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■雑談ネタにもならない雑学 ♯03−B

2023-06-30 21:00:00 | 日記

 ■寓話

 寓話(ぐうわ)

 比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭すことを意図した物語。
 名指しされることのない、つまりは名無しの登場者は、動物、植物、自然現象など様々だが、必ず擬人化されている。主人公が、もしくは主人公と敵対者が、ある結果をひき起こしたり、ある出来事に遭遇する始末を表現したりする本筋は、なぞなぞと同様な文学的構造を持ち、面白く、不可解な印象を与えることによって読者の興味をひき、解釈の方向を道徳的な訓話に向ける特性を持つ。
 民話によく見られるように、物語の語り末には寓意的な解釈を付け加えることが習慣的に行われてきた。

 ▼歴史

 古代オリエント

 寓話は、神話と同様にとても古い文献に発見されている。現時点では古代オリエントのものが最も古い。
 古代ギリシャ・ローマ以前の寓話は、アイソーポス(イソップ)以前の寓話 Ante-Aesopic fable と総称されている。
 19世紀後半から古代オリエントの楔形文字が解読され、1931年にドイツのアッシリア学者エーベリングがいくつかの文献をまとめて「バビロニアの寓話」として訳した。
 その後も文献は発掘されたが、寓話の研究は衰えた。最近ではアキモトの研究がヴァンダービルト大学から発表されているのみである。彼の研究によると、古代オリエント(メソポタミア、エジプト、地中海東岸、アナトリア)では、寓話は口承文学として文字以前からあり、文字の発達とともに粘土板にも現れた。
 シュメール語やアッカド語の短い寓話が、諺やその他の民話といっしょに収集された粘土板は、そのほとんどが学校の遺跡から発見されている。
 ヒッタイト語とフルリ語のバイリンガルで残る寓話集は、神話と伝説の中に盛り込まれていて、ある話し手が次から次へと寓話を語っては解釈して聞かせていくという形式をとっている最も古いもので、ヒッタイト版が紀元前1400年頃、その原本となったフル人の寓話はもっと古く、紀元前16から17世紀頃のものと推定されている。
 Ninurta-uballitsu ニヌルタ・ウバルリトゥスウの古代アッシリア寓話集は、紀元前883年に完成と記されていて、編纂者名前と編纂年の判明している最古の寓話集である。古代アッシリア王家の書簡の中にも寓話を使ったものが発見されている。

 ▼古代ギリシャ

 寓話と言えばイソップ寓話である。彼の名を冠する寓話がこのギリシャ人の作品であるかは不明で、ヘロドトスの記述外での彼の歴史的な存在も確かではないにせよ、紀元前6世紀以降の寓話は、イソップの寓話 Aesop's fable またはイソップ的寓話 Aesopic fable と総称されている。
 伝説的イソップと文芸ジャンルとしての寓話は、ローマと東ローマの寓話収集家および作家の手によりギリシャ語とラテン語の文献が伝承された。

 ▼インド

 サンスクリットで書かれた説話集『パンチャタントラ』では、釈迦が生まれ変わるたびに色々な動物として暮らす話を教訓的な寓話として表現している。

 ▼欧州

 ギリシャ語とラテン語を読み書きするキリスト教の聖職者により、寓話は中世からルネサンス期を通じて受け継がれた。グーテンベルグの印刷機の発明のすぐ後に、ハイリッヒ・シュタインヘーベル(英語版)がラテン語とドイツ語のバイリンガルによる「エソプス」という題の寓話集を出版してから民間に広まっていった。
 近世には個性的な寓話作家も現れ、チョーサーやラ・フォンテーヌなどの作品はよく知られている。 英仏: Fable(英語版)(フランス語版), 独: Fabel(ドイツ語版), 伊: Favola(イタリア語版), 西: Fábula(スペイン語版)などの各言語版ウィキペディアにある寓話の記事には、国ごとの寓話の発展が記されている。

 ▼日本

 イソップは、日本の寓話にとってもやはり元祖である。
 イソップの寓話として『伊曾保物語』は、16世紀のキリシタン(切支丹)によって日本語に翻訳され、しかも印刷されている(『イソホノファビュラス』のローマ字版は、現在大英博物館蔵)。

 ▼寓話的な作品がある作家の例

 テーヌなどの専門的な寓話作家ではないことに注意。

 安部公房
 宮沢賢治
 星新一
 時雨沢恵一
 イヴァン・クルィロフ
 フランツ・カフカ
 ホルヘ・ルイス・ボルヘス
 カレル・チャペック
 ジョージ・オーウェル
 アマドゥ・クルマ
 イタロ・カルヴィーノ
 スタニスワフ・レム
 スワヴォーミル・ムロージェク
 シャーリイ・ジャクスン
 パトリシア・ハイスミス
 アンジェラ・カーター
 ジャック・ウォマック
 アンドレイ・クルコフ
 エーリッヒ・ケストナー
 ベンジャミン・エルキン

 《御伽衆

 御伽衆(おとぎしゅう、御迦衆)は、室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした。
 御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。

 ▼概要

 天文年間(1532年-1555年)の周防の『大内氏実録』にみえるのが初見である。
 その後、武田氏、毛利氏、後北条氏、織田氏、徳川氏など広く戦国大名の間で流行した。
 『甲陽軍鑑』には武田信玄が召し抱えていた12人の御伽衆の名があり、織田信長は御伽衆として種村慮斎を召して抱えていた。
 また土屋検校のように話術を活かして信玄、信長、北条氏政ら複数の戦国大名に仕えた盲人もいた。
 最も多く御伽衆を召し抱えたのは豊臣秀吉であった。
  咄(はなし)相手を主としたため御咄衆ともいうが、正確には御伽衆の中に御咄衆が含まれる。
 御伽衆は、語って聞かせる特殊な技術のほか、武辺談や政談の必要から相応の豊富な体験や博学多識、話術の巧みさが要求されたため、昔のことをよく知っている年老いた浪人が起用されることが多かった。
 しかし、江戸期にはしだいに少年が起用されるようになり、単なる若殿の遊び相手となっていった。
 慶長年間(1596年 - 1615年)に御伽衆の笑話を編集した『戯言養気集』(ぎげんようきしゆう)という書物が刊行されたが、御伽衆の講釈話が庶民に広がって江戸時代以降の講談や落語の源流となったとも言われるので、御伽衆は落語家の祖でもある。

