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Horror Movie 補足Ⅱ

2023-07-16 21:00:00 | 編集後記/追記

 先日、ホラー映画を綴らせて貰いました。

 その補足と言うか、少しだけ深堀させて下さい。

 『貞子』こと、山村貞子のモチーフ(モデル)とされているのは御船千鶴子ですよね。有名だから、御存知の方は多いと思いますが、敢えて綴らせて下さい。

 御船 千鶴子(みふね ちづこ)
(生没:1886年(明治19年)7月17日〜
    1911年(明治44年)1月19日)

 透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された日本の女性。

御船千鶴(国会図書館所蔵『透視と念写』より)
 
生涯》

 ▼生い立ち

 熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)にて、漢方医・御船秀益と、その妻・ユキの二女として生まれる。
 生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえにくかったという。
 繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。
 また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。

 ▼透視能力の発現

 22歳のとき、陸軍中佐・河地可謙[要出典]と結婚。
 ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こした。
 それがもとでほどなく離婚することになり、実家に戻る。
 実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられた際に優れた結果が出たため、修練を続けることとなった。
 その後、日露戦争時に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした。
 また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた。
 評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、1909年(明治42年)から翌年の1910年(明治43年)にかけて京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた。

 ▼透視実験により「千里眼」と話題に

 1910年(明治43年)4月10日、熊本の清原の自宅で福来と今村は清原の立ち会いのもと、透視実験を行う。
 人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせたが、この方法では不的中に終わった。
 今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたという。
(福来友吉博士)

 千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した。
 これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。
 千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子をはじめとした「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れた。

 ▼マスコミによる否定論調

 1910年(明治43年)9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験を行った。
 千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚する。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。
 透視実験において、医院で接する患者には正面から向き合っていたにもかかわらず、上記の通り実験時の千鶴子は常に観察者に背を向けて10分以上時間をかけており、成功したのは封筒の透視である。これだけ時間をかければ、背後からは分からないよう手の先だけを動かしてつばで封をはがし、体温で乾かして元に戻すことは可能であろうとの指摘は当時から出ていた。
 いずれの実験も条件としては不十分で、中には千鶴子を別室に入れて行ったものまである。
 さらに、福来の著書「透視と念写」においてでも、最初の実験で送った19通の封印つき封筒のうち、「透視」が成功して帰って来たのは7通のみで、3通はうっかり火鉢に落として燃えた、残りは疲れてできないということであった。
 福来は単純に結果に驚愕したと書いているが、燃えたものはともかく、疲れてできない分は返送されていない。これは火鉢の湯気を当てて封を剥がし、綺麗に戻せたものだけを返送したと考えられている。

 ▼服毒自殺により24歳で死去

 そんな中、長尾郁子の念写を非難する記事を見て失望と怒りを感じた千鶴子は、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったとされ、1911年(明治44年)1月18日には重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡した。
 一般には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したといわれるが、地元では自殺の原因は「父親との金銭的なトラブルによるもの」だと見られていた。

 関連項目 ー 千里眼事件 ー

 千里眼事件(せんりがんじけん)

 明治末(1900年代から1910年代初頭まで)の日本で、当時の社会状況・学術状況を背景として起きた、超心理学に関する公開実験や真偽論争などの一連の騒動である。
 千里眼・念写の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者とともに巻き起こした。

 ▼御船千鶴子の出現

 熊本県生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、1909年(明治42年)、23歳の時のことである。
 その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。
 1900年(明治30年代半ば)頃の日本では、催眠術ブームが起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在した。
 最初に千鶴子を取り上げたのは、1909年年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議なる透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じている。
 実際に千鶴子の透視能力を直接に実験したのは、今村新吉である。
 1910年(明治43年)2月19日、熊本を訪れた今村が、カードを用いた透視実験を行い、高い的中率を得た。
 同年4月9日には、福来友吉と今村の二人で熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれたが、この時は失敗した。
 しかしその後、方法を変えて実験を行なうと、的中した。4月25日には、東京に戻った福来が、東京帝大内で実験報告を行い、一躍脚光を浴びるようになった。

 同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれた。
 が、その結果は、試験物のすり替え事件によって、問題の「千里眼」能力の真偽に対する答えを出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなった。
 翌9月15日、9月17日に少数の関係者を集めて、千鶴子の得意な方法で行なわれた再実験では、好結果が出たが、集まった学者たちの反応も、一歩下がった立場からの冷めた論調に終始した。
 その一因として、千鶴子の場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人の同室を固辞し、また、ふすま越しに隣室からの同伴を認めた場合でも、終始、千鶴子は背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験を行なったため、問題の千鶴子の手元が臨席者の目に触れることがなかったため、福来らの能力を信奉する立場の者たちにしても、その疑惑を払拭することができなかった点が挙げられる。
 結局、千鶴子は熊本に帰った後、1911年(明治44年)1月19日に自らの命を絶ってしまう。その死の前後に、長尾郁子の事件が報道されたことから、死後の千鶴子に関しても世間からの非難が集まることとなってしまった。

 ▼長尾郁子の登場



長尾郁子(「福来博士記念館」の展示

 長尾郁子は、香川県丸亀の判事であった長尾与吉の夫人であり、当時40歳であった。
 郁子の場合、その数年前から災害等の予言が的中するということで身近な人たちから注目されるようになったという。
 それが、千鶴子の一連の報道を知ったことで、同様の実験を行なったところ、見事に的中したということで、福来の耳に郁子の情報が入ることとなったのである。
 福来と今村が郁子に対して初めて実験を行なったのは1910年11月12日のことである。
 郁子の場合、千鶴子との最大の相違点は、同席者と相対した位置で透視を行い、的中させた点である。
 さらに、実験方法においても、千鶴子の場合とは異なった手段が用いられた。それが、福来の考案した現像前の乾板を用いるというもの、いわゆる「念写」実験の始まりである。
 福来は千鶴子に対しても同様の実験を試みたが、不成功に終わった。郁子の場合は、福来のあらかじめ示してあった文字を念写することに成功したため、福来らはもっぱら丸亀において郁子の実験を中心に活動することとなる。

 1911年1月4日から、物理学者で東京帝国大学元総長の山川健次郎が同席した透視・念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれた。8日には、助手として参加した東京帝国大学物理学教室講師の藤教篤が、実験物である乾板を入れ忘れるという事件が起きている。
 山川からは、長尾側が透視する文字を書く場所に特定の部屋を要求したり(山川がその部屋で体を盾にして書いた文字を長尾は透視できなかった)、山川側が一度開ければわかるように細工しておいた透視用の封筒に開封の跡が発見されるなど、不審な点があまりにも多いことが指摘された。
 山川らの実験は一つ一つ意味を持っており、透視が当たった時と当たらなかった時はどのような条件であったかがわかるように計画を立てていた。こうして透視が当たった時は、全て袖で隠さずに書いた時か、封を空けた跡が見られた時など、前述のような不審な点が見受けられたときだけであった。
 また、同年1月12日の実験でも妨害行為があったことが報じられ、その妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密であった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がるに及んで、郁子と横瀬の不倫疑惑というゴシップへと世間の関心は移ってしまい、やはり、肝心の「千里眼」「念写」の真偽は二の次になってしまった。
 そうして、同年2月26日に長尾郁子が病死。だが、これさえもマスコミは長尾家への非難の材料として取り扱った。
 山川らは、同年のうちに写真を添えて物理の実験結果と同様に公表し、手品の一つに過ぎないと結論付けた。

 ▼終焉

 この結果、超能力者達の研究に携わった科学者達もマスメディアの攻撃対象になったため、ついに研究者達は「千里眼は科学に非(あら)ず」という見解を公表した。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなった。
 結果、「千里眼」「念写」の真偽が明かされる機会は失われた。
 同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となった。
 千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末であった。
 福来は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職。その後、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は千鶴子や郁子の時のような科学的な公開実験ではなくなり、また福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味の事を公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなどオカルティズムへの傾斜を加速度的に深めて行くこととなる。

 関連項目 ー 高橋貞子 (超能力被験者) ー

 高橋 貞子(たかはし さだこ)
(生没 : 1886年〈明治19年〉〜 不明)
日本の明治時代から大正時代にかけての人物。
 岡山県和気郡和気町出身。
 超心理学者である福来友吉に、透視・念写能力を持つ超能力者として協力し、超能力実験の被験者となった人物である。

高橋貞子(国会図書館所蔵『透視と念写』より)

 ホラー小説および映画作品『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来、または山村貞子のモデルとの説もある。
 明治末期に超能力者とされた御船千鶴子、長尾郁子らと並んで紹介されることも多いが、2人と比較すると生涯についての資料に乏しく、謎が多い。

 《経歴》

 岡山県和木郡和木町で、二男二女の末子として誕生した。
 幼少時より無口で、静かな場所でもの思いにふけることを好んだ。
 他人に対しては不愛想である一方で、困っている人には手を差し伸べずにはいられない、同情心の深い性格であった。
 感受性が強く、気持ちの起伏によって吐血、発熱、痙攣といった生理的な変調をきたす一面もあった。
 また、父が日蓮宗の熱心な信者だった影響で、貞子もまた日蓮宗への篤い信仰心を抱いていた。

 ▼夫・高橋宮二のもとでの実験  

 貞子の夫・高橋宮二は超心理学の専門家ではなかったが、独自に精神修養のための呼吸法を研究しており、貞子も彼に倣ってこれを実践しているうちに、精神統一の方法を学んだ。
 宮二はこれを通じ、貞子に霊的能力があると感じたという。
 宮二が貞子の能力に気づいたのは、奇しくも長尾郁子の初の念写実験が行われた1910年(明治43年)11月12日とされ、夫妻は当時、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現・東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生活していた。
 福来の著書『透視と念写』によれば同日、貞子は宮二に、自分の手にした火箸がひとりでに火鉢の上を動いて「清」の字を記したと告げた。
 宮二はウィジャボードを試したところ、「貞子は清原千鶴子(御船千鶴子のこと、清原は千鶴子の義兄の姓)のように千里先を見通す」と出た。
 これにより宮二は貞子に透視実験の提案をした。
 同月より、字を書いた紙や物を箱に入れて透視するという方法で、20回以上にわたって実験が行われた。
 この経緯は福来の『透視と念写』にまとめられており、貞子はことごとく透視を成功させたとある。

