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事実と真実 第三話

2023-09-30 21:00:00 | 千思万考

 ■黄昏れてフィリピン
     ~借金から逃れた脱出老人~

 フィリピンで新たな人生をつかもうと日本を脱出した二人の男が主人公。
 彼らは、それぞれ日本で結婚をし、子供を育て仕事に励んでいた普通の日本人だが、人生の歯車が狂った。
 マナブさんは、マニラ郊外で底辺の仕事を続け、その日暮らしを送っている男。
 パートナーは、現地で知り合った31歳も若いフィリピン人妻。日本に残した一人息子の自殺を知り悲嘆にくれ、新たな家庭を築こうと必死にもがいていた。
 だが、そこに事件が起きる。
 サダオさんは偽装結婚でフィリピンに渡ったものの騙され、そのまま不法滞在を続けざるを得なくなった男。
 日給500円程度の貧困に喘ぎながら生活していた。
 そして、海を渡って10年、サダオさんに帰国のチャンスが巡ってきた…。
 かつては幸せを夢見た日本人たちがフィリピンに賭ける残りの人生。
 異国の地で再挑戦を図る二人に、待ち受ける結末とは…?

 フィリピンで綱渡り人生 借金500万円から逃れた「脱出老人」

 フィリピンパブで出会った女性を追い掛け、借金500万円超を残したまま現地へ渡った「脱出老人」待っていたのは不法滞在、困窮生活……。
 「海外で悠々自適なセカンドライフ」という美辞麗句とはかけ離れた一人の男の人生を追った。

 いつもは気の優しい、南国の日に焼けた長身の男が、その時ばかりは珍しく声を荒げていた。
 「俺は綱渡りのような人生なんだから。ダメなものはダメ。それでも撮影を続行し、その綱を切るようなことをしたら、俺に迷惑が掛かるでしょ? そうしたら俺の面倒を見てもらえますか?」 

 私たちが男の職場をビデオカメラで撮影させて欲しいと頼んだところ、男は「ボスの許可がないとダメだ」と言い張り、ついカッとなったのだ。
 その時に男の口から咄嗟(とっさ)に出た「綱渡り」という言葉が、フィリピンにおける彼の人生を象徴しているようだった。

 年の瀬も押し詰まった2018年12月25日のクリスマス。
 日本から海をまたいだ南国、フィリピンには、朝から抜けるような青空が広がっていた。
 私たちのクルーは、ドキュメンタリー番組の撮影のため、マニラから車で2時間ほど走った地方都市を訪れていた。
 取材協力者の日本人男性、吉岡学さん (仮名、56歳)に会うためで、老朽化が目立つ一軒家に到着すると、吉岡さんは真っ赤なTシャツに短パンといったいで立ちで、タバコをふかしていた。

 ❖「幸せは金じゃない」

 吉岡さんの職場は、地元フィリピンの食品運送会社だった。
 鶏肉をトラックで運送する仕事である。
 同僚は全てフィリピン人だから、仕事上のやりとりはタガログ語だ。

 吉岡さんの仕事は深夜から始まる。トラックの助手席に乗り、鶏肉加工場に着いたら大量の鶏肉をトラックの荷台へ運び込む。
 搬送先は大手スーパー。高速道路を数時間かけて走り、目的地へ到着する頃には明け方近くになっている。

 入口のゲート付近に段ボールを敷き、そこで数時間の仮眠を取る。
 鶏肉を全て卸したら、午前中に会社まで帰宅する。
 それで日当は最低賃金を少し上回る500ペソ(約1000円、1ペソ=約2円)。31歳年下のフィリピン人妻、ロナさん(25歳)も同じ職場で事務をこなし、6歳の息子1人を育てながら、つましく暮らしている。
 しかもビザを更新するお金がないから、不法滞在だ。
 2004年にフィリピンへ渡って以降、もうかれこれそんな困窮生活が15年近く続いている。
 だが、そこに悲愴感はない。それどころかフィリピン人に囲まれながらわきあいあいと、今を生き抜いているのだ。

 入口のゲート付近に段ボールを敷き、そこで数時間の仮眠を取る。
 鶏肉を全て卸したら、午前中に会社まで帰宅する。
 それで日当は最低賃金を少し上回る500ペソ(約1000円、1ペソ=約2円)。31歳年下のフィリピン人妻、ロナさん(25歳)も同じ職場で事務をこなし、6歳の息子1人を育てながら、つましく暮らしている。
 しかもビザを更新するお金がないから、不法滞在だ。
 2004年にフィリピンへ渡って以降、もうかれこれそんな困窮生活が15年近く続いている。
 だが、そこに悲愴感はない。それどころかフィリピン人に囲まれながらわきあいあいと、今を生き抜いているのだ。 フィリピンの在留邦人は現在、約1万7000人に上る。
 主に政府機関職員や民間企業の駐在員、現地採用人員、そして年金移住組に分かれる。
 特に年金移住組については「海外で悠々自適なセカンドライフ」などとメディアで紹介されることが多い。
 しかし、生活を始めてみると、必ずしもそれが実態に即しているわけではなく、美辞麗句だったことに気付かされる。
 日本の文化的価値観を持ち込み、交通渋滞や停電などフィリピンの不便さに不満を並べ立て、フィリピン人と衝突する移住者が少なくないからだ。
 ところが吉岡さんは、フィリピン人社会に溶け込み、在留邦人の中でも最も現地化していると言っても過言ではないだろう。

 そんな自身の人生を、吉岡さんはこう振り返っている。

 「日本の方が生活面では快適だけど、規則で縛られる社会は窮屈だし、幸せではなかったね。
 今の方がずっと幸せです。幸せは金じゃない。
 フィリピンは少ないお金でも大勢の家族で一緒に暮らしている。
 そういう家族のつながりがこの国のいいところ。
 でも日本は人と人のつながりが薄いですよね。
 だから孤独死のようなことが起きるんです」

 日本では2040年、1人暮らしの独居世帯が全体の3割を超えると推測されている。
 孤独死は増加の一途を辿(たど)っており、日本の超高齢化社会が抱える問題に鑑みると、吉岡さんのように海外へ脱出するという生き方は、もう1つの幸せの形を示しているかもしれない。

 ❖井戸で水くみ、芋の葉を食す

 私が吉岡さんと出会った7年前、彼は今の一軒家とは異なり、貧困層が集まるスラムで暮らしていた。
 その民家は妻、ロナさんの自宅で、コンクリートブロックを積み上げた壁に、トタン屋根を張り合わせただけの家屋だった。
 広さは約30平方メートル。そこでの生活は井戸水をくむことから始まった。自宅に水道が敷かれていないためだ。

 「ガッチャ、ガッチャ、ガッチャ……」

 井戸のポンプが上下する一定のリズム音が早朝の静けさの中に響き渡り、がたいの大きい吉岡さんは、慣れた手つきで井戸水をくみ上げる。
 バケツ2杯分を満たしたら自宅へ戻り、くみたての水を手にして顔をサッとひと洗い。

 続いて朝ご飯の支度。
 前日の残りの冷や飯を鍋から皿に盛り、鍋を洗う。
 そしてコメと井戸水を鍋に入れ、裏庭で七輪の上に載せてたばこを一服。
 鶏が勢いよく鳴く声がそろそろ辺りから聞こえる。
 タバコを吸い終わった吉岡さんは、外に生えている香草を抜き取り、小さく折り畳んで鍋の中へ入れた。

 この香草とお酢を入れて一緒に炊くと、質の悪いコメでもおいしいコメに化けるんです」

 そう得意げに説明する吉岡さんの朝はとにかく忙しい。

 コメが炊きあがるまでの間、近くの雑貨屋へ卵などの買い出し。
 自宅に戻ると、外に生い茂っている雑草の中で、吉岡さんは腰をかがめて両手をもそもそと動かしていた。
 尋ねてみると、吉岡さんの声が向こうから聞こえた。

 「芋の葉っぱを取っています」

 燦燦(さんさん)と降り注ぐ朝日を背に浴びながら、吉岡さんが芋の葉を摘(つ)んでいる姿は原始的で、遠くからだと人類に似た野生動物のように思われた。

 ❖妻は31歳年下

 ようやく寝室から台所に現れた、白いTシャツ姿のロナさんは、吉岡さんとの間にできた生後8カ月になる息子をあやしている。
 一緒に住むロナさんの父親も、さっきから裏庭にある鶏小屋で餌をやっていて、吉岡さんの作業には目もくれない。

 「あいつら何も手伝わないでしょ? むかつくんですよ」

 そう吉岡さんが言ったのも束(つか)の間、七輪の火が消えた。

 「火が消えたやないか。お前がちゃんと見てないからや!」

 吉岡さんはタガログ語でロナさんを叱る。
 ロナさんは子どもの面倒を見なくてはいけないからと私に説明するが、間髪入れず吉岡さんの突っ込みが入る。

 「子どもがいなかった時も何もやってないじゃないか!」

 この2人、別に不仲ではない。

 ロナさんとは数年前に知人の紹介で知り合った。
 タガログ語ができる日本人ということで、すぐに打ち解けたようだ。
 やがて吉岡さんのアパートへ遊びに来るようになって同棲生活を始め、続いて吉岡さんがロナさんの自宅へ転がり込んだ。

 ロナさんは小柄でやせ形、目尻が下がった顔はまだあどけなさが残っており、31歳離れた吉岡さんと並ぶとまるで父と娘のようである。

 吉岡さんはこの自宅から徒歩圏内の縫製工場で、幼児服のアイロン掛けをする作業員として働き、日当200ペソ(約400円)を稼いで家族を養っていた。

 できあがったこの日の朝食は、庭で摘んだ芋の葉っぱのニンニク炒めと卵焼き、それにガーリックライス。

 「素っ気ない味ですけど。どうぞ」

 と私に勧める吉岡さんは、ご飯にむしゃぶりつくように食べた。

 「僕の生活はサバイバルそのものでしょ?」

 まさにその言葉通りの暮らしだった。

 ❖仕送り続けて借金まみれ

 フィリピンへ渡る「脱出老人」たちの中には、フィリピンパブで出会った女性を追い掛ける者がとにかく多い。
 吉岡さんもご多分に漏れず、その1人だった。

 吉岡さんは、四国のとある山間の町で生まれ育った。
 地元の高校を卒業してから大手警備会社で働き続けていたある日、同僚からフィリピンパブに誘われたのが全ての始まりだった。

 「指名した女の子は正直、それほど好みではなかった。でも楽しかったんですよ。
 その子が片言の日本語で話すのが面白くて。それで次の週の日曜日にデートしようという話になりましてね」

 その時に出会った18歳のフィリピン人女性と結婚し、子ども2人が生まれた。大手警備会社を辞め、彼女の紹介でフィリピンパブの店長に。
 県営住宅で暮らす傍ら、母国に住む彼女の家族に仕送りを始めた。
 生活費として毎月数万円を送金したが、これに加えて彼女から告げられた緊急事態に、何度も対応する羽目になった。

 「母親が乳がんに冒され、医療費が必要になったの」

 「妹が失恋し、洗剤を飲んで死にそうになっているの」

 断れない性格の吉岡さんは、そう言われるたびに銀行や消費者金融から金を借りまくり、送金を続けた。
 借金した銀行や消費者金融は8社。
 それに闇金業者を合わせると総額は500万円を超えた。
 少し考えればおかしいと気付くものだが、吉岡さんは困った表情で当時を回想する。

 「いきなりお金を送ってくれと、目の前で泣いて頼まれるんですよ」

 そうして膨らんだ借金を返済する目処(めど)が立たず、逃げるようにしてフィリピンへ渡った。
 以来、帰国していない。

 「警備会社を辞め、紹介されたフィリピンパブで店長として働き始めたんですが、給料が半分ぐらいに下がって、利子の返済で手いっぱいになり、完済の見込みがなくなった。
 これが日本に帰りたくない一番の理由です」

 フィリピン人妻とは結局、離ればなれになった。
 日本の親族とも長年音信不通になっているため、困った時の送金も頼めない。
 吉岡さんはフィリピンで生きていくしかなくなった。

 その覚悟の現れが、タガログ語の勉強にぶつけられた。
 知人の日本人男性からもらったタガログ語の教科書を見ながら、ノートに書き写し、寝る前にはベッドの上で単語を覚えまくった。

 「ここで1人で生きるために覚えることにしたんです」

 吉岡さんはそれ以来、合鴨の卵を拾い集める仕事、土木、幼児服のアイロン掛けなど仕事を転々とし、現在の妻、ロナさんと出会った。
 不法滞在に置かれているため、日系企業への就職は望めない。
 ゆえにローカルの職場を渡り歩くしかなかった。

 日本人男性とフィリピン人女性の「年の差婚」は珍しくないが、それは日本人に経済力があっての話だ。
 ところが吉岡さんは、フィリピンの最低賃金で働き、地べたに這いつくばるような生活を送っていた。

 そんな吉岡さんと一緒になった理由について、ロナさんはこう口にした。

 「見た目は怖かったけど言葉ができるので、直(じき)に優しい人だというのが分かったの。
 よく冗談も言ってくれた。年齢差は特に気にならなかったわ。
 彼はよく世話をやいてくれる上、自分の話にきちんと耳を傾けてくれるの。
 逆に彼も自分の話をするし、彼といると楽しいわ」

 フィリピンの在留邦人社会で長らく取材を続けてきた私にとって、「中高年の日本人男性と若いフィリピン人女性の関係=お金」という従来の方程式を根底から覆されるような、「事件」と言ってもいいほどの2人の関係だった。

 そうして息子が生まれ、病気にかかって医療費の工面に手間取ったこともあったが、何とか一家3人で生き延びてきた。
 ただ、生活に浮き沈みが激しいため、突如として厳しい現実が突き付けられることも少なくない。
 ロナさんが病気になった時も、高額な医療費の支払いができず、友人、知人の間を走り回って金策した。

 仕事も幼児服のアイロン掛けから、工場で空き瓶を洗浄する仕事、農業などと次から次へと変わり、ドキュメンタリー番組の取材時には鶏の運送業に。
 最後のロケは昨年末だったが、それから半年近くが経過した最近になってまた、吉岡さんから次のような連絡が入った。

 「会社のボスと喧嘩(けんか)をしてしまい、一緒に働いていたロナとともに仕事を辞めました。
 現在、2人で就活中です。
 私にはタガログ語の翻訳の仕事があるようなので、待機しています。
 まあフィリピンのことなので、あまりあてにはしていませんが」