 ▼御伽草子

 『御伽草子』(おとぎぞうし)は、鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式。お伽草子・おとぎ草子とも表記する。広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる。

 ▼成立

 平安時代に始まる物語文学は、鎌倉時代の公家の衰微にともない衰えていったが、鎌倉時代末になると、その系譜に属しながら、題材・表現ともにそれまでの貴族の文学とは、全く異なる物語が登場する。
 それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝える。まあテーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる。
 お伽草子は、400編超が存在するといわれている。そのうち世に知られている物は100編強だともいわれるが、研究が進んで漸増している。
 ただし、同名でも内容の違うものや、その逆の違う名前でも内容が同じものなどがあり、正確なところはわからない。室町時代を中心に栄え、江戸時代初期には『御伽物語』や『新おとぎ』など「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された。御伽草子の名で呼ばれるようになったのは18世紀前期、およそ享保年間に大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として以下の23編を刊行してからのことである。
 ただし、これも17世紀半ばに彩色方法が異なるだけで全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本である。
 元々「御伽草紙」の語は渋川版の商標のようなもので、当初はこの23種類のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの23種に類する物語も指すようになった。

 ▼内容

 古くからのお伽話によるものも多いが、たとえば『猫の草子』のように成立が17世紀初頭と見られるものもある。また、『平家物語』に類似の話が見られる『横笛草子』のように他のテキストとの間に共通する話もある。
 『道成寺縁起』のように古典芸能の素材になったり『一寸法師』のように一般的な昔話として現代まで伝えられるものもある。
 『一寸法師』や『ものぐさ太郎』、『福富太郎』などは、主人公が自らの才覚一つで立身出世を遂げ、当時の下克上の世相を反映する作品といえる。
 物語の設定に着目すると、時代は現在から神代の昔に至るまで様々であったのに対し、舞台は特定の場所が設定されている事がしばしば見受けられる。特に清水寺は、現存するお伽草紙作品のうち約1割に当たる40編に登場し、中世の人々の神仏に対する信仰や、縁起譚・霊験譚への関心の高さが窺える。
 一方で、鳥獣魚虫や草木、器物など人間とは類を異とするものが主人公になることも多く、「異類物語」と呼ばれる。その中には百鬼夜行絵巻のような、妖怪を描いた作品も含まれている。 御伽草子の多くは挿絵入りの写本として創られ、絵を楽しむ要素も強かった。
 文章は比較的易しい。筋は多くの説話がそうであるように素朴で多義的であり、複雑な構成や詳細な描写には乏しい単純なものが多い。しかし、そのことをもって、御伽草子全てを婦女童幼の読み物であると断定するべきではなく、物語が庶民に楽しめるものになっていったこの時代に、色々な創作・享受の条件が複雑に重なった結果、御伽草子のような形の物語群が生まれたと思われる。
 面白さの裏にある寓意に当時の世相が垣間見られ、中世の民間信仰を理解する手がかりともなっている。また、後に生まれる仮名草子や浮世草子に比べて御伽草子の話の数々は作者未詳である。
 その部分は、日本の物語文学の伝統に則っている。

   〔ウィキペディアより引用〕



 

■雑談ネタにもならない雑学 ♯03−A

2023-06-29 21:00:00 | 日記

 ■昔話

 《昔話

 昔話(むかしばなし)は、「民俗学で、口承文芸の一つ」。
 言語学者ロマーン・ヤーコブソンの言葉をかりれば、「昔話は典型的な集団財産である。
 精神文化の社会化した部分、たとえば言語あるいは昔話は、個人的な創造が支配的な分野よりもはるかに厳格で画一的な法則にしばられている」。
 日本昔話は日本の民話のひとつ。「ムカシ」「ムカシコ」「ムカシガタリ」などとも呼ぶ。
 民衆の生活のなかから生まれ、民衆によって口承されてきたもので口承文学、また民俗資料の一。テレビアニメ化やビデオアニメ化もされている。

 ▼概説

 「むかし」という確かではない時や「あるところに」という不明な場所を発端句として用い、本当にあったかどうかは知らないけれどという心持ちで語り継がれる話。
 そのため、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。
 時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」などのように性別や年齢などの特徴をもとにした普通名詞が多い。
 「桃太郎」も「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。 「めでたしめでたし 」、「てっぺんぐらりん」、「どんどはれ」、「とっぴんぱらりのぷう」等の言葉で終わることが多く、これを結句と呼称している。
 結句は地域によってそれぞれの言葉が用いられる。

 ▼昔話の型
 
 ・異類婚姻譚
 呪的逃走譚
 貴種流離譚
 難題求婚譚
 冥界訪問譚
 末子成功譚
 動物報恩譚
 異常誕生譚
 人狼変身譚
 土地分割譚
 神隠し譚
 殺害蘇生譚
 異郷訪問譚
 幽霊出産譚
 継子いじめ譚
 立身出世譚
 死骸黄金譚
 観音霊験譚
 天人女房譚
 異類退治譚
 呪的勝負譚
 人身御供譚
 幽体離脱譚
 竜蛇変身譚
 致富譚

 ▼日本の主な昔話

 ●天の羽衣
 ●一休さん
 ●一寸法師
 ●因幡の白兎
 ●牛若丸
 ●うばすてやま
 ●浦島太郎
 ●うりこひめとあまのじゃく
 ●おむすびころりん
 ●親指太郎
 ●かぐや姫
 ●笠地蔵
 ●かちかち山
 ●聞き耳頭巾
 ●金太郎
 ●こぶとりじいさん
 ●さるかに合戦
 ●三年寝太郎
 ●三枚のお札
 ●舌切り雀
 ●力太郎
 ●鶴の恩返し
 ●天狗の隠れ蓑
 ●花さかじいさん
 ●貧乏神と福の神
 ● 分福茶釜
 ●耳なし芳一
 ●桃太郎
 ●雪女
 ●わらしべ長者

