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■あの頃欲しかったモノ ♯03

2023-05-22 21:00:00 | 懸賞/投函

 たまごっち(英:Tamagotchi)

 1996年11月23日に日本のバンダイから発売されたキーチェーンタイプの電子ゲームであり、登場するキャラクターのことでもある。
 名称の由来は「たまご(Tamago)」と「ウオッチ(Watch、腕時計)」。
企画、開発は横井昭裕。


概要

 画面の中に登場する「たまごっち」と呼ばれる生物にえさ(ご飯)を与えたり、糞の掃除をしたり「たまごっち」と遊んだりしながら育てていく。こまめにコミュニケーションをとっていれば機嫌がいいが、餌をやり忘れたり、糞の掃除が滞ったりすると機嫌が悪くなり最悪の場合には死に至ることもある。こうして育てていくと、ある程度時間が経てば「おやじっち」や「にょろっち」など様々な生物に変身する。どの生物になるかは、生物のその時の体重や機嫌に左右されるよう設定されている。その他、名称の由来どおり単なる時計としても利用することができる。 大きさは高さ53mmで、白黒液晶画面の下部に3つのボタンを備えている。ボタンは左からコマンドの選択・決定・キャンセルに割り当てられ、この操作体系は同社の『デジタルモンスター』、他社の『ドラゴンクエスト あるくんです』など多くのゲームに引き継がれた。

 ■第1期(誕生期)

 企画段階 編集 第1期たまごっちは、1995年6月、ウィズの横井昭裕がバンダイの本郷武一に原案となる企画書を提出したのが発端である。これは横井が1996年の年末商戦用にバンダイに提案した企画であり、女子高校生をメインターゲットとして開発された。
 第1期たまごっちは「携帯ペット」と銘打っていたが、開発者の横井昭裕が動物好きであったことから「ペットを育てる」という発想が生まれたものである。
 携帯に便利ということで時計型にする発想が生まれ、「卵型の玩具は売れる」ということで卵型にする発想が生まれた。 
 当初は名称の由来どおり腕時計型にしてベルトも付ける予定であったが、安い電子製品を使い製造するとかさばるという理由から撤回し、最終的にキーチェーン型となった。1996年11月23日、初代たまごっちが正式発売された。

 ▼社会現象化

 1997年を中心に、社会現象になるほど爆発的な人気を誇った。人気は本来想定していた女子高生以外にまで広まった。    
 口コミの評判にマスコミの煽りが相まって異常人気となり、入荷の情報を聞きつけた人々が徹夜で店に並ぶ様子が連日新聞やテレビで報道された。
 入荷の情報はテレビでは取り上げられず、もっぱらインターネットとラジオ番組によって発信された。
 その結果、たまごっちを持っていることが一種のステータスとなり、街には数個たまごっちを所有していたり、忙しい人向けの「たまごっち託児所」なる預かり所が登場したりもした。「飼育」していたたまごっちの「死」によってペットロス症候群に似た現象が一部のユーザーで見られるようになるなど、たまごっちブームは社会現象化した。50個のたまごっちの抽選販売に対して、抽選整理券が4000枚配られた所もある。 ブームの火付け役は、音楽番組で安室奈美恵が持っていたからだとも、テレビドラマ『踊る大捜査線』で和久平八郎(いかりや長介)が育成していたためだとも、スチュワーデスが持っていたからだとも言われる。 
 初代たまごっちの初回オーダーは当初6万個を予定していたが、販売価格を引き下げるため30万個に変更した。
 その後テストセールスの結果、大きな反響があったため100万個に再変更された。
 しかし正式発売後、人気の過熱により慢性的な品薄状態が続き「生産調整をしている」という噂も流れた。バンダイには問い合わせの電話が1日に5000件かかり、バンダイの公式ウェブサイトは1日に1万件を超すアクセスが殺到した。
 バンダイに直接出向いてたまごっちを求める人まで現れたが、実際にはバンダイやウィズの社員でさえたまごっちは入手できないほどだった。
 1997年6月のバンダイの株主総会では株主にたまごっち1個が贈呈された[20]。 1997年2月にはニッポン放送のラジオ番組で行ったたまごっちのプレゼント告知に15万通の応募が殺到した。
 たまごっちのパロディ本として『新ネタ発見!!ブッたまごっち』も扶桑社から出版され、話題になった。
 ウィズは前述のように当時のたまごっちを女子高校生向けに開発していたが、タイアップした雑誌は小・中学生向け少女マンガ雑誌の『なかよし』(講談社)と『ちゃお』(小学館)、男子小学生向け雑誌『コミックボンボン』(講談社)『月刊コロコロコミック』(小学館)に限られていた。
 日本以外にも世界30カ国で発売され、アメリカやアジア各国でも大流行[要出典]。アメリカの人気ドラマ『ER』にも登場した。1997年、「数百万人分の労働時間を仮想ペットの養育に費やさせた」功績により、ノーベル賞のパロディ的な賞であるイグノーベル賞の経済学賞を受賞している。
 また、同年には新語・流行語大賞のトップテン、DIMEトレンド大賞を受賞している。

