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ダカーポ ♯007

2023-08-20 21:00:00 | Keyword/話題

 ■痴(ち)

 ち【痴】 〘名〙 物事を考え判断する力がたりないこと。
 おろかなこと。
 また、その人。

 普段、使わない言葉ではあるが。
でも、とても大事な言葉でもあります。

 仏教用語では(moha または mūḍha の訳語) 仏語。
 三毒または根本煩悩の一つ。
 物事に対して正しい判断が下せない暗愚な心のはたらきをいう。
 惑い迷う心作用のこと。
 愚痴蒙昧(ぐちもうまい)。
  moha (愚痴)ともいう。
 事物やものの道理に関して心が混迷していて正しい判断ができないで迷う心理作用。
 すべての煩悩のもとになるもので,貪・瞋と並んで三毒 (→貪・瞋・痴 ) の一つに数えられる。
 また倶舎宗では六大煩悩地法の一つに、唯識宗では六根本煩悩の一つに数えられる。
 日本語の「ばか」はこのモーハに由来するともいわれる。

 『疒』に『知』と書いて『痴』。

 旧字は
 『疒』に『疑』と書いて『癡』。

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 ▼関連書籍

 ◆はくち【白痴】
 《原題、〈ロシア語〉Idiot》
 ドストエフスキーの長編小説。
 1868年刊。白痴とよばれるほど純真無垢な魂をもつムイシュキン公爵が、現実の社会の中でその美しい魂を破滅させていくさまを描く。

 題名の『白痴』には2つの意味がある。
 主人公ムイシュキン公爵が文字通り知能が著しく劣っているというもの(現代ではこの意味での「白痴」は差別的意味に捉えられることもある)と、「世間知らずのおばかさん」という意味である。
 しかし、作者はどちらの意味においても否定的に描いていない。
 ドストエフスキーは、白痴であるムイシュキン公爵を、誰からも好かれる文句なしの善人として描いた。
 ドストエフスキーは、文句なしの善人である主人公ムイシュキン公爵を造型することにより、そんな人物が当時のロシア社会に現れたとしたら、いかに周囲に波乱を巻き起こすかを描こうとしたという。

 《ストーリー概要》

 若い公爵レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキンは、幼時から重度のてんかん症状により、スイスのサナトリウムで療養していたが、成人して軽快し、援助してもらっていたパヴリーシチェフの死去もあって、ロシアへ戻ることになった。
 ペテルブルクへ向かう列車中で、ムイシュキンは、父の死去によって莫大な財産を得たばかりだと言うパルヒョン・ロゴージンと知り合いになり、彼が熱を上げていたナスターシャ・フィリポヴナの名を耳にする。
 ムイシュキンの両親は、既にこの世になく、彼が公爵家の最後の跡取りであったため、遠縁にあたるエパンチン将軍夫人を頼ろうと、エパンチン家の邸宅を訪れる。
 ムイシュキンは、将軍夫妻とその三姉妹に知り合い、いくつかの印象的なアネクドートを披露するうちに一家の好意を得た。
 ここで彼は、将軍の秘書ガウリーラ・アルダリオノヴィチ(ガーニャ)が金のために愛のないままナスターシャと結婚しようとしていることを知った。
 彼女は、まだ幼いころからある資産家の情婦となっており、悪評が付きまわっていたが、実は誇り高い女であった。

 ムイシュキンも、彼女と会って自分と共通する部分を感じ、ついに自らも求婚する。
 ところが、彼女は、最初にムイシュキンの善良さに気づきながらも、ロゴージンの元に走る。
 こうして、2人はライバルとなり、ロゴージンはムイシュキンを殺そうと企てるが、すんでのところでムイシュキンが発作を起こして、人に気付かれたために失敗する。
 そのうち、将軍の娘アグラーヤも、ムイシュキンに思いを寄せる。ロゴージンを選びながらも、陰ながらムイシュキンを愛していたナスターシャは、ムイシュキンに幸せになって欲しいと思い、アグラーヤに手紙で結婚を勧める。
 そのうち、アグラーヤとムイシュキンは相思相愛になる。 しかし、アグラーヤは、例の手紙のことから、ナスターシャがまだムイシュキンを好きで、ムイシュキンもナスターシャを忘れていないのではないかと嫉妬する。
 そのうち、遠くへ行っていたナスターシャとロゴージンが戻ってくる。アグラーヤは、ナスターシャとムイシュキンの関係をはっきりさせようと赴くものの、かえってナスターシャとムイシュキンを結びつけることになる。
 ムイシュキンとナスターシャは、結婚することになる。
 しかし、ムイシュキンとの結婚当日になって、彼女はまたロゴージンと逃げ出す。
 ムイシュキンが駆け付けたとき、彼女は、既にロゴージンに殺されていた。
 ムイシュキンとロゴージンは、かつて同じ相手を愛した者として、ナスターシャの死体の前で生活することを決める。
 ところが、庭師に家に入るところを目撃されており、その生活は一夜で終わる。
 発見された時、ムイシュキンは、元の白痴に戻っており、療養の日々を送ることになる。
 裁判の結果、ロゴージンは、シベリア徒刑となった。
 アグラーヤが自棄になって望まぬ結婚を急ぐところで、物語は終わる。

 《テーマ》

 ドストエフスキーが『白痴』を著した動機は、彼が“前向きで善良な男”という人物像を描きたい願望に由来し、この男はキリストをモデルにしたと思われる。
 また、ドストエフスキーはムイシュキンをサンクトペテルブルク社会に導入することにより、当時のロシア社会とこの孤独で純真な男とでコントラストを成し、これを彼とロゴージンの対立、かかわり合いによってさらに強調している。
 実に、二人は物語の手始めからムイシュキンが光、ロゴージンが闇というふうに対比している。
 例えば、二人が列車の中で最初に記述されたとき、ムイシュキンは明るい髪と青い目、ロゴージンは“暗い容貌”と描写されている。
 また、ロゴージンの家の窓は鉄格子に覆われ、家の中は闇に埋もれている。
 このように、彼は闇を具現しているだけでなく、周囲を闇に囲まれている。
 まさに正反対の二人である。もしムイシュキンをキリストと見るなら、ロゴージンが悪魔であることが簡単に想像できる。
 ロゴージン(Rogozhin)のrogはロシア語で角を意味し、前述した主張にさらに真実味を加えているが、彼の名前と最も関連性があるのはrogozha(雑種、私生児)で、彼の卑しい出身をほのめかしているかもしれない。
 ここからロゴージンがムイシュキンの過剰な博愛に対して、私生児を輩出する父性の不道徳を見出したとも取れる。

 彼らのこうした性格の違いにもかかわらず、2人はともにナスターシャを追い求める。善も悪も(そしてガーニャが体現するその中間も)同じものを欲し戦う。
 愛そのものがさまざまな動機によって、さまざまな形であらわされている。
 虚栄に満ちたガーニャは、持参金によって彼自身が不足と感じていた個性をスパークさせるためにナスターシャに結婚を求める。
 ロゴージンは自身の深い情熱のためにナスターシャを愛し、その情熱が最終的に彼に彼女を殺させてしまう。
 ムイシュキンは、しかしながら、彼女に対する憐憫の情、キリスト教的な愛のために彼女を愛し、ナスターシャに対するこの愛は彼がアグラーヤに対して持っていたロマンティックな愛をさえ打ち負かしてしまう。
 ロゴージンとロシア上流階級社会には類似点が一つ存在する。その物質主義の社会はムイシュキンが体現する徳を賛美し、自身が“善”だと装うが、ムイシュキンを受け入れることはできない。
 一方、ロゴージンはナスターシャを心から愛するが、最後には彼女を殺す。
 ナスターシャの美しさと当初の無垢さはトーツキイを引き付け、彼の愛人にされ、半狂気状態に陥ったように、彼女自身もそのような邪悪な社会によって崩壊した存在である。

