったとされる。
 最後のフライトも、7月4日の国民的祝日のアメリカ独立記念日にアメリカ本土到着を計画したもの、との見方がある。 1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦するが、同年7月上旬に、南太平洋において行方不明となった。
 遭難の経緯や捜索状況は、日本国内でも新聞で報道された。
 その後アメリカ海軍と大日本帝国海軍により大規模な捜索が行われたが、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、イアハートの失踪が「ミステリー」として取り上げられることとなった。
 アメリカでは今も代表的国民ヒロインの一人(スミソニアン博物館所蔵品の3Dデータ公開ではライト兄弟機と同時に彼女のフライトスーツが公開された)であり、さらに謎めいた最期のために、未だにSF・フィクションの世界では彼女の登場するものが少なくない。
 また、イアハートは自身の体験を通じ、女性の地位向上のために熱心な活動を行い、ゾンタクラブ(英語版)の主要メンバーとして活躍していた。
 今もイアハートの名前を冠した奨学金制度(大学院課程で航空関連の科学や技術を学ぶ女性対象)が運営されている(2012年現在も活動が続いている)。
 これらのことから、昨今、ナンバー1でなくても切り口を変えればナンバー1になりうる、としてマーケティング分析分野では「アメリア・イアハート効果」という語も生まれている。

 《経歴》

 ▼生い立ち

 アメリカのカンザス州アッチソン (Atchison) でドイツ系の裕福な家庭に生まれる。
 高校卒業後は医学を学ぶためコロンビア大学に入学したが、1年で中退した。
 第一次世界大戦中はカナダのアメリカ陸軍病院で看護助手として働いた。
 1921年にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ネタ・スヌークから飛行訓練を受け、最初の飛行機を買った (Kinner Airstar)。
 家族内の問題により1924年に飛行機を売り、東部に戻りソーシャルワーカーとして働いた。

 ▼女性飛行

 1928年4月のある午後、イアハートは仕事中に一本の電話を受けた。
 電話の主、ジョージ・パットナムは通話の終わりにイアハートに尋ねた。
 「大西洋を飛びたいと思いますか」。
 イアハートは政治評論家で出版者であったパットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズと副操縦士兼エンジニアのルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして加わるように依頼された。
 この時点で、大西洋横断を試みた女性は存在していたが、いずれも墜落して失敗。
 3人以上が死亡していた。
 1928年6月17日、3人が乗ったフレンド・シップ号(フォッカー F.VII)は、ニューファンドランド島(現カナダ領)のトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。
 彼らはサウサンプトンから客船でアメリカへ戻った時、ニューヨーク州のマンハッタンで紙吹雪の舞うパレードと、カルビン・クーリッジ大統領によって開催されたホワイトハウスのレセプションで歓迎を受けた。
 その時以来、飛行機で飛ぶことはイアハートの生活の一部となった。
 彼女はクリーブランドでの、ウィル・ロジャースによって「パウダー・パフ・ダービー」と呼ばれた女性の航空レースで3位になった他、1931年にはオートジャイロでの最高到達高度記録も樹立した。
 イアハートとパットナムは大西洋横断飛行の準備の間に愛情を深め、1931年2月7日に結婚した。
 イアハートは結婚を「二重のコントロールとの協力」と呼んだ。

 ▼記録樹立

 1932年5月20日にイアハートはチャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と同じルートを、ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード ベガで出発した。 しかし強い北風と氷および機械的な問題で、アイルランドのロンドンデリー近くの牧場に着陸せざるを得なかった。
 イアハートは大西洋単独横断飛行の成功で、議会からの空軍殊勲十字章、フランス政府からのレジオン・ド・ヌール勲章およびハーバート・フーヴァー大統領からのアメリカ地理学協会のゴールドメダルを受け取った。
 同年8月24日、女性では初のアメリカ大陸単独横断無着陸飛行のため、東海岸のニュージャージー州ニューアークを離陸。
 19時間後の翌25日、ロスアンゼルスに着陸し成功。
 1935年1月11日には、アメリカ領のハワイからカリフォルニア州オークランドまでの単独飛行にも成功した。

 ▼遭難

 1937年(昭和12年)5月21日に赤道上世界一周飛行(赤道に沿って東西方向へ飛ぶ)に向かって、ナビゲータのフレッド・ヌーナン(英語版)とロッキード・エレクトラ10Eでカリフォルニア州のオークランドを飛び立ち、東回りに飛行し、6月30日にニューギニアのラエまで到着した。
 エレクトラは旅客機であり、通常は操縦士2名の他に旅客12名を載せて航行可能な機体であるが、イアハート機は長距離飛行のために客室内に増設タンクを設置した改造機であった。
 7月2日に、日本の委任統治領(南洋諸島)に隣接したアメリカ領の無人島であるハウランド島を目指して離陸したが、目的地に着陸することはなかった。
 1,100米ガロン (4,200 L)のオクタン価87の通常燃料の他、ブースト用のオクタン価100の燃料50米ガロン (190 L)を追加積載して離陸した。
 これらは航続距離にして2,460海里 (4,560 km)(約20–21時間相当)を飛べる量とされている。
 ヌーナンはこの航程について18.5時間の飛行と計算を行っていた。
 出発時の天候は時折雨が降る曇天で雲が厚く、天測航法のための天体観測は困難な状況であった。
 また出発に際して推測航法に必要なヌーナンのクロノメーターを合わせるラジオ時報が受信できず、足止めを余儀なくされてヌーナンは飲酒で時間を過ごしたという記録がある。
 飛行支援のためにハウランド島周辺で待機していたアメリカ沿岸警備隊の巡視船「イタスカ(英語版)」に対し、19:30GMT(現地時間07:42)に乗機のコールサイン「KHAQQ」を用い、3105kHzにて通信を行う。信号強度は強く音声はクリアであったとされるが、この周波数帯ではそれらが端的に近距離を示すものにはならない。

 「イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません。
 燃料は不足しています。あなたたちからの無線通信も聞こえません。
 高度1,000フィート (300 m)を飛行中」

 その1時間後(現地時間08:43)

 私達は今、157° - 337°線上にいます。  
 6210キロサイクルでこのメッセージを繰り返します。聞き続けてください」

 との連絡を行ったが、しばらくして3105kHzのままで「疑問を感じる」「南北線上を飛行中」という発信があったことが記録されている。
 他の傍受者による情報では同時刻に「残燃料ではあと30分程度の飛行しか出来ない」との発信があったともされる。
 同周波数で内容不明とされる微弱な電波が傍受局に観測されている記録もあるが、これらがイアハートのものであるかについて明確な答えはない。
 イアハート機は、これらの通信を最後に消息を絶った。
 搭載無線機は出力50Wで軽量化のためにロングワイア型アンテナは使わず、短縮V形アンテナを使用していた。
 微弱な信号でも通信が可能なモールス信号をイアハート機は利用せず、無線通信についての理解が浅かったのではないか、との見解を述べる者も多い。
 また救命胴衣は搭載していたが、救難信号銃や救命イカダは搭載されていなかった。
 これらは軽量化のための選択とされている。
 この時点でイアハートとヌーナンは目的地点到達を考えていたが、島が発見できないために10海里ほどの誤差を発生させてしまったことを想定し、南北方向への修正を行っていたものと思われる。
 イタスカでは位置確認のために油煙式装置も焚いて発煙信号(通常は10海里程度の距離でも視認可能とされる)を上げていたが、当日の島周辺は雲が多く役には立たなかった。
 また、それらの雲影は洋上での島影発見を困難にもさせていた。
 当時の天候は曇天であった。