 ▼さまざまな社会問題

 たまごっち欲しさに恐喝を働いたり、詐欺事件が発生するといった数々の社会問題も報道された。
 ブームの全盛期には、白いデザインのたまごっちが非常に稀少だとして特に人気が集中したことがあったが、横井は「単なる噂」としている。
 実際には他にも生産量の少ないたまごっちは存在していた。横井は、稀少価値があるとされた白いデザインの商品が1個9万円で取引されたり、色を塗り替えて稀少品であるように見せかけた商品が1個18万円で取引された話を聞いたという。 仕入れをした販売店によっては、100個仕入れたうちの50個だけ定価で店頭販売して、プレミア価格がついた5~20万円以上になっている人気のたまごっちは裏で売りさばいていたという。
 さらに転売屋が、たまごっちを組み立てていた韓国の工場から直接たまごっちを卸してもらって密輸し、20億円もの利益を得たケースもあったという。
 1997年2月14日には、日の丸タクシー・イースタンモータース・宮園自動車・東京コンドルタクシーが東京都内で新たにスタートさせる初乗り運賃1kmまで340円のタクシーの愛称を「たまごっちタクシー」と発表したところ、バンダイから「商標の無断使用」と警告される事態も発生した。

 ▼ブーム終息による赤字

 しかし、1998年に入るとブームが沈静化。それまでに経験したことがない大ブームに大増産を行ったバンダイは不良在庫の山を抱えることになり、在庫保管費などが経営を圧迫、1999年3月にメーカー在庫250万個を処分。不良在庫の処分により60億円の特別損失を計上し、最終的に45億円の赤字となった。大ヒットしたにもかかわらず、社内では失敗という声も出た。
 これを上回る赤字を出したものは、損失額270億円を出した「ピピンアットマーク」がある。 本郷武一によれば、第1期たまごっちシリーズがブーム定着に失敗した理由は「社内で情報を共有できなかったことに尽きる」という。関係各部門が独断で出荷を決め、品薄状態の店舗に追加出荷したものの、たまごっちを欲しがっている一般顧客は複数店舗にそれぞれ予約しており、実際の需要は予約件数よりずっと少なかった。
 発売元のバンダイによれば、これら第1期のたまごっちシリーズは全世界で4000万個(日本国内で2000万個、日本国外で2000万個)を販売したという。

 ■第2期(ツーしん期)

 ▼企画段階

 横井昭裕によると2001年頃に杉浦幸昌(当時バンダイ会長)が横井に「たまごっちを復活させよう」と働きかけたことがシリーズ復活の一つのきっかけだという。
 2002年末頃からバンダイ社内でのたまごっち復活の動きが本格化。
 さらに2003年頃、当時の高校生の間で初代のたまごっちが再燃しているという情報をバンダイの開発チームが聞きつけたことがきっかけとなって開発が始まった。
 第2期では小学生がメインターゲットとなった。
 これは「今の女子高生は携帯電話ばかりで玩具が生活に入り込むのは難しい」との開発側の判断によるもの。
 以前の「たまごっち」に赤外線通信を追加している。
 第1期はブームの過熱によりかえって短命化を招いたことの反省から、メディア露出を従来より控えめにして人気の長期持続を狙った。

