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世界の女傑たち Vol.005−②

2023-10-15 21:00:00 | 自由研究

 ■ココ・シャネル Ⅱ

 ▼映画用のデザイン

 1931年、モンテ・カルロにいる間にシャネルは共通の友人であったドミトリー・パヴロヴィチ大公を通じて映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと知り合った。
 ドミトリー・パヴロヴィチ大公は最後のロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世の従兄弟である。
 ゴールドウィンはシャネルに興味深い提案を行った。
 それは総計100万ドル(今日のおよそ7500万ドルに相当)の報酬でMGMのスターたちのための衣装デザインを依頼し、そのためにシャネルをハリウッドに2年間招聘するというものであった。
 シャネルはこの依頼を受け、友人のミシア・セールと共にハリウッドに渡った。
 彼女は「映画が私に何を与え、私が映画に何を与えられるかを確かめるために」ハリウッド行きに同意したと語った。
 シャネルのハリウッド訪問は大きな話題を呼び、当代一流の映画関係者(美術監督のミッチェル・ライゼンや映画監督のセシル・B・デミルなど)がシャネルとともに仕事をした。
 また、彼女はマーヴィン・ルロイ監督の映画『今宵ひととき(英語版)』(1931年)でグロリア・スワンソンが身に着けた衣装と、ローウェル・シャーマン監督の映画『黄金に踊る(英語版)』(1932年)でアイナ・クレアが身に着けた衣装をデザインした。
 また、グレタ・ガルボとマレーネ・ディートリヒの二人が個人的な顧客となった。
 しかし、ハリウッドにおけるシャネルのデザインは成功したとは言えなかった。
 たとえシャネルのデザインであっても、ハリウッドのスターたちは必ずしも喜びはしなかったし、毎回シャネルの衣装を身に着けることに抵抗もした。
 『ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)』誌はシャネルとハリウッドがうまく連携できなかった理由を「シャネルは、一人の女性をまさしく一人の女性として表現しようとした。ところがハリウッドの人間は、一人の女性を演出する際、何よりもまず、まるで女性が二人いるかのように表現しようとする。
 シャネルは、そんなハリウッド式のスタイルがあるとは思ってもみなかったのだ。」と書き、シャネルのデザインは映画界の大物たちにとっては派手さが足りなかったのだろうと推測している。
 シャネルはハリウッドでの経験について多くを語っていない。
 シャネルの伝記を書いたジャーナリスト・作家のマルセル・ヘードリッヒ(フランス語版)はハリウッドでのシャネルにほとんど触れておらず、エドモンド・シャルル・ルーはシャネルから苦労してハリウッドについての話を聞き出したことを語っているが、その話の内容は次のようなものであった。

 ●ハリウッドはどうでした?」「おしりとおっぱいの殿堂ってとこね。」...「キャバレーの<フォリー=ベルジェール>の夜会みたいなものよ。女の子はみんな綺麗で、羽根飾りをつけてた。それだけ」「でも……」「でもなんてないの。だいたい"超"がつくものなんて、どれもこれも同じよ。超性(性染色体の比率が乱れた中性の有機体)にしろ、超大型プロダクションにしろ……ああいうものはみんな、いつかかならずだめになる...」「ではハリウッドの雰囲気はどうでしたか?」「幼稚ね……ミジアなんか、私よりもっとうんざりしてたわ。私は笑ってただけ。いつだったか、ある有名な俳優さんのお宅に二人で招待されたことがあったんだけど、その俳優さん、私たちに敬意を表するためだとかいって、庭の木を青く塗っちゃってたの。気をつかってくれたんでしょうけど、ちょっと幼稚ね……」[34]:125