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 ●『白痴』(はくち)
 坂口安吾の短編小説。
 坂口の代表作の一つで、『堕落論』から『白痴』を発表するに及び、太宰治、石川淳、織田作之助らと共に、終戦後の新時代の旗手として一躍脚光を浴びて、文壇に特異な地歩を占めた。

 敗戦間近の場末の荒んだ人々の暮す裏町の小屋に居る独身の映画演出家の男が、隣家の白痴の女と奇妙な関係を持つ物語。
 時世に屈する低俗卑劣さを憎んでいた男が、肉欲の塊のような女の中に、魂の真実を求めようとする孤独な姿が、降り注ぐ焼夷弾や夜間空襲の中を逃げ惑う二人の「理知なき交流」を通して描かれている。
 1999年(平成11年)には、『白痴』を原案とした同名映画『白痴』が公開された。

 《ストーリー概要》

 敗戦色濃い戦時下、映画会社で見習い演出家をしている伊沢は、蒲田の場末の商店街裏町の仕立屋の離れ小屋を借りて生活していた。
 伊沢は、時勢の流れしだいで右にでも左にでもどうにでもなるような映画会社の連中の言葉だけの空虚な自我や、実感や真実のない演出表現をよしとしている愚劣な魂に憎しみを覚えていたが、その一方、生活に困窮し、会社を首になるのを恐れていた。
 ある晩、伊沢が遅く帰宅すると、隣家の気違いの女房で白痴の女が押入れの蒲団の横に隠れていた。何やらよく分らないことを呟いて怯えている女を、伊沢は一晩泊めてやることにしたが、女の分も寝床を敷いて寝かせても、電気を消してしばらく経つと女は戸口へうずくまった。
 伊沢が、手は出さないと紳士的に説き伏せても女は何度も隅にうずくまるので、伊沢は腹を立てたが、女の言うことを注意深く聞くと事態はあべこべだった。
 女は伊沢の愛情を目算に入れてやって来ていたのだった。伊沢が手を出さないため、自分が嫌われていると女は思ったのだった。
 白痴の素直な心に驚き、伊沢は子供を眠らせるようにして枕元で一晩中、女の髪をなでた。
 一般の女につきものの生活の所帯じみた呪文の絡みつかない白痴の女は、自分向きの女のように伊沢には思われだした。
 その日からそのまま女はそこに住みつき、近所に知られないまま二人は同居した。
 白痴はただ伊沢の帰宅を待つ肉体であるにすぎず、そこにあるのは無自覚な肉欲のみだった。
 もう一つ伊沢に印象的だったのは、ある白昼の空襲の際におびえた白痴の恐怖と苦悶の相の見るに耐えぬ醜悪さだった。
 伊沢は3月10日の大空襲の焼跡で焼き鳥のような人間の屍を見ながら、白痴の女の死を願ったりした。

 4月15日、伊沢の住む町にも大規模な空襲がやって来た。
 火の手が迫る中、仕立屋夫婦はリヤカーで逃げる際に伊沢も一緒にと急き立てたが、白痴の姿を見られたくない伊沢は、みんなが立ち去った後に女と逃げた。
 逃げる途中に伊沢が、「死ぬ時は、こうして、二人いっしょだよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。…俺の肩にすがりついてくるがいい。わかったね」と言うと、女はこくんとうなずいた。
 その初めて表わした女の人間らしい意志に伊沢は感動し、火の海の中を懸命に逃げきり、ようやく小川を通って群集の休んでいる麦畑に出た。
 女はぐっすり眠りはじめ、豚のような鼾声をたてていた。
 女を置いて立ち去りたいと伊沢は思ったが、そうしたところで何の希望もない。
 夜が白みかけてきたら女と停車場を目ざして歩こう、はたして空は晴れて、俺と隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。

 《登場人物》

 ★伊沢
  27歳。独身。
  文化映画会社で演出家(見習いで単独演出はない)をしている。
 蒲田の場末の商店街裏町にある仕立屋の離れの小屋を借りて住んでいる。
 大学卒業後のすぐは新聞記者だった。

 ★仕立屋夫婦
  町内のお針の先生などもやっている。
 家の天井裏は間借人の母娘が居住。
 この間借りの娘は町会事務員だったが、男関係にだらしなく、町会の豆腐屋、八百屋、時計屋、地主のうちの誰の子がわからない子供を身籠っている。
 伊沢の小屋は昔、仕立屋夫婦の肺病の息子が寝ていたところ。

 ★気違い
  30歳前後。風采堂々たる好男子。
  度の強い眼鏡をかけ、読書に疲れた
 ような憂わしげな顔。
  仕立屋の隣家に居住。
  資産がある。時々、ゲタゲタ笑ったり、屋根の上で演説したり、仕立屋の家畜の豚や家鴨に石をぶつけたり突ついたりする。

 ★白痴の女
  25、6歳。
 気違いの女房。
 義母にオサヨと呼ばれている。
 いい家柄の娘のような品のよさで、瓜実顔の古風な人形か能面のような美しい顔立ち。
 気違いが四国遍路の旅先で意気投合して連れてきた女。
 静かでおとなしく、意味のはっきりしないことを口の中でおどおど言う。
 料理も米を炊くことも知らない。
 気違い男の母親 正気だがヒステリーで女傑。
 常はたしなみのある品のよい婆さんだが、狂いだすと息子より騒がしく病的。
 「オサヨさん、オサヨさん」と鳥のように叫ぶ。

 ★映画会社の上司など
  「怒涛の時代に美が何物だい、芸術は無力だ! ニュースだけが真実なんだ!」と怒鳴る部長。
 企画部員や演出家は、帽子や長髪や上着は芸術家きどりで、魂や根性は会社員よりも会社員的。
 月給がもらえるなら余計なことは考えるなと言う社長。

 ★近所の住人
  七、八人目の情夫を追い出し、新しい中年男を物色中の55歳の煙草屋の白粉婆。米の配給所の裏手の小金持ちの未亡人。
 未亡人は息子(職工)と娘が近親相姦の関係を結んでいたのを黙認していたが、そのうち兄に女ができ、妹は親戚の老人のところへ嫁入りさせられそうになり自殺。
 林立する安アパートには妾と淫売が多く居住。軍需工場の寮となっているアパートには女子挺身隊が住み、重役の戦時夫人や二号となっている者もいる。

 ★他、
  ・人殺しが商売だった満州浪人。
  ・仕立屋銀次の流れをくむスリの達人。
  ・自宅よりも立派なセメント造りの防空壕を持っている贅沢三昧の海軍少尉。
 
 ★空襲下の人々
  ・道の上で死んでいた40歳くらいの男女。
  ・井戸の水をむさぼり飲む老若男女。
  ・燃える家で暖をとる人々。焼け残った矢口国民学校への避難をうながし声をかける巡査。

 《作品評価・解釈》

 『白痴』は、終戦後に大きな反響を呼んだ随筆『堕落論』の次に発表された小説として、共に注目されて、戦後における坂口の作家の特異な地位を築いた作品である。
 奥野健男は、敗戦の昏迷の中にいた日本人、特に青年たちに、『堕落論』と『白痴』は「雷のごとき衝撃」を与えたとし、「ぼくたちはこの二作によって、敗戦の虚脱から目ざめ、生きる力を得たといっても過言ではない」と述べている。
 そして奥野は『白痴』について以下のように評している。

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 ひたすら霊を追い求めていた作者が、空襲下に肉体と本能だけのせつないかなしい魂を見いだした絶対の孤独を表現している。
 その大胆な表現は、日本における実存主義、そして戦後文学の出発点となった。
 かなしみの街を過ぎて、安吾はここから肉体の思考を基調に既成道徳を超えた堕落の中に全人間性の回復を夢見る。