 ▼販売開始

 第2期たまごっちシリーズは「かえってきたたまごっちプラス」として2004年3月20日に発売された。 第1期に登場したキャラクターも一部登場している。
 また、第1期と同名だが別のキャラクターも登場している。たまごっちの基本設定が全面的に一新された。 また、第1期ではタイアップする出版社が講談社・小学館と出版社2社体制で展開されていたが、第2期では小学館のみとなっている。アニメ映画の配給会社が第1期の東映から第2期では東宝に変更された。
 1990年代のブームほどではないが小学生を中心に受け入れられ、国内外での売上個数は2007年6月末までに3000万個を超えた。
 そして、本来のターゲットだった小学生の上や下の世代にも人気が拡大した。
 2004年11月23日には「祝ケータイかいツー! たまごっちプラス」(ケーたま)が発売された。 その人気に応えて、2005年に玩具屋店頭に通信機能を使ってアイテムのダウンロードや連動ミニゲームのできる「でかたまごっち」(後に「おうちのでかたまごっち」の商品名で一般にも販売)を設置、さらに「超じんせーエンジョイたまごっちプラス」(エンたま)を発表、2006年にはゲームセンターにはデータカードダスシリーズに属するトレーディングカードアーケードゲーム機『たまごっちカップ』などの展開を始めた。

 ▼ブームの収束

2007年、『たまごっちカップ』の後継である『たまごっちコンテスト』は、『オシャレ魔女♥ラブandベリー』や『きらりん☆レボリューション ハッピーアイドルライフ→クルキラアイドルDays』など他社のゲーム機に押されて売り上げ不振が続いていた。同年秋、一部の筐体は『Yes!プリキュア5』をキャラクターとして起用した『うたって!プリキュアドリームライブ 〜スピッチュカードでメタモルフォーゼ!?〜』に置き換えられ、残った筐体は『たまごっちとふしぎな絵本』にリニューアルされたが、稼働不振は止まらず、2009年2月から3月に男児向けの『仮面ライダーバトル ガンバライド』や『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』に置き換えられる形で稼働終了した。 2007年8月10日には、初のたまごっちオフィシャルショップ「たまごっちデパート」が東京ドームに開業した。同年11月23日には「いぇー!ふぁみりーイロイロ!たまごっちプラス」(ふぁみたま)が発売された。同年12月15日には、本格的なアニメ映画「えいがでとーじょー! たまごっち ドキドキ! うちゅーのまいごっち!?」が公開された。 2008年頃からは人気が沈静化し、玩具店・量販店によっては商品の在庫処分が行なわれた。

 ▼第3期(カラー期)

 たまごっちプラスカラー 編集 2008年9月25日に「たまごっちプラスカラー」を発表。シリーズで初めて液晶がカラー化されるとともに、ドット数が大幅に増え複雑なキャラクターが描写出来るようになった。電源がボタン電池から単四電池2本へ変更。また2009年には、人気ユニットであるEXILEとコラボレーションをしたモデルも発売された。
 同年12月20日には、映画第2作目「映画! たまごっち うちゅーいちハッピーな物語!?」が公開された。 2009年10月12日にたまごっちシリーズとしては初の30分テレビアニメ「たまごっち!」が放送を開始し、2015年9月24日までの6年間放送された。


 ▼たまごっちID
(Tamagotchi iD)
 2009年11月23日(初代たまごっち発売日から14年目)には「Tamagotchi iD(たまごっち iD)」が発売された。ダウンロードにより、自分だけのオリジナルたまごっちを作れるようになった。「産卵期」が「フレンド期」に変更され、また「フレンド期」においては世話を怠った際の演出が死亡から家出に変更された(幼児期〜思春期については従来通り、死亡する)。
 発売同日の2009年11月23日には『たまごっち大感謝祭』と称して、これまでのたまごっちシリーズをいずれか1つでも持参した者に、感謝状とたまごギフト券が配られた。
 2010年3月には、2009年の稼働終了以来の1年ぶりのデータカードダス、「カードでちゃくしん!たまごっち!」の稼働が開始した。システムが大幅に一新され、キャラクターデザインがアニメ「たまごっち!」に準じる物となった。今までのカードとの互換性がない。
 2011年3月19日にはiDのマイナーチェンジ版、「Tamagotchi iD L(たまごっち iD L)」が発売され、一部の機能が強化された。 女児をターゲットに絞った[40]iDは、2010年のバンダイこどもアンケートレポートでは4年ぶりに女子部門第7位にランクイン。
 さらにiDは2010年12月末までに累計80万個を出荷、これは2008年の前機種出荷数の3倍に上り、店舗によっては品薄となる人気になっている。