 しかし、シャネルがハリウッドで仕事をしたこと自体は大きな宣伝効果を発揮しており、また彼女はハリウッドの映画産業から「写真映り(photogeny)」の概念を学び取り、以降の仕事において「写真映り」に配慮するようになる。
 シャネルのデザインがうまくハリウッドに適合しなかったことから、予定されていた二度目のハリウッド訪問は中止になり、ハリウッドとの関わりは終わった。
 しかし、シャネルはいくつかのフランス映画の衣装デザインは続けた。
 その中にはジャン・ルノワール監督の1939年の映画『ゲームの規則』があり、彼女は「ラ・メゾン・シャネル(La Maison Chanel)」としてクレジットされている。
 彼女はルノワールをルキノ・ヴィスコンティに紹介した。
 彼女はヴィスコンティというイタリア人が映画業界で働きたがっていることに気付いていた。
 ルノワールはヴィスコンティに好感を持ち、次の映画プロジェクトに彼を連れて行った。

 ▼スキャパレッリとの競争

 シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する営利企業になっており大きな利益をあげていた。
 しかし1930年代の間に、オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになった。
 1920年代のフラッパーのボーイッシュな装いと短いスカートは瞬く間に姿を消した。
 ハリウッドの映画スター用のシャネルのデザインは成功せず、期待されたほどには彼女の名声を高めなかった。
 さらに深刻だったのは、最大のライバルであったエルザ・スキャパレッリがシャネルを上回る評判を呼んだことである。
 シュルレアリスムへの遊び心ある援用で満ちていたスキャパレッリの革新的デザインはファッション界において圧倒的な賞賛を集め、熱狂を生み出した。
 さらに、1936年にフランス全土で発生した大規模なゼネストが苦境にあったシャネルをいらだたせた。
 シャネルのクチュールで働く従業員・お針子たちもまた、有給休暇や週給制の実施、労働時間の短縮などを求めてストライキに突入し、シャネルは自分の店から追い出された。
 シャネルは従業員側のあらゆる要求を拒否しようとし、後にこのストライキに参加した人々を「病気」だと罵っている。
 しかし、スキャパレッリとの競争のために強硬姿勢を貫くことができず、次シーズンのコレクションの発表が不可能になる段まで話が進むと、譲歩を余儀なくされた。
 彼女はストライキに参加した従業員を恨み、この経緯を長く引きずることになる。

 強力なライバルの出現、従業員の反乱に加え、この時期のシャネルはスランプにも悩まされていた。
 彼女はジャン・コクトーの依頼を受け、彼が台本のオペラ『エディプス王』でコラボレーションした。
 この時に彼女がデザインした衣装は俳優の背格好や肌の色ごとに長布を巻くというものであったが、評論家からも観客からも惨憺たる評価で迎えられた。
 エドモンド・シャルル・ルーはこれについて「あまりに醜悪で、負傷者かおむつをあてた赤ん坊にしか見えなかった」と言う評を紹介している。
 彼女はまたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの作品、『バッカス祭(Bacchanale)』の衣装にも関与した。
 衣装デザインはサルバドール・ダリによって行われた。
 しかしながら、1939年9月3日にイギリスが対独宣戦布告を行ったことで、バレエ・リュスはロンドンへ去ることを余儀なくされた。
 彼らがヨーロッパに残した衣装は、ダリの最初のデザインに従ってカリンスカ(Karinska)によって作り直された。

 ▼第二次世界大戦

 1939年、第二次世界大戦が始まると、シャネルは突如、ブティックだけを残してカンボン通り31番地の作業場(アトリエ)を閉め、お針子全員を解雇した。
 シャネルが作業場を閉鎖した理由は良くわかっていないが、1936年にストライキを行った従業員に対する報復であると見られる場合が多い。
 彼女自身は「戦争のせいで仕事をやめた」と語っており、この判断は戦時中に服を買うような人々の存在が想像もできなかったからだとしている。
 この行動は強い批判を浴び、経営者組合は考え直すように説得を行ったが、シャネルは断固として再開を拒否した。
 ドイツが1940年にフランスを占領すると、シャネルはドイツ軍人たちが好んで居住先に選んだホテル・リッツに住んだ。
 この頃にシャネルはパリ駐在のドイツ外交官・諜報員のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(ドイツ語版)男爵(フライヘア(英語版))と交際していたことが知られており、彼女のアパルトマンを徴発しないという保証をドイツ側から得ていた。
 ディンクラーゲとシャネルがいつどこで知り合い、いかなる関係を築いていたのかはよくわかっていない。彼女自身の言によれば両者は「長年の」友人であった。

