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落語読本 らくごの一文 [落語]『桃太郎』 桂ざこば

2023-11-01 21:00:00 | 出来事/備忘録

   ❖ 桃太郎 ❖
         桂ざこば


 人間いろいろ性格が違うもんでねぇ、扱いやすい人、扱いにくい人いてますが、まぁわたしが一番扱いにくいのは嫁はんでっかねぇ、いま一番嫁はんが扱いにくいです。
 綺麗ことは綺麗んですけど、口がちょっともひとつなんで扱いにくいですねぇ。
 その次に扱いにくいのんが子どもですね。
 生意気だんなぁ、この頃の子ども。
 なんか言ぅたら「時代が違う」ちゅうんだ「何を言ぅてんねんお父ちゃん、時代が違う」 これ、時代が違うちゅうのは時代を知ってるもんが言ぅんです。
 知らんも んが「時代が違う」ちゅな、おかしぃ。知ってるもんが「あぁ、昔と今とは だいぶ時代が違うなぁ。
 よっしゃ小遣上げたろ」とか言ぅのが、これ時代を 知ってるもんが言ぅん。
 それをあんた、時代を知らんもんが「時代が違う」また、言ぃよぉがムカつくんだ「お父ちゃん、時代が違う」バ~ンいたろかいな思いますわ、ホン マにねぇ。
 何やあれでんなぁ、まぁ時代といや、わたしも今から三十数年前に内弟子 に行っておりましてね、米朝のお家(うち)へ住み込みで三年間行てまして、 小米朝が幼稚園でしたかねぇ、その下に透(とおる)、渉(わたる)っちゅうて双子がいてましてね、これなんかよぉ夜なんか寝かし付けまんねんけど、寝 まへんなぁ。
 あの時分から「時代が違う」言ぅてましたなぁ、透、渉も「兄ちゃんなんかなぁ、早よ寝ぇ言われたらすぐ寝たもんや」「ヘヘッ、時代が違う」時代 違うかったら、暴力かまさなしゃ~ないからね。
 「とにかく寝ぇ、アホ。寝ぇ!」もぉ、子どもなんか気迫でいかな、理屈通れへんから「寝ぇ、こらッ。目ぇつむれ、目ぇ開けたらシバキ倒すぞ」子どもなんかもぉ普通に目ぇつぶりまへんなぁ、顔じゅ~力んでカチコチにこ ないなっとぉる、双子やから二人とも見とかなあきまへんねん。
 ほんだら、向こぉも様子見よる、目ぇちょっと開きよる。
 ほんだらバ~ン、 バ~ン「ヒェ~ッ」そのうちに顔の筋が緩んできてフ~ッとホンマに寝てま いよるんです。
 それまでけっこぉ時間かかりますけどね。
 昔の子どもは、ちょっとこぉおとぎ話なんか聞かしたったら、すぐ寝たもんですけど、今どきの子どもはなかなか、難儀なもんですわ。

 ■健坊ぉ~、健ちゃん
 ●え~?
 ■早よ寝んかい
 ●何で?
 ■「何で」っちゅうやつがあるかいお前。
 日が暮れたら寝んのん決まったぁるやろがな
 ●眠むたない
 ■眠むたなかっても寝ぇ
 ●そんな、眠むたないのに寝ぇて、そら君……
 ■き、君ぃ? こいつ親を友達のよぉに思てんでホンマに。
 お前みたいにそないして夜遅ぉまで起きてるさかい、朝早よ起きられへんねん。
 なぁ、子どもがお前、遅ぉまで起きててみぃ、恐いお化けや幽霊が出て来るぞ
 ●「お化けや幽霊」て、お父ちゃん、割りと可愛らしぃこと言ぅなぁ。
 ■なぶってたらあかんでホンマに。
 早よ寝てしまえッ!
 ●眠むたないっちゅうねや
 ■眠むたなかってもやな、寝間に入って、横になって目ぇつぶっててみぃ、自然と寝てしまうねん
 ●そんな、眠むとぉもないのに寝間入って目ぇつぶってたら、ろくなこと考えへん。
 ■子どもの言うこっちゃないで、こいつの言ぅことはホンマに……、とにかく寝間へ入れ、これからお父ちゃんが面白い話をしたるさかい。
 それを聞きながらネンネすんねや。
 ■昔々や
 ●何年ほど?
 ■「何年ほど」てお前、こんなもん前から「昔々」に決まったぁるがな
 ●何ぼ昔でも、年号っちゅうもんがあったやろ……、まぁ 例えば、元禄とか天保、慶長、慶応
 ■そぉいぅ難しぃ年号も何も無い昔や。
 ●ほぉ~ッ、年号も何も無い昔いぅたら、だいぶと昔やな
 ■せやせや、ずっ と昔や……、ある所に
 ●どこや?
 ■どこでもえぇやないか。
 親が「ある所」 言ぅたら、ある所にしといたらえぇねん
 ●そぉかて「ある所」てなとこ、こ の世に無いがな。
 何ぼ昔でも、国の名前ちゅうもんがあったやろ。
 まぁ大和 とか摂津とか播磨とか。
 ■そぉいぅ難しぃ国の名前も何にも無かった時分の話
 ●ほぉ~ッ、国の名前 も何にも無い昔いぅたら、よっぽど昔やねぇ
 ■「よっぽど昔や」言ぅてるや ろ……、お爺さんとお婆さんが住んではったんや
 ●お爺さんの名前は?
 ■名前無い。
 名前も何にも無い昔。
 ●人間に名前の無かった頃いぅたら、よっぽど昔やねぇ
 ■「よっぽど昔や」 言ぅてるやろ……、お爺さんとお婆さんがいてはったんや
 ●お爺さんの歳は?
 ■歳無い。歳も何にも無い昔や
 ●そんな無茶言ぅたらあかんわ。
 何ぼ昔でも 歳ぐらいあったやろ、一年経ったら一つやねんさかい。
 ■うるさいやっちゃなぁ、ホンマに。はじめはあったんじゃ、はじめは。せやけどお前、こないだの火事で焼けて無くなってもたわい
 ●無茶言ぃないな、 お父ちゃん。歳が火事で焼けたりせぇへんで。

 ■うるさいやっちゃなぁ、ホンマに。  
 お前みたいにそないしてゴチャゴチャ ゴチャゴチャ言ぅてたら、寝る間も何にも無いやろ。
 な、子どもは子どもらしゅ~「ふぅ~~ん」言ぅてお前、感心しながら聞ぃててみぃ、だんだん眠 むとぉなってくんねやさかい
 ●ふぅ~~ん。
 ■そいでえぇのや……、お爺さんは山へ柴刈りに行た
 ●ふぅ~~ん
 ■お婆さんは川へ洗濯に行た
 ●ふぅ~~ん
 ■上(かみ)から桃が流れて来た
 ●ふふふ、 ふぅ~~ん
 ■お前、なぶっとぉるやろ。
 承知せんぞ、ホンマに。
 黙(だ)って聞ぃとれアホッ!
 ■とにかくな、上から桃が流れて来てん。
 それを家(うち)へ持って帰って、 ポ~ンと割ったら、中から子どもが出て来た。
 男の子や。桃から生まれたんで「桃太郎」ちゅう名前を付けたんや。
 この子が大きなって「鬼が島」へ鬼を退治しに行くっちゅうんで「黍(きび)団子」といぅ美味しぃものをこさえて持たしてやったら「犬と猿とキジ」が出てきて「一つ下さいお供する」っちゅうやっちゃ。
 ■みんな揃ろて「鬼が島」へ鬼を退治しに行た。
 犬は鬼の足にかぶりつくや ら、猿は顔をかきむしるやら、キジは目を突つくやら、鬼は「降参や、堪忍 してください」言ぅて、山のよぉな「宝もん」を出して謝ったんや。
 それを車に積んで、犬が押すやら猿が引くやら、エンヤラヤ~エンヤラヤ~とうち へ持って帰って、お爺さんやお婆さんに孝行をしたっちゅうねん。
 ■どや、もぉしまいや……、おもろかったやろ、早よ寝ぇ……、寝んかい、寝んかいこら、寝てくれ、頼むから寝てくれ
 ●あんまり可哀相やから寝たろかなぁ思てたんや。
 けど、アホなことばっかり言ぅさかい、だんだん目ぇ冴 えてきたわ。
 ■「目ぇ冴えてきた」悪いやっちゃなぁ、ホンマに。
 何でやねん?
 ●「何で」て、そやないかいお父ちゃん。
 それ、桃太郎の昔話やろ
 ■そぉや、桃太郎の 昔話や
 ●桃太郎てなもん、オモロないがな。
 わいら、もっとこぉ恋愛もんか なんか……
 ■何を生意気なこと言ぅとんねん、お前ら桃太郎で結構や。
 ●お父ちゃんら何にも知らへんねん。      
 こらなぁ、日本の昔話の中でも一番有 名な話やねんで。
 世界的名作と言われてんねん。
 数ある中でも、桃太郎いぅたらエラ名作やで。
 それをあんな風に言ぅたら、値打(ねぐち)も何にもない ねぇ。
 あれでは作者が泣く
 ■何が作者じゃアホ、お前ら何にも知らへんねん。
 ●お父ちゃんこそ知らへんねん「昔々、ある所」と時代や場所をハッキリさしてないやろ、あれはわざとあないしたぁんねやで。
 といぅのが、これを大阪の話にしてみ、大阪の子には馴染みがあってえぇか知らんけど、これ東京へ持って行ったら分かれへんやろ。
 ●また、これを東京の話にしたら、東京の子には馴染みがあってえぇか知らんけど、田舎へ持って行たら分かれへんがな、せやろ。
 日本国中どこへ持って行って、どの子に聞かしてもよぉ分かるよぉに「昔々、ある所」としたぁ んねん。
 こないしたら話が広ろなるやろ。
 ここんところは作者の筆の働きやで、そこんところ考えたげな……
 ●お爺ちゃんとお婆ちゃん出て来るわなぁ。
 これはホンマは「お父さんとお母さん」が言ぃたいねんで。
 昔から年寄と子どもは馴染みが深いさかい、お爺ちゃんやお婆ちゃんにしたぁるけどなぁ「ぢぢ、ばば」の濁りを取ったら 「ちち、はは」になるやろ。
 つまり両親のことを言ぃたいわけや。

