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絵画たちの中庭【回廊】で Art.02

2023-10-22 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ 真珠の耳飾りの少女 ◢

 『真珠の耳飾りの少女』
(しんじゅのみみかざりのしょうじょ)(蘭: Het meisje met de parel)
(英: Girl with a Pearl Earring)

 オランダの画家 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の絵画であり、彼の代表作の一つ。
 『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』とも呼ばれ、オランダのデン・ハーグのマウリッツハイス美術館が所蔵する。
 口元にかすかな笑みを湛えるかのようにも見えるところから「北のモナ・リザ」「オランダのモナ・リザ」とも称される。


 《由来》

 制作されたのは、1665もしくは1666年と推定されている。
 フェルメールが33歳から34歳のころで、画家として安定した技量を発揮しつつあった時期であるが、異論がないわけではない。
 この少女のモデルをフェルメールの娘マーリアであるとして1670年代とする意見もあるが、1670年代の彼の技法はこの絵と明らかに異なっているため、可能性は低い。
 ただし、本作の構図はきわめて単純で、少女の上半身が描かれているだけで他に年代を推定できるような物品や背景がなく、後で述べるように少女の特徴であるターバンもまったくの異国の風俗で、オランダ社会のファッションの移ろいとは無縁であるなど、時代から隔絶した趣が強く、1665年または1666年という数字もあくまで推測の域を出ない。
 この絵画には「IVMeer」という署名があるが、日付はない。
 注文を受けて描かれたのか、そうであれば誰から注文を受けたのかということも不明である。
 その後、フェルメールは1675年に43歳で破産同然で死去したため、残された作品も競売にかけられるなどして散逸した。
 『真珠の耳飾りの少女』も、他の絵とともに1696年に競売された目録が残っている。

 その後、1881年まで所有者は転々としたが、フェルメールの希少な作品が海外に流れるのを防ごうとしてきたヴィクトール・ド・ステュエール(Victor de Stuers)の説得に応じたデ・トンブ(A.A. des Tombe)は、1881年にハーグのオークションにてわずか2ギルダー30セント(およそ1万円)でこの絵を購入した。
 当時この絵はきわめて汚れており、そうした低評価もやむを得なかった。
 デ・トンブには相続人がいなかったため、この絵を他の絵画と一緒にマウリッツハイス美術館に寄贈し、以後ここに所蔵されている。
 1882年には補修が行われ、1960年、1994年から96年にも補修されたが、1994年から2年間の修復は入念かつ徹底的に実施され、その結果、絵はフェルメールによって描かれた当時の状況に非常に近いものとなっている。
 現在取り引きされるなら、その価格は100億円とも150億円とも言われる。
 ここに描かれている少女が誰かは興味深い問題で、さまざまな説がある。先述されたマーリアとする意見もあるほか、彼の妻、恋人、あるいは作者のまったくの創作などとも言われるが、フェルメールの家族や知人の肖像画はなく、伝記の類も残っていないため真相は不明である。

 《鑑賞》

 ▼唇

 下唇を明るく光らせ、上唇の輪郭をぼかすことで若々しく瑞々しい質感が出されている。
 1994年からの補修によって、少女の唇の左端(画面で見ると右端)に白のハイライトがあること、また唇の中央部にも小さな白いハイライトがあることも明らかになった。
 これらは、唇の濡れた感じを示す効果がある。
 口元は少し開き加減で、鑑賞者には何かを言いたそうに見え、また微笑しているようにも感じられる。
 いずれも強い印象を与え、想像力を刺激される。
 『モナ・リザ』にたとえられる所以である。

 ▼真珠の耳飾り

 現在ではイヤリングといわれる装身具。
 輪郭線は用いず、光の反射だけで直径2cmはありそうな大粒の真珠を写実的に描いている。
 反射は斜め上から差し込む光による明瞭なものと、少女の服の白い襟に反射した光によるものぼんやりしたものがあり、立体感を生み出している。
 1994年の補修の結果、それまであったもう一つの小さな反射と見えたものは、以前の補修に際してはがれた絵の具が裏返しになって画面についてしまったものだと判明した。