 — 奥野健男「坂口安吾 人と作品」ー
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 宮元淳一は『白痴』の構成について、「偉大なる破壊」の戦火により人々は「焼鳥のやうに」死んでゆくという異常な状況下における主人公が、そこに「運命に従順な美しさ」を感じてしまうが、その「美」を寸前のところで思い留まり拒絶して、「平凡」に生きることを決意すると概説している。
 そして、伊沢が女に、「俺の肩にすがりついてくるがいい。わかったね」と言う場面が『白痴』のハイライトであり、その決意の一瞬は極めてヒロイックであるが、その場面に反し、戦火という「デモーニッシュ」な美をくぐり抜け、小川へたどり着いた二人には、「勇壮な面影」はなく、豚のような鼾をかいて眠る女の横の伊沢は凡夫となり、「戦争という“偉大なる破壊”に身を任せること」を拒絶したことにより、安月給に汲々とするような「“卑小な生活”が再来する」とし、「それこそが伊沢の選んだ道なのであり、彼は正しく“堕落”という“驚くべき平凡さ”を正面から引き受けているのである」と解説し、『白痴』がエッセイ『堕落論』の主題と呼応していることを論考している。

 福田恆存は『白痴』に見られる男女間の愛情について、安吾は「精神と肉体との対立」という旧来の主題を追求しているが、安吾は男女間の付き合いを「肉体的なもの」だと断定しているわけではなく、「そうではないかと問を発しているまでのこと」で、「かれは処世術をぶちこわしてみたいのである」と考察し、男女間の「精神と肉体との対立」に妥協して、うやむやに穏便に事を進めるという処世術、妥協から生まれる「無意識」というものに福田は言及しながら、「坂口安吾は無意識の虚を突き、妥協の安定をくつがえすのである。
 なんのために――精神の純粋熾烈な発光に陶酔したいという、その一事のために。坂口安吾は度しがたい夢想家なのだ」と解説している。
 そして福田は、安吾の精神はもともと「現実と観念」の間に安定を欠いていたために、「処世術の虚偽」を見抜いたのであり、処世術の否定により、安定を欠いたのではないとし、そういった事実を安吾が「自己の宿命として自覚」したからには、次に「逆の運動も可能」となり、それにより安吾の精神はますます安定を欠いてしまうのだと論考している。
 七北数人は、坂口の『南風譜』にみられるピグマリオン奇談的テーマの発展が『白痴』にもみられるとし、「この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか」という主人公・伊沢の心のつぶやきが、「自閉的な恋」であることを暗示していると述べた。

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 白痴の女との空襲下の道行きが夢のような幸福感に包まれているのも、二人の世界がまるで伊沢一人の内面世界であるかのように閉ざされているからだろう。
 男が女を犯しながら女の尻の肉をむしりとって食べる、そんな不気味な夢想に行き着くラストは、初期作品から続く神経症的な不安が覆いかぶさってくるようで狂おしい。

       — 七北数人「解説」ー

     〔ウィキペディアより引用〕




ダカーポ ♯006

2023-07-30 21:00:00 | Keyword/話題

 ■リノベーション

 よく“リノベーション住宅”という言葉を耳にしませんか?

 リノベーションとは、

 1.リフォームと比べて大規模な建物の改修のこと。
 英語のrenovationは建物の改修のこと(カタカナ語のリフォームとリノベーションを含む。)。

 2.英語でreformは改宗、
 心を入れ替えるという意味で建物の改修の意味にはあまり使われない。

 《概要》

 リノベーション住宅は戸建住宅のリノベーション物件と、マンションなど集合住宅のリノベーション物件に大きく分けられる。
 さらに、自分で中古住宅を購入してからリノベーションを行う場合と、あらかじめリノベーション工事が済んだ物件を購入する場合とがある。
 特に自分で中古住宅を購入してからリノベーションを行う場合、以下の様なメリットが挙げられる。

 自分の住み方に合わせて、自由に内装を設計できる

 新築に比べて費用を抑えられる

 都心部など人気が集中するエリアでも、中古物件なら残っている可能性が高い

 資産価値の面で見ると、購入時よりも物件の価値を上げることができる


  ★逆にデメリットとしては

 住むまでに時間を要する

 耐震性能などの検査が必要な場合がある(戸建住宅の場合)

 一般の住宅ローンでは、借入額に制限がかかる場合がある

 などが挙げられる。

 また、通常自分でリノベーションをする際には、リフォーム会社や設計事務所、不動産会社、金融機関など複数の会社に依頼する必要があり負担が大きい。
 ただし近年では、ワンストップでリノベーションのサービスを提供する、ワンストップリノベーション業者も増えている。
 ワンストップとは、ひとつの場所でさまざまなサービスが受けられるということを指す。
 ワンストップリノベーションにおいては、リフォーム会社や設計事務所、不動産会社、金融機関などの窓口をひとつに統一することができ、負担を軽減することができる。
 さらに独自ローンの適用などが行える場合もある。

 《リノベーションとリフォームの違い》

 リノベーションとリフォームは混同されやすい言葉である。

 どちらも住宅に手を加える点では同じだが、厳密にはその目的の部分で次のような違いがある。
 リフォームは「老朽化した建物を建築当初の性能に戻すこと」を指し、元に戻すための修復の意味合いが強い。
 古くなったキッチンを新しいものに変えることや、汚れた壁紙を張り替えるなどの小規模な工事は「リフォーム」に分類される。
 一方リノベーションは、修復だけでなく「用途や機能を変更して性能を向上させたり価値を高めたりする」行為も含むため、より良く作り替えるという目的が含まれている。
 工事の規模も、間取りの変更を伴うような大規模なものを指すことが多い。 英語ではどちらも「renovation」であり、reformは住宅の改修という意味ではあまり使われない。

 《誤解され易い言葉》
      『イノベーション』

 イノベーション
(英: innovation)

 物事の「新機軸」「新結合」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。
 一般には新しい技術の発明を指すという意味に誤認されることが多いが、それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自律的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。
 つまり、それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。
 また、イノベーションは国の経済成長にも極めて重要な役割を果たす。

 ▼語源

 英語の「innovation」は動詞「innovate」(革新する・刷新する)に名詞語尾「-ation」が付いたもので、「innovate」はラテン語の動詞「innovare」(リニューアルする)の完了分詞形「innovatus」(リニューアルされたもの)から由来している。
 更に、「innovare」は「in-」(「内部へ」の方向を示す接頭辞)と動詞「novare」(新しくする)に分解される。
 動詞「novare」は形容詞の「novus」(新しい)から由来している。
 「innovation」という語自体の用例は1440年から存在するラテン語あるいはイタリア語の名詞である(シュンペーターは複数のヨーロッパ言語に堪能だった)。
 なお、「innovation」の訳語として日本語でよく使われる「技術革新」は、より近い意味の英語で「technical innovation」あるいは「technological innovation」と言うのが相応しく、誤訳とされることも多い。

 ▼定義

 イノベーションに関する文献の調査では、多種多様な定義があることが分かっている。
 2009年のBaregheh らの調査では、様々な科学論文で約60の定義があり、2014年の調査では40以上あることが判明した。
 イノベーションは、1911年に、オーストリア出身の経済学者であるヨーゼフ・シュンペーターによって、初めて定義された。
 シュンペーターはイノベーションを、「経済活動の中で生産手段や資源、労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合すること」と定義した。

 ▼日本での使われ方

 1958年の『経済白書』において、イノベーションが「技術革新」と翻訳紹介され、日本においてはこの認識が定着している。
 1958年は日本経済が発展途上であり、新技術の発見と技術の革新、あるいは技術の改良が死活的であり重要な時代だった。
 その後の成熟した日本経済においては、技術に限定しすぎた「技術革新」は、社会的なニーズを無視、軽視した技術開発を招き、新たな経済成長の妨げともなっている。
 イノベーションとは、経済成長を生み出すような社会的影響を及ぼすものを指す用語であり、技術革新だけでなく価値の創造と普及するものを指す。
 このため、「技術革新」は誤訳と批判されることもある。
 中小企業庁が発刊する『2002年版中小企業白書』では、「経営革新」にイノベーションの括弧書きをしている。
 2007年の『経済白書』においては、シュンペーターの定義に立ち返り、イノベーションを「新しいビジネスモデルの開拓なども含む一般的な概念」としている。
 たとえば、それまでの社会的な通念を覆すようなマーケティング・コンセプトも、社会通念と新たなコンセプトとの思ってもみない「新結合」だと考えれば、社会的なニーズをリードし、広告すら含めた一般的な経営上の創意工夫をイノベーションといえる。