 ▼福来友吉のもとでの実験

 当時、貞子たちは鵜澤總明の邸宅内の一戸に住んでおり、鵜澤が福来と面識があったことから、鵜澤の紹介を通じて福来が貞子に関心を示し、福来のもとで実験の行われる運びとなった。
 この実験では、貞子は精神統一の後、あたかも別の人格が宿ったかのような言動で透視や念写を行った。
 これが御船千鶴子や長尾郁子と異なる大きな特徴であり、福来はこの別人格を「霊格」と呼んだ。
 1913年(大正2年)3月2日の最初の実験では、高橋宅の近くの医師の家で、久保良英、後藤牧太、桑田芳蔵、今村力三郎らの同席のもと、福来が持参して隠し持っていた写真乾板に念写を行うことが試みられた。
 しかし、福来は12枚の大きな乾板を用意したにも関わらず、貞子は「昨夜の夢で乾板が5枚と知っている」「5枚の小さな乾板」と、違うことを言った。
 念写の結果も、福来の乾板へは成功せず、すでに医師宅にあった別の乾板に感光していた。
 福来は、貞子の能力は福来の方ではなく、その医師宅の乾板の方へ向かったものとも解釈したが、この実験に学術的価値はないと認めざるを得ず、第1回実験は失敗と見なされた。

 翌月の4月27日には第2回実験が、福来の自宅で行われた。
 福来は新品の乾板12枚から3枚を抜き出し、紙で何重にも包み、さらにボール箱に入れて封をして用意し、信頼のおける書生に監視させておいた。
 夜6時頃に貞子が福来宅を訪れ、「妙法」の2字を念写する旨を告げた。
 夜8時半頃より、久保と高橋穣(心理学者)が立ち会いのもとで、実験が始められた。
 この結果、3枚の乾板の内の1枚に「妙法」の2字が感光していた。
 5月10日には、第3回実験が行われた。
 貞子はこの3日前に頭痛を患い、福来より催眠術による治療を受けており、その催眠状態において「次の実験では『天』の字と自分の指3本を念写する」と告げていた。
 実験当日、福来は前回同様に、新品の乾板を包装した上に封をして用意しており、久保、後藤、桑田、井上哲次郎、筧克彦が立ち会った。
 この実験では、貞子が前もって告げていた「天」の1字と自分の指3本の他、「金」の字や、丸い形、サンゴ礁、小さな丸い点の感光が確認された。
 福来が貞子に、前もって宣言した内容以外の感光内容について尋ねると、貞子はその記憶はまったくないとのことであった。
 福来は、長尾郁子の実験でも同様のことがあったため、貞子の潜在観念が念写に現れたものと解釈した。
 福来はこれらの実験結果をもって、貞子の透視や念写能力を事実と確信するに至った。
 宮二は福来を深く信頼し、貞子を学会研究のために献上することを宣言した。

 ▼実験の終焉

 これらの貞子の実験結果は、福来により御船千鶴子、長尾郁子の実験結果と前述の彼の著書『透視と念写』(1913年)として出版されたが、逆にこれは「迷信を増長させる」として、多くの学者たちの反発と批判を招いた。
 福来はさらに貞子の実験に立ち会う学者を求めたものの、これ以降、学者陣は福来に関心を示すことはなくなった。    
 かつて福来の超能力実験に懐疑的だった物理学者の山川健次郎らへの再挑戦として、公の場で貞子の超能力実験を行うことも試みられたが、立ち会う者は皆無であり、この試みも失敗に終わった。
 孤立無援となった福来に代り、宮二は山川に実験の協力を仰いだが、山川は多忙などを理由として取り合わなかった。
 宮二はこれを不誠意な対応と受け止めて憤慨し、今後一切の学者の協力に応じないことを決断した。
 やがて福来が休職命令を受けると、貞子たちは自分たちの実験が福来に害をおよぼしたとして責任を感じ、福来への詫びのけじめとして夫妻ともども東京を去り、1915年(大正4年)に、郷里の岡山へ転居した。
 こうして貞子は公の場で能力を披露することのないまま、念写実験を終えることとなった。 宮二によれば、岡山での貞子は心霊治療を行っており、周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば渡航して治療していたとされる。
 こうした治療行為は、1925年(大正14年)まで続けられていた。
 宮二が1933年(昭和8年)に出版した『千里眼問題の真相』によれば、貞子は同1933年頃まで岡山にいたことが記録されているが、その後の記録は未確認であり、晩年の様子や没年も定かではない。

     〔ウィキペディアより引用〕



Horror Movie 補足Ⅰ

2023-07-15 21:00:00 | 編集後記/追記

 知っている人は、知っているんですが、再確認での意味でも綴らせて貰います。

 しかし、B級映画を含めると沢山の”ホラー映画”があるものですね。

 さて、本題に
     入りたいと思います ー。

 バッファロー・ビルのモチーフ(モデル)について補足させて貰います。

 総覧に際し、グロテスクな文章が含まれています。御注意下さい。

 ■エド・ゲイン

 エドワード・スィアドア・ゲイン
(英語: Edward Theodore Gein[ɡiːn])
 (生没 :1906年8月27日〜
          1984年7月26日)

 アメリカ合衆国の殺人犯、死体泥棒。「プレイン・フィールドの屠殺解体職人」(The Butcher of Plainfield)、
「プレイン・フィールドの墓荒らし」(Plainfield Ghoul)との異名を取る。
 ウィスコンスィン州プレイン・フィールドにある墓場から死体を盗掘し、その死体の皮膚や骨を使って創り上げた「記念品」を州当局が発見したことにより、その名を知られるようになった。



 1954年に居酒屋の女主人、メアリー・ホーガン(Mary Hogan)を、1957年に金物工具店の女主人、バニース・ウォーデン(Bernice Worden)を殺害したことを告白した。
 当初、彼の精神状態は裁判には耐えられない、と判明したことで、精神療養施設に収容されていた(1968年の時点では、彼は「裁判に耐えうる」と判断されていた)。
 ゲインはバニースを殺した廉で「有罪」とされたが、法的に「正気を失っている」と判断されたことで精神病院に収容された。
 1984年7月26日、ゲインは呼吸不全(Respiratory Failure)で亡くなった。   
 プレイン・フィールド墓地内部にある自分の家族が眠るすぐ隣に、人目に付かない形で埋葬されている。

 《生い立ち》

 1906年8月27日、ウィスコンスィン州ラ・クロス郡にて、父ジョージ・フィリップ・ゲイン(George Philip Gein, 1873年 - 1940年)と、母アウグスタ・ヴィルヘルミーネ(Augusta Wilhelmine)の第2子として生まれた。
 エドワードには、ヘンリー・ジョージ・ゲイン(Henry George Gein, 1901年〜1944年)という兄が1人いた。
 母・アウグスタは1877年7月21日、父フリードリッヒ・ヴィルヘルム・リアケ(Friedrich Wilhelm Lehrke)と母アマリエ・マチルデ・フレギン(Amalie Mathilde Fregin)の間に生まれ、1900年12月11日にジョージと結婚した。 
 ドイツ人は、19世紀にウィスコンスィン州に定住した最大の移民集団であり、ヨーロッパにおける政治、社会、宗教、経済の大変動を促進した。
 アウグスタは、当時のプロイセン帝国からアメリカ大陸に移民としてやってきたフレデリックとアマリエの8人の子供の一人として生まれた。
 夫となったジョージは、ドイツ人の移民を母に持つ人物であった。
 「旧ルーテル派」(Old Lutherans)とは、ルター派による教会改革に反対し、変化を拒否し、教義の面で保守的なキリスト教徒を指す。
 ルーテル教会においては、「人間のあらゆる思考と行為は罪業と邪悪な動機に汚染されており、ゆえに全人類は地獄に堕ち、そこで永遠に続く神罰を受けるに値するのだ」と教えていた。
 アウグスタは、ジョージと結婚したのは間違いであったと思いつつも、厳格で狂信的な宗教観ゆえに離婚はせず、やがて全ての男性に対し、侮蔑の込もった目を向けるようになった。
 アウグスタは女児が欲しかったが、1906年8月に生まれたのが男児であることを知ると、ほかの男性と同じようにはしない、と決心したという。

 アウグスタは、どの仕事も長続きしないことに加えてアルコール依存症でもあった夫・ジョージを憎んでいた。
 ジョージは大工仕事、なめし革業、保険勧誘員といったさまざまな仕事に就いていた。
 ジョージは地元にある食料雑貨店の所有主であったが、のちに事業を売却し、ウィスコンスィン州プレイン・フィールドにある155エイカー(約63ヘクタール)の広さがある孤絶した農場に移住し、ここが永住の地となった。
 アウグスタは、この辺境の地に住んでいる点に付けこむ形で、息子たちに悪影響を与える可能性のある部外者・よそ者を遠ざけようとした。
 ヘンリーとエドワードは、ロシュ=ア=クリ小学校(Roche-a-Cri Grade School)に入学するが、通学時を除いて、農場から離れることは無かった。
 学校にいる時を除き、エドワードはほとんどの時間をこの農場で過ごした。
 母・アウグスタは苛烈なルーテル教会のプロテスタントであり、2人の息子に対して、「人間は生まれながらにして邪悪であり、飲酒は悪徳行為であり、そして、(自分を除いた)すべての女は淫乱であり、悪魔の手先である」という自身の信念を説教していた。
 彼女は毎日午後に、主に旧約聖書と黙示録(新約聖書の最後にある預言書的な書)の中から、死、殺人、神罰(Divine Retribution)に関する節を選び、息子たちに読み聞かせた。
 また、母アウグスタは「性行為は罪深いものであり、純潔のままでいるように」とエドワードに教え聞かせた。
 エドワードは内気な少年であり、自分自身に関する冗談を飛ばしては笑い出すが如く、一見でたらめに笑うことがあり、彼の同級生や学校の教員たちは、エドワードには独特の風変わりな癖があったことを覚えていたという。