 《説話

 説話(せつわ)は、広義には、古くより伝承されて来た話・物語一般を意味する。
 狭義には、民話(昔話)、伝説を指す。また、民話と同義の意味で使用されることもある。
 日本の文学史上では「今昔物語集」など表題に「~物語」とつくものが説話に相当するが、説話のうち長編を「物語」と呼び分け、短編を「説話」と呼ぶのが普通である。

 本項では狭義の説話を説明します。

 ドイツ語のメルヘン/メルヒェン(Märchen)、英語のフェアリーテイル(fairy tale)を含んでいる。
 メルヘンは、スティス・トンプソン以降、英語圏でもよく使われるようになった。
 説話という単語は、近代に造語された言葉である。明瞭な概念規定なしに国文学・民俗学・民族学・神話学などの領域で使用される。

 ▼特徴

 説話の多くは、元々口承文芸である。地域・言語によっては、ある時代から書き言葉で残されるようになったものもある。現代では出版されて活字で残されるようになったものも多い。
 西洋の『ペンタメローネ(五日物語)』や『グリム童話』なども、口伝に取材して後年本にまとめられたものの一例である。
 また、口承の場合は、地域や時代によって細部に異同が多い。語られるたびに内容が僅かに異なっていても、聞き手はそれを同一の物語として受け取っている点にも特徴がある。

 ▼昔話・伝説・世間話の違い

 口承文芸は無文字時代から存在し、一般に、昔話・伝説・世間話などの民話、新語作成、新文句(新句法)、諺、謎、唱え言、童言葉、民謡、語り物などに分類される。
 このうち、昔話には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句がある。
 また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。
 『桃太郎』は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。
 伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。
 これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクション(創作)として語られている。
 しかし一部の土地では『炭焼き長者』や『子育て幽霊』などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。  世間話は体験談や実話として語られる民話である。

 ▼歴史

 おとぎ話の起源

 狭義のおとぎ話(御伽話)は、太閤秀吉が抱えた御伽衆の語った面白話に起源があるとされる。
 御伽という風習そのものは別名、夜伽(=通夜)にもあるように、古くからある徹夜で語り明かす伝統に基づいている(庚申待)。
 その晩に話される話を夜伽話、転じて御伽話とされるに至った。

 ▼童話とメルヘン
 
 大正時代に入ってきた「メルヘン(厳密にはメルヒェン)」というドイツ語は「童話、またはおとぎ話」と訳されたので、昔話(おとぎ話)と童話が混同して使われた事もあった。

    〔ウィキペディアより引用〕



銭の花《商魂》 ♯003

2023-06-28 21:00:00 | 日記

 ■ガリガリ君

 ガリガリ君(ガリガリくん)は赤城乳業が製造、販売する氷菓。
 同社の登録商標(第2604431号ほか)。

 〔概要

 1981年に販売開始。
 以来、赤城乳業の看板商品となり、日本の氷菓の人気商品の一つとして有名となる。 製造方法は「薄いアイスキャンディーの膜(シェル)を作り、その中にかき氷(コア)を入れる」という手法を採用。中に入れるかき氷は同社において「ガリガリ氷」と呼称され、当初大きな粒であったが、年々技術向上によって小さな粒に変更されたことや、2002年には「安心・安全」を打ち出して増粘安定剤を天然ペクチンに変更し着色料は合成品の使用を一切止めるなど、その方針に沿った食品添加物を使用したことにより、ソフトな食感に変移している。
 製造本数は年々右肩上がりで、2013年度の総販個数は史上最高の4億7500万本を記録。
 日経BPコンサルティング「ブランド・ジャパン2014」ではコンシューマー部門(BtoC編)総合第14位、総合力上昇ランキング8位にランクインした。 売上は基本的に夏高冬低傾向となっており、年間通じて7月が一番が多くて2月が一番少なくなっている。
 ガリガリ君の知名度を押し上げる一因となった特徴的なCMソング「ガリガリ君のうた」はポカスカジャンが作詞・作曲し、歌も担当しており、2003年8月20日にはCD化された。

 ▼歴史

 1970年代後期、赤城乳業は第二次オイルショックによるコスト高を吸収するため各種商品を値上げしたが、大手メーカーは値上げを見合わせた影響により、当時主力商品であった「赤城しぐれ」を始めとする同社商品の売上は低迷し、工場ラインも停止するなど会社設立以来初めて危機的状況に陥り、このピンチを打破するために新商品の開発が行われた。
 開発陣から苦悩の末に「赤城しぐれ」をワンハンドで食べられるようにするというアイデアが捻出され、それを具体化してガリガリ君の源流となった商品、ゼリーでかき氷を固めた棒スティックタイプのアイスを1980年に発売、売上を伸ばした一方でアイスが袋の中でバラバラになってしまうクレームも多発、総合的には失敗に終わった。
 これらの反省点を元に、商品コンセプト「遊びに夢中の子供が片手で食べられるかき氷」にて開発が進められ、それに伴いかき氷を使用しながらも型崩れしない棒アイスの構造・製造方法が模索された。 そして、「薄いアイスキャンディーの膜(シェル)を作って、その中にかき氷(コア)を入れる」という製造方法が編み出された事により、問題点が克服された。
 商品名は氷をかじった時の擬音から「ガリガリ」でほぼ決まりかけていたが、スタッフ一同物足りなさを感じていたところ、社長(当時)が「じゃあ、『君』を付けようよ」と提案し採用され『ガリガリ君』となった。
 キャラクターも欲しいとの要望があり、名前に見合ったものが社内でデザインされ、当時は「“昭和30年代のガキ大将”をモチーフにした中学3年生」の設定だった(リニューアル後「小学生」に変更)。