 ●で、山へ柴刈りに行て、海へ洗濯しに行くわけにいかんさかいに「川」にしたぁるけど、ホンマは「海」が言ぃたいねん「山と海」や。
 ほんで「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し」といぅことの譬(たとえ)になったぁんねんで、お父ちゃん。   
 ■へ~ッ! なるほどなぁ。
 で、それからどないなんねん、それから?
 ●上から桃が流れて来て、うちへ持って帰ってポ~ンと割ってみたら、中から子どもが出て来た。
 こんなもん、桃から子どもができるわけがないやろ。
 桃から子ども産まれてみぃな、果物(くだもん)屋、やかましぃてしゃ~ない。
 ●人間のお腹から出た子が、子どものくせに鬼退治しに行くちゅな、あら不自然な。
 せやから、あれは「神様から授かった子」としてあるんや。
 それから、何や言ぅてたなぁ、あの三匹の動物出て来るわなぁ。
 これ、何でもえぇ 三つ動物並べてんのんちゃうねんで。
 ●「犬は三日飼うと、その飼い主の恩を忘れん」て、こぉ言ぅやろ。
 こら、 仁義に厚い動物や。猿は「猿智恵」っちゅうて人間馬鹿にしてるけどな、動物の中では一番智恵があんねん。 
 キジ、またこれは勇気のある鳥やなぁ。
 キジがこぉ卵を暖めてる時に、ヘビが体じゅ~に巻き付いても急(せ)きも慌て もせぇへんねんで。
 巻くだけ巻かしといて、あとでブチ~ンッと弾き飛ばしてしまうといぅぐらい勇気のある鳥や。
 この三匹で「仁・智・勇」といぅ三つの徳を表わしたぁるねんで、お父ちゃん。
 ■え、えらいこと言ぃよんなぁ、こいつ……。
 おい嫁はん、そんなとこでテ レビ見てたらいかん。
 テレビ消して、こっち来て、この子の話聞きなさい、 勉強になる。
 来年市会議員に立候補さしたろ……、それからどないなんねん? それから?
 ●「鬼が島」あんなもんこの世に無いがな、せやろ。
 この世の中のことを鬼が島にたとえてあんねん。
 人間と生まれてきたからには、世の中へ出て苦労せんならん。
 これが鬼が島の鬼退治や。
 ほんで、あの「キビ団子ちゅう美味しぃもん」ちゅうたやろ、あれも間違いや。
 ●黍(キビ)いぅたら、もぉ不味いもん。
 五穀の中のお米よりもずっと粗末なもん「贅沢をしたらいかん」といぅ教えが、このキビ団子や。
 世の中へ出て 苦労する時にやな、贅沢をせんと質素を守って、今言ぅたこの「仁・智・勇」 といぅ三つの徳を身に付けて、一生懸命働いて、やがて鬼を退治して「山のよぉな宝もん」といぅのは、世の中で身に付ける地位とか名誉とか財産とか、まぁまぁそぉいぅ宝もんがあるわ。
 そぉいぅものを身に付けた立派な一人前の、世の中の役に立つ人間になって「親に孝行し、家の名を上げるといぅ、 これが人間として一番大事な道である」といぅことを、昔の人が子どもにも分かるよぉに、面白ぉこしらえてくれはった、よぉできた話や。
 それをあんな風に言ぅたら、もぉネグチも何にもあれへん。
 ●まぁまぁ、ボクの前やさかいえぇけど、こんなことよそ行って言ぃなや、 恥かくさかい「親の恥は子の恥」ちゅうて、わいまで辛いさかいな、よそ行て言わんよぉにしてや。な、お父ちゃん。お父ちゃん……?

 〔情報元 : 世紀末亭〕
 http://kamigata.fan.coocan.jp/

絵画たちの中庭【回廊】で Art.02

2023-10-22 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ 真珠の耳飾りの少女 ◢

 『真珠の耳飾りの少女』
(しんじゅのみみかざりのしょうじょ)(蘭: Het meisje met de parel)
(英: Girl with a Pearl Earring)

 オランダの画家 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の絵画であり、彼の代表作の一つ。
 『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』とも呼ばれ、オランダのデン・ハーグのマウリッツハイス美術館が所蔵する。
 口元にかすかな笑みを湛えるかのようにも見えるところから「北のモナ・リザ」「オランダのモナ・リザ」とも称される。


 《由来》

 制作されたのは、1665もしくは1666年と推定されている。
 フェルメールが33歳から34歳のころで、画家として安定した技量を発揮しつつあった時期であるが、異論がないわけではない。
 この少女のモデルをフェルメールの娘マーリアであるとして1670年代とする意見もあるが、1670年代の彼の技法はこの絵と明らかに異なっているため、可能性は低い。
 ただし、本作の構図はきわめて単純で、少女の上半身が描かれているだけで他に年代を推定できるような物品や背景がなく、後で述べるように少女の特徴であるターバンもまったくの異国の風俗で、オランダ社会のファッションの移ろいとは無縁であるなど、時代から隔絶した趣が強く、1665年または1666年という数字もあくまで推測の域を出ない。
 この絵画には「IVMeer」という署名があるが、日付はない。
 注文を受けて描かれたのか、そうであれば誰から注文を受けたのかということも不明である。
 その後、フェルメールは1675年に43歳で破産同然で死去したため、残された作品も競売にかけられるなどして散逸した。
 『真珠の耳飾りの少女』も、他の絵とともに1696年に競売された目録が残っている。

 その後、1881年まで所有者は転々としたが、フェルメールの希少な作品が海外に流れるのを防ごうとしてきたヴィクトール・ド・ステュエール(Victor de Stuers)の説得に応じたデ・トンブ(A.A. des Tombe)は、1881年にハーグのオークションにてわずか2ギルダー30セント(およそ1万円)でこの絵を購入した。
 当時この絵はきわめて汚れており、そうした低評価もやむを得なかった。
 デ・トンブには相続人がいなかったため、この絵を他の絵画と一緒にマウリッツハイス美術館に寄贈し、以後ここに所蔵されている。
 1882年には補修が行われ、1960年、1994年から96年にも補修されたが、1994年から2年間の修復は入念かつ徹底的に実施され、その結果、絵はフェルメールによって描かれた当時の状況に非常に近いものとなっている。
 現在取り引きされるなら、その価格は100億円とも150億円とも言われる。
 ここに描かれている少女が誰かは興味深い問題で、さまざまな説がある。先述されたマーリアとする意見もあるほか、彼の妻、恋人、あるいは作者のまったくの創作などとも言われるが、フェルメールの家族や知人の肖像画はなく、伝記の類も残っていないため真相は不明である。