 母・アウグスタは、エドワードが友人を持とうとすると、「その子は『よこしまな』一族の出身なんだよ」と叱り、「父のような負け犬になってはいけない」と言い聞かせた。
 エドワードの社会性の発達は哀れなものであったが、学校での成績、とりわけ読み書きはかなり優秀であった。

 《家族の死》

 1940年4月1日、父ジョージが、アルコール依存症が原因の心不全で亡くなった。
 66歳であった。
 生活費を賄うため、エドワードは兄・ヘンリーと臨時の仕事を始めた。
 地域の住民はこの兄弟について、「頼りになる正直者」と見なしていた。
 2人とも雑役夫として働き、エドワードは近所の住人の子守をやっていた。
 エドワードは子守の仕事を楽しんでおり、大人が接する以上に子供と仲良く過ごしているように見えた。
 兄・ヘンリーは、2人の子供を連れた離婚歴のある母親と交際し始め、2人で移住する計画を立てていた。
 ヘンリーは、母・アウグスタへの執心を強める弟のことが気掛かりであった。
 ヘンリーはエドワードのいる前でアウグスタを悪し様に言い、それに対してエドワードが見せた反応は動揺と精神的苦痛であった。
 1944年5月16日、ヘンリーとエドワードは敷地内の湿地帯に生えている草木を焼き払っていた。
 炎は制御不能なまでに燃え盛り、地元の消防隊が出動する事態となった。
 その日のうちに鎮火活動が終わり、消防隊員が撤収したのち、エドワードは「兄が行方不明になった」と通報した。
 捜索隊は、角燈と懐中電灯を使ってヘンリーを捜索し、やがて発見した。
 ヘンリーはうつ伏せの状態で倒れて死んでいた。
 ヘンリーの死は、「一見すると、この発見現場で死んだように見受けられる」「火傷や怪我の形跡は無く、心不全で死んだ」と判断された。
 しかし、伝記作家のハロルド・シェクター(Harold Schechter)によれば、ヘンリーの頭には打撲の跡があったという。
 何らかの犯罪が絡んでいる可能性について警察は却下し、郡の検死官はヘンリーの死因について、正式に「窒息」と発表した。
 ウィスコンスィン州当局は「事故死」として受理したが、公式の調査も剖検も行われなかった。
 ヘンリーの変死の真相については謎が多い。のちの1957年のバニース・ウォーデンの死について、州当局の捜査官ジョー・ウィリモフスキー(Joe Wilimovsky)はエドワードを尋問した際、ヘンリーの死についても尋ねた。
 事件について調べたジョージ・W・アーント(George W. Arndt)は、回顧録の中で、ヘンリーの死について「この事件における『カインとアベル』の側面である可能性が高い」と記述している。

 エドワードは母・アウグスタと2人きりになった。ヘンリーの死からまもなく、アウグスタは脳卒中を起こして体を動かせなくなった。
 エドワードは母の世話に専心した。1945年のある時期、彼ら親子は麦わらを購入するために「スミス」という名の男性を尋ねた。
 エドワードによれば、アウグスタはスミスが犬を殴る場面を目撃したという。
 スミスの家の中にいた1人の女性が外に出て、犬を殴るのを止めるよう叫んだ。だがスミスは犬を殴り殺した。
 これを目撃したアウグスタはひどく狼狽した。
 しかし、彼女を狼狽させた要因は、スミスが犬を容赦無く殺したことではなく、女性の存在であったように見受けられた。
 アウグスタはエドワードに「あの女はスミスと婚姻関係にあるわけではなく、彼女にはここにいる資格は無い」と伝えた。
 アウグスタは彼女に向かって憤然と叫んだ。「スミスの娼婦め!」。その直後にアウグスタは2度目の脳卒中を起こし、健康状態が急速に悪化した。
 1949年12月29日、アウグスタは死んだ。67歳であった。
 エドワードは母の死に精神的に打ちのめされた。ハロルド・シェクターは、母を失ったエドワードについて、「彼は唯一の友人にして恋人を失い、
 天涯孤独の身となったのだ」と表現した。

 《日々の仕事》

 ゲインは農場を手放すことなく、臨時の仕事で収入を得ていた。
 母が使っていた自宅の2階、階下の客間、居間を木の板で囲み、手つかずのまま保存した。
 建物の他の部分はますます不潔になりつつあったが、木の板で囲んだ部屋は汚れが全く無かった。
 ゲインは台所の隣にある小さな部屋に移り住んだ。
 この頃のゲインは、低俗雑誌、冒険物語、食人、ナチズムによる残虐行為を描いた読み物に興味を引かれるようになった。
 雑役夫として働いていたゲインは、1951年にアメリカ連邦政府から農業の補助金を受け取った。
 彼は時折、この地域の自治体の道路整備や脱穀作業の仕事に従事していた。
 1946年から1956年にかけてのある時期に、兄・ヘンリーが所有していた80エイカー(約32ヘクタール)の筆地も売却した。
 ゲインが道路建設の作業員として働いていたころ、彼の雇い主はゲインについて「変わり者だが、礼儀正しく、信頼に足る人物だ」と評価していた。

 《犯行発覚》

 1957年11月16日の朝、プレイン・フィールドにある金物店の女主人、バニース・ウォーデン(Bernice Worden)が姿を消した。
 住民の1人は、午前9時半ごろ、店の裏手から貨物自動車が去っていった、と述べた。
 その日は丸一日、客がほぼいなかった。一部の住民は、「鹿狩りの季節だからだ」と信じていた。
 午後5時ごろ、バニースの息子で副保安官のフランク・ウォーデン(Frank Worden)が店に入った。
 店の金銭登録機が空いており、床には血痕が見付かった。
 フランクは捜査官たちに対し、母が失踪する前の晩にゲインが店を訪れ、翌朝、1ガロンの不凍液(Antifreeze)を買うために店に戻ってきただろう、と語った。
 1ガロンの不凍液の売上伝票は、彼女が失踪した日の朝に記録した最後の領収書であった。
 この日の夕方、ゲインはウエスト・プレインフィールドにある食料雑貨店で逮捕された。
 ウォシェラ郡保安局がゲインの農場を捜索した。
 郡保安官代理は、ゲインが所有していた小屋の中でバニースの死体を発見した。
 彼女は首を斬り落とされており、両足首は横木で、両手首には縄が回されて固定されており、両脚は逆さまに吊るされていた。
 胴体は「鹿の肉を食べるのと同じ要領で、『下ごしらえ』されていた(血や内臓が抜かれていた)」。
 彼女は22口径小銃で撃たれており、ゲインは彼女を殺したあとに身体を解体した。
 家宅捜索で当局が発見したものは以下の通りであった。

 ・ヒトの骨全部とその断片

 ・ヒトの皮膚で作ったゴミ箱

 ・ヒトの皮膚で覆われた椅子

 ・寝台支柱に引っ掛けられた頭蓋骨

 ・上部が挽き切られた女性の頭蓋骨
 
 ・ヒトの頭蓋骨から作ったボウル

 ・肩から腰まで皮を剥いだ女性の胴体
  から作った体型補正下着

 ・ヒトの脚の皮膚から作った脛当て

 ・女性の頭の皮膚から作った仮面

 ・メアリー・ホーガンの顔を使って作         
  った仮面(紙袋に入っていた)

 ・メアリー・ホーガンの頭蓋骨(箱の   
  中に入っていた)

 ・バニース・ウォーデンの頭部全体     
  (黄麻布のずた袋に入っていた)

 ・バニース・ウォーデンの心臓(達磨    
  ストーブの正面に置かれてあったポ
  リ袋の中に入っていた)

 ・9つの外陰部(靴箱の中に入ってい
  た)

 ・少女用の衣装と、「およそ15歳」と判
  断された女性の外陰部が2つ

 ・女性の乳首から作ったベルト

 ・4つの鼻

 ・日除けの引き紐にくっ付いた一揃い
  の唇

 ・ヒトの顔の皮膚から作ったランプシ
  ェイド

 ・女性の指と爪


 これらの人工的遺物は、州立犯罪研究所が写真に収めたのち、「礼儀正しく処分した」という。

 捜査員からの尋問に対し、ゲインは1947年から1952年にかけて「茫然自失」の状態にあったころ、最近になって埋葬された遺体を掘り起こす目的で、地元にある3つの墓地を夜間に40回訪れた、と語った。
 墓地にいる間に眩惑状態から解放され、気分良く墓地から去り、手ぶらで帰宅したという。
 ゲインは、最近になって埋葬された中年女性、-母アウグスタに似た女性- の墓を掘り起こし、
 その死体を自宅に持ち帰り、その皮膚をなめして「道具」を作った。
 ゲインは墓地から9体の死体を盗掘した行為を認め、
 自分が死体を盗んだ箇所を捜査官に案内した。州立犯罪研究所のアラン・ウィリモフスキー(Allan Wilimovsky)は、ゲインが暴いた3つの墓を開く検証作業に参加した。棺はいずれも木箱の中に入っていた。天板は交差されていた(縦方向ではなかった)。
 箱の上部は砂質土壌の表面からおよそ2フィート(約61㎝)下にあった。
 墓がまだ仕上がっていない間に、葬儀が終わった直後にその墓を奪った。 
 ゲインがわずか一晩の間に片手で墓を掘れるかどうかについては当局は確信が持てずにおり、墓の発掘の検証作業が行われた。
 ゲイン本人が説明したとおりとなった。
 発掘された墓のうちの2つには何も入ってはおらず、そのうちの1つには、死体の代わりにかなてこが入っていた。
 てこ棒を紛失したゲインには、棺の1つが開けられなかった。
 盗んだ死体の多くは3番目の墓場に埋葬されていたものであったが、ゲインは死体が身に着けていた指輪や、身体の一部の部位については元に戻しており、これらはゲインによる告白を裏付けるものであった。

