CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

世界の女傑たち Vol.004−②

2023-10-13 21:00:00 | 自由研究

 ■マリア・テレジア Ⅱ

 ★政治家として

 1764年3月、かつて帝位をカール7世に奪われた経緯から、長男のヨーゼフをローマ王(ローマ皇帝の後継者)へ推挙し、可決される。1765年8月18日、夫フランツが崩御する。マリア・テレジアは以後、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。
 翌1766年3月には、愛娘のマリア・クリスティーネ(愛称:ミミ)にのみ恋愛結婚を許可した上、多額の資金を与え、さらに比較的近距離のプレスブルクに居住させた。
 このことでマリア・テレジアは少し気が晴れたという。
 七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められた。
 しかし、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになる。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などが代表的であるが、彼女自身は次第に保守化した。
 また、イエズス会禁止により職がなくなった下位聖職者たちを中心に教員として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立させた。
 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。
 一方、オランダ出身の侍医であるファン・スウィーテン男爵によるウィーン大学医学部改革の後ろ盾となり、死体解剖を行うことを許容した。
 カトリック教徒であるマリア・テレジア自身も、旧来の信仰がオーストリア近代化の障壁となっていると認識していた。
 息子ヨーゼフ2世は混乱もなく帝位に就いた。1765年から崩御までの間、ヨーゼフとの共同統治となる。
 しかし、その急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残している。
 特にヨーゼフが1772年、マリア・テレジアの反対を受け入れず、第1回ポーランド分割に加わったことは彼女を深く悲しませ、その晩節を汚すものとされる。    
 さらに1777年末以降、バイエルン継承戦争をめぐってもヨーゼフと対立する。

 1780年11月中旬、マリア・テレジアは散歩の後に高熱を発し、約2週間後の11月29日、ヨーゼフ2世、ミミ夫妻、独身の娘たちに囲まれながら崩御した。
 病の床では、フランツの遺品であるガウンをまとっていたという。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。

 《子女》

 父カール6世が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていた。
 マリア・アントーニア出産時以外は安産であったという。

 ・マリア・エリーザベト(1737〜1740年)

 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Maria Elisabeth von Österreich, 1737年2月5日〜1740年6月7日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第1子、長女。両親が帝位、王位に就く以前に夭折した。

 ・マリア・アンナ・ヨーゼファ・アントニア(1738年〜1789年)
  ※エリーザベト修道院に入る。

 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Maria Anna von Österreich, 1738年10月6日〜1789年11月19日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと皇后マリア・テレジアの次女。
 成人した兄弟の中では一番の年長。
 終生独身のままウィーンで過ごし、母帝の没後クラーゲンフルトに隠棲してエリーザベト修道院への奉仕に身を捧げた。

 ・マリア・カロリーナ(1740年〜1741年)

 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ(Maria Karolina von Österreich, 1740年1月12日〜1741年1月25日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第3子、三女。
 父が帝位に就く前に夭折した。

 ・ヨーゼフ2世(1741年〜1790年) − ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王

 ヨーゼフ2世(ドイツ語: Joseph II., 1741年3月13日〜1790年2月20日)はハプスブルク帝国(オーストリア)君主で、正式にはハプスブルク=ロートリンゲン朝第2代神聖ローマ帝国皇帝(在位:1765年〜1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。実質的な女帝マリア・テレジアとその夫で正式な皇帝フランツ1世の長男。
 マリー・アントワネットの兄にあたる。

 ・マリア・クリスティーナ(1742〜1798年)

 ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンの弟アルベルト・カジミールの妃、テシェン女公、ネーデルラント総督。
 マリア・クリスティーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Christina von Habsburg-Lothringen, 1742年5月13日〜1798年6月24日)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の四女。
 名前はマリー・クリスティーネ(Marie Christine)とも記される。
 ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールと結婚し、夫婦でテシェン(チェシン)公国の公および女公となった。
 愛称は「ミミ」(Mimi)。

 ・マリア・エリーザベト(1743〜1808年)

 インスブルック修道院長
 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Maria Elisabeth von Österreich, 1743年8月13日〜1808年9月22日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第6子、五女。
 全名はマリア・エリーザベト・ヨーゼファ・ヨハンナ・アントニア

 ・カール・ヨーゼフ(1745年〜1761年)

 カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ(Karl Joseph von Österreich, 1745年2月1日〜1761年1月18日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第7子、次男。全名はカール・ヨーゼフ・エマヌエル・ヨハン・ネポムク・アントン・プロコプ(Karl Joseph Emanuel Johann Nepomuck Anton Prokop)。

 ・マリア・アマーリア(1746年〜1804年) - パルマ公フェルディナンド妃

 マリア・アマーリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Amalia von Habsburg-Lothringen, 1746年2月26日〜1804年6月18日)は、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の第6皇女。
 第8子、成人した子女の中では5人目である。
 パルマ公フェルディナンドの妃になった。
 イタリア語名ではマリーア・アマーリア・ダズブルゴ(Maria Amalia d'Asburgo)またはマリーア・アマーリア・ダウストリア(Maria Amalia d'Austria)となる。

 ・レオポルト2世(1747年〜1792年) - トスカーナ大公、のちローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王

 レオポルト2世(ドイツ語:Leopold II., 1747年5月5日〜1792年3月1日)はハプスブルク帝国(オーストリア)君主で、正式にはハプスブルク=ロートリンゲン朝第3代神聖ローマ帝国皇帝(在位:1790年〜1792年)。
 それまではトスカーナ大公(レオポルド1世 Leopoldo I., 在位:1765年〜1790年)。
 全名はペーター・レオポルト・ヨーゼフ・アントン・ヨアヒム・ピウス・ゴットハルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Peter Leopold Joseph Anton Joachim Pius Gotthard von Habsburg-Lothringen)。実質的な女帝マリア・テレジアとその夫で正式な皇帝フランツ1世の子で、皇帝ヨーゼフ2世の弟。
 短い統治にもかかわらず、外交史家ポール・シュローダーは彼を「王冠を着用した最も機敏で賢明な君主の一人」と絶賛した。

 ・マリア・カロリーナ(1748年)

 ・マリア・ヨハンナ・ガブリエーラ(1750年〜1762年)

 ヨハンナ・ガブリエーラ・フォン・エスターライヒ(Johanna Gabriela von Österreich, 1750年2月4日〜1762年12月23日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第11子、八女。
 全名はマリア・ヨハンナ・ガブリエーラ・ヨーゼファ・アントニア(Maria Johanna Gabriela Josepha Antonia)。

 ・マリア・ヨーゼファ(1751年〜1767年)

 ナポリ王フェルディナント4世との結婚直前に死去。
 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(Maria Josepha von Österreich, 1751年3月19日〜1767年10月15日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后・オーストリア大公マリア・テレジアの九女。
 全名はマリア・ヨーゼファ・ガブリエラ・ヨハンナ・アントーニア・アンナ(Maria Josepha Gabriella Johanna Antonia Anna)。

 ・マリア・カロリーナ(1752年〜1814年)

 マリーア・カロリーナ・ダスブルゴ(イタリア語: Maria Carolina d'Asburgo, 1752年8月13日〜1814年9月8日)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ナポリとシチリアの王フェルディナンド4世および3世の王妃。
 マリーア・カロリーナ・ダウストリア(Maria Carolina d'Austria)とも。
 ドイツ語名はマリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Karolina von Habsburg-Lothringen)。

 ・フェルディナント・カール・アントン(1754年〜1806年)

 オーストリア=エステ大公。
 フェルディナント・フォン・エスターライヒ(Ferdinand von Österreich, 1754年6月1日〜1806年12月24日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの四男。
 オーストリア大公(後にオーストリア=エステ大公)。
 全名はフェルディナント・カール・アントン・ヨーゼフ・ヨハン・シュタニスラウス(Ferdinand Karl Anton Joseph Johann Stanislaus)。
 モデナ公エルコレ3世の相続人に指名されたが、ナポレオン・ボナパルトのイタリア侵攻のため即位できなかった。
 フェルディナントの子孫の家系はオーストリア=エステ家と呼ばれる。

 ・マリア・アントーニア(1755〜1793年)

 フランス王ルイ16世妃 (マリー・アントワネット)
 マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日〜1793年10月16日)またはマリー=アントワネット・ドートリッシュ(フランス語: Marie-Antoinette d'Autriche)は、フランス国王ルイ16世の王妃(王后・王太后)。
 オーストリアとフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ、フランス革命で処刑された。

 ・マクシミリアン・フランツ(1756〜1801年) - ケルン大司教(選帝侯)

 マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(またはハプスブルク=ロートリンゲン)(Maximilian Franz von Österreich(Habsburg-Lothringen), 1756年12月8日〜1801年7月26日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア大公マリア・テレジアの五男。
 ケルン大司教選帝侯(在位:1784年 - 1801年)。
 全名はマクシミリアン・フランツ・クサーヴァ・ヨーゼフ・ヨハン・アントン・デ・パウラ・ヴェンツェル(Maximilian Franz Xaver Joseph Johann Anton de Paula Wenzel)。

 関連項目 ー マリーアントワネット ー

 概要 編集 フランツ1世とマリア・テレジアの第15子(第11女)として1755年11月2日にウィーンで生まれた。
 フランスとオーストリアの同盟に伴う外交政策の一環により、当時フランス王太子だったルイ16世と1770年に結婚し、彼の即位に伴って1774年にフランス王妃となった。
 オーストリアに対する同調姿勢や、ヴェルサイユでの宮廷生活について王太子妃時代から批判された。
 宮廷での束縛を嫌い、離宮のプチトリアノンで少数の貴族と過ごすことが多く、中でもハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの交流は知られている。
 しかし、王妃自らベルサイユの宮廷の模範とならなければいけない立場の中でそれを逸脱した行為や言動により、保守的な貴族を中心に大きな抵抗勢力が宮廷内に形成されることになった。
 1789年にフランス革命が始まり、アントワネットを含めた国王一家はテュイルリー宮殿に軟禁された。
 アントワネットは宮廷内で反革命勢力を形成し、君主制維持を目的として諸外国との交渉を行った。
 特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待したが、逃亡に失敗する。
 1792年にフランス革命戦争が勃発したことにより、アントワネットのイメージはさらに悪化した。
 同年8月10日に王政が廃止され、国王一家はタンプル塔に収監された。
 その後、ルイ16世の裁判が国民公会で行われ、死刑判決を経て1793年1月21日に処刑された。
 一方、アントワネットの裁判は革命裁判所で行われ、死刑判決を経て同年10月16日に処刑された。

 《生涯》

 ▼幼少期・結婚まで

 1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。
 ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。
 代父母のポルトガル国王ジョゼ1世とその王妃マリアナ・ビクトリアが名付け親となった。
 洗礼式はウィーン大司教が行い、兄のヨーゼフ大公と姉のマリア・アンナが代父母の代理を務めた。
 しかし前日にリスボン地震が起こったことが伝わると、一部では生まれた女の子の不幸な未来を予告しているのではとささやき合った。
 アントーニアは幼少期にマリア・カロリーナ、フェルディナント、マクシミリアンといった年の近い兄弟と共に育てられた。
 イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。
 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。
 また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。
 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。
 当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。
 そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

 1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
 1765年にルイ・フェルディナンが死去した。
 1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったため、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。
 1770年4月19日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂にて挙行された。
 アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。
 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
 ルイ15世は婚姻によってオーストリアとの同盟を維持しようと考えたが、七年戦争においてオーストリアと同盟を結んだフランスはプロイセンに敗北していた。
 フランスの感情として反オーストリアの機運が高まり、アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになる。
 七年戦争の敗北や、フランスの同盟国であるポーランドが1772年にオーストリア、ロシア、プロイセンに分割されたことなど、オーストリアとの同盟後に起こったこれらの事柄は、フランスがヨーロッパでの影響力を失ったとの見方が強くフランス国内に残り、フランス革命時は軍隊が国王を見限る事態に陥ることに繋がった。
 なお、マリア・テレジアはポーランド分割に反対の立場をとり、フランスがオーストリアに敵意を抱くことを恐れていた。

 ▼宮廷生活

 デュ・バリー夫人との対立

 結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。
 もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。
 当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。
 宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられているルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。
 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
 2人の対決は1772年1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。
 その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

 ▼結婚生活

 しかし、結婚当初二人ともまだ幼かったせいか、アントワネットとルイ16世との間にはなかなか子供が生まれなかった。
 これはアントワネットの地位を危うくするものだった。
 当時フランスの王位継承を規定していたサリカ法は男子の王位継承しか認めず、アントワネットには男子を産むことが要求されていたからである。
 オーストリアにいるアントワネットの母、マリア・テレジアはオーストリアとフランスの同盟関係の維持に不安を抱き、性生活を疑った。1777年4月、アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がお忍びでラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも生活をともにしていた夫妻のもとを訪問し、夫妻それぞれの相談に応じた。
 翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。
 アントワネットとルイ16世との夫婦仲はあまり良くなかったと語られることが多いが、アントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリーアントワネットに対して好意はあったとされている。
 互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離をとりがちであった。
 またアントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかった。