 ▼分類

 イノベーションの分類方法は様々なものが知られている。

 ★新しい財貨すなわち消費者の間でまだ知られていない財貨、あるいは新しい品質の財貨の生産
  プロダクション・イノベーション

 ★新しい生産方法の導入
     プロセス・イノベーション

 ★新しい販路の開拓
    マーケット・イノベーション

 ★原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得
 サプライチェーン・イノベーション

 ★新しい組織の実現
オルガニゼーション・イノベーション

 ▼種類

 イノベーションの種類を定義するいくつかのフレームワークが提案されている。

 ★持続的・破壊的イノベーション

 クレイトン・クリステンセンが提案した枠組みでは、持続的イノベーション (Sustaining innovation) と破壊的イノベーション (Disruptive innovation) の区別を行う。
 持続的イノベーションは、現在の顧客の既知のニーズ(例えば、より高速なマイクロプロセッサ、フラットスクリーンテレビ)に基づく製品またはサービスの改善である。
 一方、破壊的イノベーションとは、新しい製品やサービスが新しい市場(例えばトランジスタラジオ、無料のクラウドソーシング百科事典など)を生み出し、最終的に確立された競合他社を置き換えるプロセスを指す。
 クリステンセンによれば、ビジネスの長期的な成功には破壊的イノベーションが不可欠である。
 破壊的イノベーションは、多くの場合、破壊的なテクノロジーによって実現される。
 マルコ・イアンシティとカリム・R・ラカニは、基盤的技術は、長期的にグローバルなテクノロジーシステムの新しい基盤を作り出す可能性を秘めるものと定義している。
 基盤的技術は、長年にわたってまったく新しいビジネスモデルが出現するにつれて、ビジネスオペレーションモデルを変革する傾向があり、イノベーションが徐々に着実に採用され、技術や制度の変化の波が起こっていく。
 パケット交換通信プロトコルTCP/IPは、もともと米国国防総省の電子通信(電子メール)の単一のユースケースをサポートするために1972年に導入され、ワールドワイドウェブの出現で1990年代半ばになって広く採用された基礎技術である。

 ★4種類モデル 編集

 イノベーションマネジメントコースで共通して学習するもう一つのフレームワークは、ヘンダーソンとクラークによって提案されているものである。彼らはイノベーションを4つの種類に分けている。

 ・革新的イノベーション
   (Radical innovation)

 「新しいドミナントデザインを確立し、そしてそれゆえに新しいアーキテクチャ内で結び付けられたさまざまなコンポーネントに体現された、一連の新しい中核的設計概念を確立する。」

 ・漸進的イノベーション
  (Incremental innovation)

 「確立された設計を改良したり拡張したりするものである。そこでは、個々のコンポーネントは改良されても、その根底にある中核的設計概念やコンポーネント間の連携方法は変わらない。」

 ・アーキテクチャ・イノベーション 
  (Architectural innovation)

 「既存のコンポーネントを新しい方法で結び付けるための、既存システムの再構成。」

 ・モジュール・イノベーション    (Modular Innovation)

 「技術の中核的設計概念だけを変化させるイノベーション。」 ヘンダーソンとクラーク、クリステンセンが技術革新について語る一方で、サービスイノベーションや組織イノベーションなど、他の種類のイノベーションもある。


   〔ウィキペディアより引用〕

ダカーポ ♯005

2023-07-26 21:00:00 | Keyword/話題

 ■ヘイト

 毎日新聞に、こんな記事が掲載されていた。

 『ヘイト投稿」男性に賠償命令 安田菜津紀さん被害で地裁

 ツイッターで在日コリアンに対する「ヘイト投稿」をされて精神的苦痛を受けたとして、フォトジャーナリストの安田菜津紀さん(36)が、投稿したとされる男性に195万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁(目代真理裁判長)は19日、男性に33万円の賠償を命じた。
 訴状によると、安田さんは2020年12月、在日コリアンだった父のルーツを追った自身の記事をツイッターに投稿した。
 これに対して、在日コリアンに対する差別表現とともに、日本人よりも優遇されている「在日特権」があり、「日本人から嫌われている」とする投稿があった。
 安田さん側は訴訟で、この投稿をしたのは男性で、事実に反するうわさにより、日本以外にルーツを持つ人に対する差別的意識を助長・誘発することが目的だったと主張。
 ヘイトスピーチ解消法が定める「差別的言動」に該当し、安田さんの人格権が侵害されたと訴えている。
 一方、男性は「自分はそもそも投稿者ではないし、問題となった投稿は安田さんに対する差別的言動とも言えない」とし、請求棄却を求めていた。【巽賢司】

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 ヘイトとは、

 憎悪(ぞうお)
 (英: hatred あるいは hate)
や憎しみ(にくしみ)は同義語であり、憎悪は「ひどくにくむこと」で憎しみは「憎く思う気持ち」と辞書には書いてあるが、(「憎しみ」を「憎く思う気持ち」と書くだけでは、そもそも「憎い」ということはどういうことか全く説明されておらず辞書的定義としてもかなり不十分なので十分に定義するために補足すると)、「憎い」とは、(「誰か」や「何か」を)「いやな相手(いやな存在)として、何か悪いことがあればよいと思うほどに嫌っている」や「気に入らない」ということである。

 日本語の場合、大和言葉の「にくしみ」や「憎しみ」に比べて、漢字表現の「憎悪」のほうが、同じ憎しみでもより程度が激しいものを指す傾向が(やや)ある、といった程度のことである。
 ただし、学術分野の文章などでは、学術的慣習として、ひらがなの大和言葉を避けて漢字表現のほうを選んで使うこと(「くるま」はくだけた日常語として扱い「自動車」をそれに対応する学術的表現として扱うように、「にくしみ」を日常語として扱い「憎悪」はそれに対応する学術的表現として使う、というやり方)も行われているので、いつもその程度(感情の強さ)によって使い分けられているわけでもない。
 この記事も、見出し語を選択する際には百科事典的に(つまりやや学術的に)、大和言葉的な「憎しみ」という表現を避けて「憎悪」を選択している。

 《概説》

 「憎しみ」や「憎悪」、というのは(広辞苑などの定義文からも判るように)、結局(「誰か」や「何か」を)ひどく嫌う、ということであり、(当人の感覚としては、誰かや何かに対して)「××は、ひどく嫌いだ」と感じている心の状態(感情)のことである。 結局、根底には、「好き / 嫌い」という感情(学術的にはしばしば漢字表現を選択し「好 / 悪」(こう / お)の感情、と表現する)がある。根底にあるのは「好き / 嫌い」の感情である。では、どのような場合に、人は 誰か(や何か)を憎むか、激しく嫌いだ、と感じるか、というと、それは人それぞれ(各人各様)であり、感じる人の感性や度量によっても異なるし、また状況次第でもある。 基本的には、「好き」と感じている対象に危害が加えられた、と感じると憎しみ(憎悪)を感じる人は多い。
 例えば、ある人(Aさん)がペットを飼っていて、そのペットのことをとても好きだ、大好きだ、と思っている場合に、誰かがそのペットに危害を加えたりすると、Aさんは、そのペットに危害を加えた人に憎しみ(憎悪)を感じることは多い。 たとえば、自分の娘を強く愛している父親の場合は、娘に危害を加える人のことはひどく憎む、強い憎悪を感じる、ということは多い。