 1981年、当たり付きアイスキャンディーとして『ガリガリ君』を発売、価格は1本50円、当初のフレーバーはソーダ・コーラ・グレープフルーツ。1980年代前半、アイスキャンディー売り上げの60%を駄菓子屋などの一般小売店が占め、その売り場の大部分を大手メーカーが抑えており、ガリガリ君は置き場所の確保も困難だったことから売上が苦戦していたが、販路を当時数を増やしつつあったコンビニエンスストアを販売ルートのメインとする展開を行い、各チェーンの名を冠した「ガリガリ君」を販売したり、季節限定商品を投入するなど、コンビニエンスストアの販売促進を強化した結果、ガリガリ君のコンビニエンスストアにおける販売金額は10年間で約3倍にまで伸びた。
 1990年、同業他社のアイス商品が10円値上げされたが、過去の経験からガリガリ君は値上げを保留し、1年後の1991年に50円から60円に値上げを実施したが売上は落ちず、1990年代前半には年4回コンビニ用フレーバーを投入するなどの要因により、1994年には当時の過去最高販売本数6600万本を達成。
 1995年以降、他社からガリガリ君と同様のアイスが発売されたことにより競争が激化、1997年には7本入りのマルチパックを発売してスーパーマーケットへと販路拡大、1990年代後半にて売上は右肩上がりだったものの勢いはなく緩やかになっており更に鈍化傾向が見られたことから、状況打開するには何が必要か知るため、1999年に数万人規模の大掛かりな消費者調査を行い、その結果、商品キャラクターのガリガリ君が全体的に不評、特に若い女性層には全否定に近い意見が多勢を占めるなど、同社にとって衝撃の事実が判明した。

 2000年春、消費者調査の結果を分析して全面リニューアル、不評のキャラクターデザインは外部のデザイナーを起用し3D化、年齢設定を中学生から小学生に変更、
 初めてテレビCMを実施し「ガリガリ君」を連呼する内容が評判となって認知度が上がったことから西日本のスーパーマーケットチェーンにも販路を拡大、これらの効果などから同年の販売本数は1億本を突破。
 更にシーズンごとに新フレーバーを出す戦略でガリガリ君の年間商材化に成功、2004年には1億4,800万本を達成。  しかし、同年にキャラクター調査を行った雑誌において「ガリガリ君」が、嫌いなキャラクター第4位に選出されているのを同社マーケティング担当者が発見してしまったが、同じページに「商品や企業自体は嫌いではない」という調査結果もあったことから、ガリガリ君のキャラクターイメージアップのため、商品自体に対して持たれていたプラスのイメージを活用し、キャラクターを中心にさまざまな話題を提供しアイス売り場に客を集め、その接点をもっと楽しく演出する展開が行われ、そのひとつに複数種類のフレーバーを虹のように並べた企画「レインボー売り場」が2005年には7種類、2006年には10種類に拡大して行われて親子層の興味を強く惹きつけた。

 2005年より、費用対効果と話題性が高い他業界とのコラボレーション企画を展開し、「ガリガリ君」アイテムの文具や玩具、ガリガリ君主人公漫画の雑誌掲載、ガリガリ君登場のゲームソフト制作、箱根小涌園で期間限定「ガリガリ君温泉」などを実施。
 2006年にガリガリ君は25周年を迎え、ガリガリ君の世界観「元気で、楽しく、くだらない」をより多方面に拡大するためのプロモーションを頻繁に実施、ファンクラブ「ガリガリ部」設立、同社側も意識的に口コミを活用開始、新フレーバー投入頻度が年4回から2カ月ごとに変更、冬季販売強化対策に新ラインナップとしてガリ子ちゃんやリッチシリーズが新たに加わるなど、精力的な展開を行った。
 2007年には、コンビニなどの人気によるガリガリ君需要増により、自社工場を24時間操業したり同業他社の工場に生産委託しなければ供給が追いつかない現状の対策として、同社は埼玉県本庄市に冷果工場を新設して増産対応を決定(2010年2月より「本庄千本さくら『5S』工場」として稼動開始)。
 これらの要因から販売本数実績は、2008年に2億5500万本と過去最高を達成し、2009年は日照不足による天候不順の影響で2億4500万本と前年比減であったが、「ガリガリ君」は日本一売れているアイスキャンディーとなっている(2009年時点)。
 2010年夏、猛暑の影響でガリガリ君の販売数量は通常を大きく上回る状況が続き、品薄状態となったため同社公式サイトで『「ガリガリ君」(各種)品薄状態についてのお詫び』を同年8月3日発表した。
 その後、増産体制が整い各種品薄状態が徐々に解消し、最後に残ったソーダについても品薄状態を解消し安定供給の目処がたったため、2010年9月28日より積極的な販売を再開した。
 2012年9月4日、リッチシリーズの新作として異色のフレーバー「コーンポタージュ味」を9月 - 10月に期間限定で発売。  
 発売後、インターネット上などで話題を呼び、ブログや情報サイトで食べ方・調理・実験などが取り上げられたり、味に関して肯定・否定の意見が飛び交っていた。

 しかし、ソーダ味の2倍売れるという予測を大幅に上回る販売数量に製造が間に合わずわずか2日で販売休止になり、2013年3月26日に再開した。 2014年5月17日、タイ王国で発売開始。
 2014年には「ナポリタン味」を発売し、話題にはなったが当初の計画ほどは売れず、約3億円の損失を出す。同年、初めて売上が2桁ダウンを記録した。
 2016年4月1日より、ガリガリ君を含む赤城乳業製品の値上げにより、税別希望小売価格は25年ぶりに10円値上げされ70円となった。
 また、同日と翌2日限定で、本社工場前に役員と社員が登場し、25年も価格を据え置きにしてきたが、値上げに踏み切ったことを深々と一礼して謝罪するCMが放映された。BGMにはその名の通り「値上げ」(歌:高田渡)を使用し、あたかも役員と社員の気持ちを代弁しているかのような仕上がりとなった。
 この年、3年ぶりに売上が盛り返し、販売本数が4億1500万本に回復した[34]。 また開発当時、カップアイスしかなかった氷菓において、棒付きのアイスキャンデーを開発し販売したとして、同年度のグッドデザイン賞を受賞した。
 2017年には「地域貢献」「社会貢献」をテーマに、2月に山梨県とコラボした「ガリガリ君リッチ 黒みつきなこ味」を、3月に熊本県のマスコット・くまモンとコラボした「ガリガリ君 九州みかん味」を投入し、どちらも好評であった。  2019年6月21日、第24回日本緩和医療学会学術大会にて、緩和医療を受ける患者の食の維持に貢献したとして、「最優秀緩和ケア食の維持賞」を受賞した。
 2023年3月、ガリガリ君ソーダ、コーラ、グレープフルーツの3種類を約20年ぶりにリニューアル。かき氷の部分の純氷を従来よりも荒く削り、大きい氷の割合を増やしてより爽やかな後味になるよう調整された。

