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言の葉辞典 『米』①

2023-10-24 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『米』①

 【読み方】
  音読み べい、まい [外]め
  訓読み こめ [外]よね

 【意味】
 米とは、稲の種子からもみ殻を取り除いたもの。
 日本人の主食となる穀物。

 【語源・由来】
  米の語源は、「こめる(籠める)」の連用形が名詞化したとする説が有力となっている。
 古く、米は「ヨネ」の使用例が多く、「コメ」の語は使用例が少ない。
 「コメ」の語が多く用いられたのは、改まった儀式の場であったことから、米には神聖なものや生命力のようなものが宿っており、「籠められたもの」の意味で「コメ」になったといった解釈もある。
 平安中期以降、「ヨネ」は古語として扱われ、「コメ」が多用されるようになった。
 米の語源で「こめる(籠める)」に次いで有力とされている説は、酒の醸造を意味する朝鮮語「コメン(コム)」の変形とする説である。
 酒の醸造法は朝鮮から伝来したといわれ、「醸す」も「カム」「コム」と繋がりがある。
 ベトナム語の「コム」やタミル語の「クンマイ」なども、米の語源と考えられており、アジアをひとつの国と考えれば、当然の繋がりとも考えられるが、発音の似た言葉で確実に語源が異なる言葉も多くあるため、偶然の一致とも考えられる。
 その他、「小実(コミ)」や「小目(コメ)」が転じたとする説もあるが、上代特殊仮名遣いにおいて「米」の「コ」と「小」の「コ」では仮名遣い異なるため、有力とされていない。

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 米(英: Rice)

 稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。
 穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。
 食用とする場合、系統や品種の性質によっては調理法が異なるため注意が必要。

 日本では主食の一つであり、日本語では「稲」「米」「飯」といった、植物としての全体と実、収穫前と収穫後さらに調理前と後などにより使い分けられる多様な語彙がある。
 日本を含む東アジアおよび東南アジア、南アジア以外では一般的に主食として特別視することが希薄であり、こうした区別がない言語が多数ある。
 例えば英語圏では全てriceという同一の単語で扱われる(反対に、日本では「大麦」「小麦」「エン麦」などが余り区別されず「麦」という総称で言われる)。
 また、日本語で「飯」は食事全般も指すため、「朝御飯はパンを食べた」という表現も普通に使われる。

 《種類》

 米は各種の観点から以下のように分類される。

 なお、日本では農産物検査法による公示の『農産物規格規程』や、JAS法に基づいた告示の「玄米及び精米品質表示基準」に一定の定めがある。

 ▼水稲と陸稲

 水田で栽培するイネを水稲(すいとう)、耐旱性や耐病性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ)という。
 水稲と陸稲は性質に違いがあるが、同じ種の連続的な変異と考えられている。
 一般的に圃場の整備については水稲の方がコストがかかる一方で、面積当たりの収量が多く、連作障害が殆ど無いなどのメリットと、全国的に水田整備が行き渡ったことから、現在、日本の稲作では、ほとんどが水稲である。
 水稲の収穫量は798万6000tで陸稲の収穫量は2700t(2015年見込み)おおよそ水稲は陸稲の2957倍となっている。
 また、栽培面積においても水稲が99.9%以上を占めている。
 日本では水稲と陸稲の区分は農産物規格規程においても規定されている。
 日本では水稲と陸稲は明確に区別されているが、他の国では明確には区別されていない(世界的に見ると水稲といっても灌漑稲、天水稲、深水稲、浮稲のように栽培の環境は大きく異なっている)。

 ▼粳米と糯米

 米のぬか層を除いた中心部分(胚乳)のデンプンの性質(糯粳性)の違いにより、粳性のものを粳種あるいは粳米(うるちまい、うるごめ、あるいは単に粳〈うるち、うる〉)、糯性のものを糯種あるいは糯米(もちまい、もちごめ)に分けられる。
 日本では玄米及び精米品質表示基準で、「うるち」と「もち」に分けられている。

 ★粳米(うるちまい)