 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。
 時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。
 賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。
 アントワネットは自身の手で子供たちを養育することを望み、熱心に教育した。
 また、子供たちのそばにいるために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った。
 プチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、王妃の村里と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。

 ▼フランス王妃として

 1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。
 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。
 こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。
 地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。
 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。
 一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
 彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。
 ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。
 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
 1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。
 このように彼女に関する騒動は絶えなかった。

 ▼フランス革命

 1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。
 ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでアントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまう。
 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
 1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。
 アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。
 また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。
 このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。
 結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。
 このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
 1792年、フランス革命戦争が勃発すると、アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。
 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。

 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。
 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

 ▼革命裁判

 1793年1月19日、国民公会はルイ16世に死刑判決を下した。
 国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った。
 1793年1月21日午前10時にルイ16世の死刑が執行されるとアントワネットはルイ・シャルルの前にひざまずき「国王崩御、国王万歳!」と言い、新王として接したという。
 ルイ16世の死後に王后アントワネットは王太后カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった。 
 王党派によりアントワネットの脱出計画が立てられたが、実行に移されることは無かった。
 1793年7月3日、ルイ17世はアントワネットと引き離され、ジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンの手にゆだねられた。
 1793年8月2日午前1時頃、アントワネットはコンシェルジュリーへ移送された。
 フェルセンの提案により、身代金を支払う事でアントワネットの解放を模索する動きもあったが、実現されることは無かった。
 しかし王党派が立てた計画のうち、元士官のルージュヴィルが立てた脱出計画は、1793年8月28日に実行されるも失敗。
 ルージュヴィルはオーストリアへ逃亡し、警察管理官であったミショニが逮捕されるという「カーネーション事件」が起きた。
 事件以後、アントワネットの独房には検査が入るようになり、窓の下には歩哨が立つようになるなど、監視が強化された。
 アントワネットは1793年10月12日に裁判の事前尋問を受け、10月14日午前8時から午後11時、16日午前8時から午前4時の2日半間に渡り革命裁判所で裁判が行われた(裁判官は合議審で何人も交代し泣いたと伝う。
 また、マクシミリアン・ロベスピエールとジャコバン派の推薦した証人は数十人以上にもなったと云う)。
 アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪により死刑が求刑された。
 アントワネットは罪状の全てについて否定し、聡明で教養がありノブレス・オブリージュであるアントワネットは自らを弁論し、裁判官の読み上げる罪状の一言一句の全てにディベート『古フランス語・中世フランス語-debatre-ドゥバート(「戦う」こと)』し、彼女らしい芸術的ユーモアのあるフランス語の授業を展開した。
 彼女を弁論するもの彼女の弁論やディベートに異議を唱えるものはおらず彼女は無実-無罪であった。
 はじめ“このオーストリア女め、フランス語を話せない、この我儘女め”と蔑んでいた傍聴人や革命の群衆は皆が涙を流した。
 そこに革命の群衆が作り出した悪女たる“パンがなければブリオッシュ(ケーキ)を食べればいいじゃない”(後述)と言ったとされる女性はいなかった。
 ヴァレンヌ逃亡については、夫であるルイ16世に従ったためと答えた。
 ジャック・ルネ・エベールはルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦があったと報告したが、傍聴人や革命の群衆の女性達は皆が涙を流した。
 このような荒唐無稽な証言は傍聴人からの反感を買うことになり、マクシミリアン・ロベスピエールを激怒させる結果となった。

 しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、1793年10月16日午前4時頃にアントワネットは死刑判決を受けた。
 処刑の直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。
 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。
 この遺書は牢獄の管理人であったボーに渡され、検察官のタンヴィルから数人の手に渡ったのち、王政復古の時代にルイ18世にゆだねられた。
 そのため、革命下を唯一生き延びたマリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。

 ▼ギロチン処刑

 遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。
 すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。
 革命広場に向かうため、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。
 コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。
 19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.) 」だとされている。
 10月16日の12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。
 それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
 その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。
 数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。

 ▼死後

 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。
 のちに王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。
 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。
 発見されたアントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世とともに改葬された。

     〔ウィキペディアより引用〕