 長期にわたって続いていたパルファム・シャネル社を巡るシャネルとヴェルテメール兄弟の争いにもこのドイツによる占領は大きな影響を及ぼした。
 ナチスの方針ではユダヤ人の資産は「アーリア人」の所有に移されなければならなかった。
 ヴェルテメール兄弟はドイツによる占領の前にフランスを離れアメリカに亡命したが、反ユダヤ主義を前面に出すドイツの下でパルファム・シャネルに対する自分たちの財産権が安全でないことを予想し、1940年5月にフランス人カトリック教徒(即ち「アーリア人」)の実業家・事業家フェリクス・アミオ(英語版)にパルファム・シャネルの株を売却した。
 アミオは以前からヴェルテメール兄弟の知己がある人物であり、ドイツ当局とフランスの行政組織はこれがユダヤ人であるヴェルテメールの資産を守るための目くらましに過ぎないものと判断し、突撃隊(SA)が彼を連行して尋問した。
 この時、パルファム・シャネル社の「アーリア化」が実際に行われているかどうかを調査するべくヴィシー政権によって任命された臨時行政官ジョルジュ・マドゥーは、1931年までパルファム・シャネルの取締役を務めていた人物で、ココ・シャネルと密接な関わりを持っていた。
 シャネルはこの状況を利用できると考えた。
 マドゥーが「アミオ氏の主張はまったくの虚偽だと思わざるを得ない。
 パルファム・シャネルはまだユダヤ人の企業だ」という結論を出した後の1941年5月5日、シャネルはマドゥーへ「私は、パルファム・シャネルの全株式の買い手となります。
 …これはいまだにユダヤ人の所有となっていますが、あなたはアーリア人にこれを譲渡するまたは譲渡させる任務を担っています」と連絡し、(アーリア人である)自分が同社を所有することで「アーリア化」は実現できると主張した。
 さらに「私は明白な優先権を持っています。
 ......この事業の創設以来、私が自分の作品から受け取っていた利益は不当なものです。
 ......過去十七年間に私が苦しめられてきた偏見をある程度修正していただけるものと考えています」とも書いている。
 第三帝国の法に照らせば、パルファム・シャネルに対する所有権は「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であったヴェルテメールらはすでにこれを法的に「放棄している」状態であると解釈可能であった。

 アミオは度重なる尋問を受けるなど、その立場は安泰とは程遠かったものの、賄賂などを駆使し第三帝国の支配地においてシャネルNo. 5の販売を維持し続けた。
 こうして、ヴェルテメール兄弟の予防策は成功し、シャネルの試みは阻止された。
 アミオは戦後にパルファム・シャネルをヴェルテメール兄弟の手に返した。