 《鑑賞》

 ▼唇

 下唇を明るく光らせ、上唇の輪郭をぼかすことで若々しく瑞々しい質感が出されている。
 1994年からの補修によって、少女の唇の左端(画面で見ると右端)に白のハイライトがあること、また唇の中央部にも小さな白いハイライトがあることも明らかになった。
 これらは、唇の濡れた感じを示す効果がある。
 口元は少し開き加減で、鑑賞者には何かを言いたそうに見え、また微笑しているようにも感じられる。
 いずれも強い印象を与え、想像力を刺激される。
 『モナ・リザ』にたとえられる所以である。

 ▼真珠の耳飾り

 現在ではイヤリングといわれる装身具。
 輪郭線は用いず、光の反射だけで直径2cmはありそうな大粒の真珠を写実的に描いている。
 反射は斜め上から差し込む光による明瞭なものと、少女の服の白い襟に反射した光によるものぼんやりしたものがあり、立体感を生み出している。
 1994年の補修の結果、それまであったもう一つの小さな反射と見えたものは、以前の補修に際してはがれた絵の具が裏返しになって画面についてしまったものだと判明した。

 ▼ターバン

 フェルメールの作品の多くに言えることであるが、この作品の場合は特に色の数が少ない。
 背景の黒を除けば、黄色と青色が主要部分を占めている。
 黄と青は補色の関係にあり、その対比は際立って目立つ。
 したがって少女が頭に巻いているターバンの鮮やかな青が強く印象に残る。
 この青は西アジア原産のラピスラズリという宝石から作った非常に高価な絵の具を用いたものである。
 もともとこのターバンが人々の目を引き、『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』と呼ばれてきた。
 ターバンは、実際には当時のヨーロッパでは一般的なファッションではなく、特異な衣装である。
 当時はトルコが強大な帝国を築いており、ヨーロッパをしばしば脅かした[3]。しかし一方でヨーロッパ人にとってトルコやアジアの文化は異国情緒をそそる憧れの対象でもあり、家具調度や服装などにトルコなどの物品や風俗が用いられることも多かった。
 スイスの18世紀の画家ジャン=エティエンヌ・リオタール(Jean-Étienne Liotard)のパステル画に、イギリスの貴婦人がトルコ風の衣装を着た様子を描いた作品がある(『世界の美術Ⅱ 西洋』学習研究社、1967年)。
 本作の場合も、異国趣味を意識したものであろうと考えられる。

 一方で、1599年にグイド・レーニによって描かれたと伝えられる『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』のオマージュである可能性も指摘されている。
 ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)はイタリアの名門貴族の娘であったが、悪逆非道の父を殺害したため斬首刑となった。
 レーニの絵は彼女の処刑前夜を描いたと言われる。肩越しに振り向いた様子、ターバンを巻いている姿など共通点が多い。

 《贋作(偽物)》

 1937年、収集家アンドリュー・ウィリアム・メロンは、この絵と非常によく似ており、フェルメールの作品と思われたものをワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーに寄贈した。
 その絵は現在では贋作と考えられている[。
 フェルメール研究の専門家アーサー・ウィーロック(Arthur Wheelock)は、1995年の論文でテオ・ファン・ヴェインガールデン(en:Theo van Wijngaarden)の手によるものと主張している。
 ヴェインガールデンは20世紀の画家で悪名高い贋作家であり、さらに悪名高いハン・ファン・メーヘレンの友人であった[4]。ハン・ファン・メーヘレンはオランダの画家で、フェルメールの絵画をいくつも偽造したことで有名である。
 第2次世界大戦中にドイツの首脳ゲーリング(ヒトラーの後継者とされていた大物軍人・政治家)に贋作を売ったことから戦後に犯行が発覚、逮捕されたが、ナチの大物をだましたというので刑は軽かった。

 《フェルメール》

 ヨハネス・フェルメール
(Johannes Vermeer)
 ( オランダ語: joːˈɦɑnəs vərˈmeːr) 1632年10月31日? 〜1675年12月15日?)
 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。
 映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。
 フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。
 本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。

 《概要》

 フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに、バロック絵画を代表する画家の1人である。
 また、レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。
 生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年〜55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。
 現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。
 このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。

 《生涯》

 ▼出生

 1632年にデルフトに生まれる。
 同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。
 本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。
 ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。
 父親の姓フォス (Vos) は英語のきつね (Fox) を意味するものだった。
 父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。
 10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。

 結婚と画家としての出発 編集 フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが[1]、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。 この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが[1]、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない[1]。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったとわれる。

 ▼全盛期

 父親の死後、1655年に実家の家業を継いで[1]、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる[1]。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。

 1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。 1662年から2年間聖ルカ組合の理事を務め、また1669年からも2年間同じ役職に就いている[1]。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。

 ▼不遇の時代

 レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。

 ▼死去

 フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した(死因不明)。12月16日に埋葬されたとの記録があるが[1]、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。 同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。 フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。しかし、カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るためにその遺産を直接孫たちに手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、彼の死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。

 《後世》

 ▼「忘れられた画家」と「再発見」

 聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。 しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。 19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。

 1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガー(英語版)が美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかと言う研究者もいる[誰?]。 その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。 フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。

 ▼贋作(がんさく)事件

 トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。 この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれていると言うのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。

 ▼フェルメールとダリ

 編集 シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。 ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。

 ▼盗難事件

 1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。 1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。 1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。 さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。

 イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。 ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。 1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。

 関連書籍 ー 真珠の耳飾りの少女(小説) ー

 『真珠の耳飾りの少女』(しんじゅのみみかざりのしょうじょ)
 (Girl with a Pearl Earring )
 アメリカ合衆国出身の小説家トレイシー・シュヴァリエによって1999年に発表された歴史小説である。
 17世紀の画家フェルメールの絵画『真珠の耳飾りの少女』に着想を得た作品である。
 作者シュヴァリエが編集者から小説家へ転向して第2作として書いた作品。

 《ストーリー概要》

 1664年。デルフトに暮らす16歳の少女グリートは父親が事故で視力を失ってしまい、家を離れなければならなくなる。父はタイル画家で職人のギルドのメンバーなので、そのおかげで画家ヨハネス・フェルメールの家のメイドの仕事が見つかる。この時代、身分の違いがかなり明白なので、メイドになるということは身分が下がったということである。というのもメイドというのは主人から盗んだり主人を探ったりあるいは主人と寝て男女関係になったりしがちなどと見なされ、評判がよろしくなく、低く見られる身分なのである。やっかいなことにグリートはプロテスタントであるのに、主人のフェルメールはこの地ではマイノリティという立場であり迫害されがちなカトリックである。グリートはフェルメール家の長女のマートゲと友人関係になるが、階級意識の強い母親カタリーナの考え方を継承した娘のコーネリアとは仲良くなれない。フェルメール家にはタネケという使用人がいるがこのタネケとうまくやってゆくのも難しい。

 フェルメール家で働きはじめてかれこれ2年。自分の家に帰れるのは日曜だけであるが、グリートの家庭はすでに壊れてしまっている。弟のフランは家から出て見習い仕事をしているし、妹のアグネスは疫病で死んでしまった。市場の肉屋の息子のペーターはグリートのことを好きだと言うが、グリートは厳格に育てられた娘なのでそういうことは最初は拒む。だが貧しさに苦労している両親を楽にするためにペーターの好意を受け入れるほうに気持ちが傾く。 グリートは主人のフェルメールが描く絵画に次第に魅せられてゆく。グリートが芸術に関心があることに気付いたフェルメールは、グリートに近くにいてもらって絵の具の顔料を砕いたり混ぜたりする仕事を頼むようになる。そして臨時のモデルになる仕事も...。モデルとしてフェルメールに見つめられるグリート。モデルとしてフェルメールのそばで過ごす時間が長くなるにつれフェルメールの妻カタリーナは二人の関係を疑い始める。だが義母つまりヨハネス・フェルメールの母のマリア・ティンスはグリートがいてくれることでフェルメールの仕事や将来に良い影響をもたらすと考えグリートが息子ヨハネスのそばにいることを容認し、それどころかもっと長い時間一緒にすごせば良い、などと考える。嫁と姑の考えは対立している。一方、フェルメールの友人のアントニ・ファン・レーウェンフックから忠告される。フェルメールは芸術家であり、興味があるのは人間ではなくあくまで絵画という男。だから近づきすぎるのは止めておいたほうがよい、と。たしかにレーウェンフックの言う通りなので、グリートは警戒心を保つ。