 ▼たまごっちPs
(Tamagotchi P's)
 2012年11月23日(初代たまごっち発売日から16年目)には「Tamagotchi P's(たまごっち P's)」が発売[43]。本体の大きさは前作とは変わっていないが、育てるキャラクターの種類が大幅に一新された。
 別売りの「たまデコピアス」(拡張ROM)を付けることによってキャラクター、アイテム、ゲームなどの追加が出来る。 2012年12月13日には、「たまごっちリズム TamaRiz」が稼働が開始され、Tamagotchi iDLとP’sとの連動ができる。

 ▼たまごっち4U
(Tamagotchi 4U)
 2014年9月27日には「TAMAGOTCHI 4U(たまごっち 4U)」が発売された。通信方法が赤外線通信から、NFC通信に変更されており、タッチすることで通信ができる。また、ダウンロード機能が大幅に拡張され、これまでの服、アクセサリー、食事、ゲームなどに加え、キャラクターや、店で使えるクーポンもダウンロードできる。
 2015年7月18日には、マイナーチェンジ版の「TAMAGOTCHI 4U+(たまごっち 4U+)」が発売され、一部の仕様変更や、通信機能の強化、一部キャラクターの個性が追加された。 2015年10月1日、バンダイによる公式YouTubeチャンネル「たまごっちTV」が開設された。

 ▼たまごっちみくす
(Tamagotchi m!x)
 2016年7月16日に「Tamagotchi m!x(たまごっち みくす)」が発売された。 
 同年11月23日に初代たまごっち発売20周年を迎えることから育成ゲームとしての原点回帰をコンセプトに開発された。
 新たにたまごっち同士が結婚すると両親の遺伝子を受け継いだ孫から子孫を残す事ができるようになった。また、結婚した親から生まれたたまごっちは両親の姿を受け継いだ姿になる。遺伝の要素を盛り込むにあたり、たまごっちiD以後にみられた家出の演出が死亡に戻された。
 また、通信方法がNFC通信から赤外線通信に戻された。 2017年4月28日には9年ぶりに短編映画作品「映画 たまごっち ヒミツのおとどけ大作戦!」が公開された。

 ▼たまごっちみーつ

 2018年11月23日に「たまごっちみーつ」が発売された。

 ▼Tamagotchi Pix

 2021年7月1日に「Tamagotchi Pix」が発売された。

 ▼たまごっちスマート

 2021年11月23日に「たまごっちスマート」が発売された。シリーズ開始25周年を経て、当初の企画案であった「腕時計型」の機種が発売されることになった。
 また、なつきアイコンも登場した。たまごっちみくすから変更された死亡の概念がある他、なつき度が低いまま放置していると、手紙を残して家出してしまうイベントもある。
 たまごっちが結婚するか死亡すると、部屋に新しい卵が現れ次のたまごっちを育てるシステムになっている。なお、たまごっちの結婚は結婚相手とキスをして、卵を残す事で表現されている。たまごっちの性別により、結婚相手が異なる。

   〔ウィキペディアより引用〕



■あの頃欲しかったモノ ♯02

2023-05-21 21:00:00 | 懸賞/投函

 《ビックリマンチョコ
詳細は「ビックリマンチョコ」を検索

 おまけとしてシールを封入した菓子。ロッテが1977年に売り出し、特に1985年発売の「悪魔VS天使シール」は大きなブームとなった。

 《食玩・プラモデル

 カバヤ食品「ビッグワンガム」(1978年発売)、バンダイ「ミニプラ」のガム付き商品、フルタ製菓「チョコエッグ」(1999年発売)のように、プラモデルやフィギュアを食品のおまけに付ける食品玩具(食玩)も販売されている。

