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世界の女傑たち Vol.003−①

2023-10-10 21:00:00 | 自由研究

 ■エリザベス一世(イングランド女王)

 エリザベス1世
 (英: Elizabeth I)
 (ユリウス暦1533年9月7日〜グレゴリオ暦1603年4月3日、ユリウス暦1602/3年3月24日)
 イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年〜1603年)。
 テューダー朝第5代にして最後の君主。
 彼女の統治した時代は、とくにエリザベス朝と呼ばれ、イングランドの黄金期と言われている。

 国王ヘンリー8世の次女。
 メアリー1世は異母姉。
 エドワード6世は異母弟。
 通称にザ・ヴァージン・クイーン(The Virgin Queen / 処女女王)、グロリアーナ(Gloriana / 栄光ある女人)、グッド・クイーン・ベス(Good Queen Bess / 善き女王ベス)。

 《概要》

 ヘンリー8世の王女として生まれたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。
 弟のエドワード6世はジェーン・グレイへの王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続くカトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が崩御すると王位を継承した。
 エリザベスはウィリアム・セシルをはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始し、最初の仕事として、父の政策を踏襲し「国王至上法」を発令し、「礼拝統一法(英語版)」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけた。
 エリザベスは結婚することを期待され、議会や廷臣たちに懇願されたが、結婚しなかった。
 この理由は多くの議論の的になっている。年を経るとともにエリザベスは処女であることで有名になり、当時の肖像画・演劇・文学によって称えられ崇拝された。
 統治においてエリザベスは父や弟、姉よりも穏健であった。
 彼女のモットーの一つは「私は見る、そして語らない」("video et taceo" )であった。
 この方策は顧問団からは苛立ちをもって受けとめられたが、しばしば政略結婚から彼女を救っている。
 1588年のスペイン無敵艦隊に対する勝利と彼女の名は永遠に結びつけられ、英国史における最も偉大な勝利者として知られることになった。
 エリザベスの没後20年ほどすると彼女は黄金時代の統治者として称えられるようになった。

 エリザベスの治世は、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・マーロウといった劇作家によるイギリス・ルネサンス演劇や、フランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなど優れた航海士の冒険者たちが活躍したエリザベス時代として知られる。
 一部の歴史家たちはエリザベスを運に恵まれた短気な、そしてしばしば優柔不断な統治者と捉えている。
 治世の終わりには一連の経済的・軍事的問題によって彼女の人気は衰え、臣下たちは彼女の死に安堵している。
 エリザベスは政府が弱体で、王権が限定された時代、また近隣諸国の王家ではその王座を脅かす国内問題に直面していた時代におけるカリスマ的な実行者、そして粘り強いサバイバーとして知られる。
 弟と姉の短期間の治世を経た彼女の44年間の在位は、王国に好ましい安定をもたらし、国民意識を作り出すことになった。

 《生涯》

 ▼生い立ちから少女期

 イングランド国王ヘンリー8世はテューダー家王位継承を安泰ならしめる嫡出男子の誕生を熱望していた。
 王妃キャサリン・オブ・アラゴンは6人の子を産んだが5人が死産または夭逝し、成長したのは女子のメアリーだけだった。
 王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8世は愛人アン・ブーリンと結婚するため、王妃との離婚を教皇クレメンス7世に要請したが、教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可を下ろさなかった。
 ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「主権をもつ国家(エンパイア)」であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。
 そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。
 アンは王妃の通例と異なり、妊娠中に聖エドワード王冠を戴冠している。
 アンは1533年9月7日午後3時から4時ごろにグリニッジ宮殿で女子を出産し、祖母に当たるエリザベス・オブ・ヨークおよびエリザベス・ハワードにちなんで名づけられた。
 期待する男子ではなかったが、エリザベスはヘンリー8世にとっての存命する2人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位推定相続人となった。
 一方、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘である姉メアリーの嫡出子としての地位は失われていた。