 フェルメールにはピーテル・ファン・ライフェンという裕福なパトロンつまり資金を提供している支援者がいるが、このライフェンがフェルメール家に目のぱっちりしたメイドのグリートがいることに気づき、狙いをつけはじめる。このファンライフェンという男、すでにメイドを妊娠させたことがある男で、グリートと男女関係になるために、フェルメールに対して自分とグリートを一緒に絵画に描いてくれと心理的な圧力をかけはじめる。グリートもそれは嫌だがフェルメールもこの要求は受け入れがたいと感じる。困った末にフェルメールが考え出した策は、ファンライフェンとその家族の絵画を描く仕事はそれはそれで請け負い、それとは全然別に、グリートだけをモデルにした絵画をフェルメールが描いてファンライフェンに売ってさしあげる、というものであった。 こうしてグリートをモデルとした作品の制作が始まり、この絵のために、フェルメールは妻のイヤリングをグリートの耳に突き刺す。

 〔ウィキペディアより引用〕




絵画たちの中庭【回廊】で Art.01ーC

2023-10-04 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ ゲルニカ C ◢

 《人物と思想》

 第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。
 フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。
 スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。
 ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合った。
 また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった。
 スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。
 死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。
 ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。

 スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。
 『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。
 現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている[21]。 1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。
 しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。
 ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。
 ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。

 1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。
 しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。
 1950年にスターリン平和賞を受賞し、1962年にレーニン平和賞を受賞した。

 《晩年》

 1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。
 有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。
 1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。
 この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。
 1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。
 その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。
 ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。
 ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。 ピカソは1973年に91歳で死去した。

 《死後》

 ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。
 ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館 (マラガ)(英語版)を開館した。
 ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。
 また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。
 フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。
 一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。
 このほか、アンティーブにピカソ美術館 (アンティーブ)、カンヌ近郊のヴァロリスにピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。
 1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。
 フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。

 ▼オークション落札額の推移

 2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。
 2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。
 2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。
 それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった。

 2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。
 事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。
 ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。
 もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。
 結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。
 ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。
 でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。
 2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。
 2015年5月11日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した。
 2018年5月8日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された。

 《名前》

 ピカソの本名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。
 洗礼名は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。

 関連項目 ー ゲルニカ爆撃 ー

 ゲルニカ爆撃(ゲルニカばくげき)
(バスク語: Gernikako bonbardaketa) (スペイン語: Bombardeo de Guernica) (英語: Bombing of Guernica)
 またはゲルニカ空爆(ゲルニカくうばく)

 スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍がスペイン北部の都市ゲルニカに対して行った爆撃。
 戦史上初の本格的な都市無差別爆撃とされる。

 ゲルニカにはバスク地方の自治の象徴であるバスク議事堂とゲルニカの木があり、歴代のビスカヤ領主がオークの木の前でフエロ(地域特別法)の遵守を誓ったことから、ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だった。
 フランスの思想家であるジャン=ジャック・ルソーは、「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった」と書いている。
 ゲルニカは前線から約10キロに位置し、バスク軍の3個大隊と軍需工場(とりわけ焼夷弾を製造)とバスク軍が撤退する際の橋があり、反乱軍は軍事目標に分類していた。
 また、7つの防空壕が用意されていたことから、バスク自治政府もゲルニカが標的になる可能性が高いと判断していた。
 そのうちの一つは直撃され、死者数はかなり増えた。
 この爆撃は焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲であり、「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」とされることもある。
 この爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、戦略爆撃は第二次世界大戦で本格化した。
 一方で、ゲルニカ爆撃は一般市民を狙った無差別爆撃などではなく、戦時国際法で認められた、地上軍と連携した空軍が敵の進撃あるいは退却を妨害するために行う、阻止攻撃であったとホルスト・ボーグによって指摘されている。
 コンドル軍団はこの作戦をリューゲン作戦(Operation Rügen)という作戦名で呼んだ。

 《経過》

 ▼スペイン内戦の経過

 1931年にはアルフォンソ13世が退位して第二共和政が成立したが、改革の失敗から民衆の不満が噴出し、1933年の総選挙では右派のスペイン独立右翼連合(英語版)(CEDA)が躍進して左派勢力は敗北し、1936年の総選挙では再び左派が勝利して人民戦線政府が成立するなど、左右両派の力は拮抗しており社会不安が高まっていた。
 7月にはフランシスコ・フランコ、エミリオ・モラ(英語版)両将軍を首謀者とする軍事クーデターが発生し、スペイン内戦が始まった。
 伝統主義の気風が強いナバーラ県とアラバ県は反乱軍の側に立ったが、バスク・ナショナリズムの影響力が強いビスカヤ県とギプスコア県はスペイン独立右翼連合への反感もあったため、共和国政府側に立って人民戦線とともに戦い、バスク地方はスペイン内戦によって分断された。
 フランコ軍による本格的な北方作戦の開始前にも、フランコ軍と手を組んだドイツ空軍による空襲は断続的に行われており、彼らは空軍演習を主目的としていた。
 コンドル軍団はフランコ個人にのみ責任を持ち、独立した指揮権下で北方作戦を遂行していた。
 それまでスペインの鉱山は主にイギリス資本が所有していたため、ドイツ軍にとってバスクを手に入れることはイギリスの軍事経済に打撃を与える効果も期待できた。
 1937年1月4日にはハインケル戦闘機3機とユンカース Ju52爆撃機9機がビルバオを空襲した。
 反乱軍は重工業地帯を持つバスク地方に集中攻撃をかけることを決定し、陸軍と空軍の主力部隊、フーゴ・シュペルレを司令官とするドイツ空軍のコンドル軍団、イタリア空軍の旅団や師団をビトリア=ガステイス近辺に集結させた[19]。歴史家のマヌエル・トゥニョン(英語版)によれば、反乱軍の一連の北方作戦は地上軍と空軍を緊密に連携させた史上初の作戦だった。

 1937年3月31日のドゥランゴ爆撃を緒戦として、モラ将軍を司令官とする本格的な北方作戦が開始された。
 ドゥランゴには戦闘機9機、爆撃機4機によって計4トンの爆弾が落とされ、バスク自治政府によれば即死者127人、病院での死亡者150人超、負傷者300人超を数えた[21]。ドゥランゴには防空体制や軍事施設などはなく、歴史家のヒュー・トマスはドゥランゴを「容赦なく爆撃された最初の無防備都市」と表現した[23]。それまでの空軍は地上戦闘の補助的役割にとどまっていたが、ドゥランゴ爆撃以後は独自の戦力としてみなされ、第二次世界大戦では主体的役割を担った。
 ビスカヤ県全域が連日のように空襲を受け、地ならしを終わると地上軍による侵攻を受けた。

 1937年3月31日のドゥランゴ爆撃を緒戦として、モラ将軍を司令官とする本格的な北方作戦が開始された。
 ドゥランゴには戦闘機9機、爆撃機4機によって計4トンの爆弾が落とされ、バスク自治政府によれば即死者127人、病院での死亡者150人超、負傷者300人超を数えた。
 ドゥランゴには防空体制や軍事施設などはなく、歴史家のヒュー・トマス(英語版)はドゥランゴを「容赦なく爆撃された最初の無防備都市」と表現した。
 それまでの空軍は地上戦闘の補助的役割にとどまっていたが、ドゥランゴ爆撃以後は独自の戦力としてみなされ、第二次世界大戦では主体的役割を担った。
 ビスカヤ県全域が連日のように空襲を受け、地ならしを終わると地上軍による侵攻を受けた。