 特別に搭載を許可された当時未公開の無線航法探知器と誘導電波発信器は、電波レベルが弱すぎるなどの理由により使用できなかったとされている。
 この装置については、第二次世界大戦直前のごく短い期間だけ使用されたベンディクス(Bendix)社製MR-1B無線誘導装置のプロトタイプ説がある。当時のイアハート機のコクピット内写真には、通常のエレクトラには無い装置がパイロット席左上にあり、機首上にあるループアンテナは同社製のMN-5形である。
 それは移動体無線通信には不適切な特徴(指向性が強い)のものである。さらにイタスカとの交信で示した、使われなかった高い周波数は、この装置のシグナル用であった、とされる説がある。
 極秘の先進的装置であったため、機密保持のために傍受を考慮し、当事者にだけわかる会話をしたとの推測である。
 1967年、同形機による同日程の世界一周がアン・ペルグリノ(英語版)によって行われたが、この際のナビゲーターを務めたウィリアム・L・ポルハメスのイアハート機のフライトプラン考察(1995年に専門誌にて発表)によれば、目的地に向かう経路のひとつについて誤計算を行ってしまった可能性を指摘している。
 なお、イアハートは飛行の途中の航空日誌などを寄航するごとに故郷に送っており、後に夫のジョージ・パットナムがまとめて『最後の飛行』として出版した。

 ▼遭難直後の捜索

 アメリカ政府は、消息を絶ったイアハートとヌーナンの捜索に400万ドル(当時)を費やした。
 捜索隊はアメリカ海軍および沿岸警備隊、さらに隣接した地域を委任統治している日本の大日本帝国海軍の協力によって組織され、当時として考え得る全ての手段を講じた集中的な航空および海上探索を行った。
 アメリカ海軍は空母「レキシントン」および艦上機多数、
 戦艦「コロラド」、沿岸警備隊「イタスカ」等を派遣した。
 当時、日本海軍は第十二戦隊(機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威、第28駆逐隊〈朝凪、夕凪〉)により、南洋諸島の長期調査航海を実施した。
 7月2日当時の第十二戦隊は、サイパン島に停泊中だった。神威艦載機、特務艦「膠州」等が捜索に参加(膠州はパラオ諸島を出発し、7月6日にポナペ島着、7月9日同地発、7月13日にヤルート着)。それぞれ1週間程度をかけて総面積390,000平方キロを捜索したが何も見つからなかった。
 第十二戦隊の4隻は7月10日に伊勢湾へ帰投した。
 7月19日に日米とも捜索を打ち切った。
 同日、「膠州」はヤルートを出発[18]、ポナペを経てサイパンに向かった。
 その後もイアハート機の残骸や遺留品が日本委任統治領内の島に流れ着く可能性があったため、山本五十六海軍次官は出来るかぎり捜索に協力するよう指導した。
 しかし日米双方の航空基地として南洋群島をめぐる緊張は高まりつつあり、さらに1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発し、両軍による調査や捜索は行われることが無かった。

 ▼その後の捜索と調査

 研究者の大多数は、イアハートとヌーナンの飛行機は燃料を使い果たし不時着水した、もしくは墜落したと考えている。
 代表的見解としては、トーマス・クロウチ航空宇宙博物館主任キュレーターの談話がある。
 その見解では、「機体は18,000フィート(約5,500メートル、周辺海域の平均水深)の海底に沈んでいるのではないか」と推測している。
 さらに、「その深度は発見に、沈没後70年経って偶然発見されたタイタニック号のような困難を生むだろう」とも語っている。
 捜索当時、キリバス領のニクマロロ島(事故当時の名称はガードナー島、公式には1827年以降無人)では、捜索にあたった艦載機からキャンプの跡らしきものが観測されたが、報告したパイロットは無人島である状況は知らなかった(1940年に西洋人女性と見られる遺骨が同島から発見され、フィジーに送られ、イギリス人医師の鑑定を受けるが、その後紛失)。
 近年になって航空機の捜索や保存を行っている研究グループ「タイガー (TIGHAR)」は、化粧用コンパクトの一部とみられるガラス片などを同島から2007年に発見し、イアハート自身が同島に漂着し死亡するまで島で生活していたという説を唱えている。
 ただし、前述の遺骨は行方不明となっていて確証はない。
 同グループは加えて数度の現地調査を行い、同島でロッキード・エレクトラの残骸ともとれる軽金属片およびプレクシグラス(コクピット風防用のアクリル樹脂)片、1930年代の女性用靴とも見ることが可能な靴の部分品を発見し、さらに前述の身元不明の漂流者の遺骨の医学的所見の記録(骨そのものではない)を再鑑定し、長身の北ヨーロッパ系の白人女性である可能性が高いとの結果を発表した。

 これらを踏まえて、同グループからは水没状態では作動しないはずの救難信号が同機が行方不明となってから3昼夜聞かれたこと(パンアメリカン航空の地上無線局などのレポートが現存する)などを合わせ、ニクマロロ島周辺に不時着したとする説を提唱している。
 同時に、同グループの計算によると、旅客機エレクトラを長距離用に改造し、キャビン内に6槽の増設燃料タンクを設置したイアハート機は燃料を使い果たした状態では充分な水面浮力を持ち、暫くは水面に浮き続けるはずである、との主張も同時にしており、それらを統合した推測が彼らから発表されている。
 ただし、アメリカ人海洋探検家のデビッド・ジョーダン(アメリカ海軍を退役後は自身でサルベージ会社を経営)は、2002年と2006年の2回にわたり、総費用450万ドルを費やして目的地周辺1200平方マイルの海底ソナー探査を行ったが、結果的に機体らしきものは発見されず、この結果からニクマロロ島周辺遭難説を否定している。
 ほかにも、イアハートの遭難地をマーシャル諸島とする説が、1960年代にフレッド・ゲルナー著の『The Search for Amelia Earhart(アメリア・イアハートを探して)』で唱えられた。2015年にディック・スピンクが報告したところによると、「イアハートがミリという小さな環礁に不時着したという目撃談がマーシャル諸島で今も広く伝えられている」という。
  2009年に、前述の「タイガー」が、ニクマロロ島で人工物をかき集め、付着しているDNAをイアハートの親族のDNAと比較するという計画を公表。
 2010年12月14日、「タイガー」はニクマロロ島のキャンプサイト付近で人間の指の部分と見られる骨を発見、その後オクラホマ大学でDNA型鑑定が行われたが、現代の鑑定技術では人骨なのか、或いはウミガメの骨なのかは判定が難しいとする調査結果が出された。
 2012年にさらに調査を進めた結果、同年7月の調査で撮影されたニクマロロ島沖の海底の映像の中に、機体の一部らしきがれきが映っていたと発表された。
 2014年になって、この時海底から引き揚げられた機体の一部がロッキード L-10 エレクトラの部品であることが判明した。
 これを受けて、「タイガー」はニクマロロ島付近の海底の、ソナーに反応があった領域を詳細に捜索することを発表した。

 テネシー大学のリチャード・ジャンツ名誉教授が1940年発見の遺骨の測定値を再検討した結果、ニクマロロ島で発見された遺骨はイアハートのものであることを強く支持するという結論にたどり着き、2018年になって研究成果を法医学誌にて公表している。

 ▼日本軍関与説

 イアハートの遭難から5日後の1937年(昭和12年)7月7日、中国大陸では盧溝橋事件が発生、日中間は全面戦争に発展した。
 さらに以前より日本とアメリカの間で対立が深まっていたこともあり、「アメリカ海軍はイアハート機捜索の名目で、日本の委任統治領をはじめとする南洋諸島の空中調査を行った」という噂が流れた。
 逆に、イアハートが諜報行為をしたことで日本軍の捕虜になったという噂も立った。
 「イアハートがアメリカ軍の要請を受けて、カロリン諸島やマーシャル諸島などの、日本の委任統治領における日本軍の活動を探るべく飛行した後、カロリン諸島に駐留する日本軍によって撃墜され捕らえられた」という話が、地元住民の目撃談として唱えられていた。
 マリアナ諸島を偵察しようと試みて対空砲火か空母赤城の戦闘機によってサイパン島に強制着陸を余儀なくされ、スパイとして処刑されたという噂もあった。   
 「日本軍に捕らわれた」説としては更に、(同じく目撃者の証言と共に唱えられた)「サイパン島を経由して東京に移送され、第二次世界大戦中に皇居内で拘留され続け、終戦直前に処刑された」という説や、「『東京ローズ』の1人として活動していた」という説も当時は存在した。
 その他、1970年に出版された書籍の中では「終戦後解放された後にひそかに帰国し、偽名でニュージャージー州で暮らしていた」との説まで唱えられた。
 しかし、このような話は、失踪前のイアハートからの通信では(日本軍を含めた何者かから)攻撃を受けたとの報告がない上に、日本側には撃墜や拘留、処刑の記録が無いばかりか、上記のように日本海軍の艦艇はアメリカ海軍艦艇とともに多額の費用を投じた捜索活動も行っている。
 また日本関係者によるイアハート目撃の報告もないため、信憑性が無いいわゆる「陰謀説」と言えるレベルのものであった。