 《自治体による施策

 自治体が販売価格より高い価値(プレミアム)をつけたプレミアム商品券を販売している。目的としては自治体内部での消費を促すため。プレミアム付き商品券とも。

 また、ふるさと納税の寄付者に自治体が贈る返礼品が、メディアなどにより「おまけ」「オマケ」と表現されることもある。

 《仮面ライダースナックとライダーカード


 1971年(昭和46年)12月末、テレビで仮面ライダーが放映開始されてから約半年後、カルビー製菓から、仮面ライダーカードが添付されたスナック菓子である仮面ライダースナックが発売された。
 このおまけのカードは、カードの表面が、番組に登場する怪人や仮面ライダーのプロマイドで、裏面にカード番号とともにその説明が記載されていた。更に、ラッキーカードを送付するとカードを収納するバインダーがあたるというものであった。
 このライダースナックは発売後すぐに大人気となった。しかし、購入後、カードだけを取り、お菓子を公園などに廃棄することが多発し社会問題になり、カルビー製菓も一人にたくさん売らないように小売店に要請をおこなうまでとなった。
 このライダースナックのおまけの成功の原因は、カードに番号が振られているコレクション的要素、あたりカードの存在のギャンブル的要素、放送直後の情報がカードとなっている情報的な要素などであると、カード研究家の堤哲哉は分析している。
 放送直後の情報がカードとなっている原因は、本編の撮影現場にライダーカードの撮影スタッフを派遣し、同時に撮影を行ない、1週間で商品に添付したためである。

 仮面ライダースナックには、1袋に1枚の「仮面ライダーカード」が付属していた。袋の中にカードが入っているのではなく、50袋入りのダンボール箱ごとに54 - 55枚のカードが同梱されており、購入時に手渡される形式だった。
 カード表面には仮面ライダー・怪人・劇中の場面などが、裏面には通しナンバーと表面の写真に関するデータが印刷されていた(例えば表面が怪人の写真ならば、その怪人の出身地などが書かれていた)。 カードは全546枚だが、同じ番号が振られていても細かな絵柄が異なるカードが存在する。
 当時の子供たちの間では、仮面ライダースナックの発売前からブロマイドと呼ばれるヒーロー・アニメのキャラクターが印刷されたカードが流行していた。
 そういった背景もあり、「スナック菓子にライダーカードを付けて売る」というアイデアが生み出され、『プロ野球チップス』に代表されるカード付き菓子の先駆けとなった。カルビーによると、このアイデアは松尾雅彦の友人であった栗本慎一郎から提案されたものだという。
 仮面ライダーカードは子供たちの間で大ブームとなったが、その背景にはいくつかの要因があった。

 図鑑的要素

 仮面ライダーカードは従来のブロマイドとは異なり、カード裏面にもキャラクターの解説などが記載されていることから「図鑑的要素」を盛り込んでいた。 怪人のデータなどはテレビ本編は殆ど言及されず、子供たちがそれらのデータを知るには『テレビマガジン』などの児童向け雑誌などを読む以外、手段がなかった。そんな時に登場した「仮面ライダースナック」は、まさにうってつけの存在だったのである。 仮面ライダーや怪人に関する劇中では公開されない設定が掲載された他、ゲルショッカーやショッカーライダーなどの情報はテレビ放映を何週間も先取りしており、最新情報源となっていた。
 カルビーは石森プロの版権スチール撮影を手がけていた、グループ・ナインと独自の契約を締結し、カードでしか見られない図版も多く提供された。

 ▼ラッキーカードとアルバム



 通常のカードと異なる「ラッキーカード」と呼ばれる、レアカードがある。これをカルビー製菓 ライダー係宛に送ると、カードを収納できる「仮面ライダーアルバム」をもらうことができるようになっており、
 ラッキーカードを求めて「仮面ライダースナック」を購入する者も多かった。 カード裏面には当初、通常のカードと異なり、「ラッキーカード」の文字とカードの説明、有効期限(ラッキーカード送付の締切)、カルビー製菓の宇都宮工場と広島工場の住所が書かれていた。
 ラッキーカードはアルバムを入手するためにはカルビー製菓に送らなければならず、基本的に手元に残るものではないため、現存する物はコレクターが高値で取引するレア アイテムとなっている。例えば、No.73のカードは2013年4月の時点で、52万5000円の値がついていた。
 なお、ラッキーカードの返却を希望する子供が多かったため、後にカード裏に赤字で「S」のスタンプを押して返送されるようになった。
 仮面ライダーアルバムは全10種類。初期の「豪華アルバム」は無地のビニール表紙にロゴがあしらわれたもので、色によっては「ゴールデン アルバム」「ホワイト アルバム」「ブラック アルバム」などと呼ばれている。後期のアルバムの表紙は紙製となり、仮面ライダーの写真やイラストが載せられていた。