 デンプン分子が直鎖のアミロース約20%と分枝鎖のアミロペクチン約80%から成る米。もち米より粘り気が少ない。 
 粳米は通常の米飯に用いられる。販売で「うるち」を省略されることが認められていて、「もち」と断りが無ければ「うるち」である。
 団子などの材料とする上新粉は、粳米を粉末に加工したものである。
 糯米(もちごめ) デンプンにアミロースを含まず、アミロペクチンだけが含まれる米。
 モチ性の品種のデンプンは調理時に強い粘性を生じるという特性を持つ。
 透明感がない乳白色が特徴で、餅や強飯・赤飯に用いられる。
 白玉の材料とする白玉粉や和菓子の材料とする寒梅粉は、糯米を粉末に加工したものである。
 アジアイネではジャポニカ種だけでなくインディカ種にも糯米が存在するが、アフリカイネについては糯性のものは知られていない。

 日本では、餅以外の「ご飯」ではアミロースが少なく、粘りや甘みがある米の品種が好まれてきた。現代ではパラパラした食感に炊き上がる高アミロース米が開発されている(秋田県の「あきたぱらり」、福井県の「越のリゾット」など)。
 チャーハンやパエリアに向くほか、一般的にアミロース含有率が高いほど食後の血糖値上昇が緩やかになることなどが理由である。
 なお、糯粳性のある植物としては、イネのほか、トウモロコシ、オオムギ、アワ、キビ、モロコシ、アマランサスなどがある。

 ▼軟質米と硬質米

 米は軟質米と硬質米に分けられる。
 軟質米は食味の点で優れるが貯蔵性の点では劣る。

 ▼飯用米と酒造米

 醸造用の酒造米(酒造用米、酒米)は飯用米と区分される。
 農産物規格規程には、「うるち」と「もち」に加えて醸造用が定められている。
 酒造が酒税法で規制されている為、個人用には売られていない。

 ▼新米と古米

 米は新米と古米と区分される。

 新米と古米(しんまいとこまい)

 その年に収穫された米と、前年に収穫された米。

 同様に、前々年に収穫された米を古古米・古々米(ここまい)、以下同様に、古古古米・古々々米(こここまい)、古古古古米・古々々々米(ここここまい)と、古(こ)を収穫した年から現在までの年数分呼ぶ。

 《定義》

 新米と古米の区別について、明確な定義はない。

 11月から翌年10月までの米穀年度を基準にすると、11月1日をもって新米が古米に変わることになる。ただしこの定義は、夏から10月までに取れた早場米に適用できない。
 なお、新米・古米の区別と直接には関わらないが、米の備蓄計画では7月から翌年6月までの1年間を単位としている。

 米の品質変化は梅雨時期に大きいため、梅雨明けに古米になると考えることもある。
 ただし、現代では低温倉庫が普及したため、必ずしも梅雨時期に変化が大きいとはいえない。
 JAS法に基づく「玄米及び精米品質表示基準」によれば、新米と表示できるのは、収穫年の年末までに精白・包装された精米に限る。
 そのため、店頭で新米と表示された米が売られるのは、翌年の年初か、せいぜい春までである。
 ただし、新米と表示できなくなったからといって、古米になるというわけではない。

 《違い》

 古米には、新米に比べ次のような違いがある。

 ・米飯が、硬く、粘りが少ない。
 ・米飯の光沢や白度が低い。
 ・古米臭がする。
 ・水分が抜けているため、炊いた時新米より2、3割膨れる。
 これらは古古米、古古古米になるにつれ強くなる。

 東南アジア・南アジアでは、粘り気の少ない米飯が好まれ量も増えるため古米の方が人気である。
 また日本でも中世から近世にかけては新米よりも古米の方が値段が高い。
 これは炊くと量が増えるからで、味よりもお腹が一杯になる方が重要だったと考えられる。
 現代でも、寿司飯は酢の浸透が良いという理由で古米を使う、若しくは一部ブレンドする。