 エリザベスの洗礼式は9月10日にグリニッジ宮殿で挙行された。
 大主教トマス・クランマーが名親にノーフォーク公爵未亡人(英語版)そしてドーセット侯爵夫人(英語版)、エクセター侯爵夫人(英語版)が代母となった。
 エリザベスの誕生後、アンは男子を産むことができなかった。
 彼女は1534年と1536年に少なくとも2度の流産に見舞われた後に逮捕されロンドン塔に送られた。
 アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、1536年5月19日に斬首刑に処されている。
 この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された。
 アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが、彼女は王子エドワードを生んだ12日後に死去している。
 エリザベスはエドワードの邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣 (chrisom) または洗礼衣を捧持している。
 その後、ヘンリー8世は2度の離婚を経て1543年にキャサリン・パーを王妃に迎えた。
 同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三継承法が発令され、メアリーとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された。
 キャサリン・パーとエリザベスは親密になり、1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』 (The Miroir or Glasse of the Synneful Soul) を英訳してキャサリン・パーへ贈呈したが、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身が作製したという。
 エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン(英語版)夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りの(どの子供よりも)すこやかに成長されている」と書き記している。
 1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人(英語版)に養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めている。
 キャサリン・シャンパーノン(英語版)(結婚後のケイト・アシュリーの名でより知られている)は1537年にエリザベスの女家庭教師に任命され、彼女が死去してブランチ・パーリー(英語版)が女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けた。
 彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語、ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。
 優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語とギリシャ語を学んでいる。
 グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカム(英語版)から教育を受けた。
 1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていた。

 ▼エドワード6世の治世と
       トマス・シーモア事件

 1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼い異母弟のエドワード6世が即位した。
 母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアはサマセット公爵に叙され保護卿(摂政)となって実権を握り、その弟のトマス・シーモアはスードリーのシーモア男爵に叙され海軍卿になった。
 プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる。
 ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。
 夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。
 シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたりといった性的な悪戯に興じていた。
 キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していたが、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり、1548年5月にエリザベスは追い出されチェシャントにあるアンソニー・デニー(英語版)(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った。
 歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる。
 シーモアは王室支配のための企てを続けていた。
 同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱(英語版)で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した。
 彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり、1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。
 トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはケイト・アシュリーとエリザベスの金庫役 (cofferer) ・トマス・パリー(英語版)への訊問で明らかにされている。
 ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。
 彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト(英語版)卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪という心証を得た」と報告している。
 同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。
 1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。
 ノーサンバランド公は第三継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した。
 カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する。

 ▼メアリー1世の治世

 1553年7月6日、エドワード6世は15歳で崩御した。枢密院によってジェーン・グレイの女王即位が宣言されたが彼女への支持はたちまち崩れ、彼女は僅か9日間の在位で廃位され、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは処刑された。
 エリザベスはメアリーとともに意気揚々とロンドンへ乗り込んだ。
 見せかけの姉妹の結束は長くは続かなかった。イングランドで初めて異論のない女王となったメアリー1世はエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。
 これにはエリザベスも含まれており、彼女は表面上はこれに従った。
 メアリー1世が神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の皇子フェリペとの結婚を計画していることが知れ渡ると当初の彼女への人気は衰えた。
 国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目した。
 そして、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生する(ワイアットの乱)。
 反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、3月18日にロンドン塔に収監された。
 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えている。
 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てた可能性は低いが、彼らの一部が彼女に近づいたことは事実である。
 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナールはエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官スティーブン・ガーディナーはエリザベスを裁判にかけるべく動いた。
 ウィリアム・パジェット(英語版)を含む宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。
 5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストック・ベディングフェルド(英語版)へ移され、ヘンリー・ベディングフェルド(英語版)の監視下でおよそ1年間、幽閉状態に置かれた。
 移送される彼女に対して群衆が声援を送っている。
 1554年7月10日、メアリー1世はフェリペと結婚した。メアリー1世は異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行い、彼女は「血まみれのメアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた。

 1555年4月17日、エリザベスはメアリー1世の出産に立ち会うために宮廷に召喚された。
 もしも、メアリー1世と彼女の子が死ねば、エリザベスは女王となる。
 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。
 結局、メアリー1世が妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。
 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、王配のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、このころから彼はエリザベスと積極的に交流をもった。
 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリー(フランスで育ち、王太子フランソワの婚約者)よりもエリザベスが好ましいと考えた。
 メアリーは1556年にスペイン王に即位した夫フェリペ2世の要請により、1557年にフランスとの戦争に参戦するが、大陸に唯一残されていた領土カレーを失う結果を招いてしまう。
 1558年にメアリー1世が病に倒れると、フェリペ2世はエリザベスと協議すべくフェリア伯(英語版)を派遣した。
 10月までにエリザベスは彼女の政府のための計画を作成している。
 11月6日にメアリー1世はエリザベスの王位継承を承認し、その11日後の11月17日に彼女はセント・ジェームズ宮殿で崩御した。
 議会は第三継承法に基づきエリザベスの王位継承を承認した。