 ▼異種カード

 仮面ライダーカードの中には同じ番号が振られていても細部が異なるカードが全部で、52種類存在する。
 差異の度合いは様々で、画像が全く異なる物。同じ画像でも、トリミングが異なる物。裏面の解説が異なる物などがある。こうした変化は再版による発行時期の差、各印刷所における作業の違いから生じている。

 ▼仮面ライダースナックとライダーカードによる社会現象と問題

 「仮面ライダースナック」の予想外の売上げに伴い、スナックを買った少年少女たちが、カードだけを取ってスナックを捨ててしまう等の事例が全国で報告された。
 こうした状況は保護者や教育関係者の目に留まり「ライダースナック投棄事件」として、社会問題にまで発展した。
 カルビー側は「お菓子は残さず食べよう」という一文をスナックの袋に印刷して掲載し、梱包用のダンボール箱に「一人にたくさん売らないように御協力下さい」と小売店向けの指示書を仕込むなどの対策を採った。
 漫画『ちびまる子ちゃん』には、この問題を扱ったエピソード「男子対女子 大戦争の巻」(原作7巻、アニメ1990年10月7日放送分)がある。 
 平成仮面ライダーシリーズで数多くの作品で脚本を執筆した脚本家の井上敏樹は、「子供の頃に同じことをしていたが母親にバレて叱られた」と振り返っている。

   〔ウィキペディアより引用〕


■あの頃欲しかったモノ ♯01

2023-05-20 21:00:00 | 懸賞/投函

 あの頃欲しかったのは、“ボスジャン”だった。
 よく缶コーヒーを飲んだもんだ。それを機に『コーヒー好きになったかも知れません。
 幾度となくシールを貼り、投函したことか。
 酒屋のバイトをやろうかと思ったくらい酒屋のお兄さんが羨ましかった。
 今はほしくないけど、って言うか、売ってますよね。
 『絶対もらえる!』謳ってたけど、貰えなかった。
 なんて言うか、当たるハズレのドキドキ感が心地良いかも知れません。
 宝クジは買った事ありませんが。

 ヤマザキのパンまつりもセコセコと集めてましたが当たるというよりモレナクなんでワクワクしませんでした。


 一番、古いと言える投函は森永製菓『チョコボール』かな?
 エンゼルのくちばし
 金は1枚、銀は5枚で“おもちゃのカンヅメ”が貰える。
 当時は“ピーナッツ味”と“キャラメル味”があって、学校の同級生たちの噂によれば、当たる確率はキャラメル味の方が高いぞということでひたすらキャラメル味を買っていた。
 でも、嫌だったキャラメルが歯にひっついて。そんな記憶があります。
 一回だけ当たり、投函して貰いましたが、カンヅメの中身は忘れました。
 当時のカンヅメは、こんな感じだったかな?


 サイトに閲覧すると

 最新のおもちゃのカンヅメは


『歌うキョロちゃん缶』らしいです。

 『オマケ』という言葉は、どこから来たのだろう?、と考えた。
 “オマケ”をキーワードに検索してみた。

 ▼おまけ(御負け)
 ある商品を購入した際に、その商品の価格を下げたり、サービスとして追加で物品をつける行為、あるいは、そのサービスでつけた物品自体のことを言う。
また、挨拶や言葉遣いなどの商品に対する付加価値がないセールスとしての行為をおまけと分類することもある。

 おまけの語源は「御負け」の文字通り、店員が客との駆け引きに負けて値を下げる行為を指す言葉であったが、のちに商品以外の物品を追加する行為なども言うようになった。
 しかし、おまけの語が全国的に使用される様になった明確な時期などは分かっていない。
 大正時代に縁日で売られていたトコトンアメの口上に「もうひとつおまけ、トコトンアメ」という言葉があり、その一方で戦前の広辞林や辞苑には載っていないことから、上方の商人で使われていた言葉が、グリコのキャラメルの知名度とともに、全国に広がったと分析する研究もある。
 商品におまけとして景品を付ける事がある。ビックリマンシリーズに代表されるように本来はおまけとして付加されたものが射幸心を煽り爆発的なブームを発生させ、おまけの収集が目的化した例も見られる。