 母・アウグスタの死からまもなく、ゲインは「文字通り、母の皮膚の内部に入り込み、母・アウグスタと一体化する」ために、「女性用スーツ」を作り始めた。
 盗掘した死体との性行為(屍姦)については、「匂いが不快過ぎるんだ」と否定している。
 州立犯罪研究所の職員による尋問で、1954年以降行方不明となっている居酒屋の女主人、メアリー・ホーガン(Mary Hogan)を撃ち殺したことを認めたが、その出来事の詳細については「知らない」と答えた。
 両親がゲインの友人であり、ゲインと一緒に球技をしたり映画を鑑賞したことがある16歳の若者は、ゲインが「フィリピンから届いたものだよ」と語った干し首(Shrunken Head)を自宅に保管していたことを話した。
 ゲインによれば、第二次世界大戦中に島で従軍していた従兄弟が送ってきたものだという。
 警察による捜査の結果、ヒトの顔の皮膚であると判定され、死体から注意深く剥がされたのち、ゲインが仮面として使っていたという。
 ゲインは1953年にラ・クロス郡から失踪したエヴリン・ハートリー(Evelyn Hartley)の件を始め、他の複数の未解決事件の容疑者でもある、と見なされていた。
 ウォシェラ群保安局の保安官、アーサー・シュリー(Arthur Schley)は、ゲインへの取り調べの最中に、彼の頭と顔をレンガでできている壁に叩き付けた、と伝えられる。この行為のせいで、ゲインの当初の自白と供述は「証拠として認められない」と裁定された。
 シュリーはゲインの裁判が始まる前の1968年、心不全で死亡した。43歳であった。
 シュリーのことをよく知っていた人々の多くは、シュリーはゲインによる犯行のおぞましさに対して精神的外傷(Trauma)を負ったのだ、と語った。
 そして、このトラウマは、証言の義務に対する恐れ(とくに、尋問中にゲインを暴行したことについて)とともに、彼の死につながった。
 シュリーの友人の1人は、「シュリーは、ゲインがシュリーの身体を解体したかの如く、間違いなくエド・ゲインの餌食となったのだ」と述べた。

 《裁判》

 1957年11月21日、ウォシェラ郡裁判所に出頭したゲインは、「第一級殺人」(First-degree Murder)の訴因で罪状認否を受けた。ゲインは精神異常(Insanity)を理由に無罪を主張した。
 「精神分裂病」(Schizophrenia)と診断され、精神面でも「証拠能力が無い」と判明したゲインは裁判に耐えられるような状態ではなかった。
 ゲインはウィスコンスィン州ウァパーン(Waupan)にある、精神異常者を収容可能で最大の防犯設備がある中央州立病院に送られ、のちにウィスコンスィン州マディスンにあるメンドータ州立病院に移送された。
 1968年、ゲインを診察した医師は、「彼は弁護士と話し合えるし、自身の弁護に参加できる」との判断を下した。
 11月7日、ゲインの裁判が始まり、一週間続いた。
 証人の1人として出廷した精神科医は、ゲインがバニース・ウォーデンを殺したことについて、「殺そうという意志を抱いての行為であったのか、それとも事故死であったのかが分からない」と語った、と証言した。ゲインは精神科医に対し、ウォーデンの店にあった一丁の銃を吟味していたとき、その銃が突然火を噴いて彼女は死んだ、と説明した。
 ゲインは「小銃に弾丸を装填しようとしたあとにそれが発射された」と証言した。
 ゲインはウォーデンに対して小銃を向けてはおらず、その日の朝に起こった出来事については何も覚えてはいなかった。
 弁護側からの要請に基づき、ゲインの裁判は陪審員抜きで行われた[69]。裁判の判事を務めたロバート・H・ガーマー(Robert H. Gollmar)は、ゲインに「有罪」を宣告した。
 二次裁判では「ゲインの精神が正常か異常か」が争点となった。
 検察側と弁護側の両方に向けられた医師による証言のあと、判事のガーマーはゲインを「精神異常により、無罪」との判決を下し、ゲインについて、「精神異常者である」として中央州立病院に収容するよう命じた。
 ゲインは精神病院で余生を過ごした。
 ガーマーは「ウォーデン夫人殺害の罪でゲインが裁判にかけられたのは1度だけだ。費用が高額ゆえに。
 彼はまた、メアリー・ホーガンを殺したことも認めた」と記述した。

 《資産》

 ゲインが住んでいた屋敷と、195エイカー(約79ヘクタール)の不動産資産は、「4700ドル = 5880840円」と評価された(2019年の時点で「42000ドル」に相当する)。
 彼が所有していたものは、ゲインが住んでいた屋敷および屋敷が建っていた土地が観光名所となるかもしれない、との噂が広まっている最中の1958年3月30日に競売にかけられる予定であった。
 しかし、3月20日の早朝、屋敷で火事が発生し、燃え尽きた。副消防署長は、ゴミ処理の仕事に従事していた清掃員により、ゲインの屋敷から75フィート(約23m)離れた場所で、ゴミ焼却の炎が放たれた、と報告した。
 さらに、焚火が行われていた場所からは熱い石炭が回収され、焚火が行われていた場所から上がった炎は、地面に沿う形で屋敷に伝播していったわけではなかった。
 放火の可能性が疑われたが、火災の原因については公式に特定されることは無かった。
 当時の消防署長はゲインの犠牲となったバニース・ウォーデンの息子、フランク・ウォーデンであった。
 この火災は、緊急の要件としては対処されなかった可能性があるという。
 ゲインは勾留されている時にこの火災を知ったが、それを伝えられた際のゲインは以下のように返答した。「Just as well.」(「そりゃ結構なこった」)。
 ゲインが犠牲者の遺体を運ぶのに使用した1949年のフォード・セダン(The 1949 Ford Sedan)は競売にかけられ、謝肉祭(Carnival)の余興運営者、バニー・ギボンス(Bunny Gibbons)が落札した。
 落札額は760ドルであった(2019年の時点で6700ドルに相当)。
 ギボンスは謝肉祭の常連客に対し、それの見物料として25セントを請求した。

 《死》

 1984年7月26日、ゲインはメンドータ精神衛生研究所(The Mendota Mental Health Institute)にて、肺癌(Lung Cancer)から来る呼吸不全で亡くなった。
 77歳であった。
 ゲインの死後、「記念品」を探し求める者がおり、プレイン・フィールド墓地内部にある墓石から破片を削り取り、2000年の時点で墓石が何者かに盗まれた。
 2001年6月、スィアトル近郊でこの墓石が発見・回収され、ウォシェラ郡保安局(The Waushara County Sheriff's Department)にて保管された。 
 ゲインは人目に付かない形で、両親と兄弟の間に埋葬されている。

     〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的文學試行錯誤 ♯012

2023-07-02 21:00:00 | 編集後記/追記

 ■寓話

 『雑談ネタにもならない雑学 ♯03−B』補足として。

 ▼寓話(ぐうわ)

 比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭すことを意図した物語。名指しされることのない、
 つまりは名無しの登場者は、動物、植物、自然現象など様々だが、必ず擬人化されている。主人公が、もしくは主人公と敵対者が、ある結果をひき起こしたり、ある出来事に遭遇する始末を表現したりする本筋は、なぞなぞと同様な文学的構造を持ち、面白く、不可解な印象を与えることによって読者の興味をひき、解釈の方向を道徳的な訓話に向ける特性を持つ。民話によく見られるように、物語の語り末には寓意的な解釈を付け加えることが習慣的に行われてきた。

 ▼歴史

 〔古代オリエント

 寓話は、神話と同様にとても古い文献に発見されている。
 現時点では古代オリエントのものが最も古い。
 古代ギリシャ・ローマ以前の寓話は、アイソーポス(イソップ)以前の寓話 Ante-Aesopic fable と総称されている。
 19世紀後半から古代オリエントの楔形文字が解読され、1931年にドイツのアッシリア学者エーベリングがいくつかの文献をまとめて「バビロニアの寓話」として訳した。
 その後も文献は発掘されたが、寓話の研究は衰えた。最近ではアキモトの研究がヴァンダービルト大学から発表されているのみである。
 彼の研究によると、古代オリエント(メソポタミア、エジプト、地中海東岸、アナトリア)では、寓話は口承文学として文字以前からあり、文字の発達とともに粘土板にも現れた。
 シュメール語やアッカド語の短い寓話が、諺やその他の民話といっしょに収集された粘土板は、そのほとんどが学校の遺跡から発見されている。
 ヒッタイト語とフルリ語のバイリンガルで残る寓話集は、神話と伝説の中に盛り込まれていて、ある話し手が次から次へと寓話を語っては解釈して聞かせていくという形式をとっている最も古いもので、ヒッタイト版が紀元前1400年頃、その原本となったフル人の寓話はもっと古く、紀元前16から17世紀頃のものと推定されている。
 Ninurta-uballitsu ニヌルタ・ウバルリトゥスウの古代アッシリア寓話集は、紀元前883年に完成と記されていて、編纂者名前と編纂年の判明している最古の寓話集である。
 古代アッシリア王家の書簡の中にも寓話を使ったものが発見されている。

 〔古代ギリシャ

 寓話と言えばイソップ寓話である。彼の名を冠する寓話がこのギリシャ人の作品であるかは不明で、ヘロドトスの記述外での彼の歴史的な存在も確かではないにせよ、紀元前6世紀以降の寓話は、イソップの寓話 Aesop's fable またはイソップ的寓話 Aesopic fable と総称されている。伝説的イソップと文芸ジャンルとしての寓話は、ローマと東ローマの寓話収集家および作家の手によりギリシャ語とラテン語の文献が伝承された。