 ▼関連項目 ー 赤城乳業 ー

 赤城乳業株式会社
(あかぎにゅうぎょう、英称:Akagi Nyugyo Company Limited)


 埼玉県深谷市に本社を置くアイスクリーム専業メーカーである。安価な氷菓の代表的商品「ガリガリ君」の製造メーカーとしてその名を知られている。

 社名には「乳業」と入っているが、乳業メーカーではなく、創業以来生産・発売した乳製品はアイスクリームのみに限られている。 コーポレート・スローガンは「あそびましょ。」。

 ▼社名の由来

 「赤城」は赤城山からとったもので、噴火しなければ富士山よりも裾野が広かったと言われている赤城山のその裾野のような、大衆のための商品を作りたいと思って「赤城」と付けた。

 「乳業」の部分に関しては

 ・将来、牛乳を使った商品を作りたいという思いがあって、氷菓の会社が乳業ってつけたということにしておいてください - 同社常務取締役開発本部長
 ・創業当時、大手の「〇〇乳業」に早く近づきたい、追いつきたい、という思いから - 同社お客さまセンター
 ・社名を付けた当時(1960年)、社名に“乳業”と付けるのがはやっていたとか、いずれは乳製品を作りたい、という希望を込めて付けたとも言われております - マーケティング部などの説がある。

 ▼沿革

 ・1931年(昭和6の年)10月22日、合名会社広瀬屋商店として創業。
 ・1960年(昭和35年) - 合名会社赤城乳業に商号変更。
 ・1961年(昭和36年)12月20日 - 株式会社に組織変更。
 ・1963年(昭和38年) - 商号を赤城乳業株式会社に変更。
 ・1964年(昭和39年) - 赤城しぐれ発売
 ・1976年(昭和51年) 深谷市都市計
画に基づき本社工場移転 新工場完成(当時は東洋一の規模の工場)

 ・1981年(昭和56年)ガリガリ君発売(50円)
 ・1984年(昭和59年)ラーメンアイス発売
 ・1985年(昭和60年) スーパーソフト発売 /ソフト君発売。
 ・1987年(昭和62年)株式会社ラケーリジャポーネ(ジェラートショップ)設立
 ・1991年(平成3年) - ガリガリ君60円に値上げ
 ・1995年(平成7年) - カジロー君発売
 ・1996年(平成8年)ガリガリ君15周年の大型キャンペーン
       イクラ丼アイス発売
 ・1998年(平成10年)ガツン、とみかん発売
 ・1999年(平成11年)HACCP(総合衛生管理製造過程)認証を取得
 ・2000年(平成12年) - ガリガリ君CM開始、年間発売本数1億本突破
 ・2005年(平成17年) シャリシャリ君発売
 ガリガリ君年間販売本数15億本突破
 ・2006年(平成18年) - 25周年記念ガリガリ部創部
 ・2009年(平成21年)ラケーリジャポーネをラケーリ事業部とする。
 ・2016年(平成28年)ガリガリ君70円に値上げ。
 ・2019年(平成31年)120円以上の商品値上げ(商品により10円又は20円)、100円及び70円商品は除外。

   〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的事件File. ♯004−H

2023-06-27 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 オウム真理教事件一連

 オウム真理教事件
(オウムしんりきょうじけん)
 1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教が起こした一連の事件の総称である。

 オウム真理教の教祖である麻原彰晃(本名・松本智津夫)が、宗教を隠れ蓑に日本国を転覆して、自らその王として君臨するという野望を抱き、それを現実化せんとする過程で、世界各国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した一連の事件をいう。29人が死亡し(殺人26名、逮捕監禁致死1名、殺人未遂2名)負傷者は6000人を超えた。教団内でも判明しているだけでも5名が殺害され、死者・行方不明者は30名を超える。
 社会に与えた影響などから、2014年(平成26年)に警視庁の行ったアンケートで「警視庁140年の十大事件」一位とされている。
 特に注目された事件として、教団と対立する弁護士とその家族を殺害した1989年(平成元年)11月の坂本堤弁護士一家殺害事件、教団松本支部立ち退きを求める訴訟を担当する判事の殺害を目的としてサリンを散布し計7人の死者と数百人の負傷者を出した1994年(平成6年)6月27日の松本サリン事件、教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱を目的に5輌の地下鉄車輌にサリンを散布して計12人の死者と数千人の負傷者を出した1995年(平成7年)3月20日の地下鉄サリン事件が挙げられる。多数の死傷者を出したこれら3つの事件に対して、毎日新聞では「オウム3大事件」と表現している。
 神奈川新聞、日刊スポーツ、スポーツ報知など他のメディアも、2018年(平成30年)7月のオウム死刑執行の報道では、オウム死刑囚が3大事件のどれに関与したかを報じている。

 2011年(平成23年)12月、それまでに起訴された全ての刑事裁判が終結し、189人が起訴され、13人の死刑判決と5人の無期懲役判決が確定した。
 同年12月31日には16年以上にわたり逃亡を続けてきた平田信が警視庁に出頭し、翌2012年(平成24年)1月1日に逮捕され、平田を匿って逃亡に協力していた元女性出家信者も同年1月10日に逮捕、両者とも起訴された。
 同年6月3日には同じく逃亡していた菊地直子が潜伏先で逮捕され、同月15日には同じく逃亡を続けていた高橋克也が、東京都大田区西蒲田の漫画喫茶で身柄を確保され、同日逮捕された。
 これで警察庁からオウム真理教事件に関する特別指名手配を受けていた3人は、すべて逮捕・起訴された(平田は2016年(平成28年)1月13日に懲役9年、菊地は2017年(平成29年)12月27日に無罪が確定)。
 最後のオウム事件被告である高橋は、最高裁まで争い2018年1月18日付で上告棄却、1月25日付で異議申立ても棄却されたことにより無期懲役が確定し、これをもってオウム事件裁判は完結。
 7月6日に麻原と側近の計7名、7月26日には他の側近6名の死刑がそれぞれ執行され、刑事上では収束となった。