 ▼即位

 メアリー1世崩御の証拠として彼女の婚約指輪を携えたロンドンからの使者がハットフィールドに到着した。
 そして、自らが国王に即位したと聞くと、エリザベスは旧約聖書詩編118編第23節を引用してラテン語でこう語った。
 "A Domino factum est istud, et est mirabile in oculis nostris"(「これは神の御業です、私たちの眼には奇跡と写ります。」)。
 ハットフィールドで、エリザベスはウィリアム・セシルを国務卿、ニコラス・ベーコンを国璽尚書になど主要人事を発表した。
 そして、この際に、後にエリザベスとの浮名を流すことになる幼馴染のロバート・ダドリーが主馬頭 (Master of the Horse) に抜擢されている。
 1558年11月20日、忠誠を誓うべくハットフィールドへやって来た枢密院やその他の貴族たちに対して所信を宣言した。
 この演説は彼女がしばしば用いることになる「二つの肉体」(生まれながらの肉体と政治的統一体)のメタファーの最初の記録である。

 我が諸侯よ、
 姉の死を悼み、我が身に課せられた責務に驚愕させられるのが自然の理です。
 しかしながら、私は神の被造物であることを思い致し、神の定められた任命に従いましょう。
 また、私は心の底から神の恩恵の助けを得ていることを望みつつ、私に委ねられた神の素晴らしい御意志の代理人たる地位をお受けします。
 自然に考えれば私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます、それ故に私は貴方たち全てに私を助けるよう望みます。
 そして、私の統治と貴方がたの奉仕が全能の神によき報告をなし、私たちの子孫に幾らかの慰めを残すことになるでしょう。
 私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです。

 戴冠式の前日に市内を練り歩く勝利の行進(英語版)で、彼女は市民たちから心を込めて歓迎され、(そのほとんどが強いプロテスタントの風味を持つ)式辞や野外劇で迎えられた。
 エリザベスの開放的で思いやりのある応対は「驚くほど心を奪われた」観衆たちから慕われた。
 翌1559年1月15日、エリザベスはウェストミンスター寺院で戴冠し、カトリックのカーライル司教によって聖別された。
 それから彼女は耳を聾するようなオルガンやトランペット、太鼓そして鐘の騒音の中で群衆の前にその姿を現した。

 ▼宗教問題の解決

 彼女はプロテスタントの教育を受けているが、カトリック風に十字架を身に付けることもあった。
 彼女の宗教政策は現実主義であった。 エリザベスと枢密院はカトリックにとっての異端であるイングランドへの十字軍の脅威を認識していた。
 それ故にエリザベスはカトリックを大きく刺激せずにイングランド・プロテスタントの希望を処理する解決法を模索した。
 そのために彼女はより急進的な改革を求めるピューリタン思想には寛容ではなかった。
 その結果、1559年議会はエドワード6世のプロテスタント政策 (en) (国王を教会の首長とするが、聖職者の法衣などに多くのカトリックの要素を残している)に基づく教会法の制定に着手した。
 庶民院は諸提案を強く支持したが、国王至上法は貴族院とりわけ主教たちから抵抗を受けた。
 エリザベスにとって幸運なことにこの時、カンタベリー大主教を含む主教管区の多くが空席であった。
 これによって貴族の支持勢力は主教や保守的な貴族に投票で打ち勝つことができた。それにもかかわらず、イングランド国教会における称号では、エリザベスは多くの人々が女性が有することを受け入れがたいと考え、より議論の起きそうな「首長」 (Supreme Head) の称号ではなく、「最高統治者」 (Supreme Governor) の称号を受け入れざるを得なかった。新たな国王至上法は1559年5月8日に法制化された。
 全ての役人は最高統治者たる国王へ忠誠の誓約が求められ、さもなくば役人の資格を剥奪されることになる[82]。メアリー1世によって行われた反対者への迫害を繰り返さないために異端排斥法が廃止された。同時に礼拝統一法(英語版)が可決され、国教会礼拝への参加と、1552年版聖公会祈祷書の使用を必須のものとしたが、国教忌避または不参加、不使用への罰則は厳しいものではなかった。 
 1563年には39カ条信仰告白がつくられ、イングランド国教会体制が確立した。

 ▼結婚問題

 エリザベスの治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。
 数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その理由は明らかではない。
 歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が不妊体質であると知っていたと推測している。
 エリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリー1世に起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった。
 未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも処刑されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。
 一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった。
 彼女は50歳になるまで、幾人かの求婚者に対して考慮している。
 最後の求婚者は22歳年下のアンジュー公フランソワである。