 ▼有色米

 黒米、赤米、緑米などを総称して有色米という。
 野生種に近い米である。
 古代から栽培していた品種あるいは古代の野生種の形質を残した品種の総称として古代米と呼ばれることもある。
 ブータンでは赤米の一種であるブータン赤米が主食として広く食されている。
 また、米ではなく葉や茎、穂が緑以外の色(紫、黄、赤等)に染まる稲を指して有色米という場合もあるが、穂などが着色するからといって必ずしも玄米が着色するわけではない。
 例えば「紫の君」は玄米は黒米となるが葉色は緑である。
 そのような稲の活用事例として有名なものに青森県田舎館村が1993年より村おこしで、異なる稲を植え分けて絵を描く田んぼアートを行なっている。
 また、それらの品種をさらに改良した観賞用稲の開発が青森県や秋田県で行われている。

 ・赤米(あかまい)

 日本の米のルーツといわれ、「古代米」ともいわれ、白米よりもビタミンが豊富。
 炊飯するときは、白米を少し混ぜて長めに浸水してから炊く。

 ・黒米(くろまい)

 アントシアニン色素を含んでいるのが特徴で、白米よりもビタミンやミネラルが豊富。
 炊飯するときは、白米を少し混ぜて長めに浸水してから炊く。

 ▼香り米

 強い香りを持つ品種を香り米という。東南アジア、南アジア、西アジアなど、地域によっては香りの少ない品種よりも好まれる。
 インドのバスマティなどが有名。 日本でも北海道、宮城県、高知県、鳥取県、宮崎県など各地で独自に香り米を作っていて、生産は増加傾向にある。

 《歴史》

 稲は、原産地である中国大陸の中南部から北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。
 麦の一定面積あたり収穫量が1haあたり約3.5tであるのに対して、米は約5tと多く、他地域に比べてアジアの稲作地域での人口増大を可能にした。

 ▼日本

 稲作は日本においては、縄文時代後期から行われ始めたといわれる。
 これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、縄文土器に残る痕跡などから分かる。大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。
 弥生期では一粒当たりから生産できる量は400粒ほどだったが(それでも麦が一粒当たり150 - 170粒の生産量であることを考えれば、高い生産量といえる)、品種改良や水田開発が進んだ現在では一粒当たり2千粒(約5倍)まで生産量が上がっている。
 米は、食料として重要である一方で、比較的長期に保存ができるという特徴から、マダガスカルのメリナ人やタイにおけるサクディナー制など、米食文化においては経済的に特殊な意味を持ち、これは日本でも同様であった。

 長らく租税(租・あるいは年貢)として、また、石高制に代表されるように、ある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。
 貨幣経済が発達すると、それとの調和を図るべく、札差業が発達、米切手の発生や堂島米会所に代表される近代的商品取引システムの生成が見られ、江戸時代には政治経済の中心に米が置かれていた。
 そのため日本人の米に対する思い入れは強く、米は最も重要な食べ物とされ、主食とされてきた。
 天皇が新米を含む五穀を神に捧げて収穫に感謝する新嘗祭のように、神道など信仰や民俗・文化とも深い関りを持つ。
 宮城県は仙台藩時代から米の生産が盛んで正月以外にも餅を食べる習慣があり餅料理が発達した一方、第二次世界大戦前には関兵精麦が米穀餌料の卸や精麦で多額の利益を得ているなど、麦の需要が多かった地域でもある。
 これは仙台藩が米を江戸への輸出用(換金作物)として扱っていた名残とされる。
 戦後も麦の需要減少は緩やかであったため、関兵精麦は余力を残したまま不動産業への転換に成功している。
 越後長岡藩の武士によるとされる、文化2年(1805年)刊行の『粒粒辛苦録』は、農民のきわめて厳しい食生活を描いている。
 これに対し、同じ越後長岡藩の庄屋大平家が天保6年(1835年)に著した『農家年中行事記』は、しばしば行事が催され食物や酒がふるまわれ、小作人を含めて自由に食を楽しんでいた様子が窺え、為政者による記述とは異なり農民側からの記述には悲惨さが感じられない。