 さらに2017年7月に、アメリカの歴史娯楽専門チャンネル「ヒストリーチャンネル」は、特別番組「アメリア・イアハート:失われた証拠(Amelia Earhart: The Lost Evidence)」において、「イアハートとヌーナンが日本軍に拘束されたとする従来の説が有力である」旨を公表した。根拠として同番組がアメリカ国立公文書館から入手した、日本委任統治時代のマーシャル諸島ジャルート環礁の港にて撮影された写真を挙げた。
 この中にイアハートとヌーナンにそれぞれ特徴が似ている白人の男女、そして破損した乗機とされる物体が貨物船に曳航されるとされる姿が写されており、これを「2人がミリ環礁に不時着した後に撮影されたもの」だと主張している。
 同番組は2人のその後の行方として、「サイパン島に移送され同地で拘置中に死亡した」とする仮説を立てている。
 しかし、マーシャル諸島での戦史を研究している軍事専門家によれば、写る船舶の形式などから、写真はイアハートが遭難する以前の1920年代後半から1930年代前半のものとしており、またマーシャル諸島を含めた日本の委任統治領は、1937年1月以降外国船の入港が禁じられたにもかかわらず、あきらかに日本籍でないと思われる商船が写っていること、写されている人影の中に日本人らしき姿が見られない事、さらにこの写真は1935年(昭和10年)10月に出版された日本語写真集の中に収録されていることなどから、ヒストリーチャンネルの説は完全に否定された。

     〔ウィキペディアより引用〕

言の葉辞典 『米』②

2023-10-25 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『米』②

 《偽米(人造米)》

 主にジャガイモやサツマイモ、小麦粉などを原材料として、米の形に成形した物。
 第二次世界大戦中の食糧難の日本で代用食として開発された。
 これらの材料を加熱して潰して小さな粒状にして、それを核として、表面にデンプンをまぶして蒸す工程を数回繰り返し、米状の大きさになったら、乾燥させて水分含有量を減らして保存可能にする。
 食べる時は普通に炊く。製法や形状は粒状のパスタである「クスクス」に類似している。

 戦後の食糧難の時代には政府も生産を奨励したが、その後食糧事情が好転したこともあり、また、製造に非常に手間と時間がかかることと、食味の違い、すなわち所詮は代用食なため、昭和29年をピークに急速に姿を消し、本物の米が余っている現在の日本では作られていない。 現在食糧難の北朝鮮でも代用食として、トウモロコシやサツマイモやジャガイモから偽米が開発・製造されていると言われている。
 こうした米不足による代用品とは異なり、ダイエットや炭水化物の摂取量を抑えるために、野菜やしらたき、おからなどを加工して米飯に近い食べ応えを得ようとする食品・料理が現代日本にある。

 《飯(めし)》

 飯
 (めし、いい、はん、まま、まんま)

 イネ科の穀物全般、とくに米へ水を加えて煮たり蒸したりして炊(焚)いた食品のこと。
 ごはん(御飯、ご飯)とも呼ぶ。

 ▼概要

 「めし」は、「食ふ(食う)」の敬語のうち尊敬語である「召す」に由来する。
 日本語に継続的に生じている「敬語のインフレーション」(初めは尊敬を込めた表現でも、長く使っているとありがたみが薄れて普通またはそれ以下の表現になる)という現象により、現在はややぞんざいな表現になった。
 敬語のうちの丁寧語では「御飯」(ごはん)。幼児語は「まんま」。
 老人語は「まま」。

 加熱しないままの生米に含まれる結晶デンプンをβデンプンといい、糖が鎖状に繋がる巨大分子である。
 人は生米をほとんど消化できず、食べてもうまみを感じない。
 ところが水を加えて加熱することによりβデンプン分子中のいくつかの水素結合が外れて網状になって水分を取り込み粘性を伴って膨張する。
 これを糊化(こか、またはアルファ化)といい、糊化したデンプンをαデンプンという。
 炊飯はこの加水と加熱を行う調理法であり、分子が小さくなったαデンプンは消化や吸収が良くなり、単離された糖により飯にはうまみを感じるようになる。
 この糊化したデンプンを使い、一部には接着剤としての糊(のり)に利用することがある。
 室温以下で保存すると、冷めて冷やご飯となるが、時間の経過と共にαデンプンがβデンプンに戻っていき(デンプンの老化)、硬くなる。
 消化が悪くなり、味も劣化する。
 温め直せばα化する(焼いて作られた食パンをトーストすることに相当する)。
 食事を指す場合には、飯を伴わない食事にも用いられる。
 なお、αデンプンをすばやく乾燥させることにより飯をβデンプンに戻さずに#保存食とすることが古くから行われていた。
 現在ではアルファ化米としてインスタント食品にも利用されている。
 これは凍結乾燥によっても同じ効果があり、冷凍食品として利用される。

 ▼飯の種類

 ・米飯

 米、麦、キビ亜科穀物全般を炊いたものを飯と呼ぶが、特に米であることを明確にする場合は、「米飯」(べいはん)、「飯米」(はんまい)や「米の飯」と言う。
 玄米、白米とも用いられる。
 白米の飯は白く、銀しゃりとも呼ばれる。
 白米の飯は、デンプンの割合が多いほど粘りがある。
 玄米はデンプン以外の栄養成分を多く含む。
 通常はうるち米を用いる。
 もち米を用いることもあるが、これは「おこわ」という。

 ・かて飯

 米に他の食品を混ぜて炊いた飯。

 ・麦飯

 麦だけ、または麦と米を炊いた飯。
 普通は大麦である。

 ・雑穀飯

 米以外の穀物(麦を含める場合と含めない場合とがある)を雑穀とし、これらを炊いた飯、あるいは米と混ぜて炊いた飯を雑穀飯と呼ぶ。
 粟や稗などが利用される。
 米と麦に対して食物アレルギーのため、雑穀飯を食べることもある。
 米と混ぜ、あるいは単独で飯として炊いて食される雑穀は、主にキビ亜科である。
 またソバ、ハトムギ、キヌア、アマランサスも米と混ぜて飯として食される場合があるが、単独で飯として炊かれない。
 トウモロコシも飯として炊かれることもある。

 ・炊き込みご飯

 魚介類や食肉、野菜などを加え、調味し炊いた飯を、「炊き込みご飯」「加薬飯(加薬ご飯)」「五目飯(五目御飯)」などと言う。
 豆は広義の穀物であるが、「豆ご飯」として、炊き込みご飯の1つとされる。

 ・混ぜご飯

 炊いた飯に、調味した食肉や野菜などを混ぜたもの。

 ・おこわ

 もち米を、主に蒸して炊いた飯を「おこわ」、「強飯(こわめし)」、「蒸飯(むしめし)」などとよぶ。
 もち米以外の食品を加えることもある。
 アズキまたはササゲを加えた場合は「赤飯」、「赤の飯(あかのまんま)」などとよび、祝賀に用いる。
 法要などにはアズキ等を加えず白いまま、あるいは黒豆を加えたおこわを用いる。
 また、特に加えた食品の名を頭につけて、山菜おこわ、栗おこわ、等と呼ぶ。

 ◆穀物の代用品による「飯」

 カロリーや糖質の摂取量を抑えることなどを目的として、上記のような穀物を減らすか、まったく使わずに飯に近い食感や食べ応えを味わえるようにした市販食品や家庭料理も存在する。
 代用品となるのはおから、しらたき、鶏肉の挽肉、カリフラワー、ブロッコリー、キャベツの芯などである。