 ▼ナチスの諜報活動との関わり

 戦時中、シャネルはドイツの諜報活動に関与していた。
 彼女が参加した最も有名な任務はモデルフート作戦(Modellhut、'Operation Model Hat')である。
 シャネルは連合国優位に傾く戦局の中で、シャネルの友人であった当時のスペイン駐在イギリス大使を通じてイギリス首相ウィンストン・チャーチルを説得し和平の仲介を行うことを買って出た。
 シャネルの考えは「誇大妄想」と評されるようなものであったが、ディンクラーゲを始めシャネルの考えに同調する人々が存在したことで実行に移された。 
 シャネルとディンクラーゲは国家保安本部でヴァルター・シェレンベルクに報告を行い、その場でシャネルがディンクラーゲに提案した計画も報告されることになっていた。
 1943年末、または1944年初頭、シェレンベルクはシャネルの提案を入れてイギリスに分離講和を考慮させる計画を実行した。シェレンベルクは型破りな手法を用いるという欠点があった。
 戦争終結時にイギリスの諜報機関によって尋問された時でも、シェレンベルクはシャネルが「政治的交渉をチャーチルと行うのに十分なほど彼の知己を得ている」という見解を維持していた。
 結局このミッションは失敗した。
 イギリス情報機関(M16)の尋問調書の記録によって、マドリードに到着した後、騙されてメッセンジャーとして採用されシャネルらに同行していたロンバルディがイギリス大使館にシャネルを含む自分の同行者全員がナチスのスパイだと伝えたことで計画が破綻したことが明らかになっている。

 ▼シャネルに対する告発

 1944年9月のパリ解放の2週間後、シャネルはホテル・リッツで逮捕されフランスの粛清委員会に尋問された。
 逮捕された時、シャネルは強い恐怖を覚えフランス国内兵や対独レジスタンスを激しく罵った。
 しかし数時間でシャネルは解放された。
 これほど早く解放された理由は「極めて有力な人物のコネ」があったからであると考えられる。
 エドモンド・シャルル・ルーはその人物が誰であるのか全く手掛かりがないとしているが、多くの場合これはチャーチルであると考えられている。
 ハル・ヴォーンはシャネルの姪孫であるガブリエル・パラス・ラブリュニー(Gabrielle Palasse Labrunie)に対する電話インタビューで、シャネルは自宅に戻った時、「チャーチルが私を解放してくれた」とメイドに言ったという証言を得ている。
 シャネルに対するチャーチルの介入の度合いは、戦後にゴシップと疑惑の種となった。
 もしシャネルが自身の活動について裁判で証言することを強制された場合、イギリスのトップクラスの官僚や社会的エリート、そして王室の親ナチ的態度と活動が暴露されるだろうと人々が心配したのだと、あるウィンザー公の伝記作家は書いている。
 1944年にフランスが解放された時、シャネルは自身の店のウィンドウに全てのGIにシャネルNo.5を無料で提供すると書いたメモを残した。
 この最中、彼女はナチスの諜報活動に協力したことで犯罪者として告訴されるのを避けるためスイスに亡命した。

 1949年、パリに来て捜査官たちの前に立つように要求されたシャネルは、ゲシュタポの諜報員ルイ・ド・ヴォーフルラン男爵(Baron Louis de Vaufreland)の戦争犯罪裁判で彼女の活動について示された証言に立ち向かうため、亡命先のスイスを離れた。
 シャネルは全ての告発を否定した。彼女は潔白の証として、裁判長(presiding judge)ルクレール(Leclercq)に「前イギリス大使のダフ・クーパーさんに証言をお願いすることもできます。
 イギリス上流社会で私がどれほどの信頼をいただいているか、あの方が証明してくださるでしょう」と発言している。