 ▶オウム真理教事件一覧

▼ 1988年9月22日 在家信者死亡事件(立件なし)
▼ 1989年2月10日 男性信者殺害事件
▼ 1989年11月4日 坂本堤弁護士一家殺害事件
▼ 1990年 国土法違反事件
▼ 1991年 女性信者殺害事件(立件なし)
▼ 1992年9月14日 オカムラ鉄工乗っ取り事件(立件なし)
▼ 1993年6月6日 逆さ吊り死亡事件
▼ 1993年6月28日 第一次亀戸異臭事件(立件なし)
▼ 1993年7月2日 第二次亀戸異臭事件(立件なし)
▼ 1993年11月 第一次池田大作サリン襲撃未遂事件(立件なし)
▼ 1993年11月~ サリンプラント建設事件
▼ 1993年12月18日 第二次池田大作サリン襲撃未遂事件(立件なし)
▼ 1994年1月30日 薬剤師リンチ殺人事件
▼ 1994年2月~ 自動小銃密造事件
▼ 1994年3月27日 宮崎県資産家拉致事件
▼ 1994年5月~ LSD密造事件
▼ 1994年5月9日 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件
▼ 1994年6月27日 松本サリン事件
▼ 1994年7月~ 覚醒剤密造事件
▼ 1994年7月10日 男性現役信者リンチ殺人事件
▼ 1994年7月15日 元仙台支部長死亡事件(立件なし)
▼ 1994年7月28日 元女性看護師拉致監禁事件
▼ 1994年9月~ チオペンタールナトリウム密造事件
▼ 1994年9月20日 江川紹子ホスゲン襲撃事件(立件なし)
▼ 1994年11月20日 鹿島とも子長女拉致監禁事件
▼ 1994年12月?日 府中運転免許試験場侵入事件
▼ 1994年12月~1995年3月 メスカリン密造事件
▼ 1994年12月2日 駐車場経営者VX襲撃事件
▼ 1994年12月9日 大阪における拉致監禁事件(元自衛官)
▼ 1994年12月10日 ビアにスト監禁事件
▼ 1994年12月12日 会社員VX殺害事件
▼ 1994年12月28日 三菱重工研究所侵入事件
▼ 1995年1月 自動車免許証偽造事件
▼ 1995年1月4日 被害者の会会長VX襲撃事件
▼ 1995年2月28日 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件
▼ 1995年3月15日 霞が関駅アタッシュケース事件(立件なし)
▼ 1995年3月19日 大阪における拉致監禁事件(大学生)
▼ 1995年3月19日 島田裕巳宅爆彈事件
▼ 1995年3月19日 東京総本部火災瓶投擲事件
▼ 1995年3月20日 地下鉄サリン事件
▼ 1995年3月20日 名古屋における老女拉致事件
▼ 1995年3月22日 第6サティアン礼拝堂信者監禁事件
▼ 1995年3月22日 第10サティアン信者監禁事件
▼ 1995年4月 - 5月 新宿駅青酸ガス事件
▼ 1995年5月16日 東京都庁小包爆彈事件

 その他関連事件・問題

 ▼村井秀夫刺殺事件

 村井秀夫刺殺事件
(むらいひでおしさつじけん)

 1995年(平成7年)4月23日に発生した殺人事件。オウム真理教の幹部であった村井秀夫が、東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体「神州士衛館」構成員を名乗る在日韓国人の徐裕行(ソ・ユヘン)に殺害された事件。

 《概要

 1995年4月23日20時35分、教団東京総本部ビル前において、山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のサティアン群から戻ってきた村井が、犯人によって刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺された。
 村井ら教団幹部は、東京総本部に出入りする際は地下通用口を使用していたが、事件当夜はなぜか施錠されており、村井が外階段を引き返し1階出入口に向かおうとした際に襲われた(後述の通り教団の事件関与を疑う見方もあったが裁判では認定されていない)。
 事件の瞬間はTVニュースで繰り返し放映され、日本中に衝撃を与えた。刺された後、直ちに村井は東京都立広尾病院に救急車で搬送されたが、右脇腹に受けた深さ13 cmの刺し傷が致命傷となり、出血性ショックによる急性循環不全のため翌4月24日2時33分に死亡。実行犯の徐は事件後直ちに逮捕された。

 ▼TBSビデオ問題

 TBSビデオ問題(TBSビデオもんだい1989年(平成元年)10月26日、
 東京放送(現在のTBS)のワイドショー番組『3時にあいましょう』のスタッフが弁護士の坂本堤がオウム真理教を批判するインタビュー映像を放送前にオウム真理教幹部に見せたことで、9日後の11月4日に起きた坂本弁護士一家殺害事件の発端となったマスコミ不祥事・報道被害である。

 《概要

 TBSは、1989年(平成元年)10月に当時すでにサンデー毎日『オウム真理教の狂気』特集などで批判されていたオウム真理教の取材映像を放送予定であったが、反オウムの弁護士坂本堤のインタビュー映像が合わせて放送されることを知ったオウムは、坂本のインタビュービデオ(以下ビデオ)を見せるようTBSに要求し、オウム真理教幹部の早川紀代秀(坂本弁護士事件実行犯の1人)らがTBS内でこのビデオを視聴した。
 信者がビデオを見たことがどれだけ影響を与えたかは不明瞭だが、その後11月に麻原彰晃は坂本堤の殺害を指示、11月4日に坂本弁護士一家殺害事件が発生。
 事件後、早速オウム真理教の関与が疑われたものの、オウム真理教に対し特に目立った捜査も無く、坂本弁護士事件は(1995年まで)迷宮入りとなった。
 この時、TBSの担当者は事件直前にオウム真理教幹部がビデオを見に来たことを公表しなかったため、もし公表していれば捜査に影響を与えたのでは、そもそも何故ビデオを見せたのか、殺害決行のきっかけになったのではないか、などと批判された。

 ▼シガチョフ事件

 シガチョフ事件(シガチョフじけん)は、ドミトリー・シガチョフ (Дмитрий Сигачёв) を首犯とするオウム真理教のロシア人信者による教祖麻原彰晃(松本智津夫)奪還を目的としたテロ未遂事件である。
 2000年7月の沖縄サミット直前に東京、青森、札幌の三都市にある幼稚園や橋など公共施設での爆弾テロが計画されていたが、日露当局者の協力により未遂に終わった。