 吉岡さんのフィリピン綱渡り人生は、これからも続く。

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 高齢化社会の将来を占う渾身ルポルタージュ。
  一年中温暖、物価は日本の3~5分の1、やさしく明るい国民性、原発ゼロ、年の差婚当たり前。
 日本で寂しく貧しく苦しい老後を過ごすなら、いっそのことフィリピンで幸せな老後を送りたいと、日本脱出の道を選んだ高齢者たちは少なくない。
 はたして、老後の楽園はフィリピンにあるのだろうか。
 果たして、現実は……。 恋人候補200人のナンパおじさん、19歳の妻と1歳の息子と、スラムで芋の葉を食べて暮らす元大手企業サラリーマン、東日本大震災を機に、東北から原発ゼロのフィリピンに移住した夫婦。
 ゴミ屋敷暮らしだった母親をセブ島に住まわせる娘、24歳年下妻とゴルフ三昧の元警察官。90歳の認知症の母親をフィリピン人メイドと介護する夫婦、「美しい島」で孤独死を選んだ元高校英語女性教師……。
 さまざまな「脱出老人」のジェットコースター人生を、開高健ノンフィクション賞受賞作家が、フィリピン&日本で3年間にわたり徹底取材した衝撃のノンフィクション。
 「老後の幸せ」「人間の幸福感」とは何かを浮き彫りにする、

今日此頃 令和5年9月下旬

2023-09-30 07:00:00 | 日記

 涼しさが一段と増す今日此頃。

 衣替えの時期が来た。

 秋の衣替えは冬支度でもあり、断捨離でもあります。

 着ないセーターを置いておくのは何故でしょうか?
 自分でも判然としないモヤモヤ感は拭いきれませんが。

 でも、最近はセーターを着る人はめっきりと少なくなった。

 それもヒートテック、ユニクロのお蔭かな?
 そもそも“ヒートテック”というのは商標名で、『吸湿発熱繊維』との事を言うらしい。
 昔は「ウール」と言っていた時代があったが、繊維業界も開発、進化してきたわけだ。
 とりあえず、説明しておくと、

 吸湿発熱繊維とは、汗などの水分を吸収して発熱する繊維。
 スポーツウェアや肌着、膝サポーター、腹巻、キルティングの中綿などに用いられる。
 吸湿発熱素材、吸湿発熱ウェアと呼ばれることもあるらしい。

 古くから、ウールが吸湿して暖かくなることは知られていた。
 特に電解質の極性官能基を分子にもつ、吸水性のある繊維に見られる性質である。
 これは、主に水分子が繊維表面のカルボキシ(ル)基などの親水基と強く相互作用し、水和エネルギーが熱として放出されるためである。
 また、水を吸収した繊維分子の非晶部分の膨潤によって、その中の高分子鎖が引き伸ばされ(エントロピー弾性発現機構)て放出される熱も発熱に幾分寄与している。

 極性官能基を化学的に導入したり、ウールよりも繊維を細くして全体の表面積を増やすことで、吸湿性を高め、水を多く吸着するようにした合成繊維が開発された。

 このような吸湿性能を高めた繊維と綿などを混用した素材を「吸湿発熱素材」と呼び、商品化が行なわれている。

 無限に発熱を続けるわけではなく、繊維の吸湿が飽和状態になるとそれ以上は発熱しなくなるため、衣料に用いた場合の効果は最初の数分から十数分に限られる。

 との事。

 『ウール』という言葉も死語の仲間入りになりつつありそうです。

 さて、10月になれば・・・

 この旧暦、神無月というのはどういう事なのか?

 神無月(かみなづき、かんなづき(「かむなづき」とも表記される)、かみなしづき、かみなかりづき)は日本における旧暦10月の異称。
 今日では新暦10月の異称としても用いられる場合も多い。
 「神無」を「神が不在」と解釈するのは語源俗解である。
 また、この俗解が基になって更にさまざまな伝承を生じることになった。

 「神無月」の語源は不詳である。

 有力な説として、神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」というものがあり、日本国語大辞典もこの説を採っている。
 「水無月」が「水の月」であることと同じである(6月#水無月の語源)。
 伊勢神宮・内宮に居る天照大御神以外の神々が出雲に集まって翌年について会議するので出雲以外には神がいなくなるという説は、平安時代以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。
 なお、月名についての語源俗解の例としては、師走(12月)も有名である。
 御師の活動がなかった沖縄県においても、旧暦10月にはどの土地でも行事や祭りを行わないため、神のいない月として「飽果十月」と呼ばれる。

 日本国語大辞典は語義の冒頭に、「「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。

 俗説には、全国の神神が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからといい、広く信じられた」とし、語源説として次の11説を列挙している。

 1.諸神が出雲に集合し、他の地では神が不在になる月であるから〔奥義抄、名語記、日本釈名〕

 2.諸社に祭りのない月であるからか〔徒然草、白石先生紳書〕

 3.陰神崩御の月であるから〔世諺問答、類聚名物考〕

 4.カミナヅキ(雷無月)の意〔語意考、類聚名物考、年山紀聞〕

 5.カミナヅキ(上無月)の義〔和爾雅、類聚名物考、滑稽雑談、北窓瑣談、古今要覧稿〕

 6.カミナヅキ(神甞月)の義〔南留別志、黄昏随筆、和訓栞、日本古語大辞典=松岡静雄〕

 7.新穀で酒を醸すことから、カミナヅキ(醸成月)の義〔嚶々筆語、大言海〕

 8.カリネヅキ(刈稲月)の義〔兎園小説外集〕

 9.カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義〔名語記〕

 10.ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意〔万葉集類林、東雅〕

 11.一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に誓いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕

 日本では、旧暦1月の事を別名“睦月(むつき)”と言いますよね。

 2月は如月(きさらぎ)、
 3月は弥生、
 4月は卯月、
 5月は皐月、
 6月は水無月、
 7月は文月、
 8月は葉月、
 9月は長月、
 10月は神無月、
 11月は霜月、
 12月は師走。

 では、海外?

 一般的には1月から

 1月:January(Jan.)
 2月:February(Feb.)
 3月:March(Mar.)
 4月:April(Apr.)
 5月:May(May)
 6月:June(Jun.)
 7月:July(Jul.)
 8月:August(Aug.)
 9月:September(Sep.)
 10月:October(Oct.)
 11月:November(Nov.)
 12月:December(Dec.)

 ですが。

 旧暦とか、グレゴリオ暦とか「暦」については、また後日に綴りたいと思います。

 さて、秋と言えば“食欲の秋”。
 食事でもバラエティに富んだ食材がテーブルに並びます。

 あなたの好きな食べ物は何ですか?

 松茸?銀杏?それとも秋刀魚?

 色々ありますが馳走を食べるには、やはり下準備でしょうか。
 少なくとも私は、そう思っています。

 さてさて時間なので、また後日という事で、次回も勉強させて貰いたいと思います。

CTNRX的見・読・調 Note ♯009

2023-09-29 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(9)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(8) ❖

 ❒アフガニスタン王国

 アブドゥッラフマーンの孫にあたるアマーヌッラー・ハーン(在位:1919〜1929年)は、王族間の内紛を制して即位すると、第一次世界大戦での疲弊をとらえてイギリスに宣戦(第三次アフガン戦争)。
 アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)が結ばれた結果、アフガニスタンは外交権を回復し、完全独立を達成した。
 アマーヌッラー・ハーンは、急進的な改革を進め、1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。
 しかし急激な改革は、聖職者階級の反発をまねき、1929年にアマーヌッラー・ハーンは王位を追われた。
 各地に僭称者が乱立する混乱を収拾したのは、王家の傍流ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーであった。
 このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して「ムサーヒバーン朝」と呼ぶこともある。
 ムサーヒバーン朝では、聖職者階級との妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。
 しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねき、1973年、ザーヒル・シャーの従兄弟、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。
 最後の国王ザーヒル・シャーは、アフガン国民統合の象徴として、現在も尊敬の念をもたれている。

 1926年にアフガニスタン首長国の後継国家として成立した国。
 初代国王アマーヌッラー・ハーンが首長に即位した7年後、王を称したことで成立した。


 アマーヌッラー・ハーンはソビエト連邦との間で中立条約を結び、国の安定化、現代化を務めたが、保守勢力の反発で社会不安が生じた。
 1927年のヨーロッパ訪問中に反乱が再び勃発すると、彼は弟イナーヤトゥッラー・シャーに譲位したが、イナーヤトゥッラー・シャーはわずか3日後に反乱の指導者ハビーブッラー・カラカーニーに権力を奪取された。
 その後、ハビーブッラー・カラカーニーは国制を首長国に戻した。
 10か月後、アマーヌッラー・ハーンの国防相ムハンマド・ナーディル・シャーが逃亡先のイギリス領インド帝国から帰国した。
 彼の軍勢はイギリスの支援を受けてカブールを奪回、ハビーブッラー・カラカーニーは停戦を提案したが、逮捕されて処刑された。
 ムハンマド・ナーディル・シャーは国制を王国に戻し、1929年10月に国王に即位した後、アマーヌッラー・ハーンの改革を元に戻した。
 1933年にはその息子ザーヒル・シャーが即位、1973年まで統治した。

 ザーヒル・シャーの治世中、アフガニスタンははじめてソビエト連邦、フランス第三共和政、イギリス、アメリカ合衆国など諸外国との外交関係を樹立、1934年9月27日には国際連盟に加入した。
 第二次世界大戦中、アフガニスタンは中立にとどまった。
 戦後は非同盟外交の政策を採用、1953年から1963年までの首相ムハンマド・ダーウードはアフガニスタンの現代工業と教育の発展に尽力した。
 1973年、ザーヒル・シャーはいとこのムハンマド・ダーウードによって廃位された(1973年アフガニスタンのクーデター)。
 ムハンマド・ダーウードは王政を廃止、アフガニスタン共和国を建国した。

 《 イ ギ リ ス
        保 護 国 期 》

 ドースト・ムハンマドの死後、息子のシェール・アリが王位を継いだ。
 クリミア戦争以後、中央アジアに版図を広げていたロシアは1878年、イギリスの影響力を排除することを目的にカーブルに外交使節団を送り込んだ。
 それを知ったイギリス政府とインド総督リットンはカーブルにイギリスの大使館の設置を要求したが、回答がなかったことからアフガニスタンに対し軍隊の進駐を決める(第二次アフガン戦争)。

 当初はさしたる抵抗もなく駐留が続いたものの、1879年にカーブルで反乱が起き、1880年にカンダハール郊外でおきたマイワンドの戦いではイギリス軍が大敗した。
 その頃イギリスでは自由党のグラッドストン内閣が成立、アフガニスタンへの積極的な介入を推進していたリットン総督を更迭し、新しくリポン総督を任命し撤退を指示した。
 その際にイギリス側は亡命していたアブドゥル・ラーマン・ハーンを擁立することで反乱の沈静化を図り、アフガニスタン側はイギリス以外の国との政治的な関係を結ばないことを条件に、イギリスからの内政干渉を受けないことの約束を取り付け、事実上イギリスの保護国となった。
 1897年にアフガニスタン国王アブドゥル・ラーマンとイギリス領インド帝国外相モーティマー・デュアランド(英語版)との間で国境線が画定される(デュアランド・ライン)。
 アフガニスタン側は暫定的なものと解釈していたが改定されることはなく、パシュトゥーン人の歴史と分布を無視した人為的な分断として、現在のアフガニスタン・パキスタン国境線につながり多くの問題を引き起こす元となった。
 1907年には英露協商が成立した。
 ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗するために、イギリスとロシアにおいてペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットでの勢力範囲を定めたもので、アフガニスタンについてはロシアへの軍事的拠点としない条件でイギリスが支配することになった。

 《 再 独 立 》

 1919年、アブドゥル・ラーマンの後を継いで国王となっていたハビーブッラー・ハーンが暗殺され、王位は息子のアマーヌッラー・ハーンが引き継いだ。
 同年5月、アマーヌッラーはイギリス軍に対してデュアランド・ラインで失われたパシュトゥーン人の土地を取り戻すという名目でジハードを仕掛けた(第三次アフガン戦争、第II期グレート・ゲーム)。
 第一次世界大戦やインドでの内乱でイギリス軍が疲弊していることを見越しての戦争であったが、軍事用の複葉機からの空爆を初めて受けるなどし戦意を挫かれ、早々に終戦となり、ラーワルピンディーで条約を交わすことになった。

 イギリスは戦争には勝利したものの疲弊していたのは事実であり、ライバルのロシアに革命がおきグレート・ゲームから脱落したこともあり、国境線はデュアランド・ラインで維持することを認めさせつつ、アフガニスタンの独立を認めた。
 その後、アフガニスタンは急速に近代化を進めることとなる。

 ◆アフガニスタン王国

 アマーヌッラー・ハーンは1921年にはソビエトと友好条約を締結し、1923年にはアフガニスタン史上初の憲法を制定、立憲君主制への移行へ踏み出した。
 憲法では、王権の絶対制と世襲制、イスラム教の国教化を規定する一方で、評議会の設置や大長老会議の招集、各大臣からなる内閣の規定など、さまざまな権能の分散化も図られた。
 1926年には歴代の君主の称号であるアミールをやめ、シャー(パーディシャー)に変えた(アフガニスタン王国)。
 しかし急激な改革は保守的な層(ウラマーなど)からの反発を招き、1929年には首都カーブルで反乱がおきた。
 混乱を回避するためにアマーヌッラーは退位してイタリアに亡命、ハビーブッラー・ガーズィーがアミールを自称して一時政権を奪った(1929年1月17日〜10月13日まで)。
 1929年、ムハンマド・ナーディル・シャーがこの混乱を収めて王位につき、1931年にはよりイスラーム色を強めた新憲法を発布した。
 しかしナーディル・シャーは暗殺され、1933年11月に息子のザーヒル・シャーが19歳で王位を継いだ。
 首相として実際の政権を担っていたのはナーディル・シャーの弟のムハンマド・ハーシム・ハーンであり、1946年から1953年まではシャー・マフムード、その後はムハンマド・ダーウードが首相を継いだ。
 このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して、ナーディル・シャー朝と呼ぶこともある。
 ナーディル・シャー朝では、ウラマーとの妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。

 1953年9月にザーヒル・シャーの従兄弟で、親ソ連急進派のムハンマド・ダーウードが首相に就任。ウラマー会議が改革に反発して反政府キャンペーンを組織すると、ダーウードはウラマーを弾圧した。
 旧世代のムッラーは社会に対する影響力を失うにつれ、学生達を中心により急進的なイスラーム主義の勢力が台頭した。
 世論の反発を受けて、1963年3月10日にザーヒル・シャーはダーウード首相を退陣させた。
 1963年3月末から7名から成る憲法委員会は会合を開き、1年近くにわたって作業を続け、憲法草案を提出した。
 この草案は32名から成る憲法諮問委員会によって徹底的に検討され、1964年9月、憲法草案を検討し、正式に承認するためのロヤ・ジルカが招集されることになった。
 できるだけ全国民の意見を反映するものとなるように、各州で代議員を選出するための全国間接選挙が行われ542名(うち女性は4名)がえらばれた。
 このジルカでの議論は主に王族の役割と、司法制度の性質についてのものだった。王族は政党に参加してはならないという条項を入れた。
 法律・裁判所制度については近代化主義者の意見が通った。
 また、国内の強制移動や強制労働の問題についても強い反対意見が出された。新憲法には二院制議会(シューラ)で、秘密投票で選出される定員216名の下院(ウォレシ・ジルカ)と、一部は選挙、一部は国王の任命にて委員84名の上院(メシラノ・ジルカ)が定められた。
 しかし、政党の結成問題は、政党法が準備されるまで先送りされた。
 また、州及び地方自治体の地方議会を選挙で選ぶ方法も審議が延期された。
 2週間も経過しないでロヤ・ジルカ審議を終了してしまい、1964年10月1日、国王は新憲法に署名し、施行された。
 しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねいた。