 ▼ゲルニカ爆撃

 ドイツ空軍・コンドル軍団はゲルニカ爆撃作戦をリューゲン作戦(Operation Rügen)という作戦名で呼んだ。
 ビトリア=ガステイスの飛行場は狭かったため、コンドル軍団の戦闘機基地はビトリア=ガステイス、爆撃機基地はブルゴスに分かれていた。
 フーゴ・シュペルレ将軍はサラマンカの反乱軍総司令部に留まり、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大佐が攻撃部隊の実戦指揮を執った。
 リヒトホーフェンは当時の日誌で、共和国軍の退却路を断つことをリューゲン作戦の目的として挙げている。
 リューゲン作戦に参加したドイツ軍機は一説によればユンカース Ju52爆撃機23機、ハインケルHe51戦闘機20機、メッサーシュミット Bf109が6機(護衛)であり、北方作戦のためのドイツ軍にはこれらに加えてハインケル He111爆撃機の実験中隊などもあった。
 また、イタリア軍はサヴォイア・マルケッティ SM.81爆撃機、サヴォイア・マルケッティ SM.79爆撃機、フィアット CR.32戦闘機で反乱軍の地上部隊を援護した。

 関連項目 ー 鳩 (ピカソ) ー

 『鳩』
(はと、フランス語: La Colombe)

 パブロ・ピカソが1949年に制作したリトグラフである。
 黒い背景の上に白い鳩が描かれている。
 この絵は、1949年4月にパリで開催された世界平和評議会のポスターに使用されるなど、平和の象徴としての鳩の当時の象徴的なイメージとなった。
 テート・ギャラリーが収蔵している。




 《背景》

 スペイン内戦が勃発するまで、ピカソはほとんど政治に無関心だった。
 画商のダニエル=ヘンリー・カーンワイラーは、当時のピカソについて、これまで知っていた中で「最も政治的でない男」だったと述べている。
 しかし、1936年のスペイン内戦によりピカソは大きな影響を受け、政治に関心を持つようになり、その結果、1937年に『ゲルニカ』を描いた。
 この作品を発表した後、ピカソは反ファシズムの象徴となった。
 第二次世界大戦が終わる頃には、ピカソは人道的な観点から共産党に入党していた。
 ピカソにとっての共産主義は、第二次世界大戦やスペイン内戦でのファシズムを否定する別の道を示すものだった。
 しかし、ピカソの共産党への入党は、ある種の論争を引き起こした。
 1948年から1951年にかけて、ピカソは世界平和評議会に出席した。
 1950年にシェフィールドで開催された平和会議で講演を依頼されたピカソは「私は、死よりは生を、戦争よりは平和を支持する」と述べた。

 関連書籍 ー 暗幕のゲルニカ ー

 世紀の衝撃作を巡る陰謀と、ピカソが筆に託した真実とは。

 怒涛のアートサスペンス!
 ニューヨーク、国連本部。イラク攻撃を宣言する米国務長官の背後から、「ゲルニカ」のタペストリーが消えた。MoMAのキュレーター八神瑤子はピカソの名画を巡る陰謀に巻き込まれていく。
 故国スペイン内戦下に創造した衝撃作に、世紀の画家は何を託したか。
 ピカソの恋人で写真家のドラ・マールが生きた過去と、瑤子が生きる現代との交錯の中で辿り着く一つの真実。
 怒濤のアートサスペンス!
 暗幕のゲルニカ(新潮社)
       原田マハ 著

 〔情報元 : 新潮社

 〔ウィキペディアより引用〕




絵画たちの中庭【回廊】で Art.01ーB

2023-10-03 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ ゲルニカ B ◢

 ▼スペインへの返還

 1975年11月20日にフランコが死去し、フアン・カルロス1世が国王に就任して民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった。
 1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された。 
 1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。
 マドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナのピカソ美術館館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた。

 政治状況の不安定さに加え、遺産相続者間の係争も問題だったが、1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した。
 特にバスク地方ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし、バスク州は熱心に絵画の展示を希望したが、9月10日にマドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ(英語版))に運び込まれた。
 スペインでこの絵画は「故国の土を踏んだ最後の亡命者」とされており、もっとも保守的でフランコ独裁政権との親和性が強かったABC紙でさえも、社説で同様の論調を示した。
 西側諸国では絵画のスペイン帰還が大きく報じられ、日本では朝日新聞が5段抜きの見出しでもっとも大きく取り上げた。
 絵画の搬入に合わせ、別館は温度・湿度管理装置、爆発物検知装置、ラジオとテレビによる監視システムなど、様々なテロ対策設備が加えられ、さらに直接攻撃を防ぐために絵画は防弾ガラスで覆われた。
 絵画は展示室の中にある密封状態に近い小部屋に設置され、磁気読み取りの保安カードを持った人間のみが小部屋に入ることができた。
 プラド美術館のホセ・マヌエル・ピタ・アンドラーデ館長は本館での展示を希望していたため、スペイン政府がこのような形態での保管を支持したことに不満を示し、ただちに館長を辞任した。
 10月25日、ピカソの生誕100周年記念日に一般公開され、45枚の習作すべてもプラド美術館で展示された。

 ▼ソフィア王妃芸術センターでの展示

 1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。
 10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン(スペイン語版)館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。
 10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した。
 プラド美術館でもソフィア王妃芸術センターでも絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた。
 同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた。
 絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる。
 1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった。

 1992年にはバルセロナオリンピックに合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には第二次世界大戦終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近いビルバオに開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した。
 1995年から1996年にかけて、日本の京都国立近代美術館と東武美術館で「ピカソ、愛と苦悩 -『ゲルニカ』への道」と題したピカソ展が行われた。
 この絵画に関連する「闘牛」「磔刑」「ミノタウロス」「女」「アトリエ」の5本柱で構成され、この絵画に関しては原寸大のポラロイド写真複製が展示された。 
 1997年10月、グッゲンハイム美術館開館記念式典にフアン・カルロス1世国王夫妻が来賓した折、建物を設計したアメリカ人建築家のフランク・ゲーリーは、絵画が本来あるべき場所がグッゲンハイム美術館であることを国王夫妻に示唆した。

 《作品》

 ▼画面構成

 パリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画を意図して製作されたこともあり、絵画は縦349cm×横777cmの横長の大作である。
 キャンバスに工業用絵具ペンキで描かれ、ペンキは油絵具よりも乾きが速く作業効率が高いため、1か月弱と大作にしては短期間で描ききることができた。
 ペンキの使用は後に傷みの要因となっている。
 当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれているが、各部分の習作や後のタペストリー作品は彩色が施されている。
 ピカソはこの絵画の製作と並行して何枚もの習作を描いており、泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『泣く女』という絵がある。
 第二次世界大戦後、ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、ニューヨークにある国際連合本部ビルの国際連合安全保障理事会議場前とフランスのウンターリンデン美術館(英語版)、日本の群馬県立近代美術館に展示されている。
 日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。
 なお、丸の内オアゾ1階には、ピカソの遺族の承諾を得て作成されたセラミック製の複製が掲示されている。

 中央に大きな長方形、左右に小さな長方形と、画面は3枚の長方形からなり、中世の教会に飾られた三連祭壇画を連想させる。
 右側の長方形には3人の女が描かれている。
 左上の女は灯火を手に窓から身を乗り出し、右の女は燃え盛る家から落下(もしくは爆発によって吹き飛ばされて)しており、左下の女は中央に駆け寄っている。
 左側の長方形には女と牡牛が描かれている。
 女は子の屍を抱えて泣き叫んでおり、牡牛は女を守るかのように立っている。 
 中央の長方形には馬と戦士が描かれている。
 馬は槍で貫かれて頭を上方に突き出し、戦士は折れた剣を握りしめて死んでいる。
 中央の長方形は大きな三角形で仕切られており、その頂点には女が持つ灯火が配置されている。
 三角形の左斜線は馬の首元から馬の右脚や戦士の腕で構成され、逆側の斜線は駆け寄る女の身体で構成されている。
 灯火の左脇には目のような形の光源があり、その左下には上方に羽ばたきながら口を開けている鳥が描かれている。
 色彩はモノクロームに近いが、無色に近い灰色、紫みがかったり青みがかった灰色など、様々な色合いの灰色が用いられており、光と闇の効果を高めている。
 要素は単純な形態で描かれ、絵画の普遍的性格を強めている。
 惨劇の主要な要素は中央の三角形に集められているが、これはギリシア神殿建築を連想させる。