 値引きとしてのおまけ

 値引きとしてのおまけとしては、商品を量り売りで売る際に、一度双方が合意した量にさらに少量を追加するケースや、それから派生して価格そのものを割り引くケースがある。
 この値引きの起源として誓文払いが挙げられる。北原照久は商売の駆け引きで嘘をついた罪を祓う行事である誓文払いの前後に商店が大安売りをする風習があり、この文化から、値引き商法が発達し、おまけの文化が発達したと推測している。
 一方、他の物品を追加でつける行為としては、店舗で物品を購入時に会計後に「サービス券」を渡されたり、スタンプカードにスタンプやポイントもらったりする場合がある。
 これらは、消費者がそのポイントを溜めておまけを受けるかどうかを選択することから、自己選択型の価格差別と呼ばれるものである。交換対象によっては後述のサービスで付く物品としてのおまけにも分類される。

 サービスでつける物品

 何らかの商品やサービスを購入した際に何らかの物品がついてくることがある。
 この物品のこともおまけという。このおまけの形態も、商品に添付される場合、商品に添付されるポイントやあたり券などを交換する場合などが存在する。

 ■歴史

 ▼《売薬版画

 本来の商品に何らかの物品を追加して販売した早い事例として、江戸時代に富山の薬売りが、お得意様に、売薬版画、日用品をサービスとして置いていった記録がある。当時は、おまけの名でなく「進物」「土産物」と呼ばれていた。
 これらのうち、浮世絵版画から派生した売薬版画は、カラーの印刷物が珍しい時代には需要も高く、さらに、配布する側にとっても軽量であったため、江戸時代から昭和の初期まで、長期に渡り利用されてきた。
  昭和の初期になると石版印刷が、そして活版印刷が登場すると、売薬版画は廃れた。明治時代後期からは富山で流行っていた紙風船も、おまけとして使用されるようになった。

 ▼《タバコカード
 詳細は『シガレットカード』を検索

 19世紀後半にアメリカで紙巻きたばこの包装の強度を保つために、各種のイラストの描かれたカードがタバコに同封されるようになった。
 このカードには野球選手、女優、世界の風俗などが使用されていた。
 明治維新を迎えた日本でも、村井吉兵衛や岩谷松平が紙巻タバコの販売を始め、村井は海外のタバコカードを輸入し「サンライス」「ヒーロー」におまけとして封入した。
 このカードの封入により村井のタバコは爆発的に売れるが、カードを目的に子供が喫煙をすることが問題となり未成年者喫煙禁止法が制定される。
 更に、封入していたカードのうち、美術裸体画シリーズが公序良俗を乱すと裁判となった。
 最終的に裁判には勝訴するものの、商品の回収と販売禁止の命令をうけた。

 ▼《グリコのおもちゃ

 江崎グリコの創業者である江崎利一は、1919年(大正8年)にカキの煮汁に含まれるグリコーゲンからキャラメルを作り、栄養菓子「グリコ」を製作した。        
 1922年(大正11年)、三越百貨店で販売を開始する。
 しかし、当時の栄養菓子市場は、大手の森永製菓と明治製菓に占められており、資本金でも1/100程度のグリコがその市場に参入することは非常に困難を伴った。
 江崎は販売促進のため前述のタバコカードをヒントにカードや乳菓をおまけとして添付した。
 1927年(昭和2年)頃から、このおまけは、メンコなどのおもちゃや、大阪造幣局で作られた銅製のメダルとなった。
 当時はおまけと商品が同一のパッケージに入っていたが、子供たちが手探りで中身を調べる行為(現在で言うサーチ行為)を行うことに、小売店からの苦情が発生し、おまけと商品を別パッケージに入れる通称「おまけサック」が登場した。
 このおまけサック導入によって、グリコの生産量は2、3倍となり、大きな発展を遂げる。その後、懸賞商品の導入や、様々な材質(セルロイド製、鉛とアンチモンの合金であるアンチモニー製、土、木、竹)でおもちゃが作られる様になった。また、クーポン券の収集により賞品と交換する制度もこの次期に考案された。
 太平洋戦争中は、おまけの材質も制限され、1942年(昭和17年)には、グリコのキャラメルもおまけが消え配給制となった(白色の箱の配給グリコ)。1943年には物資不足から、グリコの生産も停止することになった。
 戦後、キャラメルの生産の再開を真っ先に行ったのはグリコである。
 他の大手である森永製菓、明治製菓が配給統制により、生産販売に制限を受ける中、グリコは調達できる範囲で材料を集め、おもちゃつきのグリコを菓子でなく、食品つき玩具として販売した。
 これは、玩具として販売することで配給統制による規制をすり抜ける方法であった。
 1949年(昭和24年)11月菓子類の統制がはずされ、森永製菓、明治製菓だけでなく多数のメーカーでキャラメルの生産と自由販売が始まった。
 それに伴い、1950年(昭和25年)グリコのおまけサックも復活した。 しかし、自由販売後のグリコのキャラメルは必ずしも順調というわけではなかった。これは、後述する紅梅キャラメル、カバヤキャラメルの登場の影響もあった。
 グリコが成功するのは、1956年(昭和31年)の本物の小鳥があたるという「幸運の小鳥さがしキャンペーン」である。  
 この後も、切手、コインなどこれらの収集ブームに合わせたキャンペーンを行っていき成功していった。