 ◆アフガニスタン共和国
     (1973年〜1978年)

 1973年7月、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。

 アフガニスタン史上初の共和国であり、ムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターでアフガニスタン国王ザーヒル・シャーを廃位して建国した。
 ダーウードは進歩主義で知られ、ソビエト連邦やアメリカ合衆国から援助を受けて国を現代化しようとした。

 ザーヒル・シャーはイタリアへ亡命した。
 アフガニスタン共和国大統領に就任したダーウードは、反急進派勢力の中心となっているイスラーム主義勢力指導者の弾圧に向かい、海外に亡命した指導者によって反ソ連を志向するムジャーヒディーンが結成された。

 ダーウードの弾圧は親ソ連のアフガニスタン人民民主党のパルチャム派へも向けられるようになる。

 1978年4月27日のクーデターでダーウードは殺害された(四月革命)。

 1978年、四月革命とよばれる軍事クーデターが共産主義者のアフガニスタン人民民主党によって起こされ、ダーウードは一家もろとも殺害された。
 「ダーウード共和国」はソ連と同盟したアフガニスタン民主共和国に取って代わられたのであった。

 

 ◆アフガニスタン民主共和国
 〔人民民主党政権とソ連軍事介入〕

 ❒建国

 ◤ 1973年アフガニスタンの
          クーデター ◢

 1973年アフガニスタンのクーデターは、1973年7月17日、陸軍大将で王子のモハメド・ダウド・カーンが従兄弟のモハメド・ザヒール・シャー国王に対して起こしたクーデターで、ダウド・カーン率いる一党独裁体制のアフガニスタン共和国が成立した。
 クーデターでは、国王がイタリアのイスキアで療養している間に、ダウド・カーンは当時の参謀長アブドゥル・カリム・ムスタグニ将軍とともにカブールで軍を率いて王政を転覆させた。
 ダウド・カーンは、空軍大佐アブドゥル・カディールを含むPDPAのパルチャム派の陸軍将校と公務員によって支援された。
 ザヒール・シャー国王は報復をしないことを決め、8月24日に正式に退位し、イタリアに亡命した。
 1747年のドゥッラーニー帝国の建国以来、2世紀以上続いた王室支配は、このクーデターで幕を閉じた。

 当時、アメリカ国家安全保障会議のスタッフが「よく計画され、迅速に実行されたクーデター」と評したこの事件で、警察官7人と戦車隊長1人が死亡した。

 ❒背景

 1933年からザヒール・シャーが国王として統治し、1953年から1963年まで従兄弟のダウド・カーン王子が首相を務めていた。
 ダウド・カーンは国王との関係がぎくしゃくしており、1964年の憲法改正でバーラクザイ家の人々が政治家になれないようになったこともあり、国王が意図的にそうさせたという説もある。
 国王は、ダウド・カーンの強い親パシュトゥーニスタン派を過激とみなし、パキスタンとの政治的対立を招いたため、意図的にこのような行動をとったという説もある。
 ダウド・カーンは、1964年の議会制民主主義成立以来、5代にわたる政府の改革の失敗に対する国民の不満が高まる中、国会で可決された政党法、州議会法、自治体議会法を国王が公布しなかったことを契機に、このような改革を断行した。また、1971年から1972年にかけて、ゴル県を中心とした中西部で数千人の死者を出したとされる飢饉への対応が悪く、アブドゥル・ザヒール首相が辞任する事態になったことも理由の一つであった。
 1972年頃、国会の非力さや指導力不足に不満を持った人々が、大学で様々な政治運動を活発化させるようになった。
 また、国王との内紛もクーデター決行の一因とされる。
 一部の学者や歴史家は、証拠は弱いが、クーデターにソ連が関与した可能性を示唆している。

 ❒クーデター

 ザヒール・シャー国王は、1973年6月25日の朝、目を負傷し、出血の治療のためローマを経由してアフガニスタンを離れ、ロンドンに向かった。
 治療後、イタリアに戻り、イスキア島で過ごした。
 7月17日朝、モハメッド・ダウド・カーンは軍隊から数百人の支持者を集めてクーデターを起こした。
 武力抵抗もなく、数時間で王政は終わり、カーンは朝7時にラジオ・アフガニスタンで新共和国を発表した。
 米国の国家安全保障会議のスタッフは、「よく計画され、迅速に実行されたクーデター」と評した。
 唯一の死傷者は、反乱軍を敵対勢力と間違えた駅の7人の警察官でした。バスとの衝突を避けようとして道路から外れ、カブール川で溺死した戦車長。

 1973年7月、アフガニスタン最後の国王ザーヒル・シャーがイタリアで眼科手術と腰痛の治療を受けている最中、王族で元首相のムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターを起こして共和国を建国した。
 ダーウードは10年前の1963年にザーヒル・シャーによって首相の辞任を余儀なくされていた。
 ザーヒル・シャーは全面内戦を避けて退位した。

 ❒一党統治

 権力を奪取したダーウードは自身の政党であるアフガニスタン国民革命党を創設、同党はすぐにアフガニスタンの政治活動の中心になった。
 ロヤ・ジルガは1977年1月に新憲法を議決して一党制大統領制を採用、野党は暴力も含む弾圧を受けた。
 また1973年には元首相ムハンマド・ハーシム・マイワンドワールが政変を計画していると疑われたが、計画が旧王制に対するものか、新共和制に対するものかは不明である。
 いずれにせよ、マイワンドワールは逮捕された後、裁判の前に死亡した。獄中で自殺したとされたが、拷問で死亡したと広く信じられた。

 ❒共産主義の勃興

 ダーウードが1973年に共和国を建国した後、アフガニスタン人民民主党は入閣した。
 1976年、ダーウードは7年経済計画を立てた。
 彼はインドとの軍事訓練プログラムをはじめ、パフラヴィー朝イランとも経済発展に向けて話し合いを始めた。
 さらに石油で潤っていたサウジアラビア、イラク、クウェートなど中東諸国に財政援助を求めた。
 しかし、ダーウードの大統領期ではソビエト連邦との関係が悪化した。
 ダーウードが西側諸国との関係を改善し、キューバの非同盟運動参加を批判、ソ連の軍事と経済顧問を追放したことでソ連はダーウードを危険人物とみたのであった。
 さらに、ダーウードが野党を弾圧したことでソ連を後ろ盾とするアフガニスタン人民民主党はクーデター以来の友から敵に回ったのであった。
 1978年時点でダーウードは自身が定めた目標をほとんど達成できていなかった。アフガニスタンの経済は実質的には成長しておらず、生活水準も向上しなかった。
 さらに1977年の一党制憲法も盟友を遠ざける結果となった。
 アフガニスタン国民が1978年までに「何もしない」ダーウード政府に失望したのに対し、一部では入閣していた人民民主党党員による経済と社会改革に期待をよせた。
 人民民主党ではそれまで2派にわけて党内闘争をしていたが、このときは脆い協定で一旦和解しており、共産党を支持する軍部の一部が反政府行動を計画した。 
 1979年に革命評議会議長(国家元首)に就任したハフィーズッラー・アミーンによると、クーデターは1976年より計画されていたという。

 ❒四月革命

 1978年、人民民主党は四月革命と呼ばれる軍事クーデターで権力を奪取した。
 4月27日、カーブル国際空港の軍事基地から軍が出撃して首都カーブルの中心部に進軍した。
 大統領宮殿への空襲、反乱軍が迅速に連絡線など主な目標を占領したことにより、権力奪取は24時間内に完了、ダーウード一家は翌日に処刑された。
 人民民主党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーが革命委員会会長に選ばれ、ダーウードに代わって国家元首、そして新生アフガニスタン民主共和国の元首に就任した。

 ❒四月革命
      (アフガニスタン)詳細

 サウル革命(ダリー語: إنقلاب ثور または ۷ ثور, パシュトー語: د ثور انقلاب、四月革命、4月クーデターとも)は、アフガニスタンの社会主義政党(共産党)であったアフガニスタン人民民主党が、1978年4月27日に当時アフガニスタン共和国の大統領であったムハンマド・ダーウード率いる政府へおこした革命、クーデターである。
 その後、人民民主党はアフガニスタン民主共和国の建国を宣言した。

 ❖ 四月革命(サウル革命)❖

  時 1978年4月27日4月28日 (1日間)
 場所 アフガニスタン

 結果 アフガニスタン人民民主党の勝利

 ・ヌール・ムハンマド
 ・タラキーによる社会主義国の成立
  (アフガニスタン民主共和国の成立)
 ・ムハンマド
 ・ダーウードの処刑
 ・タラキー派(ハルク派)と
        パルチャム派の対立

 《 背 景 》

 1973年7月17日に起きたクーデターにより、国王ザーヒル・シャーは追放、亡命し、新たにムハンマド・ダーウードが権力を掌握した。
 これにより王政は廃止となって共和制となったアフガニスタン共和国だったが、依然として国家の基盤は弱かった。
 また北にはソビエト連邦、東には中華人民共和国、南には当時親米政権だったパキスタンと、大国の影響力をアフガニスタンは強く受けていた。
 そこでダーウードはこの事態を中立的立場となることでなんとかアフガニスタンを守ろうとした。
 米ソ双方との関係改善を推し進め、7月19日にはソ連、インドの外交的承認を承けた。
 当初はこれら一連の政策が功を奏し、冷戦下でのアフガニスタンの平和を実現させた。
 経済面でも大きな動きを見せることなく、第三世界のような社会主義的な構想を見せつつも、実現までは穏やかなものとし、宗教(とりわけイスラム教)や文化を保護した。
 しかし1970年代後半、ダーウードは西側諸国、とりわけアメリカ、パキスタン、中国との関係を深めた。
 これは北のソ連を刺激し、国内の社会主義者や共産主義者によって結成された人民民主党に大きな疑念を与えることとなる。
 また1977年には大統領制を再確認した上で自身の与党であったアフガニスタン国民革命党の一党独裁制を憲法に記した。
 これによって人民民主党は武力行使を決定した。
 当時の人民民主党は派閥抗争に陥っており、タラキー率いるハルク派とカールマル率いるパルチャム派に大きく分かれていた。
 ハルク派は急進的な政策を掲げ、おもに労働者、地方教員に支持され、パルチャム派は穏健的な政策を掲げ、学生、軍人、知識人といった、エリート層に支持された。

 ◆アフガニスタン共和国
 1988年、(1988年〜1992年)
 に国名変更。

 1988年4月14日にジュネーヴ協定が締結され、10月31日の国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションを経て、1989年にソ連軍は撤退した。

 ❒内戦とターリバーン政権

 ソ連軍撤退後も国内の支配をめぐって、政府軍や武器が戦後も大量に残されていたムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、ムジャーヒディーンからタリバーンやアルカーイダが誕生した。

 アフガニスタン共和国

 ・1992年、アフガニスタン・イスラム国(1992年〜2001年)が誕生。

 ・1996年、タリバーン政権によりアフガニスタン・イスラム首長国が成立。

 1998年8月7日にケニアとタンザニアでアルカーイダによるアメリカ大使館爆破事件が起こり、テロリストがタリバーン政権の保護下に逃げ込んだ。
 アメリカ政府(ビル・クリントン政権)はテロリスト訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで破壊し報復。
 1999年11月15日にアメリカ政府はテロリストの引き渡しを求めたが、タリバーンがこれを拒否したため、経済制裁が課された。

 ❒ターリバーン崩壊と新政府樹立

 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、その報復として10月からアメリカ(ジョージ・W・ブッシュ政権)と北部同盟によるアフガニスタン紛争が行なわれた。
 北部同盟を構成するのは、タジク人のイスラム協会、ウズベク人のイスラム民族運動、ハザーラ人のイスラム統一党である。

 ❒暫定行政機構

 12月22日にパシュトゥーン人でザーヒル・シャー元国王派のハーミド・カルザイが暫定行政機構議長に就任。
 こうして、多数派パシュトゥーン人のターリバーンに少数民族連合が挑むという対決の構図が形成されたが、その結果、アメリカが撤退することが難しくなった。

 アフガニスタン・イスラム共和国

 て公式に和平を直接協議。
 同年7月30日、消息が不明だったタリバンの最高指導者ムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認。
 2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがタリバンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立。
 同年3月、タリバンは和平交渉を拒否した2019年12月4日、ナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。
 2021年4月、アメリカ合衆国のジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。
 アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは主要都市を次々に制圧し、2021年8月15日にはカブールに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。
 政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。

 そして同年8月19日には、ターリバーンがアフガニスタン・イスラム首長国として新政権を樹立した。
 8月15日以降、政権崩壊に直面して多国籍軍、外国の支援団体に協力していた市民を中心に、ターリバーン政権下で迫害を受ける可能性のある市民らの国外脱出が本格化した。
 カーブル国際空港からは連日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍の輸送機が多数の市民を乗せて離陸、8月25日までに約8万8000人がアフガニスタンを後にした。
 これらの中にはテレビ放送局(TOLO)に所属していたジャーナリストをはじめとした知識階級、技術者も多数含まれており、国の立て直しに向けて障害となる可能性を含むこととなった。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯008

2023-09-28 21:00:00 | 自由研究

■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(8)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(7) ❖

 ▶イルハン朝

 イル・ハン国 フレグ・ウルス

 イル・ハン国
 (ペルシア語: ايلخانيان‎ Īlkhāniyān、)
 (英語 : Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1258年〜1335年/1353年)。


 ◆フレグの西征

 フレグは兄であるモンゴル帝国第4代皇帝(カアン)モンケによりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征(フレグの西征)を命ぜられ、1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。
 1256年にニザール派(暗殺教団)のルクヌッディーン・フルシャーが降伏すると、フレグはイランの制圧を完了させた。
 1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)、アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き、西部進出を伺った。
 1260年、フレグはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻)、アレッポとダマスカスを支配下に置いた。


 ◆建国期

 1260年春頃に兄モンケ死去の報を受けると、フレグはカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄クビライ(元世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断した。
 フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。

 また、成り行きで西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルスのベルケとは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャンの支配権を巡って対立し(ベルケ・フレグ戦争、1262年)、チャガタイ・ウルスとはマー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って対立したが、ジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスがオゴデイ家のカイドゥを第5代皇帝クビライに対抗して盟主に推戴したため、フレグはクビライの支配する大元ウルスとの深い友好関係を保った。
 さらにジョチ・ウルスのベルケはマムルーク朝のバイバルスと友好を結び、イルハン朝挟撃の構えを見せた。

 ◆十字軍遠征

 対抗してイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んでいた。
 イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカがネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。
 1268年、バイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。
 1269年、バラクとカイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻。
 1270年、第8回十字軍で苦戦していたアッコン防衛にエドワード1世が派遣される。1270年7月21日、カラ・スゥ平原の戦い。

 ◆後継者争い

 イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。
 そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。
 ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。
 その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。