 このように、最近、各地域に残された家文書の研究が進み、厳しい制限の下に雑穀を中心とした食生活を強いられた貧しい農民像が必ずしも実態を示すものではないことが分かってきた。
 戦後の学校教育などにより「近世の百姓は米を作りながら米を食べられなかった」という「哀れむべき農民像」が半ば常識となっていることについては、これは為政者側が望んだ農民像であり、実際の農民側の記録を分析したところ近世の農民は、1日に4合程度の米を麦飯あるいは雑穀などとかて飯や雑炊にした食事を日常的に摂っていたという。
 必要な栄養を摂取することによりそれなりの食糧生産ができるわけで、それが、かて飯や雑炊であったにしろ食べずに米を作っていた筈はないのである。
 明治以降、日本は急激な人口増加と生活向上に伴って米の需要が高まったが、当時の日本国内の生産力はその需要に対応しきれず不足分を恒常的に輸入する一方で、米も通常の物資と同じく市場経済に基づき取引されており、相場商品・投機の対象として流通に不安を来すこともあり、しばしば社会問題となった。
 1921年(大正10年)米穀法が施行され政府備蓄米による価格統制や輸入米の関税統制が行われるようになった。
 また、1920年代には、植民地化した朝鮮半島において、農業近代化による米の増産計画(朝鮮産米増殖計画)が実施されるなどした。
 しかしながら、安定的供給までには至らず、1933年(昭和8年)米穀統制法、1936年(昭和11年)米穀自治管理法が施行され、米の生産・流通の統制が強化された。
 さらに、太平洋戦争開戦に向けての戦時体制整備の一環として、1939年(昭和14年)4月に米穀配給統制法が制定され、米の流通が政府により管理されるようになった。
 なお、同年9月には戦時の物資不足に鑑み興亜奉公日が設定され、日の丸弁当が奨励されたものの白米は禁止されず、この時点ではまだ米不足は酷くはなかった。
 だが12月には厳しさを増し米穀搗精等制限令が出され、七分搗き以上の白米を流通に付すことは禁止、1940年(昭和15年)の正月は餅すら白米は許されなかった。
 米不足は深刻となり、この年から中国や東南アジアからの輸入米(いわゆる外米)を国産米に混ぜて販売することが義務付けられた。

 1940年6月1日以降は、米を筆頭に生活必需品10品目について配給切符制が導入。     
 更に、日米開戦の2ヶ月後の1942年(昭和17年)2月には食糧管理法が制定され食糧管理制度が確立、米の流通は完全に政府が掌握するようになった。
 米だけでなく、魚介類や野菜・果物も配給制になり、国民の栄養状態は極度に悪化していった。こうした食糧難に対して、江戸時代のかてものの研究に帰って、食用野草や昆虫食など非常食の工夫が盛んに試みられた。
 一方米食の習慣がなかった地域や家庭では、配給制になったことで米を食べる機会を得て、そのことが戦後の食生活の変革の一因となったとする指摘もある。
 1945年(昭和20年)に第二次世界大戦は終結。戦後の食糧難は深刻を極めたが、米は引き続き食糧管理法による政府の固定価格での買い上げだったため闇米が横行、闇米を拒否した東京地裁の判事山口良忠が餓死するという事件も起きている。
 米の生産拡大のための基盤整備事業が国内各地で行われ、肥料の投入や農業機械の導入、品種改良などによる生産技術の向上から生産量が増加したものの、少なくとも昭和30年代(1955年〜1964年)までは、大半の日本人が米飯を常食とすることはできなかった。
 そのような中で、ガリオア・エロアの資金援助でメリケン粉が大量に輸入され、アメリカの小麦戦略により、学校給食はメリケン粉を使ったパンが供され、1952年(昭和27年)には栄養改善法が施行され慶應義塾大学医学部教授の林髞の著した『頭脳』(光文社、1958年)が評判となり、「米を食うと馬鹿になる」という説が流布され、頭脳パンなるものが出現するなどし、日本人の食事の欧風化が進行した。