 《文化》

 ▼信仰・民俗

 日本文化においては、単なる食糧品に止まらず、古神道や神道における稲作信仰に起因する霊的価値を有する穀物である。
 地鎮祭や上棟式、農林水産の職業的神事、また日本各地の祭りで、御神酒や塩などとならび供物として奉納される。
 天皇が五穀(中心となるものはコメ)の収穫を祝う新嘗祭(「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている)は宮中における最も重要な祭祀であり、天皇即位後最初の新嘗祭である大嘗祭は、実質的な践祚の儀式と認識されている。

 「米」の字を分解すると八十八とも読めることから、付会して八十八行程を経て作られる、八十八の神が宿る、
 また「八十八人の働きを経て、はじめて米は食卓にのぼるのであるから、食事のたび感謝反省しなくてはならない」など、道徳教育のための様々の訓話が構成された。

 日本のみならず、東アジアにおいてはイネを精霊の宿る神聖な作物とみなし、これに不敬な行為を行うと食物より滋養は得られず、また田畑に蒔いても凶作を呼ぶと言い伝えられている。
 伏見稲荷大社では、秦の長者が餅を的にして矢を射たところ、餅が白い鳥となって飛び山峰にとまったため、彼が鳥をイネの精霊と気づいてそこに神社を建てこれを祭ったことが起源とされている。
 なお、異説では精霊を祭った秦の長者には不毛は訪れなかったが、ただ餅を射ただけの富裕者は天罰を受け没落したともいわれる。
 米が貴重だった昔、黒瀧寺(徳島県)周辺には「米養生」という習慣があった。
 重病人の枕元で、生米を竹筒に入れて振った音を聞かせると治るという俗信である。

 ▼風習

 沖縄県では、お中元またはお歳暮に真空パックされたお米を親戚へ渡す風習がある。

 ▼米に関する語

 古くはイネ科の植物の穀物について広く「米」という単語が用いられていた。
 古来、稲が生産されていなかった華北(漢字発祥の地)では、長くアワ(粟)に対して用いられていた。
 中国後漢の許慎が著した漢字の解説書『説文解字』において、「米…粟實也。象禾實之形」(禾=粟)と書かれ、米即ちアワの実であると解説されている。
 現在の中国語では、イネ科の植物にとどまらず、米粒のような形状をしたものも米と呼ぶ例が多い。
 例えば、「海米、蝦米」は干した剥きエビ、「茶米」は烏龍茶などの粒状の茶葉などを指す。
 「米」という漢字自体は籾が四方に散った様子を描いた象形文字である。
 しかし、この字形から「八十八」と分解できると見立てて米寿などの言葉に利用されている。
 また、日本では水稲を作る際の手間の多さを「籾から育てて食べられる様にするまでに八十八の手間がかかる」とたとえられている。
 また、「八木」と分解することも可能であることから、「八木(はちぼく/はちもく)」が米の異称として用いられた。

 『岩波 古語辞典』は、「うるしね」(「しね」は“稲”の意の古語)の項で、“米”を表す日本語「うる(ち)」(粳)、マレー語 'bəras',アミ語 'fərats'; 'vərats',古代ペルシア語 'vrīzi',古典ギリシャ語 'oryza',イタリア語 'riso',英語 'rice' などを、すべてサンスクリット 'vrīhih' にさかのぼるものとしている。
 なお、新聞やテレビのニュースにおいては、米国(アメリカ)の略である「米(べい)」との混同を避けるため、「コメ」とカタカナで表記するのが一般的になっている。

 ▼米に関わる語彙

 ★粃・秕(しいな)

 稔実が不良で残る籾のこと。中身がなく軽いため、脱穀した籾を風に舞わせたり水に浸したりして選別する。

 ★糴(テキ かいよね)/ 糶(チョウ うりよね)

 中国や日本で米の備蓄と価格安定を目的として政府などが過剰時には買い上げ、不足時に売り払った制度(常平倉、義倉など)において、買い入れ備蓄することを「糴」、備蓄米を売り払うことを「糶」といった。

 ★舎利(しゃり)

 サンスクリットで米を意味するシャーリ(サンスクリット語: शालि, śāli)と、同じ仏教語として遺骨を意味するシャリーラ(śarīra、身体。仏舎利を参照)がどちらも「舎利」と音写された結果、両者が混同されて「米は細かい骨に似ている事から舎利とも呼ばれる」と考えられるようになった。
 白米が珍しかった時代には、玄米と区別する意味で白米を銀シャリとも言った。
 現在では主に寿司屋の隠語で酢飯の事を指す。

 ★餉(かれい、げ)

 「かれいい」の転化。
 「糒」(ほしい)と同義。
 米を蒸すか炊いて飯にしたもの乾燥して保存食や携帯食にし、水に浸して食べた。
 朝餉(あさげ)、午餉(ひるげ)、夕餉(ゆうげ)はここからきたもの。

 ★糗(はったい)

  米を煎って粉にした食材。糖化して香りが立つため「香米」とも呼ばれる。
 米以外のイネ科の穀類から作られたものも糗と呼ばれ、はったい粉として知られる。

 ★粢(しとぎ)

 米粉やもち米から作る、米を粉状にして水で練っただけの加熱しない餅のこと。
 地方によっては「しろもち」「からこ」「おはたき」「なまこ」などと呼ばれる。
 米を食する最も古い方法の1つだったとされ、後には常食の炊飯とは異なり神饌として奉じられた。

 ★糈(奠稲、供米、くましね)

 精米した舂米(つきしね)を神前に捧げるために洗い清めた米。
 そのまま奉じる場合は「粢」と同様に「しとぎ」と言った。
 「かしよね」「おくま」とも。

 ★こめかみ

 頭の両側の側頭骨ならび側頭筋の在る箇所。
 米を噛む時にこの部分が動くことからその名が付けられた。

 ★コメツキバッタ

 米を搗く様な動作をする事が語源となった。
 転じてペコペコ頭を下げる様子も表す。

 ★コメツキムシ

 仰向けにすると、自ら跳ねて元に戻る能力があり、その動作が米を搗く動作に似ている事が名前の語源となっている。
 神社や祝詞では、白米を和稲(にぎしね)。
 玄米を荒稲(あらしね)と呼ぶことがある。

 ▼米に関する諺

 ・米俵一俵には7人の神様が乗っている。
 ・米を一粒無駄にすると目が一つ潰れる。
 ・年貢の納め時。

 ▼派生した俗語

 大相撲の隠語で、お金のこと。
 相撲部屋において将来有望な力士を「米びつ」ともいう。

 《俵(単位)》

 ▼俵(ひょう)

 米穀などの産品の取引や流通のために使用される単位である。
 尺貫法の体系から独立した特殊単位で、具体的な量は対象品目ごとに異なる。
 米以外にも雑穀、木炭、食塩、綿花など、かつて俵(たわら)で流通したさまざまな産物に適用された。
 元来は1つの俵に入れる体積の単位であったが、現在は質量の単位である。
 1952年(昭和26年)の計量法においては尺貫法と同様に、同法で規定されていない非法定計量単位として使用が禁止され、法的根拠を喪失した。
 そのため現在は、俵の量目は取引慣行により定められる。

 現在の米穀取引の実務における1俵は60 kgとされている。

 かつて米の計量は枡を基準とし、体積で計量され流通したため、俵は体積を表す単位だった。
 文献で最初に記載されている俵についての記述は、平安時代のもので5斗で1俵とするという規定が残っている。
 この時代の斗量は現在とは異なり、現在の定説では、当時の1斗は現在の0.4斗である。
 したがって、当時の1俵は約30 kgである。
 戦国時代から江戸時代の1俵はおおむね2斗から5斗の間で時代・土地ごとに異なり、例えば幕府は1俵を3斗5升としたが、加賀藩の1俵は5斗であった。
 またそもそも俵自体にも、四斗俵や六斗俵などいろいろなサイズがあって、規格が一定していなかった。
 俵が容量単位として統一されたのは明治時代である。
 ただし全国的な法規はなく、根拠法規は各県ほぼ共通する内容の「○○県米穀検査規則」という県令である。
 同規則の中で各県の検査機関が行う米穀検査に使う俵の容量は「4斗」と定められ、同時に俵の寸法や構造が標準化された。
 未検査の米は流通が禁じられていたので、以後は一俵 = 4斗が事実上の統一基準になった。
 1斗はメートル法換算で18.039リットルと法定されていたので、明治時代の一俵は72.156リットルである。
 米1斗の質量は約15 kgなので、1俵は約60 kgとなる。