 ◆イスラム王朝への転身

 1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。
 イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
 さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。
 この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
 さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。
 この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 ◆オルジェイトゥ

 ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続し、また1301年にカイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。
 オルジェイトゥは新首都スルターニーヤ(ソルターニーイェ)を造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラム神学に関わる著作集を執筆させている。
 さらにガザン、オルジェイトゥの時代には用紙の規格化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。
 地方史の編纂も盛んであった。『集史』編纂の影響と考えられているが、特に挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成されるようになったのも両ハンの時代からであった。
 この時代にはイルハン朝におけるイラン・イスラーム文化の成熟が示された。

 ◆アブー・サイード

 1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー・サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョバンが宰相として実権を握った。
 1317年、ラシードゥッディーンと政敵タージェッディーン・アリー・シャーの政争でラシードが失脚し、翌年処刑された。
 成人したアブー・サイードは、チョバンの娘バグダード・ハトゥンを巡ってチョバンと対立するようになり、1327年にチョバンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。
 ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する陣中で、ディルシャド・ハトゥンを寵愛するアブー・サイードは、1335年に子のなかったバグダード・ハトゥンに暗殺された。
 フレグ王統の断絶をもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。

 ◆イルハン朝の解体

 アブー・サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーンは、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。
 しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害された。
 以来イランは様々な家系に属するチンギス・カンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。



 アリー・パーディシャーはバイドゥの孫のムーサーを擁立したが、ジャライル部のハサン・ブズルグ(大ハサン)が取って替わりフレグの子モンケ・テムルの玄孫であるムハンマドを擁立した。
 一方でホラーサーンではチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの後裔であるトガ・テムルが周辺諸侯からハンと認められつつあり、逃げのびたムーサ―と反乱を起こした。
 これは失敗に終わったが、大ハサンもすぐにチョバン家のシャイフ・ハサン(小ハサン)に敗れて傀儡の君主であるムハンマドを失った。
 小ハサンが一族のサティ・ベクを女王として擁立すると大ハサンはこれに対抗してトガ・テムルをハンとして認めて擁立した。
 一時はトガ・テムルとサティを結婚させる案も出たが流れてしまい、トガ・テムルを見限った大ハサンはゲイハトゥの孫のジハーン・テムルをハンに擁立。小ハサンもフレグの子イシムトの後裔のスライマーンを老齢のサティと結婚させてハンに擁立した。
 抗争に勝利した小ハサンが1343年に暗殺されるとスライマーンはサティと共に混乱するチョバン家へ大ハサンの介入を求めた。
 しかしこれは失敗し、ハンたちは小ハサンの弟のアシュラフに追放されてしまった。
 以降はアヌシルワンという名の家系不明で実体すら定かでないハンが立てられる。
 1357年にチョバン家がアゼルバイジャンを巡ってジョチ・ウルスに滅ぼされるとイルハン朝は完全に滅亡した。

 一方でホラーサーンを支配していたトガ・テムルは周辺諸侯から1350年前後まではハンと認められ続け、一度は見限った大ハサンもチョバン家に対抗して1344年までは改めてトガ・テムルをハンと認めていた。
 1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残っていたトガ・テムルが殺害され、イランからはチンギス・カン一門の君主は消滅した。
 イラクでも大ハサンが1356年に死去すると次代のシャイフ・ウヴァイスは傀儡を立てずに自らハンに即位してジャライル朝を建国してジョチ・ウルスに滅ぼされたチョバン家領を併合していった こうしたアブー・サイード死去以来の混乱で、イランの各地にはムザッファル朝、インジュー朝、クルト朝、サルバダール政権、ギーラーン、マーザーダラーン諸政権など遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していった。
 アナトリアも同様でルーム・セルジューク朝時代から分離傾向にあったベイリクやトゥルクマーン諸政権が乱立した。
 これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。

 ▶クルト朝

 クルト朝(Kurt dynasty)は、13世紀から14世紀にかけてイラン東部のホラーサーン地方を支配した、タジク人[1][2]のスンナ派イスラム教徒の王朝。
 首都はホラーサーン地方の都市ヘラート。



 カルト朝(Kart dynasty)とも表記されるが、いずれの表記が正確なのかは定説が無く、王朝の名前の由来となった「クルト」の意味も明確になっていない。
 クルト朝の王家は元々はゴール朝のスルターン・ギヤースッディーン・ムハンマドの封臣であり、ゴール朝の王室とつながりを持っていた。
 13世紀半ばに、クルト朝はモンゴル帝国に臣従を誓う。
 モンゴル帝国の王族フレグが建国したイルハン国が成立した後はその臣従国としてアフガニスタンに相当する地域を支配し、クルト家はフレグ一門と婚姻関係を結んだ。
 1335年にイルハン国が無政府状態に陥った後、クルト朝の君主ムイズッディーン・フセインは王朝の勢力の拡大に努めた。
 クルト朝の統治下でモンゴル帝国の破壊によって荒廃したホラーサーン地方が復興されるとともに同地のイラン文化が維持されたが、1381年にティムール朝の攻撃によって王朝は滅亡した。

 ◆ゴール朝時代

 クルト朝の王統はゴール朝の貴族シャンサバーニー家に連なる。
 クルト家をセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーの末裔とする説も存在する。
 王朝の祖であるタージュッディーン・オスマーン・マルガーニーは、ギヤースッディーン・ムハンマドの宰相イズッディーン・オマル・マルガーニーの弟にあたる。
 タージュッディーンは、兄からヘラートの東に位置するハイサル城を領地として与えられた。
 タージュッディーンの死後、彼の子であるルクンッディーン・アブー・バクルが跡を継いだ。
 ルクンッディーンはモンゴル帝国がゴール地方に侵入した際にいちはやくチンギス・カンに臣従を誓った。
 ルクンッディーンはギヤースッディーン・ムハンマドの王女と結婚し、1245年に2人の子であるシャムスッディーン・ムハンマドが父の跡を継ぐ。
 シャムスッディーンはマリク(Malik、「王」の意)の称号を名乗った。

 ◆モンゴル帝国の封臣時代

 1246年にシャムスッディーンはモンゴル帝国の将軍サリ・ノヤンが指揮するインド遠征に参加し、1247年/48年にムルターンでスーフィーの聖者バハーウッディーン・ザカリーヤーと対面した。1248年のモンゴル帝国第3代皇帝グユクの死後、シャムスッディーンはトゥルイの長子モンケの即位を支持し、オゴデイ家を支持する党派と戦った。
 1251年にシャムスッディーンはモンケ・カアンの即位式に出席し、ヘラートとアフガニスタンに相当する範囲の地域の支配を認められる。
 1253年ごろ、シャムスッディーンは任地のヘラートに入城した。
 モンケの弟フレグが西征を実施した時、1255年にシャムスッディーンはサマルカンドのフレグに謁見し、遠征の協力を約束した。
 1256年から1257年にかけて、イラクに向かったフレグの本隊とは別に、シャムスッディーンはアフガニスタンからインダス川沿岸部にかけての地域で軍事活動を展開する。
 クルト朝の遠征は同時期にサリ・ノヤンが行ったインド侵入に呼応したものと考えられており、フレグの本隊が攻撃の対象としていたアラムートのニザール派の暗殺教団、アッバース朝とインドの連絡を絶つことができた。

 ◆イルハン国への従属

 1263年から1264年にかけて、シャムスッディーンはスィースターン(英語版)を征服し、西アジアでイルハン朝を創始したフレグの元に出頭する。
 1266年にクルト朝の軍隊はフレグの跡を継いだアバカ・ハンの軍事遠征に従軍し、コーカサス地方のデルベントとバクーでジョチ・ウルスのベルケ・ハンと交戦した。
 1270年にイルハン国に進軍するチャガタイ・ウルスのバラクの使者がヘラートを訪れた時、シャムスッディーンはバラクへの協力を約束し、アバカとバラクのどちらが勝利するかを静観した。
 シャムスッディーンがバラクに物資を供給したことを知ったアバカは激怒し、ヘラートの略奪を命令したが、周囲の人間のなだめによって略奪を中止する。アバカはバラクに協力したシャムスッディーンの態度に疑いを抱き、またシャムスッディーンの政敵から讒言を受けたため、彼をタブリーズの宮廷に召喚した。1278年にアバカの命令によってシャムスッディーンは毒殺され、シャムスッディーンの子ルクヌッディーン(シャムスッディーン2世)が新たなクルト朝の君主に据えられる。
 1283年にシャムスッディーン2世はハイサル城砦に移り、子のギヤースッディーンにヘラートの統治を委任した。
 また、シャムスッディーン2世は長子のファフルッディーンの行状が悪い点を考慮し、彼を城砦内の牢獄に監禁した。シャムスッディーン2世はイルハン国内の政敵の讒言から身を守るためにハイサル城砦に閉じこもり、やがてギヤースッディーンもハイサル城砦に逃げ込んだ。
 統治者を失って不安に襲われたヘラートの住民は他の地に移住し、さらにニクーダリーヤーン部族が人口の減少したヘラートで略奪と住民の拉致を行ったため、ヘラートは無人に近い状態になった。

 1291年にイルハン国の王子ガザンは将軍ナウルーズをヘラートに派遣し、ナウルーズは荒廃したヘラートの復興を推進した。
 シャムスッディーン2世はナウルーズからヘラートへの帰還を求められたが、シャムスッディーン2世は政務への復帰を拒んだ。
 結局、ナウルーズは脱獄したファフルッディーンを新たなヘラートの君主として迎え入れ、退位したシャムスッディーン2世はハイサル城砦で隠遁生活を送った。
 ガザンの宮廷を訪問したファフルッディーンは破格の待遇を受け、金品、礼服、1,000人のモンゴル兵を下賜される。

 ◆ガザン、オルジェイトゥ時代の
             クルト朝

 1296年ごろにナウルーズがハンに即位したガザンに対して反乱を起こしたとき、ファフルッディーンは反乱に失敗したナウルーズを匿った。
 しかし、ガザンの軍がヘラートに接近すると、ファフルッディーンはナウルーズをガザンの元に引き渡した。
 ナウルーズの処刑後、ファフルッディーンは改めてガザンから国の領有を認められ、イルハン国のオルド(宮廷)への出仕を免除される。
 やがてファフルッディーンはイルハン国からの独立を図り、ヘラートの防備を固め、貢納と物資の徴発を拒否した。
 ファフルッディーンはイルハン国から敵対視されたために領内に逃げ込んできたニクーダリーヤーン(カラウナス)に保護を与え、近接する地域に彼らを派遣し、破壊を行わせた。
 ニクーダリーヤーンの被害を受けた地域の人間はガザンに保護を求め、彼らの訴えを聴きいれたガザンは弟のハルバンダ(オルジェイトゥ・ハン)にファフルッディーンの討伐を命じた。
 1299年にヘラートはハルバンダの攻撃を受け、両軍に数千人の死者を出した戦闘の末、ファフルッディーンが金を支払うことを条件に和約が成立した。
 1304年にオルジェイトゥがイルハン国のハンに即位した後、ファフルッディーンはオルジェイトゥからの報復を恐れ、祝賀のためにイルハン国の宮廷を訪問しようとしなかった。
 1306年にオルジェイトゥは将軍ダーニシュマンドが率いる討伐隊をヘラートに派遣し、ヘラートは一時的にダーニシュマンドに占領され、ファフルッディーンはヘラート近郊のアマーン・クー城砦に避難した。
 ファフルッディーンがヘラートに残したクルト朝の将軍ムハンマド・サームが城内でダーニシュマンドを殺害し、ヘラートは解放される。
 ダーニシュマンドの殺害後、ヘラートは彼の子ブジャイ、タガイらの包囲を受け、包囲中にアマーン・クーのファフルッディーンが没する。
 包囲を受けたヘラートは食料が欠乏して飢餓に陥り、ムハンマド・サームはブジャイに降伏を申し出た。
 開城後にムハンマド・サームは処刑され、オルジェイトゥは人質として預かっていたファフルッディーンの弟ギヤースッディーンを新たなヘラートの領主に任命した。

 ブジャイをはじめとする一部のイルハン国の廷臣はギヤースッディーンを敵対視し、オルジェイトゥに讒言を行った。
 1311年にギヤースッディーンはオルジェイトゥの元に召喚され、3年にわたって拘留された末、所領の領有権を認められ、多量の財宝を下賜された。
 1315年にギヤースッディーンはヘラートに帰国する。
 ギヤースッディーンの時代にヘラートはチャガタイ家の王子ヤサウルから攻撃を受け、またイスフィザールの領主クトゥブ・ウッディーンやスィースターンの住民と対立する。
 1318年にヤサウルがイルハン国に侵入した際、クルト朝の領土はヤサウルの略奪を受け、翌1319年にヘラートはヤサウルの包囲を受けた。
 ギヤースッディーンはイルハン国の将軍フセインの援軍と共にヤサウルの包囲を解き、戦後アブー・サイード・ハンから新たな領地と領民を与えられた。
 1320年8月にギヤースッディーンはメッカ巡礼に向かい、子のシャムスッディーン3世にヘラートの統治を委任した。
 1327年にイルハン国の有力者チョバンがギヤースッディーンに助けを求め、ヘラートに亡命する。ギヤースッディーンはチョバンと旧交があったが、アブー・サイードの命令に従ってチョバンを殺害した。
 ギヤースッディーンの死後、彼の子たちが跡を継ぐが、シャムスッディーン3世とハーフィズはどちらも短期間で没する。友人であるチョバンを殺害したギヤースッディーンの背信行為のため、子供たちの治世が長く続かなかったのはチョバンの呪いと噂された。
 ハーフィズが暗殺された後に、ハーフィズの弟であるムイズッディーン・フセインが即位し、ムイズッディーン・フセインは兄を暗殺した貴族たちを討伐する。

 ◆王朝の独立

 1335年にアブー・サイードが没した後にイルハン国は急速に崩壊し、ムイズッディーン・フセインはハン位の請求者の一人であるジョチ・カサル家のトガ・テムルと同盟し、彼に貢納した。そして、ホラーサーン地方の小勢力の領主たちの多くはクルト朝の保護下に入った。
 イルハン国の崩壊後、ムイズッディーン・フセインはサブゼヴァール(英語版)を中心とする隣国のサルバダール政権と争った。
 トガ・テムルと対立していたサルバダール政権は彼の同盟者であるクルト朝も敵とみなし、クルト朝の領土はサルバダール政権の侵入に晒される。
 1342年7月18日のザーヴァの戦いでクルト軍とサルバダール軍が衝突した時、当初はサルバダール軍が優勢だったが、サルバダール軍内部の不和のためにクルト軍が勝利を収める。
 戦勝を収めたムイズッディーン・フセインはフトバ(英語版)の文に自分の名を刻み、独自の貨幣を鋳造し、王号を称して独立を宣言した。
 ムイズッディーン・フセインは西チャガタイ・ハン国の影響下にあったマー・ワラー・アンナフルに侵入し、西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンはクルト朝への報復を計画した。
 1351年にカザガンはバヤン・クリ・ハンを奉じてヘラートに遠征を行い、クルト朝の西チャガタイ・ハン国への臣従と貢納を条件に講和が成立した。
 1362年にサルバダール政権はクルト朝の攻撃を企てるが、サルバダール内部の不和のために遠征は行われなかった。
 政敵を殺害したアリー・ムアイヤドがサルバダール政権の指導者となった後、クルト朝はアリー・ムアイヤドの元から亡命したシーア派のダルヴィーシュたちを受け入れた。
 クルト朝はマー・ワラー・アンナフルに新たに成立したティムール朝の領土に侵入するが、そのためにティムールとの緊張が高まった。
 1370年にムイズッディーン・フセインは没し、彼の子であるギヤースッディーン・ピール・アリーが領土の大部分を継承し、サラフスとホラーサーン南部のクーヒスタンの一部はギヤースッディーンの義兄弟であるマリク・ムハンマド・イブン・ムイズッディーンが継承した。