 たとえば「わたし(自分)のことが大好き」という人(自己愛が激しい人)の場合は、「わたし」「自分」と当人が感じているもの(自己の身体だけでなく、しばしば「自己像」と呼ばれる観念的なもの)を損なうようなことをする人のことを憎む。
 たとえば白人で、たとえば「自分は白人で、(子供のころに(白人社会で)読んだ童話やおとぎ話のように)白人は皆、いつでも、他の人種を圧倒するほどに優れていて強いんだ。
 自分はそうなんだ。」と信じ込んでいて、その自己イメージが大好きな人は、「白人が必ずしも優れているとは限らない。
 しばしば劣っていることがある。」ということを様々な例を引き合いに出して指摘する人や、(面とむかって言語的にそう指摘されなくても)他の人種の人で実際に優秀で各分野で成功している人を見たりするだけでも(つまり「有色人種」で成功している人を見るだけでも、その人が面と向かって何も言っていなくても)、まるで自分が子供のころから心に抱いている自己イメージを破壊されているように感じて、強く憎む。
 たとえば「自分は○○民族だ。○○民族だけは、いつでも、何の分野でも、優れているんだ。自分はそうなんだ」と信じこんでいる人は、他民族で優秀な人々を見ると、強く憎む。

 心理学での研究によって、人間というのは幼児段階ではほとんどの人は、基本的には「わたし(自分)が(大)好き」と(しばしば言語も用いず、非言語的な、根底的な感情として)感じている、ということが理解されている。
 幼児段階ではそれが一般的で、それで良いのだが、大人になるにしたがって人は成長し、自分に対してもアンビバレントな態度がとれるようになることが一般的である。つまり、自分に対する感情も多様化し、しだいに変化するので、人が自分に対して何かをした時の感情も変化する。(それができないまま年齢的にだけ「大人」になってしまった人が、つまり大人になっても「わたし(だけ)が好き」「わたし(だけ)がかわいい」という感情ばかりに駆り立てられて過ごしている人が、社会で様々な問題を引き起こす傾向がある)。
 例えば、人によっては子供の時には、親や教師などから自分の不十分な点を指摘されたりすると、指摘した人を「大嫌い!」と感じて、憎む人はいる。だが、その同じ人が、大人になり、大人扱いされるようになり、大抵のことで「大人だから本人の責任だ」と見なされ、周囲のほとんどの人が親切に先まわりして自分の不十分な点を指摘してくれなくなり、取り返しのつかない大失敗をするまで放置される、ということを何度か経験したりすると、今度は誰かから自分の不十分な点を指摘されても、「厳しいけれど、注意してくれる人がいるだけでもありがたい」とか「客観的に見れば、自分にも到らない点は多々ある。今回は、あの人がこれを指摘してたおかげでこれにも気付くことができた。
 私の至らないところは素直に改善しよう。」などと感じるようになる人もいる、といった具合で、同じ人が同じことをされても、年月とともに受け取り方が変化しすることはあり、「憎悪」を感じていた人が、逆に ある種の「感謝」すら感じるようになる場合もある。
 なお、幼児的な自己愛の段階を卒業して、全ての人々への愛(人類愛、友愛、兄弟愛)を自分の心の中心に据えて生きゆく道を選ぶ人も多いが、たとえば「人々が相互の人権を心から大切にして、誰もが互いを尊重している状態、そういう社会」が好き、と感じている人は、(たまたま自分個人がどう扱われたか、ということではなくて)誰に対してであれ人権を侵害する行為を行う人のことを憎むことは多い。

 憎悪(憎しみ)によって引き起こされる感情や行動 人によっては、憎む相手を「(この世から)消し去ってやりたい」とか「殺したい」とまで感じる場合がある。大抵の人は、そういう感情を感じても、「それを実行することは犯罪だ」と理性を働かせて踏みとどまる。「私がどんなにAを憎く感じているとしても、だからといってAを殺して良いということにはならない。
 何か他の解決策があるはずだ、それを考えよう。」と、理性を働かせる。
 例えば、短期的解決策としては、レストランに出かけて美味しいものを食べて自分をなぐさめたり、あるいはたとえばボクシングジムに出かけてサンドバッグを「憎い人」に見立てつつパンチして気分をスッキリさせて済ませたりし(これを心理学用語で言うと「代償行動」と言う)、たとえば長期的解決策としては、職場の上司や同僚が憎くてしかたないのであれば、人事部に相談して、その憎い人の顔を毎日見なくて済むように部署移動(配置転換)の希望を出したり、それも叶わないようなら転職先を探して見つける、などということは世の中で広く行われている。
 こうしてほとんどの人は理性が勝ったり、うまく別の解決策を見つけたりするので、この世は殺人事件だらけにならずに済んでいるのだが、まれに理性よりも感情が勝りすぎている人や、何らかの事情で他の解決策が無い人(あるいは、(本当は他の解決策があるのにもかかわらず)他の解決策に気付く知恵が無く、他の解決策は無い、と感じてしまった人)などがいて、感情に駆られるままに殺人を実行してしまい、事件となり、報道されたり、逮捕されて裁判にかけられたりする人が出てくる。
 自分が属する民族や人種が好き、ということばかり感じている人は、他の民族や人種を憎みがちで、民族差別や人種差別につながりがちである。
 民族主義者や人種差別主義者は、感情に駆られていて、自分を理性的に客観視することができない人が多いので、ささいなことをきっかけにして暴力事件を起こしがちである。
 しかも、民族主義は相対的でしかなく(Aという民族から見ればBは「他民族」で憎悪の対象で、Bという民族から見ればAこそが「他民族」で憎悪の対象で)際限が無く、泥沼の、醜い殺し合いの状況を招きがちである。

 一方、「好き」という感情や愛情の中でも(幼児的な自己愛ではなく)、全ての人々に対する愛情、人類愛(友愛)を心の中心に据えたうえで、人々を苦しめる者を憎み、人々を苦しめる者を排除するために具体的な行動を起こすことは、良い結果を生むこともある。
 たとえば、18世紀のフランスでは、王族が国民を食い物にして国民を苦しめていたが、それに対して憎しみを抱いたフランス国民は立ち上がり、フランス革命を起こし王族を排除し、人権宣言(「人間と市民の権利の宣言」)が採択され、「自由、平等、友愛」を理念にかかげ、共和制の国を構築することに成功した。
 このおかげで、ヨーロッパの他の国々でも人権が尊重されるようになっていった。たとえば、アメリカ合衆国憲法があるのも、もとをたどれば、フランス国民が、抑圧的で搾取的な王族に対して憎しみを抱いて立ち上がって、それを打ち倒して、全ての人々の人権を尊重する、という理念をかかげて政府を樹立し、世界にその理念を広げてくれたおかげである。
 大航海時代以降、世界各地で先進国による植民地支配が行われたが、全ての人々の人権を尊重すべきなのだ、という理念が理解されるようになり共感する人々が殖えると、「植民地」や「奴隷制度」という、人権を侵害するやり方に憎しみを抱く人々が、(白人の国々の中の、一般市民の中からも)出てくるようになり、長い闘いの結果、植民地は少しづつ減り、奴隷制度も廃止されてきた。
 なおイギリス、フランスなどは、地中海世界を支配してきたオスマン帝国に対して計略を用い、サイクス・ピコ協定を締結し、帝国をバラバラに解体したのだが、イスラーム教徒の側は、ムハンマドがクルアーンに書いたように、イスラームの理念によって統一されている世界こそが望ましい世界と感じているので、イギリスやフランスに対して激しい憎悪を感じている。
 その結果、イギリスやフランスなどイスラーム世界に危害を加えたもの、加えるもの、に対して、イスラーム教徒たちは国境を越えて広く力をあわせて、闘い(ゲリラ的武力闘争、イギリスやフランスの人々からは彼ら側の論理で「テロリズム」と呼ぶもの)をしかけることが行われている。これなどはイスラームの理念とキリスト教の理念のせめぎあいによってのみ憎悪が生まれているのではなく、イギリスやフランスが選んでしまった汚い手段、策略(陰謀)や、「約束破り」が強い憎悪を生んでしまっている。
 トーマス・エドワード・ロレンスが(イギリスの国家側の都合に振り回されて、結果として)アラブ人たちをひどく騙してしまった結果になったことや、イギリスやフランスがサイクス・ピコ協定を結んでアラブ人たちを騙していたことなどを知らないと、どうして今日でも、イスラーム教徒たちがイギリスやフランスに激しい憎悪を抱いているのか、理解しそこなうわけで、それ(「何を憎んでいるか」)を知らないとただ「憎んでいる人」という表層的な理解のしかたになってしまう。