 かつては60 kgの米俵を担ぎあげて運ぶことができれば、一人前の労働者とみなされた(世界大百科事典)。
 1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり、2俵は馬一匹の積載量であったため、米の出荷・保管・輸送に便利であった。
 タイなど海外ではいまだに60キロ袋が米の流通に使用されているが、重労働に慣れない現代日本人には60 kgの米俵を扱うことは難しくなり、出荷流通の米袋は「半俵」の30kg入りの紙袋包装が普通となった。

 ▼「石」と「俵」

 「石」と「俵」はどちらも米の量であるが、一石は兵一人が一年に食べる量とされて軍事動員力を示す石高制の基礎単位、俵は単に米を流通のため包装する単位で、そもそも性格が異なる。
 江戸時代の武士の収入には「石」と「俵・扶持」の表記があるが、領地を与えられ、そこから収納する石高の年貢を収入とする建前の上・中級階層が「石」、領地を持たず、米の現物支給を受ける軽輩の収入が「俵・扶持」で表されたのである(蔵米知行)。
 知行の換算は、 米1俵 = 1石 = 金1両(名目レート)また蔵米5俵 = 1人扶持(1日5合換算の端数切り上げによる)であった。
 なお、幕府の御家人の知行1石が蔵米1俵に相当するのは、以下の通りの計算である。
 天領の税率が四公六民なので、知行1石からは武士に対しては4斗の収益となる。
 これを精米することにより約3斗5升となり、蔵米の精米1俵分とほぼ同等となる。

 《石(単位)》

 石(こく)は、尺貫法における体積(容量)の単位の一つ。

 古代の中国においては、「石」は質量の単位であった。
 現在は質量の単位としては「担」、体積の単位としては「石」と書く。
 日本では専ら体積の単位としてのみ用いられた。

 ▼概要

 米の1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。
 日本では、1食に米1合、1日3合が概ね成人一人の消費量とされているので、1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(1000合/1日3合で333日分)。
 面積を表す日本の単位である反は、元は米1石の収穫が上げられる田の面積として定義されたものであった。
 また容積単位としての石は、10立方尺を指す。例として材木の材積を示す場合、1石は「1尺×1尺×10尺」である。
 下位単位の1立方尺は才。 1951年(昭和26年)の計量法により尺貫法の使用が禁止され、公式には使われなくなった。
 現在は、材木取引など一部の商慣行に残るのみである。

 ▼歴史

 日本では文字としては「石」を書くが、発音は「斛」に由来する「コク」を使用する。
 1000石以上の場合は「ゴク」と濁る。
  新京枡に統一された近世初期の寛文9年(1669年)に現在と同じ容量となった。
 現行の新京枡における1升は、縦横0.49尺、深さ0.27尺で0.064827立方尺(=0.49尺×0.49尺×0.27尺)であり、よって、1石は6.4827立方尺となる。
 船の積載量や木材の体積を表すときには、1石=10立方尺(約278リットル)としている。
 明治時代を迎え、米1俵が4斗と規定されて、2.5俵が1石となった。
 またメートル法を採り入れるにあたっては、日本では明治19年(1886年)の条約批准後、メートルを基準にして1升=約1.8039リットルと定められ、よって、1石は約180.39リットルということになった。

 ◆中国

 本来「石」はセキと読み、質量の単位であった。『孔叢子』に「鈞四謂之石」(4鈞を石という)、『淮南子』に「四鈞為一石」(4鈞で1石を為す)とあり、1鈞は30斤なので1石は120斤となる。例えば、漢代の斤は約258グラムであったので、1石は約31キログラムとなる。(林甘泉氏の『中国経済通史--秦漢経済巻』では、1石は約13.5キログラムと書かれている) 『漢書』律暦志では、体積の単位としては「斗」の10倍の「斛」(コク、hú)があり、一方質量の単位としては「斤」の120倍の「石」(セキ、shí)があった。しかし、「石」を体積の10斗の意味で使った例が『史記』など古代の文献にも見られる。 宋代には体積の単位として10斗が1石、5斗が1斛と定められ、以降、中国において「石」と「斛」は別の単位となった(zh:斛)。 近代にはこれとは別に天秤棒を意味する「担(擔)」が単位として使われるようになり、これが「石」と混同して使われるようになった。現在の中国の市制では体積に「石」(= 10斗、100L)、質量に「担」(= 100斤、50kg)の字を使用するが、どちらも発音は「担」に由来する「dàn」である。現在の質量の単位については「担」を参照。

 かつて、香港において120斤の「石」が英語で stone と直訳されていたことがあった。ヤード・ポンド法の質量単位に同音同綴異義語(cf. 同綴異義語)であるストーンがあるが、香港の尺貫法の石は72.5747784キログラム(=160ポンド)、ヤード・ポンド法のストーンは約6.4キログラム(=14ポンド)と、その値は大きく異なる。 「斛」は現代の中国では使われていない。

 ◆朝鮮

 朝鮮では、漢字表記は「石」で、発音もその漢字音「석(ソク)」と読むが、この単位が俵一つの容積にあたることから、固有語で俵を意味する「섬(ソム)」を使用するのが一般的であり、「苫」という漢字を宛てて表記する場合もある。
 1石の容量は180リットルだが、穀物の種類や状態によって重さが変わる。
 籾は 200 kg、米は 144 kg、精麦は 138 kg。
 1石は10斗である。
 しかし、新羅時代には元々15斗であった。

  〔ウィキペディアより引用〕


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 『君がいるだけで』作詞 : 米米Club

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 何より大切なものを 気付かせてくれたね

 ありがちな罠に つい引き込まれ 思いもよらないくやしい涙よ
 自分の弱さも 知らないくせに 強がりの汽車を 走らせていた

 めぐり逢った時のように いつまでも変わらず いられたら
 Wow Wow True Heart

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 何より 大切なものを 気付かせてくれたね

 裏切りの鏡に 映しだされた 笑顔につられて 流された日々
 はかないものへの 憧れだけで すぐ目の前にあることを 忘れてた

 なぜにもっと 素直になれなかったのだろう 君にまで
 Wow Wow True Heart

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 何より大切なものを 気づかせてくれたね

 True Heart 伝えられない True Heartわかって
 True Heart 見えないものを True Heart 見つめて

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 いつでも いつの時も 二人は お互いを見つめてる

 たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
 いつでも いつの時も 二人は お互いを見つめてる

 〔情報元 : Uta-net〕



今日此頃 令和5年10月下旬①

2023-10-25 06:00:00 | 日記

 相変わらず、私の食事事情は“ゆかり御飯(おじや風)に塩焼き秋刀魚(最近は食べてないが)。あと、少しの漬物...。

 秋から冬にかけて食材は富む。

 さて、漬物と言えば、俗に“香の物”と言いますが、じゃ何故、香の物と言うのか。

 調べてみると、

 香の物とは、野菜を塩・ぬか・味噌・酒かすなどに漬けたもの。

 という。
 そもそも、

 《雍州府志》(1684)によると、木芽漬はアケビ、スイカズラ、マタタビなどの新芽を細かく切って塩漬にしたもの、烏頭布漬はいろいろな植物の新芽をとりまぜて塩漬にしたものであった。
 室町期には、香(こう)の物、奈良漬といったことばが現れてくる。
 前者は、みその異名を〈香(こう)〉というところから,本来はみそ漬をいったことばだとされるが、漬物の総称として使われるようになり、香香(こうこう)、新香(しんこう)、おこうこ、おしんこなどとも呼ばれるようになった。