 ◆滅亡

 ギヤースッディーン・ピール・アリーはティムールへの臣従を表明したが、1380年にティムールからクリルタイへの参加を求められた時、クリルタイに出席しなかった。
 1381年にティムールはヘラート遠征を実施し、戦闘に参加しなかったヘラート市民に財産の保障を約束した。
 短い抗戦の後にギヤースッディーン・ピール・アリーはティムールに降伏し、ギヤースッディーン・ピール・アリーはサマルカンドに移された。
 ティムールの支配下に置かれたヘラートの市民には重税が課され、有名な住民たちはティムールの故郷であるケシュ(シャフリサブス)に移住させられる。
 約束を反故にされた住民の反発を危ぶんだティムールはヘラートの城壁と塔を破壊し、1383年にティムールの予測通りヘラートの住民は蜂起した。
 また、ギヤースッディーン・ピール・アリーは子のピール・ムハンマドとともにサマルカンドに移送された。
 反乱はティムールの王子ミーラーン・シャーによって鎮圧され、同年にギヤースッディーン・ピール・アリーと彼の家族は反乱の計画に関与した疑いをかけられて処刑された。
 1389年にギヤースッディーン・ピール・アリーの子と孫はサマルカンドで処刑され、生き残ったクルト家の王族は1396年にミーラーン・シャーによって宴席の場で殺害された。

 ▶ティムール朝

 14世紀末にティムールがアフガニスタンの各地を征服してその大部分を支配した。
 ティムール朝は、かつてのモンゴル帝国の復興を目指した。
 ティムールの死後には後継者たちが学問や芸術の発達を推進し、ヘラートが文化的・政治的中心地として繁栄した。

 ▶アルグン朝

 ▶ムガル朝とサファヴィー朝の抗争

 16世紀にウズベク族のシャイバーニー朝はムハンマド・シャイバーニー・ハーンの支配下で中央アジアに勢力を伸ばし、1507年に戦争に勝利してヘラートを占領し、ティムール朝の支配は終わる。以前にウズベク族によりフェルガナを追放されたティムール家の子孫のバーブルはカーブルを領有していたためにアフガニスタン中部にカーブルを首都とする国家を建国していた。
 バーブルはサファヴィー朝のシャー・イスマーイールとともにウズベク族のムハンマド・ハーン・シャイバーニーと戦い勝利する。
 バーブルはカーブルの南北に征服し、1527年、アーグラを首都としてムガル朝の基盤を築く。
 バーブルは1530年に死ぬが、ムガル朝は、この後200年にわたってインドを支配し、大いに栄える。
 その後の16世紀と17世紀の200年間はアフガニスタンの統一は失われ、ムガル朝とサファヴィー朝によって分割統治される。
 とはいえ、17世紀前半には両国は係争地カンダハールを巡り、二度にわたるムガル・サファヴィー戦争を行った。

 《 ア フ ガ ン の 
   王 家 に よ る 統 治 》

 ▶ホータキー朝

 1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族の族長の一人ミール・ワイス・ホータキーに率いられサファヴィーに反乱を起こした。
 まず、カンダハールを攻撃し、陥落させた。
 その後、ペルシャに乗り込んだ。
 1715年ミールワイスが死ぬと息子のマフムードが争いの末後継者となり、サファヴィー朝の王座を奪い、1722年ペルシャの首都イスファハーンに向かい、ペルシャ軍を破り、長きにわたる戦いの末、イスファハーンを襲撃する。
 1725年世を去った。
 その後を従弟のアシュラフが継ぎ、オスマン軍を破ったが、1729年にナーディル・クリー・ベグの率いる復活したペルシャ軍に敗北する。

 ホータキー朝(パシュトー語: د هوتکيانو ټولواکمني)は、18世紀のアフガニスタンでギルザイ部族連合が興したイスラーム王朝。
 1709年4月、ギルザイ族の一支族、ホータク族の族長ミール・ワイスがローイ・カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻し成立した。
 最盛期には、短期間ではあるが現在のアフガニスタン、イラン、パキスタン西部、タジキスタンやトルクメニスタンの一部に跨る広大な土地を支配していた。
 1738年のカンダハール包囲戦においてフサイン・ホータキーがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗北し滅亡。

 ローイ・カンダハール(アフガニスタン南部の地域)は、16世紀から18世紀初頭までシーア派のイスラーム王朝であるサファヴィー朝最東端の支配域であったが、元々ローイ・カンダハールに居住していたパシュトゥーン人はスンナ派を信仰していた。
 彼らのすぐ東にはスンナ派のムガル帝国が位置しており、しばしばこの地域でサファヴィー朝と戦闘を繰り広げることがあった。
 また、同時期には北部地域がブハラ・ハン国の支配下に置かれている。
 17世紀後半に差し掛かると、サファヴィー朝は度重なる紛争や宗教対立に見舞われるようになり、次第に衰退の一途を辿るようになった。
 1704年、サファヴィー朝第9代シャーであるフサインは、属国のカルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルギーン・ハーン)を帝国最東端の総督に任命した。
 フサインは統治力に欠けており、既に国内は混乱しきっていた。
 ローイ・カンダハールを含むアフガニスタンでも帝国に対する反乱の気運が高まっており、総督ギオルギ11世の任務はこの地域の反乱を鎮圧することであった。
 この時拘束されたうちの一人は、後にホータキー朝初代首長となるミールワイス・ホータクである。
 彼は囚人としてイスファハーンの法廷へ送られたが、彼に対する嫌疑はフサインによって免じられたため自由の身でカンダハールに帰還した。

 17世紀後半に差し掛かると、サファヴィー朝は度重なる紛争や宗教対立に見舞われるようになり、次第に衰退の一途を辿るようになった。
 1704年、サファヴィー朝第9代シャーであるフサインは、属国のカルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルギーン・ハーン)を帝国最東端の総督に任命した。
 フサインは統治力に欠けており、既に国内は混乱しきっていた。
 ローイ・カンダハールを含むアフガニスタンでも帝国に対する反乱の気運が高まっており、総督ギオルギ11世の任務はこの地域の反乱を鎮圧することであった。
 この時拘束されたうちの一人は、後にホータキー朝初代首長となるミールワイス・ホータクである。彼は囚人としてイスファハーンの法廷へ送られたが、彼に対する嫌疑はフサインによって免じられたため自由の身でカンダハールに帰還した。
 1709年4月、ミールワイスはガズナ朝の流れをくむナーシル氏族の支援を受け、カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻した。
 叛逆は、郊外の農場でミールワイスが主催した宴会にギオルギ11世とその護衛をおびき寄せ、その場で彼らを殺害したことから始まった。
 その宴会で振舞われたワインに細工が施されていたとされている。
 次いで彼はこの地域に残るサファヴィー朝の兵士らの殺害を命じた。
 その後、彼の軍勢は反乱を鎮圧するためイスファハーンより派遣されたサファヴィー軍を撃破している。
 なお、サファヴィー側の軍勢はミールワイス側の2倍の規模を誇っていた。

 反抗的な都市を征服するためのいくつかの中途半端な試みは失敗している。
 ペルシア政府はギオルギ11世の甥であるカイホスローを鎮圧のため3万の軍勢とともに派遣したが、最初に成功を収めたにもかかわらず、条件に応じて降伏を申し入れてきたアフガニスタンに対して彼は妥協しない態度をとったため、軍は絶望的な努力を強いられた。
 結果としてペルシア軍(700人が逃亡)は完全に敗北し、彼らの将軍は死亡した。2年後の1713年、ルスタム率いる別のペルシア軍もまた、
 ローイ・カンダハール全体を支配した反乱軍に敗北した。

     —E・G・ブラウン、1924

 この反乱を機にホータキー朝が成立したが、ミールワイスは王の称号を拒否したため、彼のアフガニスタンの同郷からはカンダハールのヴァキール(摂政)にして国軍の将軍と呼ばれていた。
 彼が1715年11月に自然死すると、彼の兄弟であるアブドゥルアズィーズ・ホータキーにその地位は引き継がれた。
 なお、後に彼はミールワイスの息子であるマフムードによって殺害されている。
 1720年、マフムードはスィースターンの砂漠を越えてケルマーンを占領した。
 彼の計画は、サファヴィー朝の首都であるイスファハーンを征服することであった。
 1722年3月8日、グルナバードの戦いでサファヴィー軍を破った彼の軍勢はイスファハーンへ進軍し、6か月にわたってここを包囲、陥落させている。
 10月23日、フサインは退位し、マフムードを新たなシャーとして承認した。

 だが、ペルシア住民の多くは当初からアフガニスタンの反乱軍が政権を簒奪したとの認識を持っていた。
 1729年までの7年間はホータキー朝が事実上のペルシア支配者であり、アフガニスタンの南部と東部に限っては1738年まで支配下に置いていた。
 ホータキー朝は紛争によって成り立った王朝であるため、永続的にその領域を支配するのは困難であり、当初からその統治には苦境と暴力が伴っていた。
 マフムードはイスファハーンにおいて何千人もの民間人(宗教学者や貴族、サファヴィー家の一族など3000人以上)を虐殺するなど血に塗れた治世を行い、ペルシアでの王朝の影響力は徐々に失われていった。
 一方でホータキー朝を興したパシュトゥーン人も、1709年に反旗を翻すまではギオルギ11世を始めとするサファヴィー朝の勢力に迫害されている。

 ◆滅亡

 1725年、アシュラフ・ギルザイがマフムードを殺害してその地位を奪った。
 彼の軍勢は1729年10月にダームガーンでアフシャール族のナーディル・シャー率いるペルシア勢力と衝突したが、ホータキー朝は大敗を喫した。
 なお、後にアフシャール族はサファヴィー朝に代わってペルシアの覇権を握ることになる。
 ナーディル・シャーはペルシアからギルザイ部族連合の残党勢力を追放し、ファラーフやカンダハールのドゥッラーニー部族連合から軍勢を募った。
 軍備を整えたナーディル・シャーはアフマド・シャー・ドゥッラーニーなどを従えてカンダハールに進軍し、1738年にここを占領した。
 カンダハールの包囲によって権力の座は失われ、約30年に渡ってペルシア一帯を支配したホータキー朝は滅亡した。

 ▶アフシャール朝

 ペルシャの王位に就いたナーディルはナーディル・シャーと名乗って、カンダハールとカーブルへ進撃した。1738年に両都市を攻略し、インドへ向かった。インドでは、アブダーリー族の親衛隊がナーディルを助けた。
 彼はムガル帝国軍を下し、デリーを陥落させ、ペルシャに戻った。
 その後もオスマン帝国やサマルカンド、ヒヴァ、ブハラへ出征を続けた。
 1747年部下に殺害された。親衛隊を率いていたアフマド・ハーン・アブダーリーことアフマド・シャー・ドゥッラーニーは何とかカンダハールへ戻ることができた。


 アフシャール朝(ペルシア語: افشاریان‎、アフシャーリヤーン)は、イラン(ペルシア)の王朝で、首都はマシュハドでナーディル・クリー・ベグによって建てられた。

 ◆初代・ナーディルの勢力拡大

 ナーディル・クリー・ベグ(ナーディル・シャー)は、サファヴィー朝のアッバース3世の摂政として、ホータキー朝やオスマン朝を破って、旧サファヴィー朝が失った領土のほとんどを回復し、一時ペルシアの覇権を握った。
 1736年にサファヴィー朝のアッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーとして即位した。
 ナーディル・シャーはバルーチスターンへ侵攻し、カルホラを占領した。
 晩年になるとナーディルは息子を盲目にしたり、甥の息子ら親族を大量に殺したり、市民や役人を殺戮したりした。
 この反動により、1747年に部下の兵士らによって暗殺された。

 ◆衰退・抗争期

 ナーディルの死後、跡を継いだのは暗殺に一枚噛んでいたとされるアーディル・シャーであった。
 彼はナーディルの直系親族を一部を例外として殺戮したが、弟のイブラーヒームに背かれて廃された。
 だが、イブラーヒームも有力者の支持を得られず、すぐに廃された。

●ナーディル・シャー暗殺直後
(1747年12月ごろ)のイラン

 人に代わって擁立されたのが、ナーディルの嫡孫であるシャー・ルフである。しかし1750年、シャー・ルフは有力者によって退位させられ、サファヴィー朝の末裔とされるスライマーン2世が傀儡として即位した。
 しかしすぐに亡き祖父ナーディルの旧臣らが反乱を起こしてシャー・ルフは復位した。

 ◆滅亡

 以後のシャー・ルフは有力者の傀儡として利用された。
 そして1796年にアーガー・モハンマド・シャーがマシュハドを占領することでアフシャール朝は滅亡し、カージャール朝に取って代わられた。

 ▶ドゥッラーニー朝

 ドゥッラーニー朝(د درانیانو واکمني)は、18世紀にアフガニスタンにあった成立した王朝。
 1747年にアフマド・シャーがイランのアフシャール朝から自立して興した。
 ただし「ドゥッラーニー朝」の呼称が指し示す範囲についてはいくつかの定義がある。
 アフマド・シャーはパシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族の出身であった。
 狭義のドゥッラーニー朝(1747〜1826年)は、アフマド・シャーとその子孫の王朝(サドーザイ朝)・国家(ドゥッラーニー帝国)を指す。
 ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747〜1826年)と、続くバーラクザイ朝(1826年〜1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。

 「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。
 1747年から1973年までの王朝について「ドゥッラーニー朝+バーラクザーイー朝」、「ドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)+ドゥッラーニー朝(バーラクザイ朝)」、「サドーザイ朝+バーラクザイ朝」という3つの名称が鼎立している状況である。

 ◆サドーザイ朝

 1747年にイラン系遊牧民パシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合の一派ポーパルザイ部族(Popalzai)のサドーザイ部族がアフシャール朝から独立して建国。

 清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。
 以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。

 外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。

 ❒ドゥッラーニー帝国
 (パシュトー語: د دورانیانو امپراتوري)、またはアフガン帝国(パシュトー語: د افغانانو واکمني)は、アフマド・シャー・ドゥッラーニーが興した帝国である。