 ▼関連表現

 ・愛憎(あいぞう)。
 「愛することと、憎むこと」である。
 愛と憎しみを一対、ワンセットにした表現。
 人は、子供のころは、ある対象に対して愛ばかりを感じたり、反対に憎しみばかりを感じるが(心理学用語で言う「スプリッティング」な状態)、大人になると成長してアンビバレントになり、同じ対象Aに対して、愛情を感じつつも、同時に憎しみを感じる、という状態にもなる。
 こういう状態を日本語では昔から、「愛憎相半ばする」(あいぞう あいなかば する)と言う。大人の男女の恋愛では、相手を深く愛すれば愛するほど、相手のちょっとした言葉や態度が自分の心のやわらかいところ、一番痛いと感じるところにグサリと刺さるように感じられて、(愛しているはずなのに)同時に強い憎しみも感じるものである。恋人同士だけでなく、結婚した男女(夫婦)でも、「愛憎相半ばする」状態の人々は多い。
 夫婦は一般に、愛し合っているのか?、憎みあっているのか?、と言うと、大抵の夫婦は、「愛し合いつつ、憎みあっている」わけであり、別の言い方をすると「愛しているからこそ、憎んでいる」。
 
 ・「嫌悪(けんお)」とは、「憎み嫌うこと」である。
 「憎しみ」や「憎悪」とほぼ同義語であるが、やや程度が軽いものを指すことが多い。「嫌悪(けんお)」とは、「憎み嫌うこと」である。
 「憎しみ」や「憎悪」とほぼ同義語であるが、やや程度が軽いものを指すことが多い。「厭悪(えんお)」とも。
 「毛嫌い」は、「(鳥獣が相手の毛なみによって 好き/嫌い することから)何という理由もなく、ただ嫌うこと」である。「厭悪(えんお)」とも。

 ・「毛嫌い」は、「(鳥獣が相手の毛なみによって 好き/嫌い することから)何という理由もなく、ただ嫌うこと」である。

     〔ウィキペディアより引用〕



 

ダカーポ ♯004

2023-07-24 21:00:00 | Keyword/話題

 ■団塊の世代

 団塊の世代(だんかいのせだい)

 日本において第一次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代を指す。
 焼け跡世代(あるいは戦中生まれ世代)の次の世代に当たり、第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)4月2日〜1950年(昭和25年)4月1日に生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことであり、大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。
 第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。日本経済においては第二次世界大戦後の高度経済成長、バブル景気を経験している。
 この用語は通商産業省の官僚であった堺屋太一による、オイルショック後の日本経済がこの世代によりどのように変わっていくかを描いた未来予測小説の題名『団塊の世代』に由来している。
 厚生労働省は、白書において「団塊の世代」ではなく、「団塊世代/1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)生まれ」としている。

 じゃ、何故その世代を“団塊”と呼ぶのか?

 団塊とは

 「かたまり」または「ノジュール」

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 ノジュールとは、堆積岩中に周囲と成分の異なる物質が,丸みをもった大小さまざまの塊として含まれているもの。

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 作家の堺屋太一が1976年に発表した小説『団塊の世代』で、鉱物学で一塊の単位で採られる鉱物を指す「ノジュール(nodule )」の訳語を、世代を表す言葉として用いた事により登場した言葉である。団塊世代とも言われる。

 《概説》

 団塊世代が生まれる前は戦中、戦後直後であり、出産を先送りする傾向にあった。
 その反動だけでなく、第二次世界大戦の終結に伴って大正世代の若い男性が復員し、1940年代後半に婚姻をする男性が増加した。明治40年代生まれ・大正生まれ・昭和一桁前半生まれの若い男女の婚姻急増に伴う出生人口の大幅な増加が発生し、第1次ベビーブームが発生した。
 1948年(昭和23年)までは、一部の例外(強姦・姦通)を除き、一般的に産婦人科での避妊・中絶・不妊手術などの行為は、刑法で堕胎罪となり禁止されていた。
 1948年(昭和23年)に優生保護法によって限定的に容認して、さらに翌年の1949年(昭和24年)に同法は改正されて、「経済的な理由」での中絶も容認することになったため、出生率の増大に歯止めがかかり、1950年(昭和25年)以降は出生率が低下していった。
 さらに戦後、結核など伝染病の予防法・治療法が確立されたことで青少年期における死亡リスクが低下し多産の必要性がなくなったことも、1950年代以降に出生率が低下した要因の一つであった。
 団塊の世代の母親までは、産婆による出産が主流であったが、昭和30年代には産婦人科医療による出産が主流となった。
 このため日本においては、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)の3 年間に生まれた人口が突出することとなった。
 2014年10月時点で、コーホート別の人口が200万人を超えているのは、団塊の世代の65-67歳とその直後の64歳、第2次ベビーブーム世代である41歳のみである。
 作家の堺屋太一が通商産業省鉱山石炭局在籍時の1976年(昭和51年)に発表した小説『団塊の世代』の中で用いたことから、「団塊の世代」という用語とともに、団塊の世代が日本社会に及ぼす大きな影響が一般にも認識された。
 アメリカ合衆国でも同様の現象が見られており、こちらは「ベビーブーマー」と呼ばれている。

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 ベビーブーマー(英: baby boomers)

 第二次世界大戦の終結直後に、復員兵の帰還に伴って出生率が上昇した時期に生まれた世代を指す。
 この第二次大戦終結後のベビーブームは世界的現象であるが、狭義で「ベビーブーマー」という場合にはアメリカ合衆国でのベビーブーマーを指す事が多い。
 単に「ブーマーズ (Boomers)」とも。

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 連合国軍占領下の日本で誕生し、実の父親が戦死して母子家庭となった例や、本土空襲などの戦災体験がない世代である。
 また、昭和40年代にヒット曲となった「戦争を知らない子供たち」に象徴される「戦争を知らない世代」で「初の戦後(第二次世界大戦後)生まれ」である。

 関連項目 ー 高度経済成長 ー

 高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)
または、高度成長(こうどせいちょう)高成長(こうせいちょう)

 飛躍的に経済規模が継続して拡大することである。
 日本においては、実質経済成長率が年平均で10%前後を記録した1955年頃から1973年頃までを高度経済成長期と呼び、戦後の焼け野原の何もない場所から熾烈な勢いの電撃的制覇により基盤を築いた点で、孫策の江東平定に隠喩されることがある。

 日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である。
 この間には「神武景気」や「数量景気」、「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。
 1968年には国内の郵便番号制度とユーロクリアができて、それから手形交換制度のオンライン化が急速に進んだ。
 また、第一次世界大戦における勝利以降、日本がイギリスやアメリカなどと並んで「五大国」の一国に数えられていた昭和前期の日中戦争の前後から、第二次世界大戦後期において連合国軍による日本本土への空襲が激しくなり工業生産に影響が出てくる1944年前後までの期間も、軍需に支えられた統制経済下にあるとはいえ経済成長率自体は高度成長期に匹敵する。

 《経緯》

 ▼敗戦からの復興(1946~1956年)

 第二次世界大戦において、イギリス・アメリカ・中国・オランダの連合国に敗北し、朝鮮半島や台湾などの領地を喪失した上に、敗北と占領下による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は敗北から急速に復興した。
 1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年の朝鮮戦争特需により、占領下を脱して1年半の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。
 1956年10月には戦後11年で経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言。

 ▼高度経済成長黎明期(1957~1960年)