 画面全体には中世の三連祭壇画とギリシア神殿建築というふたつの異なる宗教美術の影響を見ることができる。
 左手のテーブルと右手の扉で屋内を連想させるが、同時に右手の屋根瓦や窓で屋外をも連想させている。
 また、太陽のような光源で昼を連想させるが、女が持つ灯火で夜をも連想させている。
 このような設定で時間や空間の超越を表現しており、画面構成で明らかになったキリスト教美術的性格をさらに強めている。

 ▼解釈


子の屍を抱く女(左端)


折れた剣の上に咲く花(下部の中央)


落ちる女(右端)

 ◆全体の解釈

 現代絵画において、この絵画ほど様々な解釈が示された絵画は稀であり、個々の要素が善悪のどちらを表すのかを判断するのは難しい。
 ピカソは動物たちの象徴性だけは認めたが、その他の要素については多くを語らず、また具体的な意味合いなどを説明することなく世を去った。
 美術史家の宮下誠は、全体として「キリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果」を描いているとしている。

 ◆牡牛 牡牛(ミノタウロス)

 善悪それぞれに解釈されてきた[63]。ピカソ自身は1940年代初頭に、「牡牛は牡牛で馬は馬だ。
 大衆や観客は、馬と牡牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている」と述べたが、1945年には画商のジェローム・セックラー(Jerome Seckler)に対して「牡牛はファシズムではなく、人間の残忍性と暗黒面である。 (中略)
 馬は人民を表す(中略)『ゲルニカ』の壁画は象徴的、寓意的なものであるから、私は馬や牡牛やその他を使ったのだ」と述べた。
 ギリシア神話に登場するミノタウロスは暴力、好色、平和など様々な象徴であり、ピカソは1935年から1937年にかけてミノタウロスを集中的に描いている。 
 ピカソは大の闘牛好きであったことから、牡牛をスペインの象徴とする解釈もあり、「災厄から遠ざかろうとするピカソ自身である」とする解釈もある。
 芸術心理学者のルドルフ・アルンハイムは、牡牛の体の向きの変更を「真に天才的な発明」とし、苦悩や悲嘆を画面外に伝える役割を持っているとみなした。  
 アルンハイムは牡牛の尻をイベリア半島の形になぞらえ、スペインを表すシンボルであるとした。
 しかし、カーラ・ゴットリープ(Carla Gottlieb)はアルンハイムの解釈を批判し、牡牛が女の存在に気づいていないかのように冷淡であることに疑問を呈し、牡牛と馬のシンボル性について問題を提起した。
 ゴットリープは、無表情で行動を起こさず、惨劇に加わることをしない牡牛を、牡牛のイメージを持ち、かつスペイン内戦に対して不干渉政策を取るフランスの隠喩であるとした。

 ◆馬

 爆撃の犠牲者や共和国政府であるとする解釈が一般的であるが、より普遍的には瀕死のヒューマニズムであり、フランコのファシズムの崩壊であるとする研究者もいる。
 灯火を持つ女 西洋絵画は伝統的に蝋燭や灯火を真理の象徴として描いており、この絵画でも灯火を持つ女は真理を表すことがほぼ確実だが、社会主義の象徴であるとする研究者もいる。
 ゴットリープは灯火の女が「善、正義および理性を意味する光明の運び手」とし、小さな灯火が共和国軍兵士であると解釈しているが、絵画と現実世界の政治を強く結びつけていることには批判もある。

 ◆折れた剣を握る倒れた兵士

 ファシズムの犠牲となった兵士とするのが単純だが、爆撃を受けるスペイン市民の代表とも考えられる。
 折れた剣は「戦争によって破壊された何か」や「戦争によって荒廃した町の市民の折れた心」等でその上に咲く花は「復活」を表すとされている。

 ◆子の屍を抱く女

 爆撃の被害者とされる「子の屍を抱く女」は西洋絵画の伝統的主題であるピエタ(磔刑に処されたキリストを抱くマリア)という説もあり、ピカソが1929年から1932年にかけて描いたマグダラのマリアの姿勢にも似通っている。
 ニコラ・プッサンなどが書いた伝統的主題である嬰児虐殺の影響を見る研究者もいる。

 ◆駆け寄る女

 右から中央に駆け寄る女は、屍を抱く女を慰めようとする家族や近隣住民であるとされているが詳細は不明。
 ソ連はスペインから遠距離にありながら、即座に共和国政府を支援した唯一の国であり、駆け寄る女はソビエト連邦の隠喩であるとされることも多い。
 落ちる女 建物から落ちる女はピカソ自身、またイエス・キリストの象徴であるとされる。

 ◆太陽

 「太陽は神の眼」という考え方があり、神は全てを明白にする証人でその目とされる。
 その内部には現代を意識させる唯一の要素である電球が描かれており、現代のテクノロジーと爆撃の惨劇の関連を示唆している可能性がある。
 資本主義国家またはキリスト教的救済の希望を欠いた世界とする研究者もいる。

 ◆鳥

 机の上の鳥は精霊や平和の象徴。

 関連項目 ー パブロ・ピカソ ー

 パブロ・ルイス・ピカソ
 (Pablo Ruiz Picasso)
( 1881年10月25日〜1973年4月8日)

 スペイン・マラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。


 《生涯》

 パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年〜1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855〜1938)との間に長男として生まれた。
 父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館学芸員鳥、画家だった。
 1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。
 ピカソはこども時代から美術の英才教育を受けた。 彼は後年、フランス共産党員となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。
 ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。
 ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年に59歳のときに銃で自殺している。

 1881年10月25日午後11時15分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。
 長男。
 父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス[10]。 1891年、ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。
 父、ホセ・ルイス 同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学。
 1894年、父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる。
 1895年、バルセロナに移住、美術学校に入学。ひと月の猶予のある入学製作を1日あるいは1週間で完成させる。
 初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
 1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選する。
 佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。
 同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。
 だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、王立アカデミーの体制に失望する。
 プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。

 1898年、春に猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロ(現在のオルタデサンジョアンで療養。
 6月、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退する。
 1899年、バルセロナに戻る。
 バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。
 簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。
 ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。
 1900年、2月1日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響を受けた線画が約150点が展示された。
 カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
 1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。
 6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。
 1902年画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。
 10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。
 1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
 1905年、「ばら色の時代(Picasso's Rose Period)」または「桃色の時代」が始まる(~1906年)。
 ガートルード兄妹のパトロンを見つける。

 1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。
 1909年、フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。
 6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
 1911年9月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の1人として逮捕された(ただし1週間で釈放された)。
 1912年、モンパルナスへ移る。
 1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
 1916年、パリ郊外モンルージュに移る。
 1917年、バレエ団バレエ・リュスの『パラード』の装置、衣装を製作。
 1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。
 パリ8区ラ・ボエシー (Rue La Boétie) に移る。
 1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
 1920年、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
 1921年、息子パウロ誕生。 1922年、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
 1924年、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。

 1928年、彫刻に専心。
 1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
 1931年、『変身譚』の挿絵を制作。
 1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
 1934年、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
 1935年、娘マリア(マヤ)誕生。
 詩作。
 1936年、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。
 パリ6区グラン=ゾーギュスタン河岸 (Quai des Grands-Augustins) 7番地に居住(1955年まで)。
 1937年、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
 1939年、ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
 1940年、ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。
 ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
 1941年、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。

 1944年、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
 1945年、ロンドン、ブリュッセルで個展。
 1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活。
 1947年、息子クロード誕生。
 陶器製作。
 1949年、娘パロマ誕生。
 1951年、『朝鮮の虐殺』製作。
 1952年、『戦争と平和』のパネルを制作。
 1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
 1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
 1955年、カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。
 妻のオルガが死去。
 1958年、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
 1961年、ジャクリーヌ・ロックと結婚。
 1964年、日本、カナダで回顧展。
 1966年、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
 1967年、シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。

 1968年、版画に専心、半年間に347点を製作。
 1970年、アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展。
 バルセロナのピカソ美術館開館。
 1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。
 ヴォーヴナルグ城に埋葬された。