 最盛期には現在のアフガニスタン、パキスタン、イラン北部、トルクメニスタン東部、カシミール渓谷を含むインド北西部に跨る領域を支配下に置いていた。
 1747年にナーディル・シャーが死亡すると、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはカンダハール地域を獲得した。
 そこを拠点に彼はカーブル、次いでガズニーの征服を始め、1749年にはムガル帝国から現在のパキスタンやパンジャーブ北西部にあたる地域の主権を譲渡された。
 さらにアフシャール朝のシャー・ルフが支配していたヘラートを獲得するため西へ進軍し、続いてヒンドゥークシュ山脈も手中にしようと目論み軍を送り込んだ。
 ヒンドゥークシュの全部族は短期間のうちにアフマドの軍勢に加わっている。
 彼の軍は4度に渡りインドへ侵攻し、カシミールとパンジャーブを支配下に置いた。
 1757年初頭、彼はデリーの略奪を行ったが、既にデリーにおけるムガル帝国の影響力は低下していたため、アフマド・シャーによるパンジャーブ、シンド、カシミールの宗主権を認める限りにおいて帝国の維持は約束された。
 1762年にはパンジャーブにおいてシク教徒の虐殺事件を引き起こしている。
 1772年にアフマドが死亡すると、新たなドゥッラーニー朝の支配者に息子のティムール・シャーが即位した。
 ティムールは帝都をカーブルへ移し、ペシャーワルを冬季の帝都に定めた。
 ドゥッラーニー帝国は現在のアフガニスタンにおける国家の基盤と考えられており、アフマド・シャー・ドゥッラーニーは国民の父と称されている。

 ◆バーラクザイ朝
 (Barakzai dynasty)

 19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカーブル。

 1826年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。

 中央アジアがロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)の舞台となる中で、両者の対立を利用しつつ3度にわたってイギリスと戦争を繰り広げ(アフガン戦争。1838年〜1842年、1878年〜1881年、1919年)、独立を確保して現在のアフガニスタンの国境線を画定した。
 外敵との戦いは「アフガン人」の国民意識の形成にも寄与した。

 ❒ドースト・ムハンマドの自立

 18世紀末以来サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は内乱状態に陥り、カンダハールを拠点とするバーラクザイ部族が勢力を伸ばした。
 バーラクザイ部族はサドーザイ朝で宰相(ワズィール)を出す部族であり、勢力拡張を嫌ったカームラーン王子 (Shahzada Kamran Durrani) が1818年に部族の長ムハンマド・アズィーム(別名ファトフ・ハーン。
 1778年〜1818年)を殺害すると、バーラクザイ部族は各地で反乱をおこし、サドーザイ朝は事実上崩壊した。
 ムハンマド・アズィームの弟であるドースト・ムハンマドは1826年にカーブルを掌握し、ハーンを称してハン国を建国した。
 しかし、その後もしばらくは、彼の兄コハンデル・ハーンがカンダハールを本拠とし、カームラーン王子と宰相ヤール・ムハンマド・ハーンのサドーザイ朝残存勢力がヘラートを本拠として、アフガニスタンに鼎立する状態が続いた。
 こうした対立は、当地を支配下に置こうとするイラン(カージャール朝)の動向や、ロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)と結びついた。

 ❒アフガニスタン首長国

 1835年、ドースト・ムハンマドは君主の称号をアミール(首長)に変えた(アフガニスタン首長国)。

 ドースト・ムハンマドのロシアへの接近を警戒したイギリスは、サドーザイ朝の復興を目指すシュジャー・シャーを支援してアフガニスタンに介入(第一次アフガン戦争、1838年〜1842年)。
 ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスによる逮捕・追放などを経ながら、1843年に復位し、その後20年間アフガニスタンを統治した。
 1855年にはイギリスとの友好条約(ペシャーワル条約)を締結し、インド大反乱ではイギリスを支援した。
 国内にあっては、コハンデル・ハーンの死(1855年)後の混乱に乗じてカンダハールを占領、1863年にはサドーザイ家の手にあったヘラートを併合し、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた。
 ドースト・ムハンマド・ハーンの跡を継いだシール・アリー・ハーン(在位:1863年〜1866年、1868年〜1878年)は、同族間の紛争に直面した。
 1878年には、シール・アリーのロシアとの接近を危惧したイギリスからも宣戦された(第二次アフガン戦争、1878〜1881年)。
 シール・アリーの跡を継いだヤアクーブ・ハーン(在位:1879年)は、イギリスとの間にガンダマク条約を結び、イギリスの保護国となることを認めたものの、アフガニスタンの抵抗は強く、ヤアクーブも退位した。

 妥協を図ったイギリスは、シール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880年〜1901年)を保護国アフガニスタンのアミールとして認めた。
 この際、ガンダマク条約が確認され、アフガニスタンの南東国境(現在のアフガニスタンとパキスタンの国境)が画定された。
 ただし、その後もイギリスとアブドゥッラフマーン・ハーンを認めない抵抗は続き、1880年にはマイワンドの戦いにおいてイギリス軍がアイユーブ・ハーン(シール・アリーの子)に大敗を喫した。
 アブドゥッラフマーン・ハーンは、中央集権を推進したが、一方で抵抗も根強く、イランに亡命したアイユーブ・ハーンとの戦いも行われた。

 〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的見・読・調 Note ♯007

2023-09-27 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(7)

 ❖ アフガニスタン
        歴史と変遷(6) ❖

 ▶ガズナ朝

 ガズナ朝(ペルシア語: غزنويان, )

 現在のアフガニスタンのガズニーを首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年〜1187年)。
 ガズニー朝ともいう。

 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。
 また、その言語、文化、文学、習慣はペルシャのものだったことから実質的にはイラン系の王朝とする見方もある。
 その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。

 ◆サーマーン朝からの半独立

 サーマーン朝のアブド・アル=マリク1世に仕えていたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)だったアルプテギーンが、マリク1世の死後に失脚して、955年にガズナで半独立化して立てた政権を基礎としている。

 ◆アフガニスタン支配の確立

 元アルプテギーンのマムルークで、ガズナ政権の5代目の支配者となったサブク・ティギーン(在位977年〜997年)のとき勢力を拡張し、サーマーン朝に代わって現在のアフガニスタンの大部分を支配するようになり、南のパンジャーブにも進出した。
 スブクティギーンより政権の世襲が始まるため、スブクティギーンを王朝の初代に数えることが多い。

 ◆マフムードのインド侵攻

 サブク・ティギーンの死後、998年にen:Battle of Ghazni (998)で弟イスマーイール(在位997年〜998年 )を倒して即位したマフムード(在位998年〜1030年)のとき、ガズナ朝は最盛期を迎えた。
 マフムードはサーマーン朝に対する攻撃を強めてこれを滅亡に追いやり、イラン方面のホラーサーンに勢力を広げるとともに、パンジャーブから本格的にインドに進んで北インドやグジャラートに対して17回にわたる遠征を連年行った。
 異教徒に対するジハード(聖戦)の名目のもとに行われた遠征により、ガズナ朝は1018年にはカナウジのプラティハーラ朝を滅ぼすなど勢力をインドに大きく広げる。
 マフムードの治世において、ガズナ朝の領域は北は中央アジアのサマルカンドに及び、西はクルディスタン、カスピ海から東はガンジス川に至るまで広がって、ガズナ朝のマフムードの権威は鳴り響いた。

 マフムードの遠征を支えたガズナ朝の軍隊の中核は、テュルク系主体のマムルークからなっていた。
 文化面では、行政の実務はペルシア人の官僚が担当したので、ペルシア語が公用語になり、マフムードの時代には、その惜しみない援助を頼って『シャー・ナーメ』で名高い詩人フィルダウスィーを初めとする文人たちがガズナに集い、マフムードのもとでペルシア語文学が大いに盛行した。
 首都ガズナもまた繁栄を極め、文人たちはその壮麗さと征服者マフムードの名を称えた。その盛名は、ガズナ、ガズナ朝といえば、マフムードの名と永遠に結びつくといわれるほどである。マフムードが1030年に亡くなると、広大に過ぎる征服地を維持することはできなかった。

 ◆セルジューク朝の台頭

 マフムードの後を継いだ息子のマスウード1世(在位1031年〜1041年)は、1040年に新興のセルジューク朝にダンダーナカーンの戦いで敗れ、ホラーサーンなど支配領域の西半を失った。
 その後、ガズナ朝はイブラーヒーム(在位1059年 - 1099年)の治世に幾分か勢いをとりもどしたが、かつてのような栄光や力はもはや失われ、12世紀前半にはホラーサーンを本拠地としたセルジューク朝のサンジャル(在位1118年〜1157年)に臣従して貢納を行うほどであった。

 ◆滅亡

 1150年、もとガズナ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落させられ、その略奪によってガズナの繁栄も地に落ちることとなった。
 ガズナ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。

 ▶セルジューク朝

 セルジューク朝 (ペルシア語: سلجوقیان‎, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。
 大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。


 テュルク系遊牧民オグズの指導者セルジュークおよび、彼を始祖とする一族(セルジューク家)に率いられた遊牧集団(トゥルクマーン)により建国された。
 この遊牧集団を一般にセルジューク族というが、セルジューク族という語にあたる原語セルジューキヤーンは「セルジューク家に従う者たち」という程度の意味で、全てが血縁的結合をもった部族集団というわけではなく、セルジューク家の下に結集した様々な集団の集合体というべきものである。
 セルジューク族のトルコ国家という意味から、かつてはセルジューク・トルコやセルジューク・トルコ帝国、セルジューク朝トルコ帝国という呼称がしばしば用いられたが、現在はセルジューク朝と呼ぶのが一般的である。
 セルジュークはテュルク語による人名をアラビア文字で記したもの( سلجوق Saljūq/Seljūq )をペルシア語風に発音した形で、元来のテュルク語ではセルチュク(Sälčük/Selčük)といった。

 ◆セルジューク朝の勃興

 王朝の遠祖セルジュークは、オグズ族のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属するテュルク系遊牧集団(部族)の君長であった(セルジューク朝時代の資料では、むしろ『シャーナーメ』などのイラン世界伝統の歴史観に基づいて、古代のトゥーラーンの王アフラースィヤーブの後裔を名乗る場合が多く見られる)。
 10世紀後半頃にセルジュークらの遊牧集団はアラル海の北方から中央アジアに入り、アラル海東方のジャンド(現カザフスタン領)に拠を構え、南のステップ地帯や丘陵部へ定着して遊牧生活を送りながらイスラム教に改宗した。
 このように遊牧生活を守りながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語でトゥルクマーンという。 10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下してトゥーラーン(現ウズベキスタン・タジキスタン)に入り、サーマーン朝に仕えて勢力を蓄えた。
 セルジュークの子のひとり、イスラーイールは、11世紀初頭に配下のトゥルクマーン4000家族とともにさらにアム川を南渡してガズナ朝のマフムードに仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。
 しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーンの統制は失われ、アム川以南のホラーサーン地方(現トルクメニスタン)には多くのトゥルクマーンが流入し略奪が行われるようになった。

 一方、トゥーラーンに残ったイスラーイールの甥、トゥグリル・ベグをリーダーとするセルジュークの子と孫たちは、サーマーン朝を滅ぼしてトゥーラーンを支配したカラハン朝と対立して1035年にアム川を渡り、1038年にニーシャプール(現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。
 この事件がセルジューク朝の建国とされる。トゥグリル・ベグ兄弟はホラーサーンのトゥルクマーンを統御して軍事力を高め、1040年にはガズナ朝のマスウード1世の軍をダンダーナカーンの戦いで破ってホラーサーンの支配を固めた。
 トゥグリル・ベグは1042年にはアム川下流のホラズム(現ウズベキスタン西部)を占領し、1050年にはイラン高原に転進してイスファハーンを取り、イランの大部分を手中に収めた。
 また、スルタン(スルターン)の称号をこの頃から称し始めた。
 スンナ派のムスリム(イスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、バグダードにいるアッバース朝のカリフに書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派の擁護者としてシーア派に脅かされるカリフを救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つ、という大義名分を獲得した。
 1055年、バグダードのカリフから招きを受けたトゥグリル・ベグはバグダードに入城し、カリフから正式にスルタンの称号を授与された。
 同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号がイスラム世界において公式の称号として初めて認められた。

 ◆セルジューク帝国

 1063年にトゥグリル・ベグは亡くなり、甥のアルプ・アルスラーンがスルタン位を継承した。
 アルプ・アルスラーンは傅役(アタベク)のペルシア人官僚ニザームルムルクを宰相(ワズィール)として重用し、彼のもとで有力な将軍に対するイクター(徴税権)の授与による軍事組織の整備や、マムルーク(奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却した君主権力の確立が目指された。
 アルプ・アルスラーンは積極的に外征を行って領土を広げ、1071年にはマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)で東ローマ帝国に勝利し、皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕虜とした。
 この戦いによって東ローマ帝国のアナトリア方面の防衛が手薄になり、セルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなど多くのテュルク系の人々がアナトリアに流入し、アナトリアのテュルク(トルコ)化が進んだ。
 翌1072年、アルプ・アルスラーンの子マリク・シャーが、イラン東部のケルマーンにセルジューク朝のアミールとして地方政権を立てていた伯父、カーヴルト・ベグのスルタン位を狙った挑戦を破り、スルタン位を継承した。
 18歳のマリク・シャーは全権をほとんど宰相ニザームルムルクに委ね、君主の仕事は狩猟だけであるといわれたほどであった。大宰相ニザームルムルクの補佐を受けたマリク・シャーの時代に、セルジューク朝の支配は最大領域に広がった。
 西方ではセルジューク朝の権威はアナトリア、シリア、ヒジャーズに及び、東ではトランスオクシアナまで支配下に収め、セルジューク朝は中央アジアから地中海に及ぶ大帝国へと発展した。
 しかし、この時期にトゥルクマーンの一集団がファーティマ朝から聖地エルサレムを占領したことが西ヨーロッパに「トルコ人が聖地を占拠してキリスト教徒の巡礼を妨害している」という風評を呼び起こし、また東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスがアナトリアの領土奪回のためローマ教皇に対して援軍を要請したため、1096年の第1回十字軍が編成されることになる。

 版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。
 このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。
 セルジューク朝の地方政権の中では、トゥグリル・ベグが子を残さずに没したときアルプ・アルスラーンと戦って敗北したクタルムシュの子、スライマーンがアナトリアのトゥルクマーン統御のためマリク・シャーによって送り込まれ、1077年にニカイアを首都として建国したルーム・セルジューク朝(1077年〜1308年)が有名である。
 同じくマリク・シャー期にはマリク・シャーの弟トゥトゥシュによりダマスクスにシリア・セルジューク朝(1085〜1117年)が立てられ、ルーム・セルジューク朝と抗争した。
 ケルマーンには、先に触れたカーヴルト・ベグの敗死後も、その子孫がケルマーン・セルジューク朝(1041年〜1184年)として存続する。
 トゥグリル・ベクによって建国されイラク・イランを中心に支配したセルジューク朝の大スルタン政権は、これらのセルジューク朝地方政権と区別するために、大セルジューク朝とも呼ばれる。