 〔インド

 サンスクリットで書かれた説話集『パンチャタントラ』では、釈迦が生まれ変わるたびに色々な動物として暮らす話を教訓的な寓話として表現している。

 〔欧州

 ギリシャ語とラテン語を読み書きするキリスト教の聖職者により、寓話は中世からルネサンス期を通じて受け継がれた。
 グーテンベルグの印刷機の発明のすぐ後に、ハイリッヒ・シュタインヘーベル(英語版)がラテン語とドイツ語のバイリンガルによる「エソプス」という題の寓話集を出版してから民間に広まっていった。
 近世には個性的な寓話作家も現れ、チョーサーやラ・フォンテーヌなどの作品はよく知られている。
  英仏: Fable(英語版)(フランス語版), 独: Fabel(ドイツ語版), 伊: Favola(イタリア語版), 西: Fábula(スペイン語版)などの各言語版ウィキペディアにある寓話の記事には、国ごとの寓話の発展が記されている。

日本

 イソップは、日本の寓話にとってもやはり元祖である。
 イソップの寓話として『伊曾保物語』は、16世紀のキリシタン(切支丹)によって日本語に翻訳され、しかも印刷されている(『イソホノファビュラス』のローマ字版は、現在大英博物館蔵)。

 ▼主な作品のひとつ
    『王様の耳はロバの耳』

 《ストーリー概要

 昔、立琴(ハープ)の神(アポロン)と笛の神(パン)がどっちの音が素晴らしいかで争っていた。
 その審査をした神たちは立琴の音が素晴らしかったと言ったが、王(ミダス帝)は「自分の耳には笛の音がよく響いた」と言う。
 怒ったアポロンは「耳がよく聞こえないのだろう。耳を大きくしてやる」と王の耳をピューンと伸ばしてロバのの耳にしてしまいます。
 このことに恥ずかしくなった王は頭巾を被って耳を隠すようになる。
  だが、床屋に髪を切ってもらう事になった時、王の耳がロバの耳であることを知ってしまった床屋は、王に口止めをされた苦しさのために、森の中の葦のちかくに掘った穴(或は井戸)の底に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ。
 数日後、穴を塞いだあとに生えた葦がその言葉を言うようになる。
 それを聞いた王は床屋が言いふらしたと思って激怒するが、床屋から事情を聞いて家来に調べさせた結果、葦が言っていることを知ると恥ずかしくなって床屋を釈放します。
 アポロンはそれを見て、「お前のその寛大な心に感銘を受けた。お前の耳を元に戻してやろう」と王の耳が元に戻りました。

 《解説

 王様の耳はロバの耳」はイソップ寓話(イソップ童話)の一つですが、その大元はギリシャ神話に登場するフリギア王国の王様ミダス(ミダース)帝の逸話です。フリギアはかつてアナトリア(現在のトルコ周辺)に実在した古代王国です。
 王様の耳はロバの耳は、元は、ギリシャ神話として伝わっていますが、発祥はトルコらしいです。

 中には「自分が知ってる物語とは違う!」という人もいらっしゃるかと思いますが、イソップ物語は中世のヨーロッパでさまざま時代を経て、その時代に合わせた教訓などを組み込まれて作り出されたものなので、多様な形の物語が出来上がっているようです。
 細かい部分で無数のバリエーションが存在します。

 《主にどこが違う?》

 ▶床屋が王様の秘密をもらさないように我慢していたせいで病気になってしまう。
 ▶我慢できなくなった床屋が「王様の耳はロバの耳ー!」と叫んだ古井戸は町中の井戸とつながっており、秘密が知れ渡ってしまった。
 床屋が自分で掘った穴に向かって王様の秘密を叫ぶと、そこから生えた葦から「王様の耳はロバの耳ー!」という声が聞こえるようになる。
 床屋が秘密を叫んだ穴から木が生えてきて、羊飼いがその枝で作った笛。
 噂が広まったことで逆に隠す必要がなくなって助かったと言って王様が床屋に褒美を取らせる。

 王様の耳はロバの耳の結末は、「最終的に床屋を許した王様の寛大さを認めてアポロンが王様の耳をもとに戻してあげる」というもの。人に対して寛大な心を持つという教訓、また真実を言う勇気が必要であるという教訓を説いたおとぎ話となっているようです。 上記のようにこの他にも多彩なバリエーションがありますが、いずれも現在にも通じるような学びを与えてくれる教訓めいた内容になっていることが、王様の耳はロバの耳という物語が長きにわたって愛される理由の一つだと思います。

    〔ウィキペディアより引用〕



 

教会の鐘&お寺の鐘 第3章

2023-06-22 21:00:00 | 編集後記/追記

 カルト教団

 歴史

 発祥

 カトリック教会などによる聖人崇敬(cult of saints)、キリスト教の聖人崇敬を行う教派では崇敬 (Cult) と礼拝・崇拝 (Adoration) は区別される、
 19世紀末にメラネシア各地で起こったカーゴカルト(cargo cult)といった用例もあるが、否定的・批判的なニュアンスは存在しない。

 20世紀初頭

 マックス・ヴェーバー(ドイツ社会学者)、エルンスト・トレルチ(ドイツのプロテスタント神学者)は、「The Social Teaching of the Christian Churches」 (ドイツ語版1912年、英語翻訳版1931年)において、「チャーチ=セクト類型」(church-sect typology)を提示し、カルト(ドイツ語でセクト:sekte)を次のように提唱した。
 「カルト」とは宗教団体の初期形態を指すとし、この段階では周辺からの迫害に遭うが市民権を得るにしたがってその迫害は減り、次第に正式な社会集団として認められるようになる。
 よって、まだ市民権を得ていない宗教団体を指す語であるとした。
 アメリカ合衆国においては、1920年頃より、アメリカ発祥のクリスチャン・サイエンスといった主要な宗教伝統に属さない、いわゆる新宗教を指して宗教社会学として、秘教的な教え、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝、緩やかな信徒集団をもつ教団を示す概念として「カルト」が用いられるようになった。
 1930年代には、保守的なキリスト教聖職者が異端と見なしたキリスト教系団体を指して使用を始める。

 20世紀中頃

 1960年代にはヒッピーらが傾倒した、東洋系等のキリスト教以外の宗教を指し、用いられるようになる。
 1970年代の宗教学者らは、意図的に宗教集団の類型として使用した。
 ハワード・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、1950年に「チャーチ=セクト類型」を見直し、非キリスト教的なスタイルを持つ新宗教を新たな類型としてセクトに含め、これを「カルト」と主張した。
 また、心霊術、占星術などの信者集団であり、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つとした。
 ジョン・ミルトン・インガー(英語版)(アメリカ社会学者)とハワード・P・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、「カルト」とは「個人主義的忘我経験や精神的身体的な癒しを求める人々による緩やかな結合であり、既存の宗教伝統から逸脱する教えをもち、それゆえに周辺社会から不審視される」とした。
 ロドニー・スターク(英語版)(アメリカ宗教社会学者)とウイリアム・シムズ・ベインブリッジ(英語版) は、「セクト」を「信仰の再確立を目指して母教会から分離した集団」とし、「カルト」を「既存の伝統から逸脱する新しい教えのもとに形成される集団」とした。
 また、カルトの組織化達成度によって以下の3つの下位類型を設定した。

 1)「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」) 新しい神秘的なものについての情報をメディアを通して知り、関心を寄せる人々をメンバーとするもの。

 2)「来談者カルト」(「クライエントカルト」) 集団のカリスマ的中心人物を人々が訪ね、来談者(クライエント)となり、セミナーやセラピーに参加する。 「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」)よりは主催者と来談者との関係は密になっている。

 3)「カルト運動」 「聴衆カルト」や「来談者カルト」ではエンターテインメントや病気快癒といった一過的で実利的な効果が求められているにすぎないが、「魂の救い」といったようなすぐに確認できない事柄を持続的に保証するための組織化が必然となる。この保証を供給する人間組織こそが「宗教」であるとした。

 デイヴィッド・モバーグ(英語版)(アメリカ宗教社会学者)は、1971年に「教団のライフサイクル論」において、カルトもしくはセクトに該当する新団体の発祥から解体までの製品ライフサイクルは以下の5段階を経ると提唱した。

 1.萌芽的組織 - 社会不安を背景とし、カリスマ性のあるリーダーが登場し、集団(カルト、セクト)が出現する。
 2.公式的組織 - 集団の目標が成文化され、部外者との差異が強調される。

 3.最大能率段階 - 合理的組織が集団を導くようになる。この頃になると集団への部外者からの軽蔑も減り、逆に集団から部外者への敵意も消える。
 4.制度的段階 - 組織運営が官僚的になり、自分たちの特権の保持を目的とするようになる。礼拝なども形式的になり、集団の会員となる資格の基準も緩む。

 5.解体段階 - 組織に腐敗が蔓延し、組織運営の官僚的機構が会員のニーズに対応できないので、退会者が増える。
 一部のリーダーや会員が信仰復興の改革運動(再生運動)を起こして成功した場合は、新しいサイクルが始まるが、そうでなければ集団は解体に向かう。

 1970年代以降

 編集 1978年、米国からガイアナに移動した人民寺院信者の900人に及ぶ集団自殺は、米国で社会問題化し、マスメディアが、社会的に危険とみなされる宗教団体を指して報道で用いるようになる。これを機に 1979年、連邦議会や州による公聴会が開催された。
 同年には、国際カルト研究会(ICSA、旧:AFF)が設立された。
 宗教学の文脈では、1970年代後半 - 1980年代にかけて、アメリカを中心に議論が尽くされた結果、「宗教社会学的な教団類型というよりも、信者の奪回・脱会を支援する弁護士,
 ケースワーカー,元信者,信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への総称的蔑称であり、特定集団に「レッテル貼り」として用いられる傾向があるという結論が得られている。
 宗教学者が、この語を、宗教社会学等の学問を根拠とする教団の分類としては用いることはない。

 指摘・論争

 現在、この言葉は宗教問題を指すとは限らず、宗教学者や神学者以外にも、臨床心理学、社会心理学、社会学等の観点により、反社会的な集団への入信から教化過程における多様な理論的な定義付けの試みがされ、「カルト論争」と呼ばれる。カルト論争は、各学問の前提条件やモデルが異なるという事情もあり、現在でも結論は得られていない。