 〔ウィキペディアより引用〕




絵画たちの中庭【回廊】で Art.01ーA

2023-10-02 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ◤ ゲルニカ A ◢ 

 《概要》

  内戦状態にあったスペインで、反政府側のフランコ軍を支援するナチス・ドイツ軍が1937年4月、スペイン北部バスク地方の町ゲルニカを無差別爆撃する。
 この市民を巻き込んだ殺戮を知り、描かれた作品。
 「スペイしンを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現した」とピカソが語るように、この絵には、現実の戦闘場面が描かれているわけではなく、むしろ戦争によって与えられる恐怖や苦しみ、悲しみといった人間の普遍的な感情が示されている。
 画面右端の炎に包まれておののく女性、その手前の地面をはうように逃げる女性、さらには殺された子どもを抱いて絶叫している左端の女性など、それぞれの姿を大胆に変形して動作や表情を強調することによって、その感情をすさまじい切迫感をもって見る者に伝える。
 なお、本作は1937年のパリ万国博覧会スペイン共和国館に展示するために制作されたものだが、スペインが民主国家になるまでは返さないというピカソの信念により、1981年まで、ニューヨーク近代美術館に委託されていた。



 1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。
 1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。
 10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。
 ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、ニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前とフランスウンターリンデン美術館と日本の群馬県立近代美術館に展示されている。
 日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。

 《時代背景(スペイン内戦)》

 スペインでは、ソ連を後ろ盾にした共和国軍の左派(社会主義)とナチスドイツのコンコルド旅団やイタリアなど枢軸国と手を組んで反乱を起こしたフランコ率いる右派(保守勢力)が、スペインの主権を争って内戦が起こっていました。
 (日本はフランコ側を支持)この時ピカソはパリに住んでいましたが。左派政権を支持していたため共和国政府(左派政権)から、パリ万国博覧会のスペイン館の壁画を書いてほしいと要請を受けていました。
 しかし、ピカソは、漠然とした依頼に何を題材にすべきかを悩んでいました。 1937年4月26日にドイツ空軍が右派のバスク地方のゲルニカに向けて「都市無差別爆撃」を行ったことが世界史上初の都市無差別空爆と言われており、当時このニュースはヨーロッパを始めアメリカにまで届きました。
 パリにいたピカソが、「ゲルニカが全滅した」と聞き、パリ万博の題材には、このゲルニカで起こった悲劇にしようと決めました。

 「ゲルニカ」を描いたピカソは直接その惨状を見たわけではありません。
 作品の「ゲルニカ」は平和を愛する一人の画家として世界に戦争の悲惨さと愚かさを訴えたいとの思いから描いたに違いありません。
 ですが、当時左派政権を支持していたピカソにとってはフランコ率いる保守勢力を非難する思いも強く込められていたのではないでしょうか。
 しかし、一方で左派政権側の人民戦線軍(共産党系)も7千人もの聖職者を殺害していることを忘れてはならないでしょう。
 そしてピカソはそのことを知っていたのでしょうか。

 『ゲルニカ』
(スペイン語: Guernica [ɡeɾˈnika])
 スペインの画家パブロ・ピカソがドイツ空軍による無差別爆撃を受けた1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。
 ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。
 20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。
 発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。

 《経過》

 1936年7月には第二共和政期のスペインでスペイン内戦が勃発し、マヌエル・アサーニャ率いる共和国軍とフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍が争った。
 1934年にスペインを離れてフランス・パリに在住していたスペイン人画家パブロ・ピカソは共和国政府を支持しており、1937年1月にはフランコを風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える銅版画を製作していた。
 この銅版画でフランコは怪物の姿として描かれており、売られた絵葉書の収益は共和国政府の救援資金となった。
 スペイン内戦中の1937年1月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソにパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画の製作依頼を行った。
 ピカソは依頼に対して明確な返事をしなかったが、スペイン内戦とは無関係のシュルレアリスム風の壁画を制作する予定だったとされている。
 1980年頃にパリのピカソ美術館で発見されたスケッチによれば、この構想は画家やモデルが登場する個人的な世界の描写だったが、後の『ゲルニカ』に含まれる太陽や女のイメージは既に存在していた。
 4月半ばにはこの個人的世界の絵画に対して、鉛筆とインクによる素描を仕上げていた。
 1937年4月26日にビスカヤ県(スペイン)のゲルニカがドイツ空軍によって都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を受けると、27日には数紙の夕刊にゲルニカ爆撃の短報が掲載された。
 28日朝にはジョージ・スティア(英語版)による長い記事が『タイムズ』に掲載され、この記事は世界各国の新聞に転載された。
 ピカソはこれらの過程でゲルニカ爆撃を知り、パリ万博で展示する壁画の主題に選んだ。
 この絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った。

 《製作》

 ▼習作

 この絵画では習作を計45枚描くが、1枚を除いて日付や制作順を表す番号が添えられ、全45枚が保存されている。
 5月1日の午後に習作の製作を開始し、初日には青色のデッサン用紙に鉛筆で6枚の習作を描いたが、初日の習作にはすでに、傷ついた馬、超然とした牡牛、灯火を持つ女などの主要な要素が登場している。
 また、戦争画には戦い、爆弾、殺戮者などがつきものだが、習作から壁画の完成までこのような加害者はついに登場することはなかった。
 5月2日はカトリックの安息日である日曜日であり、普段なら娘のマヤと出かける曜日だったが、マヤのことも忘れて習作を描いた。
 前日の習作では構成要素がほぼ静止していたのに対して、この日の習作では喘いだ馬が頭を折り曲げ、女は驚愕の表情を浮かべるという具合に変化した。
 この日までに構図がほぼ固まったが、ゲルニカ爆撃を直接的に示す要素は何ひとつなく、あくまでも絵画は爆撃の隠喩という意味合いが強かった。
 わずか2日間で絵画製作は大きな進展を見せ、その後の1週間はほとんど何もせずに放置したが、メーデーの数日後には「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した。
 スペイン内戦開戦当初はピカソが反乱軍の味方であるという噂が広まっていたため、自身の立場を明らかにする意味合いもあった。

 5月8日には製作を再開し、幼子の屍を抱いた女が初めて登場した。
 習作の製作中にも内戦の状況は刻々と変化しており、ピカソは共産党系のユマニテ紙で状況を把握しながら習作に修正を加えていった。
 5月9日は日曜日だったが、2週連続でマヤとの外出をキャンセルして作業に臨んだ。
 この日の習作では女や幼子の位置がたびたび変化し、それぞれの要素に関連性が持たせられ、立体感や明暗の対比なども意識された。
 前週の馬の造形を集中して掘り下げたように、9日には子の屍を抱く女単独の習作がペンで精細に描かれた。
 前週はほぼ正方形の白紙が習作に使用されたが、5月8日と9日の2日間は横長の白紙が習作に使用され、縦横比は最終的な壁画の形状に近づいた。
 牡牛の顔は人間に似通い始めて正面に向けられ、腕が千切れたふたりの女が登場した。
 夜の場面であることがはっきりと示され、最終的な作品に登場するすべての人物が出そろった。

 ▼キャンバス

 5月11日の朝、パリ6区のグラン・ゾーギュスタンにあるアトリエで縦349cm×横777cmのキャンバスに向かいはじめた。
 それまでピカソはモデル以外とは製作過程を共有せず、製作途中の作品を撮影したことはなかったが、助手役を務めたドラ・マールは様々な段階でキャンバスの写真を8枚撮影し、時には製作中のピカソもカメラに収めた。
 11日に撮られた1枚目の写真では、習作の段階で右端にいた女は左端に移され、右半分には3人の女が加えられ、この日のうちに巨大なキャンバスはある程度要素で埋め尽くされた。
 巨大なキャンバスに向かいながらも、習作を描くことも続けていた。
 特に女の頭部と牡牛を頻繁に描いており、女の頭部は1937年10月26日に完成する『泣く女』に結実しているとされる。
 助手はドラひとりだったが、アトリエを訪ねてきたマリー=テレーズとドラが鉢合わせし、口論や小突き合いをしたこともあった。
 5月13日に撮られた2枚目の写真では、太陽に似た形象が出現し、画面が黒く塗られ始めた。