 という、らしい。

 でも、私達は、「香」とつけば、イメージ的に香り物を想像しまいがちだが。

 香りで、楽しむ食材として、今の時期は、やはり松茸であろうかと私は思う。
 “焼き”も良いが香りを楽しむ上では土瓶蒸しが良い。

 あと、秋を楽しむと言えば、銀杏。
 あの独特な匂いなのに秋を感じさせてくれます。
 枝豆とは違った味わいがあります。

 以前は食べれなかった魚も今は食べれるようになった。
 食べれるようになったキッカケは、後日することにします。
 秋刀魚の内蔵の、苦味も旨さを知り堪能してます。

 さて、そろそろ霜月。
 冬支度...。

言の葉辞典 『米』①

2023-10-24 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『米』①

 【読み方】
  音読み べい、まい [外]め
  訓読み こめ [外]よね

 【意味】
 米とは、稲の種子からもみ殻を取り除いたもの。
 日本人の主食となる穀物。

 【語源・由来】
  米の語源は、「こめる(籠める)」の連用形が名詞化したとする説が有力となっている。
 古く、米は「ヨネ」の使用例が多く、「コメ」の語は使用例が少ない。
 「コメ」の語が多く用いられたのは、改まった儀式の場であったことから、米には神聖なものや生命力のようなものが宿っており、「籠められたもの」の意味で「コメ」になったといった解釈もある。
 平安中期以降、「ヨネ」は古語として扱われ、「コメ」が多用されるようになった。
 米の語源で「こめる(籠める)」に次いで有力とされている説は、酒の醸造を意味する朝鮮語「コメン(コム)」の変形とする説である。
 酒の醸造法は朝鮮から伝来したといわれ、「醸す」も「カム」「コム」と繋がりがある。
 ベトナム語の「コム」やタミル語の「クンマイ」なども、米の語源と考えられており、アジアをひとつの国と考えれば、当然の繋がりとも考えられるが、発音の似た言葉で確実に語源が異なる言葉も多くあるため、偶然の一致とも考えられる。
 その他、「小実(コミ)」や「小目(コメ)」が転じたとする説もあるが、上代特殊仮名遣いにおいて「米」の「コ」と「小」の「コ」では仮名遣い異なるため、有力とされていない。

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 米(英: Rice)

 稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。
 穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。
 食用とする場合、系統や品種の性質によっては調理法が異なるため注意が必要。

 日本では主食の一つであり、日本語では「稲」「米」「飯」といった、植物としての全体と実、収穫前と収穫後さらに調理前と後などにより使い分けられる多様な語彙がある。
 日本を含む東アジアおよび東南アジア、南アジア以外では一般的に主食として特別視することが希薄であり、こうした区別がない言語が多数ある。
 例えば英語圏では全てriceという同一の単語で扱われる(反対に、日本では「大麦」「小麦」「エン麦」などが余り区別されず「麦」という総称で言われる)。
 また、日本語で「飯」は食事全般も指すため、「朝御飯はパンを食べた」という表現も普通に使われる。

 《種類》

 米は各種の観点から以下のように分類される。

 なお、日本では農産物検査法による公示の『農産物規格規程』や、JAS法に基づいた告示の「玄米及び精米品質表示基準」に一定の定めがある。

 ▼水稲と陸稲

 水田で栽培するイネを水稲(すいとう)、耐旱性や耐病性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ)という。
 水稲と陸稲は性質に違いがあるが、同じ種の連続的な変異と考えられている。
 一般的に圃場の整備については水稲の方がコストがかかる一方で、面積当たりの収量が多く、連作障害が殆ど無いなどのメリットと、全国的に水田整備が行き渡ったことから、現在、日本の稲作では、ほとんどが水稲である。
 水稲の収穫量は798万6000tで陸稲の収穫量は2700t(2015年見込み)おおよそ水稲は陸稲の2957倍となっている。
 また、栽培面積においても水稲が99.9%以上を占めている。
 日本では水稲と陸稲の区分は農産物規格規程においても規定されている。
 日本では水稲と陸稲は明確に区別されているが、他の国では明確には区別されていない(世界的に見ると水稲といっても灌漑稲、天水稲、深水稲、浮稲のように栽培の環境は大きく異なっている)。

 ▼粳米と糯米

 米のぬか層を除いた中心部分(胚乳)のデンプンの性質(糯粳性)の違いにより、粳性のものを粳種あるいは粳米(うるちまい、うるごめ、あるいは単に粳〈うるち、うる〉)、糯性のものを糯種あるいは糯米(もちまい、もちごめ)に分けられる。
 日本では玄米及び精米品質表示基準で、「うるち」と「もち」に分けられている。

 ★粳米(うるちまい)

 デンプン分子が直鎖のアミロース約20%と分枝鎖のアミロペクチン約80%から成る米。もち米より粘り気が少ない。 
 粳米は通常の米飯に用いられる。販売で「うるち」を省略されることが認められていて、「もち」と断りが無ければ「うるち」である。
 団子などの材料とする上新粉は、粳米を粉末に加工したものである。
 糯米(もちごめ) デンプンにアミロースを含まず、アミロペクチンだけが含まれる米。
 モチ性の品種のデンプンは調理時に強い粘性を生じるという特性を持つ。
 透明感がない乳白色が特徴で、餅や強飯・赤飯に用いられる。
 白玉の材料とする白玉粉や和菓子の材料とする寒梅粉は、糯米を粉末に加工したものである。
 アジアイネではジャポニカ種だけでなくインディカ種にも糯米が存在するが、アフリカイネについては糯性のものは知られていない。

 日本では、餅以外の「ご飯」ではアミロースが少なく、粘りや甘みがある米の品種が好まれてきた。現代ではパラパラした食感に炊き上がる高アミロース米が開発されている(秋田県の「あきたぱらり」、福井県の「越のリゾット」など)。
 チャーハンやパエリアに向くほか、一般的にアミロース含有率が高いほど食後の血糖値上昇が緩やかになることなどが理由である。
 なお、糯粳性のある植物としては、イネのほか、トウモロコシ、オオムギ、アワ、キビ、モロコシ、アマランサスなどがある。

 ▼軟質米と硬質米

 米は軟質米と硬質米に分けられる。
 軟質米は食味の点で優れるが貯蔵性の点では劣る。

 ▼飯用米と酒造米

 醸造用の酒造米(酒造用米、酒米)は飯用米と区分される。
 農産物規格規程には、「うるち」と「もち」に加えて醸造用が定められている。
 酒造が酒税法で規制されている為、個人用には売られていない。

 ▼新米と古米

 米は新米と古米と区分される。

 新米と古米(しんまいとこまい)

 その年に収穫された米と、前年に収穫された米。

 同様に、前々年に収穫された米を古古米・古々米(ここまい)、以下同様に、古古古米・古々々米(こここまい)、古古古古米・古々々々米(ここここまい)と、古(こ)を収穫した年から現在までの年数分呼ぶ。

 《定義》

 新米と古米の区別について、明確な定義はない。

 11月から翌年10月までの米穀年度を基準にすると、11月1日をもって新米が古米に変わることになる。ただしこの定義は、夏から10月までに取れた早場米に適用できない。
 なお、新米・古米の区別と直接には関わらないが、米の備蓄計画では7月から翌年6月までの1年間を単位としている。

 米の品質変化は梅雨時期に大きいため、梅雨明けに古米になると考えることもある。
 ただし、現代では低温倉庫が普及したため、必ずしも梅雨時期に変化が大きいとはいえない。
 JAS法に基づく「玄米及び精米品質表示基準」によれば、新米と表示できるのは、収穫年の年末までに精白・包装された精米に限る。
 そのため、店頭で新米と表示された米が売られるのは、翌年の年初か、せいぜい春までである。
 ただし、新米と表示できなくなったからといって、古米になるというわけではない。

 《違い》

 古米には、新米に比べ次のような違いがある。

 ・米飯が、硬く、粘りが少ない。
 ・米飯の光沢や白度が低い。
 ・古米臭がする。
 ・水分が抜けているため、炊いた時新米より2、3割膨れる。
 これらは古古米、古古古米になるにつれ強くなる。

 東南アジア・南アジアでは、粘り気の少ない米飯が好まれ量も増えるため古米の方が人気である。
 また日本でも中世から近世にかけては新米よりも古米の方が値段が高い。
 これは炊くと量が増えるからで、味よりもお腹が一杯になる方が重要だったと考えられる。
 現代でも、寿司飯は酢の浸透が良いという理由で古米を使う、若しくは一部ブレンドする。