 《宗教学者》

 カルト論研究を行う宗教学者の櫻井義秀は、マスメディアが消費するカルト論には否定的である。
 反カルト集団により「カルトによりマインドコントロールされた」と言う主張もコマーシャルと同様の手法であり、カルトと同様に反カルト集団が裁判の戦略として利用しているドグマであると主張している。
 また、言葉自体が統一教会信者の奪回・脱会を目的とした弁護士らからなる反カルト集団により、総称的蔑称として、ないしはレッテル貼りを意図して日本に紹介された概念である、
 特定団体を『カルト』であると言うことは、その団体が宗教的多様性を構成する一つの団体というよりも、一般市民に重大な危害を加える団体であるから、何らかの対処が必要だと主張することに等しいとする。
 反カルト集団により、裁判戦術の「対抗的ドグマ」として使用された際、まるで、あたかも最新の心理学ないしは宗教学の研究結果であるかのように、マスコミに紹介されたとしている。

 キリスト教学者の芦名定道は『一般的に日本人は、「特定の既成宗教を主体的に信仰している」とも言えず、むしろ何らかの宗教儀式(例えば、冠婚葬祭など)に参加しても「自分は、無宗教である!」と思っている人が多い。そのため直接的な体験よりも、主に『マスコミを介した間接的な情報によって構成された印象(刷り込み現象による影響)』で判断をする傾向にあると自著で述べている。
 マスコミの提供する情報は、それが「視聴率を獲得するため」という特性から、当然に該当する宗教団体側から見て「報道内容は、不適切だ!」と思われる事も多く、日本の宗教像全般に多大なマイナス・イメージを生じさせている。
 日本では『カルト』の用法が、『マスコミのセンセーショナルなイメージ』と共に広まったが、メディアは事件報道が主体であり、良いニュースはあまり流さないため、反社会的な団体ではない新宗教へのマイナスイメージが形成されたという指摘もある。

 宗教学者の浅見定雄(旧約聖書学者、東北学院大学名誉教授)によれば「「カルト」は厳密な学術用語としては放棄されています」「カルト問題は、宗教的問題と異なる社会問題だ」としている。

 宗教学者の島薗進は、米本和広が「カルトとは、ある人物あるいは組織の教えに絶対的な価値を置き、現代社会が共有する価値観 - 財産・教育・結婚・知る権利などの基本的な人権や家族の信頼関係といった道徳観 - を否定する宗教」と定義を示したことに対し、不適切であると批判しており、罪のない集団を「カルト」と名指すことにつながる危険性を指摘している。(ただし、以降、米本は、考えを変え、反カルト陣営の活動も問題視するようになる)

 2009年 - 2010年に、公安調査庁が、旧・オウム真理教以外で、社会通念からかけ離れた特異な活動をしている宗教団体を「特異集団」と位置づけて、情報収集を行っていた。

 《宗教団体》

 統一教会

 統一教会は、信者が脱退目的で拉致・監禁されることが相次いでいるとして、人権侵害であると抗議している。
 反カルト側の問題として、「親族による拉致監禁」により強制的な脱会カウンセリング受講、
 拉致監禁を契機として統一教会を脱会する「強制説得」を行う際に人権侵害が発生したという告発)、ディプログラミングの弊害(統一教会脱会時にPTSDを発症)、信教の自由への迫害(統一教会への信仰を理由とする侮辱、パワハラ、アカハラ)で訴訟となり、信徒側が勝訴した事例も複数存在している。

 神社本庁・日本会議

 2016年、LITERAは、週刊金曜日の同年5月27日号に掲載された反神社本庁・反日本会議派神職のインタビュー記事や安丸良夫の著書『神々の明治維新』を引用する形で以下のように主張した。

 ・(日本会議の"皇室と国民の「強い絆」が「伝統」だ"との主張に)江戸時代にはごく一部の知識階級を除き、「京都に天皇様がおられる」ということを庶民が知っていたか、はなはだ疑問だ。本来神社とは地域の平和と繁栄を祈るためのものであり、明治になって、日本という統一国家ができたので、その象徴として「天皇」を据えた。

 ・神社本庁が「本宗」として仰ぎたてた伊勢神宮は、明治になるまで一度も天皇が参拝したことはなく、とくに江戸時代に庶民のあいだでブームとなった伊勢参りは、皇室への信仰心によるものではなく、豊作を願ってのもので人気の“観光スポット”という意味合いが強かった。
 しかし、明治維新という軍事クーデターによって樹立した明治政府は、それまで民間の信仰であった神社神道を、天照大神を内宮に祀る伊勢神宮を頂点とする「国家神道」に組み替えた。
 この神話的ヒエラルキーのもと国民を「天皇の赤子」として支配しようとした。その結果が、「世界無比の神国日本」による侵略戦争の肯定・積極的推進であった。
 伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そにじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。
 そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であったのだ。

 ひかりの輪

 オウム真理教後継組織アレフから分派したひかりの輪は、アレフは麻原崇拝のカルトであるが、ひかりの輪はそれとは異なると主張し、両団体を区別するよう主張している。

 エホバの証人

 エホバの証人は、「人間の指導者をあがめ,偶像視することが,今日のカルト教団の大きな特徴をなしています」と定義し、「エホバの証人の間にそれが見られないのは,このように聖書の教えに固く付き従っているからにほかなりません。
 エホバの証人は僧職者と平信徒を区別する考えを退けます。」としている

 創価学会

 フランス国民議会で、1995年に採択されたアラン・ジュスト報告書のリストに、統一協会やエホバの証人と共に、創価学会がカルト(セクト)として名前が掲載された。
 同議会で同リストを撤回する決議は現在もされておらず、同リストは現在も有効なままである。
 この「カルト宗教のトラブル対策」は、2000年5月に出版されたものだが、その後、2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達では、1995年のセクト団体リストは使用しないとされている。
 2005年5月、当時のフランスの首相(ジャン・ピエール・ラファラン)が各閣僚と知事あてに発信した「セクトの逸脱対策に関する 2005年5月27日付通達」では「これまで行政当局の対策は、“この団体がセクトだ”というリストのみに基づいていたために、取締りと自由尊重のバランスを効果的に取ることができず、また法的根拠のしっかりとした対策もとれなかった。
 そこで、特定の団体をブラックリストに載せて危険視するのではなく、刑事犯および一般的な違法行為に相当するものを特定して処罰するために、信者の個人の自由を侵害する危険性をもつと思われる団体を監視することが決定された。」と掲載されている。
 先の2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達には「この首相通達は、1995年のセクト団体リストは使用せず、事実に基づいた理論によって調査範囲を広げ、調査対象を既知の団体に限定しないよう、明確に強調している。」「頻繁に使用されている『セクト』という概念は、法的概念ではなく、事実に基づいた概念である。ゆえに、ここで重要なのは『公共秩序』なのである。」と言及されている。

 「Le Monde des Religions」2011年9月号の中でMIVILUDESのジョルジュ・フネック会長(当時)は、フランス創価学会運動体について、「MIVILUDESは、創価学会に関するセクト的行為の報告を五年以上前から受けていない。
 創価学会は、宗教活動と事業活動を分離しており、少なくともフランスにおいては問題組織ではない。」と述べている。  
 創価学会自身は、現在、創価学会はセクトとして取り扱われていないと主張をしているが、それに対し、FORUM21 通巻321号は以下の通り反論をしている。
 まず83年に行われた「ヴィヴィアン報告」について、創価学会の機関紙・創価新報(22年9月号)が報じたデルソル弁護士のインタビュー記事の「一人の脱会者による狂言を検証することなく鵜呑みにし、引用したものであり、のちにそれを無批判に取り上げたメディアも裁判で断罪された」とする指摘に対する反論である。 FORUM21 通巻321号によると、「83年の「ヴィヴィアン報告」のための調査時、創価学会(当時は破門前なので日蓮正宗フランスと呼称)については、一人の脱会者の話だけに依拠してしまった。
 内容は正しかったのだが、証言者がいい加減で後になって創価学会と和解して翻した」という。そのため「こんな大失態があったので、二度目の調査では創価学会については特に慎重を期した。」としており「その結果に基づいてフランス国会は創価学会を「セクト」とした。」と主張している。
 次に内務大臣が96年2月29日に 「セクト的運動の枠内で人と財産に対してなされた侵害」に対策を求める通達を出したことを紹介し、そこに「95年国会報告のセクトリストが添付されており、その中に創価学会がある。」ことを指摘している。
 さらに「MIVILUDESの03年報告書では、国会報告にリストアップされていないことを「正常の証」とすることを問題視する記述があったが、「リストから外せ」という動きについてもこんな記述をしている。
 《いずれにしろ、この国会の代表が作成したリストは、国会の代表によってしか修正できない。
 かくして、MIVILUDESは、「リストから外す」ことを求める運動に対してつねに三権分立という憲法の原則を喚起している》」と記している。

 加えて、FORUM21の発行人の名誉毀損裁判で創価学会側が証拠として提出した08年5月21日付のMIVILUDESルレ本部長(当時)の書簡に「《1995年のリストにつきましては、首相令に則り、国家関係機関はそれを援用することはまったくありませんが、三権分立の原則により、それを改正もしくは解消することは、同機関の権限ではありません》(創価学会側訳) 」(同機関とはMIVILUDESのこと )と記されていることを明示。
 「リストに拘泥・束縛されずに「危険性の基準」に基づいて対策を取るのだから「援用」はしない。
 そして「リストから外す」ことも、三権分立の上から行わないということ 」と訴えている。 さらに2022年8月25日付の「聖教新聞」に「08年と11年にも同国の政府機関は『創価学会には逸脱行為は認められない』と発表しているのです」とあるが「MIVILUDESはじめ、政府が公式に発表したことはない」と主張している。
 最後に、「セクトと子供」調査時のMIVILUDESルレ本部長の「セクト的組織は多くの分野にいます。 最近私達は創価学会の雑誌の中で小学校の教員が『師』からうけた教えを子供たちとのコミュニケーションの中で実践していると自画自賛するのを読みました。
 唖然としてしまいました」(報告書付録証言集)という証言を引用し、「唖然としたのは公務員の宗教的中立に反することだからである。あきらかに共和国の基本原則の侵害の違反であり、子供の囲い込みに通じる。
 この証言は、創価学会が常に警戒の対象となっているという何よりの証拠である」と批判している。さらに「2020年、MIVILUDESに創価学会について10件の通報があった。」としている。