 ▼ロバート・ダドリー

 1559年春にエリザベスの幼馴染であるロバート・ダドリー(ジェーン・グレイ擁立事件で処刑されたノーサンバランド公の四男)への友情が愛情に変わり、広く知られるようになった。
 彼らの交際は宮廷・国内そして外国でまで話題になった。
 また、彼の妻エイミー・ロブサート(英語版)が「片方の乳房の病」に罹り、女王は彼女が死ねばロバート卿と結婚するだろうとも言われた。
 幾人かの高貴な求婚者たちがエリザベスを得るべく競っており、彼らの使者たちは我慢しきれず、よりスキャンダラスな会話を交わし、寵臣との結婚はイングランドにとって好ましくない事態を生じさせると報告している。

 1560年9月にダドリーの妻が階段から転落死すると、驚くべきことではないが、大きなスキャンダルとなった。
 多くの人々が女王と結婚するためにダドリーが妻の死を企てたと疑った。
 死因審問は事故であると断定し、暫くの間はエリザベスもダドリーとの結婚を真剣に考えている。
 しかしながら、ウィリアム・セシル、ニコラス・スロックモートン(英語版)そして多くの貴族たちが警告し、明確に反対した。
 反対は圧倒的であり、もしも結婚が実行されたら貴族たちは反乱を起こすとの噂まで流れた。
 この後、他に幾つか結婚の話はあったが、ロバート・ダドリーは10年近く候補と見なされ続けている。
 エリザベス自身は彼と結婚する意志が無くなった後でも、彼の恋愛にはひどく嫉妬した。
 1564年にエリザベスはダドリーをレスター伯爵に叙した。結局、彼は1578年に再婚しており、この結婚にエリザベスは幾度も不機嫌を示し、彼の妻であるレティス・ノウルズ(英語版)を生涯憎んだ。
 しかし依然としてダドリーは「(エリザベスの)情緒生活の中心であり続けた」と歴史家スーザン・ドーラン(英語版)は述べている。
 彼はアルマダの海戦のすぐ後に死去し、そしてエリザベスの死後、彼女の私物の中から「彼からの最後の手紙」と自筆されたダドリーからの手紙が発見されている。
 その他の愛人とされる人物にはエセックス伯ロバート・デヴァルー、ウォルター・ローリー卿などがいる。
 ローリーは新大陸(アメリカ)にエリザベスに因みバージニア植民地を建設するなどし好意を得ていたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉される。
 レスター伯の義子であるエセックス伯は晩年の寵臣で、女王が老齢に達していたこともあり寛容であったが、反乱を起こし処刑されている。

 ▼政治的側面

 エリザベスは(しばしば外交上の策略にしか過ぎない)結婚問題を公にし続けた。
 ダドリーの求婚は別として、エリザベスは結婚問題を外交政策として扱った。 
 彼女はスペイン王フェリペ2世の求婚は1559年に拒否したものの、数年に亘り彼の従弟のオーストリア大公カール2世との婚姻を交渉している。
 議会は繰り返し結婚を請願したが、彼女は常に言葉を濁して答えていた。
 1563年に彼女は神聖ローマ帝国の使節にこう語っている。
 「もしも私が私本来の意向に従うならば、『結婚した女王よりも、独身の乞食女』ということです」。
 同じ年にエリザベスが天然痘に罹ると後継者問題が激化した。
 議会は彼女の死による内戦を防ぐために女王に結婚か後継者の指名を迫った。
 その4月に彼女は議会を閉会させ、1566年に課税への支持を必要とするまで再開させなかった。
 庶民院は彼女が後継者を示すことに同意するまで特別補助金を差し控えると脅した。
 1566年議会でロバート・ベル(英語版)がエリザベスの制止にもかかわらず、大胆にもこの問題を追及すると、彼は彼女の怒りの標的になり「ベル氏とその共犯者は貴族院で意見を開陳して、彼らを納得させなさい」と言われている。  
 1566年、彼女はスペイン大使に「もしも結婚せずに後継者問題を解決できるならば、そうするだろう」と打ち明けている。
 1570年までに政府の高官たちはエリザベスは結婚せず、後継者を指名もしないであろうことを受け入れた。
 ウィリアム・セシルは既に後継者問題の解決法を模索していた。
 この立場のために、彼女の結婚の失敗により、彼女はしばしば無責任だと非難された。
 エリザベスの沈黙は彼女自身の政治的な安全を強化した。
 彼女はもしも後継者を指名すれば、彼女の王座がクーデターの危機にさらされると知っていた。