 ▼有色米

 黒米、赤米、緑米などを総称して有色米という。
 野生種に近い米である。
 古代から栽培していた品種あるいは古代の野生種の形質を残した品種の総称として古代米と呼ばれることもある。
 ブータンでは赤米の一種であるブータン赤米が主食として広く食されている。
 また、米ではなく葉や茎、穂が緑以外の色(紫、黄、赤等)に染まる稲を指して有色米という場合もあるが、穂などが着色するからといって必ずしも玄米が着色するわけではない。
 例えば「紫の君」は玄米は黒米となるが葉色は緑である。
 そのような稲の活用事例として有名なものに青森県田舎館村が1993年より村おこしで、異なる稲を植え分けて絵を描く田んぼアートを行なっている。
 また、それらの品種をさらに改良した観賞用稲の開発が青森県や秋田県で行われている。

 ・赤米(あかまい)

 日本の米のルーツといわれ、「古代米」ともいわれ、白米よりもビタミンが豊富。
 炊飯するときは、白米を少し混ぜて長めに浸水してから炊く。

 ・黒米(くろまい)

 アントシアニン色素を含んでいるのが特徴で、白米よりもビタミンやミネラルが豊富。
 炊飯するときは、白米を少し混ぜて長めに浸水してから炊く。

 ▼香り米

 強い香りを持つ品種を香り米という。東南アジア、南アジア、西アジアなど、地域によっては香りの少ない品種よりも好まれる。
 インドのバスマティなどが有名。 日本でも北海道、宮城県、高知県、鳥取県、宮崎県など各地で独自に香り米を作っていて、生産は増加傾向にある。

 《歴史》

 稲は、原産地である中国大陸の中南部から北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。
 麦の一定面積あたり収穫量が1haあたり約3.5tであるのに対して、米は約5tと多く、他地域に比べてアジアの稲作地域での人口増大を可能にした。

 ▼日本

 稲作は日本においては、縄文時代後期から行われ始めたといわれる。
 これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、縄文土器に残る痕跡などから分かる。大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。
 弥生期では一粒当たりから生産できる量は400粒ほどだったが(それでも麦が一粒当たり150 - 170粒の生産量であることを考えれば、高い生産量といえる)、品種改良や水田開発が進んだ現在では一粒当たり2千粒(約5倍)まで生産量が上がっている。
 米は、食料として重要である一方で、比較的長期に保存ができるという特徴から、マダガスカルのメリナ人やタイにおけるサクディナー制など、米食文化においては経済的に特殊な意味を持ち、これは日本でも同様であった。

 長らく租税(租・あるいは年貢)として、また、石高制に代表されるように、ある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。
 貨幣経済が発達すると、それとの調和を図るべく、札差業が発達、米切手の発生や堂島米会所に代表される近代的商品取引システムの生成が見られ、江戸時代には政治経済の中心に米が置かれていた。
 そのため日本人の米に対する思い入れは強く、米は最も重要な食べ物とされ、主食とされてきた。
 天皇が新米を含む五穀を神に捧げて収穫に感謝する新嘗祭のように、神道など信仰や民俗・文化とも深い関りを持つ。
 宮城県は仙台藩時代から米の生産が盛んで正月以外にも餅を食べる習慣があり餅料理が発達した一方、第二次世界大戦前には関兵精麦が米穀餌料の卸や精麦で多額の利益を得ているなど、麦の需要が多かった地域でもある。
 これは仙台藩が米を江戸への輸出用(換金作物)として扱っていた名残とされる。
 戦後も麦の需要減少は緩やかであったため、関兵精麦は余力を残したまま不動産業への転換に成功している。
 越後長岡藩の武士によるとされる、文化2年(1805年)刊行の『粒粒辛苦録』は、農民のきわめて厳しい食生活を描いている。
 これに対し、同じ越後長岡藩の庄屋大平家が天保6年(1835年)に著した『農家年中行事記』は、しばしば行事が催され食物や酒がふるまわれ、小作人を含めて自由に食を楽しんでいた様子が窺え、為政者による記述とは異なり農民側からの記述には悲惨さが感じられない。

 このように、最近、各地域に残された家文書の研究が進み、厳しい制限の下に雑穀を中心とした食生活を強いられた貧しい農民像が必ずしも実態を示すものではないことが分かってきた。
 戦後の学校教育などにより「近世の百姓は米を作りながら米を食べられなかった」という「哀れむべき農民像」が半ば常識となっていることについては、これは為政者側が望んだ農民像であり、実際の農民側の記録を分析したところ近世の農民は、1日に4合程度の米を麦飯あるいは雑穀などとかて飯や雑炊にした食事を日常的に摂っていたという。
 必要な栄養を摂取することによりそれなりの食糧生産ができるわけで、それが、かて飯や雑炊であったにしろ食べずに米を作っていた筈はないのである。
 明治以降、日本は急激な人口増加と生活向上に伴って米の需要が高まったが、当時の日本国内の生産力はその需要に対応しきれず不足分を恒常的に輸入する一方で、米も通常の物資と同じく市場経済に基づき取引されており、相場商品・投機の対象として流通に不安を来すこともあり、しばしば社会問題となった。
 1921年(大正10年)米穀法が施行され政府備蓄米による価格統制や輸入米の関税統制が行われるようになった。
 また、1920年代には、植民地化した朝鮮半島において、農業近代化による米の増産計画(朝鮮産米増殖計画)が実施されるなどした。
 しかしながら、安定的供給までには至らず、1933年(昭和8年)米穀統制法、1936年(昭和11年)米穀自治管理法が施行され、米の生産・流通の統制が強化された。
 さらに、太平洋戦争開戦に向けての戦時体制整備の一環として、1939年(昭和14年)4月に米穀配給統制法が制定され、米の流通が政府により管理されるようになった。
 なお、同年9月には戦時の物資不足に鑑み興亜奉公日が設定され、日の丸弁当が奨励されたものの白米は禁止されず、この時点ではまだ米不足は酷くはなかった。
 だが12月には厳しさを増し米穀搗精等制限令が出され、七分搗き以上の白米を流通に付すことは禁止、1940年(昭和15年)の正月は餅すら白米は許されなかった。
 米不足は深刻となり、この年から中国や東南アジアからの輸入米(いわゆる外米)を国産米に混ぜて販売することが義務付けられた。

 1940年6月1日以降は、米を筆頭に生活必需品10品目について配給切符制が導入。     
 更に、日米開戦の2ヶ月後の1942年(昭和17年)2月には食糧管理法が制定され食糧管理制度が確立、米の流通は完全に政府が掌握するようになった。
 米だけでなく、魚介類や野菜・果物も配給制になり、国民の栄養状態は極度に悪化していった。こうした食糧難に対して、江戸時代のかてものの研究に帰って、食用野草や昆虫食など非常食の工夫が盛んに試みられた。
 一方米食の習慣がなかった地域や家庭では、配給制になったことで米を食べる機会を得て、そのことが戦後の食生活の変革の一因となったとする指摘もある。
 1945年(昭和20年)に第二次世界大戦は終結。戦後の食糧難は深刻を極めたが、米は引き続き食糧管理法による政府の固定価格での買い上げだったため闇米が横行、闇米を拒否した東京地裁の判事山口良忠が餓死するという事件も起きている。
 米の生産拡大のための基盤整備事業が国内各地で行われ、肥料の投入や農業機械の導入、品種改良などによる生産技術の向上から生産量が増加したものの、少なくとも昭和30年代(1955年〜1964年)までは、大半の日本人が米飯を常食とすることはできなかった。
 そのような中で、ガリオア・エロアの資金援助でメリケン粉が大量に輸入され、アメリカの小麦戦略により、学校給食はメリケン粉を使ったパンが供され、1952年(昭和27年)には栄養改善法が施行され慶應義塾大学医学部教授の林髞の著した『頭脳』(光文社、1958年)が評判となり、「米を食うと馬鹿になる」という説が流布され、頭脳パンなるものが出現するなどし、日本人の食事の欧風化が進行した。