 5月16日-19日頃に撮られた3枚目の写真では、馬の顔や兵士の向きが変更され、前景の人間は女と兵士の屍のみに整理され、戦士の拳の位置にも変化が加えられた。
 当時は「突きあげた拳」がファシストに対する反戦のシンボルとして世界に広まっており、当初は戦士が右腕を突き上げていたが、政治色を弱めるためか体の横に伸ばされた。
 太陽のような形象は押しつぶされてアーモンド型になり、牡牛の目の前に三日月に似た形象が出現した。
 5月20日〜24日頃に撮られた4枚目の写真では、それまで頭を垂れていた馬が頭を起こし、鼻孔を開いて豪気を示した。 
 三日月に似た形象は消え去って時間帯が曖昧となり、色や模様のあるコラージュが貼り付けられた。
 5月27日頃に撮られた5枚目の写真ではコラージュが取り去られたが、6月1日頃に撮られた6枚目の写真では再びコラージュが試みられた。
 6月4日頃に撮られた7枚目の写真では再びコラージュが剥がされ、兵士の人間性が失われて石膏像のようになった。
 完成時に撮られた8枚目の写真ではアーモンド型の光源の中に電球が描かれた。

 ピカソは絵画をスペイン共和国に無償で寄贈する予定だったが、5月28日には在フランスのスペイン大使館員が来訪し、材料費という名目で15万フランを受け取った。
 製作末期の作業過程は判然としておらず、何度も背景の色調の修正、灰色の上塗り、馬の体への線の書きいれなど細部の修正を行った。
 この際にはドラの手を借りているが、ピカソの作品に本人以外の手が加わったのはこの絵画が初めてだとされる。
 仕上げとして右端に半開きの扉を描いたが、それ以降も微修正を続けた[30]。6月4日頃には絵画がほぼ完成したとされ、6月6日にはスペイン人詩人のホセ・ベルガミン、スペイン人学者のフアン・ラレーア、スイス人彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ、ドイツ人画家のマックス・エルンスト、フランス人詩人のポール・エリュアールとアンドレ・ブルトン、イギリス人画家のローランド・ペンローズ、彫刻家のヘンリー・ムーアがアトリエに来訪し、ドラ以外に初めて絵画を披露した。

 ▼公開と批評

 絵画がアトリエから万博会場に搬入された日付は不明だが、1937年6月末にはスペイン館に絵画が運ばれ、入口から見て右手の壁面全体に絵画が掛けられた。
 なお、スペイン館の3階には破壊されたゲルニカの写真が展示され、またフランス人詩人のポール・エリュアールによる『ゲルニカの勝利』という詩が掲げられた。
 写実的な絵画を期待していた関係者の中には、より目立たない位置に移すことを計画した人々もいたが、ピカソの名声を考慮して万博閉幕まで入口ホールに掲げられた。
 7月12日にはスペイン館の完成披露宴でこの絵画が公開された。
 前衛芸術家や一部の知識人を除けば絵画の評判はいま一つであり、「深刻化するスペインの危機を視覚的に表現していない」「ナチスの酷い犯罪の真相をだれにでもすぐにわかるように描いていない」などの批判が聞かれ、新聞などで絵画が取り上げられることはなかった。
 スペイン館の開館がパリ万博自体の開会より遅れたこともあって、公式パンフレットにこの絵画が記載されることもなかった。
 しかし、スペイン人美術評論家のジャン・カスーはとてもスペイン的な絵画であると評価し、スペイン人詩人のホセ・ベルガミンは祖国の本質を反映して体現していると評価した。
 クリスチャン・ゼルヴォスは『カイエ・ダール』誌の丸々一冊をこの絵画の特集に当て、ドラの記録写真とともに取り上げた。

 万博閉幕後の12月にはフランス人建築家のル・コルビュジエが「ピカソの壁画は醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と、政治的な理由ではなく美学的な理由で絵画を批判した。
 閉幕後には展示品の大半が海路でバレンシアに送られたが、共和国政府は反乱軍の攻撃に対する対応で手一杯であり、ジョアン・ミロの絵画、アルベルト・サンチェス・ペレスの彫刻など、積み荷となった美術品の多くが紛失した。
 共和国政府の所有物であるはずのこの絵画はなぜかスペインに送られることはなく、アレクサンダー・カルダーやジュリオ・ゴンザレスなどパリ在住の他の芸術家の作品同様に、パリにあるピカソのアトリエに送り返された。
 1938年1月にはスカンディナビア半島で開催された四人展に絵画を出展したが、
 ここでは称賛の対象にも侮蔑の対象にもならなかった。
 1938年10月にはロンドンの展覧会に出展し、収益をスペイン共和国政府に送金した。
 美術評論家のロジャー・ヒンクスはピカソが絵画に知的遊戯や当世風ガラクタを持ち込んだと異議を唱え、美術史家のアンソニー・ブラントはピカソがスペイン内戦の複雑な真相を理解できていないと批判した。
 スティーヴン・スペンダーや美術批評家のハーバート・リードは批判者に反論し、スペンダーはこの絵画が「傑作かもしれない」と指摘した初の人物である。   
 この頃には共和国軍の敗戦が濃厚となっており、年を越した1939年3月31日にはフランコ独裁政権が誕生した。

 ▼ニューヨークでの保管

 1937年12月、アメリカ芸術家会議(英語版)は共和国支援のために『ゲルニカ展』という共和国支援を企画し、この展覧会は約1年半後に実現した。
 1939年5月には絵画がアメリカ合衆国に送られ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴでの展覧会に出展された。
 すでにスペイン内戦が終結していたこともあり、アメリカでは内戦の悲劇の象徴ではなく一枚の現代美術作品と捉えられた。
 ゲルニカ展のオープニングにはエレノア・ルーズヴェルト(ファーストレディ)、サイモン・グッゲンハイ厶(実業家)、W・アヴェレル・ハリマン(政治家)、ジョージア・オキーフ(芸術家)、ソーントン・ワイルダー(劇作家)などが出席した。
 美術評論家のエリザベス・マコースランドはピカソが孤立から社会との連帯に転じたことを象徴する絵であるとしたが、美術記者のエドウィン・オールデン・ジュエルは現代美術に侵入しつつある異質な意図の典型だとした。
 鑑賞者の賛否は分かれ、スペインの孤児を救援するための収益は少額にとどまった。
 1939年9月には第二次世界大戦が勃発したため、ピカソは絵画を戦場に近いフランスに戻すことを躊躇し、そのままアメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)に保管された。
 1940年から1942年にはピカソの回顧展がシカゴを筆頭にアメリカ合衆国内の10か所で開催され、展示作品には必ずこの絵画が含まれた。

 1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、ミラノで開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮の虐殺』(1951年)とともに並べられた。
 1954年にはブラジルのサンパウロ近代美術館の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された。
 1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた。
 ピカソ自身は1955年の夏中ずっとニースに滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。
 1955年秋から1956年にはブリュッセルとストックホルムに加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。ドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した。
 1957年には再びアメリカ合衆国に渡ると、3か所で展示された後にニューヨーク近代美術館に戻り、1958年以後には幾度もの修復作業がなされた。
 1968年にはフランコ政権で副首相を務めるルイス・カレーロ・ブランコが美術庁長官に手紙を送り、絵画がスペインの財産であること、スペインへの返還をニューヨーク近代美術館に申し立てるよう求めた。
 1969年には美術庁長官が絵画のスペインへの返還を求める声明を出し、フランコ自身がそれを望んでいると付け加えた。
 ニューヨーク近代美術館はピカソの意思を尊重するとし、ピカソ本人は現時点では絵画がニューヨークにとどまること、スペイン人民の自由が確立した時点でスペイン政府に返還することを希望した。
 1950〜1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、バスク地方ではそれが特に顕著だった。

 1960年代後半のアメリカ合衆国でベトナム戦争参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めると、改めてこの絵画の様式が注目されるようになり、反戦のシンボルとしてデモなどに使用された。
 アメリカ軍によるベトナムでの残虐な軍事行動が報じられると、一部の美術家や著作家たちは自国が絵画を手元に置いておく権利がないと考え、1967年には約400人の美術家・著作家が、1970年には256人の美術家・著作家がピカソに対して絵画の撤去を要請する運動を行った。
 1973年4月8日、ピカソはフランスのムージャンにある自宅で死去した。1974年2月にはアーティストのトニー・シャフラジが赤色のスプレー缶で落書きを行う事件が起こり、これ以後の展示中は常に絵画のそばに監視員が配備された。

 〔ウィキペディアより引用〕