 1568年にハプスブルク家との関係が悪化すると、代わりにエリザベスはフランスのヴァロワ家の2人の王子との結婚を考えた。
 最初はアンジュー公アンリ(後のフランス国王アンリ3世)であり、その後(1572年から1581年)は彼の弟のアンジュー公フランソワである。
 この最後の提案は南ネーデルラントを支配していたスペインに対抗するためのフランスとの同盟構想と結びついていた。
 1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、彼に「蛙 (frog)」の愛称をつけた。
 エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。
 カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局、この縁談は成立しなかった。
 1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した。
 エリザベスの未婚は処女性への崇拝を生じさせた。
 詩や肖像画において、彼女は普通の女性ではなく処女や女神として描写された。
 当初はエリザベスの処女性を美徳とするものであった。
 1559年に彼女は庶民院において「大理石の墓石にこの時代を治めた女王、処女として生き、死んだと刻まれれば満足です」と発言している。
 これ以降、とりわけ1578年以降、詩人や作家たちはこの題材を取り上げ、エリザベスを称揚するイコンに転じた。
 隠喩 (metaphor) や奇想 (conceit) の時代、神の加護の元に彼女は王国そして臣民と結婚した者として描かれた。
 1599年にエリザベスは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。

 ▼スコットランド女王メアリー

 フランス育ちでフランス王フランソワ2世の妃でもあったスコットランド女王メアリーはヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫であり、有力なイングランド王位継承権を持っていた。
 エリザベスはその出生の経緯から嫡出性に疑念を持たれており、少なからぬ人々(特にカトリック)がメアリーを正統なイングランド王位継承権者と考えていた。

 ▼メアリーの退位と亡命

 エリザベスの最初の対スコットランド政策は駐留フランス軍への対抗であった。
 彼女はフランスがイングランドへ侵攻し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に据えようと企てることを恐れていた。
 エリザベスはスコットランド・プロテスタントの反乱を援助するようウィリアム・セシルらから説得され、女王自身は消極的だったが、1559年末に出兵を認めた。
 イングランド軍はリース城を落とせず苦戦したが、1560年に和議が成立し(エディンバラ条約(英語版))フランスの脅威を北方から除くことができた。
 メアリーは条約の批准を拒否している。
 1560年末にフランス王フランソワ2世が崩御し、メアリーは帰国することになった。
 翌1561年に彼女がスコットランドへ帰国した時、国内にはプロテスタントの教会が設立され、エリザベスに支援されたプロテスタント貴族によって国政が運営されていた。
 1563年、エリザベスは彼女自身の愛人ロバート・ダドリーを、本人の意思を確かめることなく、メアリーの夫に提案した。
 この縁談はメアリー、ダドリーともに熱心にはならず、1565年にメアリーは自身と同じくマーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持つ従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚した。
 この結婚はメアリーの没落をもたらす一連の失策の端緒となった。

 メアリーとダーンリー卿はすぐに不仲になる。
 そして、ダーンリー卿がメアリーの愛人と疑ったイタリア人秘書ダヴィッド・リッツィオ(英語版)が惨殺されると、彼はその関与を疑われ、スコットランド国内において急速に不人気になった。 
 1566年6月19日、メアリーは王子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ6世/イングランド王ジェームズ1世)を出産した。
 1567年2月10日、ダーンリー卿が病気療養していた屋敷が爆破されて彼の絞殺死体が発見され、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが強く疑われた。
 それからほどない5月15日に、メアリーはボスウェル伯と結婚し、彼女自身が夫殺しに関わっていたとの疑惑を呼び起こした。
 これらの出来事はメアリーの急速な失脚とロッホリーヴン城(英語版)への幽閉という事態を招く。
 スコットランド貴族は彼女に退位とジェームズへの譲位を強いた。
 ジェームズはプロテスタントとして育てるためにスターリング城へ移された。1568年、メアリーはロッホリーヴンから逃亡したが、戦いに敗れ、国境を越えてイングランドへ亡命した。
 当初、エリザベスはメアリーを復位させようと考えたが、結局、彼女と枢密院は安全策を選ぶことにした。
 イングランド軍とともにメアリーをスコットランドへ帰国させる、もしくはフランスやイングランド内のカトリック敵対勢力の手に渡す危険を冒すより、彼らは彼女をイングランドに抑留することにし、メアリーはこの地で19年間幽閉されることになる。

     〔ウィキペディアより引用〕