 米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を実際の主食とすることは有史以来の宿願であったが、昭和40年代(1965年〜1974年)初頭には、ようやく米の自給が実現でき、名実ともに主食となった。
 しかし、その時既に戦勝国として日本を占領したアメリカ合衆国の小麦戦略は見事に成功をおさめ、学校のパン給食や厚生省が始めた栄養改善運動も手伝って、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかっていた。
 このため全国で米余り現象が起き、食糧管理法下におけるコメ政策は見直しを余儀なくされるようになり、1970年(昭和45年)以降は減反政策といわれる生産調整政策(新規の開田禁止、政府米買入限度の設定、転作奨励金の設定など)がとられた。
 その結果、水稲の作付け面積は 1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少した。

 生産は減少したものの、米離れに歯止めがかからず、政府備蓄米などに古米、古古米の不良在庫が多く発生。
 米の消費拡大のために、それまで主食はパンだけであった学校給食に米飯や米の加工品がとりいれられるようになったり、古米をアフリカなどの政府援助に使用したり、その他家畜の飼料にしたりして処分するなど、在庫調整に腐心するようになった。
 そのような状況の下、流通面においては、縁故米の拡大から自主流通米の承認などにより、食糧管理制度の逸脱を認めるようになった。
 しかしながら、根本的解決には至らなかったため、食管赤字は収束せず、生産者米価よりも消費者米価が安い逆ザヤだったため、歳入が不足し赤字(食管赤字)が拡大、1980年代には、国鉄、健康保険とともに、日本政府の巨額赤字を構成する「3K赤字」と呼ばれるようになり、行政改革における重要なテーマとなった。
 供給においても、1983年(昭和58年)の不作時には、政府が放出しようとした1978年(昭和53年)度産の超古米に規定以上の臭素が検出され安全性に問題があるとされたため、翌1984年(昭和59年)に韓国から米15万トンの緊急輸入が行われたり、1993年(平成5年)の全国的な米の不作による平成の米騒動においては、タイなどから米の緊急輸入が行われるなどした。なお、米の消費量は、ピークの1962年(昭和37年)には、日本人一人あたり年間118.3キログラム消費していたものが、その後一本調子で減少、1990年代後半には、ひと頃の半分の60キログラム台に落ち込んだ。
 家計支出に占める米類の支払いの割合は、10%強だったものが 1.1 - 1.3% と 1⁄10 になり、米の地位低下が甚だしい。

 一方で1993年(平成5年)、ウルグアイ・ラウンド農業合意により、米の義務的な輸入(ミニマム・アクセス)を課せられるようになり、食糧管理制度は本格的な見直しを迫られた。
 1995年(平成7年)、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律いわゆる食糧法)が施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となり、政府の管理が緩められた。水稲の作付け面積と生産量に関しては、その後も減少し、1995年(平成7年)には作付け面積 211万ヘクタール、生産量 1072万トンに、2000年(平成12年)以降は、作付け面積 170万ヘクタール、生産量 900万トン程度となり、作付け面積は半減、生産量は60%程度を推移している。
 また、食糧法は、2004年(平成16年)に大幅に改正され、さらに政府の関与度を減らしている。

 ▼中国

 アジア米の原産地はインドアッサム地方から中国雲南省というものが有力な説であり、15000年前には長江中流域で稲作の形跡が見られるなど世界最古の稲作の歴史を有する。
 確実に稲作が行われていたとみなされる痕跡は、紀元前7500年頃 - 紀元前6100年頃の新石器時代彭頭山文化に属する彭頭山遺跡や八十壋遺跡において発見されている。
 日本の稲作もこの地域から伝わったものと考えられている。
 伝統的な農業地理の理解では、秦嶺・淮河線以南が稲作地域とされており、水源と土地に恵まれた長江中下流域において盛んであり、ここで生産された米は、大運河などを通じて華北地域まで運ばれ食を担った。
 元々は、ジャポニカ種であったが、南宋の時代に、インドシナ半島からインディカ種の一種である占城稲が流入すると、旱害に強く早稲種で二期作が可能であるという理由から一気に普及しこの地域での主要なイネの種となった。
 この時代、「蘇熟すれば天下足る」「江浙熟すれば天下足る」(長江下流域; 蘇・江=ほぼ現在の江蘇省、浙=ほぼ現在の浙江省)と言われ、下って明清代には、稲作の中心が長江中流域である現在の湖南省・湖北省に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われ、国の穀倉として認識されたことがうかがえる。

 一方で、秦嶺・淮河線以北は稲作不適地域と認識されていたが、1900年頃以降の日本の進出に伴い旧満州地域である中国東北部に寒冷に強いジャポニカ種を定着させ、その後の農業技術の発展から、この地域においても稲作が大々的に展開されている。
 2000年代後半時点で世界最大の米生産・消費国である。
 生産は、約7割がインディカ種、約3割がジャポニカ種となっている。
 インディカ種に比べジャポニカ種は手間がかかり高価であるが経済発展による所得向上からジャポニカ種の消費増加傾向のほか、地方都市間の人口移動による新たな消費層の発生などを背景に、中国の米消費量は増加傾向にある。
 一方で、1990年代後半に豊作だったことから作付け面積が減少、中国政府は2004年に援助政策に乗り出している。
 中国政府は寒冷地への稲作拡大だけでなく、収量を増やすための栽培技術や品種改良にも力を入れている。
 中国工程院の袁隆平らのチームが開発したハイブリッド米(英語版)「湘両優900(超優千号)」は2017年、河北省の試験圃場で1ヘクタール当たり17.2トンと米としては世界最高の収量を記録した。
 これは日本の平均の3倍近い[53][54]。翌2018年には18トン超と、記録を更新した。
 一方で、2004年に韓国へ輸出された中国製蒸し米、揚げ菓子などからホルムアルデヒドスルホキシル酸ナトリウムが検出され、韓国政府が輸入を停止するなど、安全性の問題も発生している(中国産食品の安全性)。

 ▼アメリカ合衆国

 アメリカ大陸で米が栽培されるようになったのは西洋人との接触以降のことであり、アメリカ合衆国における稲作の歴史はアジアに比べると短いが、2009年の生産量は1000万トンに達しており、うち440万トンが輸出されている。
 アメリカ国内での用途としてはそのまま使用するのが56%、加工用が18%、酒造用が12.2%、ペット用が12%などとなっている。
 アメリカ合衆国における米の産地は南東部のルイジアナ州、ミズーリ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、テキサス州、フロリダ州、および南西部カリフォルニア州のサクラメント・バレーがある。
 すでに17世紀はじめに今のバージニア州でイネの栽培が始まっていたが、1694年にマダガスカルから稲作がサウスカロライナ州にもたらされ、南部諸州に広まった。
 これらの土地で栽培されたのはバスマティライスやジャスミンライスに代表されるアミロースの多い長粒種のインディカ米だった。

 一方カリフォルニアでは19世紀後半に鉱山や鉄道建設の労働者として中国や日本からの移民が増加して米の需要が発生したが、長粒種の栽培には成功しなかった。
 1908年にW.W. Mackieという土壌学者がサクラメント・バレーのビッグズで日本のイネの栽培にはじめて成功し、1912年にビッグズにはカリフォルニア米の試験場が作られた。
 カリフォルニア米はアメリカ合衆国の他の地域の米と異なり、短粒種または中粒種のジャポニカ米が大部分を占めている。
 カリフォルニアで公式に認められている品種は17種類があるが、中粒種のカルローズ、短粒種のコシヒカリとあきたこまちがもっとも成功している(アメリカ合衆国では米粒の長さが幅の2倍未満のものを短粒種、2倍以上4倍未満を中粒種、4倍以上を長粒種と定義している)。
 中でも1948年に開発されたカルローズはカリフォルニア米全体の85%以上を占める。
 一方、国府田敬三郎の農場では、カルローズ開発者のひとりであるヒューズ・ウィリアムズを雇用し、1950年代にカルローズを中東のイネと交配してKR55という品質の高い中粒種 (premium medium grain) を開発し、国宝ローズの名で販売した。
 同じ品種はJFC (JFC International) の「錦」にも使われている。

 ▼クリミア

 クリミアでは、コメが60万トン程度が生産されている。

 〔ウィキペディアより引用〕