 米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を実際の主食とすることは有史以来の宿願であったが、昭和40年代(1965年〜1974年)初頭には、ようやく米の自給が実現でき、名実ともに主食となった。
 しかし、その時既に戦勝国として日本を占領したアメリカ合衆国の小麦戦略は見事に成功をおさめ、学校のパン給食や厚生省が始めた栄養改善運動も手伝って、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかっていた。
 このため全国で米余り現象が起き、食糧管理法下におけるコメ政策は見直しを余儀なくされるようになり、1970年(昭和45年)以降は減反政策といわれる生産調整政策(新規の開田禁止、政府米買入限度の設定、転作奨励金の設定など)がとられた。
 その結果、水稲の作付け面積は 1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少した。

 生産は減少したものの、米離れに歯止めがかからず、政府備蓄米などに古米、古古米の不良在庫が多く発生。
 米の消費拡大のために、それまで主食はパンだけであった学校給食に米飯や米の加工品がとりいれられるようになったり、古米をアフリカなどの政府援助に使用したり、その他家畜の飼料にしたりして処分するなど、在庫調整に腐心するようになった。
 そのような状況の下、流通面においては、縁故米の拡大から自主流通米の承認などにより、食糧管理制度の逸脱を認めるようになった。
 しかしながら、根本的解決には至らなかったため、食管赤字は収束せず、生産者米価よりも消費者米価が安い逆ザヤだったため、歳入が不足し赤字(食管赤字)が拡大、1980年代には、国鉄、健康保険とともに、日本政府の巨額赤字を構成する「3K赤字」と呼ばれるようになり、行政改革における重要なテーマとなった。
 供給においても、1983年(昭和58年)の不作時には、政府が放出しようとした1978年(昭和53年)度産の超古米に規定以上の臭素が検出され安全性に問題があるとされたため、翌1984年(昭和59年)に韓国から米15万トンの緊急輸入が行われたり、1993年(平成5年)の全国的な米の不作による平成の米騒動においては、タイなどから米の緊急輸入が行われるなどした。なお、米の消費量は、ピークの1962年(昭和37年)には、日本人一人あたり年間118.3キログラム消費していたものが、その後一本調子で減少、1990年代後半には、ひと頃の半分の60キログラム台に落ち込んだ。
 家計支出に占める米類の支払いの割合は、10%強だったものが 1.1 - 1.3% と 1⁄10 になり、米の地位低下が甚だしい。

 一方で1993年(平成5年)、ウルグアイ・ラウンド農業合意により、米の義務的な輸入(ミニマム・アクセス)を課せられるようになり、食糧管理制度は本格的な見直しを迫られた。
 1995年(平成7年)、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律いわゆる食糧法)が施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となり、政府の管理が緩められた。水稲の作付け面積と生産量に関しては、その後も減少し、1995年(平成7年)には作付け面積 211万ヘクタール、生産量 1072万トンに、2000年(平成12年)以降は、作付け面積 170万ヘクタール、生産量 900万トン程度となり、作付け面積は半減、生産量は60%程度を推移している。
 また、食糧法は、2004年(平成16年)に大幅に改正され、さらに政府の関与度を減らしている。

 ▼中国

 アジア米の原産地はインドアッサム地方から中国雲南省というものが有力な説であり、15000年前には長江中流域で稲作の形跡が見られるなど世界最古の稲作の歴史を有する。
 確実に稲作が行われていたとみなされる痕跡は、紀元前7500年頃 - 紀元前6100年頃の新石器時代彭頭山文化に属する彭頭山遺跡や八十壋遺跡において発見されている。
 日本の稲作もこの地域から伝わったものと考えられている。
 伝統的な農業地理の理解では、秦嶺・淮河線以南が稲作地域とされており、水源と土地に恵まれた長江中下流域において盛んであり、ここで生産された米は、大運河などを通じて華北地域まで運ばれ食を担った。
 元々は、ジャポニカ種であったが、南宋の時代に、インドシナ半島からインディカ種の一種である占城稲が流入すると、旱害に強く早稲種で二期作が可能であるという理由から一気に普及しこの地域での主要なイネの種となった。
 この時代、「蘇熟すれば天下足る」「江浙熟すれば天下足る」(長江下流域; 蘇・江=ほぼ現在の江蘇省、浙=ほぼ現在の浙江省)と言われ、下って明清代には、稲作の中心が長江中流域である現在の湖南省・湖北省に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われ、国の穀倉として認識されたことがうかがえる。