 ロシアにおけるオウム真理教

 1991年、オウム真理教教祖麻原彰晃が、ロシアを初訪問した。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイやヴィクトル・チェルノムイルジン、ユーリ・ルシコフ等ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。 ロシアの声やラジオマヤーク(ロシア語版、英語版)によるラジオ放送が流され、「キーレーン」というオーケストラが組織された。
 日本からロシアの特殊部隊施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどの軍事物資が輸入されている。
 更に麻原は、ロシアに数か所の支部を開設。ソビエト連邦の崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。その中には、1993年に入信したドミトリー・シガチョフもいた。
 1993年までに、ロシアでは、かなり強力な組織が形成された。
 その構成員は、説法集を読むことで修行していたが、その中には、軍事科学を研究する個別の戦闘グループも存在した。
 同年、麻原は再びロシアを訪問した。この時、シガチョフは、麻原によって個人的にサマナ(出家修行者)に昇格させられた。
 しかし、地下鉄サリン事件は、教団とその信者が危険であることを全世界に示した。日本では、麻原ら主要幹部が逮捕され、多くの国でこの運動は禁止された。ロシアでも、1995年4月18日付モスクワ・オスタンキノ地区自治体間裁判所の決定により、オウム真理教は禁止された。
 しかし、教団が禁止されたにもかかわらず、その多くの構成員は教祖を信仰し続け、さらに互いに交流を続けてさまざまな計画を生み出した。

     〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的事件File. ♯004−G

2023-06-26 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 コンピュータ事業

 マハーポーシャ
 国内:東京南青山・秋葉原・大阪でんでんタウン・京都・名古屋大須商店街・札幌など6店舗 海外:中華民国台北市「大繁栄(マハーポーシャ)」。
 オーストラリアの西オーストラリア州やウクライナに支社があった。

 APC名古屋
  CPUバンク
 真愛、ヴァンクール
 コンピュータソフトウェア企画設計

 ポセイドン - PCショップ「トライサル」
 PC部品卸会社「ハイバーシティ」を経営。
 なお、「ハイパーシティー」は地下鉄サリン事件遺族高橋シズヱの住むマンションに店舗があった。

 オリエントエンジニアリング
 PCショップ「PCバンク」「PC REVO」を経営。
 ナスカ - 広告代理業、情報処理サービス。

 麻原らが逮捕された後の1995年11月からは「トライサル」「グレイスフル」「PCバンク」「PC REVO」「ソルブレインズ」「ネットバンク」と名称を変えコンピューター事業を継続した。
 2000年3月には、オウムとの関連を隠したシステム開発企業が、警視庁や自衛隊を含む官公庁や大手企業のシステム開発を安価で受注していたことが発覚した(オウム真理教ソフト開発業務受注問題)。

 飲食業

 オウムのお弁当屋さん
 うまかろう安かろう亭
 うまかっちゃん
 運命の時

 飲食店で勤務していた元信者によれば、12時間勤務で、朝5時まで働き、店の床に段ボールを敷いて寝たこともあったし、別の日には、夜9時に寮に帰ると、朝4時まで修行で、売り上げノルマを達成していないと修行時間を追加された。
 毎日の睡眠時間は3時間ほどで、慢性の睡眠不足で考えることができなくなっていったという。

 出版

 オウム出版-
 麻原の著書、機関誌のほか、幹部らの著書も出版した。 青山吉伸は1990年から『真理の弁護士』シリーズを出版、元日本共産党員でもあった青山は、91年の『理想社会(一)共産党宣言から真理へ』 では、マルクスの共産党宣言を批判的に検討し、オウムで超克しようとした。
 早川紀代秀は「ルソーから真理へ -市民ユートピアの原理- 」を1991年に出版。 林、中川らの医師班は「ホイホイ アレルギー解消法」 (Oh!ミラクルの本―人生逆転シリーズ) 「麻原彰晃のあっ!ガンが消えた」「高血圧は治る―麻原彰晃の奇跡のヨーガ秘法公開!」(91年)などで、現代医学の薬なしで治す新治療法の施術を称した。

 なあぷる
 オウムとの関係を否定し滝本太郎に抗議した。
 巧人館

 風俗店

 ドンファン - テレクラ
 マハーサンパッティ
 1992年1月24日設立。

 宝石屋、弁当屋、テレクラを経営。

 人材派遣

 アルファ企画家庭教師派遣グループ
 セシン - 建設業の人材派遣
 マイトリーバ・ベビーシッター
 ベビーシッター派遣会社。
 二ノ宮耕一が代表
 この他、オウムの在家信者が社長を務める非破壊検査会社(1995年解散)が信者を化学プラントのほか、原発にも派遣していた。
 福島第一・福島第二原発や浜岡原発などで作業した元信者によれば、各原発には5 - 10人の信者が入っていて、原発占拠や原発の爆破などは可能だったが、原発が教団に攻撃されなかったのは麻原が攻撃計画としてたまたま気がつかなかったためではないかと述べている。
 若い真面目な信者は人手不足の原発で重宝され、業務のために内部の極秘情報なども容易に持ち出しせたという。

 健康開発

 日本健康クラブ
 化粧品・医薬品・食料品販売
 ファインウォーター
 浄水器販売
 スーパースターアカデミー(SSA)
 エアロビクス教室。鹿島とも子が校長
 ヴァジラクマーラの会
 美人信者による修行教室
 ヴァジラクマーラの会
 美人信者による修行教室
 エ・ヴェーユ
 大阪に設立した能力開発塾。派手な化粧をした女性信者で勧誘していた。