 《紅梅野球カード
 
 1947年(昭和22年)に設立された紅梅食品(のちに紅梅製菓に社名変更)が菓子類の販売統制の解禁とともに、販売したキャラメルにおまけとして添付された野球カードがあった。
 この野球カードは読売巨人軍の選手のプロマイドとなっており、ピッチャー、キャッチャー、内野手、外野手の計10人のカードを集めることにより、様々な景品ともれなく交換が可能というものであった。
 「野球は巨人、キャラメルは紅梅」のコピーで販売したキャラメルは、交換できる賞品の魅力もありヒット商品となった。これらのカードは全て同じ確率ででるわけではなく、一部のカード(特に水原監督のカード)の出現率が非常に低かった。そのようなカードの添付が1952年公正取引委員会に問題視され、1953年には紅梅キャラメルの万引きグループが出たこともあり、不買運動が発生する。その結果、1954年(昭和29年)には操業停止となった。

 《カバヤ児童文庫

 同じ時期、登場した菓子メーカーの中にはおまけの工夫により、爆発的に販売数を増やすものもあった。
 1952年(昭和27年)、岡山のカバヤ食品が製造・販売したカバヤキャラメルもそのひとつである。キャラメルに50点集めることによりハードカバーの児童用の文学全集から1冊を手に入れることができるポイントを添付した。当時高価であった児童文学書をキャラメルの購入で簡単に入手できるということから、学校単位での購入も行われることもあった。
 しかし、翌1953年(昭和28年)カバヤ食品は大きな戦略上のミスを行ってしまう。
 キャラメルのおまけに新たに、カバヤマンガブックを交換対象に加えてしまった。これは、学校、PTAなどの反発を買い、カバヤキャラメルの不買運動にまで発展した。

 《マーブルチョコレートと鉄腕アトムのシール

 昭和30年代後半となると、テレビの普及および、生活水準の変化とともにおまけの内容も変化してきた。1961年(昭和36年)、明治製菓は、マーブルチョコレートを発売し、当時の糖衣チョコの市場の約9割を独占した。
 これに対し、森永製菓はおまけつきのパレードチョコを発売し、その結果、マーブルチョコレートの市場は大きく減じることとなった。
 これに対し、明治製菓は1963年(昭和38年)からマーブルチョコレートに鉄腕アトムのシールをおまけとして添付し始めた。
 鉄腕アトムは1963年(昭和38年)からテレビで放送が開始されたアニメであり、明治製菓がスポンサーとなっていた。このおまけの添付は大成功であり、マーブルチョコレートは爆発的な売れ行きを示した。
 この明治製菓の鉄腕アトムに対して、森永製菓は狼少年ケンを、グリコは鉄人28号のおまけをつけた製品を作っていく。
  これらの成功はキャラクターグッズの添付が売れ行きに大きく影響を与えることを示した。
 そして、玩具メーカーにこの分野が利益になることを示し、日本のキャラクタービジネスの先駆けとなった。

   〔ウィキペディアより引用〕