     〔ウィキペディアより引用〕



教会の鐘&お寺の鐘 第2章

2023-06-21 21:00:00 | 編集後記/追記

 ■ カルト教団

 カルト(英: cult)

 「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である。
 フランス語(仏: culte)
 宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。
 現在では、犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して使用される。

 《概要

 米国で伝統的に異端的なキリスト教や新宗教に対して使われた言葉である。
 特に1978年に発生した人民寺院事件以降、反社会的な宗教団体に対して「カルト」という言葉がマスメディアで使われ、警戒が呼び掛けられた。
 日本では1990年頃にこの概念が導入されたが、メディアはこの用語に関して慎重な使い方をしている。
 精神科医のロバート・J・リフトンは、カルトの特徴として、崇拝の対象となるカリスマ的リーダーの存在、強制的説得と思考改革、リーダーによる一般会員の経済的・性的・心理的搾取の3つを挙げているほか、
 科学史家のマイケル・シャーマーは宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した。

 ・集団の指導者に対する崇拝
 聖人あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。

 ・指導者の無謀性
 絶対に間違いを犯さないという確信。

 ・指導者の知識の広さ
 哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受けいれる。

 ・説得のテクニック
 新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。

 ・秘密の計画
 集団は絶対的な真理と道徳観を持ち、信仰の真の目的と計画が曖昧であり、新規入信者や一般大衆には明確に提示されていない。

 ・欺瞞
 入信者や信徒は、指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。

 ・金銭及び性的な利用
 金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得される。
 指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。

 ・絶対的な真理
 さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見出した究極の知識に対する自信。

 ・絶対的な道徳観
 指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しく当てはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。
 その道徳の基準にきちんとしたがえば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。

 日本でカルトとみなされている宗教団体の数は多くない。
 1995年の地下鉄サリン事件や反対派へのVXガス襲撃事件等の凶悪犯罪を繰り返したオウム真理教は破壊的カルトとみなされている。
 旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)も祟りや因縁を騙り、壺や印鑑、多宝塔を詐欺的手法(霊感商法)で販売した信者が有罪判決を受けたり、教団の使用者責任・監督責任が裁判所で認定されたこと、性差別的な教義などからカルトとみなされている。
 その他にも、成田ミイラ化遺体事件を引き起こしたライフスペース、違法行為こそ行っていないがその特異な行動が注目されたパナウェーブ研究所、信者に対する性暴力が問題視された摂理(キリスト教福音宣教会)もカルトとみなされるほか、浄土真宗セクトの親鸞会や日蓮正宗派生の顕正会、自己啓発セミナーなども布教・教化方法に問題があるとされ、カルト視されることも少なくない。
 日本においては戦後、国家機関による特定集団をカルトと名指しする例は一切存在しなかったが、2022年12月9日の参院消費者問題特別委員会において、岸田内閣の河野太郎消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、反社会的な集団である「カルト」に当たるとの認識が示した。
 政府は「社会的に問題がある団体」(岸田文雄首相)との説明にとどめている。

 また、カルトが行う勧誘やメンバーの支配の手法としてマインド・コントロールが合わせて論じられる。
 例えば、三菱総合研究所と大学生協はカルトによるマインド・コントロールを大学生活で注意すべき危険とし、大学生に向けて注意喚起を行っている。

 《カルトの分類

 ▼破壊的カルト



ジム・ジョーンズは人民寺院の指導者として知られる。

 破壊的カルトとは、一般にそのメンバーが故意にグループの他のメンバーや外部の人間を傷つけたり殺したりしたグループのことを指す。宗教的寛容を啓蒙するオンタリオ州の団体は、この用語の使用を「メンバーまたは一般大衆の間に生命の損失を引き起こした、
 または引き起こす可能性がある」宗教団体に特に限定している。
 反カルト団体である国際カルト研究協会の事務局長である心理学者のマイケル・ランゴンは破壊的カルトを「メンバーや勧誘を利用し、時には身体的・心理的に損害を与える高度に操作的な団体」として定義している。
 精神科医のジョン・ゴードン・クラークは、全体主義的な統治システムと金儲けの強調が破壊的なカルトの特徴であると主張している。
 『カルトと家族』で著者は破壊的カルトを精神病質症候群として定義するシャピロを引用し、その特徴は以下のようなものであると主張する。「行動や人格の変化、個人的アイデンティティの喪失、学業活動の停止、家族からの疎外、社会への無関心、カルト指導者による顕著な精神支配と奴隷化」である。
 ラトガース大学の社会学者ベンジャミン・ザブロッキの意見では、破壊的カルトはメンバーに対する虐待が生じるリスクが高く、それはメンバーがカリスマ的リーダーを崇拝し、リーダーが権力によって堕落することに一因があると述べている。
 バレットによれば、破壊的カルトに対してなされる最も多い告発は性的虐待であるという。神学者のクラネンボーグによれば、メンバーに標準治療を利用しないように指導するグループは危険である。
 これは身体的・心理的被害に及ぶこともある。

 一部の研究者は、破壊的カルトという用語の使い方を批判し、それは必ずしも自分自身や他者にとって本質的に有害ではないグループを表現するために使われていると主張している。
 ジョン・A・サリバは彼の著書の中で、この用語は過度に一般化されていると主張し、人民寺院を「破壊的カルトのパラダイム」として見ており、この用語は集団自殺を暗示していると考えている。

 ▼ドゥームズデー・カルト

 ドゥームズデー・カルトは終末論や千年王国を信じる集団を表すのに使われる表現であり、災害を予測する集団とそれを起こそうとする集団の両方を指すのに使われることがある。
 1950年代、アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーと彼の同僚は、シーカーズと呼ばれる小さなUFO宗教のメンバーを数ヶ月間観察し、カリスマ的指導者からの予言が失敗する前と後のメンバーの会話を記録し、その研究を後に出版した。
 1980年代後半、ドゥームズデー・カルトはニュース報道の主要なトピックであり、一部の記者やコメンテーターは彼らを社会に対する深刻な脅威と捉えていた。
 フェスティンガーとリーケン、シャッターによる1997年の心理学研究は、人々が主流の運動で繰り返し意味を見出せなかった後に、激変的な世界観に転向することを発見した。
 人々はまた、多くの人が予言的に時代の終わり、つまり世界の終わりを示すと予測された世紀の変わり目のような世界的な出来事に意味を見出そうと努力する。
 古代マヤ暦は2012年で終わるが、人々の多くがこの年に地球を揺るがす壊滅的な災害が起こるだろうと予測した。

 《政治的カルト

 政治的カルトとは、政治活動やイデオロギーに主な関心を持つカルトである。
 政治的カルトと呼ばれるグループは、主に極左や極右の思想を流布し、ジャーナリストや学者から注目されている。
 デニス・トゥーリッシュとティム・ウォルフォースは、彼らがカルトとする米国と英国の約12の組織について述べている。
 別の記事でトゥーリッシュは、次のように述べている。

 『カルトという言葉は、本稿が説明しようとするように、濫用される言葉ではない。
 それは機能不全に陥った様々な組織で観察される特定の一連の慣行に対する略語表現にほかならない』

 1990年、ルーシー・パトリックは次のようにコメントしている。

 『我々は民主主義の中で生きているが、カルト的行動はリーダーの判断を疑おうとしないこと、部外者を軽んじること、反対意見を避ける傾向の中に現れている。
 成熟した人間には不適切な依存欲求があることを認識し、反権威主義的な教育を強化し、個人の自律性と自由な意見交換を奨励することによって、社会はカルトを克服できる』

 イランでは「ホメイニ教団」が「世俗宗教」へと発展していった。イランの作家であるアミール・タヘリによれば、ホメイニはイマームと呼ばれ、「十二イマーム派を十三人のカルトに」している。
 ホメイニの像は巨大な岩や山の斜面に刻まれ、祈りは彼の名で始まり、終わり、彼のファトワは彼の死後も有効である(シーア派の原則に反することである)。
 また「神、コーラン、ホメイニ」や「神は一つ、ホメイニは指導者」といったスローガンは、イランのヒズボラの鬨として用いられている。
 ホメイニの写真は今でも多くの官庁に飾られているが、1990年代後半には「ホメイニの崇拝は色あせていた」とも言われている。

 ▼ラルーシュ運動

 ラルーシュ運動は、リンドン・ラルーシュと彼の思想を推進する政治的・文化的ネットワークである。
 世界中の多くの組織や企業を巻き込み、キャンペーンや情報収集、書籍や定期刊行物の出版などを行っている。
 『ニューヨーク・タイムズ』紙はこの団体を「カルト的」であるとしている。
 この運動は1960年代の急進的左派の学生運動の中で発生した。
 1970年代から1980年代にかけて、アメリカでは何百人もの候補者が「ラルーシュ・プラットフォーム」に基づいて民主党の州予備選挙に立候補し、リンドン・ラルーシュは大統領候補として繰り返しキャンペーンを行った。
 しかし、ラルーシュ運動はしばしば極右とみなされる。
 1970年代から1980年代にかけての最盛期には、ラルーシュ運動は私的な諜報機関を発達させ、外国政府と接触した。

 ▼アイン・ランド協会

 アイン・ランドの信奉者は、彼女の生前は経済学者のマレー・ロスバードによって、その後はマイケル・シャーマーによってカルトと特徴づけられている。
 ランドを中心としたグループは「集団」と呼ばれたが、現在は消滅し、現在のランドの思想を発信する主なグループはアイン・ランド協会である。
 この集団は個人主義的な哲学を提唱していたが、ロスバードは「レーニン主義」的な組織であると主張している。