 ▼戦後の生活とキャリア

 シャネルはスイスへ移った後、そこでディンクラーゲとともに数年を過ごした。
 パルファム・シャネルを巡るヴェルテメール兄弟との経営権争いは戦後も続いた。
 業界はパルファム・シャネルの経営権を巡る法的闘争を興味と若干の懸念を持って見守っていた。
 本係争における利害関係者たちは戦時中のシャネルとナチスの関係がもしも公に知れ渡れば、シャネルブランドの名声と地位に深刻な影響を及ぼすと認識していた。
 『フォーブス』誌はヴェルテメール兄弟が抱えていたジレンマを、(ピエール・ヴェルテメールにとって)「訴訟は、シャネルの戦時中の行動を明るみにし、彼女のイメージと、彼のビジネス双方を窮地に追いこみかねなかった」と要約している。
 シャネルはヴェルテメールに対する訴訟のためにヴィシー政権の首相ピエール・ラヴァルの義理の息子、ルネ・ド・シャンブラン(英語版)を弁護士として雇った。
 結局、ヴェルテメールとシャネルは1924年の元々の契約について再交渉し、互いに和解した。
 1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(21世紀の通貨換算でおよそ9億ドルに相当する)を受け取った。
 また、将来の全世界におけるシャネルNo.5の売り上げの2パーセントについて権利を得た。
 彼女が得た経済的利益は莫大なものであった。
 彼女は1年あたり2500万ドルの収入を得ていたと予想されており、当時世界で最も富裕な女性となっていた。
 付け加えて、ピエール・ヴェルテメールはシャネル自身が提案した特殊な条項に同意した。
 即ちヴェルテメールは、シャネルのその後の一生涯にわたり、彼女の生活費を―些末なものから大型出費に至るまで―全て負担することに合意した。

 女性が第一のクチュリエとして君臨した戦前とは異なり、戦後はクリスチャン・ディオールが1947年に彼のニュールックで成功を収めた。
 そしてディオールの他にも、クリストバル・バレンシアガ、ロベール・ピゲ(英語版)、ジャック・ファットら優れた男性デザイナーが認められた。
 シャネルは、ウエストニッパー(waist cinchers)、パッド入りブラジャー(padded bras)、厚手のスカート(heavy skirts)、角張ったジャケット(stiffened jackets)といった男性のクチュリエが好む美学に対して、最終的には女性たちが反抗するであろうと確信していた。
 しかし、戦時中に活動を停止し、さらに対独協力の過去のために表立った行動がとりづらかったシャネルはファッションに影響を与えられる状況になかった。
 1953年、彼女はコート・ダジュールの邸宅ラ・パウザ(La Pausa)を出版業者かつ翻訳家のエメリー・リーブズ(英語版)に売却した。
 ラ・パウザの5部屋がダラス美術館に再現され、リーブズの美術コレクション及びシャネルの家具が収められている。

 70歳を過ぎた時、彼女はファッション界に復帰した。
 シャネルが復帰を決断した1954年には、既に彼女がファッションの表舞台を引いてから15年もの時間がたっていた。
 流行に敏感な人々の中にシャネルの名前を記憶している人は少なく、2月5日に新作の発表とともに新たに店を開いた時、そこに集まったのは年配ばかりで若い女性はほとんどいなかった。
 女性たちにディオールが大流行する中[34]:279、彼女の発表について書いた『オーロール』誌は「それはすっかり過去のものだ。われわれは、十四年の沈黙のあとに、ほとんど当時そのままをよみがえらせたものを見るように招かれたのである...」と評した。
 シャネルのコレクションは「このドレスは一九三八年ですらない、一九三〇年のドレスの亡霊だ」と酷評され、全く相手にされなかった。
 苦境のシャネルを支えたのはパルファム・シャネルを巡って争っていた長年の敵であったピエール・ヴェルテメールであった。
 彼は気落ちするシャネルを励まし、全面的な資金提供を行った。
 実際にはシャネルの復権にそう長い時間は必要とされなかった。
 フランスのメディアが戦時中の彼女のドイツ軍への協力活動及び愛人生活、並びにコレクションについての論争の故に取り扱いに慎重であった一方で、アメリカとイギリスのメディアはをそれをファッションと若者を新しい方法で結びつける「ブレークスルー」だとみなした。
 発表時フランスで酷評されたドレスは1年後にはアメリカで爆発的な人気を得ていた。