 一方で、秦嶺・淮河線以北は稲作不適地域と認識されていたが、1900年頃以降の日本の進出に伴い旧満州地域である中国東北部に寒冷に強いジャポニカ種を定着させ、その後の農業技術の発展から、この地域においても稲作が大々的に展開されている。
 2000年代後半時点で世界最大の米生産・消費国である。
 生産は、約7割がインディカ種、約3割がジャポニカ種となっている。
 インディカ種に比べジャポニカ種は手間がかかり高価であるが経済発展による所得向上からジャポニカ種の消費増加傾向のほか、地方都市間の人口移動による新たな消費層の発生などを背景に、中国の米消費量は増加傾向にある。
 一方で、1990年代後半に豊作だったことから作付け面積が減少、中国政府は2004年に援助政策に乗り出している。
 中国政府は寒冷地への稲作拡大だけでなく、収量を増やすための栽培技術や品種改良にも力を入れている。
 中国工程院の袁隆平らのチームが開発したハイブリッド米(英語版)「湘両優900(超優千号)」は2017年、河北省の試験圃場で1ヘクタール当たり17.2トンと米としては世界最高の収量を記録した。
 これは日本の平均の3倍近い[53][54]。翌2018年には18トン超と、記録を更新した。
 一方で、2004年に韓国へ輸出された中国製蒸し米、揚げ菓子などからホルムアルデヒドスルホキシル酸ナトリウムが検出され、韓国政府が輸入を停止するなど、安全性の問題も発生している(中国産食品の安全性)。

 ▼アメリカ合衆国

 アメリカ大陸で米が栽培されるようになったのは西洋人との接触以降のことであり、アメリカ合衆国における稲作の歴史はアジアに比べると短いが、2009年の生産量は1000万トンに達しており、うち440万トンが輸出されている。
 アメリカ国内での用途としてはそのまま使用するのが56%、加工用が18%、酒造用が12.2%、ペット用が12%などとなっている。
 アメリカ合衆国における米の産地は南東部のルイジアナ州、ミズーリ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、テキサス州、フロリダ州、および南西部カリフォルニア州のサクラメント・バレーがある。
 すでに17世紀はじめに今のバージニア州でイネの栽培が始まっていたが、1694年にマダガスカルから稲作がサウスカロライナ州にもたらされ、南部諸州に広まった。
 これらの土地で栽培されたのはバスマティライスやジャスミンライスに代表されるアミロースの多い長粒種のインディカ米だった。

 一方カリフォルニアでは19世紀後半に鉱山や鉄道建設の労働者として中国や日本からの移民が増加して米の需要が発生したが、長粒種の栽培には成功しなかった。
 1908年にW.W. Mackieという土壌学者がサクラメント・バレーのビッグズで日本のイネの栽培にはじめて成功し、1912年にビッグズにはカリフォルニア米の試験場が作られた。
 カリフォルニア米はアメリカ合衆国の他の地域の米と異なり、短粒種または中粒種のジャポニカ米が大部分を占めている。
 カリフォルニアで公式に認められている品種は17種類があるが、中粒種のカルローズ、短粒種のコシヒカリとあきたこまちがもっとも成功している(アメリカ合衆国では米粒の長さが幅の2倍未満のものを短粒種、2倍以上4倍未満を中粒種、4倍以上を長粒種と定義している)。
 中でも1948年に開発されたカルローズはカリフォルニア米全体の85%以上を占める。
 一方、国府田敬三郎の農場では、カルローズ開発者のひとりであるヒューズ・ウィリアムズを雇用し、1950年代にカルローズを中東のイネと交配してKR55という品質の高い中粒種 (premium medium grain) を開発し、国宝ローズの名で販売した。
 同じ品種はJFC (JFC International) の「錦」にも使われている。

 ▼クリミア

 クリミアでは、コメが60万トン程度が生産されている。

 〔ウィキペディアより引用〕