 ▼ターバン

 フェルメールの作品の多くに言えることであるが、この作品の場合は特に色の数が少ない。
 背景の黒を除けば、黄色と青色が主要部分を占めている。
 黄と青は補色の関係にあり、その対比は際立って目立つ。
 したがって少女が頭に巻いているターバンの鮮やかな青が強く印象に残る。
 この青は西アジア原産のラピスラズリという宝石から作った非常に高価な絵の具を用いたものである。
 もともとこのターバンが人々の目を引き、『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』と呼ばれてきた。
 ターバンは、実際には当時のヨーロッパでは一般的なファッションではなく、特異な衣装である。
 当時はトルコが強大な帝国を築いており、ヨーロッパをしばしば脅かした[3]。しかし一方でヨーロッパ人にとってトルコやアジアの文化は異国情緒をそそる憧れの対象でもあり、家具調度や服装などにトルコなどの物品や風俗が用いられることも多かった。
 スイスの18世紀の画家ジャン=エティエンヌ・リオタール(Jean-Étienne Liotard)のパステル画に、イギリスの貴婦人がトルコ風の衣装を着た様子を描いた作品がある(『世界の美術Ⅱ 西洋』学習研究社、1967年)。
 本作の場合も、異国趣味を意識したものであろうと考えられる。

 一方で、1599年にグイド・レーニによって描かれたと伝えられる『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』のオマージュである可能性も指摘されている。
 ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)はイタリアの名門貴族の娘であったが、悪逆非道の父を殺害したため斬首刑となった。
 レーニの絵は彼女の処刑前夜を描いたと言われる。肩越しに振り向いた様子、ターバンを巻いている姿など共通点が多い。

 《贋作(偽物)》

 1937年、収集家アンドリュー・ウィリアム・メロンは、この絵と非常によく似ており、フェルメールの作品と思われたものをワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーに寄贈した。
 その絵は現在では贋作と考えられている[。
 フェルメール研究の専門家アーサー・ウィーロック(Arthur Wheelock)は、1995年の論文でテオ・ファン・ヴェインガールデン(en:Theo van Wijngaarden)の手によるものと主張している。
 ヴェインガールデンは20世紀の画家で悪名高い贋作家であり、さらに悪名高いハン・ファン・メーヘレンの友人であった[4]。ハン・ファン・メーヘレンはオランダの画家で、フェルメールの絵画をいくつも偽造したことで有名である。
 第2次世界大戦中にドイツの首脳ゲーリング(ヒトラーの後継者とされていた大物軍人・政治家)に贋作を売ったことから戦後に犯行が発覚、逮捕されたが、ナチの大物をだましたというので刑は軽かった。

 《フェルメール》

 ヨハネス・フェルメール
(Johannes Vermeer)
 ( オランダ語: joːˈɦɑnəs vərˈmeːr) 1632年10月31日? 〜1675年12月15日?)
 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。
 映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。
 フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。
 本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。

 《概要》

 フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに、バロック絵画を代表する画家の1人である。
 また、レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。
 生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年〜55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。
 現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。
 このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。

 《生涯》

 ▼出生

 1632年にデルフトに生まれる。
 同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。
 本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。
 ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。
 父親の姓フォス (Vos) は英語のきつね (Fox) を意味するものだった。
 父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。
 10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。

 結婚と画家としての出発 編集 フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが[1]、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。 この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが[1]、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない[1]。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったとわれる。

 ▼全盛期

 父親の死後、1655年に実家の家業を継いで[1]、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる[1]。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。

 1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。 1662年から2年間聖ルカ組合の理事を務め、また1669年からも2年間同じ役職に就いている[1]。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。

 ▼不遇の時代

 レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。

 ▼死去

 フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した(死因不明)。12月16日に埋葬されたとの記録があるが[1]、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。 同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。 フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。しかし、カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るためにその遺産を直接孫たちに手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、彼の死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。

 《後世》

 ▼「忘れられた画家」と「再発見」

 聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。 しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。 19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。

 1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガー(英語版)が美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかと言う研究者もいる[誰?]。 その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。 フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。

 ▼贋作(がんさく)事件

 トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。 この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれていると言うのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。

 ▼フェルメールとダリ

 編集 シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。 ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。

 ▼盗難事件

 1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。 1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。 1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。 さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。

 イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。 ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。 1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。

 関連書籍 ー 真珠の耳飾りの少女(小説) ー

 『真珠の耳飾りの少女』(しんじゅのみみかざりのしょうじょ)
 (Girl with a Pearl Earring )
 アメリカ合衆国出身の小説家トレイシー・シュヴァリエによって1999年に発表された歴史小説である。
 17世紀の画家フェルメールの絵画『真珠の耳飾りの少女』に着想を得た作品である。
 作者シュヴァリエが編集者から小説家へ転向して第2作として書いた作品。

 《ストーリー概要》

 1664年。デルフトに暮らす16歳の少女グリートは父親が事故で視力を失ってしまい、家を離れなければならなくなる。父はタイル画家で職人のギルドのメンバーなので、そのおかげで画家ヨハネス・フェルメールの家のメイドの仕事が見つかる。この時代、身分の違いがかなり明白なので、メイドになるということは身分が下がったということである。というのもメイドというのは主人から盗んだり主人を探ったりあるいは主人と寝て男女関係になったりしがちなどと見なされ、評判がよろしくなく、低く見られる身分なのである。やっかいなことにグリートはプロテスタントであるのに、主人のフェルメールはこの地ではマイノリティという立場であり迫害されがちなカトリックである。グリートはフェルメール家の長女のマートゲと友人関係になるが、階級意識の強い母親カタリーナの考え方を継承した娘のコーネリアとは仲良くなれない。フェルメール家にはタネケという使用人がいるがこのタネケとうまくやってゆくのも難しい。

 フェルメール家で働きはじめてかれこれ2年。自分の家に帰れるのは日曜だけであるが、グリートの家庭はすでに壊れてしまっている。弟のフランは家から出て見習い仕事をしているし、妹のアグネスは疫病で死んでしまった。市場の肉屋の息子のペーターはグリートのことを好きだと言うが、グリートは厳格に育てられた娘なのでそういうことは最初は拒む。だが貧しさに苦労している両親を楽にするためにペーターの好意を受け入れるほうに気持ちが傾く。 グリートは主人のフェルメールが描く絵画に次第に魅せられてゆく。グリートが芸術に関心があることに気付いたフェルメールは、グリートに近くにいてもらって絵の具の顔料を砕いたり混ぜたりする仕事を頼むようになる。そして臨時のモデルになる仕事も...。モデルとしてフェルメールに見つめられるグリート。モデルとしてフェルメールのそばで過ごす時間が長くなるにつれフェルメールの妻カタリーナは二人の関係を疑い始める。だが義母つまりヨハネス・フェルメールの母のマリア・ティンスはグリートがいてくれることでフェルメールの仕事や将来に良い影響をもたらすと考えグリートが息子ヨハネスのそばにいることを容認し、それどころかもっと長い時間一緒にすごせば良い、などと考える。嫁と姑の考えは対立している。一方、フェルメールの友人のアントニ・ファン・レーウェンフックから忠告される。フェルメールは芸術家であり、興味があるのは人間ではなくあくまで絵画という男。だから近づきすぎるのは止めておいたほうがよい、と。たしかにレーウェンフックの言う通りなので、グリートは警戒心を保つ。

 フェルメールにはピーテル・ファン・ライフェンという裕福なパトロンつまり資金を提供している支援者がいるが、このライフェンがフェルメール家に目のぱっちりしたメイドのグリートがいることに気づき、狙いをつけはじめる。このファンライフェンという男、すでにメイドを妊娠させたことがある男で、グリートと男女関係になるために、フェルメールに対して自分とグリートを一緒に絵画に描いてくれと心理的な圧力をかけはじめる。グリートもそれは嫌だがフェルメールもこの要求は受け入れがたいと感じる。困った末にフェルメールが考え出した策は、ファンライフェンとその家族の絵画を描く仕事はそれはそれで請け負い、それとは全然別に、グリートだけをモデルにした絵画をフェルメールが描いてファンライフェンに売ってさしあげる、というものであった。 こうしてグリートをモデルとした作品の制作が始まり、この絵のために、フェルメールは妻のイヤリングをグリートの耳に突き刺す。

 〔ウィキペディアより引用〕





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