 アメリカの『ヴォーグ』誌の影響力ある編集者ベッティーナ・バラード(Bettina Ballard)はシャネルに忠実であり続け、1954年3月に「1950年代のシャネルの顔(the "face of Chanel" in the 1950s)」であるモデル、マリー・エレーヌ・アルノー(英語版)の特集を組んだ、撮影者はヘンリー・クラーク(英語版)で、アルノーは真珠のネックレスを組み合わせた赤いVネックのドレス、層状のシアサッカーのイブニング・ガウン、ネイビージャージのミッドカーフ・スーツの3点の服を身に着けた。
 アルノーが着たこれらの服は、「軽くパッドを入れた、スクエアショルダーのカーディガンジャケット、2つのパッチポケット、ボタンを外して折り返すと、パリッとした白い袖口が際立つスリーブ」、「立ち上がりのある襟と蝶型リボンの付いた白いモスリンのブラウス、ブラウスに付いた小さいタブでウエストのボタンに留めることのできる、ゆったりしたAラインスカート」が特徴であった。
 バラードはこの「若々しい優雅さと無邪気さを強く印象付ける」スーツを自費で購入した。
 そしてアルノーがモデルを担当した衣装にはすぐに全米から注文が殺到した。
 『ライフ』誌は復帰後3回目のコレクションの際には、シャネルの復帰を「...彼女は七十一歳にしてモード以上のものをもたらした。
 それはもはや革命である」と評し、各国語版全てに四ページを割いてシャネルを紹介した。
 以降、シャネルはその死に至るまでファッション界に君臨することになる。

 ▼晩年

 彼女の最後の年月にはしばしばジャック・シャゾ(英語版)及び親友のリルー・マルカンがそばにいた。誠実な友人としてはブラジル人Aimée de Heerenもおり、彼女はパリのホテル・ムーリス(英語版)に年に4ヶ月住んでいた。かつてライバルであった二人はウェストミンスター公(英語版)との幸福な思い出を共有していた。
 彼女たちは頻繁にパリの中心部で散歩をした。
 エドモンド・シャルル・ルーはシャネルの晩年は取り巻きの人間はたくさんいたものの、彼女を利用しようとする人間ばかりで「孤独だった」と評し、晩年の彼女の発言として「私の言葉を記事にしようと話を聞きに来る人たちもいるし、私の話に退屈しているくせに、自分の家よりもこの家で食事をするほうが多いっていう人たちもいる。
 でもいちばん多いのは、頼みごとをしに来る人たちね。こういう人たちがいちばん熱心。お金……いつもお金よ」という言葉を引用している。

 ▼死

 老境に入ったシャネルは衰え、病を患っていた。夜間は夢遊病の症状が見られるようになり、眠ったまま部屋の中で立っている姿が見かけられるようになっていた。
 1971年1月9日(土曜日)、彼女は普段通りに春のカタログを準備し、午後に長めのドライブに出た。そのすぐ後に気分が悪くなりベッドに早めに入った。
 彼女はメイドのジャンヌに最後の言葉として「人はこんなふうに死ぬのよ(C'est comme cela que l'on meurt)」と語った。
 1971年1月10日、30年以上居住していたホテル・リッツで死亡した。
 葬儀はパリのマドレーヌ寺院で執り行われた。
 彼女のファッションモデルたちが最前列の席に陣取り、棺は白い花(ツバキ、クチナシ、ラン、ツツジ)そして少量の赤いバラで飾られた。
 墓はスイス、ローザンヌのボワ=ド=ヴォー(Bois-de-Vaux)墓地にある。
 シャネルは生涯にわたって高級ファッションにおける重要人物とみなされていたが、シャネルが残した影響はその死後にさらに調査された。
 ジョルジュ・ポンピドゥー大統領の夫人クロード・ポンピドゥー(フランス語版)は長年シャネル・コレクションを愛用し、シャネルが死去する7か月前にエリゼ宮殿での晩餐会に招待するほどであった。
 彼女はシャネルの埋葬後にも大規模な追悼式典を計画したが、まもなくフランス諜報機関が戦時中のシャネルの敵国との関わりに関する文書を公開し始めたために、この計画は取り消しとなった。

     〔ウィキペディアより引用〕