 1957年から1973年の16年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。
 エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実上の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。
 この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。
 また、戦後首相の座についた吉田茂が行った、『憲法9条の下で本格的な再軍備を慎重に避けながら、日米安全保障条約に日本の安全を委ねることで、自国の経済成長を優先させる方針』についても、上記の要因の一つとして考えられる。

 ▼所得倍増計画で東京オリンピックへ      
  (1961~1964年)

 1960年、池田勇人内閣は、翌1961年4月からの10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表した。
 所得倍増計画は1964年秋に開催される東京オリンピックへの特需を迎えた。
 名神高速道路(1963年7月開業)や東海道新幹線(1964年10月開業)といった大都市間の高速交通網、首都高速道路や阪神高速道路も整備され、都内では東京都交通局の地下鉄1号線(現・都営地下鉄浅草線)、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄〈東京メトロ〉)の日比谷線といった地下鉄新線の整備が進められた。
 第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と言われた。
 この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れ始める(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。
 現在では、「戦後#第二次世界大戦後」の代名詞として1960年代の映像資料が使われる事が多い。
 この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は「三種の神器」と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。
 これら便利な家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を促すことになった。
 この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。
 「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=和の文化)」等が要因として挙げられた時期もあった。

 ▼昭和40年証券不況(1965年)

 経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。
 この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。
 しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。
 1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した。
 さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。
 一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。
 こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。
 結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。

 ▼いざなぎ景気で大阪万博へ
  (1966~1970年)

 1965年10月からいざなぎ景気が始まり、1966年から再び年10%以上の成長期となった。
 1967年10月には所得倍増計画を達成。 1968年には日本の国民総生産(GNP)が、同じく敗戦国の西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。
 終戦25周年記念として大阪万国博覧会が大阪府吹田市で1970年3月から半年間開催されることになり、いざなぎ景気は大阪万博への特需を迎えた。
 大阪万博特需として、大阪中央環状線開通(1968年3月)、東名高速道路開通(1969年5月)、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)の新線整備等が行われた。
 日本が債権国となった1960年代後半には、外国人の日本株投資が活発化した。
 このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。
 外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した。

 ▼石油危機と高度経済成長の終わり     
  (1971~1973)

 1971年8月のニクソン・ショック(ドル・ショック)による実質的な円の切り上げ、変動相場制移行は国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。
 1972年は3月に山陽新幹線岡山開業、5月に沖縄復帰を実現した。 1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥った。
 政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。

 ▼安定成長期(1974~1991)

 1974年1月に第二次世界大戦後初めて実質マイナス成長を経験し高度経済成長時代は終焉を迎えた。
 この頃から財政政策による景気回復が主張されるようになった。
 その後は安定成長期(1973年12月よりバブル経済崩壊の1991年4月まで)[注釈 4]へと移行する。安定成長期には、それまでの鉄鋼・造船などの重厚長大産業から半導体やコンピュータなどの軽薄短小産業への転換が進んだ。
 また、第二次ベビーブームが終わり第2次オイルショックが発生した1979年以後の日本は少子化の道を歩むこととなった。
 1985年のプラザ合意を起点とする円高不況、そして1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気となった。

 ▼失われた30年(1992年以降)

 バブル景気の崩壊を経て、平成期の日本は失われた10年(20年・30年)とも呼ばれる低成長期に入ることとなる。

 ▼環境問題

 経済成長の陰で急速な工業化に伴い環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」「第二水俣病」といった四大公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化した。
 また、都市への人口集中による過密問題の発生と地方からの人口流出による過疎問題が発生した。
 高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、1967年の佐藤栄作内閣による公害対策基本法の制定や1971年の環境庁の発足、1972年の田中角栄による『日本列島改造論』の提唱につながることになる。
 高度成長期には、近代的なインフラが集中的に建設されたため、2020年代以降、一斉に寿命を迎えて利用に支障を来すなど社会問題化することが予見されている。
 このため政府は、2013年より「インフラ長寿命化基本計画」を立案して対策に乗り出している。

     〔ウィキペディアより引用〕

ダカーポ ♯003

2023-07-21 21:00:00 | Keyword/話題

 ■観念

 観念(かんねん、英: idea、希: ιδέα)は、プラトンに由来する語「イデア」の近世哲学以降の用法に対する訳語で、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容のこと。元来は仏教用語。

 「イデア」は、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容を指し、デカルトによって近世哲学的な意味で再導入された。

 《定義》

 論者によって厳密にいえば定義は異なる。
 プラトンのイデアは、客体的で形相的な元型のことであるが、デカルトによって、認識が意識する主観の内的な問題として捉えなおされたため、イデアは、主観の意識内容となり、以降、この意味での用法のものを観念と訳している。
 日本では訳語に観念が当てられる。日本語の観念は、元来は仏教用語であり、「イデア」以外の意味を持つ。

 《歴史》

 この客観的な外在としてのイデアから、主観的な内在としての観念への移行は、ちょうど、「Object」がそれまでの意識対象・意識内容として主観の内的な何かを意味していたものから、外的な主観の対立物である客観・対象へと移行し、「Subject」が外的な基体・実体(ヒュポケイメノン)から、主観的で内的な主体へと移行した変化に対応している。

 ロックでは観念と物そのものが区別される。ロックにとって物そのものは観念の対応物でなく観念を引き起こす原因である。
 ヒュームでは観念と知覚印象が区別される。観念は論者によっては感覚的イメージだけを意味することもあり、また概念的で感覚的ではない観念を含むこともある。
 バークリーでは観念だけが実在であるとされ、外的な物質の存在は否定される。
 仏教では、観念は仏や浄土などを智慧によって対象を正しく見極め、精神を集中して思い考えること。『観仏三昧経』等で勧められている。
 観想ともいう。転じて、一般には想いをこらして深く考える事に依って正しい結論に思い至ること。

 関連項目 ー 概念 ー

 概念(がいねん)

 命題の要素となる項(ドイツ語: Konzept・コンツェプト)が表すもの、あるいは意味づけられたものであり、言い換えれば、それが言語で表現された場合に名辞(ドイツ語: Konzept)となるもの。
 人が認知した事象に対して、抽象化・ 普遍化し、思考の基礎となる基本的な形態となるように、思考作用によって意味づけられたもの。
 哲学では概念を「notion」(フランス語)、Begriff(ドイツ語)というが、日常的に concept(フランス語)、Konzept (ドイツ語)という。
 日本語訳は西周によって造られた。

 《名辞》

 言葉が文の要素であるように、概念は命題の要素である。
 概念が言葉で表現されたものを名辞(めいじ)という。
 ひとつの命題として

  AはBである

 とした場合に、「A」を主辞、「B」を賓辞という。
 特に抽象名辞(抽象概念)は、言語や数字や記号で現実世界を表す。
 または現実にないものをあるものとして存在させるために表現する手段である。

 《作品の概念・コンセプト》

 人の手による絵画・書画・曲・文芸等の作品は、作者がその作品に込めた意図・意匠・目的・思い等の概念を有し、これを表現しており、「作品のコンセプト」等と言われている。
 また、受け手の感じ方によって新たな概念が付加される場合があり、作品に接する時代性や社会的価値観などの変化に伴って変わる。
 芸術における概念(抽象概念)は、心で感じ取ったものを2次元(絵画)、3次元(立体彫刻など)で表現したものといえる。
 音楽も同様で、心で感じ取ったものを楽器の音、人間の声を構成して表現している。写真はそのときの作者(撮影者)の心情と場面をその瞬間の調和で作り上げる即興的芸術ともいわれる。
 とはいえこの用法は、いわば比喩的表現であって、本来の普通の意味で用いられている「概念」、つまり抽象的認識作用のことを意味するのではないであろう。
 もしも絵画や音楽によって表現され、我々に何らかの印象もたらす芸術作品が端的に概念に変換されうるものであれば、わざわざ楽器や絵を用いずとも、概念によって表現すれば、制作も他者への情報伝達も極めて容易であるから。
 たとえば花の絵があるとして、その絵は単なる「花」という概念よりも多くの情報を持ち、我々はそれによって単なる概念以上に何らかの心的影響を受けている。そうであるならば「作品とは概念を表現するものである」という説明は実際に起きていることと矛盾している。
 さらに、もしも概念によって芸術的技能に寄与することがあるとすれば、わざわざ楽器や絵画の実際的練習を積まずとも、教則本などによって概念による抽象的認識を得ればそれで事足りるはずであるが、実際はそうではない。
 ゆえに、概念を「言葉を用いた抽象的認識」と定義するならば、この項に書かれているような意味で「概念」という語を用いるのは適切ではない。