 ◆大セルジューク朝の混乱と終焉

 1092年、宰相ニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に暗殺され、さらに同年翌月マリク・シャーが38歳で死ぬと、カラハン朝の王女テルケン・ハトゥンを母にもつ4歳のマフムードを支援する勢力と、12歳の長男バルキヤールク(ベルクヤルク)を支援する故ニザームルムルクの遺臣勢力の間で後継者争いの内紛が起こり、大セルジューク朝に2人のスルタンが並存した。1094年にマフムードが夭折するとバルキヤールクは単独のスルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャーの弟たちとの間でも後継者の座を巡って争いが続き、1099年に十字軍がシリアに到来してエルサレムを奪ったときも十分な対応をとることができない状態であった。
 さらに、バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルらがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争いを起こすと、大セルジューク朝の支配領域はバルキヤールクとムハンマドの間で分割されることになった。
 この内紛は、バルキヤールクが1104年、その子マリク・シャー2世が1105年に若くして没したために、ムハンマド・タパルのスルタン位継承をもって終結するが、もはやスルタンの権威は大きく失墜していた。

 1119年に至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーンに派遣され、イラン西部から中央アジアにかけて勢力を確立していたムハンマド・タパルの同母弟サンジャルが、前年に亡くなったムハンマド・タパルの子マフムードを破り、甥にかわって兄ムハンマド・タパルの後継者としての地位を確立した。
 これをきっかけにサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たち、イラク・セルジューク朝(1118年〜1194年)に対しても大スルタンとして宗主権を行使するようになり、1123年には断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻して、大セルジューク朝を復興させた。
 サンジャルはガズナ朝の都ガズナを征服し、ガズナ朝を支配下に置いた。
 1121年には現在のアフガニスタンに勃興したゴール朝を服属させ、1130年にはカラハン朝を宗主権下に置き、支配下にありながらサンジャルに反抗したホラズム・シャー朝のアトスズを攻撃して屈服させた。
 こうしてサンジャルは大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功したが、1141年に東方から襲来してカラハン朝を侵食した耶律大石率いるキタイ人の西遼軍を撃退しようと出撃してカトワーンの戦いで敗れた。
 この敗戦やキタイ人に追われて中央アジアから新たにホラーサーンに逃れてきたトゥルクマーンの増加はサンジャルの地盤であったホラーサーンを脅かすようになった。
 1153年、トゥルクマーンの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した。
 1157年のサンジャルの病没によってセルジューク朝の全体に権威を及ぼす大スルタンは消滅し、大セルジューク朝は事実上滅亡した。

 ◆イラクとケルマーンにおける
       セルジューク朝の滅亡

 サンジャルの死後、ホラーサーンは将軍たちの内紛の末、ホラズム・シャー朝の手に渡った。
  一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、サンジャルの先代の大スルタン、ムハンマド・タパルの子孫でイラン西部(イラーク・アジャミー)とイラク(イラーク・アラビー)を支配したイラク・セルジューク朝が存続したが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、アタベクたちが実権を掌握し、支配は有名無実化していった。
 1194年、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュはイランに進出し、イラク・セルジューク朝最後のスルタン・トゥグリル3世を敗死させた。ケルマーン・セルジューク朝は、既に1186年にトゥルクマーンによってケルマーンを奪われ滅亡しており、トゥグリル3世の死によりイラン・イラク・ホラーサーンにおけるセルジューク朝は完全に滅亡した。
 ルーム・セルジューク朝は他のセルジューク朝諸政権が内紛から衰退に向かう12世紀後半にただひとつ最盛期を迎えたが、1243年にモンゴルの支配下に置かれた。
 ルーム・セルジューク朝はその後も名目の上では存続し、セルジューク朝の地方政権のうちでは最も長く続いたが、1308年に最後のスルタンが没して消滅した。

 ▶ホラズム・シャー朝

 ホラズム・シャー朝(ペルシア語: خوارزمشاهیان‎ Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年〜1231年)。
 ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。


 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。

 ◆建国から拡大の時代

 ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。
 アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。
 ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。
 1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルターン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。
 この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ・キタイ(西遼)を中央アジアに呼び寄せたという節もある。
 1141年、カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。
 しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。
 1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。

 1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。
 争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。
 テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。
 1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
 1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。
 もともとホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民カンクリやキプチャクの力が大きな役割を果たした。
 テキシュの妻の一人であるテルケン・ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムハンマド(アラーウッディーン)が1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。

 ◆大帝国の建設と崩壊

 テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた。
 アラーウッディーンはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。
 カラ・キタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝は臣従と引き換えにアラーウッディーンにカラ・キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ・キタイを攻撃した。
 アラーウッディーンはカラ・キタイに敗れてホラズム内に彼が戦死した噂まで流れるが、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟してスィル川を渡り、キタイ人を破った。
 同1210年(もしくは1212年)にホラズムへの臣従を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフルを勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した。
 さらにはシハーブッディーンの死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。
 アラーウッディーンはゴール朝のホラズム侵入をアッバース朝の扇動によるものと考え、バグダードの領有とカリフの地位を望んだ。
 アッバース朝が招集したファールスやアゼルバイジャンのアタベク政権を破り、1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。

 しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。
 ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラ・キタイの政権を奪ったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた。
 アラーウッディーンはモンゴル帝国のチンギス・ハーンと誼を通じていたが、1216年にスィル川河畔のオトラルで、ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュクが、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった。
 モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラーウッディーンはテルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した。

 ◆モンゴル襲来と滅亡

 おそらくかねてから中央アジア侵攻の機会をうかがっていたモンゴル帝国のチンギス・ハーンは、この事件を機にホラズム・シャーへの復讐を決し、1219年にハーン自ら率いるモンゴル軍の大規模な侵攻を開始した。
 アラーウッディーンはカンクリ族を含む、遊牧民諸部族の寄り合いだったため、モンゴルの侵攻に対しては内紛と反抗の危険性に脅かされていた。
 これにより、モンゴルの侵攻に対して寝返りの危険がある野戦で迎撃する作戦を取ることができず、兵力を分散してサマルカンド、ブハラなど中央アジアの各都市での籠城戦を行なった。
 その結果、各都市は綿密に侵攻計画を準備してきたモンゴル側の各個撃破にあって次々に落城、破壊され、ホラズム・シャー朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事実上崩壊した。
 アラーウッディーン・ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先のカスピ海上の小島で死亡した。
 モンゴル軍の侵攻に際し辛うじて抵抗を続けることができたのは、アラーウッディーンの子ジャラールッディーンであった。
 ジャラールッディーンはアフガニスタン方面でモンゴルと戦い[24]ながら次第に南へと後退し、一時はインダス川を渡ってインドに入った。
 ジャラールッディーンはインドの奴隷王朝に支援を求めるが拒絶され、奴隷王朝とインドの領主たちはジャラールッディーンを放逐するために同盟した。
 ジャラールッディーンはイランに戻って各地を転戦、エスファハーンで独立した弟ギヤースッディーンを破る。
 イラクを経てアゼルバイジャンに入り、1225年に当地のアタベク政権イルデニズ朝を滅ぼしてタブリーズに入城した。

 ジャラールッディーンはアゼルバイジャンを根拠にグルジア王国を攻撃して南カフカスから東アナトリアに勢力を広げるが、1227年にギヤースッディーンの裏切りによってモンゴル軍との会戦に敗れる。
 ジャラールッディーンはギヤースッディーンを再び破り、イラクに進出した。アナトリア中央部を支配するルーム・セルジューク朝と婚姻関係を結ぼうと試みたが、東部アナトリアの領土を巡って交渉は決裂した。
 1230年、ジャラールッディーンは東部アナトリアのエルズィンジャン近郊でルーム・セルジューク朝とダマスカスを支配するアイユーブ朝の地方政権の連合軍に敗れ、その兵力の半数を失った。 1231年、チンギスの死後に後を継いだオゴデイ・ハーンはイラン方面に将軍チョルマグンを指揮官とする討伐隊を派遣する。宰相シャラフ・アル=ムルクをはじめとする配下と、モンゴル軍の到来を知ったアゼルバイジャンの住民はジャラールッディーンに反旗を翻した。
 モンゴル軍の攻撃を受けたジャラールッディーンは東部アナトリアのアーミド(現在のディヤルバクル)近郊の山中に逃亡するが、怨恨を抱く現地のクルド人によって殺害される。
 ジャラールッディーンの死により、ホラズム・シャー朝は滅びた。

 《モンゴルのホラズム・シャー朝征服》

 1219年から1222年にかけて行われたモンゴル帝国によるホラズム・シャー朝の征服について。

 この遠征によって中央アジアには多大な被害がもたらされたとされるが、その規模については諸説ある。

 ◆戦争の背景

 ❒両国の交流

 13世紀初頭、中央ユーラシアの東方(モンゴル高原)ではテムジン(チンギス・カン)率いるモンゴル国、西方(中央アジア)ではアラーウッディーン率いるホラズム国という2大勢力が急速に勢力を拡大しつつあった。
 更に、1211年から1215年にかけてモンゴル帝国は第一次対金戦争によって華北の大部分を制圧し、ホラズムは1212年/13年までにマー・ワラー・アンナフル地方を制圧してアフガニスタンのゴール朝を併合し、
 1217年/18年にはバグダード遠征を実施してアッバース朝のカリフに圧力を加えイラン方面にも勢力を拡大した。
 一連の戦役によって多民族を統べる大帝国を築きつつあった両国は既に互いの存在を意識しており、イルハン朝の歴史家ジュヴァイニーは、1200年に没したホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・テキシュは西遼の後方に存在する「恐るべき民族」の存在をアラーウッディーンに警告し、聖職者のサイイド・モルタザは「恐るべき民族」の防壁となる西遼の衰退を嘆いたことを伝えている。 
 1215年、アラーウッディーンはサイイド・バハーウッディーン・ラーズィーが率いる使節団をチンギスの元に派遣した。
 チンギスは使節団を厚遇し、ホラズム地方出身のマフムードらが率いる返礼の使節団を派遣するなど、表面上の友好関係を築いた。

 一方、同時期に両国の中間にあたるアルタイ山脈から天山山脈にかけては、かつてモンゴル帝国によって滅ぼされたメルキト部とナイマン部の残党が逃れ込み、ナイマン部のクチュルクはカラ・キタイ朝を乗っ取るに至っていた。
 1216年に中国方面の攻略を将軍ムカリに委任しモンゴル高原に帰還したチンギス・カンは、翌1217年にはスブタイ(「四狗」の一人)率いる軍団をケム・ケムジュートのメルキト部残党の下に、ボロクル(「四駿」の一人)率いる軍団を叛乱を起こした「森林の民(ホイン・イルゲン)」の下に、そして1218年にジェベ(「四狗」の一人)率いる軍団を天山山脈のナイマン部=カラキタイの下へ、それぞれ派遣した。
 このうち、ジェベとスブタイは順調に敵軍を討伐したが、ボロクルのみは敵軍の奇襲を受けて急死してしまったため、1218年にチンギス・カンの長男ジョチが後詰めとして出陣し、恐らくはスブタイらの軍団も指揮下に入れ、キルギス部を初めとする「森林の民(ホイン・イルゲン)」を平定した。

 また、ジェベが率いる遠征隊が西遼を滅ぼして東トルキスタンを支配下に収めると、西遼を吸収したモンゴル帝国はホラズム・シャー朝と領土を接するようになった。
 一方、スブタイらに敗れたメルキト部残党の中でクルトゥカン・メルゲンのみは更に西北方面に逃れてキプチャク草原東端に進出し、これを追ったジョチ率いるモンゴル軍は期せずしてホラズム朝の支配圏に侵入することになった。
 一方、ホラズムのアラーウッディーンもまた早い段階から自国領に侵入したメルキト部の動きを察知しており、これを撃退すべくサマルカンドからブハラを経由してジャンドに至った。
 ジャンドに到着したアラーウッディーンはメルキト部を追撃するモンゴル軍もまた西進してきたことを知ると、モンゴル軍に打撃を与える絶好の機会と見てサマルカンドに戻って精鋭軍を招集し、自ら軍勢を率いて北上した。

 ❒オトラル事件

 このようにモンゴル・ホラズム両国の対立が深まっていた1218年に、アラーウッディーンはブハラにおいてモンゴル帝国から派遣された使節団と謁見し、「両国の友好を望み、自分の子のように見なしたい」というチンギスからの申し出を受け取った。
 アラーウッディーンは使節の一人であるマフムードにモンゴル帝国の兵力について尋ねたとき、アラーウッディーンに怒気を帯びていることに気付いたマフムードはモンゴルの兵力はホラズム・シャー朝に比べて弱いものだと答え、平静を取り戻したアラーウッディーンは友好的な回答を与えて使節を送り返したと伝えられている。
 同年、モンゴルが派遣した使節団と隊商がオトラルの町で総督イナルチュクに殺害され、財貨が略奪される事件が起きた。
 モンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征の原因を使節団の虐殺に対する報復とすることが従来定説とされているが、先述したようにメルキト部・ナイマン部残党の動向を巡って両国は1217年から既に軍を動かしており、「オトラル事件」はモンゴル側にとってホラズム侵攻の正当化の方弁に過ぎないと指摘されている。

 そもそも中央アジア遠征の補給基地たるチンカイ・バルガスンが1212年に建設されているように、ホラズム・シャー朝の攻撃は前もって計画されたものであり、使節団は遠征の前に派遣された偵察隊の役割を担っていたと推定する見解が現れている。
 モンゴルの中央アジア遠征の動機として、王侯貴族への新たな牧地の授与、従属民への戦利品の分配による社会的矛盾の緩和が挙げられている。
 また、オトラルの虐殺はモンゴル帝国とホラズム・シャー朝の友好による交易路の保護と拡張を期待していたムスリム商人に打撃を与え、彼らの交易ネットワークは破綻した。

 ❒カラ・クムの戦い

 それぞれメルキト部残党を追ってシル河北方の草原地帯に至ったジョチ率いるモンゴル軍とアラーウッディーン率いるホラズム軍は、1219年初頭に「カンクリ族の住まう地」カラ・クムにて激突した。
 両軍はともに遊牧国家伝統の右翼・中央・左翼からなる3軍体制を取って戦闘に臨んだが、両軍ともに決めてを欠いたまま日没を迎え、遂に明確な勝敗が決まらないまま両軍は撤兵した。
 ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』は、戦後に戦闘の経過を聞いたチンギスが「ホラズム軍の勇敢さを品定めし、スルターン軍の程度と規模がはたしてどれほどのものなのか、かくてわれらにはどのような取り除けない壁も、抗しえない敵ももはやないとわかって、諸軍をととのえ、スルターンに向かって進軍した」と記しており、この一戦でホラズム軍の力量を見切った事でチンギス・カンはホラズム侵攻を最終的に決断することになった。
 一方、ホラズムの側では国王自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援がなければ自らの身すら危うかったスルターン=アラーウッディーンは自信喪失してしまった。
 モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなくオアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている。
 なお、古くはロシア人史家V.V.バルトリドの学説に基づいて「カラ・クムの戦い」の戦いが起こったのは1216年のことで、モンゴルのホラズム侵攻とは直接関係ない戦いであったとする説が有力であったが、バルトリドの議論は史料の誤読に基づくものであって現在では成り立たないと指摘されている。