 ▼統一教会

 朝鮮半島北部出身の文鮮明によって設立された統一教会(統一運動としても知られる)は強い反共産主義の立場をとっている。
 1940年代、文は大日本帝国に対する朝鮮独立運動で共産主義者と協力した。しかし、朝鮮戦争(1950年-1953年)後は、反共主義を公言するようになる。
 文は民主主義と共産主義の間の冷戦を神と悪魔の最後の対立と見なし、その最前線として朝鮮半島の分断があるとした。
 統一運動はその創設後すぐに、蒋介石が1966年に中華民国(台湾)の台北で設立した世界自由民主連盟や、「ラジオ・フリー・アジア」を後援する国際パブリック・ディプロマシー組織である韓国文化自由財団などの反共組織の支援を開始した。
 1974年、統一教会は共和党のリチャード・ニクソン大統領を支持し、ウォーターゲート事件の後に彼のために結集し、ニクソンはそれに対して個人的に感謝した。
 1975年、文はソウルの汝矣島で北朝鮮の軍事侵略の可能性に対する政府主催の集会で、約100万の聴衆を前に演説した。 
 統一運動は、多くの人が第三次世界大戦と核によるホロコーストにつながる可能性があると述べたその反共主義的な活動のために、主流と新興の両方のメディアによって批判された。
 1977年、アメリカ合衆国下院の国際関係委員会国際機構小委員会は、韓国の情報機関であるKCIAがアメリカとの政治的影響力を得るためにこの運動を利用し、一部のメンバーが議会事務所でボランティアとして働いていたことを明らかにした。委員会はまた、ニクソンを支持する統一教会のキャンペーンに対するKCIAの影響の可能性を調査した。
 1980年、統一教会はニューヨークに拠点を置く反共産主義教育組織であるカウサ・インターナショナルを設立した。 
 1980年代には21カ国で活動していた。アメリカでは、福音派やキリスト原理主義の指導者のための教育会議[58]や、上院議員、ヒスパニック系アメリカ人、保守派活動家のためのセミナーや会議を後援した。

 1990年4月、文鮮明はソビエト連邦を訪問し、ミハイル・ゴルバチョフと会談した。文はソビエト連邦で進行中の政治的・経済的変革への支持を表明した。同時期に統一運動は旧共産圏の国にも拡大した。
 1994年、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、統一教会の政治的影響力を認め、「アメリカにおける保守的な大義に外国の財産を注ぎ込んでいる神権勢力」であると記述した。
 1998年、エジプトの新聞『アル・アハム』は、文の「極右的傾向」を批判し、イスラエルの保守派の首相・ベンヤミン・ネタニヤフとの個人的関係を示唆している。
 統一教会はまた、『ワシントン・タイムズ』、『インサイト・オン・ザ・ニュース』、『ユナイテッド・プレス・インターナショナル』、『ニュースワールド・コミュニケーションズ・ネットワーク』を含むいくつかのニュースメディアを所有している。
 『ワシントン・タイムズ』のオピニオンエディターのチャールズ・ハートはワシントンDCで最も早い時期にドナルド・トランプを支持した人物の1人だった。 
 2018年にハートはトランプをロナルド・レーガン、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア、マーガレット・サッチャー、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世と並ぶ人物とみなし、「自由の偉大なチャンピオン」としている。
 2016年に『ワシントン・タイムズ』は特定のアメリカ合衆国大統領候補を支持しなかったが、2020年の再選に向けてトランプを支持した。

 ▼労働者革命党

 イギリスでジェリー・ヒーリーにより指導され、女優のヴァネッサ・レッドグレイヴに強く支持されていたトロツキー主義の政党である労働者革命党(WRP)は、トロツキスト運動に関わるグループ外の人物によって、1970年代から1980年代にかけてカルトであった、あるいはカルト的特徴を示す集団であったと説明されてきた。
 ウォルフォースとトゥーリッシュもそのようにみなしており[74]、元メンバーであるボブ・ピットも同団体を「カルト的特徴」を持っていると認めている。

 ▼グロイバー軍団

 グロイパー軍団は白人至上主義、キリスト教ナショナリズム、インセルの思想を吹き込まれたオルタナ右翼の派閥である。
 この運動のかつてのリーダーの複数は、ニック・フエンテスがそれをカルトのように指導していると非難し、フエンテスが支持者に絶対的な忠誠心を要求し、それを濫用していると批判している。
 フエンテスは「カルト的なメンタリティ」を持っていると賞賛し、自身の運動をカルトと「皮肉を込めて」認めている。
 グロイパー軍団は2021年の合衆国議会議事堂襲撃事件に参加したことでも知られる。

 《経済カルト

 心理学者のスティーブン・ハッサンは、アムウェイやタッパーウェアに代表される連鎖販売取引(マルチ商法、またはMLM)をカルトとみなしている。
 これらは短期間で大規模な利益を得られると謳うが、しばしば急激な投資を必要とし、大半の参加者は資産を失うことになる。MLMはカルトの勧誘に使われる戦術を応用して参加者を集める。
 「ラブ・ボミング」という戦術は、愛情を浴びせることで人を引き込もうとするもので、例えば、ビジネス経験のない女性に対しても「あなたはビジネスをするために生まれてきたのです」と言う。
 情報統制も経済カルトがよく使う手口であり、MLMは会員に対して、ソーシャルメディア上でMLMを批判する人間を「ブロック」するように指導する。
 参加者が勧誘時に謳われたような利益を得られていないことに気づいたとき、グループの上司は「成功しないのは努力が足りないからだ」と叱責する。
 また、参加者を辞めたいと申し出れば、罪悪感を抱くように非難される。
 このほかにも、MLMの勧誘はたびたびカルトが使うマインド・コントロールの手法と結びつけて論じられる。
 MLMはロビー活動に多額の資金を費やしており、また権威付けのために著名人や財界人に多額の講演料を払っている。
 例えば、元アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプはいくつかのMLMのグループに関与していた。

 《一夫多妻カルト(ポリガミーカルト)

 一夫多妻制を提唱し、実践するカルトは、少数派ではあるが古くから指摘されている。
 北米には約5万人のポリガミーカルトのメンバーがいると推定されている。
 しばしば、ポリガミーカルトは法的権威と主流の社会の両方から否定的に見られ、家庭内暴力や児童虐待の可能性に結びつけられ、関連する主流の教団に対する否定的な認識も加わって見られることもある。
 1830年代から、末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、またはモルモン教)の教会員は一夫多妻制、または複婚を実践していた。1890年、LDSの総裁であるウィルフォード・ウッドラフは、LDSが新たな複婚を行わないことを発表する宣言を発表した。
 反モルモン感情は薄れ、ユタ州の州権獲得への反対運動も弱まった。アメリカ合衆国上院のリード・スムートによる1904年の聞き取り調査では、LDSのメンバーが今だに一夫多妻を行っていることを記録し、教会に第二の宣言書を発行させ、再び新たな複婚の実行を中止させた。
 1910年までに、末日聖徒イエス・キリスト教会は新たな複婚を行った者を破門した。
 1890年の宣言の施行により、様々な分派が複婚の実践を続けるために末日聖徒イエス・キリスト教会から離脱した。
 そのようなグループはモルモン原理主義者として知られている。例えば、末日聖徒イエス・キリスト原理主義教会はしばしば一夫多妻制のカルトとして記述される。

 《人種差別的カルト

 クー・クラックス・クランの儀式(1915年) 社会学者・歴史家のオーランド・パターソンは、南北戦争後にアメリカ南部で発生したクー・クラックス・クランを異端のキリスト教カルトとし、またアフリカ系アメリカ人等への迫害を、人間の生贄の一形態として記述している。
 19世紀から20世紀初頭にかけて、ドイツとオーストリアにおけるアーリア人種至上主義カルトの存在はナチズムの台頭に強く影響を与えた。
 現代のアメリカにおけるホワイトパワー・スキンヘッドグループは、破壊的カルトとして特徴付けられるグループと同じ勧誘手法を用いる傾向にある。

 《テロリストカルト

 精神科医のピーター・A・オルソンは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンをジム・ジョーンズ、デヴィッド・コレシュ、麻原彰晃、マーシャル・アップルホワイト、リュック・ジュレ、ジョセフ・ディ・マンブロなど特定のカルト指導者と比較し、これらの個人のそれぞれが、自己愛性人格障害の9項目のうち少なくとも8項目に該当するとしている。
 カール・ゴールドバーグとバージニア・クレスポは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンを「破壊的カルトの指導者」として言及している。
 アメリカ心理学会(APA)の2002年の会合で、スティーブン・ハッサンはアルカイダが破壊的カルトの特徴を満たしていると述べ、次のように付け加えた。

 『私たちは破壊的なマインドコントロールのカルトについて知っていることを適用する必要があり、これは対テロ戦争における優先事項であるべきである。
 私たちは人々がどのように勧誘され、教化されるかという心理的側面を理解する必要があり、それによって勧誘を遅らせることができる。
 カルトの元メンバーのカウンセリングに協力し、そのうちの何人かをテロとの戦いに利用することも必要である』

 『タイムズ』に掲載されたアルカイダに関する記事の中で、ジャーナリストのメアリー・アン・シーガートはアルカイダが「古典的なカルト」に似ていると書いている。

 『アルカイダはカルトの公式な定義にすべて合致している。
 それはメンバーを教化し、閉鎖的で全体主義的な社会を形成し、自称メシア的でカリスマ的なリーダーを持ち、そして目的が手段を正当化すると信じている』

 アルカイダと同様に、ISILもさらに過激で純血主義的なイデオロギーを信奉している。
 その目的は、宗教指導者の解釈によるシャリーアによって支配される国家を作ることであり、彼らは健康な男性メンバーを洗脳して、教会やシーア派のモスクなど、計画的に選定された民間人を含む敵に対して、自動車爆弾などの装置を使って特攻するよう命じている。
 メンバーはこれを正当な行為、義務であるとさえ考えており、この政治的・軍事的行動の究極の目標は、最終的に集団のイスラム教の信念に従って世界の終わりをもたらし、彼らの敵のすべて(すなわち彼らの側にいない者)が全滅する終末論的最終決戦に参加する機会を持つことである。
 そのような試みは2017年に失敗に至ったが、生き残りの大部分がテロリズムに回帰した。

     〔ウィキペディアより引用〕