 偽装サークル

 偽装サークルを各大学に設立し、学生を教団へ勧誘した。1993年以降、東大、早稲田などの学園祭で偽装サークルがコーナーを作った。
 「後日占いの結果を教えるから」と学生の住所や電話番号を聞き出し、東大OBを自称する代表から電話、ヨガ教室に誘われるなどして、入信した学生も多かった。
 オウム系サークルは学園祭以外でも活動、大学構内にチラシを貼り、学生たちを勧誘した。
 ヨガ・気功のサークル「アシュラム'94」のビラを見て連絡した学生は、連絡先の家(日本印度化計画と同一人物)に行くと、尾崎豊は米国による日本崩壊のシナリオを見抜いたためにCIAから殺されたというビデオ(オウムの名前は出ない)を見せられた後、四泊五日の合宿に勧誘された。
 当初オウム系サークルは教団名を隠さなかったが、やがて教団名を隠すようになり、勧誘マニュアルでは「狂気の救済者になれ」と知人・友人をリストアップし、電話で主導権を取って会う約束を取り付け、悩みを聞いたり、不安感を煽りながら、徐々に誘い込めと書かれ、勧誘に成功した者にはイニシエーション、数珠、教祖の一曲などが授与される。
 このような勧誘方法は、統一教会のFF(ファミリー・フレンド)伝道との類似が指摘される。

 日本印度化計画 - 1994年の早稲田大学学園祭に出店。チャイや揚げパイを売ったり、占い店を出した。占いでは「今の自分に満足していますか。今の自分を変えてみたいと思いますか」と質問した。  
 筋肉少女帯の同名の曲や日本シャンバラ化計画との関係は不明

 近未来研究所、ヨーガ同好会、中国武術研究会、インド化計画―カレー研究会 -1994年設立の大学ダミーサークル
 
 ※アクエリアスプロジェクト21、マイブーム研究会 - 東京大学

 ダミー会社
   
 薬品・武器関連のダミー会社

 長谷川ケミカル
 1993年4月2日設立。長谷川茂之が社長。サリンなどの原料の調達が目的

 株式会社ベル・エポック
 1993年8月4日設立。社長・目的は長谷川ケミカルと同じ

 ベック株式会社
 下村化学

 ぶれーめん
 井上嘉浩が役員。パイナップル加工会社とのことだったが実際には細菌プラントをつくろうとしていた

 オウムプロテクト
 ロシアに設立した警備会社
 サンプラン
 薬品を隠す倉庫を借りていた

 不動産取得目的のダミー会社

 株式会社オウム
 オウム神仙の会設立の年である1984年の5月28日に設立。出版業の他、ヨガ教室を開催したりしていた。土地購入のダミー会社としても使用し、これが松本サリン事件の一因となる。

 ジェービーテレコム有限会社
 世界統一通商産業
 早川紀代秀が代表

 海外事業

 ロシアでは輸入会社などを設立した。早川はロシア、ウクライナの他、北朝鮮にも出入りして兵器貿易を計画していたとの見方もあるが、早川は北朝鮮に出入りしたことはないと逮捕後に語っている。
 他にもスリランカの紅茶園などを経営していた。
 1992年のスリランカツアーでは仏跡は訪問せず、買収する工場の見学ばかりしていたという。

 その他

 ドゥプニールミリオネール
 ロシア射撃ツアーを企画。越川真一が代表。
 後に株式会社アレフとなる(びっくりドンキーを経営するアレフとは無関係)神聖真理発展社 - 資産隠し目的

 アルス総合建築事務所
 M24 - スーパーマーケット
 シーディーコレクター
 真理学園建設計画を文部省に出しており、小学生を2、3年間教育すれば東京大学に入学できるほどの学力がつくと信者に宣伝した。
 黎明
 世田谷区の占い店で、大宇宙占星学6000円、西洋占星学5000円、算命学、姓名判断、紫微斗数、星座、血液型占いなどをおこなった。

 海外での活動

 ロシア

 1991年(平成3年)には、麻原彰晃がロシア(当時はソビエト連邦)を初訪問した。
 当時のモスクワ放送もこの模様を伝え、クレムリン宮殿で宗教劇の上演が行われたことやアナトリー・ルキヤノフ最高会議議長と会談したことを報じた。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ルツコイやロシア連邦首相のヴィクトル・チェルノムイルジン、モスクワ市長のユーリ・ルシコフ等、ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
 モスクワ放送(現:ロシアの声)の時間枠を買い取って「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」(御国の福音)というラジオ番組が1992年4月1日から1995年3月23日まで放送された。日本からロシアの施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどが輸入されている。
 またロシアに数か所の支部を開設。ソビエト連邦の崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。 オウム事件後、オウムはロシアや北朝鮮のスパイだという陰謀説がまことしやかに語られるようになった。
 しかし一連の捜査・裁判により、化学兵器は土谷正実が中心となり自力でつくったことが発覚した。新アメリカ安全保障センターも、オウムのサリン合成プロセスはロシアで主流の方法ではなくナチス・ドイツの方法に由来していると分析している。
 また上祐史浩は「麻原は自分が一番であり、利用することはあっても配下になるタイプではない」とし、ロシア・北朝鮮陰謀説は「(オウム事件を陰謀としたい)Alephを助長している」と批判している。

 オーストラリア

 マハーポーシャ・オーストラリアでは、1993年7月に50万エーカーの牧場(バンジャワーンステーション)を約50万オーストラリア・ドル(約3000万円)で購入した。
 オーストラリア連邦警察の調査で土壌からサリン分解生成物のメチルホスホン酸(MPA)が発見されたことで、教団が薬品類を持ち込み、化学物質を製造し、羊に対する毒性の実験を行っていたことが分かった。
 しかし、CNASは、サリンが存在したと決定づけるにはメチルホスホン酸イソプロピル (IMPA) が検出される必要があり、メチルホスホン酸(MPA)は自然分解生成物が吸収された場合でも検出されること、そしてオウム幹部でオーストラリアにおける実験を証言した者がいないことに注目すべきであるとする。

 訴訟・嫌がらせ

 教団には弁護士青山吉伸がおり、批判に対し多数の訴訟を乱発していた。毎日新聞、西日本新聞、熊本日日新聞など初期からオウム報道をしていたマスコミも訴訟のターゲットとなり、事件発覚までマスコミがオウムへの追及を敬遠する一因となった。
 さらに敵対者や脱会活動に対しては、

 ビラまき
 毎日新聞社の入るビルを25分の間にビラで埋め尽くしたこともあった

 通勤経路にオウムのポスターを貼る   
 車を並べる・街宣・オウム真理教の音楽を流す・無言電話・いたずら電話・盗聴
 梵字による仄めかしなどの嫌がらせを行い、これらはエスカレートし数々の襲撃事件に至った。

     〔ウィキペディアより引用〕