 モンゴル帝国で開催されたクリルタイでホラズム・シャー朝との開戦が正式に決定されると、軍隊の編成が協議された。
 チンギスは末弟のテムゲ・オッチギンをモンゴル高原に残し、1218年末にホラズム・シャー朝への行軍を開始した。 
 1219年夏にチンギスはイルティシュ河畔で馬に休息を取らせ、同年秋に天山ウイグル王国、アルマリクのスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンの軍隊を加えて進軍した。
 開戦前にモンゴル帝国は西夏にも援軍の派遣を求めていたが、西夏から援軍は送られなかった。
 経済的な危機に直面するムスリム商人はモンゴル帝国の征西に積極的に協力し、ホラズム・シャー朝の国情や地理に関する詳細な情報を提供するだけでなく、遠征の計画の立案にも関与していたと考えられている。

 ▶ゴール朝

 ゴール朝(ペルシア語: دودمان غوریان, ラテン文字転写: Dudmân-e Ğurīyân))は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝(11世紀初め頃〜1215年)。
 グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家(ペルシア語: شنسبانی, ラテン文字転写: Šansabānī)という。


 ◆ゴール朝の先祖

 シャンサブ家を首長とするシャンサバーニー族は、現在のアフガニスタン中部、ハリー川上流にあたるヘラートの東の山岳地帯ゴール地方(グール、マンデーシュとも)に居住しイラン系の言語を話していた人々で、地名からゴール人あるいはグール人と呼ばれたため、王朝の名が起こった。
 王統の起源については詳しいことは不明であるが、ゴール朝滅亡後にまとめられた年代記によると、その先祖は第4代正統カリフ、アリーの時代にイスラム教に帰依し、バンジー・シャンサバーニーのとき、アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードによってゴール地方の領主に定められたという。
 確実なところでは11世紀初頭頃に歴史上にあらわれ、ガズナ朝の英主マフムードの遠征を受けてガズナ朝に服属した。その後、ガズナ朝衰退後の11世紀末にガズナ朝とセルジューク朝との緩衝地帯になったことから自立し、1099年に独立を認められたが、1108年にはアフガニスタン北西部からイランにかけてのホラーサーンに拠るセルジューク朝のサンジャルによる支配を受け、セルジューク朝に服属した。
 ゴールの地方勢力であった頃のゴール朝は、シャンサバーニー族の部族制国家の性格が強く王朝内部の争いがしばしば起こったが、12世紀には、王家の一員クトゥブッディーンが兄弟たちの争いからガズナの宮廷に逃れたところ毒殺される事件があった。
 また、この事件の後には、ゴール朝のサイフッディーンは一時ガズナを占領したもののガズナ朝を支持する民衆たちの反感からまもなく捕虜となって処刑され、ゴール朝とガズナ朝は対立を深めた。

 ◆アラーウッディーンの勃興

 1150年に至り、ゴール朝のアラー・ウッディーン・フサイン2世(フランス語版)(ʿAlāʾ-ud-Dīn Ḥusayn II)は、カンダハール付近の戦いで、ガズナ朝のバフラーム・シャーに大勝した。この戦いで、歩兵を中心としたゴール軍は、防御用の盾を連ねて堅固な陣地を築いてガズナ軍の戦象隊を食い止め、攻撃の決定力をもたないガズナ軍をさんざんに打ち破り、ガズナを最終的に奪ってガズナ朝をホラーサーン・アフガニスタンからインド方面へと追った。
 ガズナへ入城したゴール軍は積年の恨みを晴らさんばかりに略奪、蹂躙の限りを尽くし、ガズナの歴代スルタンの遺骸まで掘り出して焼いたという。
 これによってゴール朝は、カーブルからガズナまで現在のアフガニスタン東部を広く支配することとなり、自立、発展の基礎を築いた。
 ゴール朝の君主はそれまでマリクあるいはアミールと称していたが、こののちスルタンを称するようになり、儀礼用の日傘を用いるようになった。
 1152年、ゴール朝はセルジューク朝への貢納を停止し公然とこれに宣戦したが、テュルク系の兵力がセルジューク朝側に降ったため惨敗し、アラーウッディーンは捕虜になった。
 しかし、まもなくセルジューク朝のサンジャルがトゥルクマーン遊牧民(オグズ)との戦いで捕虜となったことをきっかけにセルジューク朝のホラーサーン政権は無力化し、西のホラーサーンが政治的空白地帯になったため、ゴール朝は急速な勢力拡大に向かう。 アラーウッディーンは、シャンサブ王家の王族の間で領域を三分割支配する体制を築き、ゴール地方のフィールズクーフを宗家が支配し、ガズナとバーミヤーン(Bamiyan Branch)をそれぞれ分家が支配するようになった。
 バーミーヤンのゴール朝は西方に勢力を伸ばしてアム川流域にいたる地方を支配し、ガズナの分家がインド支配を企てることになる。

 ◆最盛期

 アラーウッディーンの死後、王位を奪手中に収めた甥のギヤースッディーン・ムハンマドがゴールを支配し、弟のシハーブッディーン(ムイッズッディーン・ムハンマド、ムハンマド・ゴーリーとも)がガズナを支配した12世紀後半から13世紀初頭に、ゴール朝は最盛期を迎えた。 兄弟は連携して領域を拡大し、ギヤースッディーンは弟と協力して1186年にラホールにいたガズナ朝を滅ぼした。
 北では、1190年にホラズムからホラーサーンに支配を広げつつあったホラズム・シャー朝を破ってその君主を捕虜とし、1198年にはカラキタイ(西遼)の侵入を撃退した。
 こうして1200年には、ホラーサーンの大半を支配することに成功し、ニーシャープールにホラーサーン総督を置いた。
 一方、弟のシハーブッディーンはラホールからインド奥深くへと侵攻し、1191年にはタラーインの戦いでラージプート軍を破り、ベンガルまで軍を進めて事実上の北インド支配を達成した。
 ゴール朝の国力が絶頂となったギヤースッディーンの治世には、王朝の本拠地ゴールやヘラートで盛んに建設事業が行われた。中でもゴール地方のハリー川支流のほとりに立つジャームのミナレットは現存し、世界遺産に登録されている。

 ◆ゴールの支流とデリー・スルターン朝の成立

 1203年、ギヤースッディーンが病没すると弟のシハーブッディーンがその後を継いで西方経営に力を注いだが、ホラズム・シャーとカラキタイに敗れ、ヘラートを除くホラーサーンのほとんど全土を失った。
 1206年にシハーブッディーンがインド遠征の帰途に陣没すると、ギヤースッディーンの息子であるギヤースッディーン・マフムードが王位を継いだが、支配下のゴール人やアフガン人の歩兵軍団と、テュルク系の奴隷身分出身のマムルーク騎兵軍団がそれぞれ後継者を擁立した。北インドに残されていたマムルークの将軍・クトゥブッディーン・アイバクは自立してインドに奴隷王朝を開いた。
 これ以降、デリーを中心にデリー・スルターン朝と総称されるムスリムの王朝が5代続き、そのもとでインドのイスラーム化が進んだ。
 1210年にギヤースッディーン・マフムードが暗殺されると、息子バハー・ウッディーン・サーム3 世が擁立されたが、これ以降、バーミヤーンの支流と互いに争いを繰り返したためゴール朝は急速に解体に向かった。

 ◆滅亡

 1215年に最後の君主・アラー・ウッディーン・ムハンマド4世がホラズム・シャー朝の君主・アラーウッディーン・ムハンマドによって廃され、ゴール朝は滅亡した。
 1245年にギヤースッディーン・ムハンマドの封臣の一族であるクルト家のシャムスッディーン・ムハンマドは、クルト朝をホラサーンで興した。

 《 モ ン ゴ ル 時 代 》

 ▶モンゴル帝国

 アラー・ウッディーンの死後にゴール朝は崩壊してアフガニスタンの支配権はアラー・ウッディーン・ムハンマド(ホラズム・シャー)に移る。
 ホラズム・シャー朝の時代にはアフガニスタンの勢力は中国、トルキスタン、イラクにまで達していた。
 ホラズム・シャーはアッバース朝カリフの地位を獲得するために1219年にバグダードにまで進軍するが、チンギス・ハンが率いるモンゴル帝国軍がアフガニスタン東部へ侵略して諸都市が占領され、これに反撃するものの失地の回復は失敗してホラズム・シャー朝は滅亡した。
 しかしチンギス・ハンの死後にアフガニスタン各地で族長が独立国家を打ちたてた。

 ▶チンギス・カンの西征

 チンギス・カンの西征は、13世紀にモンゴル帝国によって行われた征服戦争。1219年から1223年までの一連の戦闘によってモンゴル帝国は飛躍的に領土を広げ、1225年に帰還した。

 ◆背景

 1206年にチンギス・カンによって建国されたモンゴル帝国は、第一次対金戦争で成功を収めて東アジア最強の帝国に成長した。
 一方、ホラズム地方を中心として1077年に成立したホラズム・シャー朝も、ほぼモンゴル帝国と同時期に急成長し、西アジア最強の帝国となっていた。

 ❒西遼侵攻

 1204年にチンギス・カンがナイマン部族を征服した後、1208年にナイマンの族長タヤン・カンの子であるクチュルクは西遼(カラ・キタイ)に亡命する。西遼の皇帝である耶律直魯古はクチュルクに将軍の地位と自身の娘を与え、モンゴル帝国への備えとしようとした。
 しかし耶律直魯古は人望がない上に暗愚であり、属国であったホラズム・シャー朝や西カラハン朝、天山ウイグル王国などに次々と独立をされていた。
 1211年にホラズム・シャー朝と西カラハン朝が再び反乱を起こすと、耶律直魯古は軍に命じてサマルカンドを包囲させるものの、今度は西遼軍不在の間にクチュルクが西遼本国で反乱を起こす。
 一度はクチュルクを撃退した耶律直魯古であるが、反撃を許し捕縛され、幽閉されてしまう。
 この簒奪の時点で西遼は事実上滅亡した。
 1218年、西遼がほぼ自滅に近い形で滅び、その多くがモンゴル帝国の領土になると、モンゴル帝国とホラズム・シャー朝は直接領土を接することとなった。
 同年、ホラズムの東方国境近くのオトラルで太守イナルチュクによってチンギス・カンが派遣した通商団が虐殺され、この事件の報復を理由にしてモンゴル帝国はホラズム・シャー朝への遠征を決定したといわれる。
 しかし、後述のようにホラズムへの遠征はかなり計画的なものであり、このことから通商団はモンゴルのスパイであり、この理由はきっかけにしか過ぎないという説もある。

 ❒ホラズム侵攻

 1219年、モンゴル高原を弟のテムゲ・オッチギンに任せ、チンギス・カンはホラズム・シャー朝への遠征を開始した。モンゴル軍はオトラルに到着すると、第一次対金戦争の時と同様全軍を三つに分け、整然とホラズムに侵入した。


 一方でホラズム・シャー朝は専守防衛を基本戦略とし、各都市ごとに分散して防衛させた。これは戦力の分散にあたり、後によく批判の的になったが、そうせざるをえない原因がホラズム内にあった。
 もともとホラズムの急激な発展は、アラル海北方に遊牧するテュルク系のカンクリ族を味方に引き入れたことが背景にあったが、カンクリ族が実際に支持するのは国王アラーウッディーン・ムハンマドの実母テルケン・ハトゥンであり、ホラズムはモンゴル来襲時にはこの母子によって二分された状態にあった。
 結果的に、カンクリ族の戦場での反乱を恐れたムハンマドは野戦でのモンゴル軍の迎撃を断念せざるを得ず、モンゴル軍を引き入れて長期戦に持ち込み、相手が撤退するところを反転攻勢する、という作戦をとった。
 しかし、おそらく事前に周到に情報収集をしたであろうモンゴル軍は、対金戦争の経験も活かし、冷静に各都市を各個撃破した。
 サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチといった名だたる都市を墜とした上、見せしめのため抵抗した都市は破壊された。
 また、この頃チンギス・カンの長子ジョチと次子チャガタイとの間でウルゲンチの攻め方で対立があり、三男のオゴデイが仲裁に入ったことでその器量を示したという逸話もある。

 完全に読みの外れたムハンマドは、カラハン朝から奪い取って首都としたばかりのサマルカンドから逃走し、本来の中心地であるマー・ワラー・アンナフルをも見捨てた。
 そして息子たちに撤退命令を出し、アムダリヤ川を越えて西へと逃走していった。この撤退には、アムダリヤ川以南にモンゴル軍を引きずり込んでゲリラ戦を展開しようという狙いもあったらしいが、モンゴル軍がこれに冷静に対応したこと、またあまりにも無様な国王の撤退によるホラズム軍の指揮系統の混乱によって、1220年にホラズム・シャー朝はほぼ崩壊した。
 一方、逃走したアラーウッディーン・ムハンマドはニシャプール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)に立ち寄ったりしながらも、結局モンゴル軍との戦争に対する指示を出したりすることもなく、カスピ海西南岸近くのアーバスクーン島で死んだ。

 ◆アフガニスタン・インド侵攻

 ジャラールッディーン・メングベルディーは、カーブルの近郊でのパルワーンの戦いに勝利し、インドを目指したがインダス河畔の戦いでモンゴル軍に大敗した。
 西方の新興国、ホラズム・シャー朝を開戦後わずか約2年で破ったモンゴル軍であったが、アムダリヤ川を越えた後、急に無秩序な戦闘を始め、無意味な虐殺を行ったりする。
 これはあまりにもあっけなくホラズム・シャー朝が壊滅した結果、十分な計画・準備を整える間もなく、逃走するホラズム軍に引きずられる形でホラーサーン・アフガニスタン方面に入り、戦局が泥沼化したことが原因ではないか、という指摘がモンゴル帝国史を専門とする杉山正明らによってなされている。
 この頃のモンゴル軍の損害としては、ジャラールッディーンによってパルワーンの戦いでシギ・クトク率いるモンゴル軍が大敗を喫したこと、バーミヤーン包囲戦でチャガタイの嫡子モエトゥケンが流れ矢を受けて戦死したことなどがあげられる。もともとモンゴル軍とはいっても生粋のモンゴル兵(モンゴル高原出身の騎兵)は少なく、現地で投降した兵が多かった。
 そのため、モンゴル軍の戦法は基本的に味方の損害を避けるやり方が多く、これらの損害はモンゴル人の上層部にとって衝撃的なものだった。
 これらの報復として、バーミヤーンにはチンギス・カンにより「草一本も残すな」という命令が出たとされ、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、などといった古代からの大都市も略奪され、完全に破壊されたとされる。

 ジャラールッディーンを追撃しつつ、南下したモンゴル軍はインダス川のほとりにおいてようやくジャラールッディーンを追い詰め、インダス河畔の戦いが行われたが、肝心のジャラールッディーンは川を渡って逃げ去ってしまう。

 〔ウィキペディアより引用〕