 関連項目 ー イデア ー

 「イデア」という言葉は「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。

 《プラトンの哲学》

 ▼ギリシア語の語彙体系について

 若干説明しておくと、ギリシア語では、見るideo系統の用語としては、ideinとeidoがあった。
 eido の過去形 eidon に由来する「eidos エイドス」という言葉は「形」とか「図形」という意味でごく普通に用いられる言葉であった。
 「イデア」も「見え姿」や「形」を意味するごく普通の日常語で、プラトン自身は「イデア」と「エイドス」を専門用語として区別して使用していたわけではなく、同義の語として使用していた。
 プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。
 プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。
 プラトンにおけるイデアの理解は一定しているわけではなく、書かれた時期によって変遷が見られるという。
 一般にプラトンのイデア論というと中期のそれを指していることが多い。

 ▼中期

 「徳とは何か?」という問いがある。これについて「不知なる対象の探求は不可能だ」と説く立場(探求のパラドックス説)もあるが、これに対してプラトンは「学習は想起(アナムネーシス)である」との想起説によって、このパラドックス説を斥ける。
 想起説は、魂は不死だとする説と、輪廻転生の説と連関がある。

 プラトンは次のように説明する。

 我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。

 そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。

 このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。

 つまり、つまり、真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない、と言うのである。
 想起説が導入されることでプラトンの哲学は、劇的な展開をとげ、強固な二元論の立場となった。
 そしてphilosophia(=愛知)とは「死の練習」なのであり、真の philosopher(愛知者)は、できるかぎりその魂を身体から分離開放し、魂が純粋に魂自体においてあるように努力する者だとした。
 この愛知者の魂の知の対象が「イデア」である。
 イデアは、それぞれの存在が「何であるか」ということに比較して、「まさにそれであるところのそのもの」を意味する。

 ▼近世

 イデアという語は、英語 idea, ドイツ語 Idee であるが、近世においては、プラトンとは違った近世哲学独自の解釈を与えられることになり、「アイディア」「イデー」と聞いて現代人がまず思い浮かべる用法が現れた。

 関連項目 ー イデア論 ー

 イデア論(イデアろん)
(英: theory of Forms, theory of Ideas, )
(独: Ideenlehre)

 プラトンが説いたイデア(希: ιδέα、英: idea)に関する学説のこと。
 本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚する対象や世界とはあくまでイデアの《似像》にすぎない、とする。

 《概要》

 「イデア」という語は、古代ギリシャ語の動詞「idein」(見る)に由来する。
 プラトンの哲学では、《idea》(イデア)と《eidos》(エイドス)は同義である。
 eidosというのもやはりideinに由来する言葉である。
 ideaやeidosが哲学用語・専門用語として意味が固定したのは、弟子のアリストテレスが用いて以降であり、プラトン自身がそれらを専門用語として用いていたわけではなかったという。
 プラトンの説には変遷が見られる。

 《初期》

 プラトンの初期の哲学は、ソクラテスが実践したphilosophy(愛智)を描くものであるが、その根本の動機というのは《良く生きる》ことであるということ、また愛智の目的(徳の「何であるか」の探求と学習)を明らかにしつつ、また「無知の知」を自覚させ、人間のpsyche(プシュケー、命、魂)を愛智の道の出発点に立たせようとする。
 ソクラテスが倫理的な徳目について、それが《何であるか》を問い求めたわけであるが、それに示唆を得て、ソクラテスの問いに答えるような《まさに~であるもの》あるいは《~そのもの》の存在(=イデア)を想定し、このイデアのみが知のめざすべき時空を超えた・非物体的な・永遠の実在・真実在であり、このイデア抜きにしては確実な知というのはありえない、とした。

 《中期》

 中期の哲学は、『メノン』で取り上げられ『パイドン』で展開される《想起》(アナムネーシス)という考え方の導入によって始まる。
 これは、学習というのは実は《想起》である、という説明である。つまり我々のプシュケー(魂)というのは不滅であって輪廻転生を繰り返しており、もともとは霊界にいてそこでイデアを見ていたのであって、こちらの世界へと来る時にそれを忘れてしまったが、こちらの世界で肉体を使い不完全な像を見ることによりイデアを思い出しているのだ、それが学習ということだ、という考え方である。 (この《想起》という考え方によって、プラトンは「徳とは《何であるか》という問いに答えられないし、不知な対象は探求は不可能だ」とする「探求のパラドックス」は間違っているとする。) そしてプラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする。   
 そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である。
 プシュケーの徳に関して、《美そのもの》(美のイデア)《正そのもの》(正のイデア)《善そのもの》(=善のイデア)などが提示されることで、愛知の道の全体像が提示される。
 (《善そのもの》は、「知と真実の原因」とされ、太陽にも喩えられている)。
 愛知者のプシュケーが、問答法によって《善そのもの》へ向かい、それを観ずることによって、自らのうちに《知と真実》をうむこと、そして《善そのもの》を頂点としたイデアを模範とすることで、自己自身である自分のプシュケーをそのイデアの似姿として形づくること、
 それがプラトンの思い描いたことである。

 《後期》

 中期の終わり頃に位置する『パルメニデス』ではイデアの措定の困難を取り上げ、「第三人間論」などのイデア論批判を行う。
 それとともに想起説などが取り下げられ、後期ではイデアやエイドスは、中期のそれとは異なったものになり、分割と総合の手続きにより新たに定義される問答法で扱われる《形相》あるいは《類》として理解されるようになる。

 《後世の人々》

 プラトンの弟子のアリストテレスは、《形相》や《類》の分割や交わりが引き起こす「1対多問題」や、定義の「一性」問題について考察しつつ、自己の哲学を確立していった[6]。 およそ500年後のプロティノスは、万物は一者(善のイデア)から流出したとした(→ネオプラトニズム)。 イデアが実在すると考える考えは後にidealism(観念論)と呼ばれるようになった。そして「実在論」(realism) の系譜に属する、とされるようになった。

 関連項目 ー 実在論 ー

 実在論(じつざいろん、Realism)

 名辞・言葉に対応するものが、それ自体として実在しているという立場。
 対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、物質や外界や客観の場合は、素朴実在論や科学的実在論になる。
 実在論の起源は古代ギリシアのプラトンが論じたイデア論にまで遡ることができる。イデアの理論によれば、感覚することができる世界は実在するものでなくイデアの射影であると考えられた。
 個々の感覚を理性によって把握することによってのみ実在するイデアを認識することができると論じている。
 アリストテレスもまた普遍的な概念として実在を考えており、感覚によって捉えられる個物を「第一実体」、そしてそれが普遍化されたものを「第二実体」と呼んで区別した。
 中世のスコラ学においてはプラトンやアリストテレスの伝統を受け継ぎながら霊魂という観念的な存在の実在を基礎付けるための議論が起こった。
 それが普遍論争であり、その論争で実在論はトマス・アクィナスなどによって一方の立場と位置づけられた。
 この意味のときは実念論とも訳し、唯名論の立場に対立する見解となった。
 近代哲学においてはベルナルト・ボルツァーノは概念そのものの観念的な対象が実在することを主張し、科学的実在論の立場からはゴットロープ・フレーゲは科学的に構築された理論、論理記号を制約する独立した普遍的な対象が実在することを主張した。

     〔ウィキペディアより引用〕